それから数日後の夕暮れ時、玄関からチャイムが響いた。
「――はぁい」
僕は夕食作りを一旦中断し、玄関へと向かう。そしてエプロン姿のまま扉を開ければ、そこには見知った人物が立っていた。
「……」
どこか申し訳なさそうに立つ彼女。長い髪はポニーテール状にまとめられ、風に靡いていた。視線を逸らし、目を合わせようとしない。
もしかしたら、躊躇しながらようやく来たのかもしれない。
だから僕は、彼女――アスカに笑顔を向けた。
「……いらっしゃい」
僕の顔を見て、少し安心したのかもしれない。ここでようやく、彼女は口を開いた。
「……き、来てやったわよ」
「うん。上がってよ。ご飯、もうすぐ出来るからさ」
「……」
家の中に彼女を招く。でも彼女は、その場を動こうとしない。
「ん?どうしたの?」
「……変なことしないでしょうね?」
「しないよ!するわけないだろ!」
「ちょっと!それってどういう意味よ!」
「どうって……!――ああもう!とにかく入ってよ!」
「言われなくても入るわよ!」
……僕は、変態か何かと思われたのだろうか……。
「へえ……綺麗にしてんのね」
アスカは部屋の中を見渡しながら、キッチンへ入ってきた。
「適当に座っててよ。もうすぐ母さんたちも帰って来るからさ」
「ええ。そうさせてもらうわ」
席に座ったアスカは、一度体を伸ばした後に、もう一度キッチンを見渡した。よほど人の家が珍しいのだろうか……。
ある程度首を動かした後、今度は彼女は、僕の方を見はじめた。
ご飯を作っていると、背後から視線をひしひしと感じる。しばらく様子を見たけど、いっこうに視線が収まる気配がなかった。
「……ええと……なに?」
僕の問いに、彼女は不機嫌そうに言った。
「……あんた、本当に料理出来るのね」
「信用してなかったの?」
「そういうわけじゃないけど。ただ、男子で料理をする奴が珍しいだけよ」
「ん……アスカは、料理したりしないの?」
「……したことない」
少しだけ、言い悪そうにしていた。
「そっか。今度作ってみる?」
「気が向いたらね……」
それから、彼女は口を閉ざした。時折僕の方を見ながら、机につっぷくしたりして時間を潰していたようだ。
室内には料理の音と、時計の音だけが響く。ぐつぐつ……じゅーじゅー……いつも聞いている音ではある。でもどこか、その音は僕の心を緊張させていた。
「ただいま。……あら?」
母さんは帰るなり、そのお客さんに気が付いた。そして優しく彼女に微笑みかけた。
「――いらっしゃいアスカ。待ってたわよ」
「気が向いただけよ。それに、ご飯食べたら帰るし」
「相変わらず、素直じゃないわね……」
母さんは笑顔のまま呟き、テーブル上に荷物を置く。アスカはというと、何だか言い負けたような複雑な顔をしていた。
これぞ、大人の対応って言うのかもしれない。
「もうすぐご飯出来るよ」
「ありがとう、シンジ。……あらあら。いつもよりも気合入れちゃって」
クスリと笑う母さん。それは言わないで欲しかった。
今の、当然アスカも聞いてたよな……。
ちらりとアスカの方を見てみたが、そっぽを向いていた。ホッとしたような、がっかりしたような……。人の気持ちとは、かくも難しいものなのかもしれない。
それから父さんも家に帰り、四人で食卓を囲む。
一応キョウコさんはいいのかとアスカに聞いてみたが―――
「ああ、ママはいいのよ。どうせ遅くなるし、勝手に食べてるだろうし」
――とのことだった。
これも一種の信頼関係なのかもしれない。ただどことなく、そう話すアスカが寂しそうにも見えたのは、僕が気にし過ぎてるだけだろうか。
「……アスカ、どう?シンジのごはん、美味しいでしょ?」
相変わらずの、母さんスマイル。アスカはご飯をもぐもぐと噛みながら、素っ気なく答える。
「まあまあね。悪くないわ」
「あら。アスカとしては、最高の褒め言葉ね。よほど気に入ったみたいね」
クスクスと微笑む母さんを、ジト目で見つめるアスカ。
(……凄い。完全にアスカを圧倒している。さすが母さん……)
……ここでふと、父さんの方を見てみた。
「……ユイ、醤油……」
ぼそぼそと呟くが、アスカと話す母さんには届いていなかった。
「……ユイ。醤油……ユイ……しょ……」
しばらく呟いていた父さんだったが、戦意を喪失したのか、最終的には自分で取りに行ってしまった。
(……父さん……)
僕が、取ってあげれば良かったかもしれない。ごめん、父さん……。
◆
「……一応、お礼言ってて上げる。まあまあだったわ」
(いや、それはお礼とは言わないんだけど……)
「――あ、そうだ。アスカ、これ……」
僕は彼女に、小さな鍋を渡す。
「……これは?」
「今日の夕飯の残り。キョウコさんがお腹空いてたらいけないし。もし食べなかったら、明日にでも食べてよ」
「……あんた、つくづく変わってるわ」
「そ、そうかな……」
褒められたような、バカにされたような……。まだ僕には、母さんみたいに上手い返しは出来ないようだ。
「アスカ。キョウコによろしくね」
「ええ。分かったわ。――じゃあね」
最後まで彼女らしく、玄関は閉められた。
それと同時に、母さんが言ってきた。
「……あの子はね、寂しいのよ。キョウコは忙しくて、小さい頃から一人で過ごすことが多かったし。誰かに甘えるっていうのが、よく分からないのよ」
「……」
「シンジ。アスカをよろしくね。一番近くにいれるのは、たぶんあなただから」
「……よろしくって言われても、こんな感じだからね」
「ええ、そうね。凄くいい感じよ」
「ええ……嘘でしょ……」
「いずれ分かるわ……」
小さく笑みをこぼした母さんは、そのまま奥へと歩いて行った。
母さんの背中を見送った後、僕はもう一度閉められた玄関に視線を戻す。
誰もいない部屋。暗い部屋。そこへ帰る彼女は、どういう気持ちなのだろうか……。それはきっと、父さんも母さんもこうして家に長くいる僕には、分からないのかもしれない。
(……明日も、弁当作るかな……)
そして僕は仕込みをするために、キッチンへ向かって行くのだった。