「―――――――衛宮士郎、参りました」
空がゆるりと黒に染まり始めた夕刻。
清々しい夏の空気を吸い込み、学園長室と記された木の札が垂れる荘厳な扉の前、俺は緊張しながら門を叩いた。
俺の斜め後ろに控えた桜咲は俺の態度が可笑しいのか、くすくす笑いを堪えている。
「そんなに緊張なさらずに。学園長も今回の件については衛宮さんに感謝していましたよ」
とは言っても緊張してしまう。
俺は魔術関連の仕事を請け負ったのはこれが初めてなのだ。
俺の働き、魔術師としての俺が始めて他の魔術師に評価される瞬間。
少しばかり肩に力が入るのも仕方が無い。
「―――――――――――衛宮君か?待っておった」
しゃがれた老人の声色が扉より帰って来た。
入室を許可された俺は、軋む扉に手をかけ麻帆良での総決算の場へと足を踏み入れた。
「―――――――――失礼します」
FATE/MISTIC LEEK
第二十四話 日常境界 了
「衛宮君、桜咲君、今回の君の働き大した物だ。よくやってくれたのぉ」
皮しかない細い顎を撫で付けながら、日本魔術協会長は第一声で俺たちを労った。
素直に頭を下げる桜咲に習い、俺も長の正面で腰を曲げた。
「今回の吸血鬼、報告はタカミチ君より受けておるよ。彼の死徒二十七祖、その十七位に身を置くTrhvmn Ortenrosse(トラフィム・オーテンロッゼ)の眷属だったとはの」
やれやれと肩を目に見えて垂らし、疲れきった声で老人は続けた。
「おまけに宝具かね? これだけの情報を時計塔は伏せておったとわ、ワシ達の不仲もココに極まっておるのぉ、なんとも嘆かわしいことだ」
老人の顔は変わらないが、漂う空気は長の気持ちに呼応している。
困惑と苛立ちが、俺や桜咲に痛いほど感じられた。
「まぁ、何にしても、吸血鬼は殲滅できたのは喜ばしい事だがのぉ」
冷たい空気を払拭するような明るい声で長は居直り、懐の中から一つの茶封筒を取り出しながら長は告げた。
「さて、お待ちかねの報酬じゃよ衛宮君。受け取ってくれ」
ああ、これでこれからの生活も安泰、安泰。
俺は喜びを隠しつつ一歩踏み出し、其れを受け取った。
「――――――――――――――――――――」
あの、めちゃめちゃに重たいんですけど。
「 ? どうかしたかね?今回は気持ち程度じゃが多少上乗せさせて貰ったよ」
俺の顔が歪んだのが気になったのか、長は訝しげに俺の顔色を窺っている。
「いや、あの。これはいくらなんでも?」
この茶封筒、手から落とせば間違いなく“どさっ”って感じで床に落ちるぞ。
四日間の護衛と吸血鬼を殲滅しただけで、これは異常じゃないか?
「そうかね? 魔術師たちの相場では今回の仕事は五百万円位が適当だと思ったのだが、少なかったかね?」
なんですと?
ごひゃくまんえん?
俺は失礼なのを承知で思わず茶封筒の中身を確認した。
「ゆきちさんがごひゃくにん」
なんてこった。サラリーマンの年給とトントン位の札束を俺は今握っているのか?
