(な、な、なぜっ、なぜ魔術が解けるのですか?!)
それどころか魔術が行使出来ない。繰り返し、繰り返し術をかけ直そうとしているのだが、片っ端から失敗する。あと二ヶ月もすれば十四歳とそれだけの月日のブランクがある。あるが自分は達人(アデプト)と副首領に認められ、忌まわしい呪いの言葉と共に、魔名ロート・シュピーネを頂戴した腕前だ。団員内でエイヴィヒカイト以外の術を使う機会も多い。こんな姿を消すだけの魔術で失敗はあり得ない。だが実際問題として失敗している。
あまりのことに目の前に暗幕が下りそうだ。がくんと膝から崩れ落ちそうになる。ただでさえ混乱の極みにある思考が、理解不能な事態の連続にブレーカーを落とそうとする。
(駄目です!!)
足を踏ん張り、意気込み、耐えた。まだ何とかなる。諦めてはいけない。まだ刹那の時間しか経っていない。
(記憶を――)
たかだか十人、瞬きも許さない。しかし、その為に必要な魔術が行使出来ない。
脳裡に過ぎる。首を落としてしまえと。始末してしまうのが一番確実で簡単な方法だが、十人はあまりに多い。必ず捜査の手が入る。それも魔術師の。すぐそこでは別の事件が起こり、乗り出してきている。関連性を当然、疑わないわけがない。
(逃げるしか……)
しがみつく神楽坂明日菜を振り解こうとする。いまならまだ血塗れで佇む少女的な怪奇現象で片がつくかもしれない。しかし、そんな都合のいい考えを否定するように、
「そ、それ、ど、ど、どうしたのよッ!!」
明日菜の声が響いた。それを皮切りに安堵が悲鳴に変わる。騒ぎを聞きつけて多くの足音が近づいていくる。もう無理だ。考えが纏まらない。
それでもここに居てはいけないと、明日菜を乱雑に振り払う。尻餅をついたクラスメートを一顧だにせず階段を駆け上った。無駄な足掻きと分かっていてもスピードが出ない。一般人を装ってしまう。
「長谷川!!」
悲痛な声が追い縋ったが止まる訳にはいかない。場がますます騒がしくなるのにあわせて、顔が引きつりが大きくなる。
(なにをやっているのですか! 自分の立場は理解しているでしょうに!!)
叱咤に顔がより強張る。どんな結果になろうとあの場は見捨てるべきだったのだ。なのに手を出した。あまつさえ明日菜が無事でほっとしている。それが酷く気持ち悪い。とんでもないミスを犯したというのに、ちょっと満足していて、
(こんなのはロート・シュピーネではありません)
はっと夢から覚めたように目蓋が限界まで見開かれ、走る速度が落ちた。ふと過ぎる。過ぎってしまった。アイデンティティーが崩れていく。
(こんなのはロート・シュピーネではない? では私はいったい誰なのです)
ロート・シュピーネではない。そんなことはあり得ない。最も可能性のある憶測は、何かしらの任務の為、長期潜入捜査をしているというものだ。
それなのに一抹の不安が過ぎる。頭を振って無理矢理消し去った。それこそ何かの間違いだ。魂に刻まれた記憶は生々しく鮮烈で、ロート・シュピーネでないわけがない。
(ああ、そういうことですか)
長谷川千雨だ。長谷川千雨が原因なのだ。1989年に長谷川千雨として生まれ、十三年培ってきた。
(どうやら私は驚くほどに私が死んだと言う事を、事実として受け入れているようです)
ロート・シュピーネという男は2006年に死んでいる。1989年以降のシュピーネの記憶は、何かしらの意図で作られた偽りの記憶なのだろうが、むしろそれを受け入れられないでいる。
(受け入れるもなにもまだ仮定の話で、結論は出ていないのですからね)
すると、さっきまでは前世を思い出し、はしゃいだ長谷川千雨が、ロート・シュピーネのまねごとをしていたようなものなのだろうか。
否、と小さく素早く頭を振る。そうでもなさそうだ。こうして思考しているのが長谷川千雨なのか、ロート・シュピーネなのか。
(死んだと受け入れている割には、区切りがついていない。すると私は長谷川千雨でも、ロート・シュピーネではないと言うことなのでしょうか)
苦笑が漏れた。
(だからなんなのです? なにを小難しく哲学をやっているのですか。どちらが自分? どちらも自分じゃないですか。どちらも私が歩んだ人生です。環境から生じる生き方や価値観の違いから蓄積された誤差です。なにも問題ないはずです)
明日菜に関しての不可解な行動にも簡単に答えが出せる。ただの長谷川千雨の時に考えていた事と、これからの利害が一致しただけだ。
(事故に繋がれば周囲が騒がしくなりますからね)
止まりそうになっていた足を力強く踏み出し、速度をあげた。
(おいおい慣れるでしょう。そう!! 要は私は長谷川千雨=ロート・シュピーネだったと言うだけのこと。ただそれだけのことです)
生き様と言うべき指標は変わらない。謳ったとおりに。思うがままに人生を謳歌しよう。
「まったく持って」
