傲慢とは、己の目的のため、あるいは己の能力を過信し、他者を顧みず虐げる様を言う。
当人してみれば、それらの行為は正当性を主張してしかるべきなのだろうが、他の人間からすれば、迷惑な事この上ない。
そして、そんな傲慢に対する罰は、時として思いもよらぬ形でその人物から何かを奪っていく。
友人。
恋人。
金。
時間。
そして――命。
※
(私はここで、何をしているのだろう)
枕を両手に持った千雨が、そんな哲学的な事を考えていると、隣で慎重に歩みを進める雪広あやかから𠮟咤の声が飛んだ。
「長谷川さん、ぼんやりしてないで周りに注意してくださいな。ネギ先生の唇は、私が死守します!」
そう言って気炎を上げるあやかを見やり、千雨は小さくため息をついた。
事の起こりは、数時間前に遡る。
※
修学旅行2日目の夜。
昨晩とは打って変わって、元気いっぱいの3-Aの面々は、昨日の憂さを晴らすかのように騒ぎに騒いだ。
その旅館をひっくり返すような騒動に、『鬼』のあだ名を持つ広域生活指導員、新田教諭の怒りが炸裂し、
「これより朝まで自分の班部屋からの退出禁止!!見つけたらロビーで正座だ、わかったな!!」
と、このような厳しい一言を頂くに至った。
新田教諭は、昔気質な怖い(だがそれ以上に公平な)先生であり、やるといった以上は必ずやる御方である。もしこれ以上ふざけでもしたら、確実に朝までロビーで冷たい床と過ごさねばならなくなるだろう。
それを悟った3-Aは、途端にテンションを急降下させ、がっくりとうなだれた。
だが、ここで一人の女生徒からある提案が出された。
ちゃっかり新田教諭の説教から逃れていたのは、『麻帆良のパパラッチ』こと朝倉和美である。
彼女は、意気消沈する3-Aにゲームを持ちかける。
その名も。
『くちびる争奪!!修学旅行でネギ先生とラブラブキッス大作戦♡』。
コメントに困る名前のゲームであるが、ゲームの目的や、優勝者に贈られる豪華賞品などにつられ、大半の者が諸手を挙げて賛成した。
何より、クラスのストッパーである雪広あやかが、一番にやる気を見せた事により、最早その勢いは留まる事を知らなくなってしまったのである。
そしてその勢いは部屋で静かに本を読んでいた千雨に波及し、結果、何故か千雨は気付けばこの訳のわからないゲームに参加させられていたのである。
因みに同班の那波千鶴、村上夏美は、華麗にこの厄介事をスルーしていた。
(やはり私は押しが弱い)
千雨は、ここ何度かあった同じ様な場面を思い返し、そう内心で独りごちた。
やる気ゼロの千雨とは対照的に、あやかのテンションは鰻登りである。その口からは、時折「ダメですわ、ネギ先生……」や、「そんな、こんな所で……」などの妄言が垂れ流しになっている所を見ると、シュミレーションもばっちりな様である。
その時、千雨は前方の曲がり角から人の気配を二つ感じた。どうやら、自分達と同じゲームの参加者らしい。
「いいんちょ、敵だ」
短く告げる千雨の言葉に、あやかは妄想の世界から帰還を果たす。
「ほ、本当ですの?」
誰の姿も見当たらない事を確認したあやかが、千雨に尋ねる。
「ああ、そこの曲がり角から来ている。どうする?」
「もちろん、迎え撃ちますわ」
あやかは不敵に笑って、前方の曲がり角の壁際に体を寄せる。
やがて、何者かが小声で話し合うのが聞こえてきた。どうやら、4班の佐々木まき絵と明石裕奈のペアらしい。
それを確認したあやかは、先手必勝、とばかりに体を低くして飛び出した。
「げ!?」
「わっ、いいんちょ!?」
いきなり襲いかかってきたあやかに二人は反応できず、思い切り投げつけられた枕をその顔面で受け止める羽目になった。
「もへっ!?」
「わぷっ!?」
珍妙な悲鳴を上げる裕奈とまき絵。
「長谷川さん、トドメですわ!」
あやかからの援護要請を受けた千雨は、悶絶する二人の首筋に、鋭く枕を打ち込んだ。
「みぎゃっ!?」
「もげっ!?」
これまた珍奇な断末魔と共に、二人はその場にずぅん……、と昏倒した。
「お見事な手際ですわ、長谷川さん」
「ん」
あやからの称賛に、千雨は小さく頷いて答えた。
