序幕 決闘の終わり
少年の頬をそろり、と風が撫ぜた。
春の気色を孕んだ夜気の柔手。頬を過ぎ、少年の細い首筋から燃えるように赤い髪までを優しく優しく撫で上げる。しかし今この時、それは凍えるほどに冷徹な刃であった。
少年の身体は瘧のようにぶるぶると震えていた。現実の寒さと、何よりもその心胆を伝う悪寒によって。
麻帆良学園都市最端に位置する麻帆良大橋。両側四車線を有する道路と、そこに並び立つ照明装置の灯は既に消え、唯一月明かりだけが路を照らし出している。
幾分高く夜空を映す麻帆良湖の黒々とした水面が、夜風に揺蕩う。湖は見渡す限り海原の如く広大だった。
逃げ場など、もとより何処にも無い。
ここが終着だ。
少年は────ネギ・スプリングフィールドは、そんな誰かの囁きを聞いた。
無論幻聴である。少年の耳は誰の声も聴いていない。
現実は、眼前で彼の敗北が決したというただそれだけの事。
「どうしたんだい。怖い夢でも見たのかな?」
湖水の波風が少女の髪を梳いた。月光に煌きその一本一本が燐光を放つ、長く艶めかしい金糸の髪だ。
その眩い黄金に比して、纏ったローブ、隙間から覗くレース地のキャミソールは夜の湖面より尚深い闇色。
そしてそこから生える稚い細腕、ぺたぺたとアスファルトを踏む素足、風に晒された頬。ソレの柔肌は血色の薄い、ともすれば白磁を思わせる、無垢で新鮮で瑞々しい死人のような白色をしていた。
コントラストの三重奏。見るも鮮やかな陰影画。彼女の精巧さはもはや芸術品である。
「可哀想に。すっかりと怯えているじゃあないか」
人形のようだと人は言うだろう。花咲く可憐さ、命持たぬ無機質さ、触れることさえ躊躇わせる病的な美しさ、それら全てでこの少女は創られているのだから。
口の端が吊り上る。少女が微笑したのだ。
優しさや愛らしさからは天と奈落ほども遠い、悪魔の笑み。悪の魔法使いの嗤みだった。
「そ、そんなことっ……僕は、ま、まだ!」
「さて」
搾り出すようにして漸く発したネギの言葉など、少女にとっては塵芥程の重みも意味も持たなかったらしい。
当然のように無視された。
「約定を果たしてもらおうか。坊や」
「ぇあ、ぅ……」
美酒のように甘く、麻薬よりも逃れ難い囁き。
その声音はそよ風よりも穏やかであるのに、少年からあらゆる抵抗力を奪い尽くした。
ひた、と少女は少年に歩み寄る。
「ッ! ら、ラス・テル マ・スキル――――!!」
一瞬遅れてネギの体がびくりと震え、次いで少年の舌が、喉が恐慌のまま呪文を紡ぎ、定められた魔法を編もうとする。抵抗の意思は剥奪されても目前に迫る恐怖が反射運動的に少年を駆り立てた。
眼前に杖を突き出す。何でもいい。自身と少女を隔てる何かが欲しかった。
早く、急げ、怖い、怖い怖い怖い────
「失礼します。先生」
「あっ!?」
気付いた時、ネギはその手から木杖を奪われていた。いとも容易く、抗いは空しく。
はっとして視線を上げれば、そこには無感情に少年を見下ろす一対の瞳。
女性らしいラインに富んだ全身を包む黒いミニスカートの給仕服にフリル付のエプロンを重ね、モスグリーンのストレートヘアを夜風に靡かせる様は一種幻想的でさえあった。しかし、そんなファンシーな衣装とはほとほと不釣合いに、彼女の両耳からは機械的(メカニカル)なアンテナが生えている。それは彼女が人間ではないという何よりの証左。
絡繰 茶々丸。人の手で造り出されたガイノイドの少女である。
奪い取った杖を茶々丸は少女にそっと手渡す。侍従が貴人へ執るべき礼節作法に則る、いかにも楚々とした動きだった。彼女らの主従関係はそれだけで明白と言える。
「か、返してください! それは大切な!」
「奴の、千の呪文の男の杖……だろう?」
それまでの傲岸にして高雅な物言いから一転、ひどくか細い呟きが漏れ――少女の瞳に影が差す。それは瞬きよりも短く微かな悲哀の色。
未だ人の感情に疎い茶々丸はおろか、大切な杖を奪われ慌てふためくネギにもその色彩を悟らせることはなく。少女の不敵な笑みはすでにそれを覆っていた。
少女の小さな手には無骨な木の感触がある。或いは、手放すことを厭わせる優しさや暖かささえ、錯覚していたのかもしれない。
まるで逃げるように、少女はそれを湖へ投げ捨てた。
「あぁっ!!」
ネギは杖に追い縋るように欄干へ飛びついた。しかし伸ばした手が宙舞う何を掴むことはなく、杖は暗い湖面に吸い込まれていき、間もなく波に浚われた。
愕然と、ネギはそれを見下ろしていた。
一秒、二秒、三秒目、思考停止状態から復帰したネギが最初にできたことは、少女を睨む、それだけだった。その目に涙を溜めて、ひどく静かに少年は――怒っている。
