硬めの靴底が砂を噛んだ。
長谷川千雨の肩が跳ね上がり、刹那遅れて痛みを覚えるほどに勢いよく首が回転、視線が桜並木を疾走する。
音の発生源はすぐ側からだ。距離にして数メートルと離れていないはず。
焦点を合わせるまでもなかった。通りに人影はない。だから間髪入れずにベンチ、木陰、ガードレール、煉瓦を積み上げて出来た膝ぐらいの囲い、と持ちうる最高の速度で眼球を動かすが――
(いない!? どこに行ったんだよ?)
聞き間違い、と脳裡に居座る。だが、それはない、と押しのけた。
幻聴ではない。確かに聞いている。なら結果が付いてこないというのはどういうことだろう。音の大きさからも距離は離れていないはずだ。
(やっぱり気のせい……か?)
緊張に張り詰めた糸が緩むように表情の引きつりが収まった。
「だよな。聞き間違いだよな」
無理矢理にでも納得させるように声が漏れる。気持ちを切り替えようと頭を振りつつ、力なく座り込む少女に向き直った途端、ゴクリと生々しく喉が鳴った。
(な、なんだよ。なんでドキドキしてんだ)
慌てて目線をずらす。心臓の様子がどうもおかしい。手も大量に汗をかき出している。落ち着かない。視線もそわそわし出すし、足が動かない。
(そ、そうか!? そうだよな。確かに聞いたもんな。聞き間違いなんかじゃないよな。このまま放置したらマズイよな。でも見てもいなかったし……待てよ。つうことはだ。見当違いの方角を探し回っていたってことじゃないのか? 危険をどうにかしらせようとだから身体の調子がなんかおかしい? だよな)
だったら何者かは……
(――うしろ?)
背中がぞぞっと粟立つ。不快感を振り払うように全身を大きく使って後ろを向くが、視界を遮る壁などなかった。街灯の光に浮かび上がるのは石畳とベンチ、あとは名称の桜並木だけで、その先に建つ寮が灯す明かりまで見通せる始末だ。
(こ、こっちでもないのか……、そうなるとやっぱり自動販売機の裏――――――ッ!?)
はぁああ、と千雨の口から盛大なため息が漏れた。息と一緒に膝まで折れそうになった。確かに間違えていた。方向ではない距離感を。
「クソ、絡繰かよ……もう少しだったのに」
立ち姿に苛立ちを憶える。緑色の長い髪に特徴的な耳当てをした絡繰茶々丸の頭部だけが闇に浮かんで見えた。黒を基調とした服装を着込んでいたため、桜通入り口に佇んでいても闇夜に紛れこんで見えなかったのだ。
(――って待てよ)
茶々丸は通りに足を踏み入れてもいない。こちらの様子を立ち止まって観察している。まるで近づくのを躊躇しているかのようだ。これまでの自分の行動を思い返してみれば、奇行に見えなくもない。だからためらっているのかもしれないのだが、
(と言うことはだ。絡繰はいま桜通に到着したってことだよな? すると何者かはまだこの付近にいるってことじゃないのか?)
茶々丸との距離は離れすぎている。いくら静寂に包まれているとは言え、常識的に考えて砂利を踏んだ程度の音は聞こえないはずだ。
(だからって私でもないぞ)
自動販売機に背を預け座り込む少女は――
一ミリたりとも動いているように見えない。こうなると自分達以外に音を立てた者がいると考えるのが妥当ではないだろうか。
「でも……あれ? 視線が……、やっぱり気にしすぎなのか」
納得がいかないまま首を捻る。人通りのない寒々しい夜の並木道。こんなところを一人で歩いていると怖さを感じない訳でもない。なによりいまは精神的にも疲れている。さらに座り込み頭を垂れる少女もいた。複数の要因が作用しあった結果、犯罪の可能性を視野に入れ、過剰に反応してもおかしくないだろう。
「ってそうだ。いつまでもこのまま放置してたらやばいんじゃ……」
千雨が茶々丸を呼ぼうと口を開く。しかし、唇がまごつき、上手く言葉が発せられない。
「だからなんだってんだよ」
茶々丸を呼ぶことを逡巡してしまう。手招きしようにも、手首を捕まれているかのように腕が上がらない。
視線が何度も名残惜しそうに少女に向けられ、とても歯痒くなる。意識を失い力なく座り込む彼女に引き付けられてしまう。
「こんばんは長谷川さん」
茶々丸の声で我に返った。いつ横に来ていたのか、その姿を視認すると思わず舌打ちを返しそうになった。なにかおかしなことがこの身に起きている。彼女の登場は喜ばしいことなのに、頭の中では真逆の感情が沸々と湧きだしていた。
本当にどうにかなりそうで、それを押し止めるように取って繕い千雨が声を絞り出す。
「……こんばんは」
