千年京を謳われたかつての都、京都。だが、華やかなその姿の裏側には、夥しい血と怨嗟の声に満ちている。上を見れば、政に破れた者達の無念が、下を見ればそんな上の思惑に振り回され、何もわからぬまま死に行く者達の悲鳴で溢れている。華とは裏の屍山血河。その恨みは、未だ耐える事無く、京都の地にて蠢いている。
耳を澄まし、目を凝らし、京の闇に身を浸してみると良い。きっとそこに感じられるはずだ。
――千年経ってもそこに在る、亡者達の呪詛の声が。
※
「呪詛?」
エヴァンジェリンが茫然と呟いた言葉を、千雨が聞き返した。傍らのネギ、明日菜も訝しげな顔である。そんな三人に、エヴァンジェリンは【黒いリョウメンスクナ】から目を離さぬまま、若干青ざめた顔で言う。
「呪詛は、文字通り呪いの塊だ。無念を残して死んだ死者の恨みつらみに、魔が取り憑けばそれになる。そこに在るだけで負の感情を呼び起こし、触れた者には災いを齎す。心霊スポットに行った者達が、その後、不幸な目に合った、と言う話はよく聞くだろう?あれは、そんな場所に漂う呪詛に触れたが故の事だ」
だが、とエヴァンジェリンは続ける。
「通常の呪詛は、目に見えても、せいぜいが黒い霞程度の物だ。起こす障りも悪くしても運気が最低レベルまで下がるくらいだ。あれほどはっきりと濃く、しかも形を持った物など、私は見た事も無い」
エヴァンジェリンは、冷や汗を流しながら言った。
「あ、あれってそんなにやばいの?」
明日菜が恐る恐る尋ねる。
「……仮に触れでもしたら、その瞬間、障るどころか、亡者の無念と恨みに精神を侵され、狂死するだろうな」
その言葉に、ようやくあれが尋常の物でない事を悟ったネギ達が青ざめる。
「何とかする事は出来るか?」
そんな中、唯一表情の変わらぬ千雨は、淡々と尋ねる。
「私には無理だ。高位の巫女や神官の浄化――、それも、百人規模で行わねば、あれを鎮める事など出来んぞ……!」
エヴァンジェリンは言いながら頭を抱えた。
「くそっ!訳が判らん。何故【リョウメンスクナ】からあんな物がでてくる?一部とはいえ、神性を受け継いだ式神にあれ程の呪詛が取り憑くなど――」
その瞬間、エヴァンジェリンの脳裏に、フェイトの声が蘇った。
「……!そうか、そういうことか!だからあの時、あの小僧はあんな事を……!」
「ひ、一人で納得してないで、説明してくれるとありがたいんだけど……」
明日菜がそう言って、事情の説明を求めた。エヴァンジェリンは、ちらりと明日菜を見やると口を開く。
「……半分以上は推測だ。この京都という都はな、かつてはこの国の首都としてあった頃、華やかなその裏側では、おぞましい程の死と恨みで溢れていたと聞く」
語るエヴァンジェリンを前に、皆は無言である。
「政治を取る場には魑魅魍魎。如何にすれば己の立場をよくするかしか考えぬ、欲をかいた人間達、下には、そんな者達に振り回され、無意味に死に行く者の群れで溢れていた」
それは、ある意味地獄である。単に飢えて死ぬよりも、戦で死ぬよりも下手をすれば残酷。華やかであるゆえに、その影はより濃く、深くなっていく。
「下に下にと弱者は踏み潰され、遂には血の染みになって京の地に消えていく。そんな場に、呪詛が湧かぬ筈があるまい?」
エヴァンジェリンにしても、又聞きである。幾人かの知己であるこの国の術師から聞いただけ。それでも、その凄惨さは身が震えるほどであった。
「私は当時の事は知らぬが、酷い物だったらしい。湧き上がる呪詛により、不幸な者はより不幸になり、相対的に恨みと呪詛は増えていく。そのまま放っておけば、京の都は、自身が生み出した呪いに押し潰されていただろう」
だが、当時の術師達は、それすらも利用した。
「この国の術と言うのは、魔法よりもおぞましい部分がある。当時の術師達が行ったのは、それほど惨い物だった。悪を自認する私だが、外道はせん。文字通り道に外れたそれは、死者の無念と恨みを、そのまま呪力に変換する大呪術だった」
