あの日、あの時、あの場所で。
渡せなかった物がある。
ある種の未練の様に持っているこれを、今更君に渡した所で、鼻で笑われるだけだろうか。
それとも――。
※
その日。
麻帆良学園のある会議室は、昨日起こった一つの事柄によって紛糾していた。
『闇の福音』、復活――。
「信じられん。まさかサウザンドマスターの封印が破られるとは」
「恐るべきは『闇の福音』と言う事だな。まさか魔力が完全に封じられた状況で……」
「外部からの協力があったのでは?」
「現在に至るまで『闇の福音』が外の誰かと会っている様子はありません」
「英雄の息子が関わっているという話も聞くが?」
「その真偽については不明ですが……」
「まさか、ありえんよ。偉大な父が封じた吸血鬼を、息子である彼が何故解き放つ必要がある。馬鹿馬鹿しい」
「大停電の際に一時的に結界が無効化する隙を狙ったのだろうが、余程前から計画せねば実行に移せんぞ、これは」
「失態だな。事前に察知する事はできなかったのかね?」
「今は誰の責任かを論じている場合ではないでしょう!復活した『闇の福音』にどう対処すべきか話し合うべきです!」
「そんな物論じる必要もない!打ち倒し再び封印、いや、今度こそ完全に消滅させるべきだ!」
「それができるとでも?かの真祖はあの英雄ですら封印する事がやっとだった相手なのですよ?」
「それは……。学園の魔法使いを総動員すれば」
「我々全員でサウザンドマスターに勝てると思いますか?あの吸血鬼を相手にするという事は、それに等しいのですよ?」
「ではどうすればいいのかね!?」
「その方法を話し合おうとしているのでしょう!」
喧々囂々と、毒にも薬にもならない会議は踊る。
それを聞きながら、近右衛門は深いため息を吐いた。
エヴァンジェリンの名誉を考えて、真実をほとんど公表しなかった自分も悪いのだが、彼ら魔法先生の話している事は無茶苦茶である。
故に、これ以上話し合いを続けても無駄と感じた近右衛門はパン、と一つ柏手を打って、皆の注目を集めた。
「皆の言う通り、この件は慎重に慎重を重ねねばならぬ案件じゃ。ここは、儂に任せて貰えんかの?」
その言葉を聞いた魔法先生達は驚きに目を剥く。
「学園長自ら!?」
「いや、確かに学園長は、あの吸血鬼を除けばこの麻帆良で最も強い魔法使い。今回の事をお任せするには一番かも……」
「ですが危険です!もし万が一何かあったら……!」
肯定と否定をないまぜにした声が飛び交う中、近右衛門それらを手で制した。
「まぁ落ちつけ、皆の集。これでもエヴァンジェリンとはそれなりに長い付き合いじゃ。いきなり如何こうされる事もあるまいて」
「しかし!」
「とにかく!この件は儂が受け持つ。良いな?」
近右衛門はギラリとその場にいる全員を睨みつける。年に似合わぬその眼力に、魔法先生達は押し黙った。
(さて、これで余計なちょっかいを掛ける者もおるまいて。まずは、あの子と接触せねば、な)
近右衛門は脳裏に、能面の如き面持ちの、一人の少女を思い浮かべていた。
※
千雨は、人気のない中庭のベンチで本を読んでいた。
今日の朝、怪我をおして登校した際に、のどかによって渡されたものだ。
その直前に、怪我をした千雨の姿を見たのどかは失神しかけていたが。
因みに、ネギや明日菜とは話をしていない。向こうは何か話そうとしていたようだが、その前に授業時間となり、結局有耶無耶になってしまったのだ。
(今頃、探しているかもしれないな)
頭の片隅でちらりとそう思う千雨だが、こちらから顔を見せに行くつもりはない。根掘り葉掘り聞かれるのは、避けたい所だったのである。
そんな訳で、無心に本を読み進めていた千雨は、ふと人の気配を感じて頭を上げた。
「隣、良いかの?」
そこには、長い後頭部を持つ人外めいた外見の学園長、近衛近右衛門が立っていた。
「構いませんが」
