「……ん、」
「あ、気がついた!」
アスカが目を覚ました。うっすらと目を開き、上から覗き込むシンジが微笑む。まだ意識が覚醒していないのか、視点が定まっていない。
「アスカ、綾波!」
「…」
「ん?」
アスカの眉が動いた。きょろきょろとあたりを見回し、目の前のシンジに目を合わせ、ぴたりと動きを止める。
「……・シンジ?」
「う、うん」
むくりと起きあがるアスカ。シンジは思わず後ずさった。
「だ、だいじょうぶ?」
「頭が痛いわ。それより……」
二日酔い状態のミサトのような表情で、アスカは立ちあがった。そして左足を軸に身体を回転させ、遠心力を最大限に活用した右後ろ回し蹴りをシンジの顎に正確に叩き込んだ。
「なんで私の寝顔見てるのよこのヘンタイっ!!」
轟音とともにシンジは宙を舞った。ああ、このノリ、久し振りだなあ――なんて考えながら。
「今度はシンジ君が昏倒か」
騒ぎを聞きつけて士郎と桜が部屋に入ってきた。まず桜が部屋に入って様子を確かめたが、別に大したことはないと判断して、士郎を中に入れた。アスカは真っ赤な顔でベッドの隅に座っている。突然ドアが開いて驚いたようであるが、入ってきたのが桜だったことに安心したようだ。
「仕方ないでしょ。乙女の寝顔を無断で覗いたんだから」
「(じゃあ許可があればよかったのか……って言うのは黙っておこう)」
桜と結婚してから身に付けたスキル「余計なことは言わない」を発揮する士郎。このスキルのおかげで、士郎の危機回避能力は格段に上昇した。
「レイちゃんはまだ寝ているのね」
「みたいね。もともとこの子低血圧だから……」
朝が弱いのよ、と言いかけて、アスカははたと気がついた。
「今何時?」
士郎が腕時計に目をやる。
「朝の7時すぎだな。あんまりシンジ君をいじめてやるなよ。一晩ずっと心配していたんだから」
「いじめてなんかないわよ――って」
アスカは辺りを見回した。
「ここ、どこ?」
「俺の家だ。ここが一番安全だからな」
「え?」
アスカは記憶を手繰り寄せる。しかし、士郎の料理を食べて、ホテルに戻って、それからの記憶がない。
「…あたし、お酒でも飲んだのかしら」
「なぜ中学生がその結論に至るんだ……」
士郎はため息をついた。
「お酒じゃないわ。あなた、誘拐されようとしていたのよ」
「誘拐!?」
「そう、シンジ君のおかげで、事前に食い止めることが出来たんだ」
それから士郎は事実の9割9分を隠しながら、かいつまんで説明した。ホテルの従業員に犯罪者が紛れ込んでいたこと、部屋にあった飲み物に睡眠薬が入っていたこと、そして、異変に気付いたシンジがすぐさま士郎たちに連絡したこと。
「……なんでシンジは警察に行かなかったのよ」
「さあ? とっさに俺の電話番号を押したんだろう。俺も偶然犯人を見つけることが出来た。あとは力づくさ。君たちを車に乗せようとしていたところをひっ捕まえて拘束した」
「乱暴ねえ。ま、おかげで助かったわ。犯人はどうなったの?」
「警察より怖いところに引き渡してある。あとはそこが処理してくれるだろ……。じゃ、俺は台所に戻るぞ」
士郎は大きく伸びをして部屋を出た。朝食の準備の途中だったようだ。よく見ればエプロンをしている。夫婦、色違いのお揃いである。
士郎が閉めたドアとともに、会話も閉じてしまった。桜はレイの様子を見ている。アスカは、少しだけ口ごもりながら、言った。
「その、ありがとう」
「え?」
「助けてくれたんでしょう。よく考えたら、私、とても危険な目にあったのね」
アスカは顔を真っ赤にして、そっぽを向きながら言った。その様子に、桜はくすりと笑った。
「そうね。でも、もう大丈夫よ。みんなが守ってくれるから」