死んでもなお、利用する。魔法使いに忌み嫌われる、死霊術師を始めとする外法を使う者達ならいざ知らず、これを行ったのは、当時の政に深く関わっていた、真っ当な術師だった。
「それほど追いつめられていたと言えば聞こえはいいが、それほどの呪詛を生んだのは自身の行い、自業自得だ。……少し話が逸れたか。とにかく、行われた大呪術により、大量の呪詛は地に返り、霊脈の一部としてこの国の力となった。だが、ここで予想外の事が起こった」
エヴァンジェリンは、地面をじっと見つめた。その先にあるかもしれない、死者の無念を見るかのように。
「湧いては起こる呪詛により、この国の土地が侵され始めたのだ」
外に恐ろしきは人の恨み。木は朽ち、土は死に、風は爛れ、水は腐った。それほどまでに恨みは深く、呪いは収まらなかったのだ。
「この事態に術師達は、神仏の力を借りる事を思いついた」
困った時の神頼み、と言うが、当時の術師達は只祈りを捧げるだけではなかった。長い年月、人々の信仰に合った神仏の象徴は、それだけで強力な浄化装置であった。術師達は、その神仏を霊脈と呪いのろ過装置に変えたのだ。
「大地を侵すほどの恨みつらみを、神仏の浄化作用によって納め、残った呪力のみを国に流す。上手く行ったのだろうな、現にこの国は蘇った」
それでも、人間の持つ浅ましさは変わらない。己が同胞の無念すらも利用するやり方は、エヴァンジェリンであっても反吐が出る。そしてエヴァンジェリンは、現在の事柄を語る。
「恐らく、【リョウメンスクナ】も、そんな風な呪力のろ過装置の一つだったのだろう。一部とは言えそこに在る神。崇め奉り、呪いを納めるにはうってつけだった」
だが――。
「それを私達は壊してしまったのか」
千雨が静かに呟く。
「【リョウメンスクナ】自体は滅びない。只、器に与えた影響のせいで、呪いが噴出してしまったのだ」
エヴァンジェリンは聳え立つ呪詛を見上げる。見ているだけで怖気が走る。それほどの存在。強い、弱いはこの際関係ない。強者も弱者も、等しくこの呪いは障るだろう。千年の呪いは、それほどにおぞましい物であった。
「あ!で、でも、あれなんだか散り始めてますよ!?」
ネギが指さす方を見れば、【黒いリョウメンスクナ】が、端から煙るように消え始めていた。
「じ、じゃあ、あれ放っておいても消えるんじゃない?」
「そんな訳があるか、馬鹿め!」
明日菜の言葉を、エヴァンジェリンは一蹴する。そして、ぎりっ、と歯がみした。
「マズいぞ……!呪いが拡散を始めた。あのままにしておけば、京の町は滅びるぞ!」
「ええっ!ど、どうして!?」
驚くネギ達の方を見ぬまま、エヴァンジェリンは前方を睨み続ける。
「先も言っただろう。あれは、放っておいて消える物ではないし、人に障るのだ。このまま拡散し続け、京都にあれが降り注げば――」
「ふ、降り注げば?」
「原因不明の自殺、病気、事故、通り魔殺人。それらが巻き起こり、人心は荒廃、それに惹かれた妖共もやってくる。京都は、文字通りの魔都と化す。いや、もっと最悪なのは、それを皮切りに日本中が同じ目に合わんとも限らん事だ」
恨みは恨みを呼び、呪いは呪いで膨れ上がる。京都で起こるであろう騒乱が、日本中に飛び火する可能性は、決してないとは言えない。
「た、大変じゃない!ネギ、行くわよ!」
「え!?い、行くって、明日菜さん、どうするつもりなんですか!?」
「決まってるじゃない!あれを止めるのよ!」
「どうやってだ?」
意気込む明日菜を、エヴァンジェリンの冷たい声が貫いた。
「ど、どうって……」
「あれには物理的な干渉は出来ん。第一、触れたら死ぬと言っただろう」
「じゃあ、どうするのよ!!」
「それを今考えているんだ!いいから大人しくしてろ、この馬鹿が!」
エヴァンジェリンと明日菜が角を突き合わせる最中、千雨はじっと前を見つめていた。視線は呪詛を通り抜け、都市の方へ向いている。ここからでもわずかだが、都市の明かりが見えている。その一つ一つに、誰かが生きてる証があった。
笑っている者もいる。