千雨は突如現れた学園長に驚きもせず、そう言った。
「では、失礼して」
近右衛門はそう言って、千雨の隣に座った。
しばし、無言の時間が続き、千雨が本をめくる音だけが響いた。
「昨夜は御苦労じゃったが、傷は大丈夫かの?」
唐突に近右衛門が言う。千雨の怪我を指しての事らしい。
その言葉を聞いた千雨の目が僅かに細まる。
「昨夜の事、どこまでご存知で?」
「エヴァンジェリンを倒し、その呪いを解いたのが君だという事ぐらいじゃの。……安心せい。エヴァンジェリンの復活はともかく、君の事を知る者は儂以外にはおらんよ。儂にも生徒のプライバシーを守るぐらいの良識はある」
「そうですか」
答える千雨の声は平坦。千雨にしてみれば、別にばれてもどうでもいいのである。
「さて、話は戻るが、その傷の具合はどうじゃ?痛むかの?」
「多少は」
痛みを全く感じさせない声色ながら、千雨はそう答えた。
「そうかそうか。では、ちょっとこちらを向きなさい」
千雨がその言葉に従うと、近右衛門はこちらに手を翳し、小さく呪文を唱えた。
「『治癒《クーラ》』」
すると、翳した掌から何か温かい物が広がり、千雨の体を包んだ。同時に、全身の痛みが引いていく。
数秒後、千雨が自分の体を確かめると、昨夜受けた傷は全て治っていた。
「便利ですね」
「何、大した事ではないよ」
全治にして一月二月はかかろうかと言う怪我を数秒で癒した老魔法使いは、そう言って鬚を扱いた。
「この程度では、礼にもならんからのぅ」
「礼?」
千雨は、学園長に恩を売った覚えはないので、首を傾げた。
そんな千雨に、近右衛門は真正面から向き合い、深々と頭を下げた。
「ありがとう。あ奴を、エヴァンジェリンを救ってくれて」
その言葉を聞いた千雨は、しばらくの無言の後、
「貴方は、エヴァンジェリンを虐げていたのでは?」
「そう思われても仕方ないがのぅ……」
近右衛門はため息を吐いた。
「エヴァンジェリンと初めて会うた時は、心臓が飛び出るかと思ったわい。ナギ――ネギくんの父親なのじゃが、こ奴に腕の立つ魔法使いを紹介して貰おうとしたんじゃ」
そこまで言った時、近右衛門は懐からお茶の缶を取り出して、「飲むかね?」と差し出してきた。千雨は、それを素直に受け取る。
「君は知らんだろうが、この麻帆良は世界樹を中心に、この国でも霊的に重要な場所での。それ以外にも図書館島には、今では見る事の出来ない希少な魔導書などが幾つも眠っておる。故に、それらの力や知識を狙って侵入を試みる不心得者共が後を絶たん」
近右衛門は喉を潤す為にお茶を一口飲む。
「じゃから、腕の立つ魔法使いはいくらでも欲しいのじゃよ。あの馬鹿は本当に馬鹿なのじゃが、一応は英雄と呼ばれる程の男。その眼鏡に適う者なら申し分無しと思っとったんじゃが」
近右衛門はその時の事を思い出しでもしたのか、頭痛がするかのような仕草を見せた。
「よりにもよってあ奴が連れて来たのは、魔法世界でも伝説と呼ばれる程の大魔法使いにして真祖の吸血鬼、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルじゃった」
千雨はどんよりとした空気を醸し出した近右衛門を特に気にした様子も無く、黙って話を聞いている。
「実力という点では申し分が無さ過ぎなのじゃが、幾らなんでもまずいじゃろ、と言うと、ナギはエヴァンジェリンを学校に通わせろと言ってきおった」
近右衛門が手にしたお茶の缶がめきりと嫌な音を立てた。
「警備員として連れて来たのではないのかと聞くと、「なんだっけ、それ?」とぬかしよる。思わず立場を忘れてぶん殴りそうになったわ。そして改めて、この男がどうしようもない程の馬鹿である事を実感したのじゃよ……」
近右衛門は遠い目をして言う。
「まぁ、そんなこんなで、エヴァンジェリンを学校に通わせる事になったのじゃが、初めはハラハラしっぱなしじゃった。いつあ奴が生徒達を傷つけるか判ったもんじゃないから、とな」