笑いがこみ上げてきて頬が綻ぶ。そのためにもいまはこの窮地をいかに脱するか。それだけだ。
「長谷川なにがあったのよ!!」
階下から足音を友に叫び声が聞こえてくる。音は上からもどんどん集まってきている。
頭上から視線を感じた。雪広あやかが手摺りから身を乗り出して覗いている。他にもあやかのルームメート那波千鶴と村上夏美もいた。
(どうしますかね)
姿を消して通り過ぎる。三人の記憶を消す。なにもかもが遅すぎる。むしろ不自然になる。目撃者のばらつきが出て、より不可解な事件として噂が広まるのは避けたほうがいいだろう。しかしそれでも試しと魔術を起動した。
(……使える? 本当にどうなっているのです。焦っていただけですか? っと考えている場合じゃないですね)
魔術が行使される前にキャンセルする。有無を言わせず、あやか達の横を通り過ぎ、階段を駆け上がり、廊下を走り抜けた。
(人が多いですね。時間が時間ですし仕方がないのですが……いえ、処理できるはずです。私はこの手の事には特に長けているのですからね)
終戦後はナチス軍人の逃亡機関に所属していた。この手でどれだけの同胞に新たな居場所を用意したか。その処理に魔術などほとんど使っていない。
そうだ。できる。大した事ではない。と自己を奮い立たせて、ドアノブに手をかけた。それでも気持ちは焦っているのか、すき間に身体をねじ込むようにして中に入り込む。
こういうことこそが本分だ。落ち着け、と大きく息を吸う。これから大仕事が待っているのだから、冷静にならなくてはならない。
「千雨さんですか?」
居間からおでこの広い眼鏡の少女が覗いた。目が合う。近頃めっきり帰ってこないルームメイトの葉加瀬聡美が、何事かと不審げな表情で様子を窺っていた。普段は大学の研究室で寝泊まりしているのだが、千雨の様子がおかしかったから、看病が必要かもしれないと帰ってきていたのだった。
「ど、どうしたんですか、それ!!」
聡美が駆け寄ろうとして盛大に転けた。もともと運動が苦手な彼女は、動揺して自分の足に引っかけた。
短い廊下を眼鏡が滑る。顔から落ちたのに聡美はすぐに上体を起こした。頬の辺りが赤くなっているが、まったく意に返していない。気持ちに身体がついていかないのか、四つん這いに近い形で何度も転げそうになりながら這い寄ってきた。麻帆良を代表する天才的な頭脳を持っていると言っても、帰ってきたルームメートがボロボロの血塗れでは冷静でいられないようだ。眼鏡をかけ直す、といったとても簡単な動作が出来ないほど動揺して、お手玉をしている。
「落ち着いてください」
何度も頷く聡美がどうにか眼鏡をかけ直し、口を開いた。しかし唇が戦慄くだけで声にならない。顔面蒼白でなにが起きたのか、その優秀な頭脳が目まぐるしく推論に推論を重ねているに違いない。
(どう場を納めるか。私もこの間に考えないと、どうするにしろ聖槍十三騎士団と言うことは知られない方が良いでしょう)
聡美が居室の方にふり返り、一歩、足を踏み出した。しかしすぐに向き直る。顔は別人のようだった。身体を強張らせて動かなくなる。葛藤が聡美を縫い止めた。その秀逸な脳髄は最悪を想定したのだろう。千雨が、なにを考えたのか推理する。
鼻と口の周りについた血。ボロボロに破けた制服。それらを踏まえて被害者は女性と最後に加味して吟味すると……
(暴行事件……ですか、使えますかね? 癪ですが)
然るべきところに、電話なりすることを躊躇してしまう事件が起きてしまった、ということにすればいいのではないだろうか。これなら丸く収まりそうだ。この手の犯罪は世間体にしたくない、と警察に届けが出されないことも少なくない。
(表立つ事はないかもしれませんが、人の噂話は止めることはできないでしょうね)
話が集束するまで奇異の目で見られることは、避けられないだろう。それ以降も、不意に話題に上る事があるはずだ。
(となると魔術師の接触は避けられませんか)
あの中には麻帆良学園女子中等部の養護教諭もいた。寮内で噂が広まれば絶対に耳に入るはずだ。彼女の立場ならケア目的で堂々と接触を図れる。その時は、事件との関わりも当然視野に入れてくるだろう。
(むしろ好都合ですか。ロート・シュピーネ(私)の知らない魔術組織。逆に情報を引き出してあげますよ)
するとハカセにはこのまま……、などと考えていると、
「いいんちょ、あれって血よね? ケチャップじゃないわよね!!」
「ええ、血だと思いますわ」
声を張り上げながら、五人分の足音が近づいてくる。千雨は聡美をジッと見つめた。もう迷っている時間はない。
しかし、口が思うように開かない。自分の判断に不安を憶える。はたしてこれで正しいのだろうか。
ゴクリと固唾を呑む音が聞こえた。緊張が伝播したのだろう。だが、それでも聡美は目を逸らすようなことはなかった。血だらけの唇からなにが語られるのか。いかなる事が語られるようと受け止める。そんな気概が見て取れた。