「ハッ、なんだ、そんな面もできたんじゃないか。ほんの少しだけ見直したぞ……先生」
「くぁっ!?」
そんなネギの決死の足掻きを、少女は絶対零度の視線で容易く射殺した。
敵意、害意、殺意。眼光に宿った暴力の総量も、質も、リアリティも、文字通り桁が二つか四つ違う。それは経験、全身に浴びた血飛沫の量、数えきれない死という体験を丸ごと映写しているに等しい。
ネギの身体が竦み上がる。当然の結果だった。蛇に睨まれた蛙の心地を骨の髄から味わわされ、今度こそ心が折れた。夜気に冷やされ、氷のように冷たいアスファルトに膝を付く。
「あ、ぁあ……」
「……そしてこの程度か。頑張った方ではあるが失望は禁じ得ない。お前は本当に奴の息子なのか? えぇ? ネギ・スプリングフィールド――――英雄の息子」
戦意を奪い尽くされたネギに対して、少女はあくまでも冷淡に吐き捨てる。その美貌に表情は無く、ただ瞳に深い落胆を湛えて。
「最早、何も求めん。この忌々しい呪いを解く為の血、ただそれだけをいただく……殺しはせん。それだけの価値もお前にはない」
「っ!」
命までは取らないと、少女は言外に言い捨てた。それは同時に、今宵の勝敗が今完全に決したという証だった。
対するネギの胸に去来するのは卑屈な安堵――などではなく、どうしようもない怒りだけだ。それも、先刻抱いたちっぽけな怒りとは質も量も比較にならない、激しい怒り。だがその矛先が向かうのは頭上の少女ではなく、己自身。何もできない無力な自分、その弱い心に、少年は憤怒を突き立てる。
「僕はっ……」
感情の波濤を持て余し、それらは涙に変わって溢れ流れ出しアスファルトを黒く染める。そして涙する自分が情けなくて、涙はいつまでも止め処ない。
湖上の寒さは、否応なくあの“雪の夜”の冷たさを思い出させる。血も肉も骨までも凍るような。
そして事実、ネギの故郷は凝結した。凍結か石化かの違いを除いて。
悪魔の軍勢に恐怖し、逃げて、次は待ち望んでいたはずの実の父親に恐怖し、また逃げた。そんな弱い自分を思い知らされた一夜。
「僕は……!」
あの夜から、何一つ変わっていないじゃないか!
声なき叫びが胸を衝いた。それは鋭く、鮮やかに、焼けるような痛みを伴う。
――――強く
その叫びは誰にも届かない。たった独りで歩み続けてきたネギには、それを伝える術が分からないから。
――――強く、なりたい
脆く、か細く、愚かしいほどに純粋なその一念は、しかし誰にも響かない。願いを叶え、導いてくれる何者もネギの傍にはいないのだ。
――――何にも負けないくらいに、強く
決して、誰にも。
父親の代わりなど、できないのだ。
「強く、なりたいよぉ……!!」
そしてまた一つ、悲痛な願いが虚空に満ちる。誰にともなく、叶うともなく。
ひたりひたりと確実に少女の魔手が迫り来る。その足音を波風と共に聞きながら、ネギにできるのは事の終わりまで目を閉じることだけだった。
そうして少年は、ゆるりと絶望に身を寄せた。
「じゃ、修業しねぇとな!」
その声を、ネギはしかとその耳で聴いた。
「……え?」
決して幻聴などではない。それは確かに“生きた”人間の声だった。
俯けていた顔を上げ、前を見る。そして今一度ネギは言葉を失った。
果たして、その男は一体いつからそこにいたのだろうか。
何の予兆もなく、何一つ前触れなど在りえず、まるで始めからそこに存在していたとでも云うかのように、ネギの眼前で一人の男が立っている。
「ぁ、あなたは……?」
夜の帳が降りきった湖上の橋の上、それも魔法という理外の力が交差するこの場所で、その男の風体は控えめに言って場違いそのもの。
真っ先に目を引くのは、そう、その目の醒めるほどに鮮やかな橙色――否、山吹色の胴着。街灯が死に絶え、月明かりだけが頼りの夜闇の中でさえ派手派手しいそれを、男は不思議と着こなしている。
袖のない胴着の下には濃紺のシャツ。左右の手首にもまた同色のリストバンドを巻き、腰帯や履いたブーツの彩もまた同様だった。
四方八方へ伸びた髪を夜風に晒しながら、男は悠然とネギを見下ろす。口元には、笑み。なんとも無邪気な笑顔であった。
「オラもだ」
「え?」
出し抜けに言い放たれ、ネギは返答に窮した。
会話の手順を二歩か三歩踏み損ねたやり取り、それも理路整然とした思考が困難な今、ネギが男の言わんとする意を汲み取れないのも当然である。
そんなネギの戸惑いを、男は何一つ頓着しない。ただ浮かべた笑みをさらに深くするだけ。それは、ひどく優しい笑みだった。
「オラも強くなりてぇんだ。そんで世の中のいろんな強ぇやつと闘いてぇ。そんでもって闘うからにゃ、そいつらに勝ちてぇ」
「は、はぁ……」
「おめぇは、負けちまったんだな」
「っ!」