「さぁ、この調子でネギ先生の元まで参りますわよ!」
雄々しくそう言うあやかだが、その直後、後頭部に鋭く投擲された枕がヒットする。
「もろっ!?」
思わずその場に蹲るあやかを余所に、千雨が枕が飛んできた方向を見ると、そこには2班所属の古菲と長瀬楓が立っていた。
「エモノ発見アル!」
「ふむ、どうやら4班はすでに倒されているようでござるな」
いつ聞いても突っ込み所が満載の語尾を持つ二人は、3-Aの中でも極まった武闘派である。
「ま、まずいですわ……!体力おバカのお二人をいっぺんに相手をするのは、私といえど至難の技……!」
最初の衝撃から回復したあやかが、苦々しげな顔をする。
(ふむ)
千雨は、冷静に前方の二人を見る。
古菲は中国武術研究会、略して中武研の部長であり、その腕前はそん所そこらの格闘家を大きく凌駕している。
一方の長瀬楓は、所属している部活こそさんぽ部と言うのどかなものであるが、その正体(と言ってもばればれだが)は、忍者であるといわれている。普段の物腰からみれば、こちらもまた並外れた猛者である事が窺える。
そんな二人と、額に冷や汗を掻いているあやかを見て、千雨は思う。
(このアホらしいゲームを早く終わらせるには、誰かにさっさとネギ先生とキスしてもらう必要がある)
そしてそれを誰にするかと言えば――。
(まぁ、同じ班のよしみか)
千雨は、そういう訳であやかの援護に本格的な力を入れる事にする。
「いいんちょ、先に行け。この二人は私が押さえる」
「!長谷川さん……!よろしいんですの?」
「……早く終わらせて寝たいから、な。とっとと行って、キスでも何でもして来い」
その言葉に、あやかの顔がだらしなく緩んだ。
「な、何でも……?う、うへへ……」
「……見捨てていいか?」
その場で妄想を爆発させるあやかに、千雨の言葉が突き刺さる。
我に返ったあやかは、「頼みましたわよ!」の言葉を残し、颯爽とその場から走り去った。その足取りは、今にも小躍りしそうだ。
「まぁ、人の性癖はそれぞれだからな」
ガチなショタコンであるあやかに、千雨は一応の理解を示した。
「さて」
そして、律義に待ってくれていた2班の二人と向かい合う。
「そういう訳で、ここから先は通せない。迂回するか――」
「長谷川殿を退けるか、でござるな?」
「そういう事だ」
無論、ここ以外のルートを使っても、ネギのいる部屋まで行く事はできる。だが、それには一度ロビーを経由しなければならないので、新田教諭に発見されるリスクが断然高まるのである。故に、古も楓も、ここから撤退する気はない。
「拳士に背中を見せるとゆー選択はないアル!」
「ならば、どうする?」
「決まってるアルね!」
言うや否や、古は高く跳躍し、手にした枕で千雨に打ち掛かる。千雨はその一撃を或いは避け、或いは捌き、次々とかわしていく。
「ほう」
その動きを見ていた楓が、感心したのか息をもらす。
千雨の動きは、武術のそれとは程遠い。武術の動きを舞踏のそれに例えるなら、千雨は機械の如き動きである。
その場に拳があるから避ける。その場に蹴りが走ったから捌く。判を押したかのように正確なそれは、武術の流れるような動きに慣れた古に取ってやり難い事この上なかった。
(む~、今一リズムに乗り切れないネ。なんか、すごくやり難いアル!)
眉を顰めつつ攻勢を続ける古。相も変わらず無表情のままかわす千雨。楓に関しては、千雨を見極めるつもりらしく、動く気配はない。時間稼ぎ、という点については、千雨の目論見は見事成功した事になる。
延々と続く演武。モニター越しにこの場を観戦している者達も、思わず食い入るようにそれを見つめる。
このまま状況が膠着するかと思われたその時。
「――楽しそうではないか。私も一つ、混ぜて貰おうか」
「え?」
その声が聞こえた瞬間、古の体が宙を舞った。
「わわわっ!?」
慌てて空中で身を捻り、何とか足から着地する古だが、その胸中には慄然とした物が湧き上がっていた。
使う武こそ違えど、今自分に振るわれたのが、武芸の至尊に至った者のみが振える達人の技である事がよくわかったからである。
(いったい誰アル!?)