「葉加瀬さん」
びくっと聡美の肩が跳ねた。
「は、はいぃ!!」
声が上擦り、抑揚もおかしい。これと分かるほどに小刻みに瞳が揺れている。脊髄反射に近かったのだろう。聡美の表情が切迫度合いを増し、見ていてこちらが痛々しいほどだ。秀逸な頭脳の持ち主だが、まだ中学二年生。気丈に振る舞ってはいるが、これが普通の反応なのだろう。
だからこそ、ここはもっと追い詰めるべきだ。一拍、間を開けて緊迫感を際立たせる。怒鳴ってはいけない。しかし、感情を乗せない平坦な声で泣き叫ぶように……、そうやって彼女に迫る。演じなければならない。彼女が想像したであろう、不幸に遭遇した少女を。
「なにも聞かないでください」
浅く頭を下げる。渾身の演技をして千雨は頬が引きつった。聡美の目を避けたことで、不安の影が一気に表に浮かび上がる。
こんなものは策などとは到底呼べるものではない。運、そう運任せだ。そんなものに自らの未来を託そうとしている。
不安がますます強くなった。怒濤のように押し寄せてくる。濁流に飲み込まれおぼれそうだ。しかし、もう後には引けない。やり遂げなければならない。彼女の、葉加瀬聡美の頭脳と常識に期待するしかないのだ。
(彼女ならきっと、私の想像通りに上手くやってくれるはずです。そうすれば、あとは立ち回り次第でどうにでも……)
決意を新たに千雨は面を上げた。だが、そこに希望を映し出してはならない。浮かべるのは絶望ただ一色。そう言う意味ではこの不安感は有用だ。いまにもへし折れそうなか弱い少女を表現するスパイスになるだろう。なんなら薄く涙さえ浮かべて見せよう。
聡美の顔から色が無くなる。優秀な頭脳は察したのだろう。ミスリードは上手くいっているように見えた。しかし、優秀であるからこそ、真実に辿り着く可能性がある。そんな恐れを千雨は同じぐらいに抱いてしまう。
(ロート・シュピーネ(私)らしくもない。自分の選択には絶対の自信を持っていたはずです。ましていまさら弱気になってどうするのですか。もう始めてしまったのですよ。憂うなら失敗した時のリカバリーを考えるべきです。この辺りが長谷川千雨(私)の悪いところです。もっと強引に、独善的と言ってもよいほどに強く前に出るのです。確かに慎重になるべきですが、それは策を繰り出すまでですよ)
聡美の唇が震え出した。目にもうっすらと涙が浮かんでいる。
(同調した!!)
疑っていない。締めに入るべきだ。質問はさせない。これ以上、目を合わせる必要も無い。与える情報は最小限にしなければならない。
押しつける。なにもかもを押しつけてやる。了承も得ずに横をすり抜けた。悲鳴に近い声が背中に届いたが、無視して洗面所に飛び込んだ。
細く長く息を吐きながら気配を探る。後は追って来ていない。追えないというのが正解かもしれない。
衣擦れの音が聞こえてきた。聡美は落ち着きがなくなっている。きっと視線はドアのスリットに釘付けになっているはずだ。
(上手くやって下さい)
これから来訪する五人を聡美は味方に付けて、この話題をタブーとすることが出来るだろうか。それとも彼女達の仲間となって一致団結し、敵に回ってしまうのか。
(読めませんね。いいんちょと那波を味方に出来ればなんとかなりそうですが……)
明日菜が気になる。彼女は自分にとってダークホースとなるかもしれない。どこにでもいるちょっと運動神経に秀でただけの、お馬鹿な中学生の筈だ。しかしどうにも得体が知れない。警戒しておけと第六感がやけに騒ぐのだ。
決戦の時がきた。間延びしたチャイムに聡美と一緒に息を呑む。これからが正念場だ。
「は――、は~い」
声は震えているが動作は俊敏だった。間髪入れずに鍵が外れる音が響き、ドアが開く。足音がどっと押し寄せ、すぐ乱暴にドアが閉まった。
無言。狭い玄関に鮨詰めになっている。どちらともなく牽制するかのような重苦しい間が開く。
(攻めて下さい)
だが、祈りむなしく口火を切ったのは明日菜だった。
「ちょっといい? 長谷川なんだけど……いるわよね?」
鍵の音がやけに大きく聞こえた。なにを考えての発言か分からないが、騒ぎにするつもりはないのだけは確かだ。だからと言って油断は出来ない。
なぜなら――
(被害者だけではなく、加害者という可能性も視野に入れることが出来ますからね)
鏡を前で呟いた。血がベッタリ付着している。しかし古菲辺りなら一目で気が付いたに違いない。聡美にしてもそうだ。冷静であったなら、きっと見抜いたはずだ。この血痕が不自然なことに。
すぐわかるほどに傷がない。治ってしまっている。常識ではあり得ない。鼻にしても、目の周りにしても、これだけ血が出たなら歪むなり腫れたりしなければおかしいのだ。いまから彼女達の前に立ったなら、きっと誰かが看破するだろう。仲間がいることで気持ちに余裕が出来、冷静に観察して判断が出来る者が必ず現れるはずだ。
