「さて、お前には色々教えてやらねばならない事がある。が、その前にだ。地下室に行くぞ。時間が在って困ることはないからな」
家に帰り着いてから三十分程した頃、正座した俺の前で腕を組んだエヴァンジェリンが偉そうにそう言った。
人生初の暖炉に火を入れるという作業を終えて胡坐を掻いて座っていた俺に、聞く態度が云々と怒鳴り散らして正座をさせた癖にこんな事を言いやがるのである。
だったら最初にそう言えと言うんだ。
エヴァンジェリンは俺が立ち上がるのも待たず、部屋を出て行って壁の向こう側に消えた。仕方無しに俺も後を追う。
靴を履いたまま家屋の中に入るのはこれで二度目なのでまだまだ違和感が付きまとう。さっきまで時折ガタガタと物が動くような音がしていて、今はエヴァンジェリンの靴音しかしない廊下を同じように靴音を響かせながら歩いていく。
「なあエヴァンジェリン、地下室で何やるんだ?」
至極真っ当な疑問だ。態々温かいリビングでは無く、地下故に寒くはない地下室。話をするならどちらを選ぶかは一考にも値しない。
「いいから黙って付いて来い。面白いものを見せてやる」
そう言って俺の疑問には答えず、かといって足を止める訳でも無いエヴァンジェリン。
とそうしている内に地下室に着いた。同じ家の中だ、そう時間が掛かる筈もないか。
「お待たせいたしました、マスター。こちらで宜しかったでしょうか?」
「ああ、ごくろうだったな茶々丸。随分長い間使っていなかったから探すのは大変だったろう?」
地下室に降り立ったエヴァンジェリンを茶々丸が迎えた。
茶々丸が示す先には台座とそれに載せられた硝子があった。
「ん? なんだこれ?」
茶々丸を労うエヴァンジェリンの脇を通り抜けてそれに近づく。
「ああ……何だっけ、これ? こうやって目にするのは初めてだけど……ああえーと確か、ボトルシップ? ボトルってかデカイフラスコみたいな形してたり、中に浮いてるのが船じゃなく島だったりするのに目を瞑れば」
表面にエヴァンジェリンズリゾートと刻印されたその物体は、直径が40センチ程もある大きさでガラス製。口のところにはこれまた大きなコルクが嵌められて、中には水と円筒状の構造物が見えた。
中に入っているのは何故か船ではなく、よく見ればミニチュアサイズの建物で円筒と直方体がくっ付いたような構造物はその土台だ。土台から少し離れた位置にはそれよりも細い棒が直立しており、何かでその棒と土台を繋いでいる。
そしてその土台の根元付近には島らしきものも確認できた。
「うーん」
硝子の表面に顔がくっ付くんじゃないかと思うくらい近づいた状態で唸る。
別にこのボトルシップを床に叩き落して見たいなどと考えているわけではない。頭の片隅でそう思わなくも無かったが、少なくとも意識の半分以上はこれが如何にして作られたものなのかという事に向けられていた。
大きさが規格外だという事さえ気にしなければただのボトルだ。水と砂を入れることは容易いだろう。島らしきものの周辺にはきちんと水底から砂が敷いてあるし、棒もしっかりと砂にその身を突き立てられており不自然な格好ではない。
では何が異常だと言うのか。
簡単だ。そのミニチュアサイズの建物の土台、円筒と直方体を組み合わせた形のそれの直径は、どの角度から見ても口の大きさを大幅に上回っている。
何処かの部分を切って其処から完成した物を入れたのかと思い、硝子の表面をくまなく見つめても接着した跡や切り取られた跡どころか傷一つない。
大凡人間業とは思えない技術によって作られた事は想像に難くない。
「これをお前に見せたかったわけではない。お前にはこれに入ってもらうんだ」
「入る? これに? どうやって?」
口なんかコルクが無くたって大きさは10センチにも満たない。それにどうやって170センチ以上もある人間が入れるというのか。
エヴァンジェリンを馬鹿にする気持ちを隠そうともしない視線に気付いたのか、
エヴァンジェリンと視線が合う。
「私が魔法使いだということをもう忘れたのか? それには特殊な魔法が掛けられていてな、このマジックアイテムを稼動させると魔方陣の中に入った人間を中に転送できる。まあ見ていろ」
