何かを果たさねばならない際、自分の力ではどうしてもその目的に届かない時、人は何か道具を、或いは他者の力を借りてそれを為そうとする。
だが、その目的が分不相応なほど大きなものだった場合、人はそれに見合った代価を払わねばならない。
誰かを助けるために、我が身を犠牲にできるか否か。それを問われた時、すぐさま、是、と応えられる人間は、この世にどれくらいいるのだろうか。
※
麻帆良学園内の全体メンテのための大停電当日。
その日も千雨はいつも通りだった。
時折話しかけてくるクラスメートに最低限の受け答えを返し、授業を無難にこなした。
あの日以来、ネギ達は千雨に話しかけて来ない。愛想を尽かされたのかもしれないが、千雨にはどうでもいい事だった。ただ、宮崎のどかだけは、変わらず時折こちらを窺うような視線を向けて来る事があった。
そして一日の授業が終わり、千雨が帰ろうとしたその時、今回の事件における別口から声が掛かった。
「長谷川千雨」
名を呼ばれ振り向いた千雨は、視線の先に金色の髪を靡かせた小柄な人影を捉えた。
「マクダウェル」
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。真祖の吸血鬼の姫が、そこにいた。
そのまま二人はしばし無言で見つめ合う。そんな二人を、帰宅していくクラスメートたちは怪訝な顔で見るが、当の二人はそれらを一顧だにしない。
やがて教室から千雨とエヴァ以外の人の気配が消えた頃、エヴァンジェリンが再び口を開いた。
「坊やの頼みを断ったらしいな?」
「ああ。私には、戦う理由がない」
エヴァンジェリンは千雨の答えを聞くと、僅かに目を細めた。
「何故そんな事を聞く、マクダウェル」
「何、私にとって未知の敵であるお前が坊やたちの側に付くと、少々厄介だと思ってな。最も、杞憂に過ぎなかったようだが」
エヴァンジェリンは肩をすくめながら言った。
「ならば、もういいな?私は行くぞ」
千雨がそう言ってエヴァンジェリンに背中を向けたその時、エヴァンジェリンが思い出したようにそれを告げた。
「ああそうだ。一つ言い忘れていた」
その言葉に千雨の足が止まる。
「私は今日の夜、行動を起こす」
「……」
「あの坊やの血を吸いつくし、夜の女王としての自分を取り戻すのだ」
「……それを私に言って、どうする」
エヴァンジェリンはニヤッと笑った。
「ふふっ、どうもせんさ。ただ、派手な事になりそうなんでな、あまり外をうろつくんじゃないぞ?」
「……今日の夜は外出禁止だ。それにわざわざ大停電の日に外に出るほど、私は酔狂な人間じゃない」
「仮面を被り歩く様な人間がよく言う……」
千雨の言葉をエヴァンジェリンは鼻で笑った。
それで話は終わったのか、エヴァンジェリンはそれっきり口をつぐんだ。そんなエヴァンジェリンを少し見つめた後、千雨は今度こそ、その場を後にした。
それを見送ってしばらく経った後、エヴァンジェリンはぽつりと呟いた。
「戦う理由がない、か。逆を言えば、理由さえあればいつでも戦うと言っている様な物だぞ、長谷川千雨……」
※
午後八時。
周囲の電気が、一斉に落ちていく気配がした。
そして、麻帆良に闇が訪れる。そこには、つい先程までと変わらぬ、人の営みがある筈だ。だが、人工の明かりが消えただけで、そこは人の一切住まわぬ廃墟と化したかのような光景に変わった。
そんな闇の中で、千雨は寮の自室で蝋燭に火もつけず、ただじっとしていた。
因みに、同室のザジ・レイニーデイはどこに行ったのか、不在である。
千雨の胸中には、あの後に聞いたエヴァンジェリンの言葉のせいで、何か形にはできない、蟠りの様な物が渦巻いていた。
このままでいいのか。
エヴァンジェリンを放っておいていいのか。
ネギと明日菜を、助けなくていいのか。
一度自ら拒絶した筈のそれらが、何故か千雨から離れない。
響いてくる声は仮面達の声に似ている様で、違う。まるで心の奥の奥の更に奥。千雨が自ら封じた、かつての『千雨』が叫んでいるようにも聞こえた。
だが、千雨はその声を無理矢理封殺した。
「……黙れ。私は何も、できない。しないんだ」
その時。突如千雨の部屋のドアがどんどんと乱暴に叩かれた。