「先ほどからどうしたのですか?」
「あ、ああ、その……」
口籠もって、思わず少女の方を見てしまう。
「そこになにかあるのですか?」
茶々丸の位置からは見えないのだろう。確認に向かおうと前を通り過ぎる。
だが、
「ああ!!」
と未練がましく千雨は声を上げてしまった。
「どうしました? 突然大きな声を上げて」
歩みを止めることは出来たが、表情の乏しい茶々丸がそれと分かるぐらいに不審げな顔を作っている。
「あ、いえ、そこに人が倒れているんですが……もしかしたらなにかの犯罪に巻き込まれた可能性がありそうなんです。それでその犯人が、そこの影にいるかもしれないので不用意に近づくのはどうかと……」
ゆっくりと腕を持ち上げる千雨、茶々丸がその指先を視線で追い掛ける。
「自動販売機ですか? 分かりました。私が確認してきます」
「え、でも」
「大丈夫です。卑劣な変質者程度には負けません」
茶々丸は恐怖心をかけらも感じていないのだろう、警戒などすることなく大胆に自動販売機の裏に回り込もうとする。
その後ろ姿に千雨ががっくりと肩を落とした。彼女は人間ではないロボット――ガイノイドだ。本人がそう言うのだから、誰かいたとしても簡単に負かす事ができるのだろう。それが堪らなく残念でならない。
「誰もいませんが本当に誰かいたんですか?」
聞こえてきた声に千雨は思わず、「チ、クソ」と悪態をついた。その瞬間、何かが弾けた。心の中に沸々と沸き立ち泡状で堪っていたものが一つになり、カッと脳髄が熱くなる。それに名を付けるとするなら怒りだろう。
「どうかされましたか?」
「い、いえ、そうですか、誰もいませんか……すみません手間を取らせて、気のせいだったようです」
心中に渦巻く思いをひた隠すように薄く頭を下げる。とたん、なぜ自分ですぐに確認しなかったのか、と後悔の念がどっと押し寄せてきた。チャンスはいくらでもあったはずだ。
(くそ、絡繰じゃあなあ)
本当に勿体ないことをした。今回は諦めた方がいい。千雨は気持ちを切り替えるように小さく頭を振り、
「大丈夫ですか?」
と少女の側で片膝を付いて肩を揺らす。
「――っと!!」
必要以上に力が入りすぎていたのか少女が横に倒れてしまう。千雨が慌てて手を伸ばす。なんとか転倒は免れたがその弾みで頭が大きく横に倒れた。顔が顕わになり興味に目が追い掛けようとするが、意志に反して行き着いた先は首筋だった。
細くて白い首。月明かりに輝いて見えた。
「……縊り甲斐が――えっ!? なんだこれ?」
首筋二カ所に穴が開いている。穴の直径はボールペンぐらい。我知らず千雨が自分の首に手を当てた。指が血潮を捉える。そこにあるのは頸動脈だ。すると少女の穴もそこに穿たれていることになる。しかし、そんな大きな穴が開いているにもかかわらず、血が一滴たりとも流れ出ていないが不思議でならない。
「どうなって……まるで吸血鬼みたいだな。まさか――――えっ!?」
突如として脳裡に浮かぶ死蝋のような肌をした長身の男。サングラス越しでも煌々と見える真っ赤な瞳。苛立ちを隠せない口許が……
「違う」
考えを否定して千雨が頭を小刻みに振った。
(あいつはこんなやり方はしない。そもそも……)
「なにが違うのですか?」
「へ? あ、ベイは……え、あ、いえ……」
千雨が怪訝な顔をする。つい今し方、口にしようとした言葉が思い出せない。なにかおかしい。意識すると妙に身体がうずきだし大声で叫びたくなる衝動に駆られた。なにかが喉までせり上がってきたので我慢するが、噛み締めた歯の隙間から漏れ出すように、ううん、と悩ましげな声を上げて身体を振るわせてしまう。
「長谷川さん?」
「あ、なんでもありません」
怪しむ茶々丸の視線を受け、取り繕う千雨が早口で言う。
「それよりもどうしたらいいんでしょう。生きてますけど呼び掛けても返事が」
「応急処置は私がしますので、長谷川さんは救急車の手配をお願いします」
「わかりました」
入れ替わるようにしてしゃがみ込んだ茶々丸の背を見下ろす。それは正しい行為のはずなのに彼女の存在がどうしても千雨は看過できなくなる。率直にって邪魔だ。彼女を見ていると苛立ちばかりが募ってくる。絶好のチャンスだったのに。邪魔者を排除しようにも継ぎ目の見える硬そうな首ではそそられない。
「長谷川さん? 大丈夫ですか? 先ほどからどうも様子がおかしいのですが」
手を止めて茶々丸がふり返ったので、千雨が強張る表情を緩めた。
「すみません、ボーッとして」
