――大切な人達がいますか?
※
夜闇を凍てつかせる蒼の波動。
エヴァンジェリンの魔法である。
150フィート四方の空間をほぼ絶対零度にできる、広域殲滅魔法。
『おわるせかい』。
「契約に従い 我に従え 氷の女王」
朗々と紡がれる詠唱。
それを聞きながら、千雨は己の全身が総毛立つのを感じていた。曰く、『これはまずい』。
もし直撃でもしようものならば、死は免れないだろう。
だが、千雨に逃げる素振りはない。既に心を決めていたからだ。
目の前に居る、年経た、それでも幼い吸血鬼の姫を救おうと。
「来れ とこしえの やみ! えいえんのひょうが!」
千雨は己の力を行使する。その体を中心に、風が渦を巻く。それは周辺の大気を喰らって膨れ上がり、凄まじく巨大な竜巻へと変貌を遂げる。巻き上げられた土砂が逆巻き、その姿は恰も天に立つ黒い一本の塔の様になっていた。
「全ての 命ある者に 等しき死を」
エヴァンジェリンは怒り狂っていた。目の前の仮面の少女に。
軽々しく救うなどと口にした、その愚かな少女に。
誰も自分を救ってはくれなかった。
呪いを解くと約束した男は来なかった。
学園の魔法使いはこれ幸いと、自分をこの場所へと封じ込めた事を喜んでいた。
己の矜持が邪魔をして、泣き叫ぶ事もできなかった。
それでも、心の奥で、人間だった、只の生徒であった頃の『エヴァンジェリン』はずっと泣いていたのだ。
友達を返して。
あの日々を返して。
大切な、宝物みたいだった、あの記憶を返して、と。
誰にも届かなかったその叫びは、いつしか憎しみに変わってエヴァンジェリンの中で渦巻いていた。
千雨の言葉は、そんな凝り固まった憎悪を見事に刺激したのだった。
故にエヴァンジェリンは止まらない。
これから放つ魔法が、相手を完全に死に至らしめる魔法である事を知っていても、躊躇う心も既にない。
「其は 安らぎ也」
解き放たれた黒い感情の赴くまま、仮面の少女を殺すだけだ。
※
軋む体を押さえ、ゆっくりとだが麻帆良大橋から離れていた明日菜は、遠くに見えるその光景に息を呑んだ。
天に揺らめく蒼い凍気。
天を突く黒い竜巻。
その二つの現象が対峙する、凄まじい光景を。
「千雨ちゃん……」
友の名が口からこぼれる。
あそこで戦っている存在を知っていれば、今の目の前で起こっている事が誰の手によるものなのかは明白であった。
明日菜は知らず、唇を噛んでいた。
何もできない、何もできなかった。そんな自分の無力が、只恨めしかった。
ネギの目は、まだ覚めない。
※
千雨の部屋でネギや明日菜、そして千雨の帰りを待っていたのどかは、外で何かが起こっているのを察知した。
闇の奥は目を凝らしても何も見えない。
それでも、何か途方も無く巨大な力が蠢いている事だけはわかった。
「……!」
のどかは先程から祈り続けていた何者かに更に願う。
どうか、大切な人達が無事に帰ってきますように。
※
学園周辺で警備を行っていた魔法先生、及び魔法生徒達は、突如出現したその極大の魔力のうねりに目を剥いた。
余談だが、エヴァンジェリンが『おわるせかい』を発動させた直後、その魔力の負荷に耐えきれなくなった穏行と結界の符が、弾け飛んでいたのだ。
攻めていた外部の魔法使い達も、突然の事態に驚愕していた。
守る者も、攻める者も、揃って口を開けて放心するしかない。それほどの力の波動だった。
今この瞬間、魔法と言う異能を使う者達は全て、何もできず、ただその力の行方を見ている事しかできなった。
※
エヴァンジェリンの呪文の詠唱が終わる。
蒼い大気が周辺の全てを凍てつかせながら控える。
千雨が風の制御を終える。
暴虐の力を込めた黒い竜巻が、荒々しく吠える。
それはまるで、本来ならばぶつかり合う事など決してない、大自然の脅威同士がぶつかり合う様な光景だった。
「おわるせかい!!」
凍てつく大気が放たれる。
千雨もまた、黒い竜巻を解放する。
唸りを上げるそれは、喜びにも似た咆哮を上げて凍てつく波動に躍り掛かる。
瞬間、光なき爆発が巻き起こる。