弾かれた様にそちらに目を向けた千雨は、しばしそれを注視した後、何時まで経っても鳴りやまぬドアを開けるため立ち上がった。
「誰だ」
ドアを開けた千雨は、そこに息を切らせて立っている、宮崎のどかの姿を見つけた。
「宮崎」
「お願いです、長谷川さん!ネギ先生を助けて下さい!!」
のどかは千雨の姿を視認した瞬間、そう叫んでいた。
「……声が大きい。誰かに聞かれたくないから、中に入れ」
千雨はのどかの懇願には答えず、のどかを自室へ招き入れた。
いまだ興奮納まらぬのどかだが、有無を言わせぬ千雨の言葉に、取り敢えず言われるまま部屋の中に入った。
「それで、もう一度言ってくれるか。状況説明を含めて」
小さな机を挟んで対面に座ったのどかに、千雨は改めて尋ねた。
そして話し始めたのどかの言葉は、要約するとこうだった。
今後の事を話し合っていた自分達の前に、突如半吸血鬼化した佐々木まき絵が現れた。
まき絵はエヴァンジェリンの伝言を告げると、人間離れした動きで去って行った。
生徒を巻き込む事を良しとしない、という考えを持つに至ったネギが、明日菜とのどかを置いて指定された場所へ一人で向かった。
明日菜とカモと共にネギを追い掛けたが、足の遅い自分は二人を先に行かせた。
そして自分は千雨に助けを求めに来た。
「そこで何故私の所へ来たんだ」
そのくだりに入った時、千雨はのどかを問い質した。
「……千雨さんしか、頼りになりそうな人が思い浮かばなかったんです」
のどかは俯きがちにそう言った。
「この前も言ったが、他の大人に相談すれば――」
「信じて貰えません、きっと。魔法使い同士が戦っているから、止めてくれと言っても」
のどかの言葉はもっともだったため、千雨は口をつぐんだ。
この時ののどかは、この麻帆良が魔法使い達の住む場所だという事を知らない。故に、のどかの知る超常の力を振るう者達は、片手の指で数えられる程度である。
だからここに来たのだ。自分が知る、数少ない超常の担い手である、千雨の元に。
「……私の言葉は変わらない。私はあの二人の戦いに介入する理由がない」
「じゃあ、理由があれば、いいんですね?」
千雨の言葉を聞いたのどかは、俯いていた顔を上げた。
「なら、私がその理由になります」
「何?」
「もし長谷川さんが、ネギ先生達を助けてくれるなら、私、長谷川さんの言う事、何でも聞きます」
「……」
のどかの突拍子もない言葉に、千雨は表情すら変えなかったが、内心で僅かに驚いた。
「自分を安売りするのは、よくない」
千雨の言葉に、のどかは首を横に振った。
「……私、いいんちょさんみたいにお金持ちじゃないし、超さんや葉加瀬さんみたいに頭も良くない。ううん、それだけじゃない。3-Aの他の皆みたいに、胸を張ってできる事って、何もありません。そんな私が、それでも分不相応な願いを叶えようと思ったら、それこそ、『自分』ぐらいしか、差し出せる物がないから……」
のどかの言葉を聞いた千雨は、少しため息を吐いた。
「……お前が捧げようとしている『自分』とやらは、お前が思っている以上に誰かに必要とされている。お前の両親や友達、特に綾瀬や早乙女達。その人達は、お前に何かあったら、きっと悲しむだろう」
「……でも」
千雨の言葉に、のどかは黙り込んだ。それでも、気持ち自体は変わってない様子だった。
「わからないな。何故、そこまでする?」
のどかは、その問い掛けに、千雨の目を真っ直ぐに見た。
綺麗な目だ、と千雨は素直に思った。
「私、ネギ先生が好きなんです」
のどかははっきりそう言った。
「それは、先生としてではなく、男として、という意味か?」
「はい」
のどかはまたしてもはっきり頷いた。
「初めは只の憧れだったんだと思います。でも、自分の決めた目標に向かって、一生懸命なネギ先生を見ている内に、憧れよりももっと強い気持ちで、ネギ先生を見ている事に気付いたんです」
「……」
千雨は黙ってのどかの話に耳を傾ける。人としての情動に欠ける千雨にとって、恋と言う感情は完全に理解不能な物である。
「私は、臆病で、引っ込み思案で、同年代の男の子も苦手だったんです。そんな私が誰かに恋をする事なんて考えた事もなかった」
でも、のどかが何かとても大切な事を言おうとしている事だけは、判った。