そこで近右衛門は大きくため息を吐いた。話し過ぎて、少し疲れたらしい。
少し休息した後、近右衛門は再び語り始めた。
「……じゃが、それも杞憂じゃった。魔力を封印され、人としての生活を余儀なくされたあ奴じゃが、思いの外早く、学校生活になじんで行きおった。善き友人にも恵まれ、毎日が楽しそうでの。そこだけ見れば、あの少女が『闇の福音』であると誰も信じられんかったじゃろう」
楽しそうに当時の思い出を語っていた近右衛門だが、不意に言葉を詰まらせた。
「……しかし、それもあ奴が最初の卒業式を迎えるまでの話じゃった。発動した呪いのバグのせいで、あ奴は延々と中学生活をループし続けなければならぬ身となった。友との絆も失って、な」
「バグ、ですか?」
千雨はその言葉を問い直す。
「あの呪いは、中学生活の三年間を永遠に登校させるものだったのでは?」
千雨の言葉を、近右衛門は首を横に振って否定した。
「それは違う。『登校地獄』は無理矢理相手を学校に通わせるという、登校拒否児童のために作られた変な呪いなのじゃが、一つの学業期間を延々と続けさせるような物ではない。考えても見るのじゃ。学業と言うのは何も中学生の期間だけを指す物ではない。高校に、大学。院生になろう物ならば、もっと学校に通う事も出来るじゃろ?それに、学業を終えれば、呪いは自然に解ける筈なのじゃよ」
通わせる意味がないからの、と近右衛門は言う。
その言葉に、千雨は小さく頷いた。確かに、登校期間を中学だけの間と区切るのは変な話である。
「何故そのような事になったのかはわからん。使い所も全くない魔法じゃった上に、アンチョコなんぞ見ながら唱えたから、どこかで間違っておったのかもしれん」
近右衛門は、握りしめ過ぎて変形したお茶の缶(スチール製)を手で弄びながら続ける。
「その時のエヴァンジェリンの顔は、今でも忘れられん。言葉では言い尽くせぬ程、悲想に満ちた顔をしておった。儂は、すぐに呪いを解いてやろうとしたのじゃが、英雄の馬鹿魔力によって括られた呪いは、儂如きでは歯が立たんかった。……学園最強等と言われても、所詮はその程度でしかなかったのじゃ、儂は。生徒一人、救う事も出来んかった」
近右衛門は力なく肩を落とした。当時の事は、今になって振り返っても後悔ばかりが押し寄せてくる。
「次に儂は、他の魔法使い、とりわけ解呪に長けた者達に声を掛けた。エヴァンジェリンを解放してやって欲しいとな。そうしたら、そ奴らは揃ってこう言いおった」
『何故、英雄が封じた悪の魔法使いを解放しなければならないのか』。
「……阿呆共め。ナギはそんなつもりでエヴァンジェリンを麻帆良に置いたのではないわ。馬鹿じゃが、同時にお節介焼きのあ奴の事、付いて回るエヴァンジェリンに情でも湧いたのじゃろう。何とか、悪の道から足を洗わせてやりたかったんじゃろうて。尤も、結果は最悪じゃったが」
近右衛門は天を仰いだ。
「何も出来ぬまま、時は再び繰り返し、その度にあ奴からは笑顔が消えて行った。あの頃浮かべていた楽しげな笑みは、もう二度と見られんようになったのじゃ。それでも何とかしようとしたが、重ねる日々は数多の問題を儂等に提起し続ける。それに四苦八苦している内に、エヴァンジェリンの事は、後回しになってしもうた」
だからこそ、気付かなかったのだろう。
エヴァンジェリンが、己の不文律である「女子供は襲わない」と言う事を破ってまで、呪いを解こうとしていた事に。
「……結果だけ見れば、エヴァンジェリンにとって最良のものとなった。かつての絆を取り戻し、再び光を見出す事が出来たのじゃから。じゃが、それで儂らの罪が消えた訳ではない。あ奴に、10年以上もの間無為な時間を過ごさせ、苦しませてしまった罪はの」
近右衛門はぽつりと呟く。