これだけあれば、買いたかったテレビショッピングの万能包丁がヒイ、フウ、ミイ。
「―――――――――ではなくて、貰いすぎでは?」
現実に戻って来た俺は目を丸くして老魔術師に尋ねた。
後ろで桜咲が笑いを堪えているのはこの際無視する。
「ほほほほほほ、そんなことは無いぞ衛宮君。桜咲君からも吸血鬼の殲滅が出来たのは君の働きによるところが大きいと聞いておるし、受け取ってくれ」
長は笑いを隠そうともせずに、俺に言葉を投げかける。
なんか、お小遣いを上げるお爺ちゃんみたいだな。
「衛宮さん、受け取ってあげて下さい」
狼狽する俺の肩に手を乗せ、桜咲は困ったように笑みを浮かべ長の言葉を継ぎ足した。
「其れは学園長のお気持ちですよ。お孫さんを、木乃香お嬢様を守ってくれたお礼です」
俺の抵抗など無意味な様相で優しい笑顔を送る彼女。
まったく、その笑顔を見せられたら、俺の抵抗が馬鹿みたいじゃないか。
「分かりました。このお金はありがたく頂かせてもらいます」
「そうか、ありがとう、衛宮君」
満足げに椅子を引く長は無表情の中にシッカリとした感情があるように感じられた。
だけど、俺の意思も通させてもらいますよ。
「ただし、これはやっぱり貰いすぎですから、俺の“借り”にさせて貰います」
ちょっとカッコをつけて、いや、照れ隠しに俺は伝えた。
「衛宮さん?」
俺の後ろ、恐らく不思議そうな顔で俺を眺めているだろう桜咲にも聞こえるように、少し大きな声で俺は告げる。
「もし、また麻帆良の街に何らかの脅威が迫った時は俺にも手伝わせて下さい。この借りはその時にお返しします」
最後に、最大級の感謝を込めて老魔術師に敬意を表しこの部屋を後にする。
荘厳に整えられた部屋を僅かに視界にいれ、日の落ちた円居に帰るためドアに手をかけた。
「――――――――――――“衛宮”。最後に、老人の我侭を“もう一度”、聞いてみる気はあるかね?」
俺の名を、いや違う、俺の知っている“衛宮”の名を刻まれた。
瞬間のうちにドアノブにかけるはずの手を静止させ、俺は振り返らずに長の言葉を待った。
「君の願いも、ワシ達と同じ筈じゃろ? 麻帆良の魔術師として、君の魔術を世の為に振るってくれないかの?」
老人の瞳は誰を捕らえているのだろうか?
俺は、懐かしい誰かの残り香がこの部屋に満ちている様に感じられた。
ああ、切嗣ならかつてこの地を踏みしめた事が在るのかもしれない。
魔術を用いて、正義の味方を目指した切嗣。
魔術を用いて、人を助ける、救おうとする麻帆良の思想は近しい物だろう。
だけど、その願いは全く違うモノなんだ。
「―――――――――――――その質問、切嗣にも?」
長は答えない。
僅かな沈黙を俺は肯定と受け取り、振り返った。
「答えなんて、――――――――決まっています」
その願いには頷けない。
「―――――――――――俺は、いえ、俺も」
正義の味方を目指すから。
「――――――――言わんでも良い。すまないのぉ、無粋な事を聞いてしまった。忘れてくれ、所詮は老人の戯言じゃ」
厳粛な笑いを噛み殺し、老魔術師は悟る様に目を閉じた。
「桜咲君、彼を送ってあげてくれ。とんでもない自惚れ屋じゃが、彼がこの街を守ってくれた事には変わりない、粗相の無い様にのぉ」
皮肉げに口を歪ませた老魔術師の貌は、先ほどよりも若々しく感じられた。
なら、その皮肉に俺も答えさせて貰いますよ?
「よく言うよ、爺さん。アンタだって俺に負けない位のエゴイストだろうに」
瞬間、カチリと。
俺の言葉が古びた誰かの願いと重なる感覚。
「ほほ、違いない。こればっかりは歳を食っても治らんかったのぅ」
「何を馬鹿な、死んだところで治りゃしないよ。そんなのお互い承知の上だろう?」
誰かを救う、誰かを守る。
結局、これもちっぽけな誰かの願い。
全てを救おうが、全てを守ろうが。
信じる誓いはいつだって、唯一つしかないんだから。
交わる事なんて、あるわけが無い。
「ふん、本当に治らんとはな。大した物だ。のう? 衛宮」
心底楽しそうに誰かの背中を俯瞰する老人。
ああ、その背中はいつだってカッコ良かったよな、なんたって正義の味方だ。
「それはそうだろ? 俺の理想は何よりも綺麗なんだ」
偽者の俺が何より誇れる綺麗な願い。
爺さんの理想も綺麗だけど、俺は切嗣の道を目指すんだ。
「――――かかかか、逃げ口上まで同じとは不愉快極まり無いのぉ」
言葉とは裏腹に、老人の笑い声は遥か過去まで遡る。
優しいご老体もいいけどさ、その方が味がある。
「すぐに出て行くさ。俺が借りを返すまで、精々長生きしてくれよ」
俺らしくも無いやり取りの末、切嗣の皮を脱ぎ捨てる。
何だろうな、この感覚。嬉しい、かな?