その正体を見た古の目が丸くなる。
そこにいたのは、金色の髪を靡かせた小柄な人影。
――6班所属、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
その瞬間、和美の実況がモニターを見る者達の耳に響き渡る。
「おおーっと!ここで2班と3班に割って入ったのは、6班所属のエヴァンジェリン選手だーっ!!何やら奇妙な技を使って、古菲選手を投げ飛ばしたようですっ!」
「エヴァンジェリン、それにレイニーデイ。お前らも参加していたか」
千雨が、突如現れたエヴァンジェリンと、その後ろに影のようにくっ付いているザジを見て言う。
「ふっ。修学旅行の夜に羽目を外して、みんなでバカをやる。私は、こういう状況に憧れていたんだ……!」
「……思い出……」
エヴァンジェリンとザジの外国人コンビが、それぞれにコメントを述べる。二人とも、皆と一緒に騒ぎたかっただけのようである。
「合気、でござるか?凄まじい腕前でござるな」
その時、エヴァンジェリンの技を目の当たりにして、硬直していた楓が感嘆の声を上げる。
「余芸に過ぎん。本職には敵わんさ」
「……とてもそうは思えないアル」
ようやく衝撃から回復した古が、静かに言う。立ち上がった彼女の目には、うずうずした物が隠しようもないほど溢れていた。
バトルジャンキー、といってもいい程強者との戦いを望む古にとって、千雨やエヴァンジェリンと言う、あまりに近くにいた実力者の存在に、闘争本能に完全に火が付いてしまったのである。
それを見やったエヴァンジェリンは、ふん、と鼻を鳴らすと、
「やる気になっている所申し訳ないが、もうすぐ騒ぎを聞きつけた新田がここに来るぞ」
「む」
「それは、まずいでござるな……。古、ここは一先ず逃げるでござるよ」
それを聞いた途端、古の顔が盛大に不満げになった。
「そ、そんな~!折角面白くなってきた所アルに~!」
「朝まで正座は勘弁でござるよ」
にんにん、と言いながら、楓は未だぶーぶーと文句を言っている古を引っ張って、その場から撤退する。
「長谷川もエヴァにゃんも、この決着は何時か着けるアルよ~!」
ドップラー効果を伴い、古と楓はその場を去った。
「私たちも場所を変えるぞ。来い、千雨、ザジ・レイニーデイ」
エヴァンジェリンの言葉に、千雨とザジの無表情組が揃って頷き、その場には未だ気絶し続ける4班の二人以外には誰もいなくなった。
※
「明石……、明石……」
「う~ん……、お父さ~ん……。学校だからって~、名字で呼ばなくてもいいよ~……」
「明石………………。起きんかぁっ!明石ぃ!!」
「ひぃやぁああっ!?」
大好きな父の夢を見ていた明石裕奈は、突如響き渡った怒声に慌てて眼を開けた。するとそこには、鬼の学園広域生活指導員、新田教諭が額に青筋を浮かべて裕奈の顔を覗き込んでいた。
「げっ!?に、新田!?……先生」
「随分と凄まじい寝相だな、明石。こんな所まで転がってくるとは」
寝起きに見るには心臓に悪すぎる人物の登場に、裕奈は冷汗は止まらない。
「そ、そうなんですよねー?む、昔から、私ってば寝相が悪くって……」
たはは……、と誤魔化すように笑う裕奈だが、当然それが通じるわけもない。
「そうかそうか、寝相ならしょうがない……。と、言うとでも思ったか?」
「ですよねー……」
と、そこで新田教諭は、いつの間にやら起きだしたのか、こっそりと忍び足でその場から逃げようとしている佐々木まき絵の肩をがしりと掴んだ。
「で、お前はどこに行こうとしている、佐々木?」
「え、あ、その……。てへっ☆」
ペロッと舌を可愛く出すまき絵だが、当たり前の如く新田教諭には効かなかった。
「二人ともロビーで正座!!」
「「びえ~ん!!」」
新田教諭の怒声と共に、4班ペア二人の悲鳴と、トトカルチョで4班の班&個人に賭けていた者達の悲鳴が、夜のホテル嵐山に響き渡った。
【あとがき】
『Arcadia』さんに移動して、初めての話です。
原作での千雨の代わりに、まき絵ちゃんが犠牲になりました、南無。
新田先生みたいな人は、嫌いではありません。こういう先生に出会えたら、その人の人生は多分間違ったりはしないでしょう。
次回は『傲慢の代償(後編)』。割ときつい罰が下ります。
それでは、また次回。
※更新ペースが少し落ちると思いますが、よろしくお願いします。