「儂の人生は、後悔ばかりじゃ……」
その言葉に何が込められているのか、知る事が出来るのは近右衛門だけである。しかし、千雨は目の前の老いた魔法使いが、酷く悔いている事だけは判った。
「……おお!礼を言いに来たのに、すっかり愚痴ってしまったの。すまぬな」
「いえ」
詫びる近右衛門に、千雨はやんわりと言った。
「迷惑ついでに、一つ頼まれごとをして欲しいんじゃが、良いかの?」
「内容によりますが」
千雨の言葉に、近右衛門は笑いながら懐から一本の黒い筒を取り出した。
「何、大した事ではない。これを、エヴァンジェリンに渡してやって欲しいのじゃよ」
「これは?」
「10数年前の、忘れ物じゃよ」
「直接手渡せばよいのでは?」
近右衛門はその言葉に弱弱しく頭を振った。
「今の儂では、エヴァンジェリンに合わす顔がない。まぁ、こんな物を今更渡されても、あ奴は鼻で笑うだけかもしれんがの……」
近右衛門はそう言うと、重い腰を上げて立ち上がった。
「それでは、よろしく頼むぞい」
そう言って去ろうとした背中に、千雨の声が飛ぶ。
「魔力を取り戻したエヴァンジェリンが、ここに害をなすとは考えないのですか?」
その言葉を近右衛門は、
「儂はそうは思わんよ」
即座に否定した。
「エヴァンジェリンは、友との思い出が残るこの地や、無関係な一般人に手を出す様な無体はせんよ。もし仮にそういう事態になった場合、この老いぼれの首でも差し出して、勘弁して貰うわい」
エヴァンジェリンが暴れ出した場合、全ての責任は自分が取ると、近右衛門はそう言った。
「……信じて、いるのですね」
「何、あ奴は捻くれておるが、その性根は基本的にいい奴じゃからの」
それは、お主も知っておるじゃろ?と、近右衛門は片目を瞑っておどける様に言った。
※
「何?ナギが生きているだと?」
学園内にあるオープンカフェで偶然出会ったネギ達とエヴァンジェリン主従は、成り行きで同じテーブルについていた。
そこで飛び出したネギの言葉に、エヴァンジェリンは驚きの声を上げた。
「は、はい。僕、6年前に会って、その時にこの杖を貰ったんです」
ネギはそう言って、己の杖を掲げた。
「そうか……。生きて、いるのか……」
エヴァンジェリンのその様子に、明日菜は首を傾げる。
「何か反応が薄いわねぇ。エヴァちゃんって、ネギのお父さんの事、好きだったんじゃないの?」
「ぶふぅっ!?」
いきなりの発言に、エヴァンジェリンは口に含んでいたコーヒーを吹き出した。少し噎せた後、エヴァンジェリンは鋭い視線をネギに向ける。
「き・さ・ま~!やはりあの時私の夢を~!」
ごうっ、とその体から魔力が溢れだす。それに当てられたネギが顔面蒼白で謝った。
「い、いえ、あの……、す、す、すいませーん!!」
「ちょ、ちょっと待った!」
その時、ネギの肩にいたカモが慌てて声を出す。
「え、エヴァンジェリンさんよ、あんた、呪いと学園結界のせいで魔力が封印されてたんじゃねーのかい!?」
それを指摘されたエヴァンジェリンは、さもありなん、と言った様子で答えた。
「ああ、その事か。結界はともかく、サウザンドマスターが掛けた呪いなら、もう解けている。だから、こうして多少は魔力を扱う事が出来るようになったのだ」
「「「ええええええぇっ!!」」」
ネギと明日菜とカモが揃って叫んだ。
「い、一体どうやって!?僕、血を吸われてないですよね!?」
「知らん。知りたくば、あいつに聞け。答えてくれるかどうかは保証せんが」
「そ、それって、千雨ちゃんの事?」
明日菜が恐る恐る尋ねた。
「あっ、そうだ!昨日の夜、千雨さんが僕達を助けてくれたって明日菜さんから聞きましたけど、あれからどうなったんですか!?」
ネギの言葉に、エヴァンジェリンは嫌そうな顔をした。
「……結論から言うと、私は千雨に負けた。それから呪いを解いて貰った。それだけだ」
