「では、みなさんまた九月に会いましょうね」
綺麗に磨かれた黒板を背にし、担任の葛城ミサトが夏休みを告げた。生徒も教師もまぶしいほどの笑顔を浮かべ、教室はがやがやとにぎわいだした。
「明日から夏休みが始まる」と考えるだけで、自然と頬が緩んでしまう。山のような宿題も、「どうにかなるだろう」というポジティブに考えてしまうほど、生徒たちは開放感に包まれていた。明日から何をしよう。――まず、朝は9時まで寝ていようか。それから、友だちと出かけよう。そうと決まれば、どこに行くか考えなくちゃ――。
夏休みは、何をするかあれこれ計画をたてるときが一番楽しいのである。ほとんどの生徒がすぐに帰らず、そこらで会話の花を咲かせている。ところが、そんななかにひとりポツンと取り残された少年がいた。背は高くもなく、低くもない。無駄な肉は付いていないが、骨張った体つきでもない。加えて男らしさはお世辞にもあると言えないが、女性ではない。きわめて中性的な顔立ちの少年である。彼は鞄に道具をつめながら、今後の予定についてあれこれ思索していた。
────彼の名前は碇シンジ。14歳になったばかりの、どこにでもいる普通の中学生だ(と自負している)。
「シンジ君」
シンジが考え事をしてボーっとしていると、突然背中を叩かれた(というよりも優しく手を置かれた、というべきか)。びくりと背筋を振るわせて驚いたが、背後に誰が立っているのかはすぐにわかった。こんなことする奴は地球上にひとりしかいない。
「……カヲル君、いきなり驚かせるのはやめてよ。いつも言ってるじゃないか」
「ははは、ごめんよ」
カヲル君と呼ばれた銀髪赤目の少年は意に介した様子は全く無い。シンジはいつものことながら嘆息した。このようなマイペースさには、こちらのペースをずらす変化球であり、いつまでも慣れない。カヲルはシンジの顔を覗き込んだ。
「シンジ君、明日は何か予定はあるかい?」
「えっ? 何も無いけど」
カヲルが心底嬉しそうににこっと笑う。シンジは何だか嫌な予感が胸に渦巻くのを感じた。彼の第六感(というよりも経験)が警鐘を鳴らし出す。過去の記憶が脳裏に浮かぶ。間違いなく、この胸によぎる不安は杞憂ではない。
「(はあ――。また山籠りしようとか風船で空を飛ぼうとかアメリカのCIAのコンピューターに不正アクセスしようとかおよそ中学生らしくないことを言い出すんだろうなあ。そろそろ身の危険を感じるよ。CIAに関しては未遂に終わったけど、カヲル君、妙なところで全力だからなあ)」
「今度は何をたくらんでいるんだい? カヲルく……」
「旅行に行こう!」
「────は?」
カヲルの口から出た言葉は、シンジの予想の斜め上を行く言葉だった。だからこそ、シンジは驚いて聞き返してしまった。
「……旅行?」
「そうだよ。旅行……いいねぇ、考えるだけで心が躍るよ」
うっとりした表情でカヲルは外を見る。まったくもって、この少年は何を考えていることはわからない。この間も学校に出前でラーメンを頼み赤木リツコ先生に怒られていた。そのときの反論が「先生、僕にとって規則と食欲は等価値なんです」というわけのわからないものだった。その分痛烈なカウンターをリツコからもらっていた。……ちなみにミサトはカヲルの様子を見て一言、「いいわねぇ」なんて呟いたもんだからカヲルと一緒にリツコに怒られていた。
シンジは何か企んでいるとしか思えないカヲルの笑顔に警戒しつつも、「旅行」という響きに惹かれつつあった。
「うーん、まあ、僕はいいと思うよ。でもカヲル君、何処へ行くつもりなの? 僕、あんまりお金持ってないよ」