私もね、と桜は言った。その笑顔に、アスカもつられて唇が歪んだ。途端に緊張が解け、ほっと溜息をついた。
「そういえば、シンジがあなたたちを呼んだのよね。なかなかやるじゃない、シンジったら。普段はボケボケってしてるのに」
「そうかしら? シンジ君はとても強い子よ。いざという時は、本当に頼りになるわ」
アスカはシンジの顔を思い出す。記憶のどこかで、彼が必死で自分の名前を呼んでいる姿が残っている。そして、小さな声で呟いた。
「……うん、それは、ちょっとわかる」
「もう、そうやって素直になれば、シンジ君だってアスカちゃんにメロメロよ」
「んなっ!!」
アスカの顔に火が付いたように赤くなる。
「何言っているのよ……」
アスカはうつむいてしまった。桜はその様子を満足そうに眺めて、立ち上がった。
「じゃあ、私はシンジ君の様子を見てくるわね。……一緒に行く?」
「行かないっ」
返事とともにクッションが飛んできた。桜は楽しそうに笑いながらそれを躱し、部屋を出た。
「桜」
居間にさしかかった時、台所から士郎の声がかかった。
「シンジ君が目を覚ましたぞ」
「わかりました」
桜は足を速めた。シンジは士郎の部屋にいる。アスカの一撃で昏倒したので、寝かせていたのだ。
襖を開けると、シンジは布団から体を起こし、外の景色を眺めていた。
「目が覚めたのね。シンジ君」
「あ……すいません。たびたびご迷惑をおかけして……」
「いいのよ。今日はお仕事もないし」
桜は部屋の隅にある座椅子に腰かけた。
「傷の具合はどう?」
「もう大丈夫です。……とても、信じられませんが」
シンジはお腹を手で押さえる。昨日の傷が嘘のように消えている。まるで、全部夢の中の出来事であったかのように。記憶が水面を波打つように揺蕩い、甦る――
――――シンジは、今朝、この衛宮邸ではなく、教会で目が覚めた。奥の部屋に寝かされ、体中に包帯を巻かれていた。なぜ自分がここにいるのか、自分が何をしていたのか認識できず、知らない天井を眺め続けた。
「――シンジ君」
「ひえっ」
シンジはびくりとして腰を浮かした。見れば、部屋の隅に誰か佇んでいる。
「ミサト、先生」
「無事みたいね。よかったわ」
ミサトはゆっくり近づいてきた。シンジの額に手を当て、顔を近づける。シンジはその顔をまじまじと見つめた。
「ミサトさんこそ、大丈夫なんですか?」
「ええ、嘘みたいだけど。全身の骨をポキポキ折られて、内臓にもぽっかり穴が開いて、血もドバドバ流れていたのに、今はこの通りよ」
ミサトは肩をすくめた。
「これが、魔術ってやつなのね」
シンジは自分の腹に触れる。思い出した。血でべっとり濡れた己の手を。そこで、意識が途絶えた。その夜の記憶がまざまざと甦る。
「僕は……」
記憶が、ジェットコースターのように脳を駆け巡る。場面とともに、心臓に焼き付いた怒り、恐怖、慟哭、そして痛みが甦る。
「あ――」
手がカタカタと震えだした。ざわざわと胸が騒ぐ。あの夜の出来事は、夢ではないのだ。あまりにも自分の現実から離れすぎていた現実、その二つの境界が揺らぎながらも近づいてゆく。もう、後戻りはできないのだろうか。
ミサトがシンジの震える手に、自らの手を重ねた。
「もう、危険はないわ。あなたのおかげよ、シンジ君」
「――先生、みんなは……」
ミサトはシンジを安心させるように、優しく抱きしめた。
「アスカもレイも無事よ。――衛宮家の人間もね。私たちは彼らに助けてもらったと言っても、過言じゃないわ。私たちを狙っていたあの連中を、彼らはみんな退けた。ただ、私たちをここへ運び治療したのは、彼らじゃないわ」
シンジは顔をあげた。
「私たちを治療したのは、この教会の主よ。今はもういないわ。私たちが運び込まれたとき、ふらりと現れ、術式を組み、傷を癒し、気づいたらもういなかった。つい、1時間前のことよ」