俺の視線に特に気にした風も無く、そう説明して俺の反対側からボトルシップの載せられた台座に触れるエヴァンジェリン。
「…………」
硝子越しに口を動かすのが見えたが、小さい声で喋っているのか分からずに耳をすませる。
「…………」
それでもどうにか分かったのはエヴァンジェリンが喋っているのが日本語ではないという事だけだった。
腹の底から出されるような、それでいて風にさえかき消される程絞られた声は遠く昔を思わせるような異国の情緒が滲んでいる。
「よし、これでいいだろう。其処に書かれた魔方陣の上に立て。そうだ、立つだけで良い」
いつのまにかエヴァンジェリンの声に聞き入っていたのか、エヴァンジェリンの声ではっとなった。
心地よさに閉じていた目を開けてボトルシップを見ると、先ほどまでとは何処か雰囲気が違っている。何かこう薄らぼんやりとした感覚だが、違和感が生まれているという感じだろうか。嫌な感じという訳でもないのに不思議と意識の端に引っかかるような。
とにかくエヴァンジェリンに言われたとおりに床に書かれた魔方陣の上に立つと同時に機械にスイッチが入った時のカチッという音がして……
「うわあ、ほんとやめて欲しいわこういうの」
気付いたら風の音鳴り響く高所にて、空と遥か眼下に広がる海を眺めていた。
可及的速やかに視線を足元に集中し、今自分が何処にいるか忘れることにする全神経を傾倒させる。
「高所恐怖症だって言ってんだろうが」
誰にも聞かれることのない不満を洩らす。
風に巻かれてその絶壁に身を躍らせるような事に、万が一にもならない為にしゃがみ込む。そうして手と足と体と頭で地面が安定していることと地に足が着いている事を確認する。
「やっぱりこの体たらくか。それだけでかい図体した男がこの程度の事でビビるな。気色悪いぞ」
「黒金様、大丈夫ですか?」
後頭部に容赦ない罵りの声がぶつけられ、それに僅か遅れて気遣いの声を掛けられる。どっちがどっちで在るかなんて態々声で比較する必要もない。
「絡繰さん、心配してくれて有難う。正直かなり厳しいです。それからエヴァンジェリン、お前それはちょっと酷いです」
まあ、前世でも散々姉に言われていたことだ。一々ビビリすぎだ、大の男がそんな事でビビるなと。
それに対する俺の言い分はこうだ。
「無理」
今更他人に何か言われた位で直せるならもう何年も前に直している。
大体ビビリの何が悪いというのだ。お化け屋敷やらホラームービーやら高いところやらに一生近寄らなければ他人と変わらないというのに。
「俺の事はどうでもいいからさっさと話を進めてくれ。此処に来て何をするつもりなんだ?」
高いところに居る事を再認識したく無かったので顔を上げずに声だけでエヴァンジェリンに問う。
「待て、向こうに行けば落ち着いて話せる場所があるから其処まで行くぞ」
「それは俺に死ねといってるんだな?」
向こうという場所を見てみると、確かに其処には柱に囲まれた建物が。
しかし其処に至る為には数百メートルはあろうかという高さに掛けられた手すりのない橋を渡っていかなければならず、それにしたって2メートルから三メートルしか幅がない。
そんな所を通ることを想像しただけで股間の辺りが寒風に晒されたようにすーすーし始めた。この感覚は恐らく高所恐怖症の人間にしか分かるまい。
やむを得ず立ち上がってその橋を渡ろうとしても足が震えて一歩も進めそうになかった。
「よし、ならば私がお前のことを向こう側まで運んでやろう。もしかすると狙いを外れて落ちる羽目になるかもしれないが、まあお前のことだ死にはしないだろうから安心しろ」
「失礼ですが運搬方法をお聞きしても宜しいですか?」
「投げ」
しかし、そうやってへたれる俺に、エヴァンジェリンは容赦なくむちを入れる。
エヴァンジェリンの発言には面白半分に俺を海に投げ入れそうな響きがあったので早々に遠慮させていただいた。流石にそれよりは自分で歩いた方が気が楽だ。
「ほらほら、さっさと歩け」
「ちょ、おまっ。ヤバイ、ヤバイって。怖いからやめてー」
絡繰さん、俺、エヴァンジェリンの順に橋を渡る俺達。
