「何か用かい、お嬢さん?」
「……!」
大木の先に佇む“お嬢さん”が息を飲んだ。
染み出た動揺を嗅ぎ取って、蒼の魔王が嗜虐的に口元を歪める。──予想外に大物が釣れたものだな、と。
くすりと攸夜は冷たく嘲って、“魔王”らしい尊大な態度を演じ始めた。
「何故女だと決めつけているのか、不思議に思っているのだろう?」
「……」
紅の魔女の返答は無言。しかし無視されているにも関わらず、攸夜は気にした様子もない。
“魔王”というイキモノは往々にしてお喋りである。自分の強さを過剰に誇示し、ひけらかし、如何に偉大なのかを遍く知らしめることは彼ら共通の習性だ。
もちろん個人差は存在するが、うっかり自らの弱点や世界滅亡計画を漏らし、墓穴を掘ってハマるのはもはやお馴染みの光景と言っても過言ではないだろう。
「クク……、偉大なる魔王の威光の前には、何人たりとも隠し立てする事は許されない。そういうことさ」
実際のところ、ゆったりとしたローブから垣間見える丸みを帯びたシルエットや顎のライン、そしてよくわからない嗅覚──見た目三、嗅覚七の信頼度──から女性と判断しただけなのだが。
こうして、ありとあらゆる手段で自らのペースに乗せ、主導権を奪うのが攸夜お決まりの手なのである。
「……」
観客のリアクションはなく。「連れないね」と攸夜が気障ったらしく嘆息して肩を竦め、腕を組んだ。
「────」
言葉もなく、睨み合う魔王と魔女。方々で鳴り響く戦闘の音も、この場には届かず。ただピン、と緊張の糸が張りつめるだけ。
涼しげな蒼い視線と、憎しみを隠そうともしない紅い眼差し。──二組の双眸は、好奇心と敵愾心という正反対の感情を映し出していた。
「──ッ」
先に動いたのは深紅の魔女。
状況に焦れたのか、歯噛みした気配とともに“左手”の袖口から紅色のナニカを引きずり出す。
ズッ──
物理法則を嘲笑い、アカイ狂気が姿を現した。
「──鎌?」
それは巨大としか言いようのない、長柄の処刑鎌──、攸夜が嫌というほどよく知っている長大な武器だった。
ぐるん、と左手を軸に回転して円を描き、禍々しい大鎌はまるで上弦の月のように、逆さの状態でぴたりと停止した。
刃渡り一メートル近い深紅の刃の表面に、大小さまざまな半球状のデコボコが不規則に存在し、同じ色の柄の長さは彼女の身長を軽く超えるだろうか。
──決して長身とは言えぬ身体に、不釣り合いな大鎌を担う姿が、最愛の女性と重なって。
攸夜の仮面に亀裂が走る。余裕に満ちた不敵な表情はいつの間にか消え失せていた。
──“コレ”は、誰だ?
彼の愛する“彼女”を一言で例えるならば「乙女」。
金色の魂魄をその身に秘め、黄金の意志を胸に抱く金糸の髪の穢れなき戦姫。無限光を継ぐ夜闇の王者と想いを交わし、ただひとり連れ添う運命の花嫁。同時に、悪しき幻想と絶望を討つ希望の剣である。
──だというのに、
目の前で死神の鎌を担ぐ、“彼女”によく似た、似過ぎているこの女はいったいなんだ?