(いえ、この場合、まず事故を疑いますか。いきなり暴行事件まで飛躍させないかもしれません。ハカセほど観察する時間もなかったはずですからね。一目見ただけでそこまで想像は出来ないでしょう。その割には神楽坂の態度は腫れ物に触る様ですが……ああ、ハカセの様子からただ事ではないと感じ取ることは出来ますか)
「その事なんですが……」
「千雨さんはどこにいるのですか?」
明日菜や聡美に比べれば強い口調のあやか。歯切れの悪い聡美に業を煮やしたのだろう。それでも必要最低限に絞られているのは、薄々何があったのか気付いているからと前向きに受け取りたい。
「ど、どうか落ち着いて下さい」
間髪入れずに聡美が注意した。あやかのそれは激昂とはほど遠いものだったが、彼女には必要以上に大きく聞こえたのかもしれない。精神状態がありありと分かる。彼女の口調はあやかに言い聞かせると言うよりも、自分に言い聞かせているようだった。
「私もまだなにが起こったのかよく分かっていませんので、軽はずみなことは言えませんが、今日のところは私に任せて引き取っていただけませんか?」
悲痛な声。叫んではいない。しかし、静かな叫びとでも言えばいいのか、一語一語丁寧に吐き出されるそれは心を打つ響きがあった。
「しかし」
あやかも絞り出すような声で食い下がる。クラスのまとめ役として、なにか事件に遭遇しなのなら力になるべきと考えているのだろう。
「お願いします。なにかあったのは違いないので、ここはまず穏便に、もし万が一の場合、あまり騒ぎを大きくすると千雨さんのこれからが……」
聡美が深々と頭を下げたのを肌で感じた。誰も声を発せない。どのようなことになるのか、想像力を促されたのだろう。
「本当はすぐにでも千雨さんから話を聞いた方がいいと思いますが、ことはそんな簡単に進められることではないかもしれないんです」
畳み掛けるように聡美が言う。その必死さが伝わったのか、
「そうね。デリケートな問題だわ」
と千鶴が同意した。千雨が小さくガッツポーズをする。千鶴を味方に出来たのは大きい。
「はい。ですから、まずは千雨さんが落ち着くのを待って、それから話をしても遅くはないと思うんです」
沈黙が下りた。異論はないはずだ。こういう時の決定権を持つであろうあやかに注目が集まった。
「…………分かりました」
重々しく口を開いたあやかが言う。ホッと息が漏れた。安心しきるのは早いが一安心だ。
「それで千雨さんは、いまどのようなご様子で?」
声が一層小さくなった。当人に聞かれないよう配慮しているのだろうが、筒抜けだ。
「浴室に――」
聡美の話の途中で千鶴が「あっ!?」と声を上げた。
「どうしました?」
「う、ううん、なんでもないの。気にしないで……」
しかし、そのまま話を続けるには態度が余りに不可解で、誰も口を開けない。
(な、なにに気が付いたんですか!?)
ひしひしと伝わってくる緊張感。もう大丈夫だろうと、服を脱ぎ始めていた千雨も手を止めて、聞き耳を立ててしまう。
「いいのよ。本当になんでもないの。ごめんなさい」
(なんでもないじゃありません。どう考えても、なにか重要なことに感づいたでしょう!?)
「あ!?」
(村上までですか!?)
ゴクリと喉が鳴った。なにが飛び出てくるか。居ても立っても居られなくなり、想像力が膨らんでしまう。危惧していたことに気が付いたのか。いや、しかしそれなら追及の手を休めないはずだ。こんな腫れ物に触る様な対応はしないだろう。
歯痒い。唇を噛み締めてしまう。部屋を飛び出し、胸ぐらを掴みあげてでも、聞き出したくなってくる。そんなことをしたら本末転倒だ。代わりに「誰か追求して下さい」と強めに口の中でぼやいたのは仕方がないことだろう。
「千鶴さん、なにか気が付いたのならおっしゃって下さい」
「そうよ」
願いが通じたのか、あやかが音頭を取り、明日菜が迎合する。
「ごめんなさい。あとであやかには話すから、デリケートな問題でしょう。大事に出来ないとなると、きっとあやかの力が必要になると思うの」
あっ、と千雨が眉を上げると、釣られて口もぽかんと開いた。シャワーを浴びることで、物的証拠が流れることを危惧したのではないだろうか。
鏡に映った自分の下着姿を見つめる。
(調べればすぐに分かることなので、警察沙汰にしないように持っていかなくては。どうやって泣き寝入りをするかですね。周囲に納得してもらう必要が出てくるわけですが……)
「分かりました。千雨さんのことはハカセさんにお願いするとして……私達がすべきは」
「目撃者をどないかしなななぁ」
ハッキリと鏡に映る笑顔。唇の端だけがつり上がり、眉が八の字を描いた。嫌らしいというか、卑屈というか、人前では決してしない方がいいだろう。決して良い印象は持たれない。だが、こんな自分が嫌いじゃなかった。