先頭の絡繰さんは迷い無く一歩一歩しっかりとした足取りで歩いていき、その後ろをへっぴり腰でのろのろと俺が追いかける。また、その後ろをエヴァンジェリンが歩きながら俺に蹴りをくれる。
道幅は思ったよりも太く、多少の安心を俺に齎したが、それに変わって俺を恐れさせたのは風の音だ。
やはりこれほどの高さになると風の勢いも違うのか、耳にする風の音も地上付近の音とは明らかに異なり轟々と激しい。
バシッ、ひいいい、バシッ、ひいいい、バシッ、ひいいい
橋を渡りきるまでこれの繰り返しだ。
ちなみにエヴァンジェリンが俺を蹴る音と、余裕を失くした俺がエヴァンジェリンの蹴りにすら怯える悲鳴だ。
が、これだけ醜態を晒していても俺の感性がおかしい訳じゃない、恥ずかしいことこの上ない。
けれども止めようと思って止められるものでもなく、俺は力の限り悲鳴を挙げながら牛の歩みで進んでいき、
「はあああああああああああああああああああ」
やっと俺達三人が向こう岸に着いた時、俺は悲鳴の挙げすぎで酸欠になりかけて顔を青くしており、視界に海の青さが映らなくなった場所で深い深い深呼吸をした。
「あはははは、本当にどれだけ怖がりなんだお前は。軽く蹴っているのにその度にお前と来たら……ククククククク、クックックックック、アーハハハハハ」
俺にビビるなというだけに及ばず、こんなところまで姉にそっくりなエヴァンジェリン。腹を抱えて笑いこけていて、その手は何度も地面を叩いている。
「なああ、もう。仕方ないだろうが、怖いもんは怖いんだから。だあ! いい加減話をしろよ!!」
「クククククク。よりにもよってお前ひいいいいって……ひいいいってお前。アハハハハ」
笑うのを止めないエヴァンジェリンを見ながら自分の耳が赤くなっていくのが分かる。多分誰が見ても一目瞭然な程に今の自分は紅潮している事だろう。
あれだけの無様を赤裸々に暴かれた挙句目的地に着いても一向に話を始めようとしないエヴァンジェリンに声を荒げるが、全くの無駄。一瞬笑い声が止まったと思ったら、俺の声を聞いて悲鳴を思い出したのかより笑い声が強くなる始末だった。
絡繰さんに話しかけようとも思ったが、彼女は
「それでは私はお茶の用意をして参りますので、少々お待ちください」
と言って何処かに消えてしまった。
その少々お待ちくださいを待って欲しかった。
今更泣き言を言っても遅い。お茶を淹れに行った茶々丸は後5分は戻ってこないだろう。いつもならなんて事のない短い時間だが、大笑いされながら羞恥を感じる五分間は辛いものになること必至だった。
「まあ、いっか別に」
俺はお得意の台詞を吐いて、ぼーっとすることにした。今エヴァンジェリンに話しかけてもどうせまた笑い出すに決まっているからだ。
何も出来ないなら何もしない。そっちの方が疲れない。
とりあえず、大口開けて笑ってるはしたない美少女でも見て癒されようと考えるまでにそう時間は掛からなかった。
「で、話ってのは一体?」
そんなに俺が怖がっている所が面白かったのか、絡繰さんが戻ってくるまで結局ずっと笑い続けたエヴァンジェリンは、笑いが収まり始めたところで絡繰さんに気付いて優雅にお茶をしばき始めた。
「お前には魔法についての知識を身に着けてもらうことになってな。此処に来るのはその為の準備だ。魔法について詳しく講釈することはしないが、お前にはまず学習を補助する魔法を覚えてもらわなければならない」
さて、この件に関しては今朝エヴァンジェリンに連れられて学園長である近衛近右衛門の所まで行った後の話をする必要があるだろう。
そう、今朝エヴァンジェリンの無茶な要求を軽いノリで承諾した学園長、彼とエヴァンジェリンはあの後話し合いをするからといって俺を学園長室から追い出した。
具体的な話し合いの内容については俺に教えてくれなかったものの、エヴァンジェリンは学園長に対して色々と説明を行っていたらしい。勿論俺についてのだ。
朝の遣り取りを見てマイナス方向に振り切れた近衛近右衛門という男に対する評価は、どうやら正当なものでなかったらしく、朝の一件はエヴァンジェリンを信頼しての寸劇であったらしい。
何やらほぼ四半日近くの間、宣言通り書類偽造の手筈を整えながら俺を監視していたという話も聞いた。