世界が割れる様な轟音と共に、極大の力同士が激突した。
凍てつく波動の欠片が木々を氷漬けにする。
黒い竜巻の残滓が大地を蹂躙する。
その中心で、小さな少女達が、互いに異能で鎬を削る。
「ぐぅぅぅぅっ!!」
「…………!!」
一進一退。退いては喰らい、押しては喰らいつかれる。
しかし、終わりなく続くかと思われた均衡が、突如崩れる。
ぴしり。
小さな音がした。その発生源は――千雨の仮面。
限界以上に力を振り絞る千雨の力に、仮面が耐えきれなくなったのである。
そうしている内にも、仮面の罅は広がっていく。それに伴い、竜巻の威力も低下し、蒼い大気のうねりがそれを浸食していく。
そしてその瞬間は訪れる。
硝子の割れるような澄んだ音を立てて仮面が砕け散る。
それと同時に雲散霧消する黒い竜巻の後を、凍てつく死の息吹が蹂躙し、千雨の姿を呑みこんだ。
※
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
荒く息を吐くエヴァンジェリン。
その胸中に満ちるのは、虚しさだった。
怒りのままに魔法を振るい、感情の赴くまま咆えたてて、それが一体何になるのだろうか。
今のぶつかり合いのおかげで、隠蔽していた今夜の出来事も全て詳らかになった。すぐにでもネギ達は保護され、自分には厳重な封印が再び施されるだろう。いや、下手すれば何処かに幽閉される可能性すらもあった。
「結局、何も得られなかったか……」
エヴァンジェリンは凍りつき、砕けた眼下の麻帆良大橋をみる。その瓦礫の何処かに、粉々になった千雨がいるのだろう。
それを思うと、エヴァンジェリンの胸中の虚しさがさらに増した。
自分を救うと言った千雨の言葉に怒りを感じたのは事実だ。でも、それでも、心のどこかで、ほんの片隅で、この見知らぬ異能を行使する少女ならば、と思っていた自分もいたのだ。
「嘘つき……」
ぽつりと、エヴァンジェリンの口からそんな言葉が滑り落ちた。結局、あの少女も、あの男と、サウザンドマスターと同じく、口先だけだったのだ。
その時、エヴァンジェリンの頭上で、月が翳った。
何気なしにそれを見上げたエヴァンジェリンの瞳が、大きく見開かれる。
月を頂きに宙を舞う影。
その面には黒い仮面。
確かその名を――。
『キフウエベの仮面』。
「長谷川……千雨……」
茫然とその名を呟くエヴァンジェリンの元へ一直線に落下した千雨は、その掌を少女のに翳す。
エヴァンジェリンは、それらの動きに――何故か、一切の抵抗をしなかった。
そして炸裂した爆発が、真祖の姫の腹腔を抉り飛ばした。
※
「……そうか、そうだな。死も、ある意味では救いだ……」
凍りついた大地に横たわるエヴァンジェリンが呟く。
腹に大きく開いた穴は、ゆるゆると塞がりつつあるが、もう間に合わない。
もうすぐ、学園の電力が復旧し、自分は吸血鬼としての力を封印される。そうなれば、腹に大穴の開いた自分はすぐにでも死んでしまうだろう。
だが、エヴァンジェリンはそれでもいいと思った。
生きる事に意味を見いだせたあの日々はもう帰らない。ならば、生にしがみ付く事に何の未練があろうか。
「……止めを刺すがいい。長谷川千雨」
エヴァンジェリンはそう言って、傍らに佇む千雨を見上げた。
その姿はエヴァンジェリンに負けず劣らず凄惨だ。
着ていた服はズタズタになり、左腕はへし折れでもしたのがぶら下がったまま。外した仮面の下の面《おもて》は、傷だらけ。その全身も一部凍りついたままの所まであり、加えて能力の行使が過ぎたのか、血を吐いた跡まである。
それでも、その無表情だけは変わらない。
千雨はエヴァンジェリンの言葉に、辛うじて動く右腕を動かし、ズタズタになったコートから、一枚の仮面を取り出す。
(棒きれ一本あれば、事足りるというのに)
こんな時まで仮面を使おうとする千雨に呆れながら、エヴァンジェリンの意識は闇に落ちて行った。
※
(これが走馬灯と言う奴だろうか)
エヴァンジェリンは眼前に展開される光景を見て思った。