まだ、切嗣の事を知っている人がいてくれて。
「それでは衛宮さん、駅までお見送りいたします」
俺と長の掛け合いを不思議に感じているのだろう。
キョトンと、目を丸めながら桜咲が扉を引いてくれた。
「ありがとう、桜咲」
振り返る必要は無い、きっと老魔術師の紡ぐ言葉は一つしか無い。
過去との境界は音も無く閉ざされた。
残された一つの願いは、きっと。
「――――――――よく言うわ、ワシより先に逝きおって」
この言葉で終わるのだから。
「サンキュウ、桜咲、それと近衛も」
時刻は夜の八時。
吸血鬼事件も解決し、駅の構内はいつかの夜とは正反対の賑わいを見せていた。
旅行に向かう家族連れ。
都心より帰って来たのか、学生の団体。
このクソ暑い中でベタベタするカップル。
俺が今、視界に納める日常(セカイ)がこの街の真実。
頭一つ高い位置に建築されたこの駅からは俺が駆け回った町並みを一望できた。
俺が知らなかった麻帆良の町並みが、夜の星たちに負けじと地上に星を散りばめている。
「ええよ、せっかく知り合ったんやし、見送りに来るのが当たり前やん」
「はい、衛宮さんとは色々在りましたし、とても今日を含め四日の付き合いとは思えません。親しくなった方を見送るのは当然です」
街の輝きを背に、俺を見送る二人の人影は言葉を預けた。
そうだなぁ、確かにこいつ等と知り合って四日しか経ってないのか。
随分濃い四日間だった。
死にそうになったのは一度や二度じゃなったけど、楽しかったのかな?
「どないしたん、衛宮君? 急に面白い顔して」
式さんの時もだけど、俺、真面目な顔をしている心算なんですが? 近衛嬢。
「具合が宜しく無いのでしょうか?」
「なんでも無い、忘れてくれ、――――っと、そろそろ電車が来るな」
時刻表を確かめ時計を顧みる。
うん、この時間なら伽藍の堂に皆残っているだろ。
お土産も買ったし、帰ったら普段の様にお茶でもするかな?
「やはり、帰る場所が在るのは良いことですね」
俺が手元のお土産を確認する仕草をどの様に捕らえたのか、突然、桜咲はそんな事を零した。
「 ? どうしたんだ、桜咲」
思わず顔を上げて、彼女の瞳を窺った。
絡んだ視線は、次の瞬間解けて消えてしまった。
疑問に思って近衛に向き直ると、彼女も桜咲の言葉に俯いている。
「いえ、何でも在りません。失言でした」
明るい顔で桜咲が顔を上げると同時に、甲高い電子音と共に都心行きの客車が滑り込んできた。
「―――――電車も来たし、それじゃ、また会おうな」
何か煮え切らないが、俺は一応納得し、殆ど無い荷物を担ぎ上げ彼女達に一言。
「うん、妹さん連れてくるの楽しみにしとるよ」
気さくに手を振る近衛に合わせ俺も軽く手をかざす。
桜咲にも目配せし、彼女達より離れる。
「―――――――――――あの、衛宮さん」
小さく、だけどハッキリと桜咲は電車に向かう俺を呼び止めた。
「ん? なにさ?」
鉄の箱より彼女を顧みて答える。
「もし、もし私が人とは違う、人とは異なる化け物だったとしたら貴方はどうしますか?」
「―――――――――――なんでさ? 質問の意味が分からないぞ?」
出会って間もないけれど、桜咲のこんな辛そうな顔、初めてみた。
何にしろ、例え話にしても突拍子過ぎるぞ?
「―――――――――衛宮君」
困惑する俺に真摯な視線を送るのは近衛、何なんだよ一体?
電車出ちまうぞ?
「―――――――――――あー、よく分からないけど、関係ないぞ?おんなじ事繰り返すけど、桜咲が化け物だろうが何だろうが、俺は桜咲のこと好きだし、何より」
二度目の電子音がプラットホーム内に響き渡る。
夏の臭いは空に届かんと澄み切り、溶け出す肌に心地よい夜風がそよぐ。
桜咲の瞳の漆黒が風を受けて輝き始め、近衛の髪が星へと流れる。
俺の言葉は、彼女達に届くのだろうか?
決まっている、これだけロマンチックな夜なんだ。
神様だって俺の言葉を届けてくれる。
だから、言わないと、――――――――。
「―――――――俺は、“全てを救う正義の味方”だからさ」
嘆く言葉は夜に融け、鉄の箱は虚ろな故郷へと走り出す。
せめて、振り返る彼女達の瞳が幸せでいられるように。
「――――――――――帰ろう。俺の日常へ」
夜空に霞む、洒落た神秘の都を流し見る。
霞む視界が開けたときには、尊ぶべき日常に帰れますように。
馬鹿みたいな言葉は、大気を震わすことなく闇へと落ちた。