泣いている者もいる。
怒っている者もいる。
家族と、友人と、恋人と。それぞれが、何も知らず、平和に暮らしている。
千雨は不意に、それらがとても羨ましく、同時に、酷く愛おしく思った。
だから――。
「神楽坂」
「へ、あ、な、何?」
いきなり話しかけられた明日菜は、少し混乱しながら答えた。
「お前の真っ直ぐな性格は、欠点であると同時に、美点だ。下手にこじんまりと収まる必要なんかない。お前らしく、走り続けろ」
「あ、うん、ありがとう……?」
何故かいきなり褒められた明日菜は、首を傾げながら言う。
「ネギ先生。先生が将来、教師を続けるのか、魔法使いとしての仕事をするのかは判りません。只、どちらにおいても、一歩立ち止まり、考えてみる事です。先生は優秀な分、少し過信が過ぎるきらいがありますから」
「え?あ、す、すいません……」
今度はネギに対する駄目出しである。ここに来て、エヴァンジェリンはいよい訝しげな顔をし始める。
「近衛と桜咲に、仲直りができてよかったな、と伝えておいてくれ」
「……自分で言えばいいだろう、千雨」
エヴァンジェリンが何かを予感しつつ言う。だが、その言葉を無視して、千雨は最後にエヴァンジェリンに語りかけた。
「……ありがとう、エヴァンジェリン。こんな私を、真剣に心配してくれて。……お前と会えて、よかった。そして――」
千雨の手が懐に伸びる。全てを察したエヴァンジェリンの目が、大きく見開かれた。
「――「約束」を破って、すまない」
顔に貼りつく、一枚の仮面。それを見た瞬間、エヴァンジェリンは叫んだ。
「――千雨を止めろぉっ!!」
「ぅえ!?」
「な、何が!?」
未だ混乱するネギ達を置き去りにして、千雨が呪詛に向かって走る。
「ま、待て、千雨!」
その後を全力で追いかけたエヴァンジェリンの手が千雨に触れようとしたその時、今まで動きの無かった【黒いリョウメンスクナ】が雲のように広がり、中に千雨を取りこんでしまった。そして、そんな呪詛の塊に触れたエヴァンジェリンは――。
【シネシネシネシネシネシネシネシネニクイニクイニクイニクイニクイニクイコロスコロスコロスコロスコロスコロスタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテイタイタイタイタイタイイタイタイイタイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサ】
「ぎっ」
弾かれたように手を引いたエヴァンジェリンは、呪詛から距離を取ると同時に、その場に蹲って激しく嘔吐した。
「エヴァちゃん!?」
「え、エヴァンジェリンさん!?」
慌てて二人が駆け寄ってくるが、当のエヴァンジェリンは胃の中が空になっても吐き続けている。
(こ、これが、千年級の呪詛……!私ですら、この様とは……)
600年の齢を数えるエヴァンジェリンの精神力は、人間のそれを遥かに超えるほど頑健である。そのエヴァンジェリンであっても、心を侵され、塗りつぶされ、壊されかけたのである。
「ね、ねェ、エヴァちゃん。千雨ちゃん、どうしたのよ!?」
明日菜の言葉に、ようやく吐き気の収まったエヴァンジェリンが、険しい顔のままそれを告げた。
「千雨は――命をかけて、これを鎮める気だ……!」
※
蟠るは、闇。そこには光の類は一切ない。只恨みと憎悪に満ちていた。
(娘ガ死ンダ。侍ノ玩具ニナッテ死ンダ。マダ、7ツダッタノニ)
(妻ガ殺サレタ。政敵カラノ警告。只、ソレダケノ為ニ)
(妹ガ売ラレタ。頼ッタ叔父ニ騙サレ、慰ミ者ニサレタ挙句売ラレタ)
個人の意識など、当に擂り潰されているにもかかわらず、恨みの元だけは忘れない。それだけに思いをとらわれ、恨む心が更に恨みを呼ぶ。
遠くに、光を感じる。温かく、それ故に忌々しい光。人の心の光。
思い知らせてやろう。その幸せが、何の上に成り立っている物か。その幸せの為に、何が犠牲になったのか。何故ならば、もう、恨む事しか覚えていないのだから――。
(本当に?)