遥か昔の、頑是ない子供の頃の記憶でもない。
吸血鬼として殺し殺されしていた頃の記憶でもない。
最強の悪の魔法使いとして世界にあった頃の記憶でもない。
エヴァンジェリンにとって一番輝いていた頃の記憶。
麻帆良学園女子中等部の一クラスに在籍した、初めての記憶だった。
記憶の中でエヴァンジェリンは笑っている。「あの子」と一緒で、心から嬉しかったから。
記憶の中でエヴァンジェリンが泣いている。体育祭で負けてしまった時の物だ。それを、「あの子」がずっと慰めてくれた。
記憶の中でエヴァンジェリンが怒っている。ほんの些細な悪戯による物だ。これも、「あの子」の仕業だったな。
記憶の中でエヴァンジェリンが楽しんでいる。ああ、これは麻帆良祭の時の物だ。「あの子」を含めた皆で懸命に頑張った。先生に隠れながらの作業は、何だかとてもわくわくした。
人として、只の女の子として、光の中で生きていたあの頃の、何と輝いていた事だろう。
流れる記憶の一つ一つを愛しんでいたエヴァンジェリンは、気が付くとかつて住んでいた寮の自室に立っていた。
日付を見れば、それはあの忌まわしい卒業式の日付だった。
「最後に視るのがこの場面とは、な」
エヴァンジェリンは眉を顰めた。そして何かを思いついた様に、不意に部屋の扉に手を伸ばした。
ばちり、と紫電が走り、エヴァンジェリンの手を少し焼く。
「やはりな……」
エヴァンジェリンが落胆した声で言う。こんな記憶の中でさえも、あの呪いに縛られねばならないのかと。
その時、唐突にエヴァンジェリンの目の前に一枚の『仮面』が現れた。
目を見張るエヴァンジェリンの前で、その仮面はどこかで聞いた様な声で言う。
『バロンの仮面』
その仮面は、ぎょろりとした目に鋭い牙、紅い顔と如何にも恐ろしい容貌にも関わらず、何故か見る者を安心させる。
『森の「バナス・パティ」(良気)の顕現であり、バリ・ヒンドゥーの善の側面を象徴している仮面。そして、あらゆる災害を防ぎ、呪いを解く力を持っていると言われている』
声がそう告げるなり、『バロンの仮面』が口を開けて声なき声で咆えた。それと同時に、エヴァンジェリンは己を取り巻いていた【何か】が悲鳴を上げて消えさった事を感じた。
呆気にとられるエヴァの前で、仮面がからりと床に落ちる。それを拾い上げたエヴァンジェリンは、仮面をじっと見つめたが、仮面はもう何も言わない。
それでも尚仮面を見ていたエヴァンジェリンの耳に、遠くから誰かが走ってくるような音が聞こえた。
その音に顔を上げたエヴァンジェリンの目の前で、自室の扉が勢いよく開いた。
呪いによって、決して開かなかった扉が、呆気なく。
「やっぱりここにいた!」
そう言って飛び込んできたのは、自分の「親友」である「あの子」だった。
驚きに固まるエヴァンジェリンの様子を気にも留めず、「親友」はエヴァンジェリンの手を取って引っ張った。
「ちょ、ちょっと!?」
「こんな所でボーっとしてる場合じゃないよ、エヴァ!もう皆集合してるよ!」
「親友」はそう言ってエヴァンジェリンの手を取ったまま走りだした。
為すがままに引っ張られていくエヴァンジェリンは、状況の推移について行けず、その脳内は混乱の極みであった。
そうこうしている内にエヴァンジェリンが連れて来られたのは、体育館だった。
「ここは……」
入口の立て看板には、『卒業式』の文字。
夢見たそれが目の前にある。思わず立ち尽くすエヴァの背中を、「親友」がぐいぐいと押す。
「ほら、早く入った入った!」
「あ、あんまり押さないで!」
慌てるエヴァンジェリンは、促されるまま、とりあえず自分の席に着く。
「遅ーい、エヴァちゃん」
「迷子にでもなってたの、エヴァ?」
「でも間に合ってよかったねー」
「連れて来た私を褒めなさい!」
口々に声を掛けて来る友人達。彼女達に応えながら、エヴァンジェリンは何とか冷静になろうとした。
(落ち着け、エヴァンジェリン!これは夢だ、死に際に立って、都合のい夢を見ているだけなんだ!)