脈絡のないそのたった一言でネギの胸は抉られた。
負けた。敗北したのだ。完膚なきまでに、己の全能力は捻じ伏せられた。
それは否定しようのない事実。火傷するほどに冷たい現実。
また一筋、ネギの頬を雫が伝う。
「泣くな!」
「わわっ!?」
ひどく乱暴に、無遠慮に、荒っぽく、丁寧さの欠片も無く、男の手がぐしゃぐしゃとネギの頭を撫で付けた。
乱れに乱れていた脳内がとうとう混乱の極地に行き着いた辺りで、ようやく男はネギの頭をこねくり回すのを止めた。それでも手は頭から離れない。
暫時、男の動きが止まる。目を閉じ、まるで深い瞑想に埋没したかのように微動だにしない。
そうして何が何やら分からぬ内、男は目を開けていた。
「そっか、そういう訳だったんだな」
男がその場に屈み、その両目がネギを捉える。真っ直ぐな黒目を前に、ネギは何も言えなくなった。
「悔しいよな。全力で闘ってよ、それでもてんで敵わなかったなんて悔しくて当たりめぇだ。でも、泣くな」
「…………」
「相手がどんなに強ぇヤツでも、そん次はそいつに負けねぇくらいもっともっと強くなりゃいいじゃねぇか! 泣いてばっかじゃ始まんねぇ。それにおめぇはまだまだガキなんだしよ、諦めるなんてねぇぞ」
戸惑いながらも、ネギは男の言葉を聴き続けた。そうすることが正しいような気がしたから。
「おめぇは強くなれる。絶対だ!」
――――それが、物心付いた頃からずっと“あの人”に言ってほしかった言葉だから?
「ん」
「……?」
言い終わるや否や、すっくと立ち上がった男は蹲ったままのネギにその手を差し出した。
「ほれ、掴まれよ」
「あ……うわ!?」
反射的に掴んだ手を思わぬ力強さで引っ張り上げられ、ネギは数歩よろめいた。男に支えられたお陰で転んでしまうようなことはなかったが。
男の手はひどくごつごつとしていた。何度も傷付いて、肉刺を潰し、骨を砕き、その度に硬く堅固に作り治されてきた、そんな無骨に過ぎる手。
どこか懐かしい、暖かな手。
「あ、あの……どうして、……あなたは……」
尋ね問い質さねばならないことがたくさんある。けれど少年の喉笛は壊れた楽器のように言葉を見失う。
そうして何も言えず戸惑うままのネギに、やがて男は背中を向けた。
その途端、胸中に満ちていた戸惑いなど一挙に押し流されていった。ただただ寒気を催すほどの不安だけがネギの全身を支配する。
「待ってくださいっ! あの!」
辛うじて縋り付くような真似だけはしなかったものの、その震えた声では縋っているのとなんら変わらない。
歩み出そうとしていた男の足が止まり、首だけネギに振り返る。背を向ける前と変わらない穏やかな面貌だった。
ネギは、何も言わない。何も言葉が浮かばない。ただ、無性にこわかった。
男はしばらくネギの顔を見たかと思うと。
「心配すんなって! すぐ戻ってくっからよ」
そう言って、また朗らかに笑って見せた。散歩にでも出かけるように、なんとも軽い口調で。
その瞬間、す、とネギの不安は呆気なく消える。もう置いて行かれないとわかったから。
夜風の冷たさはいよいよ正常な暦を無視し始めた。アスファルトには薄氷が這い、流れゆく大気には白塵が舞う。
しかして、今この場で真に凍てついたものは少女のその瞳ただ一対のみ。それに比べれば雪や氷のなんと生温いこと。
男を射抜く少女の殺意は、確実に極寒を凌駕していた。
「今更言うまでもないが、私が聴きたい事柄はたった一つだ。べつにそれ以上答える必要もない。聞き出すべき情報がお前にあるなら詰問でも尋問でも拷問でもこの学園の者共が好きなだけやるだろうからな。ただ、それを問うに当たって、私とて最低限度の礼節を執ることは吝かではない……それが仮令、これから死ぬ人間であったとしても」
少女のローブが風に踊る。
男の黒髪が風に揺れる。
「私の名はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。そして聴こう、貴様は何者だ?」
問い掛けは風に乗り、男の元へ届けられ、そうして男は口を開いた。そこには何の気負いもない。ただ一片の恐怖も不安も在りはしない。
どこまでも真っ直ぐな瞳に在るのは、一つ。
「オラ、孫悟空だ」
※※※あとがき
性懲りもなくこんにちは。はじめましての方ははじめまして。足洗と申します。ドラゴンボールの劇場版が公開ということで我慢できずに投稿しました。
以前にじファンに投稿していたネギま×ドラゴンボールのクロスオーバーです。主人公は主に悟空だったりネギだったりエヴァだったりします。
楽しんでいただければ無上に幸いです。
ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします。