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No.520の一覧
[0] 戦いに斃れ[z](2005/09/23 09:34)
[1] Re:戦いに斃れ[z](2005/09/23 09:55)
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[520] 戦いに斃れ
Name: z 次を表示する
Date: 2005/09/23 09:34
「あと一ヶ月保ってくれるかどうか、ってところだろうな」

 布団に体を横たえながら雪乃丞は呟いた。
 1年近く前から体調の不良は感じていた。
 だがこの二ヶ月余りで病状は急速に悪化して、今では軽い運動すら息切れがする程にまで病み衰えてしまっている。
 それでも常人なら既に黄泉路へと旅立っていただろうが、厳しい修行で鍛え上げた彼の体とGSとして数々の修羅場を潜り抜けた精神は、あと一歩の所で病魔の蹂躙を許さない。
 しかしそれも長くはない。
 病院には行っていないが、その死が瀬戸際にまで迫っている事を雪乃丞は良く知っていた。
 おそらく胃や膵臓に転移したガンがもうすぐ自分の命を奪うのだ。

「俺も、もうすぐ死ぬんだな」

 その声と共に死の実感が彼を包み、これまでの人生の記憶が彼の脳裏を走馬灯の様に駆け巡った。

 最古の記憶はおそらく物心ついた時のもの。
 その時既に父は亡く、おぼろげな霞のような思い出の中で母の温もりとその顔だけが唯一鮮明に残っていた。

 母と共に過ごした幼年期。
 惜しみなく自分に愛を注いでくれた母の姿を彼は今でも覚えている。そして自分がどうしようもなく弱かった事も。
 あの時、彼は体も心も弱かった。最後まで母に心配をかけ、母を守る事が出来なかった。
 だから呪った。己の弱さを。
 そして願った。何人よりも強くなる事を。

 白竜寺の門を叩き、強さを求めて研鑽を重ねた日々。
 どんどん向上していく霊力に誇りを、強者と呼ばれる一流のGS達に劣る己の技量と力不足に不満を抱いていた少年期。
 彼の執念は小柄な体格という弱点を補って、抜群の戦闘センスを開花させていく。
 そして彼はメド-サと会う。魔族と知りながら彼女の誘いに乗ったのは、最強を目指し、一途にその道を歩き続けるため。
 強く、誰よりも強く、最強のGSとして伊達雪乃丞の名を世界中に轟かせた時、天国の母は笑ってくれるだろう。
 そして誇りに思うだろう。自分の息子はこんなに強くなってくれたのだと。

 己が強さを証明する最初の一歩を踏み出そうと臨んだGS資格試験。
 それは様々な意味で彼の人生の分岐点となった。
 メドーサのやり口への反発と、白竜寺の兄弟弟子との決別。そして終生の友との出会い。
 結局、メドーサが巻き起こした火角結界のごたごたに紛れて逃げ出した彼はモグリのGSとなる。

 それからの一年余りの日々は、あまりに波乱万丈過ぎて頭を破壊しない限り忘れられる筈がない。
 香港で日本が誇る凄腕のGS達の協力を得てメドーサを退け、かつての友、鎌田勘九郎を葬り、日の当たる世界へと舞い戻る。
 独学の修行に限界を感じて横島と共に妙神山に赴いた時、彼は命懸けで斉天大聖と闘って魔装術の極意を掴む事に成功する。
 その年のクリスマス・イブ、彼は妻と出会った。
 サンタクロースに追いかけながらケーキの上を逃げ回って彼女との絆を育んだあの運命の日。今でも思い出すと甘酸っぱくなる記憶である。
 そして全世界を激動と驚天に叩き落したアシュタロスとの戦い。
 彼と友人達は美神令子と共にこれまでにない圧倒的な強敵に立ち向かい、激戦に継ぐ激戦の末、奇跡的に勝利を収めた。その時の出来事は、今でも時々夢に見る。

 それからしばらくして、彼は一匹狼を返上し、気の合う仲間達に呼びかけて事務所を開いた。
 きっかけはタイガーのGS免許取得だった。
 資格試験終了直後、小笠原エミは既にタイガーが十分な実績と安定感を得ていると認め、即座に一人前の許可を出した。

 その時に起きた事件がまたしても彼の人生の分岐点になった、と言ってもいいだろう。

 その時にエミは美神令子に、横島が未だに一人前と認められていない事を突き、美神の指導が下手だから横島はいつまで経っても半人前なのだと皮肉ったのだ。もちろんそれは、横島が資格を手に入れてから数々の除霊に携わっていた事を知った上での嫌味である。
 売り言葉に買い言葉の応酬の末、美神は横島を一人前と認めざるをえなくなり、日本GS協会にその旨を通達する。
 それからしばらくして、美神は横島に独り立ちを視野に入れるように告げたのだ。

 それを機に彼は貧乏な知人達に声をかけて新しい事務所を設立した。
 霊的な格闘に長けた彼、魔術に堪能なタイガー、神の教えとヴァンパイアの能力を有するピート、文珠を操り、優れた商才を持つ横島。
 多彩な能力と十分な実績を積んでいる若手GS達との評価を受けていた彼らの独立は、オカルト業界の関係者達を瞠目させた。

 けれど、いくら豊富な実戦経験と一流のGSの補佐を務めた実績が有ったとしても、それは所詮オカルト業界のみの評判。
 社会的な知名度や認識では、彼らの事務所は駆け出しの中では有望なGSの集まりに過ぎない。
 だからこそ、これまでに様々な苦心があった。
 筆舌に尽くしがたい屈辱があった。
 心を凍らせるような絶望もあった。
 そしてその全てを軽く凌駕するほどに破天荒で楽しい時間があった。