何しろ中学生の身である。月に小遣いはもらっているが、旅行でざっくり使えるほどの金額ではないし、貯金もない。しかしカヲルは、わかっているよ、君のことならなんでもお見通しさ、と言わんばかりに指を振った。
「ああ、その事だけどシンジ君。お金やホテルの事は何も心配要らない。その代わり行き先や現地での行動は全て僕が決める、ってのはどうだい?」
カヲルの爽やかスマイルがきらめく。一方で、シンジは眉をしかめる。その条件ではカヲルに負担がかかりすぎているのは明白である。比較的常識的な思考を持ち合わせているシンジにとって、それは素直に受け入れがたい提案だった。
「そんなの君に申し訳ないじゃないか。宿泊するなら、お金はそれなりにかかるでしょ?」
「ふふふ、シンジ君。そういう君の謙虚なところは非常に好意に値するけど、僕は心配ないって言ったんだよ」
「えっ? どういうこと?」
「つまり、全てを僕にゆだねる、ということさ」
絶頂しそうな笑みを浮かべ、カヲルが両手を広げる。というか答えになってない。
「さぁシンジ君、出発は明日だ。心の準備はいいかい?」
「え……こ、心の準備って……?」
「決まってるじゃないか。僕と君の───」
ざん、と音がした。後ろに立つ何者かによって、カヲルの体が暗転する。
がし、と音がした。カヲルの頭に何者かの指が食い込んだ。
「───面白そうな話をしてるじゃない。あたしも混ぜてくれるかしら?」
「小さなお子様のような無粋な介入はやめてくれないか。それに、これは僕とシンジ君だけの秘密の話なんだ。おさるさんはさっさと帰ってバナナでもたべ、」
ぐき、と音がした。カヲルの頭が変な方向に曲がっている。シンジはただそれを震えながら見つめている。さながら蛇に睨まれた蛙のように。そして、シンジは心の中で合掌をしていた。───ごめん、カヲル君。僕には何もできない。でも、スイッチを押したのは、君だ。
「カヲル、あんた今の状況分かってる? あんたに拒否権は無いのよ」
「ははは、じゃあ仕方ないな。僕とシンジくんの愛の語らいが終わってからすぐにいいいああいたたたたた、いた、いたいよアスカちゃん」
アスカと呼ばれた少女───ドイツ人のクオーターであり僕の幼馴染の少女───はこめかみに青筋を立て、カヲルの首をすでに90度以上回している。
「何言ってるの。あんたの緩んだ頭のねじを締めてるだけじゃない。ていうか死ね」
「なるほど、やっぱり緩みたるみが気になるお年頃なんだね。君も少しはかわいげが出てきたじゃないか。だけど緩みは自分のそのはあがががが」
「じゃあ、きつく絞めておかないとね……!」
ぎちぎちとカヲルの首が回転していく。カヲルはアスカの手首をつかみ抵抗を試みるが、無駄だった。乗っ取られた四号機が初号機の首を絞めるように、いっそうアスカの腕がカヲルの頭に食い込んだ。
「アスカー本当に死んじゃうよー(微声)」
「いいのよシンジ。こいつは一回くらい殺してやらないと……!!」
アスカは完全に殲滅態勢に入っている。ちなみにシンジはアスカより腕力は劣る。ということはこの場を収める事は無理。できることは皆無。
「ア、スカ、ちゃん、本当に、死」
さすがのカヲルも限界が来たらしく、引きつった笑みを浮かべている。シンジは止めようにも、とばっちりを恐れ手を出したり引っ込めたりしている。そんな様子でシンジがあたふたしていると見知った顔がこちらへ歩いてきた。
「アスカ」
アスカの手から力が抜ける。同時に勢いよくカヲルの頭が元の位置に戻った。カヲルは糸が切れた人形のように床に崩れ落ち、ぴくぴくと痙攣し始めた。
「あら、レイ。もう終わったの?」
レイと呼ばれた少女はこくんと頷いた。青い髪に赤い目を持ったアルビノの少女である。
レイは終礼が終わると同時に先生に呼び出され、そのまま職員室へと連れて行かれた。たった今用事が終わり戻ってきたようだ。
「――やっぱり、家の事?」
「ええ、仕方ないわ。家に親がいないのだから」
やっぱりそうかとアスカと二人は頷く。レイは現在アパートに独り暮らしをしている。その理由は親が海外で働いているからである。ただ、中学生の女の子が独り暮らしをしているので、ミサトから心配されている。
「夏の間だけでも家に来ないかって誘われたわ。もちろん断ったけど」
うっ、とアスカのうめき声をあげる。昔、二人でミサトの家に行ったらしいが、一泊して帰ってきた時、ひどくやつれていた。シンジは驚いて何があったのか聞いたのだが、何も話してはくれなかった。唯一語ったのが「シンジ……世の中知らないほうが良い事もあるのよ」とだけで、何も教えてくれなかった。当然、高性能な危険センサーを搭載する僕は、これ以上首を突っ込まずに、すぐさまアスカたちにハンバーグ定食をこしらえたのだ。
「……まぁ、私の家ならいつでも来ていいわよ。あんた、ママにすごい気に入られているし。来たらみんな喜ぶって」
「ええ、ありがとう」
ああ、なんか微笑ましい。友情とはかくも温かくで思いやりのあるものなのだ、とシンジが他人事のようにニコニコしていると、アスカが恐ろしい形相でぐりんとこちらを向いた。
「ところでシンジ、あんたカヲルと何を話してたの?」
当のカヲルはまだ足元で痙攣している。常人であったら即救急車だが、彼はいつの間にか勝手に復活(リレイズ)するため放置することが習慣となっている。ちなみに彼のこのような特質について、街で会った赤い目のツインテール少女と紫色の髪のミニスカ少女が復元呪詛と呼んでいた。なんだか不死の吸血鬼じみている。
「ああ、僕もよくわからないけど、旅行に行かないかって誘われたんだ」
「旅行? どこに?」
「さあ、それを聞く前にアスカが殺っちゃったから」
アスカはばつの悪そうな顔をする。シンジはあわてて付け加えた。
「何か旅費とかは何も心配しなくていいってさ。その代わりスケジュールはカヲル君が決めるって」
「そう……非常にうさんくさいわね」
これは明らかなことだが、カヲルの不可解な行動は彼女たちにとって良い結果をもたらさない、という鉄の掟(経験)がある。ゆえに、この少女らはカヲルがいつもよりニコニコしながらシンジに話しかけていると、必ずと言っていいほど間に入る。今回もそうである。
問題が先に進まないため、アスカはつま先でカヲル君の頭を蹴って起こすことにした。
「いつまで寝てるのよ。起きなさい、カヲル」
「……む、どうした僕」
カヲルは至極何事もなかったかのように立ち上がった。
「あんた、シンジと旅行ってどういうことよ」
なんだか首が痛いなぁ、とうなじをさすっているカヲルに、アスカはすっぱり切りだした。
「ん? なんでアスカちゃんが知っているんだい?」
どうやらカヲルはここ数分の記憶を見事に失っているようで、心底不思議そうにアスカに尋ねる。
「んなことどうだっていいのよ。答えなさい」
「やれやれ、若いね、アスカちゃん。何事も順序があるのさ。ここはまず、シンジ君と二人きりで話し合うことを提案するよ。その際君は夏休みの宿題といった事務作業を行うといい。どうだい? 実に効率て……」
ぐき。
「……」
「……」
「……(がたがた)」
「───カヲル。碇君と旅行ってどういうこと?」
ついにレイまで殲滅態勢に入った。カヲルはレイに首根っこを押さえられ、だらだらと脂汗を流している。カヲルの眼の前ではアスカが、次余計なこと言ったらコロスワヨ、と目で脅している。