そう思うエヴァンジェリンだが、周りから感じる感覚は、あまりにリアルだ。
そんな風にしている内に、卒業証書の授与の時間になった。
クラスの一人が最終的に代表して受け取るそれは、エヴァンジェリン達のクラスでは委員長がその役を務める事になっていた。
出席番号順に名前が呼ばれていく中、何故かエヴァンジェリンの名前が呼ばれなかった。
その事に首を傾げていたエヴァは、最後に読み上げられた名前に仰天した。
『卒業証書授与。3-A代表、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル』
「はぁっ!?」
思わず立ち上がって、そんな素っ頓狂な声を出していた。
「あ、やっぱり聞かされてなかったんだ」
「誰よ、直前まで内緒にしておこうって言ったの」
「あ、私」
「……言ってあげたの?」
「忘れてた☆」
てへぺろと言わんばかりに頭を掻く己が「親友」に、エヴァンジェリンの体から力が抜ける。
(そう言えば、こんなくだらない悪戯が大好きだったなー)
その被害も、主に自分だった。
「ほら、エヴァ!早く行かなきゃ!」
「……後で覚えててよ」
誤魔化す様に笑う「親友」の顔をじと目で睨んだエヴァンジェリンは、仕方なしに壇上に上がる。
壇上では、後頭部の異様に長い、人外めいた外見の学園長、近衛近右衛門が待っていた。
「爺……」
エヴァンジェリンが思わずそう呟くと、近右衛門は「ひょっ!?」と妙な声を出した後に苦笑した。
「卒業の日くらい、学園長先生と呼ばんか、エヴァンジェリン」
そう言った後、近右衛門は咳払いを一つし、卒業証書を読み上げ始めた。
「卒業証書。エヴァンジェリン・A・K・マグダウェル殿。右は本校において中学校の過程を卒業した事を証す。1990年3月30日、麻帆良学園学園長、近衛近右衛門。……卒業おめでとう、エヴァンジェリン」
エヴァンジェリンは差し出された卒業証書を、半ば茫然と受け取った。その様子を、近右衛門が微笑ましげに見つめている。
エヴァンジェリンの卒業式は、そのようにして終わった。
※
卒業式が終わった後、エヴァンジェリンは桜通りの入口で、茫然と立っていた。
「卒業……しちゃった……」
口からそんな言葉が毀れ出る。
「そうだねぇ、卒業しちゃったねぇ」
「わっ!?」
不意に、後ろからぎゅっとと抱きしめられた。確かめるまでも無く、それが自分の「親友」だとわかった。
「……さっきはよくもやったね?」
半眼でそう言うエヴァンジェリンに、「親友」はごめんごめんと謝った。その顔を見ていると、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなった。
「もう……。それで、どうしたの?」
「んー?いや、何かエヴァが寂しそうだったからさ」
エヴァンジェリンの問い掛けに、「親友」はそう答えた。
「寂しい、のかな……」
エヴァンジェリンが俯き加減にそう言う。
「寂しいんじゃないの?色々あったからねぇ」
「……うん。そうだね。色々、あった」
エヴァンジェリンは自分の過ごした三年間を思い出した。
「親友」との出会い。
たくさんの友人達との交流。
中間・期末に向けての勉強会。
人間としての力だけで頑張った、体育祭。
皆で力を合わせた麻帆良祭。
全てが、初めての経験ばかりだった。
「楽しかったな……」
そう呟いたエヴァンジェリンの顔を覗き込んで、「親友」である「あの子」はにこーっと笑った。
「何過去形にしてるのよ、エヴァ。これからも、きっと楽しい事が待ってるよ!」
「これから……?」
首を傾げたエヴァンジェリンに、「親友」は頷いて言った。
「高校に行ってもよろしくね、エヴァ!」
「あ……!」
エヴァンジェリンが目を見開いた。