そして放課後、学園長室に向かったエヴァンジェリンが最終的な決定を聞いたところ俺の採用が決定されたらしい。
誰かが近づいてくるたびに、書架やら奥まった場所にある机の影に隠れて気配が去るのを待ち、本を開いてはうつらうつらと船を漕いで、最終的に宮崎さんとの一幕まで眠り続けた俺を見て何が採用を決めさせたのか想像も着かなかったが。
そして目出度く採用される運びとなった俺だったが、役職は一応魔法先生の一員となるらしかった。理由は担任が年少の魔法先生であることの一点。何かあった時に裏表の関係なく補佐しろという事らしいが、一般人代表みたいなチキンハートの俺にそれは難しいだろう。せめて普通の教師にしてくれと言いたかったが、俺の魔法先生就任にはエヴァンジェリンが一枚噛んでいるらしく、ニヤリと笑った後に黙殺されたのだった。
「しかし、魔法の習得には通常何ヶ月もの時間を要し、それでも漸く基本中の基本中の基本であるものしか使えん」
「それじゃあ全然間に合わないな」
「だからこその此処だ!!」
宝物を見せびらかす時の子供のような表情をして俺を見るエヴァンジェリン。悲しいかなそこには威厳のような物は欠片も感じられず、ただただ微笑ましさを感じさせた。
もっと詳しく聞いてくれと顔に書いてあるエヴァンジェリンを前にして俺は子守をさせられている気分になりつつ先を促す。他人の物自慢は退屈だが、何か特別な設定やらを説明されるのは好きなので満更でも無かったが。
「此処には何かあるのか? その足りない時間を補うことの出来る何かが」
「足りない時間を補うだと? ふん、この私がそんなちんけな事をすると思うか? 時間など無ければ作ればいいんだ!」
「つまり?」
「つまり、この中の空間では外の一時間が24時間になるのだ!!」
「ふーん」
あっという間に子守を放棄する俺。というか俺はかなり子供が苦手だ。他人に合わせるという事が如何にも苦手な上に子供のような純真さを持ち合わせていない俺には、彼らが何を喜び、驚き、感じているのか理解できないからだ。
それでも薄ら笑い位浮かべられるのが普通の人だが、俺には無理だ。鼻で笑うのが限界。
というか胡散臭すぎる上に、今一実感が湧いてこない。
「凄いな本当に。これなら憂鬱なバイトの時間が一週間先、いや一月先に引き伸ばせるな。これでいつでも気分溌剌とした状態でバイトに行けるじゃん」
「お前は、これだけのマジック・アイテムを前にしての感想がそれか!? そんな下らん事で感心するな!!」
「って言ってもな。驚いてるけど実感が湧かないし。ほらアレだ。魔法とかに触れたのは昨日が最初だしまだちょっと疑ってんのかもな」
目の前まで詰め寄ってきて怒鳴るエヴァンジェリンに驚いてるのは本当なんですよ。と身振り手振りで現してみる。
実際、寝不足なんかに煩わされる事が無くなるし体調不良でバイトを休むような事もなくなる。それに好きなだけ趣味に没頭しても、それでも色々と仕事をこなせるだけの時間を捻出できる。現代人にとっては正に夢のような道具と言えるだろう。
「ていうか、なんでこんなの持ってんのお前? 吸血鬼だったらこんなの必要なくね? 吸血鬼は不老不死なんつう便利な能力持ってんだから、時間なんかこんなもん作ってまで欲しがるもんじゃないだろ」
人とは違う摂理の中に身を置く吸血鬼は時に嫌われた種族で、永遠に老いることはなく人間などに殺害されるかうっかり血を飲むのを忘れでもしない限り死なない種族だと聞いたことがある。無論のこと俺にとっては不老不死なんてものは害悪以外の何者でもない。死にたいと思ったことは無いが、死が無くなってしまう事は利益が一つも無いからだ。
そんな時間など掃いて捨てる程ある筈の吸血鬼の持ち物としては、些か不自然としか思えない物を何でエヴァンジェリンは持っているのだろうか。
「むしろ、だからだというべきだな。人間と同じだ、暇を持て余して趣味に没頭する事もある。私にとってはそれがこういうマジックアイテムの蒐集だったり作成だったりしただけの事だ」
「ふーん」
エヴァンジェリンの言ったことはまあ聞いてみればそういう事もあるか、と思え不思議と共感を覚えるような形で納得した。