ほら、とミサトは左手を掲げた。兵士に踏み砕かれたはずのその手は、絆創膏のひとつも必要ないほど復元していた。ミサトは複雑そうに眉をひそめた。「名誉の負傷」という言葉をあざ笑うかのような秘術の結果が、そこにあった。
シンジは俯く。本当に気がかりなことは、けがのことではない。シンジは、この1件で得たものもあれど、失うものも大きかった。そのひとつが…
「――カヲル君は、どこですか」
「僕がどうかしたかい?」
「え――?」
「シンジ君、無事でよかった」
カヲルは柔らかにほほ笑む。ミサトは、無言で席を立ち、部屋を出ていった。カヲルはそれを見送った後、シンジに歩み寄る。
「まず謝らせてくれ。本当にすまなかった。君たちを危険な目にあわせてしまった」
「カヲル君……」
「でも、わかってくれ。僕はただ、君に知ってほしかったんだ。この呪われた僕たちのことを。君たちの見えない過去に潜む、悪魔の影をね」
「ねえ、カヲル君――」
「君も、アスカちゃんも、レイも狙われている。今でこそ、君の周りの大人たちが君を守ってくれる。だが、君たちが大人になり、自分の足で立った時、誰が守ってくれる? それは、君たち自身だ」
「……」
「僕は、それを知ってほしかっただけだよ。だからといって、僕の罪が消えるわけではない。君には本当につらい思いをさせてしまった。謝っても、どんなに謝っても許されることじゃない。だから、僕はもう去ることにするよ。まだやり残したことがあるんだ。君には、お別れを言いに来た。それだけさ」
カヲルはシンジに背を向ける。そして、ポケットに手を突っ込んだまま、出口へと歩き出した。
「ねえ、待ってよ。カヲル君!!」
カヲルの足が止まる。
「どこに、いったいどこに行くの? もう、学校には戻らないの?」
「――ここに戻ることはない。いつかは、ここを離れる予定だったんだ。僕は、僕の生まれたルーツを探す。その手掛かりのあるところなら、どこへでも行くよ」
カヲルは振り返らずに言った。そして、静かにドアを開け、出ていった。シンジは、もうかける言葉が見つからなかった。
「待ちなさい」
ドアを開けようとすると、そこにはミサトが壁を背にして立っていた。
「私は今でも納得していないわ。あんなやり方……もし一歩間違えば、みなの命が犠牲になるところだった」
「そうだね。この作戦はひとつの賭けだった。それも、とびきり危険な――」
「命を天秤にかけるっていうことね。それも他人の、よ」
ミサトはカヲルを睨んだ。その瞳には、静かな怒りの炎が揺らめいていた。
「無責任だ、と言いたいんだね」
「……」
ミサトは何も言わない。否定も肯定もしない。そこに、明確な意思と感情があった。
「シンジ君は、もうかつての日常には戻れないだろう。彼の中のエヴァンゲリオンも目覚めてしまった。シンジ君が、アスカちゃんとレイにこの出来事を話すかどうかはわからないが、彼女たちの存在もシンジ君の重荷になる。シンジ君は、彼女たちも守らなければ、そう考えるはずだ。彼の人生は、今日終わりを迎え、新しく産声を上げるだろう。だけど――」
カヲルは言葉を切って振り返った。
「それは、シンジ君の運命なんだ。彼の背負った業なんだ。それを知らずと生きていても、いずれは彼の身をふりかかるだろう。だから、僕は後悔していない。こんなこと、僕の杞憂かもしれない。僕のエゴかもしれない。けれど、シンジ君が何も知らず、訳も分からず利用され嬲られ殺される……僕が本当に恐れていることは、ただそれだけさ」
「そんなこと……そんな、先のことわからないじゃない。シンジ君の周りには司令も、私たちもいる。シンジ君たちを絶対に守って見せるわ。傷つけることなんかさせない。それが私たち大人の責務よ。いいえ、私たちの信念よ! ……これから出ていく貴方には関係ないでしょうけど」