中学を卒業したのだ。次は、高校に行くのは決まっている。
まだ、一緒にいられるのだ。「親友」と。「友達」と。
「高校、高校に、行ける……」
「もう、どうしたの。さっきから妙だねこの子は」
「親友」はそう言いながら、エヴァンジェリンの頭をぐりぐりと撫でた。
「はうー。や、やめてー」
グワングワンと頭を揺さぶられる感覚に、エヴァンジェリンが目を回して言う。
そんなエヴァンジェリンの姿に笑っていた「親友」は、不意に頭から手をどけて、桜通りの向こうを指した。
「これからみんなで打ち上げがてら遊びに行くんだ。エヴァも来るでしょ?」
彼女が指差した方向を見れば、こちらに向かって手を振るたくさんの友達の姿があった。
「行く!」
エヴァンジェリンの答えに否はない。
「よし!じゃ、行こっエヴァ!」
「親友」が差し出した手を、エヴァンジェリンは満面の笑みで取って――。
※
「ぐえっ!?」
ベッドから落ちたエヴァンジェリンは、その衝撃によって、無様な悲鳴と共に目を覚ました。
「あ、あれ!?」
周囲をきょろきょろと見回すエヴァンジェリンは、カレンダーの日付に目を止めて、ようやく先程までが夢であった事を知った。
「と、途中から完全に現実だと思ってたぞ……」
がっくりと肩を落としながら、エヴァンジェリンは呟いた。
「でも、いい夢だったな……」
エヴァンジェリンは、先程までの夢を鮮明に思い出しながら、じんわりとした笑みを浮かべた。
そんなエヴァンジェリンの手に、何か固い物の感触がした。
思わずそれを手に取ったエヴァンジェリンは驚愕した。
「これは……!」
エヴァンジェリンが手にしたのは、仮面。
夢に現れた、『バロンの仮面』と言う名の仮面だった。
「って、夢じゃない!走馬灯だった筈だろーが!」
「仮面」と言うファクターによって、エヴァンジェリンは自分が昨夜、長谷川千雨に敗れ、死にかけた事を思い出した。
「なのに、何で私は自分の部屋で寝ているんだ!?」
起きぬけからテンションが限界を突破したエヴァンジェリンは、混乱の余り叫んでいた。
その時、エヴァンジェリンの部屋に繋がる階段を、何者かが昇ってくる気配がした。
注視しているエヴァンジェリンの目に映ったのは、二頭身の影。己の最も古い従者である、チャチャゼロであった。
「オオ、何カウルセート思ッタラ。目ェ覚マシタノカヨ、ゴ主人」
「なんだ、チャチャゼロか」
「ナンダハネェダロ、ナンダハ。誰ガココマデゴ主人ヲ運ンダト思ッテンダ」
その言葉に、エヴァンジェリンが目を剥く。
「お前がここまで私を運んでくれたのか?」
「オオヨ。正確ニ言エバ、妹ダケド」
「茶々丸も無事か」
従者の言葉にエヴァンジェリンは安堵のため息を吐いた。今更ながら、『おわるせかい』を放った際、従者達の事を完全に忘れていた事を思い出したのだ。
「アノ後、妹モ俺モスグニ元ニ戻ッタンダケドヨ、何カゴ主人ガトンデモネー魔法ヲ使オウトシテルノヲ見テ、慌テテ逃ゲタンダ」
従者の言に、エヴァンジェリンが言葉を詰まらせる。
「す、すまん……」
「イイサ。マ、トニカク静カニナッタノヲ見計ラッテ、アノ場所ニ戻ッテミタラ、ゴ主人ガ倒レテタンダ」
「そこにいたのは私だけか?長谷川はいなかったのか?」
「長谷川?アア、アノ仮面女カ。イヤ、イナカッタゼ?ゴ主人ノ魔法デ粉々ニナッタンジャネーノカヨ?」
エヴァンジェリンは首を振って、チャチャゼロの言葉を否定する。
「いや、私はあの時、確かに長谷川に負けたんだ。腹に大穴を開けられた時の感覚が、まだ残っている」
エヴァンジェリンは腹をさすりながらそう言った。
「全力全開ノゴ主人ニ勝ツナンテ、トンデモネーナ、アノ女」
「確かに、な……」
だからこそ、エヴァンジェリンは不思議で堪らなかった。
何故、長谷川千雨は、自分を見逃したのか?