「そうですか、学校での事もありますし、体調が優れないのなら電話も私のほうで」
「大丈夫です。至って健康だと思います」
ただ……お前が邪魔なんだよ。と茶々丸に聞こえないよう口の中だけで呟き、千雨が背を向けた。表情から感情の色が消えている。それは茶々丸に勝るとも劣らない。
(もういいや、コイツうざいし。潰してもいいだろう? そうだ。そうすればこの鬱陶しい感覚からも解放される。我慢なんかする必要は無いんだよな。ああ、でも、こいつ人間じゃないから証拠が……、あ!? そうか記憶装置を処分したら問題ないのか)
そんな思考に交ざるように、
――茶々丸、やはりそいつはなにかおかしいぞ。
――はい、先ほどから危険な単語も口にしています。
――ああ、少々手荒になっても構わん。拘束しろ。
突然、聞こえてきた声。脳に直接刻むようなこれは幻聴などではない。千雨はこの感覚を知っていた。
(絡繰と……あとこいつはマクダウェルだな? ああ、視線はお前だったのか。なるほど……、つまりお前らが犯人ってことだ。ああ、それいいな。仕掛けやすいように隙を作ってやるよ。だから早く出てこいよ。絡繰(鉄)なんかじゃそそらねぇんだ)
千雨がボタンを押した振りをして電話を耳に当てる。人形なんてどうでもいいと思うと、すぐに頭の中から絡繰茶々丸の存在が消えた。
ゾゾッと鳥肌が立ち、背中を駆け上がってくる。
来た。
捕まってやってもよかったのだが、身体が無意識に反応する。
軽く膝を曲げ、地面を蹴った。背後で風切り音が聞こえた。空中にあったがふり返るように反転し様子を見る。いままでいた場所では茶々丸がつんのめるようにして、自分を見上げていた。無表情だが驚いているに違いない。
そして――
「なんだそんなところにいたのですか?」
着地と同時にもう一人に千雨が声を掛けた。気付かない訳だ。そんなところに登っているとはつゆほどにも思わなかった。捜索の際、除外するまでもなく候補にすら挙がらなかった。
三メートルほどの街灯の上、黒いマントに身をくるみ、魔女を連想させる三角帽子を被った金髪赤眼の少女が立っている。目が赤くなっているところだけが普段とは違うが、クラスメートのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに間違いない。
頬が緩み、上気する。目尻が下がり、瞳も潤む。獲物としてこれ以上のものは無い。多少不満な点は脆弱でないことだろうか。これから行われることは、無力であるに越したことはない。その点で彼女は違うだろう。美眉を顰め、睨み付けるその瞳が如実に語っている。
「降りられますか? なんなら手伝いますけど」
「ふん」
街灯を軽く揺らすと、エヴァンジェリンがマントを広げ、重力を感じさせずに舞い降りてくる。傾斜の緩い坂道を滑り落ちるようだ。
音も無く着地するその優美な姿に、我慢が限界を迎える。
幕が上がった。
先ほどの理性的な問いかけが嘘のように歯を剥き出して千雨が飛び出す。今すぐ殺す。もう殺す。と殺した後の事も考えて狂笑に酔う。
少し顎を上げて睨んでいたエヴァンジェリンが、卑下するように口を歪め、
「まるで獣だな」
と吐き捨て、己が従者に目配せした。
背中が展開、推進装置がせり出し、ボッと破裂音をひとつ立てると千雨との間合いを詰める為、茶々丸が射出された。
ジェット噴射を利用した移動は大したスピードだった。目にも止まらない。まして初動もなく氷の上を滑るように移動するそれに遠近感すら狂い出すはずなのだが、千雨は易々と反応して見せた。眉間に深い皺を寄せて憤怒に顔を歪める。
茶々丸などどうでもいいのだ。標的はエヴァンジェリンただ一人。
「邪魔すんじゃねぇ鉄屑が!!」
吼えた。苛立ちがピークに達し、膨れ過ぎていまにも身体を破裂させてしまいそうな殺意に、脳髄が犯される。
どうしてくれよう。考えるまでもない。左の拳を握り固める。
蔑視を浴びせられ多少変化の出た茶々丸の顔面に向けて突き出した。
だが、重量、強度、推進力すべてにおいて茶々丸に勝る点がない千雨が勝てる道理もなく。いやそれどころか中途半端に力が出た分、顔に触れた拳が衝撃に耐えきれず砕けた。それだけで済めば御の字だったが、反応するとは思っていなかった茶々丸が止まれなかった。いかなる交通事故でもマシに思える衝撃音を桜通に鳴り響かせ、千雨を撥ねた。
五メートル、十メートルを超え、十五メートルほどでようやく接地。しかし衝撃が減衰することなく、さらにバウンドしながら十メートル、転がり十メートルいったところでようやく止まった。