自らを省みて眉間に皺を寄せる俺。何故なら共感を覚えているのに俺とエヴァンジェリンの間に共通点は存在していないからだ。暇は寝て、考え事をして、運動して、本を読んで、料理を作って、散歩して、勉強して、小説を書いている間に無くなってしまうので、俺には特殊な趣味が無い。一体俺の何処がエヴァンジェリンに共感を抱いたのか。
「態々これだけの物を引っ張り出してきてやったというのにこれか。詰まらん奴だな貴様は。実に自慢甲斐がない」
「引っ張り出してきてやったって、引っ張り出してきたのは絡繰さんだろ? それにバイトの件は割りと真剣な悩みだ。毎日毎日次のシフトを思って鬱々としていた俺にとっては大変重要な事なんだ。なんていうの? 俺ってば人見知りするし極めてネガティブだからさ。それに加えてナイーブで貧弱で根性無しだ。小心者で汗っかきで躁鬱気味でパニック障害持ちでもある。……だから………ああ、どうしよう俺教師になるんだ……」
地面に膝を着いて項垂れてしまう程落ち込んでしまう俺。自分で言っている間にどんどんど不安になってきたのだ。
教師ということはアレか。まず、同僚教師との付き合いがあってそれから生徒との人間関係、教える内容をまとめたりとか事務の仕事とかも色々有るのか。
そもそも大学で専攻していたのだって心理学で、教職だって採っていない人間にそんなものが勤まるのかどうか。塾講師だってしたことないのに。
しかも同僚って……、生徒って……一体何人いるんだよ。
「しかもお前が担任するのは近年まれに見る問題児ばかりを集めたクラスだ。唯でさえ人間離れしている連中の多いこの麻帆良学園でもとびきりの問題児だ。さぞ、手を焼くことだろうな」
「パトラッシュ……僕もう疲れたよ」
確実にそのとびきりの問題児達の一人であろうエヴァンジェリンが意地の悪い笑みを浮かべて俺を見る。もしかしてこいつは自分が問題児である自覚が無かったりするんだろうか。
そのまま蹲って目を瞑る。地面の材質は謎だったが、昨夜よりは寝やすい気がする。というかひんやりと冷たくてこれはこれで中々……
「こら、寝たふりをするな馬鹿者。時間はそう有るわけじゃないんださっさと魔法の修行に移るぞ」
パシパシと頭を叩かれたので目を開けてみると直ぐそこにしゃがみ込んだエヴァンジェリンが。
「あ、パンツ……ぐべえっ!!」
視界にくっきりはっきり映った光景を口にした瞬間凄まじい衝撃が米神に加えられた。勿論反対側は地面で衝撃を逃がす場所などない。地面と拳に挟まれた俺の頭は言語化出来ない痛みに襲われた。どうしても知りたいというならハンマーで同じ場所を殴ってみるといい。金属製の奴なら尚良い。
ふおおおおおお!! と奇声を挙げる俺の頭上でエヴァンジェリンが鼻を鳴らした。
「馬鹿が。ってまだ見てるのか貴様!」
痛みの余り大きく目を開いたのが間違いだったのか、頭の角度を誤ったのかまたしてもパンツが視界に。今度は言葉にするまでもなく視界を靴の裏で塞がれた。しかもグリグリと。
「いいいいたいですエヴァンジェリン様」
「いい気味だ変態野郎。猛省しろ!」
ガキんちょの癖して色気づいてんじゃねえよ。と俺の心の中の誰かが叫んだが、それを現実にしようものならこの程度では済まない怒りを買うだろ事は想像に難くない。
やたら際どい黒のパンツが閉じた瞼の裏側に焼きついた気がしたが、そんな事はおくびにも出さず非暴力不服従の構えを貫くことに。
「変態ってお前、そんなエロい格好して股を開くお前のほうがどう考えたっていてえええええ!!」
何故だ? 何も間違ったことを言った憶えは無いのに足に込められた力が増したぞ。
「どうやらお前には魔法より先に教えなければならない物があるらしい」
額の上から垂直に体重を掛けられて地面との板ばさみになっている俺の頭は破裂するんじゃないかと思うほどの激痛に晒された。
身を捩って逃げようにも頭を動かそうとするたびに、俺の頭を押さえつける足に絶妙な力が加えられ頭の方向を帰ることも出来ず、かといって体の方を先に動かしても今度は強引に俺の頭を支点にして体の方向を修正されるのだ。
こんな事に神業染みた技術を使用するエヴァンジェリンは、きっと人の事を虐めたりすることに命を掛けるドSに違いない。