そして、あの夢と、この仮面の関係は?
悩むエヴァンジェリンに、チャチャゼロは声を掛ける。
「オ悩ミノトコロ悪ィーケドヨ、妹ガ朝飯作ッテ待ッテルゼ?イイ加減顔ヲ出シテ安心サセテヤレヨ」
何気に姉妹に対して優しい所があるチャチャゼロであった。
「あ、ああ。判った、すぐに行く」
「ジャア、俺ハ妹ニゴ主人ガ起キタ事ヲ伝エテクルゼ」
チャチャゼロはそう言ってエヴァンジェリンに背を向けた。その背中を見つめていたエヴァンジェリンは、何か物凄い違和感を感じた。
そいて次の瞬間、その違和感の正体に行き当たったエヴァンジェリンは、チャチャゼロを呼び止めていた。
「お、おい、チャチャゼロ!」
「ア?何ダヨ、ゴ主人?」
「お前なんで動いてるんだ!?」
違和感の正体は、歩いているチャチャゼロであった。
チャチャゼロは、茶々丸と違って、完全に主であるエヴァンジェリンの魔力に依存して動く人形である。故に、呪いと学園結界によって完全に魔力を封印されている今のエヴァンジェリンの状態では、チャチャゼロは身動き一つ取れない筈である。
にも拘らず、チャチャゼロはエヴァンジェリンの前で普通に歩いていた。
「何デッテ、ソリャ……」
チャチャゼロはしばし自分の体を見下ろした後、ハタと何かに気付いて声を上げた。
「アレッ!?何デ俺動ケテンノ!?」
「そんなもん私が一番知りたいわぁっ!!」
今の今まで動ける事に疑問を持っていなかった従者の間抜けな発言に、エヴァンジェリンは思わず声を荒げていた。
「!そうだ、茶々丸!茶々丸に聞けば……!」
「アッ、オイ、ゴ主人!?」
ベッドからはね起きて、階段を駆け降りた主の後を、チャチャゼロは慌てて着いて行った。
「茶々丸、茶々丸はどこだ!?」
己を呼ぶエヴァンジェリンの声に気付いた茶々丸が、台所から姿を現した。
「ああ、マスター。よかった、目を覚まされたのですね」
「そんな事はどうでもいい!茶々丸、学園結界は今どうなっている?もしや、まだ電力復旧が為されていないのか!?」
意気込んでそう尋ねてくる主の言葉に、茶々丸はすぐに答えた。
「学園結界、及び麻帆良の電力は正常に稼働しておりますが……」
「何だと……!?」
その言葉にエヴァンジェリンは愕然とする。ならば、何故チャチャゼロは動けるのだろうか。
「オーイゴ主人、待ッテクレヨ」
その時、チャチャゼロが短い脚を動かして二階から降りて来た。
それを見ていた茶々丸が、何かに気付いた様にポンと手を打った。
「そう言えば、姉さんが動いているのは何故でしょうか?」
「イヤ、遅ェヨ」
自分もつい先程気付いたばかりだというのに、チャチャゼロは容赦なく突っ込みを入れた。
そんな従者達のじゃれ合いを余所に、エヴァンジェリンは考え込んでいた。
(何故だ?チャチャゼロと言い、先程の夢と言い、訳の判らん事ばかりだ。そもそも、あの夜の結末からしておかしいんだ、既に)
難しい顔をするエヴァンジェリンに、茶々丸が躊躇いがちに進言する。
「あの、マスター。姉さんが動いているという事は、単純にマスターの魔力が回復されているからであって、それが学園結界の停止でない以上、マスターの体を縛っていた呪いが消えたと考えるべきでは?」
「!な、成程……。いや、しかし……」
「ジレッテーナ。ナラ、魔法ガ使エルカ確メテミレバイイダロ?」
「む……」
いまだにうじうじと悩む主に、チャチャゼロがもっともな意見を言った。
吸血鬼の苦手な朝の時間。その時間に魔法の行使が可能となれば、最早疑う余地はないだろう。
その言葉に促されて、エヴァンジェリンは静かに魔法を唱える。
「氷爆(極少)!!」