「いや、何でそうなったのか、さっぱりわかんねーんだが」
「うるさいぞ、小動物。私だってわからんのだ」
エヴァンジェリンはむっつりとした不機嫌顔になった。
「っていうか、あの無表情な姐さん、エヴァンジェリンに勝ったのかよ!?」
「す、凄い……!」
自分が手も足も出なかったエヴァンジェリンに勝利した千雨に、ネギは素直に驚いた。
「ホント、凄いわよね……」
だが、明日菜だけは、何故かしょんぼりとしながらそう言った。
その様子を見ていたエヴァが、明日菜に口を開く。
「神楽坂明日菜。自分の無力を嘆くなら、次はそうならない様に努力すればいい。後、千雨の力を羨ましがるのは、やめておけ」
「ど、どうして?」
明日菜は自分の心の内をずばりと指摘され、驚きながらエヴァ尋ねる。
「あいつの力は、魔法のそれとは全く違う異質なものだ。奴がどういう生い立ちかは知らんが、魔法も知らなかった所を察するに、恐らく一般人の家庭だろう。そんな人間が、あんな力を持つに至って喜ぶと思うか?」
「あ……」
「あいつが己の感情や表情を全く表に出そうとしないのも、恐らくその辺りが関係してくるんだろう。だから、あまり奴の力の事で聞いてやるなよ?きっとそれは、辛い記憶なのだろうから」
「……うん、わかった」
明日菜が神妙な顔で頷いたその時、エヴァがおや、と言う風に片眉を上げた。
「ふむ。噂をすれば影、か」
「え?」
その言葉の意味を問うとしたネギ達の背後に、一人の人物が現れる。
「ここにいたか、エヴァンジェリン。それに、ネギ先生や神楽坂もいるのか」
「千雨ちゃん!?」
「千雨さん!?」
振り返ったネギと明日菜の目に、相変わらずの無貌で立つ、千雨の姿が映った。
「あ、あの、千雨ちゃん!」
明日菜が少し上ずった声を出した。
「えと、その、き、昨日は助けてくれてありがとう!」
「別に礼はいい。私は私なりの理由で、エヴァンジェリンと戦ったからな」
「で、でも、私すぐに助けに戻るとか言ったのに、結局何もできなかったし……」
肩を落とす明日菜に、千雨は淡々と告げる。
「昨日のあの状況で戻って来られても、私が困っていただけだ。それに、お前が昨日あそこにいた理由は、ネギ先生を助ける為だったのだろう?なら、その目的は達成されたのだから、それでいい筈だ」
「でも……」
それでもまだ、もごもごと口の中で何か言葉を転がす明日菜に、千雨は小さく嘆息した。
「……それでも尚気になるというなら、コーヒーの一杯でも奢ってくれればそれでいい」
「え、でも、そんなのでいいの?」
「ああ」
明日菜は、まだ納得いかない様子だったが、取り敢えずは千雨のためにコーヒーを注文しに行った。
「お優しい事で」
エヴァンジェリンがにやりと笑った。
「借りを作るためにやった訳じゃないから、な」
千雨が静かに答えた。
すると、今度はネギが千雨に話しかけて来た。
「ち、千雨さん」
「何でしょうか」
「ぼ、僕、昨日エヴァンジェリンさんに負けてから意識が無くて、千雨さんが来てくれた事も知らなくて、ええと、その、あの」
「……お礼を言うつもりなら、神楽坂にも言いましたが結構ですよ」
「あぅ……」
先手を取られたネギは小さく呻いて黙り込んだ。しかし、すぐに絞り出すようにぽつりと、
「僕は、駄目な先生です……」
そう呟いた。
「度々授業を放棄する点については、正にその通りかと思いますが」
一切の慰めのない千雨の言葉に、ネギは益々縮こまった。その瞳には、うっすら涙が滲んでいる。
「ぅぅぅ、ごめんなさい……」
「……ですが、反省をきちんと次の成果に繋げようとするのは、美徳だと思います」
「え……」
顔を上げたネギの顔を真っ正面から見据えて、千雨は言う。
「先生は子供です。今現在の社会的立場がどうあっても、それは変わりません。だから、もう少し他の人に頼ってもいいのではないかと思います」
「で、でも、迷惑になるんじゃ……」