「だから私、自分の気持ちに嘘をつきたくないんです。ネギ先生のために、何かしてあげたいんです」
「自分に、嘘を……」
千雨はその言葉に、先程から耳を閉ざしていた、『千雨』の声を思い出した。
その声は言うのだ。
神楽坂明日菜は、本当に見捨ててもいい様な人間なのか。
否。あのおせっかいなクラスメートは、直情径行で自分の考えを他人に押し付ける悪癖があるものの、困っている誰かのために、我が身を省みず手を差し伸べる事の出来る、優しい娘だ。
ネギ・スプリングフィールドは、本当にエヴァンジェリンの贄となって言い様な人間なのか。
否。あの小さな教師は、子どもゆえの幼さから来る失敗や、経験の無さから来る無知のために、他の誰かを傷つける事もしばしあるが、失敗を失敗として認めて努力し、与えられた役目を懸命にこなそうとする、健気な少年だ。
そんな二人を助ける理由は、本当にないのか。
千雨の答えは――。
「……宮崎。それじゃあ一つ、叶えて貰いたい事がある」
「は、はい」
突如発せられた千雨の一言に、のどかの体が強張る。
一体、どんな事を命ぜられるのだろうかと、緊張の面持ちで千雨の言葉を待っていたのどかは、次の瞬間命じられた千雨の『お願い』の内容に、思わず呆気に取られた
「最近、頓に暇を持て余す。だから、お前には図書館島に行って貰い、お前が面白いと思った本をいくつか私に持ってきて欲しい」
「へ?あ、あの、それだけですか?」
「ああ。それだけでいい。ただし」
千雨はそう言うと立ち上がった。
「特に面白い物を、頼む」
その言葉を聞いたのどかは、しばし呆けた後、我に返りとても嬉しそうな顔で頷いた。
「はい!読んで貰いたい本は、たくさんあるんです!絶対に面白いですからね、千雨さん!」
「楽しみにしている」
相変わらずの無表情のままそう言った千雨は、部屋の窓をがらりと開けた。そこには、只闇が広がるばかりだ。
「ち、千雨さん!?」
のどかは思わず立ち上がって千雨を呼び止めていた。
千雨は窓枠に足を掛け、そこから飛び降りようとしていたのだ。
「あ、あぶ、危ないですよー!?」
ワタワタと慌てるのどかに、千雨は一言。
「行ってくる」
そう言い置いて、飛び降りた。
「千雨さん!?」
すぐさま窓に駆け寄るも、そこには千雨の姿は既に影も形も無かった。
「……お願いします、神様。ネギ先生と明日菜さん、それに千雨さんを、助けて……」
今はまだ己の無力を嘆く事しかできない少女は、そう言って、静かに祈った。己の思い人と、二人の友人の無事を。
※
闇に包まれた麻帆良大橋に、魔法の光が咲く。
その下で、二人の魔法使いが鎬を削っていた。
「雷の暴風《ヨウイス・テンペスタース・フルグリエンス》!!!」
「闇の吹雪《ニウイス・テンペスタース・オブスクランス》!!!」
ネギとエヴァンジェリン、二人の呪文が激突する。
属性こそ違うが、同種の呪文を用いた押し合いは、全くの互角であった。
(す、凄い力……。だ、駄目だ、打ち負ける……!)
一見互角に見えるが、その実ネギは限界寸前であった。エヴァンジェリンの呪文の威力に、ネギの心に、一瞬諦めが浮かぶ。
だが、その弱い心を、すぐにネギは打ち消した。自分のために、危険を省みず来てくれた明日菜のためにも、もう逃げる訳にはいかなかったからだ。
「ええーいっ!」
気合いを入れたその瞬間、ネギは何故かくしゃみをした。
「ハックションッ!」
途端、ネギの中に眠る膨大な魔力が暴走を起こし、『雷の暴風』の威力が爆発的に増す。
「なっ!?」
驚愕するエヴァンジェリン。闇を蹴散らしていく雷光に、それらの流れを見ていた明日菜とカモが内心で(勝った!)と拳を握る。
だが、ネギの呪文がエヴァンジェリンを呑み込まんとしたその時、その進行がピタリと止まる。
「え――?」
思わず呆けるネギに対し、エヴァは獰猛に嗤った。
「ははは、少し肝を冷やしたが」
その体から魔力が立ち昇る。
「たかが10歳程度の小僧の」
ぎしり、と音を立てて空間が震える。
「制御すらできていない垂れ流しの魔力が乗った程度の呪文が」
先程のネギと違い、完璧なまでに制御された魔力が、闇色の吹雪に充填される。
「このエヴァンジェリンに」
