「んん……。……ふぁ、おかえり、ユーヤ」
「ああ、ただいま」
私と“彼”──ユーヤの唇は離れて、つーっと銀色の橋が渡る。
かれこれ五分くらいはしてたかな。カラダの芯からとろけるような、濃厚で情熱的なオトナのキスに頭の中はまっ白で。はふぅ……、まだクラクラするかも。
ここは寮の一室、その入り口。堪えきれなくなった私は、人目がなくなってすぐユーヤに襲いかかったのだった。
雌伏の時間はもう終わり。たっぷりユーヤ分の補給もしたし、これからずーっと幸せにしてもらうんだもん!
隊舎の玄関前でユーヤを出迎えてそれから夕飯を食堂で食べたあと、私は彼をいっしょに暮らす部屋──つまりここに案内した。一瞬、「女子寮に男の人を連れ込んでもいいのかな」という疑問が浮かんだけど、まあユーヤだし、マチガイなんて起きないんだから心配する必要もない。
てててっ、と小さな白い影が私たちの足下に駆け寄ってくる。
あ、せいろんだ。
「ただいま、せいろん」
「きゅう」
私の挨拶に応じたあと、後ろ足で立ち上がったせいろんは、ビシッと左前足を頭に当ててユーヤを見上げた。そのポーズ、敬礼みたいだ。
「任務ご苦労。退っていいぞ」
「きゅー」
ひと鳴きして、せいろんの白い姿がしゅんと欠き消えた。いまの、もしかしなくても空間転移?
ユーヤを見て、小首を傾げてみる。彼はすぐ、私の疑問をくみ取ってくれた。
「ん? あぁ、ナリは小さくても俺の“一部”であることには変わりはないからね。そこらの魔導師程度なら負けないよ、アイツは」
「そうなんだ」
「そうとも。伊達に護衛じゃないってわけだな」
……実はせいろん、けっこう強かったのかもしれない。
「それはともかく──」
気を取り直したように言い、しげしげと部屋の中を見回すユーヤ。どこか楽しげで、悪く言うとすごくイジワルだ。
「ん、部屋を綺麗にしてるじゃないか。ちゃんと一人暮らしができてたみたいだな」
「と、とーぜんだよ。お掃除だってお洗濯だって、私ひとりできるもんっ」
わりと好感触な感想で、言葉とは裏腹にほっとする。実はこうなるんじゃないかと、あらかじめ昨日のうちに部屋中を片づけておいたんだ。
彼はなんだかんだできれい好きだし、なによりだらしのないところは見せたくない。家事関係で負けっぱなしじゃ、女の子としての沽券に関わる。せめて一矢くらいは報いないと。
「ははっ、そっか」
わしゃわしゃと、ユーヤが私の髪を撫で回す。ちょっと乱暴な手つきが心地よくて目を細めた。
「……でも、もう二度とはしたくない、かな」
そう言うと、はっとしたような気配がして。
私はそっと抱き寄せられた。大きくて頼りがいのある胸……。
「──ごめんな、寂しいを思いさせて」
頭上から、静かな声が降りてくる。
その声色に含まれた後悔の感情を感じ取って、胸の奥が熱くなった。──ああ、同じ気持ちだったんだなぁ、って。
「うん……寂しかった。すごく寂しくて、不安だった……」
彼と離ればなれになっていたあいだ、私は身体の半分がなくなってしまったような──、絶望的な喪失感を感じた。ふとひとりになったとき、ひたひたと迫ってくる言い知れない恐怖……。
──私は臆病だ。
失うのがこわい。
見捨てられるのがこわい。
ひとりぼっちになるのがこわい。
……母さんに捨てられて、否定されて。ユーヤとお別れしなきゃならなくなって。
痛くて、辛くて。
悲しくて、苦しくて。
胸が張り裂けそうなくらい切なくて。
──……いま、こうして思い返すだけでも、涙があふれて止まらない。
「ぅぅ……」
蘇った記憶が脳裏に浮かんで、ぶるりと震えた身体をぎゅーっと痛いくらいに抱きしめられた。
顔を上げる。
海のような、空のような、惑星ほしのような──とても深い色をした真っ蒼な眼差しが、私をまっすぐ見つめていた。
「ユーヤ……?」
「戯れでさ、“たまには距離を置いてみるのも楽しいかも”なんて言ったけど……君と離れてみて思い知ったよ。──やっぱり俺、フェイトがいないと駄目なんだなって」
私の頬をそっと撫でて、ユーヤは真摯な眼差しのままそう言った。
そんなの、
「私だって、同じだよ……。だから──、もうどこにも行かないって、約束してくれる?」
「ああ、誓うよ。君がしわくちゃのおばあちゃんになっても、ずっと一緒だ」
「……うん」
しわくちゃだなんてあんまりな言いぐさだけど、それはきっとユーヤなりのユーモアなんだろう。
いのちのぬくもりと、いのちの鼓動と。嗅ぎなれた彼のにおいが、私の欠けた部分に満ちていく。
……ん? におい?