「噂が広まるのはどうにかした方がいいわね」
「だったらこんなんはどうや、ドッキリってことにしてな」
「誰のドッキリよ? 長谷川の?」
「ちゃうちゃう。血だらけの千雨ちゃんを見て、ビックリする住人の方をドッキリにかけたんやってことにするんや。番組とかと違うから、それほどのインパクトとかないけど、千雨ちゃんが仕掛けたちょっとしたイタズラってことにしてな」
「確かに血だらけの女の子が走ってきたらビックリするわね」
「そやろ、だからそう言うイタズラにしておくねん」
世界は自分を中心に回っている。そんな錯覚を覚えるほどにスムーズに運んでいるが、しこりが残る。
(私はそんなことをするような人間だと思われていたのですか)
不満げな顔をさらしながら、聞き耳を立てるのを止めた。脱ぎ捨てた衣類を洗濯機に投げ込む。もう着られたものでは無いが、血のついたまま捨てるのは躊躇した。
「さて」
蛇口を捻る。冷え切った身体に、染み入るお湯の熱が心地いい。無心で浴びた。これからいろいろ考えなければいけないのだ。脳を小休止させなければいけない。
しかし――
「いったい聖餐杯猊下は、私になにをさせたいのでしょう」
脳髄は休憩を是としなかった。歯噛みする。夢が見られない。疑問を解く最良はすでに考えついていた。簡単な事だ。黒円卓と連絡を取ればいい。しかし、これではまるで……
「私の忠誠を試されているみたいじゃないですか」
顔が歪む。口内に血の味が拡がった。心中を見透かされ、チャンスを与えられたのだろうか。このまま逃走するか否か試されたのだろうか。
屈辱だ。このままでは隷属を余儀なくされる。栄光の日々がすぐそこにあったはずなのに。
「黄金錬成など……、クソッ――ですが、ここまでしますかね。平時こそ、このロート・シュピーネは忙しい身なのですが……」
苦々しい顔を作る。記憶のように、ヴァルキュリア同様、贄に使った方が手っ取り早いし、クリストフならそうするだろう。
「そういえば私がずっとここに居たと言うことは、同胞達はちゃんと生活できているのでしょうか。死にはしないでしょうが、盗賊団とかに成り下がっている……なんて事はありませんよね」
彼らの普段の生活を思い浮かべると、笑みが零れる。
「だれが私の代わりを果たしているのでしょう」
そわそわしてきた。無用の心配だろうが、どうにも性格破綻者が多い。そうでも無ければそもそも黒円卓に籍を置いていない。
「経済観念なんていうものを期待するのは間違っているのでしょうが、ベイは……無理ですね。マレウス……なら……大、丈夫、本当に? どうにも信用がおけない。猊下……」
頭を振る。
「神父が財テクですか、それもどうかと、残るは、バビロンでしょうね。子持ちですし。まさかゾーネンキント、レオンハルトと言うことはないですよね。いまはまだ中学生です。そう言えばカインは…………彼はどうなっているのでしょう。もう――するとヴァルキリアは? 生きているのですかね。こうして考えると私以外に適任者がいないというのはもはや何とも、組織としてどうなのでしょう。どうも私の役目は儀式まで団員の生活を維持すために存在しているような……目眩を憶えそうです」
笑おうとしたが笑えない。当たらずとも遠からずといった気分になってくる。
「まさか本当に?」
いえいえ、と頭を振る。シャワー音が響き、やけに耳についた。あたふたしている。一度、様子を見に行った方がいいような気になってきた。いくら考えても推測の域を出ることのない答えを得るためにも必要だ。
しかし、と逡巡してしまう。ため息を漏らし、煩わしくなってきたシャワーを止めた。双首領と三人の大隊長に対する思いは、偽らざる本音だ。
「どうすればいいのでしょうかね。それにしても質が悪い。性格を疑いますよ。誰が術を掛けたのでしょうか」
この陰湿さ。考えるまでもないマレウスだろう。やりそうなことだ。
「それで正しいでしょうに、それなのに納得できない私がいます」
一度否定し、認めそうになったが、否定し直した説が顔を覗かせる。自らの境遇をそれに当てはめてしまう。
「そうですね。黒円卓に戻ったら私はどうなるのでしょうか」
すでに影響を受けている。そして認めてしまっている。自分はロート・シュピーネで有り、長谷川千雨でも有る。長谷川千雨=ロート・シュピーネだと。このまま戻り、術を解くなりしたなら、この自分がいなくなる可能性というのを視野に入れなくてはいけない。仮にそうで無くても、姿形はどうなるのだろう。このままか。男のロート・シュピーネに戻るのだろうか。
「……どんな罰ゲームだよ」
表情が歪む。唇かきつく噛んだ。そんなもの受け入れられない。自分でもびっくりするほどジェンダーアイデンティティーは女だった。