 やがて彼にも守るべき者ができる。
 結婚。そして出産。 
 傍らで彼を支える最愛の妻。彼を慕ってじゃれ付く子供達。
 幸せだった。胸を張ってそう言える時代が流れていった。

 事務所設立から数十年間が経ち、気がつけば彼らの事務所は日本で屈指の知名度と実績を誇る程にまでに成長していた。
 だが仲間達は1人、また1人と消えていき、やがて創設メンバーは彼1人となっていた。
 かつて苦楽を分かち合うと誓った友人達。新たなる道を歩み始めた者もいれば、もう二度と会えなくなった者もいる。
 彼は今でも仲間達の死に顔を覚えている。
 彼らはみんな、安らかな死に顔を浮かべて死んでいった。後は任せた、と彼に志を託しながら。

 そして今、最後まで残った自分の終わりもすぐそこまで近づいている。
 どう足掻こうと、たとえ薬漬けになるほど治療薬を服用しても、一ヶ月か二ヶ月以内にこの肉体は朽ち果てる。それが人間という種の限界だ。
 幸い後顧に憂いはない。
 妻は数年前に亡くなり、2人の子供は成人している。
 息子は弓家に入って闘龍寺・弓式除霊術を受け継ぎ、娘はGS試験合格直後に、美神ひのめが所長を務める美神事務所の一員となった。
 彼の事務所は数年前から創設時の仲間達が育て上げた後進によって大過なく運営されている。彼が死んだところで事務所が揺らぐ心配などないだろう。






「悪くねえ生涯だったな」

 己の胸に言い聞かせるように言った時、彼の両目がカッと見開かれた。

「まだだ!まだ心残りが残ってる。あいつらみたいに笑って死ぬ前に、もう一度、俺は」

 頬がこけたその顔に熱い血がのぼって青褪めた顔に血の気が戻り、ゆっくりと全身に力がこもってきた。 

 彼の心底からの渇望。それは彼の認めた相手と柵も気兼ねもなく命懸けで死合う事。

 ずっと以前から彼は、GS資格試験で真っ当な決着をつけられなかったピートか横島との本気の死闘を望んでいた。
 けれど事務所の業務に差し障りが出るような真似など出来よう筈もなく、彼はその望みをずっと心の中に秘め続けていた。
 それが死を迎えた今になって心残りとなっていたのである。

 だが熱心なキリスト教徒であるピートはおそらく彼の頼みを受け入れまい。
 それに唐巣の薫陶を受けて神の教えを忠実に実践しているピートは優しすぎる。
 仮に雪乃丞の願いを聞き入れたとしても、彼は雪乃丞に無理させまいと無意識に手を抜くだろう。
 そういう男なのだ、ピートは。
 しかしそれは雪乃丞の本意ではない。
 
「それにあいつが俺と死合ったら、俺の死期を早めたって、ずっと後悔し続けるんだろうな」

 先日、ピートと会った時の事を思い出して苦笑する。
 雪乃丞の顔を見るピートの目には時折憂いの色が浮かび上がり、世間話の合間にも声に悲哀が混じっていた。
 大勢の人間の死を見送ってきた彼には、病状など知らなくとも雪乃丞の余命が尽きようとしている事が分かったのだろう。雪乃丞に悟らせまいといつもと変わらぬ態度を取り繕うとして、しかし相変わらず嘘のつけない彼は却ってぎこちなくなり、彼のほうが吹きだしてしまった。






 ピートが駄目ならば別の相手を探すしかない。しかし、だからといってただ強い相手では駄目なのだ。
 伊達雪乃丞という男を、伊達雪乃丞が生きた軌跡を、伊達雪乃丞の渇望を理解し、その上で全力で彼に立ち向かってくれる相手でなければ彼の胸は満たされない。
 それなのに………。

「あいつら、みんな俺より早く逝っちまいやがった」

 彼は寂寥感を振り払うように吐き捨てた。
 既に彼の知り合いの霊能力者の多くは鬼籍に入っている。
 太く短くを実証するかのように、あの激動の日々を共に過ごした友人達の中で、今の彼より長生きできた人間はいないのだ。

────誰かいないのか、自分の胸を躍らせてくれる者はもういないのか

 湧き上がる焦燥を鎮めようと目を強く瞑った時、不意に1人の人物の顔が浮かび上がってきた。
 途端に彼の顔に喜悦が浮かぶ。もう数年間会っておらず、手紙の遣り取りもないが、極限の闘いを挑む相手としては申し分ない。
 布団から起き上がって紙と硯を用意すると、彼は筆を墨汁に浸した。










 待ち人は手紙を送ってから二日後の朝に来た。
 呼吸を整えながら答える雪乃丞の待ち人は、すらりとした長身の女性だった。
 その体躯は地味な色合いの着流しによって包み込まれているものの、しなやかに鍛え抜かれた筋骨が彼女の武芸の腕前と修練を示している。
 腰まで届かんばかりに伸びた銀髪は、首の辺りで束ねられている。
 時折ぴょこんと動くふさふさの尻尾が特徴的だ。
 総じて言えば、健康的で野性的な印象を与える外見をした妙齢の美女である。
 おそらく彼女は手紙を読んでから直ぐに出発して、ここまでずっと駆け続けてきたのだろう。荒い呼吸と額の汗がそれを物語っている。

「よく来てくれたな、犬塚。とりあえず上がって一息つけよ」

「かたじけない、でござる」






 予め雪乃丞が用意していた茶菓子とお茶で一服するシロの所作を観察しながら、彼はその強さを推し量った。
 最後にシロの戦う姿を見たのが、彼女が人狼の里へ帰った20年前。
 一目見ただけでも、明らかに強くなっているのが見て取れる。
 これなら、と胸中で頷いた時、シロは顔を上げると凛とした眼差しで問い掛けた。

「雪乃丞殿。火急の用件とは一体なんでござりましょうや。あの文面から察するに重大な事だと思われましたでござるが」

「犬塚、俺は死病を患っている。もう長くはねえそうだ」

「っ!?」

 驚愕に目を見開いて口を開こうとするシロを片手で制すと、淡々とした口振りで己の病状を説明する。
 話が進むにつれて彼女の顔には苦渋がありありと浮かんでいく。
 無理もないだろう。久しぶりに再会した古い知り合いの死の宣告など聞きたいような話ではない。
 けれど彼女は一切の言葉を差し挟まず、じっと彼の話を聞いていた。
 やがて雪乃丞の説明が一段落する。
 重苦しい静寂が立ち込め、湯飲みを握るシロの両手が微かに震える。

「それで、拙者を御呼びした訳をお聞かせくださりませんか?」

 努めて冷静さを保とうとする彼女の顔を見やる雪乃丞の顔には少しずつ血が上っていく。

「さっきも言ったが、横島がいない以上、俺の望みは叶わねえ………筈だった。
 だがあいつには弟子がいた」

 はっと顔を上げるシロに向けて頷いてみせる。
 その澄み切った双眸は彼女を真摯に見つめて、顔には不敵な笑みが浮かんでいる。

「だから、俺の体が動かなくなる前に」

 興奮を抑えきれずに彼の全身から霊波が燃え盛るように吹き出ていく。

「最後にもう一度、血潮を滾らせて、完全燃焼してえんだ」

 それを押さえ込むように居住まいを正すと彼は言った。

「犬塚シロ。お前との果し合いを望む」

 再び沈黙が立ち込める。 
 予想もせぬ彼の頼みに困惑しながらも、シロは黙然と目を閉じて胸中を鎮めようとした。
 戦いによる完全燃焼。即ち、戦士としての死。
 剣士としての心構えを父や里の者達から教えられてきたシロには、雪乃丞の願いが良く理解できた。
 狼の野性と弱肉強食の生存本能を持つ者として、畳で死ぬ事を良しとしない彼の主張には共感すらも感じている。
 けれど、いくらその心境に共感を覚えても、法的にも心情的にも彼を手にかける事など許されない。

 けれど、そうだとしても。
 これは、大恩ある師の友人の頼みを、1人の戦士の最後の頼みなのだ。
 受け入れれば、果し合いの勝敗に関わらず死ぬとしても、断れば伊達雪乃丞は失望の中で死んでいくだ。
 それなのに………………どうして拒む事など出来ようか。

「………我が名誉に懸けて、お引き受けいたす」

「ありがてえ。なら明日、この屋敷の裏手にある修練場に来てくれ。時間は12時ぴったりだ」

「承ったでござる」

 正座の姿勢を一分も崩さずに、シロは目の前の男へ敬意を込め、深く頭を下げた。










 彼女が辞去した後に、雪乃丞は筆を取って、長年秘め続けていた渇望と果し合いに至るまでの決意を書き綴った。
 明日の果し合いの結果がどうなろうとも、決して後に遺恨を残さぬ為である。
 書き終わると、オカルトGメン日本支部へと電話を入れる。

「もしもし、ピエトロ・ド・ブラドーに、雪乃丞から緊急の話がある、と伝えておいてくれ」

 受話器を置いて彼の顔には昔のような闘志と鋭さが漲っていた。






 その日、オカルトGメンから端正な顔立ちの青年が彼の屋敷の門を叩いた。10年ほど前に事務所を辞めてオカルトGメンに入ったピートである。






 雪乃丞から果し合いの事を告げられた時、ピートは激怒して怒鳴った。正気とは思えない。止めろと。
 それでも変わらぬ雪乃丞の態度に、理を尽くして説得を試みた。決闘などすれば凶悪犯罪になると。シロを巻き込むなと。
 だが逆に彼に頭を下げられて、果し合いの後始末を頼まれてしまい、言葉を失う。
 最後に彼は涙を流さんばかりに懇願した。早まらないでくれと。頼むから死なないでくれと。
 そんなピートの姿に苦笑すると、雪乃丞は口を開いた。

「なあ、ピート。面を見れば明らかだが、放っておいても俺は近いうちに死ぬ。
 だからその前に、最も俺らしい生き方をするだけさ。
 それに人間は誰だっていつかは死ぬ。それが単に明日になっただけだ」

 単純で真っ直ぐな言葉にピートは絶句して。
 それでも何かを言おうと口を開いて。
 結局何も言えずに悄然と項垂れた。
 もう雪乃丞は単純明快に結論をそこに落ち着かせている。いくら止めたところで無駄だろう。

 布団から出て話す雪乃丞の顔が久しぶりに生き生きと輝いている。
 その幸せそうな友の姿にピートは掛ける言葉を失い、やがて果し合いの立会いとその後始末を引き受ける事を誓ったのだ。

 その晩、2人は今生の別れを惜しむように酒を酌み交わしながら思い出話に耽った。
 憑き物が落ちたようにすっきりとした顔で談笑する雪乃丞にピートが相槌を打つ。しんみりとした己の心の内を面に表さぬように耐えながら。
 杯に注がれた大吟醸の冷酒は僅かにしょっぱい味がした。
















 その日は、風もなく穏やかに晴れた平凡な天候だった。
 久しぶりに除霊の時に着ていた服を身に付けると、雪乃丞は瞑想しながら気息を整え、肉体と精神の調子を入念に確かめていく。
 一方ピートは、万が一にも無関係の人間が入り込まないように結界を張っていた。 

 やがて太陽が南へと昇り、約束の刻限が迫る頃、犬塚シロが姿を現した。
 出で立ちは昨日と同じだが、全身に気力と霊力が漲って彼女の凛とした美しさが凄みを増している。
 雪乃丞が歩み寄り、互いに無言で一礼する。
 両者とも心構えは十分と見て取ったピートが双方に目配せすると、両者の体がぱっと飛び退った。

「最初から本気でかかってきやがれ!」

 怒声と共に魔装術が発動し、漆黒で忍者服のように薄い装甲が雪乃丞の体を瞬時に覆う。
 その途端、巌の様に傲然とした霊力と殺気が肌に突き刺さり、シロは目を見張った。

───強い
   とてつもなく強い
   病の影響など微塵も感じられない

 彼女の中で僅かに巣食っていた雪乃丞の体への気遣いと躊躇いが消える。
 すっと気を引き締めるとシロは刀を握るように両手を構え、大振りの霊波刀を生み出した。
 その刀を中心に彼女の体中に殺気と霊波が迸る。
 だがその殺気を受けながら、雪乃丞は顔に余裕の笑みすら浮かべている。

───拙者を子供扱いする御積りか!?

 ぎりっと奥歯を噛んで反発を押さえ込みながら気息を整えるとシロは猛然と打ち込んでいった。
 小柄な彼女の体躯が風を巻いて肉薄し、2人の体が何度となく交錯する。 
 雪乃丞の攻撃をかわして仰け反った体勢から打ち込まれる太刀が激烈に奔り、霊波砲をやり過ごそうと四つん這いになった彼女の体が次の瞬間躍り上がって彼の肩に斬りつける。
 その動きは山奥を駆け抜ける狼のように速く、剽悍で、力強さに満ちている。

 しかしその人知を超えたスピードも、柔軟でしなやかな体捌きも、唸りを生じる剛剣も雪乃丞の体に傷をつけるには至らない。
 刀も、蹴りも、拳による打撃も何度か彼の体を捉えてはいる。だがその尽くが魔装術の装甲に阻まれるのだ。
 逆にシロの体は受け損ねた雪乃丞の反撃を何度か受けているが、ダメージは殆どない。

 一旦間合いを離して呼吸を整えるシロを見据えながら、雪乃丞が楽しそうに笑った。

「何が可笑しいでござるか!?」

「くくく。嬉しいんだよ、犬塚。お前がこんなにも強い事が。これなら何の遠慮なく本気を出せるぜ!」

 その刹那、シロの背を寒気が奔った。
 突如、烈火の如く荒々しい霊波がその体から立ち昇り、彼の周囲でとぐろを巻く。

「むぅ」

 彼女は思わず一歩後退りした。
 まるで相手の体が2倍にも、3倍にもなったかのようだ。それ程の圧力が彼女に襲い掛かっているのだ。
 歯を食いしばってそれに耐える。
 その刹那、脳裏に強敵に立ち向かう師の姿が蘇り、彼女の勇気を喚起する。
 それを糧にプレッシャーを押し返して一歩前進した瞬間、雪乃丞が叫んだ。

「犬塚。スピードと攻撃のコンビネーションだけじゃ、俺には届かないって解っただろ。
 対策を思いついたんなら、出し惜しみせずにやってみやがれ!」

 その通りだ。虎穴に入らなければこの難敵を倒せる筈がない。
 瞬時にその覚悟を決めるとシロは正眼の構えから刀を下段に移し、じりじりと肉薄した。
 雪乃丞は彼女の太刀を誘い込もうとするかのようにどっしりと巌の様に構えて動かない。

 大きく息を吐き、そして深く吸い込んだ瞬間、シロは突進しつつ霊波を集中させた剣尖を伸ばし、雪乃丞の鳩尾に突き入れた。
 獣の敏捷に突きの剣速を加えた渾身の刺突が彼の体を貫かんと肉薄する。
 だがその一撃は突如雪乃丞の手前で急停止を余儀なくされ、次の瞬間、光と共にシロの体が弾かれたように吹き飛んだ。

「くっ」

 飛ばされながらもシロは身を捻るようにして着地する。
 そのまま殺しきれなかった衝撃に逆らわぬように転がって受身を取りながら素早く跳ね起きた。
 その顔には驚愕がありありと浮かんでいる。

「盾、でござるか」

「横島だって似たような事はやってただろう?」

 雪乃丞の全身を覆っていた魔装術が解けて、代わりに左手には分厚い漆黒の盾が装着されている。
 半身になった彼はその盾で真っ向からシロの突きを受け止めたのだ。

「魔装術を造り出す霊波を一点に集めて護りに特化した盾にしたのでござるな」

「そう。横島のサイキック・ソーサーの原理を参考にしてな。
 この盾なら他の護りが疎かになる代償に、強烈な一撃を片手のみで防ぎきれるんだよ」

「おかげで右からの霊波砲が避けきれなかったでござる」

「直撃してねえんだから、かわしたも同然だろ」

 あの瞬間、突きを受け止めてシロの動きの止めた雪乃丞は、右手から霊波砲をシロに放った。
 身を捻ったおかげで紙一重で直撃は免れたものの、至近距離からの強烈な一撃は、シロの体を数mも飛ばされたのだ。

「あの突きは悪くなかったぜ。当たれば魔装術の護りも貫いただろうさ。
 だから危険を承知でこの魔装の盾に頼らざるをえなくなっちまった。
 だが、今ので突きのタイミングと突進のスピードは掴んだ。今度は右を直撃させるぜ」

 もし雪乃丞が勝負を決める気があったなら、彼女が立ち上がるまで三度仕留めるチャンスがあっただろう。
 だが彼は追撃もかけずに彼女が構えを取るのを待っていた。
 その態度に、シロは今更ながら彼我の実力差を感じ取り、魔装術を極めた漆黒の戦士への戦意を新たにする。

 まだ自分は雪乃丞に本気を出させただけ。
 先ほどの攻防は、師が弟子に稽古をつけるようにあしらわれてしまった。
 だが絶対に彼の方から仕掛けさせてみせる。さもなければ完全燃焼を望んで闘う彼に申し訳がない。
 その為にこれまでに鍛え上げた己の全てをぶつけるのみ!

 カッと目を見開いて雪乃丞を睨みつける。

「もう一度、いくでござるよ」

 下段に構えながら膝を撓めると、彼女の全身から霊気が陽炎の様に揺らめいていく。
 最適の間合いを探りながら慎重に動くシロ。
 対する雪乃丞は半身に構えたまま直立不動。
 それ故に2人の距離はもどかしい程ゆっくりと詰まっていく。
 両者の間に奔る静かな緊張感。
 そして一挙一足の間合いに辿り着いた瞬間、シロは爆発的な力を脚にかけ、刹那で最速まで加速した。
 先ほどのよりも低く、地を這うように迫るシロの手から、体の陰に隠された刀が突き出され、 突如太刀筋を変えて一閃する。
 その瞬間、同時に飛び出した八つの閃光が吸い込まれるように雪乃丞に直撃した!

 再び交錯して離れる両者。
 雪乃丞の体が僅かに傾ぎ、シロはそのまま10m程も前進してからくるりと反転する。
 にぃっ、と笑うと、彼は腰を落としてぐらついた体を安定させながらシロを見た。

「突きのフェイントから転じて、一瞬で8回も俺の体に斬り付けやがったか。てめぇの業も天才的だな」

 何の衒いもなく誉めながら、雪乃丞の顔に刻まれた喜悦はますます強くなっていく。

「だが一撃、一撃が軽い。そんなんじゃ、魔装術は貫けねえよ」

「そのようで、ござる………な」 

 飛び退いたシロが苦しげな声で相槌を打つ。
 構えを取ろうとして、脇腹に奔る痛みに彼女は思わず膝をついた。
 服に隠されて見えないが打撲による痣がくっきりと浮かんでいる。
 あの一瞬、突きに殺気が込められていない事を看過した雪乃丞は、魔装術を解かずに斬撃を全てその体で受けきり、そして彼女の攻撃が止まった瞬間、膝蹴りを叩き込んだのだ。

 回避する事を完全に捨て、人を超えた速度で動く彼女に一撃入れる事だけを狙った反撃。
 魔装術の防御力、即ち己の霊能への絶対の自信。
 何の迷いもなく攻撃だけに集中する思い切りの良さ。
 その二つがあって初めて為し得る決断がシロの神技を打ち破ったのだ。
 僅かでもシロの霊波刀の斬撃が彼の魔装術の防御を上回ったのなら先ほどの攻防の天秤は逆へ振れていただろう。
 しかしそれでも八度の斬撃が全て耐え抜かれ、あまつさえ苦痛の色もなく悠然と見下ろす雪乃丞に思わずシロは声を出していた。

「それがしの剣は、全く通じなかったのでござるか?」

「いや、効いたぜ。魔装術だって完全に衝撃を吸収できるわけじゃねえんだ。
 真っ向から突きを受け止めたせいで左腕はまだ痺れてる。お前に斬り付けられた部分も鉄パイプでぶん殴られたぐらいに痛えよ。
 だが誇っていいぜ。さっきは追い討ちしなかったんじゃない。斬られたダメージのせいで出来なかったんだぞ」

「………それでも少し体勢が崩れただけでござるか。全く、先生といい、貴方といい、拙者よりもよほど人間離れしております」

「へっ、泣き言か?」

「誉めているのでござるよ。貴方は本当に恐ろしい人でござる」

 その声は僅かに震え。

───なんと強靭な精神なのか!
   なんと素晴らしい眼力を持っているのか!
   死を恐れぬ男が全てを賭けて、己が命を燃焼しつくさんと戦う姿がこんなにも尊いものだとは

 彼への敬意と彼の強さへの感嘆が胸をうち、強い感動が去来する。

「ほら、立てよ。まだまだ戦れるんだろう?」

「もちろんでござる」

 声に応えて立ち上がり、剣を正眼に構えて右足を引く。

 負けられない。
 病魔に冒された彼が戦えるのは今宵が最後。
 だからこそ自分は負けられない。
 一剣士として生きてきた犬塚シロには、最後の相手に選ばれたという事の意味を知っていた。

「さっきのは結構効いたからな。次は俺から仕掛けるぜ」

 接近しようとシロが歩を進めた刹那、雪乃丞の両手が光り、霊波砲が次々と放たれた。
 遂に雪乃丞が彼女の実力を認めて攻勢へと転じたのだ。
 マシンガンの様に襲い掛かる連弾をシロは持ち前のスピードと体捌きで避け、刀を振るって受け流す。
 だが上下左右に散らされる攻撃の嵐は徐々にシロから動く余地を奪っていく。
 霊力の消耗も構わず霊波砲を放ち続ける雪乃丞と何とかかわしつづけるシロ。
 しかしそのハイレベルな攻防も、遂に均衡が崩れた!
 捌き切れなかった霊波砲がシロの膝にあたり、彼女は思わず片膝をついたのだ。

「しまっ───」

 その隙に接近した雪乃丞の右ストレートがシロの顎を捉えて彼女の体を仰け反らせた。
 だがシロは打撃の衝撃に逆らわず、自ら後ろに飛んで辛うじて追撃の中段蹴りを回避する。
 彼女はすかさず霊波砲の巻き起こした砂煙に紛れて飛び退いた。