「あっ!」
ばっ、と慌てて離れる。
「どうしたフェイト?」と明らかにいぶかしむ様子のユーヤ。いますごくいい雰囲気だったんだもん、当然だ。
でも私、言いにくいけど大事なことに気づいちゃったんだよ。
「えと、ほら私、訓練してたでしょ? それでその……、臭くない? 汗いっぱいかいたから……」
運動したあとなのに、シャワーすら浴びてないことをすっかり忘れてた。ユーヤと入るつもりで先送りにしたのは失敗だったかもしれない。ていうか私、運動着のままだし。
ああでも、洗いっことかひさしぶりにしたいというかそれはむしろ恋人としての当然の権利なわけでいやでもいますぐ押し倒すという案もなきにしもあらず────
「んー……まあ確かに匂わなくもないか。でも嫌いじゃないぜ、こういう匂い。動物的で、そそるじゃないか」
真顔でそんなことを言われて、顔がボッと火照った。……もう、えっちなんだから。
しまらないなぁ……、お互い様だけど。
彼の脱いだ背広を預かってハンガーにかけ、備えつけのクローゼットにしまう。ちなみにこのクローゼットには私の制服一式が二種類六着、いまかけたものとまったく同じデザインの──オーダーメイドで、けっこうお高い──スーツ一式が四着。それと、何着かの私服が納められている。
……それにしてもこういうの、すごく“おくさん”って感じがしてすごくイイ。こうしてお世話する機会なんてめったにないからだろうか、浮かれてしまう気分をうまくコントロールできない。
すぐとなり、ネクタイを指先だけで器用にほどいているユーヤを横目でじーっと窺ってみる。
……ああ、私の大好きひとはなんてすてきなんだろう。
仕草のどれもが洗練されていて、どれをとっても視線が惹きつけられてしまう。それなのに私のことを「見る目がマヌケ」だなんて失礼しちゃう。
普段の生活の中でこんなにかっこいいんだもん、お仕事中とか戦いの最中の威風堂々とした雄々しさにも肯けると思う。──もちろん、中身もとってもすてきなんだけどね。
ううー……、なんだかまたすりつきたくなってきちゃった。
「……フェイト」
「うん、なに?」
ちょっと本格的に見惚れていたら、改まった感じで名前を呼ばれた。
──なんだろう、思い詰めてる……?
「君の家族──、プレシアとアリシアの墓のことについてなんだけど」
「ぁ……」
ザリ──
目の前が一瞬、紅く暗転した。
「ごめん。方々手を尽くして犯人を捜してるんだけど、手掛かりがほとんどなくて……、本当にごめん」
真摯に謝るユーヤを見ていたらなぜだか胸がきゅんと切なくなって、動揺は収まる。
えっと……、そう! フォローしなくっちゃ!