「そう、関係ない。人と人の間にあるのは無限に広がる壁と、それを超えられるという思い込みさ。シンジ君だって、いずれひとりの大人になる。いつまでも守られる存在じゃない」
「じゃあ誰がシンジ君を守るの? あなたが守るってわけ?」
「シンジ君を守るのはシンジ君だ。自分の力で立ち、どんな苦境にも絶望にも歯をくいしばって耐える……シンジ君なら、きっとそれができるだろう」
「私が言っているのは、その後のことよ! たとえ大人でも、誰かに寄り添わないと生きていけない! シンジ君がひとり世界に放り出されたらどうなると思っているの!? あなたの言っているように、シンジ君が狙われることだってあり得る。その時、その時にいったい――」
ミサトははっと息をのんだ。
「そう、その時こそ、シンジ君は自分を守らなければならない」
己の言った意味、カヲルの言った意味、シンジの未来。天秤はゆらゆらと揺れている。先のことなど、誰にも予想できない。子どもたちの未来にレールなどない。その小さな頼りない足取りで、ゆっくりと、躓きながら歩いていくのだ。なら、我々にできることは何だろうか。手を引くことか、転ばないように支えることか、それとも、何もせず見守ることか。
「……」
もう言葉は必要なかった。押し黙るミサトを背に、カヲルは背を向けた。
「――シンジ君たちは私たちが守ってみせる。貴方は、もうシンジ君たちに関わらないで!」
「……」
ミサトの最後の言葉に、カヲルは無言で返した。そして、ゆっくりと扉を開けて出ていった。
「――ふう」
外に出たカヲルは、空を見上げ大きく息をつくと、銀色のジュラルミンケースを拾い上げた。
「すまないね、シンジ君。これこそが、僕の本当の目的さ」
教会を振り返る。空いた片手を短くふると、カヲルは軽い足取りで青空の下に消えていった、
――――衛宮邸。何もかも過ぎ去った朝、シンジはカヲルの後ろ姿を思い出す。彼は、結局何も語らなかった。躊躇いも見せなかった。今ほど、彼と話をしたい、と思うことはなかった。
「父さん、こっちに来るそうです」
シンジが口を開く。今朝、父と連絡を取った。ゲンドウは一言、「すぐに行くから、待っていろ」とだけ言って電話を切った。場所も聞かず、方法も伝えず。
「そう、よかったわね。ならお持て成ししなきゃ」
そう言って桜は部屋を出ていった。開いた扉の隙間からは、柔らかな風がそっと吹き込んできた。
結局、シンジはアスカたちに真相を語ることはなかった。理由は、彼も分からない。ただ、そのほうがいい、と思ったからだ。隠したかったわけではなく、彼女らのためを思ったわけでもなく、ただ、そこに「そうあるべき」という意思を感じたのだ。己の心の中で、混沌と渦巻く想いが1点に収束していく。
シンジは、己の道を想う。彼女らの道を想う。カヲルが残したモノ。自分の裡に残ったモノ。それらは光り輝き、未来を示す。シンジの目は、もう守られる子どもの目ではなかった。
さあ、もう1度アスカとレイに会いに行こう。シンジが想う彼女らの道は、僕が守るのだ。
さて、これ以上物語を語る必要はないだろう。シンジとゲンドウは過去と未来を語り、アスカとレイは日常へ帰っていった。衛宮邸は、相も変わらず包丁とフライパンを振るい、カヲルは海を渡る。
ただ、この夜に流れた血は、シンジの瞳を赤く濡らした。その穢れは、決して拭えるものではない。その傷は、決して癒えるものではない。シンジの道を赤く示し、そしていつまでも彼を苦しめるだろう。
だが、だからこそシンジは決して忘れることはない。すべてを変えてしまう運命の夜と、宿命を背負った残酷な天使を――。
(了)