「う、嘘です! 貴方が天使だ、女神です。変態なのはこの俺です!!」
都合三度目の脱出を阻まれ盛大に首を捻られた俺は脱出を諦め投降。
「分かればいい」
俺の頭から靴を退けたエヴァンジェリンは、汚らしいものでも触ったかのように靴底を地面に擦り付けた。
荒く切れる息を落ち着かせながら顔を服の袖で拭う俺はその光景を恨めしそうに見つめているしかない。
ケツが見えそうな服装をしている男やら女に比べれば断然良いのだが、如何せん酷すぎはしないだろうか。俺がエヴァンジェリンの下着を見たことで喜んでいたりするならまだしも、ただただ見せ付けられた光景を思わず言葉にしてしまった俺に此処までの仕打ちをするなんて。
こいつ相手にラッキースケベを繰り返す主人公なんて居ようものならこいつ以上のドSかドMに違いない。
とてもじゃないがこのままグダグダとしていると何かの拍子に殺されるんじゃないかと心配でならなくなった俺は、エヴァンジェリン講師による魔法講義に真面目に参加することを決心した。デターミネーションという奴である。
「いいか、よく聞けよ。魔力とは空気、水、その他森羅万象に宿るエネルギーの事で、魔法とは魔力を持って行われる事象全ての総称だ。術者はその魔力を息を吸うように体内に取り込み、一点に集中させ術を行使する。更に西洋魔法は精霊を媒介にする事もある」
説明する側であるエヴァンジェリンは備え付けられていた椅子に腰掛け、いつのまにか絡繰さんの淹れた紅茶を飲みながら特に原稿を読むわけでも無くスラスラと魔法について語った。
「魔法には基本四属性である火、水、風、地の他に光と闇を加えて六属性。他にも石や花、影といった属性があり、現時点でも十数種類以上は確認されているものの今だ発見されていない属性が存在する可能性が存在するため具体的に属性を定義することは出来ん。まあ、しかし研究職にでもならん限りは精々扱う属性は先ほどの六属性程度だろう。時々影や石と言った属性の使い手も居るだろうがあちらにはある程度以上の適性が必要だから気にするな」
特に言われた事を書き留めるでも無く、俺はエヴァンジェリンの言っていることに時折ふんふんと相槌を打ちつつ、出来るだけ多くの情報を脳内に刻み込んでいく。
聞いている限り完全にゲームの世界の話で特別な感慨を覚えることは無かったが、それならそれでゲームの設定だとでも思って考えると、幼少期からゲームを嗜んできた俺の脳みそがやる気を出したのか聞いたことがすんなりと頭の中に入り込んでいく。
「他にも属性といった状態に分化する前の魔力のみで行われる魔法も数多くあるぞ。離れた場所にある物を操ったり念話を行ったりといった風にな」
となると男の浪漫であるところの透明人間になったり惚れ薬を作るような魔法もあったりするんだろうか。
ふと話を聞いているうちに邪悪な考えが頭に浮かんでしまう。
まさか女性であるエヴァンジェリンにそんな事を聞くわけにも行かず(というか子供にそんな事は聞けないか)、その、男なら誰しもが突き当たるだろう疑問を脇に置いて話を聞き進めようとした俺だったが、
「実を言えば魔法というのはかなり体系化された技術でな、結局は才能に左右されるところが大きなウェイトを占めているがその気になれば一般人でも使用することは可能だ。とはいえ数ヶ月もの修練を必要とするがな」
思考の端に追いやったはずの疑問がドンドンと中央に出てこようと蠢きだした。
話半分どころか全くエヴァンジェリンの話が耳に入ってこない。
悲しいかな、男ってそういう生き物なのよね。とふざけた時エヴァンジェリンが動いた。
「おい……ちゃんと聴いているのか?」
聞いていたことを示そうと直前にエヴァンジェリンの言っていたことを思い出す。確か大きなウエストを締めているとか、体型が云々とかそんな話をしていた気がする。
「え?………も、勿論ちゃんと聞いてるよ。エヴァンジェリンの大きいウエストがどうしたって話でしょ?」
僅かに記憶から拾い上げることの出来たキーワードを言い放ってから気付いた。
魔法の話に何故エヴァンジェリンのウエストが?こんなに見事な細さを保っているにも関わらず?