「レイ、ちょっと落ち着い……」
「……レイ」
「了解」
ずるずるずるずる、とカヲルはドナドナをBGMに背負って処刑場(教卓の裏)へと引きずられて行った。アーメン。その間シンジは夏休みの宿題をすることにした。実に効率的である。
「話は聞いたわ、シンジ」
1分もしないうちにアスカたちは出てきた。机の向こうに、地面に投げ出されたカヲルの腕が見える。今度は痙攣すらしていない。どうやら話し合いは殊の外穏便にすんだようだ。
「話って……僕もほとんど聞いていないんだけど」
「私たちの調査によると、目標は四泊五日で碇君とホテルに行く計画を画策していたわ」
さながら犯人を尋問した刑事のように、メモ帳をめくりながらレイが答える。
「場所はS県の冬木市ってトコ。まったく、何考えてんだかこいつは」
げしげしとアスカが倒れているカヲルに蹴りを入れる。その一連の動作に全く無駄がない。毎日繰り返し行われているいい証拠だ。
「ちなみに、ホテルはもう予約済み」
「ええっ!? まだ僕行くって言ってないのに……」
シンジはカヲルのあまりの強引さに呆れかえった。この人はいつも人の都合を無視してマイペースにことを進めるのだ。しかし、シンジはそこではたと気がついた。それを言えばアスカもそうだが、……アレ? そういえば、レイもそんなところがある気がする。もしかして、みんな似たものどう───
「「何か言った?」」
「なんでもありません……」
「しかし、夏休みにいきなり旅行なんて……こいつ宿題する気まったくないわね」
「ええ。学生としてあるまじき態度だわ。この機会に性根を叩き直すべきね」
学園でも男子の人気を二分するこの美少女らは、倒れ伏すカヲルをまるで死にかけたゴキブリを経過観察するような慈悲0%の目で見つめている。彼女たちはいつか本当に殺ってしまうかもしれない、それだけをシンジは心配していた。なぜなら、カヲルが余りにも不死身すぎるからである。もしこの制裁の矛先がケンスケとかに向いたら、……おそらくケンスケは重傷を負いICUに運び込まれ3カ月入院した後、奇跡的に回復するも重度のPTSDを患い精神病院に収容されてしまうだろう。くわばら、くわばらとシンジは手のひらをさすった。
「ふ、ふふふ」
「あ、復活した」
カヲルがうつぶせのまま不気味に笑っている。どうやら彼はまだ諦めていない。何か策があるようだ。
「何を笑っているのかしら、カヲル。言っとくけどね、アンタとシンジの旅行なんて認めないわよ」
さらりとシンジの自由意思を消しとばすアスカ。その発言につっこむことなく、隣でさも当たり前のような顔をしているレイ。
「ふふふ、それは君の決めることじゃないよ。あくまでも僕はシンジ君を誘っているだけさ。決めるのはシンジ君だ」
「へえ……だそうよ、シンジ」
カヲルの後頭部を踏みつけながらアスカがこちらを見る。その表情は美しく輝いている。さすが校内いちといわれる美女だ。だがシンジは知っている。この表情の彼女には、決して逆らってはいけないことを。シンジの細胞が、遺伝子が危険を訴えている。
「どうなの。碇君」
レイまでこちらを見る。微笑むアスカに対して彼女は無表情だ。彼女は普段から感情表現が乏しく、そのためアスカに並ぶ美人であるものの、彼女よりいまひとつ支持されない。しかし、その裏にコアなファンが沢山いるのだ。そして、シンジは理解している。この表情の時の彼女の言うことは、必ず聞かねばならないことを。シンジの神経が、深層心理が危険信号を発している。
「ぼ、僕は……」
断ろうと口を開くと、カヲルの目が光った。
「───極上の和食」
「はっ!!?」
家政婦シンジアンテナが反応する。極上……だと……!?