声が、聞こえた。
(本当にそれだけだろうか?)
暗闇の中に、仮面が浮かぶ。蒼い仮面。鬼の仮面。
(『修正鬼会』、最後の一鬼、【鎮め鬼】)
仮面が告げる。
(思い出せ、思い出せ。憎しみの源を。何故憎むのかを)
何故?憎い物は憎いのだ。そこに理由なんて――。
(思い出せ)
その言葉と同時に、亡者達の中に、不意に思い出が込み上げてきた。
(お父ちゃん!)
幼い娘が笑っている。貧しくても、幸せだった。その成長を見る事だけが楽しみだった。
(あなた)
妻が微笑んでいる。この国の為に身を削る中を、自分の傍らに立ち、支えてくれた妻が。
(兄さん)
妹がそこにいる。二人だけの兄妹だった。両親が無くなっても、強く生きて行こうと互いに誓ったのだ。
(――失われた者は帰らない。でも、思い出だけはそこに在る)
仮面の声が、闇に染み渡る。
(いつからそうなったのだろう?いつから忘れてしまったのだろう?大切な人達を、大切な思いを。もう一度だけ、思い出してほしい。愛しい者達の記憶を。あなた達が恨むのは、かつての自分達だと言う事を)
遠くに明かりが見える。人の心の光。自分達の中に合った筈の光。
(思い出してほしい。あなた達の憎しみは全て――)
――それだけ、この地を、この地に生きる人達を、愛していたからだと言う事を。
愛していたから、失われたそれが愛おしいから。だから憎むのだ。だから恨むのだ。帰らぬそれが大切だったから。だから嘆き、悲しむのだ。
(オォォオオォォオオォォォォオオオオォォ……!!!)
千年の呪いが啼く。失われたそれが悲しくて。帰らぬ人が愛おしくて。それは、久方ぶりに取り戻した、人の心だった。
憎しみも恨みも、もはや忘れる事は出来ない。でも、今は。今だけは。
刹那に抱いた、この愛おしい記憶を揺りかごに、眠ってしまってもいいと、亡者達は思った。
少しずつ、少しずつ、黒い闇が晴れて行く――。
※
「消えて、行く……」
エヴァンジェリンが茫然と呟いた。呪詛がゆっくりと消えて行く。拡散しているのではない。大地に返っているのだ。
「ど、どうなったんですか?」
ネギもまた、呆けたようにその光景を見つめている。
「……助かった、と言う事だ」
「うそ……」
明日菜が目を丸くする。無理もない話である。つい先程まで、誰もどうする事も出来なかったのだから。
「それよりも千雨は――」
呪詛に覆われ、姿が見えなくなっていた千雨を探すエヴァンジェリンは、そこで言葉を切った。何故ならばそこに、倒れ伏す千雨の姿を見つけたからだ。
「――!」
エヴァンジェリンは息を呑んでその場に走った。遅れて数秒後、倒れ伏す千雨に気付いたネギ達も、その場に駆け付ける。
「千雨、しっかりしろ、千雨!」
千雨を抱き起したエヴァンジェリンは、顔を追っていた仮面をむしり取る。そして、絶句した。
「ひ……」
顕になった千雨の顔を見た明日菜が、のどの奥で小さく悲鳴を上げる。千雨は、顔中の穴と言う穴から血を流し、その顔色は、青を通り越して白くすらなっている。ぐったりとした体はピクリとも動かず、一見すると生きているようには思えなかった。
「生きてるの、ねぇ?ねぇってば!」
「煩い!!」
心配したが故か、喚く明日菜を黙らせたエヴァンジェリンは耳をすませた。すると、吸血鬼の優れた聴覚は、ほんの少しだけ、鼓動を続ける千雨の心音を捉えた。
「まだ生きてる……!でも!」
それは本当にか細く、何かの拍子に途切れてしまいそうなほどであった。
「坊や、治癒を掛けろ!早く!」
「は、はい!」