「ですが、現実を見なさい。既知感などに頼ったところでどうにもなりませんよ。そもそもそのルールから、私が大きく逸脱してしまっているのですからね。私の存在が完璧にそれを否定するための材料になっています。もし回帰が本当ならロート・シュピーネはロート・シュピーネで有り続けるはずです。それともなにか……早い段階で既知を破ろうと、なにか大きく歴史が変わるような行動を起こした、そんな弊害がこの身に起こったと思いたいのですか?」
納得がいかないと頭を振る。
「そんな事をして聖槍十三騎士団が設立しないなんてことにでもなれば、それはそれで本末転倒……いえ、そうですね。別に牢獄(ゲットー)を打ち破るのが目的なら、聖槍十三騎士団である必要は無いのかも知れません。黒円卓に変わる組織を作ればいいだけです。今回がそうだったと……」
言っておいて千雨の表情は冴えなかった。希望になり得ない。黒円卓がない。そんな事は夢物語にも出来ない。願望にすらなりえない。
なぜなら、
「黒円卓がないのはあってもおかしくないのかもしれません。しかし、ラインハルト卿に変わる者などいないでしょう」
他の団員の代わりはいる。しかし、ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒの代わりはいない。いないはずだ。
「しかし、こうも考えられないか?」
既知感を押しているのは長谷川千雨だと言わんばかりに、口調を変えて疑問を投げかけた。
「そのラインハルト卿だけどさ。彼で本当に既知感は破れるのか? 私はそこに疑問を感じるんだ」
「どう言う意味です」
自分で自分に言っておいて腹が立った。それを恐れる自分は相対的にどうなる。
「そう怒るなよ。だってさラインハルト卿は既知感を持っている。既知感を破るのは容易ならざる道なんだろうけど、それでもさ、既知を肯定するって事は、何度も何度も繰り返して失敗してるって事を意味するんだよな」
「既知感が本当だった場合ですがね。たしかにそうなります。しかし、私から見て、ラインハルト卿はアーリア人そのものなのですよ。彼以外にはいないと言ってもいいかもしれません」
こんなことが言えるのも変わった証拠だろう。他の団員が聞いたら、いや、他の団員も、ラインハルトと比べるとなると納得するに違いない。
「彼は、有りとあらゆる物事をなんなく行う事が出来ます。かくいう私も、あなたが送る学生生活程度なら、最高標準でこなせる自信がありますよ。そういった意味ではラインハルト卿が世界というものをどう見ているのか分かるような気がします。退屈極まりないものでしょうね。いつも色あせて見えているのでしょう。ある時ふと既知感に襲われても、同じ事の繰り返しのような日常と、果たしてどう違うのでしょうか」
「まあ、そうだな。それでも駒の域を超えられないようだけどな」
シュピーネは答えない。一人芝居の茶番だ。なにが言いたいのか、そんなことは誰よりも理解している。
いくらラインハルトが優れていても、メルクリウスの胸三寸なのだ。そんな優秀な筈のアーリア人もカール・エルンスト・クラフトとの出会いなくして、魔人とはなり得なかっただろう。メルクリウスがどう既知に対して行動を起こすかで聖槍十三騎士団がヒムラーのオカルト遊びから真の魔人集団にかわるかどうかが決まったのだ。すべての運命は彼が握っていると言っても過言では無い。
「なあ、やっぱり人を変え、品を変え、試してるんじゃ無いのか。いつも一緒じゃたいして結果は変わらないだろ。手っ取り早くするならさ。メルクリウスもなんでツァラトゥストラ(代替)なんて用意するんだよ。いや分かってるんだけどさ。でもさ。本気でやる気あるのかよ。つーか、別に一般人でいいなら、一般人で我慢しとけよ。ツァラトゥストラなんていらねーだろ。出すんなら出すで、素人を戦場に押し込むなよ。行き当たりばったりすぎるだろ。こんなのどう考えても遊びじゃねぇか。遊んでんじゃねぇよ。誰か反対しろ反対。ラインハルト卿には復活してほしいんだろ。恩恵がほしいんだろ。もっと真剣にやれよ。真剣にィ、なあァ!!」
壁に同意を求めるが答えが返ってくるわけが無い。千雨は地団駄を踏んだ。苛々して頭を振り乱し、掻き毟る。
「あ~あ、これじゃまるでツァラトゥストラの為のスワスチカじゃ……ねぇ、か……?」
ふとついた言葉に、電池が切れたように千雨の動きが止まる。
「そうだよな。べつにゲットーを破るには、なにもラインハルト卿でなくてもいいんだ」
ゴクリと喉が鳴った。
「ラインハルト卿はツァラトゥストラの試金石と考えられないか? 私達が懇切丁寧に聖遺物の使い方を教えて、平団員を相手取りレベルアップさせる。儀式の性質上、代替を排除するにも団員は一対一を好むだろうし。でも、これってツァラトゥストラにこそ都合がいいんじゃねぇのか? 大隊長連中にしても、初めっから出張られたら無理ゲー過ぎるしさ。なんだよ。メルクリウスのやつ、懇切丁寧に中ボスの登場まで調整してくれてんじゃねぇか。やっべ、マジかよ。そうだよな、べつに代替を用意しなくてもメルクリウスが矢面に立てばいいんだ。あいつならみんな嬉々として殺しに行く筈だぜ。そうだよ。ご本人が登場した方が百倍はやる気が出るはずだ。あれを超えたとベイやマレウスなんかは自信満々だったんだからな」
