予感が。私服のまま寝入っていた横島を、予感が目覚めさせる。
不可解気な様子で体を起こし、あくびを零してから周囲を見回す。
ひどく暗い。日の開ける気配さえない窓の外は、深夜二時か三時といったところだろうか。
寝つきのいいはずの自分がこんな時間に目覚めたことを不審がりつつ、なぜか二度寝をする気にもならずに、
横島はもぞもぞと動く。特にやることも思いつかなかったので、ロビーの無人フロントから飲み物でも借りようかと
思った、その直後である。
階下から爆音が響いた。ホテル全体が鳴動し、窓ガラスにビシリとひびが入る。
ぎょっと首をすくめた横島は、足元のショルダーバックを引ったくり、そのまま慌てた足取りで部屋を飛び出した。
ホテルの一階。ほんの数時間前に少竜姫たちと歓談した場に、粉塵が満ちている。
正面自動ドアは全てが割れ壊れ、ずいぶんと風通しが良くなっていた。
絨毯は半分以上がめくれ上がり、残りの半分は引きちぎられ塵と化している。
火災が起きていないのは不幸中の幸いかと、そんなことを思う余裕さえ今の横島にはなかった。
この惨状を引き起こしたと思われる元凶が、宙に浮かんでいる。
目鼻のない、口だけが異常に肥大した巨大な蛇。 いや、そのフォルムはどちらかといえばナマズに近い。
あの蛇女が好んで使役していた魔物だったと、横島は思い至る。――と、
宙に浮かぶ魔物の数は五つ。その全ての動きが止まる。ゆっくりと宙を泳いでいたそれらが、一斉に向きを変えた。
この場にいるただ一人の人間、横島へと。
喉元までせり上がった悲鳴をなんとか堪え、横島は右手に文珠を一つ現す。逃げるべきか、防御すべきか、
攻撃するべきか。迷いの時間はごく短かった。答えを出す必要がなくなったために。
閃光が駆ける。人では視認さえ困難な速度で、ロビー内を白光が蹂躙する。五つの魔物がすべて両断され、
ぴったり十の塊となった。
光が解け、姿が現れる。粉塵にまみれたこの場でも、可憐さの薄らぐことのない凛とした立ち姿。
妙神山修行場の管理人、小竜姫は、返り血さえついていない剣を一振りし、横島を見やった。
「横島さん、その場を動かないでください。……います」
言葉の意味を理解したわけではないが、横島は黙って従う。
小竜姫はすぐに視線を転じた。ホテルの外、損壊された自動ドアの向こう側へと。
「良い度胸です。もはや逃げられぬと悟りましたか?」
こつこつと、靴音が響く。奇妙に色気を感じさせるその音とともに、人影が一つ姿を見せた。
艶麗な微笑を貼りつかせ、赤い唇を三日月に歪めた女、メドーサが。
ひんっ、と空気を切り裂き、小竜姫はメドーサの首に剣を向ける。
「大人しく縄を打たれるというのであれば、その槍を捨てよ。捨てぬというのであれば、抵抗の意ありと判断する」
「あんたは本当に、何年経とうが変わんないねぇ」
どこまでも生真面目な声を、揶揄する声が弄う。しかし、小竜姫は眉をひそめることもせずに言葉を続けた。
「アシュタロスのいないこの地上で、どのような意図をもって暗躍しているのか。もはやそれは問いません。
我は先兵に過ぎず。あなたの尋問は捕らえた後、別の者が行うでしょう」
失望の色が瞳に乗ったのは、果たして両者のどちらだっただろうか。
「……ほんとうに、変わらない。退屈だよ、あんた」
「お前の楽しみなどに興味はない」
甲高い擦過音。言い捨て突進した小竜姫の剣を、メドーサが受け止めた音である。
突進して一撃を加えた者と、その場で受けた者。勢いは前者が勝った。
裂帛の気勢とともに、小竜姫は押し切るべく力を込める。メドーサは受け流すことも叶わずに、そのまま真っ直ぐ
後退した。メドーサの顔から笑顔が消える。
「……っ!」
「……ッ!」
人の限界、その遥か先にいる神魔両属の使い手たち。
両者は当たり前のように戦場を地から空へと移し、絢爛たる剣戟を空中で交わし始めた。
「……しまった、出番がない」
一人ぽつんと取り残された横島が、所在なさげにつぶやく。脇役のつらい所だなー、などどいう思いも浮かんだが、
あの戦闘を手伝えと言われるよりは断然マシであるかと思い直す。
今の自分にできることは、もはや応援することだけと悟った横島が、小竜姫に向けて真顔で念力を送り始める。と、
不意に。本当に不意に、そんな横島へあきれ声をかける者が現れた。
ロビーの柱の影にでもいたのか、一人の若い男がふらりと姿を見せる。
「なーにやってんだか……」
奇妙に力の抜けたその声を発したのは、横島の見知った男であった。自分と同年代ほどの青年、伊達雪之丞。
非常時のためだろう。全身を霊気の鎧で覆っている。
不思議そうに、横島が首を傾げた。己が何を不思議がっているのか判然とせず、しばし雪之丞の姿を
眺めやってから思い至る。
――なんで俺は、こいつを見てすぐ、無事かと声をかけることを躊躇ったんだ?
なぜか乾き始めた喉を潤すため、横島はつばを飲み込む。
「意外だな。メドーサへ真っ先に突っかかるのは、お前だと思ってたんだが」
「それ、あながちハズレじゃないぜ?」
疲れたような苦笑を雪之丞は零す。いや、本当にそれは苦笑なのだろうか。
暗がりに雪之丞の顔は隠れ、どのような表情を浮かべているのかを不明としていた。
「……お前、いままでどこにいた?」
「不意打ちをするつもりはないんだ。それじゃ意味がないから」
問いを無視して、雪之丞は言う。片眉を上げる横島に対して、さらに言葉を紡いだ。
「いま俺の腹の中にはな、あの蛇女の使い魔がいる」
(……白状する相手をまちがえてるだろ馬鹿野郎)
何でこいつは少竜姫様がいる時に言わないんだ、と声に出さず毒づき、横島は言葉の続きを待つ。
右手の中の文珠にこっそりと霊力を注ぎながら。
「洗脳ってほどじゃないんだがな、俺はお前と戦えと命じられてる。命令に背いたら、腹の中のこいつが俺の胃を
食い破って出てくるらしい」
「……形だけ戦って、そのあと負けたふりしとけば何とかなったりして」
「頭いいな。それは思いつかなかった」
今度ははっきりと苦笑してから、雪之丞は一歩踏み出す。一歩分だけ、横島との間合いが狭まった。
対抗するように、という訳でもないが横島は言葉をぶつける。
「操られてるにしちゃ、いつもとあんま変わってないなお前」
「言ったろう? 洗脳ってほどじゃないんだ。半分くらいは意識が残ってる。……そうだ。半分は、俺の意思なんだ」
どこか虚ろであった雪之丞の声に力がこもる。言葉どおり、意思がこもったかのように。
「なあ横島。俺達が戦ったのは、結局あの試合の時だけだったな。それもはっきりとしない引き分けなんていう結末だ」
「それの何がいかんのだ。今どき強さランキングなんて、少年漫画でも流行っとらんぞ」
感傷混じりの雪之丞の声を、横島は馬鹿馬鹿しいと切り捨てる。その手の暑苦しい趣向とは無縁の男であった。
じりじりと下がりながら、それでも牽制のために横島は話を続けた。
「GSとしてやってける程々の力があれば、それで満足なんだよ俺は。どっちのほうが強いとかどうでもいいってーの」
「妙神山で手に入れたその文珠の力。程々というには過剰だな」
「まあ、熱血してた時もちょっとはあったかもしれんが、やっぱ熱血よりも色気だろ普通。恋人いて毎日イチャコラしてる
羨ましいお前には分からんかもしれんがな。いや、マジで妬ましいから死ねばいいのに」
冗談として混ぜっ返す横島に、雪之丞は首を振る。雪之丞の瞳には、なぜ理解してくれぬのかという哀惜さえあった。
「……俺はお前のほうが羨ましい」
「はあ?」
「戦い、戦い、戦って。メドーサはおろかアシュタロスにさえ、お前は一矢報いてみせた。俺が願い夢見て、そして
叶わなかったことだ、それは。女なんかのことよりも、俺はそれが眩しくて仕方がない」
「…………女、なんか?」
横島の声が、不意に一段低くなる。理解できないはずだった。互いの価値観に隔たりがありすぎる。
いつものヘラヘラとした表情を作ろうとして、横島は失敗する。今の雪之丞の台詞は、飲み込んだ振りをすることさえ
困難だった。
恋人がいて? 話をすることができて? 会おうと思えばいつでも会えて? これからいくらでも思い出が作れて?
そんな吐き気がするほど恵まれた状況にいる男が、女なんか、と口走ったのか?
一体なにをどう思い至れば、そんな言葉を吐き出せるというのだろう。
「――お前の腹の中にいる奴。俺を殺しでもしなきゃ出て行かんのか?」
「あの蛇女が命じたのは、戦えということだけだったな。勝敗については触れてなかったよ」
「そりゃあ良かった」
毒づくように、横島は告げる。
「俺がお前のそのツラをぶっ飛ばせば、何から何まで丸く収まるわけだ」
「やる気になってくれたのか? 相変わらず、お前の怒るポイントはよく分からんな」
弓ちゃんの代理だこの阿呆、という罵りは口内で潰す。そして唾を吐き捨ててから、明確な敵意を込めて横島は
雪之丞を睨みやった。
「あのさ、」
「――?」
爆音。何事か言いかけた横島に、雪之丞が耳を傾けたその一瞬。密かに『爆』の文字が刻まれていた文珠が
炸裂する。反射的に飛び退り、両腕両足を亀のように丸めた雪之丞が吹き飛ばされ、そのまま壁に激突した。
「ははっ! 油断大敵ってな!」
快笑しつつ、横島は二階の階段へ向かって猛然と走る。こんな動きやすそうな所で、魔装術の使い手と争う気など
毛頭ない。後ろを振り返ることさえせずに、横島は階上へと姿を消した。
がらりと、雪之丞が瓦礫を押しのける。唇の端が切れて、一筋の血が流れていた。
そのままの姿勢で、体の埃をはたく。思わず笑みが零れ出た。メドーサのことさえ脳裏から薄れていく。
「……上等」
数時間前、あるビルの最上階にいた時と同種の戦意を両目に宿し、雪之丞は立ち上がった。
空中で、二柱の超越者たちが剣と槍を打ち交わす。超加速を使用する前でさえ、その速度は異常であった。
慣性の檻を容易く壊し、直角的な動きを交えながら両者は交錯する。深夜の空に、いくつもの火花の華が咲いた。
「何のつもりです! メドーサ!」
一剣とともに小竜姫が声を張り上げる。苛立ちは、メドーサの戦い方にあった。
守備一辺倒。かわし、流し、それらが叶わぬ時だけ受け止める。ただそれだけの戦い方。
小竜姫の美貌が不愉快気に、それ以上に不可解気に歪む。
自分の存在に気づき、密かにこの町から逃げるというのであれば理解できる。
自分の存在に気づき、始末するために現れたというのであれば理解できる。
だが、わざわざ姿を見せて挑発し、実際に戦う際は逃げの一手とは、一体どういうことだ?
(時間稼ぎ? 私の活動時間を削るため? 本当に、それだけの理由?)
迷いつつも小竜姫の剣に遅滞はない。彼女ほどの使い手にとって、剣技と迷妄は没交渉である。
と、過剰なまでに間合いを取っていたメドーサが、
「あんたさ、何で人間の味方してるんだい?」
そのメドーサの問い、常であれば小竜姫は無視したことだろう。
いつものように、冷笑を浮かべてメドーサが言ったのであれば、そのようにしていたはずだ。
「修行場みたいなところで管理人やってるんだ。やってくる人間、全部が全部、あの神父の坊やみたいな連中じゃ
ないだろうに」
「……力を求める人間が集まる、妙神山修行場の管理人であればこそ」
だが、問いを投げるものが誰であろうと、その問いが真摯であれば神は応える必要がある。
そう信じる小竜姫は、真顔で訊ねるメドーサに声を返す。
「人間はみんな守護の対象? 試練を超える才があれば、どんな連中にも力をくれてやるのかい?」
「人がみな善人であると信じるほど、さすがに幼くはありません」
剣は構えたまま。闘志もそのままに。声さえ刃物に変えて、小竜姫は言う。
「己のためだけに力を求める人間は、数多くいます。その力の悪用を考える者も、輪をかけていることでしょう。
むしろ妙神山の門を叩く者は、そういう類のほうが多いかもしれません」
茶々を入れることもなく、攻撃の隙を窺う様子もなく、メドーサは無言で耳を傾ける。
「だが、最初から正しい者だけを導くのが神なのか? その弱さゆえに道を違えている者には、機会さえ与えることが
許されないのか? 人ほど変化に富む者はいない。悪に染まるが人ならば、善に染まるもまた人だ。メドーサ、
先ほどの問いに答えよう。世の全ての人間は善意という種子を抱き、産まれ落ちる。ゆえにこの小竜姫、幾星霜が
経ようとも人を見守り、人を導き、人を守護しよう」
この上なく真剣に、照れなど微塵も見せずに小竜姫は言い切った。
「笑わば笑え。この生き方、竜神王の命であろうと変えるつもりはありません」
(……なんとまあ)
呆れ返ろうとして、メドーサは失敗する。人に失望したことも、裏切られたことも山ほどあるだろうに、そんなお花と
星で満ちた理想を持ち続けているというのか。
これが人の言葉であれば、メドーサはただ失笑しただけであった。しかし、口にしたのは数百年を生きる竜神族の
女である。この小竜姫という女は、そんな甘い夢を数百年間いだき続け、さらに実践もしてきたいうのだ。もはや呆れを
とおりこして感心さえ覚えてしまった。
そのせいだろうか。ついメドーサは、思いついたことを特に考えることもせず零してしまう。
「あんたさぁ、そんなんだから男できないんじゃないの?」
「今ぜんっぜん関係ないでしょーがその話は!!」
メドーサの声音に本気で心配するような気配があったことが、余計に小竜姫を激怒させたのか、妙神山の管理人は
耳たぶまで赤く染めながら突進した。
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ちょっと長くなったので分割。後編でラストになります。