「お、おい死んだんじゃないのか?」
動揺の隠せないエヴァンジェリン。顔が強ばり、真っ青だ。流石に人死にを出すと彼女としてもマズイ事になる。
茶々丸が無表情で顎を下げると、胸部を撫でた。そこにぶつかったのだ。ぐじゅっと骨ごと肉を押しつぶす感覚が再生される。そして、自らが引き起こした結果にようやく辿り着いたように狼狽えだし、深々と頭を下げた。
「も、申し訳ありません。なにかする前に捕まえようとしたのですが」
しかし、そんな主従の心配を他所に、当の千雨は仰向けに倒れたまま夜空を見上げて、三十メートル以上離れた会話を聞いていた。
言われれば確かに初めての体験だった。目まぐるしく入れ替わる天地に、大きく揺さぶられる身体。ジェットコースターなんて目じゃない。しかし、アトラクションであるならどんなに危険そうに見えても安全性は確保されているもので、その通り痛みはまったくなかった。
ああ、と気付く。そういえば視界が狭くなっていた。右眉辺りから顎、そして胸、脇腹の辺りまでがいままでとは形状が変わっている。意識すると気持ち悪さを感じるが、所詮その程度だ。
それよりも問題なのは熱しすぎた鉄が形を保っていられなくなるように、それに近い状態にある脳だろう。いまにも蕩けそうになっている。頭の中は、愛と形容してもなんらおかしくない程に狂おしいエヴァンジェリンへの思いと、その逢瀬を迎える為の邪魔者である茶々丸への殺意が渦巻き炉心と化していた。だからかもしれない痛みになど構っていられないのは――
「ごっ、が、はぁ――ッ」
喉の奥に堪った血で噎せ返る。吐いても吐いても止めどなく溜まる血に何度も咳き込む。
「う、動いた。い、生きてるぞ茶々丸」
「長谷川さん動かないでください!!」
エヴァンジェリンには心が浮き足立つが、茶々丸はかんに障る。邪魔するつもりか、立ち上がらなければ目的が達せないではないか。そうはいかない。たかだか血が喉に溜まるぐらいでなんだ。こんなおいしい機会はもう訪れないかもしれないのだ。標的は血を吸うバケモノなのだから問題ないはずだ。感謝されても非難される謂われはないだろう。そしてそれに組みする機械を破壊しても……
殺意を原動力にバネのように跳ね起きた。多少痺れが走り、よろめいたがなんなく立つ。息を呑む音を聞いた。どこか幽鬼を連想させる千雨の姿にエヴァンジェリン達が眼を剥いてる。構わない。千雨は左半顔だけで笑みを作り、馳せる。それにはエヴァンジェリンが怒鳴った。
「だから動くなと言っているだろ!!」
愛しいバケモノの言葉だったがそんなものは聞けない。忠告を無視して距離を詰めながら茶々丸を睨む。戸惑いを隠せないのか、どうすればいいのかエヴァンジェリンに問うように顔を向けていた。
その余裕な態度にますます感情が加熱される。次は負けない。しかし、素手は駄目だ。なにか違う。ずれている。探さなければいけない得物(自分)を……
たかだか三十メートル、時間はさほどない。ここにあるのは桜の木と、ベンチ、自動販売機に、ガードレールと煉瓦の囲い。どれも千雨のお眼鏡にかなうものではなかった。あれがあれば茶々丸など問題ではないはずなのだ。
しかし、自分を見付けられないまま、あと五メートルの所まで来てしまった。左腕は壊れている。右しかない。
――茶々丸いったん手の届かないところまで上がるぞ。
――はい、マスター。
「逃げんのかよ(にへんのへよ)!!」
顔半分がまともに動かず、血も止めどなくせり上がり、発音がままならない。それでも叫ぶと同時に拳も繰り出すが、一歩届かず、ふたりは街灯の上へと飛び上がった。
追い掛けようと地を蹴ろうとするが、視界の隅で踊るフラスコと試験管に目を奪われる。それらがぶつかり簡単に割れた。そして中の液体が混ざり合った瞬間、目の前が白一色で埋め尽くされる。
石畳が砕け、身体が悲鳴を上げた。別次元の識閾が千雨を突き動かす。迫撃のエネルギーをすべて回避に使う。身体の中から子気味のよい音が幾つもし、壊れていく。
だが、それだけの成果は得た。直接触れていないのに、体温を一気に奪われるような猛烈な冷気に身が晒されることは避けられた。反応出来なければ、目前の氷岩の中に閉じ込められただろう。
「どうなっている。あきらかに重症だ。死んでいてもおかしくないレベルのな。それなのになぜ速度が増す?」
「分かりません」