 仕切り直して構えをとる両者の顔からは、既に余裕が消え去って大粒の汗が浮かんでいる。

 再びじりじりと間合いを詰めるシロに、雪乃丞も重心を沈めて飛び出そうとした瞬間、その場に衝撃が奔った。
 雪乃丞が大量の血を吐いて崩れ落ちたのだ。
 がっくりと膝を落としながらも右手を地面に突き、辛うじて倒れかけた体を支えるが、既に彼の顔色は蒼白になり、左手は喉を押さえている。

「げほっ、ごほっ、ぐっ」

 苦しげに咳きこむ度に大地が朱に染まっていく。

「雪乃丞!!」

「来るんじゃねえ!!」

 思わず駆け寄ろうとするピートの体が裂帛の叫び声に静止した。とてつもなく強固な闘争心を宿したまま、彼の両眼がピートとシロを睨みつけている。

「まだ、終わりじゃねえ。終わってねえんだよ!!」

 叱咤しながら膝に力を込める。立ち上がろうと試みて、けれど彼の肉体は彼の意思を裏切った。
 力が、入らない。視界が点滅する。香港で魔界に放り込まれた時のような悪寒が続け様に襲い掛かってくる。
 それでも、たっぷり30秒近くかけて、ようやくふらつく体を起こして構えを取る。
 ………それまでだった。
 病との闘いで消耗し尽くした彼の肉体では足を一歩も動かせない。もう両足は体を支えるだけで精一杯なのだ。

「くそ、くそ、くそ。動け。動きやがれ。動けってんだよ!こんな中途半端なところで終わりにするんじゃねえ!!」

 悲鳴のような叫びが修練場に木霊する。自らの不甲斐なさを呪いながら、しかし雪乃丞に諦めはない。
 体が傷つくのもかまわずに限界以上の霊力を巡らせて身体強化を高め、無理に体を動かそうとする。
 けれどそのツケは直ぐに現れ、容赦なく彼を裁いた。

「ガアァッ!?」

 筋肉が千切れる音がする。

「おおおぉぉぉ!」

 毛細血管が断裂する。

「この、程度で!!」

 至る所から血が流れ出し、見る間にその体は朱に塗れていく。

「雪乃丞ぉぉぉ」

 ピートは耐え切れなくなって目を背けた。
 これ以上見てしまえば、この勝負を止めたいという身勝手な願いを抑えきれなくなる。

「雪乃丞、殿………」

 思わず手を貸してしまいたくなる衝動を、シロは歯を食いしばって抑えつけた。

───止めたい。
   止めてはいけない。
   でも、もう、とても。
   最後まで戦え。

 激しい葛藤が吹き荒れて、彼女の目に涙が浮かぶ。
 けれども、その葛藤を跳ね除けるように、シロは体の底から戦意を搾り出すように大声で叫んだ。

「立つでござる、雪乃丞殿!
 貴方は病などに負けるような御方ではござりません。貴方は我が師、横島忠夫の終生の強敵ではありませぬか!!」

 横島忠夫という言葉に彼の耳が反応する。ぐらついていた上体がぴたりと止まって安定する。
 一瞬揺らいだ霊力が見る見るうちに力を取り戻していく。
 この瞬間、伊達雪乃丞の精神は病魔に蝕まれた肉体を完全に凌駕した。

 やがて彼の回りを巨大な霊波が渦を巻いた。渦巻く霊波は漆黒の装甲へと集束し、彼の体を覆っていく。
 だが彼の纏った魔装術は先ほどまでとは異なるフォルムを形成した。

 そこには、鬼が現れていた。

 一回り厚みを増して禍々しさと力強さを加えた装甲は、その形状を忍の衣から鎧へと変えていく。
 傲然と立ち上がった彼の全身から放たれる闘気は鋭さを増して鬼気となる。
 それは生命の炎が最期を迎えて激しい光芒を放つ時にのみ発現した奇跡。
 燃え尽きようとする命の終焉直前の輝きが限界を超えて霊力を高め、そこから生まれた高密度の霊波は彼に生涯最高の魔装術を纏わせたのだ。

「その通りだぜ、犬塚ぁぁぁ!この俺が、病気なんぞに、負けるかよぉぉぉぉぉ!!」

 絶叫と同時に鬼が笑った。
 新たなる装甲を纏いながら鬼気を放つその姿は、まさに悪鬼羅刹の如し。
 だがその両眼に邪悪さなど微塵もない。あるのはただ己の魂を燃やして戦おうとする純粋な闘志。
 果し合い以外の全てを、勝敗の行方すらも考える事を放棄した雪乃丞は、今、純一戦士となって意識の全てを戦いに没入しているのだ。
 ふわりと構える所作は自然体。まぎれもなく伊達雪乃丞は生涯最高の域に達している。
 そこから繰り出される一撃は先程までの比ではないだろう。

 シロの背中に冷や汗が浮かび、しかしその心は抑えきれぬ昂揚感に満たされて。
 いつの間にか涙は乾いていた。

「さて、どう防げばいいものか」

 刹那、思考が機械の様に高速に巡っていく。
 半端な攻撃は通じない。鎧の防御に全て阻まれた。だから残された手段は三つだけ。
 切っ先に霊力を集中させた刺突であの装甲を貫くか。
 足を止め、渾身の力と霊力を込めて上段から必殺の刃を叩きつけるか。
 さもなければ逃げ続けて相手の心臓が止まるのを待つのか。
 一番確実に勝てるのは、言うまでもなく3つ目だ。逃げに徹して長期戦に持ち込めば、肉体の限界を超えている雪乃丞に勝ち目はない。
 そこで彼女はその結論を嘲笑う。

───逃げ回っての勝利など笑止千万!!
   雪乃丞殿の願いを受けて立つと決意したからこそ拙者はここに居るのだ。ならばやるべき事など最初から決まっている。
   拙者は勝つ。正面から立ち向かい、雪乃丞殿の最後の勇姿を我が目に焼きつけ、そして勝つ!!