「あ、うん、いいんだ、わからないならわからないで。……その、こういうのは難しいってこと、よくわかってるつもりだから」
「……だけどあれはお前の家族が眠ってる場所だろう? だったら──」
「い、いいから! この話はこれでおしまい、ねっ?」
無理やり話題を切り上げて、うやむやにする。ユーヤはまだ、どこか納得していないふうだった。
──“どうしてのお前だけが、欠陥品のお前だけがのうのうと生きているんだ。”
あの真っ紅な光景に──“母さん”たちに、そう責められているようで。あまり、考えたくない。
──ユーヤがここに、私のそばにいるのに。
イヤな予感だけが、降り積もっていく。
月夜の密林。
夜行性の生き物たちがざわめく森の中、開けた広場のような一角でパチパチと音を立てて燃え立つ焚き火のオレンジが映える。
不規則に揺れる灯りに照らされて、二つの影が浮き彫りとなっていた。
ひとつは少女。未だ幼いという表現が相応の、小さく儚げな紫色の髪の女の子。
ひとつは小人。ふわふわと浮かぶ、三十センチほどの焔を思わせる紅い女の子。
どちらも系統は違うが可憐なことには変わりなく、この暗く鬱蒼とした木々の直中にはあまりにも似つかわしくない。
「────」
切り倒した立木を枕に、地面に生えた雑草をベッドにして、少女は眠りについている。
だが、その眠りは決して安らかなものではない。
彼女は薄汚れた赤い布の切れ端を大事そうに──まるで縋るように抱きしめて、迫り来る悪夢にうなされていたのだ。
「──リュー……、ダメ……!」
掠れ掠れに漏れ聞こえる譫言は、悲痛一色に染まり。堅く閉じられた瞼から、つ、と涙がこぼれ落ちる。
──止めどなく流れるこの悲しみを、晴らす術はあるのだろうか。
「ルールー……」
彼女の枕元に浮遊して心配そうに様子を見つめる小人は、自らの無力さに打ちひしがれていた。
自分がこの子の夢に入れたなら、一目散に駆けつけて助けてやれるのに。“現実”では無力だったとしても、“夢”の中でなら救うことができたかもしれないのに、と。
──それもこれも、あの紅い羽のヤツが来てからだ!
それまでは、鬱陶しいヤツからの面倒な依頼があったくらいで、うまくやっていたのに。
なのに“アイツ”を殺されて、この少女は笑わなくなってしまった。本当に、本当の意味で。
「……クッ」
世の中の理不尽を、大声で喚き散らしたい気持ちが沸き上がり、彼女はグッと抑えた。
自分たちはここ何年、当て所なく追手からの逃亡を続けているのだ。例え悪夢に囚われていたとしても、疲れて眠ったところを起こしてしまうわけにはいかない。気が短くても、その程度の分別はつく。
ザワ──
唐突に、明々と燃え盛っていた炎の勢いが弱まる。森がシン、と静まり返り、生き物たちの気配が一斉に途切れた。
闇が、その濃さを増した。
「ルーテシア、アギト」
「っ!!」
背後、暗闇の中から溶け出すように現れたのは、漆黒に紅い縁取りの入ったローブを纏う不気味な怪人。フードを目深にかぶり、体格や性別もゆったりとした衣装でわかりづらいが、背丈からおよそ十代後半以降だと予測できる。
「……ゼストは?」
しかしその声はひどく透明で、心地よさまで感じられるほどの美しいソプラノ。世界すべてに憎悪するような、強烈な悪意を孕んだ雰囲気には不釣り合いなものだった。
「旦那なら、いまは留守だぜ。オマエ……なんの用だよ」
まるで物語の魔女のような風体の侵入者に、小さな少女は敵意を隠すこともせずぶつける。生憎小さすぎて、犬歯を剥き出しで威嚇しても迫力は足りなかったが。
ふぅん……。どうでもよさそうな反応の意味は、言葉の内容か、それとも敵意についてか。
「まあいいか。……“アンリ”からの伝言。──本格的に動くわ、準備してなさい」
「ッ! またオレたちをいいように使おうってのかよ!?」
「ふふ、そうよ。あぁ、はやくあの“失敗作”を八つ裂きにしたいなぁ、クス……たのしみ」
“彼女”は、近く始まるであろう血生臭い宴を思い、サディスティックな危うさを露わにする。
感情の高ぶりに呼応して漏れ出した瘴気が、静謐な森の空気を穢す。わずか瞬く間のことでしかなかったが、薄弱な生命や霊魂は“混沌”を源とする邪毒に当てられて潰えた。
「用件はそれだけよ。……じゃ、おやすみ」
最後に不可解な労りを零して、深紅の魔女は闇に溶ける。
「……なんなんだよ、いったい」
月夜の密林は、元通りの静けさを取り戻していた。