「念話を盗み聞きしたようだが魔力を使っている様子はない。だからと言って気でもない。いや、それでも気のようでもある」
「マスター分析はあとでよろしいのでは? いまのでさらに何本か骨が折れたようです。このままでは自壊してしまいます」
血を吐き出しながら頭上で相談をし始める二人を千雨が睨む。三メートル、届かない距離じゃない。丁度いい足場がすぐ目の前にある事だし。
ピシッと大気がなった。二メートルを軽く超える氷岩にひとつ大きな亀裂が走る。それを起点に縦横無尽に亀裂が走り出し、粉みじんに砕けて塵と消えた。こうなると自力で街灯の上まで辿り着かなければならない。助走を付ければ届きそうだ。しかし、その間に他に移られる恐れがある。なにより先ほどの攻撃を空中でされると避けることは出来ないだろう。ここは自分から向かうのではなく引きずり下ろす方法を考える必要がある。
「――――ッ!?」
千雨が眼を剥いた。見つけた。あった。引きずり下ろす方法が。
「ああ、わかっている。いいな。これ以上怪我をさせるな――き、貴様なにをする気だ?」
エヴァンジェリンが声を荒げる。
「ま、まさか!? やめろッ!!」
止めるわけがない。千雨に取って必要不可欠な事だ。なによりもう遅い。十分加速がついてしまった。今更止まれない。
エヴァンジェリンと茶々丸が街灯から飛び降りる気配を感じながら、思いっきり左足を蹴り上げる。
息を呑む声が聞こえた気がしたが、すぐにそんな空気が緩むのも察した。それにふと疑問を憶えながら轟音と共に倒れる自動販売機を見守っていると、足元で横たわる少女が視界に入り、エヴァンジェリン達がなにに焦っていたのか理解した。彼女をダシにすれば良かったのだ。
だが、千雨は少女を無視した。それよりもっといいものを見つけたのだ。
自動販売機から伸びる電源コード。その先端は囲いに埋め込まれたコンセントに繋がっている。想像通りだ。
千雨が拳を振り下ろす。配線は地中を通っているのだろうが問題ない。この手の紐が自分にとってもっとも適した武器なのだから、壊れた差し込み口に手を突っ込み配線に指を絡ませる。細く頼りない太さだが首を縊るのには十分過ぎた。さぞ食い込むだろうと思い浮かべて、千雨がにやける。
あとはどれだけの長さを確保できるかだが。腕を一気に引き抜く。長さの確認はしない。勢いそのままに反転、手の延長と化したケーブルがエヴァンジェリンに襲いかかる。
呆けていたわけではない。エヴァンジェリンも自分が標的だと分かっている。しかし、電線を武器に使うなどと思っていなかったのと、その速度に初動が遅れた。
「マスター!!」
茶々丸が割ってはいり、腕を伸ばしケーブルを掴む。
「茶々丸手を離せ!!」
千雨の顔に浮かぶ亀裂のような笑みを見たエヴァンジェリンが叫んだ。
茶々丸が手を離すがケーブルは離れなかった。掌に吸い付くようにケーブルが付着している。なにもかもが遅すぎたのだ。
アルミの缶を踏みつぶしたような音が響く。一気に締め上げられた茶々丸の腕がなんの抵抗もなくあっさりひしゃげた。もちろん彼女の腕がアルミ缶で出来ているわけがない。重量を軽減するために軽合金を使用しているが、戦闘に耐えうるだけの強度は十分に確保されている。それが苦もなく破壊された。
その感触に千雨が身震いする。愉悦に身体の震えが止まらない。ロボットとバカにでしたものではなかった。悲鳴も上がらぬゲテモノではあるものの十分に欲求を満たせるだけの手応えがあった。
だったら、茶々丸でこれほどならエヴァンジェリンはどれほどのものか。それを思うと身体に力が充ち満ち、違和感が消えていく。
腕を振った。
「――そぉらッ」
官能でかけ声が上擦った。二十メートル上空まで軽々と茶々丸を跳ね上げる。一本釣りのように。あとは彼女を地面に叩き付けるだけで終了だ。人であったのなら縊っていたが、これからメインディッシュが待っている。逸る気持ちが前菜に時間をかけていられなかった。
「氷結 武装解除!!」
ガラスを砕いたような音が木霊した。千雨の手から確かな感触と重さが消える。茶々丸と繋がっていたケーブルの長さが十センチほどになっていた。その不可思議さに魅入り、思考に重きが置かれて、動きが止まってしまう。
「なにを呆けている」
耳元から聞こえてきたエヴァンジェリンの声によって千雨が我に返る。振り向きながらの肘打ちで追撃。不本意と間を置かずに思い浮かんだ。
だが、そんな考えは杞憂だった。天地が逆にある。足の踏ん張りが利かない。
そして目の前には迫る石畳が――
――マスター?