極少に威力で放たれたエヴァンジェリンの魔法は、室内の物を巻き上げた挙げ句、部屋の温度をかなり下げた。
「寒い!」
「イヤ、外デヤレヨ。アホジャネェカ、ゴ主人?」
「ああ、お部屋がこんなに散らかって……」
齎された惨劇(?)に、マグダウェル家の面々はてんやわんやした。
それらが落ち着いた後、エヴァンジェリンはも一つの理由を経てやっと自身の体が既に呪いから解き放たれている事を悟った。
その理由とは、時間である。
時刻は既に授業が当に始まっている事を示している。だが、エヴァンジェリンの体には何の異常もない。
魔法が使えて、登校を強要される兆候もない。
「しかし、何故……?」
呪いが解けた事は喜ばしいが、その原因がわからねば安心はできない。いつまた、唐突に呪いが発動するやもしれないのだから。
「所デゴ主人。ソリャ何ダ?」
チャチャゼロがエヴァンジェリンの持っている物を指して聞いて来た。
「む、これは……」
その言葉に、自分が無意識に何かを持っていた事に気付いたエヴァンジェリンが、それを検めて眉を顰めた。
自分の夢の中に現れた仮面。そして何故か枕元にもあった仮面。
「『バロンの仮面』、だったか」
エヴァンジェリンはそれを見つめながら、この仮面が言っていた言葉を思い出した。
『あらゆる災害を防ぎ、呪いを解く力を持っていると言われている』。
「まさか、この仮面が、いや、長谷川が……?」
昨夜、千雨は自分に何と言っただろうか。
そう、あの仮面の娘は、自分を救うと言ったのだ。
「まさか、あんな小娘にサウザンドマスターの呪いを解く程の力が……?」
その時、悩むエヴァンジェリンの耳に、けたたましく鳴る電話の音が響いた。
「出る必要はないぞ、茶々丸。どうせ爺辺りが昨日の事で電話でもして来たのだろう。放っておけ」
「はい」
茶々丸は電話に向かおうとした足を止めて、主の言葉に従った。
電話の音はまだ止まない。
初めは無視しようとしていたエヴァンジェリンだが、一向に鳴り止まない電話に、とうとう我慢が出来なくなったのか、自分の足で電話に向かい乱暴に受話器を取った。
「やかましいぞ、爺!私は今忙しいんだ、電話なら後で」
『あの、マクダウェルさんのお家でしょうか?』
心臓が、跳ね上がった。
言葉が、喉に詰まった。
電話の主が誰か、エヴァンジェリンにはすぐにわかった。だが、それは同時にあり得ない筈の相手だった。
なぜなら彼女は、自分の事を忘れて――。
『あのー、もしもし?エヴァンジェリンさんは御在宅でしょうか?』
硬直していたエヴァンジェリンは、電話の声に我に帰ると、慌てて返事を返した。
「ひゃ、ひゃい!わわ、私、私がエヴァンジェリンですがっ!?」
噛みまくったその返事に、電話の向こうの相手は楽しそうに笑った。
『おおー、やっぱりエヴァかー。何か全然声が変わってないねー』
「そ、そっちも、ね!」
『んー、そうかなー?自分では何か昔に比べておばさんっぽい声になってる気がするんだけどなぁ。あ、今更だけど、私が誰かわかる?』
「わ、わかるよ!絶対に、忘れないもの!」
それは「あの子」の、自分の「親友」の声だった。片時も忘れた事のない、大好きだった声。
「あ、あの、今日は、どうして?」
エヴァンジェリンの問いに、電話の向こうの「親友」は笑いながら言う。
『いや、今朝ね、何か急にエヴァの夢を見たんだよ。不思議なんだけどさぁ、それまで全然思い出さなかったのに。あ、これも何か失礼だよねぇ。でもどうして思い出さなかったんだろ?あんなに仲良かったのに』
「親友」は、確かにエヴァンジェリンの事を覚えているようだった。
(呪いが、解けたから?)