慌てて千雨に治癒を掛けようとするネギだが、その手に光った治癒の光は、すぐに途絶えてしまう。
「ど、どうしたんだ?」
「くっ……。す、すいません、ま、魔力が……」
ネギもすでに限界以上に魔法を行使していた。すでに体の中の魔力は空であった。
「そんな……」
エヴァンジェリンが目を見開く。自身は治癒魔法を使えない。明日菜は勿論、ネギですらももはや当てにできない。つまり。
「千雨が、千雨が……!」
長谷川千雨の死を、意味していた。
「何とか、何とか出来ないか!?このままでは――!」
その時、ばさりと言う羽音共に、木乃香を抱えた刹那が頭上から舞い降りてきた。
「皆さん、ご無事ですか!?」
「明日菜、ネギくーん!」
駆けよって来た刹那達に、エヴァンジェリンが縋りついた。
「刹那!お前、治癒の術が使えるか!?使えるならすぐに千雨に……!」
「!千雨さんがどうしたと……。うっ!」
エヴァンジェリンの様子に戸惑いを覚えた刹那は、千雨の状態を見て息を呑んだ。
「そんな……」
木乃香もまた、絶句している。
「刹那!」
急かすエヴァンジェリンに我に返った刹那だが、すぐに首を振った。
「……申し訳ありません、エヴァンジェリンさん。私の手持ちの治癒符は全て……」
「な……」
最後の望みも断たれたエヴァンジェリンの体が弛緩する。
(死ぬ?馬鹿な。誰が?千雨が、私の友が?馬鹿な!!)
ぐるぐると思考が巡る。必死に何かの策を探そうとするエヴァンジェリンだが、何も浮かんでは来ない。その時、木乃香がネギの前に立った。
「……あんな、ネギくん。ウチ、ネギくんにチューしてもええ?」
「は?」
ネギの目が点になった。あまりにもいきなりすぎる言葉である。だが、その言葉が、エヴァンジェリンに天啓を齎した。
「そうか、仮契約!」
エヴァンジェリンの言葉に、木乃香が頷いた。
「ウチ、せっちゃんから色々聞いたんや。千雨ちゃんがこんな大怪我しとるんのも、全部ウチの為やって」
木乃香が悲しげに俯いた。
「ホンマに、ごめんなさい。そして、ありがとう。ウチにはこんな事しかでけへんけど……」
「仮契約は対象の潜在能力を引き出す。シネマ村で見せたあの治癒能力があれば、千雨を救う事が出来る!」
エヴァンジェリンの言葉に、ネギは即座に頷いた。
「わかりました!カモ君!」
「よっしゃぁ!」
カモは瞬時に仮契約の為の陣を書くと、その中央にネギと木乃香が立った。
「行くで、ネギくん……」
「は、はい」
少し緊張しながら、二人が口付けを交わす。瞬間、光が溢れた。
※
酷く暗い場所に、千雨はいた。平衡感覚すらもままならず、自分が立っているのか座っているのかすらも判らない。音一つ聞こえず、千雨は、このまま闇に溶けてしまうのかもしれない、と思った。
(まぁ、それもいい、か)
千雨の心は、この期に及んでも静かだった。死の恐怖も、絶対の孤独も感じない。只少し、気になる事だけはあった。碌な別れも告げず、置いて来てしまった友。不器用だが優しい知人達と、まだまだ未熟ながら、懸命な子供先生。
(そうだな、もう少し、あいつらと一緒にいても、よかったかも、な)
千雨がそう思った、その時。
『大丈夫だよ』
小さな声がした。まだ幼い、女の子の声。
『みんな待ってるよ』
(待ってる?私なんかを待つ人なんて、居ない)
『そんな事無いよ。――ほら!』
声が何かを示したように感じた千雨はそちらに目を向ける。そこには、淡く輝く光があった。そしてそれは、どんどんとこちらに近づいて来ている。それはやがて、千雨を飲み込んで――。
※
