「知っていることを話すんだ」
士郎は兵士の髪をつかみ、頭を持ち上げた。兵士は冷や汗を流し、ぎりぎりと歯を食いしばる。
「だんまりか」
その時兵士が振り向きざまに士郎の頸動脈にナイフを一閃した。首を切られようがかまわない。己の命と引き替えに、敵の命を狩ることができるならば本望であると。
「ぐああああ!!」
悲鳴が響き渡った。しかし、それは士郎ではなく兵士から出た絶叫だった。どさり、と地面に兵士の左腕が落ちる。夫婦剣からは血が滴っている。
「質問に答えろ。でなくば、次は右腕を落とす。その次は左足、そして右足。最期は頭だ」
かつて左腕があった部分を抑えながら、兵士は蹲った。士郎は兵士の持つナイフを蹴り飛ばし、再び髪をつかみあげる。
「さあ、言え。お前の知っていることを」
戦う術を失い、無力化される。兵士を襲ったのはかつてない絶望と屈辱だった。こんなことは今までなかった。己の積み上げてきた技術、犠牲を払って手に入れた能力が、一切通用しない。バケモノだ、兵士は思った。勝てるはずがない。
「――く、くくくく……」
「何がおかしい?」
士郎は眉をしかめる。この兵士はまだ折れていない。
ぴん。という音がする。兵士が手榴弾を引き抜いた音だった。士郎は兵士を突き飛ばし、後ろへ飛んだ。その瞬間、爆発音とともに砂と埃と血飛沫が舞う。兵士の上半身は粉々に吹っ飛んでいた。これでは聞くものも聞けない。
「やれやれ」士郎は誰に言うわけでもなく呟いた。
「――あ、ぶ」
ミサトは血を吐いた。内臓をやられた。どこかに穴が開いたのか破裂したのかは分からない。臓器から噴き出した血液が逆流し、喉をせり上がる。もはや腹部は感覚を失っている。呼吸も出来ているかわからない。
たった一撃でこれだ。兵士の振るったゴーデンダッグはミサトの反応速度を軽々と越え、腹部に突き刺さった。
「(――な、んだっ、てのよ……)」
起きあがろうと腕に力を込める。だが、ミサトの腕はぶるぶる震えるだけで役に立たない。兵士は無機質な目でこちらを観察している。
「死ななかったか。存外、頑丈な女だな」
壁に手をつき、何とか立ち上がる。足にも力が入らない。壁に寄りかかり、崩れ落ちそうな体を支える。
「これが魔術だ」
兵士は輝く右腕をつきだす。
「不可能を可能にし、人類を弱い葦から生物の頂点へと押し上げる、理想のパワーさ。これから我々が作る新たな時代の礎でもある。素晴らしいだろう?」
「チーターを超えるスピード、熊やゴリラをねじ伏せるパワー、鋼の耐久力、そして人の頭脳。地上最強の生物と呼ぶに相応しい。だが、これまでその技術は一部の者が独占していた。だから我々人間は停滞するのだ! 屑どもめ! 我々ならば、かの力を正しく使うことができる。新時代の導き手となるのだ!」
兵士は愉悦に浸る。ミサトはその様子に唇を歪めた。
「……そ。あんたらが、幼稚な選民思想を持っていることは、よく、わかったわ」
ミサトはせき込んだ。もしかしたら肋骨もやられているかもしれない。
「……なんだと」
「力だの何だの、あんたたちが何考えているかは知らないけど、アスカもレイも私の生徒よ。……たとえ死んでも、手だしさせないわ」
「吠えていろ。貴様は無力だ。ただの人間に何が出来る」
兵士はミサトの首を片手で掴みあげた。
「あぐ――!」ミサトの身体が浮く。
「苦しいか? あと少し力を込めれば首の骨が折れるぞ。――くくく、ほら、許しを乞え。そうすれば、楽にしてやるぞ」
「――あ、ああ!」
ミサトは兵士の腕をつかみ振りほどこうとするが、びくともしない。兵士はその様子に唇をゆがめる。
「俺はな、気の強い女を屈服させることが一番好きなんだ。お前のその気丈な目、そそるぜ」
より一層兵士の腕に力がこもる。酸素が不足し、意識がかすむ。手足の感覚が鈍くなる。これが「死」か、ミサトはぼんやりと考えた。自分が死んだらどうなるのだろう、そう思った時、シンジの顔が浮かんだ。
シンジはもう脱出しただろうか。ミサトが兵士と対峙してからまだ3分と経っていない。もう少し耐えるのだ。そうすれば、きっとシンジは助かる。ミサトは自分に言い聞かせた。
「ちっ、中々耐えるな。どれ、腹の傷でもな――」
パン、と乾いた音がした。いつの間にか、ミサトの手には銃が握られている。先ほどの45口径ではない。腰に差していた予備の銃だ。兵士の腹に小さな穴が開く。そこから、血がするすると流れた。