不愉快だ、我慢ならない。
濁りきった醜い魔力も、瘴気が澱む歪んだ気配も。魂に絡みついた冥闇くらやみも。絶望に染まった心も。
────そして、何よりそんなものに“彼女”を重ね見てしまった自分自身に一番、我慢ならない。
ああ、そうだ。今すぐ壊そう。目障りな“コレ”を跡形もなく破壊してしまおう。そうだ、それがいい。
ガキンッ、どこかでなにかの撃鉄が落ちた。
攸夜の精神こころが切り替わる。ヒトからヒトならざる者へと。
「──!!」
空気が変わった。否、空間が変容したというべきか。
攸夜を中心とする領域が彼の意志の許に下り、漏れ出した魔力が蒼い雷光を形作る。空間を統べる“大いなる者”の異能。
肥大化する負の激情を察知したのだろうか、半回転して肩に担がれた刺々しいディープレッドのサイズ──、その刃の腹にあるいくつもの突起が次々に“開いていく”。
それら全ては紅い縦の瞳孔を持つ、不気味で悍ましいイキモノの眼球だった。
(“カースドウェポン”。やはり“落とし子”──、それも“冥魔王”の系譜か。……だが、魂は完璧に墜ちていない。チ……、厄介な)
瞠目して蠢く幾つもの視線に晒されながら、攸夜は静かに、揺らぐことなく相対する者の裡を観察していた。
冷静に。冷徹に。冷厳に。
アースブルーと称される瞳の奥に蒼白い焔を滾らせて。
「──ッ」
魂まで見透かされる悪寒。ローブの女は反射的に担いだ得物を振りかぶり、大鎌の刃と同じ鮮血色の光輪を撃ち放つ。
一閃──
魔力の円刃は真っ直ぐに、棒立ちの男へと飛翔した。
「フン」
つまらなそうに鼻を鳴らす攸夜の目の前で、血濡れの刃は粉々に砕け散った。
彼を包み込むように揺らめく橙色の薄い幕。放たれた斬撃は、アイン・ソフ・オウルが張り巡らせた陽炎のごとき防御幕に阻まれたのだ。
本来のカタチである“慈愛の盾”の絶対強度に比べれば取るに足らない障壁だが、たかだが“冥魔”の眷属ごときに斬り崩せるような代物ではない。
しかし、相対する魔女もその程度は想定していたのだろう。次の一手を繰り出すべく樹木を蹴り、斜め後方へと大きく飛び上がる。大鎌を軸に、くるくると軽業師のごとく宙返りを打った。
彼我の空隙は約二百メートル。その気になれば一息で詰められる間だというのに、魔王は動かない。まるで見極めるように、ただ見上げるだけ。
りん──、涼やかな音が鳴り、流麗な響きに似つかわしくない不浄なる呪詛が解き放たれた。
ローブの裾や袖から噴出した黒い毒素が、周囲の薄弱な生命体の命を奪っていく。
漆黒の瘴気を纏う女の足下に描かれたミッドチルダ式の魔法陣──複雑なルーンと五芒星の幾何学模様。携えた武具と同様に紅く輝いた。
大鎌を左に抱え、突き出した右腕に環状魔法陣が仮想砲身を形成。渦巻く魔力、高まる力。瘴気が収束し、紅い魔力を侵す。
刹那──、深紅あかい雷鳴が轟いた。
強烈なプラズマを帯びた光条が、大気を斬り裂いて。鮮やかな魔力光の筋が地面に落ちていく。
某かとの契約によって得た混沌の力──“落とし子”の魔力が込められたこの砲撃ならば、アイン・ソフ・オウルの防御膜を貫くことも可能だろう。
しかしその力は、自らの身を削る諸刃の力である。
瘴気というものは、人体に有害極まりない一級の呪詛だ。そのようなものを体内に抱えていれば、魂が穢れ、心が磨耗し、命の火が刻一刻と弱まっていく。強大な神秘を顕す代わりに受ける代償は、非情なまでに大きい。
接近する破壊の光を泰然と眺める攸夜が組んでいた腕を解いた。強く握り込んだ拳に蒼白い魔力が覆う。
そして、目の前まで迫った光の塊へ払うように鉄拳を叩きつけた。
「──!?」
驚愕、いや絶句か。彼女にとっては必殺だったであろう魔法は、“殴り飛ばされて”呆気なく進路を変えた。
数瞬の後、明後日の方向の地面に着弾。爆風と雷撃が木々を薙ぎ倒される。
「……」
立ち尽くすロープの女。魔力が込められていたとは言え、拳で殴るなどという埒外な方法で会心の一撃を無力化されたショックは計り知れない。
「ふむ、まあまあだな。しかし魔力の練り込みが甘い。術式の編み方もなっちゃいないし、使い方なんて最悪だ。俺に当てたければもっと創意工夫を重ねろ」
白煙煙る左手と右手を軽く二度打ち合わせ、攸夜は砲撃について酷評を下す。まるで教師か何かだ。
数秒間、呆然としていた魔女は思考の糸を繋ぎ直すと魔力を発露、姿を消した──いや、雷速で動き出したのだ。