――問題ない。なぜかは知らんが、怪我が治っている。
彼女の言うとおり千雨が腕立て伏せの要領でなんなく着地、すぐさま攻撃に転じようと起き上がる。その際、ベルトに手を掛けていた。長さは物足りないがこれでも首を吊ることは十分出来る。
しかし、その肝心のエヴァンジェリンの姿が見えない。
「――――ッ!?」
聞き取れなかった。それでもエヴァンジェリンがなにかを唱えたのだけは千雨にも分かった。そう理解したのは氷に閉じ込められてからだったが。
目前に幾人ものエヴァンジェリンがいる。光の屈折現象によって出来た像。どれも冷ややかな目で見下していた。
(この程度で)
脳髄を犯す熱が氷も溶かす。身に纏わり付いているのはすでに水だ。多少鈍るが問題はない。
「こんなもので私が止められるわけがないでしょう!!」
足を蹴り上げる。へばり付く水を切るように。
すると氷が砕けた。
「なんだ――と」
数多あった像がひとつとなり、つま先がエヴァンジェリンの薄い胸に深々と突き刺さる。伝わる感触に後悔の念が過ぎった。
奇妙な音がした。ゴキともポキとも違う。でも、皮膚を押しつぶし骨を砕いた音に違いない。やり過ぎだ。こんなのは望んでいない。求めているのは縛り首なのに、カッとなって抑えが効かなかった。
淡い期待で止めてみるが、慣性の真っ直中にいるエヴァンジェリンは地面とほぼ並行に飛び、石畳を巻き込みながら十メートルほど転がる。
「くそ」
エヴァンジェリンはピクリともしなかった。最悪だ。あっさりと終わらしてしまった。もっとじっくり苦しむ様子を観察したかったのに、こんなのでは満たせない。
「がはぁ――」
血を吐き、起き上がろうとするエヴァンジェリン。千雨の口がつり上がる。生きていた喜びを意識するよりもさきに身体が反応した。
「イヒ、ヒ、ヒャハハハハハ……」
パァンと空気が弾ける。千雨が手にしたベルトが打ち鳴らした音だ。しかし、これで打ち据えようなどとは考えていない。そんなことをすればエヴァンジェリンは死んでしまう。それではいけない。同じ過ちを起こすことになる。折角生きていたのだから、行うべきは求めに求めた絞首刑でなければいけなかった。
十分は楽しむ。そんな希望を胸に駆け出したが、茶々丸に割って入られた。突き出される拳。しかし、遅い。あまりにも遅い。止まって見えるほどに。高揚感に合わせて身体の調子も上がっているのか、すこぶる快調だった。
だから、背を反り余裕で躱す。だが、視界の右半分が肌色で埋め尽くされ、ゴンと聞こえてはいけない音を千雨は聞いた。避けたはずなのに茶々丸の拳が顔に突き刺さっている。
疑問が湧く。遠近感覚がおかしい。茶々丸の間合いでは届くわけがない。測り間違えたのか、それともダメージによって引き起こされた現象なのか。
茶々丸の手首を千雨がガッシリと掴んだ。答えはそれよりも遙かにいいものだった。こういうのが欲しかった。
鋼鉄製のワイヤーがある。切り離された茶々丸の上腕と二の腕を繋いでいた。こういう使い方をするなら長さも申し分ないはずだと当たりを付け、これこそまさに自分の為にあるようなものだと千雨は歓喜した。
だったら手に入れないわけがない。一気にたぐり寄せて茶々丸の頭を掴み、力任せに叩き付ける。
頭が石畳を割り、半ば陥没した。人間なら頭と首が木っ端微塵だろう。いや、茶々丸をしても首の機構が破壊されたのか、軽く手首を捻ると抵抗感が全くなくなっていた。人間と同じように頭部に脳たる中枢回路があるかどうか分からないが、動きは阻害できたとふんで次の作業に移る。
肩口に足を乗せると、二の腕を握りしめ、綱を引くように体重を一気に後ろにかける。ほどよい抵抗のあとブツンと音を立てて腕が抜けた。最後に余分な二の腕と前腕を力任せに引き千切って完了だ。ボルトが飛び、ワイヤーだけとなった。長さはおよそ二メートル、想像してたよりも短いが十分だ。