こういう時の俺の悪い癖というか、単純に俺の悪癖というか俺には一度滑り出した思考を停止する機能がない。しかもそういう暴走が起こったときに限って大概ミスを犯していたりするのだ。
今回もご多分に漏れていない様で、俺が話を聞き流していたことに気付いたエヴァンジェリンはすっかりお怒りになったご様子だった。
「相当優れた聴力を持っているようだな。誰のウエストが大きいって?」
「ごめんなさい。嘘です。聞いてませんでした。エヴァンジェリンのウエストは細くて素晴らしいと思います」
600歳生きている吸血鬼だろうと心は立派なレディだとでも言うのだろうか。怒髪天を衝いたエヴァンジェリンがカップを優雅に置く仕草がとてもとても怖かったのであっさりと白旗を揚げる。
「しかし、本当この短時間の間に何度も頭に血を昇らせていてエヴァンジェリンの血管が破れないか心配だな」
「この短時間に何度も私を怒らせて懲りないお前の頭の方が心配だ」
「心を読まれただと!?」
「貴様がべらべらと喋っただけだ!!」
心を読まれたかと驚いて顔を上げると、俺の視界には本日二度目の対面となるエヴァンジェリンの履いた靴の裏が。
「うぎゃ!」
そのまま押し込まれるようにして後ろに倒れた俺は、更に地面とも二度目の抱擁。
「仏の顔も三度までだ。今度こそじっくりとお前を甚振ってやる」
靴の裏で完全に視界を塞がれた俺の耳朶を、エヴァンジェリンの声が叩く。犬歯の除く笑みが頭に浮かびそうな嗜虐的な声だ。
「おふっ!!」
更に驚いた事に俺の腹の上に何かが乗ってきた。
丸みを帯びた形といい、妙な温かさといい間違いない。エヴァンジェリンの尻だ。
足の裏で俺を踏みつけるだけでは飽きたらず、俺のことを椅子にしようという魂胆らしい。
この状況なら踏まれているだけの状況より脱出は容易だろうと判断した俺は、エヴァンジェリンのバランスを崩そうと体を揺すり、足を振り上げようとしてみたものの。
「抵抗は諦めることだな。貴様の体は既に拘束済みだ。お前にはもう啼き声を挙げる事しか出来んぞ」
知らぬ間に全身を糸に絡め取られ身動き一つ出来ない状況に追い込まれてしまっていた。
「どうした? ほれ、お前の大好きな踏み付けだぞ。もっと嬉しそうな声を出さないか」
もう本当、これから未来に希望など一欠けらも無いと悟るには十分な時間を過ごすことになった俺だった。
口は災いの元とはよく言ったものである。早めに俺の軽口を封じなければ大変な目に遭うことは最早必定。
人格改造を堅く誓う俺はこの時、既にエヴァンジェリンがやたら重いという事実を口にしない事に取り組み、その企みは見事やり遂げられたのだった。
「では、一番簡単な魔法から行くか。茶々丸」
「はい、マスター。こちらです」
十分な反省をエヴァンジェリンに示した後、説明を終えたエヴァンジェリンが絡繰さんから細長い棒のような物を受け取っている。
それは古びた木から切り出したような風情の品で、木目は無くそれ自体に一本の木が凝縮したかに思える。
「これが杖だ。これを持って『プラクテ ピギ・ナル アールデスカット』と唱えてみろ。全部それからの話だ」
絡繰さんが持っている物を確認したエヴァンジェリンは、そう言って指先に炎を灯した。高さは大体2,30センチという所で何の仕掛けもないのに揺らめき続ける。
あっさりと火を現したエヴァンジェリンは今度はあっさりと火を消して「ざっとこんなものだ」と言って絡繰さんから杖を受け取る俺の事をじっと見つめた。
「了解」
絡繰さんから受け取った杖をマジマジと見つめる。手触りはよく、かなり綿密に磨き上げられているのか表面を撫でても肌に触れるのはつるつると滑らかな面ばかりで引っかかりの一つも見つけることは出来ない。
紙やすりでこの質感を再現しようとしたら何番のやすりを使えば此処まで滑らかになるのか。などと考えつつ実行に当たって視線をさりげなくエヴァンジェリンの方へ向かわせる。
「っっ……」
エヴァンジェリンの顔が視界に映った瞬間に当の本人と視線が重なってしまう。
声を挙げずに視線を逸らした自分を褒めてやりたい。
「へー、こういう風になってるんだ」
などと適当な事を言いつつ、後退さる。
そしてもう一度エヴァンジェリンを見る。
「っっっ……」
こっち見んな!!