「鍛え抜かれた匠の技、選び抜かれた至高の食材……この二つの奇跡が織りなす珠玉の日本料理を食べたものは、皆失われた栄光にたどり着くという……まさにそれは――」
「「全て遠き理想郷(アヴァロン)───」」
「……」
「……」
「……アスカ」
「……なに?」
うっとりする男二人の横で、まったくもって彼らの感動を理解できない少女二人がうんざりとしている。
「意味が、わからない」
「シンジが料理好きなこと、知ってるでしょ。最近はね、和食に凝ってるみたいなの。その欲に溺れた心の隙を、カオルはついたわけね。高級和食でシンジを釣って、二人旅にしゃれ込もうってワケ」
カヲルのやつ、本気ねとアスカがつぶやく。レイも状況を把握して、打開案を模索し始めた。
「……カヲル君。君の友だちであることを、心から光栄に思うよ。いや、すまない。疑いなく、君は僕の親友だ」
「ははは。うれしいよ、シンジ君。たとえそれが欲につられた言葉でもね」
HAHAHA、と邪気のない笑顔で握手をする。細かいことは気にしてはいけないのだ。
「じゃあシンジ君。何だかさっきも言ったような気がするけど、出発は明日だ。詳しいことは帰ってからメールするよ。君はご両親に了解を得ておいてくれ」
「わかったよ。きっと、父さんも母さんもいつものように『カヲル君なら安心ね(問題ない)』って含みのある笑顔で言うと思うよ」
「さすがシンジ君の御両親だ。尊敬に値するよ」
とんとん拍子に話が進んでいく。横からはまずいわよ、ええ、なんとかしなきゃ、殲滅? なんて物騒な言葉が聞こえてくる。なんとかする→殲滅という思考は少女としていかがなものか。
「というわけでシンジ君。僕は明日の準備があるから、はやめに帰宅するよ。ああ、明日が楽しみだな。じゃあまた「ちょっと待ちなさい」ねエ゛ッ」
ささっと帰ろうとするカヲルに、アスカが容赦ないラリアットを首筋にぶち込む。破砕音とともにカヲルは空中で半回転し、地面に叩きつけられた。今日何度目かわからない攻撃である。
「───ア、アス、カちゃ、ん……。今の、は……冗談抜きで……」
「うるさいわね。何勝手に話を進めてんのよ。まだこっちの話は終わってないのよ」
さすがにダメージが蓄積されてきたのか、カヲルはぴくぴく悶えている。対してアスカはそんなことも気に留めず自分の話を進める。おそらく被害者がケンスケだったら首がもげて飛んでいってガラスを破り、脳漿をまき散らしながら校庭をピンクに染めるだろう。(バッドエンド1)
「ほら起きなさい。一秒以内に」
げしげしと蹴りを入れながらアスカが無茶な注文言う。
「アスカちゃん」
「なによ」
「パンツみエ゛ッ」
「死ねっ!!」
ぐぼり、とやばい音がして、アスカの足がカヲルの顔にめり込む。おそらく被害者がケンスケだったら、某ゾンビゲームの雑魚ゾンビのように首がもげ転がる、いや、頭蓋骨ごと踏みつぶされ、床に赤い花を咲かせるだろう。(バッドエンド2)
「なあ碇。さっきから妙なこと考えてないか? なんかひどく馬鹿にされてる気がするんだけど」
「あ、ケンスケいたんだ」
妙なタイミングで登場し、さらりとあしらわれ教室の隅でしくしく泣き出す相田ケンスケ。それを親友の鈴原トウジが慰める。彼らの出番は、もう、ないだろう。
そうこうしているうちに、すっくとカヲルが立ち上がった。鼻血を出しているがHPはまだ残っているようだ。彼の不屈の闘志が眩しい。
「やれやれ。言いたいことはわかっているよ、二人とも」
「へえ、じゃあ言ってみなさいよ」
「―――うらやましいんだろ? シンジくんとの旅行が」
ぴき、とアスカとレイの額に血管が浮く。アスカの拳からメキメキメキとヤバい音が聞こえる。
「あ・ん・た・ねえ―――っ!」
ひゅっ――という短い呼吸のためから、どこで体得してきたのか、正中線四連突きを放つアスカ。彼女は最近、中学生というよりグラップラーになりつつある。そんなアスカの家にはライオンの巨大なベルトが飾ってある。アスカ曰くキョウコさんが東京ドームの地下から拾ってきたものらしい。
「ふっ」