「お待たせして申し訳ありません」
語っても語り尽くせない湧き上がる喜びを押し殺すようにしてエヴァンジェリンに向き直る千雨。口許と目許がにやけてくる。エヴァンジェリンは何とか立ち上がり、にらみ返してくるが、その実、吐血が止まらず、膝も震えていまにも倒れ込みそうで強がりにしか見えなかった。
「後ろ手に隠しているのは先ほどから使用している触媒ですか?」
千雨が無防備に近づく。ちょっと散歩するような気軽さだ。手にしたワイヤーを振るうこともしない。一度、ケーブルを破壊されており警戒すべきなのだが、もうなにをしようと攻撃は効かない。そんな自負心がどこからともなく湧いてくる。
「氷爆!!」
凍気と爆風が迫るが、千雨はそのまま歩みを進めた。薄皮一枚凍らない。
「ク、クク、ハハハハハ……」
予想通りの結果に笑いながら手にしたワイヤーを放つ。氷の壁を砕き、エヴァンジェリンの細く白い首に巻き付く――寸前で手元に戻した。
「そうではありませんよね?」
一気に間合いを詰めて言った。同時にエヴァンジェリンの腕を締め上げる。ただでさえ苦しそうな表情がより一層苦痛に歪む。
ポキリと枯れ枝の折れる音が響いた。フラスコと試験管が指からすり抜ける。試験管は靴の上に落とし確保、フラスコだけが石畳に落ち割れた。
「もう一本あるとは言え、また壊されてはかないませんので、こういうのはなしでお願いしますよ」
軽い動作で試験管を桜の木にぶつける。エヴァンジェリンは唇を噛んで睨むだけで言い返してこない。その様子で彼女の目論見が自分の思っているとおりだったと千雨は嬉しくなった。
「悲鳴も上げないとは気丈なことで、キ、キヒヒ……」
金切り声で笑いながら、鼻がつきそうな距離まで顔を近づける。エヴァンジェリンの表情を網膜に焼き付けながら砕けた腕を強く握った。
唇の隙間から血の泡が零れる。エヴァンジェリンはそれでも声を上げない。食いしばり耐えた。なにがあっても悲鳴など上げないと佇まいそのもので言い現しているが、生理現象としての涙が瞳に溜まりだす。これはこれで満足感を得られるもので千雨は快感に身を震わせた。
こう言う輩がいままでもいなかったわけではない。何人も相手にしてきた。これからもその態度を貫き通せるのかどうか楽しみでならない。そのどれもが最後には殺してくれと懇願するのだ。
とは言え、ここは屋外だ。いつ人が来るとも限らない。ここまで来てお預けなんて考えたくなかった。そろそろ幕引きにするべきだろう。
目尻を緩め、恋人との別れを惜しむように頬を優しく一撫でしようとして、嫌悪を顕わにエヴァンジェリンが逃げようとする。そのつれなさがまた愛おしい。
「さようならエヴァンジェリン……私の初めての人」
台詞回しに違和感を憶えた。どこかおかしい。しかし、エヴァンジェリンの瞳から涙が流れ落ちた為、思考が中断される。綺麗だと思った。それを舌で舐めとった時にはふと湧いた些細な疑問など頭の中から消えていた。
刑を執行する前に、胸元に手をかけるのを忘れない。絹を引き裂く音が夜空に鳴り響き、無数の蝙蝠が飛び立った。
「蝙蝠を服に替えることが出来るのですか、変わった能力ですね」
闇色の衣服は消え去り純白のスリップ姿となった吸血鬼に嗤いかける。これでもう触媒はないだろう。
じっくりと舐めるように視線を上下させる。身体が火照った。悶え苦しむ姿に身悶えしそうだ。
だが、そんな邪な想像は呆気なく中断された。千雨の視界が赤く染まったからだ。
「血を吐きかけるなんて、可憐なあなたには似つかわしくないですよ」
だが、千雨は意にも介さない。血が目に入った程度で痛みなど感じなくなっている。
エヴァンジェリンがなにか語ろうと唇を振るわせるが、盛大に血を吐いた。