 腰を落として構えるシロの目が細まると、意識の全てが雪乃丞を迎え撃つ事へ注がれる。
 その刹那、景色がモノクロの様に色褪せて、周囲の動きがスローモーションの様に遅くなる。
 それは彼女の集中力が極限まで高まり、無念無想の境地に至った証。
 そうなった時、その目は相手の姿だけを捉え、その耳は相手の発する音だけを聞く。
 この瞬間、彼女を取り巻く環境の全てが意味を失い、世界には己と敵の2人だけが存在した。

 張りつめた空気が針の様に肌を刺し、ピートはその息苦しさに思わず喘いだ。
 漆黒の鬼と銀毛の狼が互いを打倒せんと睨み合い、両者の狭間で放出された霊力が放電現象の如く大気をびりびりと震わせる。
 やがて両者の緊張が頂点に達した瞬間、

「犬塚シロォォォォ!」

 吠える。鬼が吠える。鬼の如き装甲を纏った男が喉も張り裂けよとばかりに咆哮しながら地を蹴った。

「あいつの一番弟子を名乗るならぁぁぁぁ!!」

 明日を捨て、この戦いに魂の全てを注ぎ込んだ伊達雪乃丞がその気迫を犬塚シロへと叩きつけ、シロの全身がそれに押されて戦慄する。

「この俺の全てを受け止めてみやがれぇぇぇぇぇ!!!」
 
 素晴らしいスピードで駆ける彼の姿は全盛期そのままで。
 彼の全身を駆け巡る霊力は超一流のGSの名に恥じぬ程に強まって。
 小柄な体格から放たれる威圧感が津波の如き圧力で襲い掛かかって。
 禍々しく、美しく、力強い霊気を纏った男が迫りくる。
 その体が一足の間合いに入った瞬間、弓弦から放たれた矢の様にシロの体が疾駆した。 
 彼女は銀光と化して踏み込むと、下段に構えた霊波刀を猛然と突き入れる。
 その目にも止まらぬ凄烈な刺突の太刀筋を、

「それは通用しねえぞぉぉぉ!!」

 雪乃丞は瞬時に見切って左手に魔装の盾を造り出す。
 それは彼女の全身全霊の突きすら貫き通せぬ最高の盾。
 その鉄壁の護りがシロの眼前に展開する。
 だが刀の切っ先と盾が衝突する刹那、

「はあぁぁぁぁぁ!!」

 シロの裂帛の気勢と共に霊波刀が光を放ち、二人の体が激突した。

───ドォォォン

 その瞬間、凄まじい霊力がぶつかり合い余波を生み、衝撃となって駆け抜けた。

 やがて砂煙が収まり、視界がクリアになる。
 そこには至近距離からの霊波砲の直撃を受けて10m以上も吹き飛ばされたシロと、霊波刀に刺し貫かれたまま仁王立ちする雪乃丞の姿があった。

「………うっ」

 地に伏したシロの体が僅かに動き、その上体が徐々に起き上がっていく。
 満身創痍でありながら、その闘志は尚も消えずに彼女の体を立たせようと駆り立てる。
 雪乃丞はゆっくりと自らの体に目をやり、そして立ち上がろうとするシロに目を移す。
 彼女は両手を地について震える体を支えながら、片膝を立てて顔を上げた。
 両者の視線が無言のまま複雑に絡み合う。
 やがて彼の双眸は穏やかに揺れ、ふっ、と和らいだような表情を浮かべると雪乃丞は静かに倒れて落ちた。






「雪乃丞ぉぉぉ!!」

 勝敗を見届けたピートが駆け寄って彼の体を抱き起こす。その胸部からは止めどなく血が流れている。
 懸命に止血しようとするピートを押し留めると、彼は普段の口調と些かも変わらぬ調子でシロに声をかけた。

「最後の技、初めて見たぜ。人狼の技は全て見切ったと思ったんだが。不覚だったぜ」

 足を引き摺るようにしながら彼の許へ辿り着いたシロが、それでも気丈に返答する。

「これは大神族に伝わる技ではござらん。我が師、横島忠夫より伝授された奥義『如意刀』でござる」

 あの瞬間、日本刀のようだった彼女の霊波刀の刀身は、大きく湾曲しながら伸びて雪乃丞の構えた盾の横をすり抜け、再び湾曲して彼の体を貫いたのである。見ると日本刀のようだった彼女の刀身が三日月の様に変わっている。

「は、はははは。そう、だ。もう何十年前だったかな。
 俺とあいつが妙神山に行った時、あいつは初めて霊波刀を伸縮させたんだった。
 でもまさかお前があいつの技を継いでるとは思わなかったぜ」

 弱々しい声で、それでも不屈に笑いながら雪乃丞は懐かしそうに目を細めた。

 かつて横島は栄光の手を籠手や剣など様々な形状に変え、美神は神通棍に込められた霊波を鞭の様に撓らせて悪霊を屠っていた。
 その技を、掟破りの裏技を、そして枠に囚われぬどころか枠をぶち壊すような柔軟な発想を、犬塚シロは見ていた。あの2人の傍らで、ずっと。
 そして彼女は学んだ。霊力の自由自在なコントロールとイメージが無限の戦法を生み出すことを。
 ならばこそ彼女の造り出す霊波刀の形は限りなく、彼女の剣の軌道は縦横無尽。