兵士の言う魔術で強化されている部分は、全身ではない。途切れ途切れの意識の中、無防備な腹部なら攻撃も効くはず、ミサトはそう考えたのだ。
「……貴、様あああああ」
兵士はミサトを反対側の壁に叩きつける。その衝撃に、ミサトの意識は白熱した。気が遠くなるのを必死で耐える。見れば、兵士も腹部を抑えて蹲っている。
「――殺してやる」
ゆっくりと、兵士が近づいてくる。ミサトは今度ばかりは、もう駄目だろう、そう思った。手も足も動かない。残った力でできることといえば、ひとつくらいしか思いつかない。
兵士がミサトの前に立つ。壁に身体を預けたまま動くことが出来ないミサトは、兵士の靴に唾を吐きかけた。
「――っ!!」
憤怒に顔を歪ませ、兵士はゴーデンダッグを振りかぶる。ミサトは目をつぶった。しかし――
「やめろおおお!!」
ばん、という衝撃音とともに兵士が吹き飛ばされた。ミサトが目を開けると、そこにはシンジが立っていた。息を荒げ、頬を紅潮させている。おそらく走ってきたのだろう。けれど問題はそこじゃない。
「シ、シンジ君……あなた、なんで逃げなかったの」
シンジは目を合わせず答えた。
「そんなこと、僕には出来ない!」
「っ!!」
ミサトは驚く。
「もう守られてばかりは嫌だ。僕だって出来る。僕だって、みんなを守りたいんです」
涙目で、シンジはそう言った。だが、内心は恐怖でいっぱいだろう。ミサトは思った。自分が手も足も出なかった相手に、シンジがどうやって勝つというのか。
「――誰かと思えば……」
兵士が起きあがる。シンジはビクリと身をすくめた。
「碇のガキか……答えろ、いったい何しやがった。……押したわけじゃないよな。ガキの力とは思えねえ」
ガタガタとシンジは震えている、兵士はそれを見て落ち着きを取り戻した。
「てめえもカヲルと同じような力を持っているな。カヲルの調査では陰性だったはずだが――あの野郎、いい加減な仕事しやがって」
兵士はシンジを睨みつける。そこでようやく気がついた。シンジの眼が赤く輝いていることを。
「待てよ、その瞳は――」兵士が近づく。
「こっちへ来るなっ!!」
シンジは両手を兵士に向けて突き出した。すると、空間が揺れ、赤い壁が現れる。兵士はその衝撃に再び吹き飛ばされた。
「ガキが……!!」
兵士は受け身をとり、シンジの壁にゴーデンダッグを叩きつける。だが、音もなく兵士の一撃は宙に止まった。
「何よ、コレ……」
兵士は狂ったようにゴーデンダッグを振り回す。その度に空気が震える。しかし、壁はびくともしない。
「くそがああっ!!」
兵士は力任せに城の壁を殴った。拳がめり込み、石の破片が飛び散る。
「『壁を破ることはできない』……話には聞いていたが、こんな厄介なものとは思わなかったぜ。くそったれめ。……仕方ねえ、標的変更だ。貴様らは見逃してやる。その代わり、お前の親、兄弟、友達全部殺す」
「なっ――」
「――!」
シンジは絶句した。その表情に満足したように、兵士は唇の端をあげ、背を向けた。兵士の言葉が、シンジの頭を駆け巡る。大切な人を失うかもしれないという恐怖、シンジはこの争いで嫌というほど味わった。
シンジの足が前に出る。何をしようとしたのか、本人もわかっていない。つまり、無意識の行動だった。そして、兵士が狙っていたのはまさにそれだった。
「シンジ君っ!! 危ない!!」
間一髪、振り向きざまに兵士が振るったゴーデンダッグは、シンジの鼻先をかすめた。ミサトの声がなければ、頭を砕かれていただろう。シンジの思考が停止する。ミサトは震える手で銃を抜き、兵士へ銃口を向ける。兵士はそれを鬱陶しげにゴーデンダッグで打ち払った。
シンジがその音に己を取り戻した時には、兵士の蹴りがシンジの腹へめり込んでいた。体が宙に浮き、壁に叩きつけられる。シンジは、あまりの激痛に身を捩る。急激な吐き気に襲われ、口から血交じりの反吐をぶちまける。己の手が赤く染まり、シンジはくぐもった悲鳴を上げた。腹部が爆発したかのような感覚、シンジの意識は急激に遠のいていった。
「手間掛けさせやがって」