バスタブに腰掛け、足を組む。正解に辿り着いたような気がした。
「メルクリウスだけ安全地帯にいるんだよな。いや、スワスチカが開けばあいつも帰還するんだろうけど。なんか、あいつだけ高みで見物している感が拭えねぇ。とはいえはそんなのはいつものことか」
思い出すと苛々してくる。それでも、と口ずさみ、大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着けた。
「すべての鍵はメルクリウスにありそうだ。全部あいつが糸を引いているに違いない。あいつ無くして物事はなにも進まない。と言うことはだ。つまりあいつがすべての元凶だったら……、この回帰を作ったのもあいつだったら……、うんでもって、それを自分で破壊しようとしているとしたら。嫌になったのか。ああ、そうか既知感は体験なんだよな。何度も何度も繰り返して目新しさが無くなった。飽き飽きしている。死ねば回帰するだから、回帰させずに自分を殺せるなにかを造り出そうとしているってことか。それがラインハルト? いや、ラインハルトじゃ無理だ。黄金錬成もたいして変わらないんじゃないか。だから代替なんてものを用意したのか。いや、初めはラインハルトの予定だったんだ。でも繰り返していくうちにラインハルトじゃ無理だと判断した。でもおしいところまで行ったからラインハルトを試金石にして、彼を殺せないようでは自分に届かないと……」
長く長くため息を吐き、頭を垂れ、左右に振った。
「でもこれってあれなんだよな。既知感がどうとかじゃなくて、繰り返している記憶が全部あるってことが前提だよな」
頭が痛くなってくる。既知感なんてもので計画的に物事は進められるのだろうか。
「いやでも、頑張って足掻いているのか」
「そもそもその発想の飛躍は、私の記憶が本物だという事が大前提ですよね」
「そうだな。それに既知を破るためには親殺しのタイムパラドックスを……でも矛盾しないようにしたら一本道になるし……、その為のエイヴィヒカイトなんだろうけど……クソッ」
手で顔を覆った。自分で言って疲労がどっと押し寄せてきた。どうにか食い下がろうとしたが、いくらでも理論の穴を付ける。
「その為の覇道なんだろうけど、ハァ~、いいや。考えれば考えるほど頭が馬鹿になりそう。でもさメルクリウスに関してだけは……」
「ええ、彼に関しては一考の余地があります。きっと彼は我々に語っていない目的があるでしょうね。ゲットーを破るというのも実は口から出任せで、自分を殺させて、始めに戻るのが真の目的かも知れません」
「ロート・シュピーネならそれはそれで幸せかもな。ある意味、回帰肯定者とも取れるもんな。なるほど、そう言う意味でも戦士でないか」
顔を強めに叩き、力任せになで回し、気を取り直して立ち上がった。それでも尾を引いている。
これは呪いだろうか。いまでも、このまま知らぬ存ぜぬを貫き通せば……と思う気持ちがあり、そうしたい。しかし、妄想に彩られた憶測ではなく、ちゃんとした答えを知りたがっている自分がいるのも事実だ。
持論をメルクリウスにぶつけてみたい、とそんな生まれてはいけない欲求を孕んでしまっている。だが、それを満たすには、古巣に戻る必要があり、黄金錬成を成さねばならない。
「でもそれでは……」
本末転倒ではないか。表情が歪ませ、握りしめた手の甲を見る。なにもない。本当にそうなのだろうか。黄金錬成も妄想ならいいのだが、
「くそ、本当に質が悪い。なにを信じればいいんですか。まずは……こんな情報がない状態で考察したのが悪いのでしょう。妄想に耽るのと変わり有りません。情報を収集をしましょう」
ここまで来れば、黒円卓が無ければいいな、と自分の存在を全否定しながらバスルームを出た。
(まずは聖槍十三騎士団を調べるか。メンバー総入れ替えだったりしても面白いんだけど)
通帳の残高を思い浮かべる。中学校二年生と考えるとかなりの貯金があるにはあるが、
(全然足りねぇ。となると秘密口座に手を着ける事になるんだけど……、下手な行動は……どうしよう。しっかしなんであんなに馬鹿高いんだよ。ぼったくりだろ。バッカじゃねぇの。賞金首の情報なんて見たいヤツに見せてやりゃぁいいじゃねぇか)
身体がひとりでに習慣に則り、動き出すが、不意に思考を途切れさせた。
(下着は……用意してなかったな)
いつも置いている場所で手がむなしく空を切った。仕方がないと新しいバスタオルを取り出すと身体に巻く。
(多少乱暴でも……たかだかドライヤーの熱風に私の髪は負けないよな?)