 そして今、その美神や横島譲りの天衣無縫な発想に、そして大神族の素晴らしい反射神経と敏捷さに、雪乃丞は敗北した。
 そう。彼は敗れたのだ。死力を振り絞り、限界を超えた激闘の果てに。
 それ故にピートとシロを見ている彼の瞳には一片の悔いも、曇りも、苦痛すらもない。

「戦って戦って、その末に倒れる。全く俺らしい終わり方だ。何の不満もねえし、最後の相手がダチの一番弟子ってのも悪くねえ」

 くつくつと笑うと雪乃丞は彼方を見た。既に両目の力は消えて虚ろになり、死相が浮かんだ顔には満足気な笑みが張り付いている。

「なあ、犬塚。俺はやっぱり根っから戦うのが好きなんだ。
 お前も、ピートも、最後まで俺の我が儘に付き合ってくれて、感謝するぜ。
 これで、俺も、あいつらみたいに、悔いなく、逝く事が、出来る」

 雪乃丞の手を握りながら、ピートは不明瞭になっていくその言葉に何度も何度も頷いて見せる。彼との数十年に渡る友誼と万感の思いを込めて。
 シロは彼の最期を看取ろうと屈み込む。その目には形容しがたい、畏れとも感動ともつかぬ感情が浮かんでいる。
 そして雪乃丞は最後まで残っていた感情を言語化しようと、縺れる舌を宙に泳がせた。

「今日の負けは………あいつに………直接リベンジして………やる。だから………待って・・・・・・・ろよ、横島。今度こそ・・・・・・・はっきり白黒つけ・・・・・・よう・・・・・・・ぜ」

 言い終えるその首はがっくりと垂れ、彼の呼吸はそれなり止まった。
 それが、最後まで楽しげな顔をしたまま戦いに魂を燃やした戦士が、幽冥へと旅立った瞬間だった。














 雪乃丞の遺体を彼の部屋に敷いてある布団に横たえると、ピートは振り返ってシロを見た。

「後の事は僕に任せてください。医療と警察には知り合いが大勢いますから、犬塚さんに迷惑がかかるような事は決して起こりません」

「かたじけないでござる」

「いえ、お礼を言うのは僕の方です」

 寂しげに微笑みながら、ピートは遺体の髪の解れを直した。

「貴方と戦っている時のあいつは輝いていました。あんなに楽しそうな雪乃丞を見たのは久しぶりでした。
 何より、僕では雪乃丞の死に顔をこんなにも安らかにしてやることは出来なかったでしょう」

「ピート殿………」

 彼の目尻には涙がたまり、その声は抑えきれぬ悲しみに震えている。
 かつてピートが勤めた事務所の友人達は、もうこれで誰もいなくなったのだ。

「今日は、本当に、ありがとう」

 すっと頭を下げる彼に、シロも無言で礼を返すと退出した。 
 障子を閉め終えた時、彼女の耳にピートの嗚咽が聞こえてきた。
 けれどシロはそれに気付かぬ振りをしながら足早に雪乃丞の屋敷を立ち去った。






───ゴオォォォン

 特急の列車が駅を通過する際の轟音に、彼女は我に返った。
 気がつけば駅の前にいたのだが、屋敷を出て歩き出してからの記憶がない。おそらく緊張が解けて放心していたのだろう。
 慌てて人狼の里の近くの駅まで行ける切符を買う。
 いつもならば走って里まで帰る事も出来ようが、極限まで張りつめた心身が弛緩した状態では、軽い運動すらも億劫だ。






 やがて到着した電車に乗り込み、空いている座席に腰掛ける。車両の人影は疎らで彼女の近くには誰もいない。
 疲労で気だるい体を休ませながら、彼女の目は窓の向こうの風景へと向けられた。
 その目に映る世界は赤みを帯び始めていた。
 夕焼け。すぐに消える定めを負った刹那の赤。彼女の師が時折切なげに眺めた空。
 そんな師の姿を見てしまったからなのか、彼女も夕日を見るとしばしば感傷的になってしまう。
 空を見ると今でも心から敬愛している師の顔が雲の狭間に浮かんでくる。雪乃丞がその隣で不敵に笑っている。
 シロはその幻視に向かって、寂寥と僅かばかりの満足を込めて声をかけた。

「今頃はきっと先生に勝負を挑んでいるのでござろうな、雪乃丞殿」

 その双眸からは熱い涙が吹き零れ、頬を伝って落ちていく。けれど彼女は涙を拭いもせず、夜の帳が下りるまで黄昏の情景を見つめていた。
 紅に染まった世界は赤い血を、落日は老いと病を、一日の終わりを告げる茜色の空は命の終焉を思わせる。
 やがて黄昏は彼方へと消えて、大地は闇に包まれて、空には月が優しき光を湛えている。
 彼女は魅入られるように月を眺めながらぽつりと呟いた。

「本当に………良き勝負でござった」

 雪乃丞の顔が脳裏に蘇る。満足げな笑みを浮かべながら逝った彼の穏やかな死に顔が。
 その時、彼女の心を師の友であり尊敬する戦士でもあった男を失った悲哀が圧し包んだ。

「うっ…うっ……うっ」

 込み上げてくる激情に耐え切れず、彼女は泣き伏した。
 小さな泣き声が、本当に小さな嗚咽が風に乗って流れていく。
 彼女は声を抑え、涙が枯れるまでずっとずっと泣き続けていた。
 閑散とした車両の中にその声を聞く者はなく、月だけがその静かな慟哭を見守っていた。










   伊達雪乃丞、享年48歳。
   彼の死因は半年前から患っていたガンによるものと診断された。
   有名事務所のエース格の1人として活躍してきた彼の葬儀には多くの霊能力者が出席した。
   けれどその中に、犬塚シロとピエトロ・ド・ブラドーの姿はなかった。


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