兵士が近づく。魔術で強化された兵士の蹴りは、石も粉々に砕く。シンジのような子どもの肉体ならば、一撃で命を刈り取ることは可能だ。それが出来なかったのは、ミサトの介入によるもの以外考えられない。しかし、銃の弾層はもう空だった。ミサトは何とかシンジに手をのばそうとするが、身体が言うことを聞かない。
「シンジ、くん――、起きるのよ……! シン――!」
「お前は後だ」
兵士はミサトの手を踏み砕いた。骨が粉砕される。
「うああああ!!」
「さて、これでようやくすっきりするぜ。じゃあな、碇シ――」
そのときミサトは確かに聞いた。銃声だ。ハンドガンではない。もっと大きく、火薬量の多い、例えば、ライフルのような――
兵士が倒れた。頭部に綺麗な穴が開いている。即死だったらしく、まるで自分が死んだことに気がついていないかのような表情をしていた。手足の輝きは消えている。おかげで、急激に辺りが暗くなった。
コツコツという足音が響く。ミサトは身体を動かすことができず、首を捻って視線だけをあげた。足音がすぐそばで止まる。そこには、狙撃銃を肩に乗せ、よく知る男がミサトを覗き込んだ。
「遅くなった。すまない」
男はシャツを破り、ミサトの傷口にあてながら呟いた。
「……また遅刻ね、――加持、君」
ミサトはそう言うと、意識を失った。
桜と大佐は10メートルほどの距離を置いて対峙していた。その距離は変わらない。桜が一歩詰めれば大佐は一歩退く。銃を構えたまま、大佐は少しずつ後退する。
「そんな玩具、使うだけ無駄ですよ」
「ほう、言っておくが、こいつは44口径のマグナムだ。貴様の頭など粉々に吹っ飛ぶぞ。試してみるか?」
桜は微笑んでいる。大佐は躊躇いなくマグナムを発射した。6連のリボルバーで、まともに当たれば自動車も止める大型銃である。
轟音とともにマグナムから放たれた弾丸は、不自然な角度にそれ、背後の闇に吸い込まれていった。
「……!」
言葉通り。撃つだけ無駄。理由はわからないが、大佐は己が相手にしている人間が、正真正銘の化け物だと認識した。部下だけで何とかなる相手ではない。連中は我々のようなプロの上に君臨する存在だ。住む世界が違う。だが、それを認めたくはなかった。続けて三発弾丸を放つ。しかし、どれも桜からそれてあらぬ方向に飛んでいった。
「いったい何だというのだ……!」
「ちょっと前方の空間に干渉しただけです。当たると痛そうですから、ね」
逃げなければ、大佐の経験が最大級の警鐘を鳴らす。しかし、どうやって逃げるか。その方法が見つからない。時間を稼がなければ。
「貴様、死んだのではなかったのか? 私は確かに部下から始末したと報告を受けた」
「はい、死にましたよ。私の影が」
「何だと?」
「初めにあなたと会った私は、私の影です。私はそれを別の場所から操っていた、それだけです」
ここまで来るのはベルレフォーンを使いました、と桜は付け加えた。大佐は理解できない。
「では、あの時死んだのは貴様の偽物というわけか」
「半分正解です。さすが、頭の回転は速いですね」
ぱちぱちと拍手をする桜。
「そんなバカなことが――」
「何を驚いているんです? あなたたちは、私たちの街に来たんです。情報なしに敵陣に直接乗り込むことがどれだけ無謀なことか、それはあなたたちのほうがよく理解しているのでは?」
「……」大佐は言葉を失った。我々は初めからこの女の胃袋の中にいたのだ。じわじわと、ゆっくり溶かされていくだけ。脱出しなくては、今すぐ。大佐は銃を下げ、バックステップした。
「逃がしませんよ」
桜の眼に初めて敵意の光が灯った。
「この街を侵す侵入者は、ただでは帰しません」
その言葉に、大佐は皮肉気に笑った。
「ほう、我々を侵入者と呼ぶか。ならば、貴様らは我々のモノを奪ったコソ泥ということになるな」
「コソ泥……?」桜が眉をひそめる。
「この二人の娘は我々の作品だ。そして、人類が新たなステージへと昇るための鍵なのだよ。貴様らにもわかるだろう。この世界に蔓延る無能な人間どもが、いかに社会システムを犯し、バランスを崩し、進歩を停滞させているかを。いいかね、真に平等な社会、それがこの娘たちの犠牲によって果たされるのだ!」
桜の顔色が変わった。
「……犠牲、ですって?」
「そうだ。そのために生まれてきたのだ。本来ならば碇の息子が適材だった。しかし、その計画も上手くいかなかった。だがかまわん。他に材料は二人もいるのだ。美談ではないか。二人の犠牲で世界が変わるのだ。ヒトが変わるのだ! そうなれば争いなどない、幸福な世界が誕生するのだ!」