もう長くは持たないそう判断し、ワイヤーを優しくエヴァンジェリンの首にかける。結んだりはしない。しかし、ワイヤーは独りでに細くきめ細やかな首に巻き付いた。だが、まだ絞めると呼ぶにはいささか緩い。
「ではこれで本当にお別れです」
千雨は桜の木にワイヤーをかけると、軽く腕を引いた。一気に引いたりはしない。頸椎が折れないように優しく地面とお別れをさせる。
確かな感触と共に腕にかかる重さが増し、足が浮いた。
エヴァンジェリンの目が限界まで見開かれ、足がばたつかせる。見る見る雪花石膏の肌が赤くなる。
彼女は首の後ろから伸びるワイヤーを掴んで閉まらないようにするが、そんなものはでは助からない。絞首刑ではなくなってしまうが、ワイヤーだけでも絞殺することは出来るのだ。エヴァンジェリンもそれを理解したのだろうワイヤーと首の間に指を入れようとしたが、一ミリたりとも隙間がないため、いたずらに首をひっかくだけとなった。
「止めて下さい!!」
胸が張り裂けるような声が木霊した。しかし、千雨の対応は冷ややかだ。
「これからがいい所なのですよ。止めるわけがないでしょう」
視界の隅で立ち上がった茶々丸を意識する。首が故障しているのかあらぬ方向を向いていた。だが視線だけはしっかりと千雨を捉えている。
千雨の耳が音を拾った。バネや歯車、油圧ポンプなど数々のギミックが稼働している音が聞こえる。音の発生箇所が背中周りに集まっていた。また推進装置を使って一気に間合いを詰めるつもりなのだろう。
予測通り火を噴いた。全身でぶつかり主を救出する算段か、奇をてらうでもなく一直線に向かってきた。
視認可能、十分に避けられる。しかし、これはこれで千雨に取ってもいい機会だ。先ほどはぶつかり負けた。今度は負けない。一歩も動くつもりはない。顔はエヴァンジェリンを観劇したままで、ただ左手だけをタイミング良く突き出し、茶々丸にぶつける。
茶々丸が息を呑んだ。彼女はガイノイドだ。呼吸の必要は無いのでそんな音が聞こえるわけがない。しかし、それに近い気配のようなものを千雨は感じ取った。
それはそうだろう。ロケットエンジンによる加速。重量も人のそれではない。鉄の塊が高速で飛んできたのだ。それを千雨は片手だけで止めてしまったのだから。種があると言えばあるが、茶々丸にそれを見破るだけの余裕はない。
「おやすみなさい(グーテ ナハト)」
力の方向を少し操作するように優しく地面に手をつくように膝を曲げる。それだけで茶々丸の上半身が土の中に埋まった。
息も出来ず、血も巡らないため朦朧としだしたエヴァンジェリンが、従者になにか語りかけようとするが、唇が戦慄くだけで声にはならなかった。
「そろそろ終幕です。さようなら(アオフ ビィーダァ・ゼーエン)」
千雨の片眉が若干上がる。解せない。その事に思考を取られそうになったが、
「止めてください長谷川さん」
とぼろぼろになった茶々丸が足に縋り付いたので、途切れた。それについても千雨は首を捻ってしまう。言っていることが理解出来ない。
「お願いします。このままではマスターが死んでしまいます」
折れた首を必死に持ち上げて懇願する茶々丸。エヴァンジェリンの腕が抵抗を止めてダラリと下がった。これまでの余韻で吊された身体が揺れている。
「長谷川さん!!」
千雨が訝しむ。そのことだが……
「さっきから誰のことを言っているのですか?」
茶々丸が愕然とした。ますます怪訝と顔が歪む。なぜそんな顔をするのか。
「いいでしょう」
知らないなら教えてあげよう。
「私は……」
だが、高らかに謳うべき名前が出てこない。
「私は……」
どうしたのだろう。名乗りを上げることなどいつもやっていたことだ。
「長谷川さん!! あなたは長谷川千雨さんです。だから――」
「違う!! そのような名前ではありません。そう、そうです。私の名前は……ロート――ッ!!」
――あなたは、それほどまでにハイドリヒ卿が恐ろしいのですか、シュピーネ。