「自分の力が及ばないにも拘らず、一人でやって失敗される方が後々迷惑でしょう。これは大人でもやっている事です。だから、先生も気にしないで誰かを頼って下さい。そうしている内に、自分の力だけでできる事を増やしていけば、自分を駄目だなんて卑下する事も少なくなると思います。幸い、ここには先生が好きな人達が多いから、喜んで助けてくれるでしょう」
理路整然と言う千雨の言葉に、ネギは何度も頷いた。
「……あ、ありがとうございます!」
頭を下げるネギだが、千雨は最後にもう一つだけ釘を刺す。
「後、もう少し思慮深くなる事です」
「ま、ごもっともだな。少なくとも、公衆の面前で女の服を脱がしたり、平気で魔法を使ったりしないぐらいは考えて欲しい物だな。せ・ん・せ・い?」
エヴァンジェリンの追撃も加わったこの言葉に、ネギは再び轟沈する。
「ただいまーって、どうしたの、ネギ?何か、凄い暗いけど」
千雨のコーヒーを持って来た明日菜が、暗く沈んだネギの様子に首を傾げた。
「放っておけ、自己批判の真っ最中だ。そう言えば千雨よ、何か私に用があったのではないか?」
「そうだった」
千雨が、肩から提げていた小さなカバンから、近右衛門から預かった黒い筒を取り出した。
「学園長から預かって来た。お前に渡して欲しいと」
「爺が?何だ?」
エヴァンジェリンの眉間に皺が寄る。
エヴァンジェリンにとって近右衛門は堅物ばかりの学園の魔法使い達の親玉であると同時に、ここ麻帆良において最も古い付き合いのある人物でもあり、その胸中は中々複雑である。
エヴァンジェリンはその筒を手に取ると、矯めつ眇めつ眺めた。すると、筒の一方が蓋になっている事に気付いた。エヴァンジェリンがそれを引っ張ると、ポン、と小気味よい音と共に蓋が取れた。
中を覗き込んだエヴァンジェリンは、そこに一枚の紙が入っているのを見つけた。
「あの爺、昨日の今日で何を寄こしおったんだ?まぁ、どうせ碌な物では――」
紙を取り出しぶつくさ言いながらそれを広げたエヴァンジェリンは、その内容を見て目を丸くした。
しばらく茫然としていたエヴァンジェリンにしびれを切らしたのか、ネギがエヴァンジェリンに恐る恐る声を掛けた。
「あ、あのー、エヴァンジェリンさん?」
「くっ、くははっ」
途端、エヴァは顔を伏せ忍び笑いを始めた。何事かと思うネギ達の前で、エヴァはついに堪え切れなくなった様に大笑いを始めた。
「あっはははははは!あははははははっ!」
それは何とも愉快そうで、快活な笑い声であった。
「小僧め!」
エヴァンジェリンは、見た目だけならば自分の何十倍とある学園長を指してそう呼んだ。
「ふふん、私に気を使おう等と、百年は早い」
エヴァンジェリンは目じりに浮かんだ涙を拭いながらそう言った。
首を傾げるネギ達だったが、只一人、千雨だけは何となく理解した。
エヴァンジェリンの中に在った、学園長に対する蟠りの様な物が、少し解れた事を。
エヴァンジェリンはその紙を丁寧に筒状に丸めると、筒の中に戻し、再び蓋をし、背後に控えていた茶々丸に渡した。
「持っていてくれ、茶々丸。大事な物だ」
「はい、マスター」
茶々丸はそれを丁寧に受け取る。
「エヴァンジェリン、これからお前はどうするつもりだ?」
千雨が唐突にエヴァンジェリンに尋ねた。
「どうする、とは?」
「お前を縛る呪いはもう無い。どこにでも行ける。なんだってできる。ここから出て行く事も。――ここをどうにかする事も」
千雨の言葉に顔を青ざめさせたのは、ネギ達である。
エヴァンジェリンの本来の実力の一端は、昨夜垣間見たばかりである。そんな彼女が本気で暴れたら、誰にも止められないのでは、とネギ達が思っていると、
「生憎だが、ここから出て行く気も、ここをどうにかする気も無い」
エヴァンジェリンはあっさりそう答えた。