「おっと、今度は白兵戦か? その思い切りのよさは嫌いじゃないな」
未来予知じみた戦略眼が、これまた“彼女”と同等かそれ以上の高速移動、その軌道を読む。──もっとも、これまでの行動パターンを踏まえれば予測など簡単だ。赤子をあやすよりなお容易い。
何故なら攸夜は誰よりも“彼女”を想い、見つめているのだから。
「だが──」
狙いは背後。振り向きざま、攸夜の右手が左脇の虚空を掴む。
それより一瞬後、宿敵の首を刈り取るべく背後に現れた魔女。深紅に血塗れた断頭台が落ち、現出していく“刃”の上を左手の爪が滑って火花と蒼銀の魔光を生んだ。
交錯する蒼と紅──
「──ここは俺の距離だ!」
蒼刃閃き、魔王の名を冠す魔剣がさながら居合いのように奔った。絶妙のタイミング。
衝突した蒼と紅の魔刃が噛み合って耳障りな音を鳴らす。
攸夜は振り返る勢いのまま、右足を軸にして左の脚が振り上がる。
流れるように上段回し蹴りが放たれた。
「ッ、きゃあああっ!?」
強烈な追撃をもろに受け、吹き飛んだ魔女はついに悲鳴を上げる。その声はとても可憐で、そしてひどく聞き覚のあるものだった。
(やはり女か。しかしこの声……)
妙な既視感に攸夜が眉をひそめる。
「く……っ」女は何とか着地するとすぐさま地面を蹴り、食らいつくように突撃を再度敢行。攸夜が大地にしっかと両足を突け、立ち向かう。
──真っ向勝負。
空間を縦横無尽に使った三次元戦闘。数十合に及ぶ剣戟、火花が飛び散る。
二振りの得物が奏でる刃金のシンフォニーが鳴り止まぬ中、ふたつの異形が深い緑を舞台に鬩ぎ合った。
「せぇええい!」
「──ッッ!」
剣戟の暴風雨の中で、攸夜の口元は自然に吊り上がってた。先ほどまでの不快感はどこへやら、もうすでにほとんど残っていない。
先に立つのは好奇心と身を焦がすような闘争本能のざわめき。
彼は愉しいのだ。血で血を洗う殺し合いがどうしようもなく。
理由などもはやどうでもいい。ただ「破壊」を愉しめればどうでもよかった。
ヒルコの担い手。先代無限光の継承者。あるいは白き“箒騎士”の少女。──好敵手と定めたウィザードたちとの死闘のように。
──宝穣 攸夜は破壊者だ。
破壊神“シャイマール”の劣化コピーであるが故に彼は、何かを生み出すことができない。破壊者はどこまで行っても破壊者であり、それ以上でもそれ以外でもあり得ない。
だのに“彼女”は──フェイトは何の迷いもなくこう言うのだ。「あなたはやさしい」と。一点の曇りもない、とびきりきれいな笑顔で。
そして攸夜は、そんな笑顔すらも壊してしまいたいと思っている。滅茶苦茶にしてやりたいという欲望が止められない。狂おしいほど愛したい。
昏い衝動は雄と雌の交わりにも現れている。月明かりの中、白雪のごとき滑らかな女神の肢体を浅黒い獣ケダモノが荒々しく蹂躙する──彼らの情事を誰もがこう表現するだろう。
甘美な快楽に溺れさせ、心の壊れた肉塊にしてみたいと試みて。「こわい」という呟きに、我に返ったことは一度や二度ではなかった。
その度に自己嫌悪が深まる。これではいつかの夜の繰り返しじゃないかと。
──一際大きな太刀音を響かせて、両者が大きく弾かれた。
魔王のコートには傷一つなく、対照的に魔女のローブはボロボロ。致命傷となるダメージは未だないが、レベルの──いや、ステージの差は歴然だった。
「……ッ」
獣のような前傾姿勢から体勢を戻した攸夜は軽く息を吐き出す。昴ぶった本能が潮を引くように収まっていった。
精神の再建は得意だった。彼は昔から不安定な“人間”だったから。
「アイツによく似た戦型、よく似た魔法、よく似た声──、正直言ってお前は不愉快だ」
「……」
「しかし同時に興味深くもある。……いろいろと教えてくれると嬉しいんだけどな、お嬢さん?」
冗談めかした投げかけにも、やはり返答はない。黙りか、と攸夜はいささか残念に思う。
だが、“冥魔”と繋がりがあるであろうこの人物を捕らえれば、奴らの狙いが見えるかもしれない。フェイトに似ていると感じる理由がわかるかもしれない。
──浅黒い多国籍風の面差しは今や、いつもの不敵で飄然とした笑みを湛えていた。
「ふん、まあいい。──さあ始めようか、“お勉強”の時間だ」
嘯いた芝居臭い文句。紅い魔女は何故か脅えように、びくりと肩を揺らした。