桜はシンジに肩を貸してカヲルの後を追った。やがて境界の裏手に出ると、道路のあたりから強い光が瞬いた。それが車のパッシングであると気づいたのは、中から人が出てきたからであった。エンジンとライトをつけたまま、こちらに歩いてくる。
背の高い、女性である。光を背にしているので、顔は見えない。腰に手を当て、こちらを覗き込んでいる。桜は戸惑った。敵ではないことは明らかだ。敵ならばこの暗闇に乗じて襲ってくるだろう。わざわざ姿を現す意味はどこにもない。
しかし、目の前の女性は少なくとも自分の知る人物ではない。桜は魔力をフル回転させた。
「あら~、やっぱりシンジ君じゃないの!」
「えっ」
シンジは驚きのあまり顔を上げた。それはとても聞きなれた声だった。しかし、その声の主がここにいるはずがない、その違和感がシンジの意識を覚醒させた。
女性はすたすたと近づいてくる。シンジの反応に、桜も警戒を緩める。敵ではないようだ、シンジの間の抜けた顔からよくわかる。
「なに驚いてんの? 私よ、わーたーし!」
「ミ、ミサト先生……!?」
そ、と笑顔で答えるミサト。シンジの頭には疑問符が増えるばかりだ。
「怪我はないみたいね。じゃあ、さっそくだけど二人とも車に乗って。追いかけるわよ」
「……貴女は誰です? シンジ君は知っているようですが」
「んふふ」ミサトは艶やかに笑った。挑発的な目つきで桜を眺める。
「私はシンジ君の学級担任の葛城ミサトよん。シンジ君がお世話になったわね。助かったわ」
「担任……?」桜は眉を寄せた。何故担任がこんなところにいるのか。
「意味不明って顔してるわね。まあ、とりあえずやつらを追いましょ。ハナシは車の中でね」
そう言うとミサトは踵を返して車に乗り込んだ。桜とシンジも後に続く。ミサトはエンジンをかけ、車を発進させた。
「それで、ミサト先生は、何でここにいるんですか?」
一般道を時速100キロですっ飛ばしている。その恐怖に震えながらシンジは口を開いた。
「シンジ君のお父様に頼まれたからよん」
「父さんが?」
「そ」
減速せずカーブを曲がる。シンジは桜にもたれかかった。女性特有の甘い匂いに、シンジは頬を染めた。
「何故ですか? こんなことが起こると予想していたのですか?」
「そおねえ、シンジ君のそういう頭の回転が速いところは先生、とってもいいと思うわよお」
「答えになってません」シンジはミサトを睨んだ。
「はい」
ミサトはホルスターからマグナムを取り出して見せた。二人の目の色が変わる。
「私のお仕事はシンジ君を守ることよ。それがお父さんからの指令」
シンジの脳裏に士郎の姿が浮かんだ。彼は、躊躇いなく人を傷つけていた。ミサトは彼と同じ人間なのだろうか。
「でも、先生は……」
ミサトは振り向かない。マグナムを仕舞い、シンジに微笑んで見せた。
「シンジ君は私の教え子じゃないの。助けに来るのは当たり前よ。ま、ちょっとイレギュラーもあったけどね!」
いつも通りの先生だ、シンジはそう思った。だからこそ、疑問は余計に増えるのだが。
「それで、あなたは結局教師なの? それとも違うの?」
「モチロン教師よん、小娘ちゃん」
桜は複雑そうに顔を歪めた。
「私、今年で32ですけど……」
「ウソッ!? 私より年上!?」
運転が乱れる。シンジはため息をついた。
教会は、外から眺めれば不気味なほど静かであった。曇った窓ガラスからそっと明かりがもれているが、固く閉じられた扉は人を拒んでいる。この教会は、意図的に人々から切り離された場所だ。不純な存在を拒んでいる。混じった者は、この教会の静寂を乱すのだ。
しかし、今夜は違った。この教会こそ、境界を乱している。
魔術結界。自然法則を捻じ曲げる、線の外側に生きる者がなせる業だ。たとえ、この教会内で阿鼻叫喚の殺戮が行われていても、決してその叫びは外に漏れることはない。
皮肉にもその結果をもたらしたのは彼ら自身だった。勝利を確信し、不測の事態を除外した。まさかたった2人に皆殺しにされるとは考えもしなかった。結局彼らが認識していなかったのは、人知を超えたバケモノの存在で、己の血が床を汚すころ、ようやく気付くのだ。