「ん……」
小さく声を出して、千雨はゆっくりと目を開けた。するとそこには、こちらを覗きこむ皆の姿があった。見な、一様に涙を浮かべているが、特にエヴァンジェリンは号泣と言ってもいい様子である。
「ち、千雨……」
呆けたようなエヴァンジェリンの言葉に、千雨は小さく頷いた。
「ああ。……ただいま」
歓声が、弾けた。
「千雨、千雨!この馬鹿もの!わ、私と違って、お前達はすぐに死んじゃうんだからな!」
「やったぁぁぁぁっ!!」
「良かったよぅ、ほんとに良かったよぅ!」
「ご無事で何よりです、千雨さん!」
次々と声を掛けて行く者達を見回していた千雨の視線が、木乃香を捉えた。木乃香は、一歩下がった所で千雨の無事を喜んでいる。
「近衛」
「わっ!?ひゃ、ひゃい!」
急に話しかけられた木乃香が、驚いて飛び上がった。
「……怪我はないか?何か奴らに、妙な事をされたとか」
「け、怪我云々は千雨ちゃんが言うセリフやないと思うけど……。うん、平気やで。皆が一生懸命頑張ってくれたから、この通りピンピンや」
木乃香は可愛らしくガッツポーズを取った。そして花もほころぶ様な笑顔を浮かべて。千雨に微笑みかけた。
「千雨ちゃん、ホンマにありがとうなぁ」
その笑顔を見た千雨は、小さく肩の力抜いて。
「そうか――」
「よかった」
その瞬間、全員がぴたりと動きを止めた。目をまん丸に見開いて、泣く事も騒ぐ事も忘れて、千雨の顔を見つめる。
「……?どうした?」
当の千雨は訳も判らず首を捻っている。そんな千雨を置いて、全員が顔を合わせる。
「い、今……?」
「あ、ああ、確かに、今」
「う、うん。見間違え、じゃないよね?」
「は、はい。ちょっと信じられませんが」
茫然とそう言い合う者達に、ますます首を傾げる千雨を、只一人木乃香がぎゅっと抱きしめた。
「千雨ちゃん!」
「どうした、近衛」
「あんな、あんな、今な!」
「少し、落ち着け」
そう諌める千雨だが、木乃香は興奮を隠しきれない様子で。
「今な、千雨ちゃん、『笑った』んやで!」
その言葉に、千雨が少し驚いた。
「『笑った』?私が?」
「そうやで。気づいてなかったんかー?むっちゃ、綺麗な笑顔やった!なぁせっちゃん!」
木乃香に声を掛けられた刹那もまたこくこくと頷いた。
「は、はい、確かに、今、笑っておいででした!」
その他の者達も一斉にこくこくと頷いた。
「私が……」
千雨に、その自覚は一切無かった。
「きっとな、【笑顔ゲージ】がいっぱいになったんやで」
木乃香がにこにこしながら言う。
「【笑顔ゲージ】、か」
そう言えばそんな話もしたな、と千雨は思った。
「なぁなぁ、もう一回笑って、千雨ちゃん!」
「そう言われても、な」
自覚のない千雨には、どうにも笑い方など判らなかった。
「くすぐったら、笑うかな?こしょこしょ~!」
「やめろ、くすぐったい」
「せ、セリフと顔が全く一致してませんが」
木乃香を遠ざけた千雨の顔は、相変わらず無表情のままである。
「と、とにかく、これで、ようやく終わったな!」
驚きすぎて涙も引っ込んだエヴァンジェリンが、まとめるようにそうったその時。がさりと背後の茂みをかき分け、彼女が姿を現した。
「まだや!まだ、何も終わってない!」
そう言って吠えたのは、水中に没した筈の陰陽師、天ヶ崎千草だった。
【あとがき】
『にじファン』さんからの移転作業が忙しいせいで、更新が遅れて申し訳ありません。そろそろ、『京都修学旅行編』も終了です。次の更新はもう少し早めにできるよう頑張ります。
それでは、また次回。