大佐は唾を飛ばし、叩きつけるように喋る。自分に酔うように、自棄になって。大佐の脳裏にはいつもあの女性がいた。血と埃で汚れた結婚指輪を見るたび、大佐は思った。「何を犠牲にしても、俺は目的を果たさねばならない」
桜は眼を閉じ、そしてゆっくりと開いた。
「犠牲――」
「――?」その声は静かに響いた。
「私の一番嫌いな言葉です」
桜の周囲の影が揺らぐ。大佐は腰のポーチから催涙弾を取り出し、ピンを抜いて投げた。煙をまき散らしながら、桜の足元に落ちる。しかし桜はものともせず、左腕を掲げた。
「――深紅の女(ベイバロン)」
桜の周囲に影が広がり始める。大佐は距離をとろうと、走り出す。
この不可思議な奇術は一度見た。城に入る際、突然現れた桜を部下に足止めをさせたときである。ちらり、とだが、遠目で確認した。距離さえ取れば、恐れることはない。だが、
「――な、」
大佐の足首が地に飲み込まれていた。地面は影に覆われている。底なし沼のように、もがけばもがくほど沈んでいく。
大佐は呻いた。桜との距離は10メートル以上あったはずだ。かの魔術はここまで射程範囲はないはず。信じられぬ思いで見れば、影は桜の足元から、視界一帯に広がっている。前に見たそれとは規模が違う。
「半径50メートルの深紅の女(ベイバロン)。面積にして約7.5平方キロメートル。――甘く見ないでください。分身と本体……性能が違うのは当たり前でしょう?」
桜はゆっくり近づいてくる。足はまだ抜けない。銃を取り出し桜に向けて撃つが、全て桜の目の前で脇にそれていってしまう。
「犠牲から得た結果なんて、馬鹿みたい」
大佐は、ナイフを桜に突きつけている。その間合いの一歩外で、桜は歩みを止めた。
「誰かの犠牲で、誰かを幸せに出来るなんて思わないで」
地面から伸びた桜の影が大佐のナイフを飲み込む。
「!!」
「許さない」
桜の手が大佐の意識を刈り取らんとのびる。その目は氷よりも冷たく、人形のように感情がない。こいつは躊躇わない、そう大佐は感じた時、今まで経験したことのない命の危機を味わった。底の見えない闇に吸い込まれていくような、絶望――
だが、それがどうした。大佐は歯を食いしばる。彼には鉄の意志があった。使命があった。誇りがあった。そして、引き裂かれた思い出があった。
「――貴様の、哲学などには、興味はない……!」
「……!」
桜は歩みを止めた。この獲物はまだ死んでいない。彼女の勘が警鐘を鳴らす。
「私はやらねばならんのだ。貴様に理解できるか? 理不尽に奪われ、理不尽に与えられ、理不尽に蹂躙されていく理不尽な現実だ! くだらぬ、くだらぬ、くだらぬ! 正義の味方などおらん。偽善の仮面をかぶり、手を差し伸べるだけ差し伸べて、結局見捨てるのだ! そうやってみんな死んでいくのなら、いっそ少数の犠牲で世界を変えてやる、この世界を叩き壊してやるぞ!!」
大佐は叫んだ。喉を震わせ、覚悟を決めるように。
「はっ――!?」
大佐の手には、何かが握られていた。拳大の、黒い金属。
「手榴弾……!?」
桜は腕を掲げ、影で壁を作った。その瞬間、眩い閃光が辺りを包んだ。突き刺すような強烈な光は、桜の影を打ち消していく。
大佐が使用したのは閃光弾(スタングレネード)、強烈な光で相手の動きを止める兵器だ。光で桜の影を物理的に打ち消したのだ。「深紅の女(ベイバロン)」が消えた。大佐の姿とともに。
「貴様はいずれ殺してやる……必ずだ――!!」闇の中に声が響いた。桜の視界は閃光弾のせいでぼやけ、視力が戻っていない。影を再び展開するが、手ごたえはない。「深紅の女(ベイバロン)」の境界から、大佐は離脱した。
「いけない……」
このままでは逃げられる。敵の思わぬ反撃に、桜は戸惑った。
なんと不気味な男だ。ここで捕まえなければならない。
桜には制圧力はあるが、機動力はない。身体能力は並の魔術師と変わらない。逃げた相手を走って追いかけるわけにはいかない。
「――深紅の女(ベイバロン)」
半径50メートル、それが桜の限界である。この結界は立体でないが故、範囲を広く伸ばすことが出来る。触れたもの吸収し、噛み砕く。
桜は大佐の消えた闇を睨みつけ、とぷん、と足元の影に沈んだ。