「……これで全員か」
ぐちゃり、と生々しい音がする。床に出来た血だまりを踏んだ。服は返り血にまみれているものの、怪我ひとつない。士郎は夫婦剣を持った両手を降ろした。
「あごっ」
振り向くと、ライダーが男の頭を踏み砕いていた。
「ひとり残っていました」
おそらく死体の下に隠れていたのだろう。攻撃のチャンスを窺っていたか、このままやり過ごす気だったのかは分からない。どちらにせよ、生かしておくわけにはいかない。もし仲間を呼ばれたりすれば面倒なことになるからだ。けれども、見えざるものを見る目を持つライダーから隠れようとしても意味はない。ライダーは折り重なった死体を見渡し、武器を降ろした。
「……」
彼らは弱かった。この密集した状況では銃は使えないため、兵士たちはナイフを取り出し士郎とライダーに立ち向かった。その時点で勝敗は決まっていた。彼らが、犠牲をいとわず撃ちまくればあるいは二人にひと太刀浴びせることができたかもしれない。
だが、誰がそのような選択をできようか。彼らはひとりずつ、確実に、命を奪われていった。その度、返り血が教会を血の海に沈めた。士郎たちが立つのは、まさに血の海である。
「いそぎましょう、士郎。奥の部屋に人の気配はありません」
「桜は何と?」
ライダーは目を閉じる。彼女と桜はいまだサーヴァントのパスで繋がっているので、意識下のコンタクトが可能である。すぐにライダーは顔をあげた。
「敵は逃走中です。今、サクラたちは協力者の車で追跡しているそうです。場所は不明ですが、方向から推測するにアインツベルンの森であるかと」
「アインツベルン城かな。――行こう、ライダー」
数十人もの死骸が床を覆っている。足の踏み場はない。士郎は屍を踏みしめながら出口へ向かう。ライダーはひとりの死体からナイフを拾い上げた。そして、最早誰のものか判別できない血で濡れたその刃先を持ち、短く振りかぶって放った。ナイフは弾丸のごときスピードで壁に突き刺さる。そこには、教会の電灯のスイッチがあった。一瞬の火花の後、教会は闇に包まれた。
甲高い音をあげてミサトの車が停止した。急カーブと急ブレーキのダブルコンボでシンジと桜は車内でピンボールと化した。転げまわって目を回している二人を尻目に、ミサトは険しい顔で乗り捨てられたバンを見つめた。
「ここで降りたのね」
バンの先には森林が広がっている。熱帯雨林のような密度はなく、ロシアやカナダの針葉樹林の森を想起させる。無理をすれば車でも通ることは可能である。
やがてシンジと桜が頭をおさえて出てきた。恨みがましそうにミサトを睨む。
「ひどい目に会いました」
「……」
「今はそんなことを言っている場合じゃないわ。――ほら、見て」
ミサトの指の先には、タイヤの跡があった。深く地面を抉っている。よほど急いでいたようだ。跡は森の奥へと続いている。
「小型のバギーカーね。毎度毎度こんなものどうやって調達しているのかしら」
感心しているような、呆れたような口調でミサトが呟く。桜はミサトをにらみつける。
「葛城さん、あなた、彼らが何者か知っているのですか?」
シンジは驚いて振り向いた。
桜の声には若干のいらだちが含まれていた。目の前に敵がいる、という事実以外、桜を始め士郎もシンジも何も知らない。それなのにこの女は「私は知っている」という素振りを微塵も隠さない。自分だけ、真実の蜜を啜っている。教えられないのならばそれでいい。そう我々に伝えればいい話だ。だが、ミサトはこちらの反応を窺うように情報を出し渋りするのだ。桜は少し痛い目に会わせようか、というような暴力的な手段による解決も選択の視野に入れた。
ミサトもその気配を感じ取ったのか、仕方がない、といった風情で口を開いた。
「わかった。私の知っていることなら、話しましょう。その前に車に乗って。私の車ならこの森でも走れるわ」
二人は黙って車に乗り込んだ。エンジンはつけたままだ。すぐにギアを入れ走り出す。木々の間をすり抜けていく。月の光さえ届かない森では、車のライトのみが頼りだ。抉れた地面や木の根が車を揺らす。それでもスピードを緩めずミサトはハンドルを回す。