魔法使いとしての格が違う――それを感じたネギの顔が真っ青になった。
「通じるとでも思ったかぁっ!!」
轟、と空気がうねる。暴力的なまでに膨れ上がった『闇の吹雪』が、一瞬で『雷の暴風』を撃ち砕いて行く。
そしてそれは、迫る呪文を茫然と見ている事しかできないネギを呑み込んで、その小さな体を吹き飛ばした。
「――ッ、ネギッ!!」
叫ぶ明日菜。その目の前で、ネギの体はやけに軽い音と共に橋の上に跳ね落ちた。
「ネギ!ネギ!どうしたの、大丈夫っ!?」
「あ、ああ、兄貴ぃっ!」
明日菜とカモが呼びかけるが、ネギは答えない。時折小さなうめき声が聞こえる所から、どうやら気絶しているだけの様だが、その意識は一向に回復しない。
「くっ!」
業を煮やした明日菜がネギの元に向かおうとしたその時、明日菜の進路上に立つ塞がる影が一つ。
「茶々丸さん!?」
そこにいたのは、科学と魔導、二つの技術と知識の融合によって生まれたガイノイドにしてエヴァンジェリンの従者、絡繰茶々丸だった。
「申し訳ありません、明日菜さん。マスターのご命令です。ここら先に行かせる訳には参りません」
「うぅっ、ど、退いてよーッ!!」
咆えた明日菜が茶々丸に拳を振るう。しかし、焦り動きの大きくなった明日菜の攻撃は茶々丸に取って至極躱し易いものだった。
茶々丸は体を小さく沈みこませて明日菜の拳をやり過ごすと、がら空きになった胴体に目掛けて鋼鉄の拳を繰り出す。
「がっ!?」
小さく呻いて体をくの字に曲げた明日菜に、茶々丸は追撃とばかりに蹴り足を一閃。それをもろに食らった明日菜は悲鳴もあげずに吹っ飛んだ。
「あ、姐さん!?むぎゃっ!」
飛ばされた明日菜の姿を思わず目で追ったカモは、直後茶々丸によって捕らえられていた。
「ぬぉぉ!?は、離しやがれー!」
白い体をくねらせて茶々丸の手の中で抗議を上げるカモだったが、茶々丸が少し強く揺さぶるとすぐに目を回してしまった。
「終わりました、マスター」
「御苦労、茶々丸」
ふわりと地面に降り立ったエヴァンジェリンが、従者に労いの言葉を掛ける。
だが。
「くっ……。ね、ネギぃ……」
意識を絶ったと思われていた明日菜が、顔を上げてこちらを睨んでいた。
「ふん、片手落ちだぞ、茶々丸」
「申し訳ありません、マスター」
鼻を鳴らしたエヴァンジェリンが茶々丸をじろりと睨め上げると、茶々丸は頭を下げた。
だが、ここは茶々丸の不手際を詰るより、明日菜の人間離れした耐久値に驚くべきだろう。そんな明日菜だが、意識はあっても体を動かす事は出来ない様で、エヴァ達に対し唸りを上げつつ睨む事しかできない。故に、エヴァンジェリンは明日菜の事をもはや脅威とはみなさず、一顧だにすらしない。
そしてエヴァンジェリンは取れ伏すネギに近寄り、その体を見下ろす。その唇から、堪え切れない様に高笑いが毀れた。
「ふふっ、ふふふっ、ふはははっ、あははははははははははははははははっ!!遂に、遂にこの時が来た!この忌々しい呪いを壊し、私が『闇の福音』の名を取り戻す、この時が!!」
エヴァンジェリンは嬉しくて堪らない様子で笑い続ける。その後ろでは、寡黙な従者が静かに控える。
「ああ、力を取り戻したら何をしてやろうか?目障りな学園の魔法使いどもを一掃してやろうか?それともいっその事、この麻帆良の地を灰燼に帰してやってもいいかもしれないなぁ!」
そこでエヴァンジェリンは突如ばっ、と後ろを振り返り、橋の上を見上げた。
「貴様はどう思う?」
エヴァンジェリンと同じ方向を思わず見た明日菜は、そこで己の目を疑った。
けんもほろろに断られ、冷たい言葉を投げかけられた。彼女はもう、絶対に自分達に協力してはくれないだろうと、そう思っていた。
だから、彼女がここに居る事に、明日菜は信じられない思いを抱いた。
エヴァンジェリンは、或いはこうなる事を望んでいたかのように、口元に楽しげな笑みを浮かべて、その名を呼んだ。
「長谷川、千雨!」
麻帆良大橋の欄干の上に、裾まで届く長いコートを纏い、相変わらずの無表情でエヴァンジェリン達を見下ろす、長谷川千雨が、そこにいた。
【あとがき】
この小説の千雨は、『おもかげ幻舞』の蒼に比べて、もう少しだけ人間らしい部分があります。
次回は二人の二度目の激突。それでは、また次回。