カヲル君はほぼ同時に放たれる4つの突きを完璧に受け流し(まわし受け)、対変質者用に鉄板が入れてあるレイの鞄の追撃を上体反らしで避けると、カヲル君は二人に距離を置いた。ちなみに鞄はケンスケの机を着弾し、見事に机を破壊した。
「ちっ!」
「……」
アスカとレイが悔しそうに歯がみをする。話も何も、殲滅する気満々である。
「まあ待ちなよ。そんなに僕とシンジ君の旅行を阻止したいのかい?」
「阻止したい、とは言ってないわ。あなたの身勝手さに喝を入れたいだけ」
さも当然のようにレイが言う。だが、カヲルの代わりに喝を撃ち込まれ粉砕されたケンスケの机が、無言で何かを訴えている。
「そうよ。あんたに振り回されて困ってるシンジを助けようとしているんじゃない」
……いまのは聞き捨てならない。シンジは、それはアスカもいっし……と言おうと口を開きかけたところで止めた。シンジにはカヲルのようなギャグ補正はない。一撃であの世に逝くだろう。
カオルはやれやれと首を横に振った。
「へえ。じゃあ僕がシンジ君を誘わなかったらどうなるんだい? ふん、答えは簡単だ。僕の代わりにシンジ君は君たちに振り回されることになるんだ。僕は先手を打っただけさ」
うっ、とアスカが口ごもる。レイも返しの言葉を出せず、歯がみする。それを見てカヲルは満足そうに笑った。
「だから言っただろ、『わかってる』って。――今度の旅行は、君たち二人も連れていくよ」
「え??」
カヲルは無邪気な笑顔でそう言った。これはシンジも驚いた。この人たちは毎回いがみ合い(一方的に)、取っ組み合いしてきた(一方的に)。いつも利害が反目し合い、どちらかが折れるまで(カヲルが殲滅されるまで)終わらない戦いばかりだった。しかし今回は、カヲルが実に大人の対応をしたのだ。
「……」
「……」
さすがに二人も驚きで言葉がないらしい。その様子を見てカヲルはさらに満足そうに笑った。
「毎回毎回喧嘩ばかりじゃ面白くないし、シンジ君の胃もストレスでハチの巣になるだろうから、今回は僕が折れるさ。ああ、僕の言いだしたことだ。費用は全部僕が負担しよう。ただ、向こうについてからの行動は僕が決めるよ。それでいいかい?」
完璧だ。カヲルは最強死刑囚ばりに出会って即殺し合いをしている彼女たちと、最高の折衷案を出した。二人もそれが理解できているようで、疑わしげな視線をカヲルに送りながらも、だんだんと信用の色がにじみ始めている。
「一つ聞くわ。カヲル」
「なんだい」
薔薇でも咲きそうな笑顔でカヲルは返答する。
「向こうに着いて、私たちとあんたたちは別行動、なんてこと言わないわよね」
なるほど。アスカはなかなか鋭いところをついた。いつものカヲルならここでビクリなんて謎の擬音を出して脂汗をかき始めるのだが、心外だとも言わんばかりに眉を寄せた。
「何を言ってるんだ。そんなつまらないことしないよ。せっかくの夏休みなんだから、みんなで楽しまなきゃ意味ないだろ?」
その言葉が決め手となった。アスカとレイはお互いを目を合わせ頷いた。
「…わかったわ。あなたの提案に乗りましょう。詳細は後でメールするんだったわね?」
レイが構えていたカバンをおろす。ガチャン、と音がして張り詰めていた殺気が途切れる。よく見たら教室が静まり返っている。他の生徒たちは今がチャンスとばかりに教室から逃げ出した。
「ああ、でも荷物は多くならないようにするから。服は二日分でいいよ。ホテルで洗ってくれるからね。あと、冬木には「わくわくざぶーん」っていう温水プールがあるらしいから、水着を買っておいてくれ。まあ、君たちのことだからもう用意してあると思うけど」
ぴく、と二人の頭に何故か犬耳が見えた気がした。
「ふ、ふふふ。気がきくじゃない、カヲル。ちょっと見なおしたわ」
「ええ。いい心がけね」
二人は怪しく笑いながらカヲルを超上から目線で褒める。
「ここまでやって『ちょっと』見直すだってさ、シンジ君」
「うん、笑えばいいと思うよ」
HAHAHA、と今度は乾いた笑いをあげるカヲル。だいじょうぶ、君の親友はここにいる。高級料理がある限り。シンジは心の中でフォローした。