エヴァンジェリンは茫然とそう思った。呪いの精霊によって改竄されていた記憶が、それが消滅した事によって解き放たれたのならば、「あの子」が自分を覚えている理由にはなる。
『それで懐かしくなっちゃってねー。それにしても、高校に上がってからなんで疎遠になっちゃったんだろうね?何処のクラスにいるとかの噂も聞かなかったし』
むーん、と向こうで「あの子」が考え込む姿が浮かぶ。
呪いの精霊の消滅に伴う記憶の復活は、それによって齎されるエヴァンジェリンの不在を疎遠になったからという理由で本人に無理矢理納得させているようだった。
『ま、いいか!エヴァも私の事覚えてくれてたし、またここから仲良くなればいいんだから!』
「仲、良く……」
『そう!あ、もしかして、いや、だったとか?』
「!そんな事、ない!ないから!!」
エヴァンジェリンは慌ててそう言った。
また、始められる。あの輝かしい日々を。15年もの月日が経っていても、「親友」は記憶を蘇らせた途端、自分に声を掛けてくれるほど、思ってくれていたのだから。
「あ、あれ?」
その時、エヴァンジェリンは自分の頬に流れる液体に気付いた。温かなそれは、拭っても拭ってもこぼれ出てくる。
涙だった。
それを自覚した途端、エヴァンジェリンは声をしゃくって泣き始めた。
「う、ふぅぅ、ううう、うえぇぇん……」
『ちょ!?ど、どうしたの、エヴァ!?』
向こうで「親友」が慌てた声を出す。
「ご、ごめんね……。何か、懐かしくて、貴女が私を覚えててくれた事が、嬉しくて……」
『もー、相変わらず泣き虫だねぇ、この子は』
「うん……。そうだ、ね。変わらず、私は泣き虫だ……」
『まぁ、そこがエヴァの可愛い所なんだけど。あ、もう可愛いって感じじゃなくなってるかな?きっと、すっごい美人になってるだろうねぇ、エヴァは』
「そうだよ。私、凄い美人になってるんだから」
『ほほう、それはちょっと見てみたいなぁ。あ、良かったら今度会おうよ!久しぶりに。いやいや、二人だけで会うのはもったいないな。3-Aの皆も集めるだけ集めて、いっその事同窓会にしようか?』
「いいね。会いたいなぁ、皆に。大人になった、皆に!」
『よーし、話は決まった!早速皆に声を掛けよう!あ、そう言えば、この間道でばったりね……』
「うん、うん……」
電話の向こうで、「親友」が楽しそうに喋っている。
もう取り戻せないと思っていたあの頃が、そこにあった。
電話の声に耳を傾けながら、エヴァンジェリンは泣いていた。ただ、その口元には、優しい笑みがずっと浮かべられている。
未だに手にしたままの『バロンの仮面』が笑う様にからりと鳴った。
やっと光を取り戻した、一人の少女を祝福するかのように。
※
エヴァンジェリンの家から少し離れた所に、千雨は立っていた。
その全身はとりあえず治療がされているが、自分でやったためか、随分とおざなりだ。
「『バロン』は、悪の象徴である『ランダ』と永劫に対立を続ける、光の象徴でもある」
千雨は、エヴァンジェリンの家を静かに見つめながら、言う。
「闇の中にありながら、それでも自分の中にある光を見失わなかった。エヴァンジェリン、その仮面が、お前に相応しい「面《かお》」だ」
そう告げると、千雨はボロボロのコート翻してその場から立ち去る。
いつか、自分にもあの吸血鬼の姫の様な光が見つかるのだろうかと、そう思いながら。
【あとがき】
「桜通りの吸血鬼」編は、取り敢えず本筋が終了です。
次は、今回の話しにおけるエピローグ的なものになる予定です。
それでは、また次回。