「意外だな。麻帆良に手を出さない事はともかく、出て行かない事を選択するとは」
昨夜のエヴァンジェリンの慟哭混じりの言葉を聞いていた千雨が言う。
「少し状況に変化があってな。中学を卒業し、高校を卒業し、大学を出て。その間にやりたい事を見つけて、それを目指さねばならんのだ。立ち止まっていたり、余計な事にかかずらっている暇などない」
エヴァンジェリンは己の為すべき事をはっきり口にした。
「そうでなければ、同じ道を辿って未来に行ったあの子達に追いつく事など、到底できんからな」
その決意は、その場にいる者にとっては意味がわからない物であったが、それがとても大事な物である事は、語るエヴァンジェリンの様子から伝わって来た。
「あ、あの、それじゃあ、もう父さんの事はいいんですか?」
ネギがエヴァンジェリンの言葉を受けて尋ねる。
「ナギ、か。そうだな、少しだけ余裕ができたら、探してみるのもいいかもしれん。探し出して、呪いを解かなかった事を一発ぶん殴って、それからあの子たちに出会わせてくれた事に礼を言って、それから――」
――10数年越しの恋にケリをつけるのも、それはそれで悪くない。
エヴァンジェリンはそう言って、誰もが思わず見惚れる程の、美しい微笑みを浮かべた。
※
「茶々丸!置いて行くぞ!」
「すみません、マスター」
茶々丸は以前と違い、生き生きと学校に通うようになった主を追って、玄関に向かう。と、その直前で、茶々丸はリビングを振り返って、そこに残って紅茶を啜っていた己が姉に声を掛ける。
「それでは姉さん、行って参ります。お留守番をよろしくお願いしますね」
「アイヨ、行ッテラッシャイ」
チャチャゼロは小さな手をひらひらと振って妹を送り出した。
「サテ、マスタート妹ガ帰ッテ来ルマデニ、掃除ヲ済マセチマワネェトナ」
紅茶を呑み終えたチャチャゼロは、普段手にしている大ぶりのナイフをはたきに換え、家の中をちょこちょこと歩き始めた。
そんなマグダウェル邸の二階。エヴァンジェリンの私室には、ここ数日で物が少し増えた。
一つは、壁に掛けられた、ぎょろりとした目に鋭い牙と言う恐ろしい容貌ながら、どこか優しい物を感じる赤い仮面。
一つは、同じく壁に掛けられた立派な額縁。中には、少し古い感じのする一枚の書状――卒業証書が収められている。日付は何故か、今から12年前の1990年になっている。
そして最後の一つ。それはエヴァンジェリンの枕元にあるサイドチェストの上。そこに新たに置かれたフォトスタンドである。
その中には、妙齢の女性達が数十人映った、一枚の写真が入っている。
皆が皆、楽しそうな笑みを浮かべる中でも、特に中央に映る二人。
長い金色の髪に青い瞳を持った、エヴァンジェリンの面影を強く残す女性と、その女性の腕に抱きついて、カメラに向かってピースサインを送る一人の女性は、一際嬉しそうで、楽しそうな笑みを浮かべている。
それは、見る者の誰もが、思わず微笑んでしまう様な、そんな温かな光景を切り取った写真だった。
【あとがき】
【桜通りの吸血鬼】編、完!でございます。
良く見る二次創作のネギま内では、学園長がひたすらアンチされているので、敢えて優しくて、ちょっと粋な学園長を目指して書いてみました。
因みに、エヴァンジェリンは件の旧3-Aの同窓会には、幻術を使って大人の姿で行きました。まぁ、子供の姿のままで、何も知らない親友たちに会いに行く訳にも行きませんし。
でも、いつか自分の体の事を打ち明けて、受け入れられているエヴァンジェリンがいたりするのを、密かに妄想したりします。
次回からは新章、【京都修学旅行】編。
いつもの方々に加えて、『おもかげ幻舞』からはあの人がついに参戦します。勿論、敵役ですが。
それでは、また次回。
そろそろ話のストックが無くなってまいりました。次回からは、申し訳ないのですが、ストックが尽きるまで一日一話のペースになります。