声に出さずに口の中でそう叫んで今度はさっきよりも落ち着いて、今度は杖に視線を戻す。
無意味に杖の表面を撫でたりしなり具合を調べながら更に時間を浪費する。緊張からか額に汗が浮かんできたような気もする。
「…………」
またしてもエヴァンジェリンと目が合う。
それを幾度か繰り返しいつまでも呪文を唱えない俺。
「さっさとやれ黒金。……どうした? 何故やらない?」
とうとうエヴァンジェリンが痺れを切らした。
声にはまだ怒りの色は無いが、苛立っていることは間違いない。
俺は何もせずに立ち尽くしている理由を言おうか迷ったが、黙っているとまた先程のような事になりかねないので正直に口を割った。
「恥ずかしいんだが」
「はあ?」
「恥ずかしいんだがって言ったんだ」
「恥ずかしいって何がだ?」
本気で分からないといった風にエヴァンジェリンが首を傾げる。
当たり前のリアクションだ。魔法使いにとってアレは極々初歩の魔法の呪文なのだろう。それなれば誰もが一度は口にするようなそれを魔法使いが恥ずかしいなどと感じるはずがない。
しかし、一般人の俺からすれば立派に恥ずかしいのだ。
ネタの分かる知り合いの前で「ピーリカ・ピリララ……」などというのとは話が違う。呪文の詠唱にしたってもっと沢山あるだろ。『我は放つ、光の白刃』とかそういうの。何にしろもっとカッコいいのをプリーズ。
「ああ、うん。気にしないで。頑張るから」
ますます疑問顔になるエヴァンジェリンを前にして、この気持ちを理解させることは不可能だと悟る。そりゃそうだ。毎日毎日使うような物に対して一々羞恥を感じているというのにそれを続けるというなら間違いなく変態だ。しかもかなり屈折した。
似たような経験がコスプレをしていた友人との間に有ったので、これはもうそういうものだという事で受け入れるしかないんだろう。
こう矜持ある一般人として色々な物を捨て去る結果になりそうな予感がしたが、敢えてそれらを無視して杖を凝視する。
一度死んで転生してしまうなんていうエキセントリックな出来事が有ってから半ば無意識の内に気付いていたことだが、俺にはもう以前のようなダラダラとして空虚な、平穏で愉快で苦痛な人生を歩むことは出来ないらしい。
人一倍羞恥心が強い方を自認する俺はたったこれだけの事でもう『死んだままのほうが良かったんじゃね』なんて事を考えてしまうのだが、これからの人生でこれ以上の辱めに遭わないなどとは言えないし、何故だかこう大変(態)な事態に巻き込まれる自信が沸々と湧いてくる。
せめてモブキャラにしか絡まないように生きていこうと決意を新たにする俺だったが、先に言ったように殆ど内容を覚えていない俺にはモブキャラと非モブキャラの違いが解る筈もないという事には気付けては居なかった。
「大丈夫、誰も見てない。大丈夫、誰も見てない」
「何を言ってる、私が見てるじゃないか」
努めてエヴァンジェリンと絡繰さんを意識の外に追いやろうとして、自己暗示めいた事をしていた俺にエヴァンジェリンが声をかけて来る。
止めて欲しい、人に見られた状態であんな呪文唱えるなんてとても出来ない。千歩譲っても誰も居ない密室でしか出来そうにないから必死にそう思おうとしているのに。
「よし」
羞恥心を捨てる覚悟は出来た。後は素面で呪文を呟くだけだ。
「プ、プラクテ ピギ・ナル アールデスカット……」
意識は散漫で集中など微塵もせず、言われたとおりに空気から何かが取り込まれた様子も無い。当然だ、何も知らない一般人がでたらめに呪文を唱えただけで魔法が使えるなら誰だって苦労しない。そんな世の中ならたった一枚しか買っていない宝くじが一等になって何億円も貰ったなんて出来事が十回は味わえるだろう。
そうやって素人でも数ヶ月の修行が必要なら、才能の欠片もない俺が唱えたところできっと何も起こらないだろう。なんて高を括っていた俺に超ド級のサプライズ。例えるならリアリティ抜群のバイトに遅刻する夢クラスのびっくりだ。ついでに言うと痛いのやら熱いのやら諸々に加えて幼少期に小火騒ぎを起こしかけた俺のトラウマを呼び起こす出来事。
思わず身を強張らせて瞼を閉じた俺の目には視界を埋め尽くす炎の塊が……