「私も詳しくは知らないんだけど、」ミサトは語りだした。
「彼らは傭兵よ。それも軍人崩れのね。昔、どある組織に飼われていたんだけど、その組織が崩壊してから野生化しちゃってね、世界中で悪さをする始末よ。目的はアスカとレイちゃんを手に入れること」
「だから、それがわからないです!」シンジがたまらず口をはさんだ。
「聞いて。今言ったけど、目的はアスカとレイちゃん。――けれど、そこにあなたも含まれているのよ」
シンジは絶句した。
「僕が……?」
「なぜシンジ君だけ狙われなかったのか、それはわからないけど……」
ミサトは言葉を濁した。
「あなたたちは特別な子どもたちよ。14年前、この冬木の地であなたたちは生まれた。同じ時期に、冬木ではある恐ろしい出来事が起こっていたの」
桜の顔色が変わった。
「――聖杯戦争」
「そう。なんでも願い事が叶うという聖杯をめぐり、七人の選ばれた者たちが殺し合う、反吐が出るような茶番だわ。そんなくだらないもののために、大勢の人が命を落とした。本当に、馬鹿げてる」
「……」
「でもね、聖杯の力は本物だったそうよ。そして、聖杯を独自に研究していた組織はある成果を得た。それがあなたたちよ」
シンジは息をのんだ。心当たりがある、そう思った。たった今経験した、あの赤い壁だ。
「詳しくは知らないわ。聖杯戦争が起きたとき、あなたたちはまだお腹の中だった。その時いったい何が起きて、あなたたちがどうなったのかもね」
「僕は……」
父と母の顔が浮かぶ。変わったところはあるが、尊敬すべき善良な家族だ。だが、シンジは孤独を感じた。己の知らない父と母の顔があり、そして過去があったのだ。自分も無関係ではない。
「私もそのプロジェクトの関係者よ。間接的にね」
ミサトは続けた。
「当時、あなたたちと同じくらいだったわ。父の仕事だからって、ここに連れてこられたの。まさか、それがこんな馬鹿馬鹿しいことだなんて思わなかったけど」
「……仕事って何ですか?」
「父は研究者だったの。このプロジェクトに参加していたわ。動機は分からない。けど、どうせ碌でもないものだったんでしょう。だから、碌でもない結果に終わるのよ」
ミサトの声の色が変わった。
「まさか――」
「そう、死んだわ」
ミサトは吐き捨てるように言った。
「何が起きたのかわからなかった。研究施設が急に揺れたの。凄まじい爆音とともにね。私はちょうど布団に入ってた。吃驚して起き出したら、頭に何かが当たったの。それで気を失って、目を覚ましたら父に抱かれていたわ。『ここなら安全だ』って言って、血だらけの手で私をカプセルに押し込めて、蓋を閉めた。それから、また爆音がして、カプセルごと吹き飛ばされたわ。衝撃が収まってカプセルから出たら、周りは瓦礫だらけだった」
車がひときわ高く跳ねた。ミサトは言葉を切る。
「不思議なの。仕事ばかりで家庭を顧みなかった父、私はそんな父が憎かった。でも、いなくなると酷く寂しいの。しばらく口をきけなくなるほどショックだったわ。――いえ、今はアスカとレイを助けなくちゃね。タイヤの後はずっと続いているわ。しばらく追いましょう」
ミサトは途端に口を閉ざした。シンジは俯き、桜は目を閉じた。聖杯戦争、15年前の傷跡。桜にとって、未来の道しるべとなり、一生外れない重荷となった出来事だ。今でも悪夢にうなされることがある。新都を徘徊し、目に入る生物を飲み込み咀嚼する夢だ。私は怪物だった。赦されぬ罪を犯した。だからこそ、あの夜を掘り起こす者は赦さない。
「そこまで聞ければ十分です。おそらく敵の行き先はこの森のアインツベルン城でしょう。このまま進めばつくはずです」
桜はそう言って腰をあげた。ミサトとシンジは驚いて振り向いた。
「ちょ、ちょっと、何する気!?」
「先に行くだけです。冬木市は私の庭みたいなものですから」
影が全身を覆っていく。思わずミサトは車を止めた。紺色の座席が黒く染まっていく。その浸食はシンジのシートの手前で止まった。もはや影と化した桜の、口と思わしき部分が微かに動いた。
「先に、行ってますね」
影はとぷん、と地面に消えた。