とは思いつつ、丁寧にタオルドライしてしまう。鏡に映った姿が様になっている。
「ああ、女していますね……ってなに言ってるんだか」
クスリと笑った。これが当たり前なのだ。あと二月もすれば十四歳だ。それだけ長谷川千雨をやって来た。
(そうだ。両親を調べれば、ナチとの関わりを発見できるんじゃ。でも、ここまで私の記憶を弄ってるってことはだ。それ相応の処置を両親にも施していると考えるのが妥当だよな。まあ、でもやってみないことにはわかねぇか。たいした手間じゃないし、ただなあ……)
ここまでのことをやるとなると、処置したのはマレウスだろう。メルクリウスを除き、その魔術の腕前は黒円卓でも抜きん出ている。
(いまいち信用ならないんだよな。性格に難ありだし。トラップとか仕掛けていなよな。本当にないよな? 私ってトラップが発動した状態とか?)
笑えない。まったく持って笑えない。顔が引きつってくる。そんな笑えない妄想を吹き飛ばそうとドライヤーの熱風を送った。水気と共に逡巡も吹き飛ばそうと、少しの間没頭する。
(ひとまず普通にネットで調べれば、諏訪原市の存在ぐらいは分かるか。たしか都市伝説にもなってたはずだし)
バビロンとゾーネンキントが住む教会の電話番号も記憶している。番号否通知でイタズラ電話をするというのも一つの手だ。
(他には……そうだった。マクダウェルがいるじゃねぇか。あれを問い質せばわかるか)
それに行使される方法を考えると、顔がにやけてくる。顔貌はいいが、体つきに不満が残る。しかし、それでも十三年間の禁欲生活を考えると……
「う~ん、まあ……」
下卑た笑みを浮かべて洗面所を出た。足取りは軽い。やりようはいくらでもある。行動を起こすことで思いつく事もある。
(ああ、そうでした)
部屋で、落ち着きなくうろうろしている聡美の姿を捉えた。緩んだ表情を引き締め、浮つく心を落ち着かせる。ネットで調べ物をするにも、彼女の目があるのは拙い。
(明日は大事を取って学校を休みますか)
「あの……」
聡美が弱々しく口を開く。腫れ物に触る様だ。そう言う設定なので間違っていない。任せろと言ってもふたりきりになると、どう接していいのか分からないのだろう。
空気が重くなっていく。千雨はどうと言うことは無いが、聡美は目が潤み出す。
(あ!? そうだ。やっべぇ。顔とか思いっきり綺麗じゃん。どうしよう。傷なんてねぇよ、つーか傷なんかつかないし、そうだ!! 鼻血って事で)
鼻血を頭から被るとはどういった状況だ。
(抵抗して相手の血かな? かなじゃないでしょう。かなじゃ)
あまりにも脆い理論展開。こんなもので希有たる頭脳に挑めるわけがない。だが、そんな千雨を天は見放していなかった。
重い空気を切り裂く間延びしたチャイム。聡美の視線がドアに逸れた。
「え、えっと」
来客は帰る気がないようだ。チャイムが再び鳴らされる。聡美は千雨と玄関で視線を泳がせ、ひとまず玄関へと向かった。
(さて、この間に特殊メイクは無理として、魔術で細工を……いつまでもこの格好では……着替えも済ませますか)
クローゼットを開けて、下着を物色していると、話し声が聞こえてきた。
「龍宮さん」
「邪魔するぞ。取り込み中だと思うが、ハカセ、いいんちょがが呼んでいる。早く行け」
なんでしょうね、と話を想像しながら、ショーツに足を通す。
「え、でも、その……」
「長谷川のことなら私に任せろ。私ならいろいろ伝手がある」
千雨はにやりと笑った。渡りに船だ。
「葉加瀬さん行って下さい。もう少し一人になりたいので」
逡巡が伝わってくる。
「大丈夫ですから」
ベッドに投げっぱなしのパジャマを手に取りながら言った。口調とは裏腹に動作は軽妙だった。
「そ、そうですか」
「代わりに私が一緒にいるから大丈夫だ」
いや、お前も帰れよ。邪魔だっつーの、と言った本音をひた隠し、
「いえ、龍宮さんも、一人になりたいので……」
と伝える。どう出るか、返答までに間があった。
「……わかった」
ぐっと握り拳を作り、小さくガッツポーズ。
「だが早まった真似などするなよ」
聡美が短く悲鳴を漏らす。いらないことを、と思いつつ、
「……大丈夫ですよ」
と返した。するとまもなくしてドアが開いた。真名が愚図つく聡美を押し出しているのだろう、玄関がにわかに騒がしくなるが、その喧騒はドアが閉まると聞こえなくなった。
「ふう~、これで――――ッ?!」
ふり返ると、長身の女が部屋の戸口に立っていた。褐色の見事な肢体を包むのは、レオタードと革のジャケットにオーバーズボン。
帰ったはずではなかったのか。瞬きを繰り返すが幻では無い。彼女は眼を皿のようにしてこちらを見て、停止している。
なぜ、と疑問を投げかけようとしたが、室内の空気が一変した。出遅れたのはクラスメートと言うこともあったからに違いない。
だたの中学生が、懐から引き抜いた手に握っていたのはイスラエル製の拳銃・デザートイーグル。モデルガンではない。見間違えるわけがない。本物だ。
肌が粟立つ。その感覚が眉間に集約されるのと同時に、千雨の首が大きく後ろに仰け反った。