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椎名高志SS投稿掲示板


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No.526の一覧
[0] それでも明日はやってくる[z](2005/10/21 17:58)
[1] それでも明日はやってくる2[z](2005/10/22 18:07)
[2] それでも明日はやってくる3[z](2005/10/22 18:08)
[3] Re:それでも明日はやってくる4[z](2005/10/27 21:06)
[4] それでも明日はやってくる 最終話[z](2005/11/03 15:29)
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[526] Re:それでも明日はやってくる4
Name: z 前を表示する / 次を表示する
Date: 2005/10/27 21:06
④取り戻した想い

 丘の上に寝転んでいると、空が高く、青くなって、風が少しずつ暑くなっていくのが分かる。
 それは今までと変わらない地球という惑星が織り成す気候の形。
 陽炎の様に熱が立ち昇り、眼下に佇む廃墟は活気に満ちていた。
 先日までの絶望に満ちた人の群の徘徊は消えて、今では街には精力的に動き回る人達が目立つ。
 ラジオで流れた臨時政府の復興開始宣言を受けて、3日前からボランティア達主体の復興活動が始まったのだ。
 彼らは廃墟と化した市街地の瓦礫を退けて安全に通れる道路を確保したり、まだ水の出る水道が残っていないかを探している。
 重機や機械等は破壊されて使えない。
 だから彼らは軍手を填めてスコップを担いで地道な作業に勤しんでいる。
 少し前の絶望に満ちた情景に比べれば、街には確かな生気が在った。

 けれどそれも手放しには喜べない。
 復興活動の為にコンクリートの破片や家屋の残骸などの瓦礫を除去しなければならないのだが、そこには大きな壁が立ち塞がっていた。
 彼らを悩ませる原因はただ1つ。死体だ。
 瓦礫の下には数えるのも馬鹿らしいほどの死体がグロテスクな有様で埋まっている。
 かつてマンションだった建物の破片を片付けていると、家具や木材に紛れて死んだ人間の体が現れる。
 歪んだまま硬直している表情。
 温度を失った肉体。
 腐れかけた肉には蛆がたかっている。
 常人なら一目見ただけで生理的な嫌悪と込み上げる吐き気に悩まされるだろう。

 けれど今日も街で作業に勤しむ者達の価値観は、そんなものを感じる段階はとっくに過ぎていた。
 アシュタロスが東京を壊滅に追い込んでから既に15日余り。
 死体は既に腐り始め、街には耐え難い死臭が充満していた。
 故に彼らは瓦礫を退けて死体を発見すると、少しだけ顔を顰めながらも死体を麻袋につめ、予め定められた所定の場所へと搬送する。
 運ばれた死体は、大きく掘られた穴の中に投げ込まれ、身元確認もされないままに焼かれていく。
 あちらこちらで燃え盛る死体を焼く炎。
 黒い煙が空に昇り、肉を焼く臭いが大地に立ち込める。

 街にはとてつもなくリアルで凄絶な地獄絵が描かれていた。
 処理しても処理しても続々と彼らの前に現れる亡骸。
 アスファルトの道路に転がるのは倒壊した建物の残骸と魂を失った人間の肉体。
 圧倒的な力の前に、訳も分からぬままにどうしようもなく無様に死んでいった人間の成れの果て。
 風が運ぶ屍臭は街を満たそうと尽きる事がない。
 究極の魔体が滅んでも悲劇は終わらなかった。
 既に蹂躙され尽くした世界、何処に行こうとも人々の死体は無惨に打ち捨てられていた。
 したり顔で批判する評論家も、度々ブラウン管に登場した可憐なアイドルも、新聞を賑わせた政治家も、こうなっては他人と変わらない。
 積み重ねた善行も過ごしてきた人生も、エゴイズム故に怒り狂って理性を失ったアシュタロスの前では何の意味も持たなかった。
 死ぬ際に怨嗟の声をあげた者もいただろう。
 我が子の明日だけを祈って死んでいく母親もいただろう。
 倒壊した瓦礫の下でゆっくりと衰弱していき、苦しんだ末に息を引き取った子供もいただろう。
 そんな彼らに対して、アシュタロスの駆る究極の魔体は理不尽に襲いかかった。
 そして残されたのは果てのない焼け野原だけ。
 その中で彼らは文句も言わずに働いていた。腐臭と火葬の臭いの2つに耐えながら、生きる為に黙々と。




 もちろん全員がそれに参加しているわけではない。
 復興活動が始まってからもう一週間。
 参加した者の大半が4日目にはノイローゼ気味となって避難所の中で震えながら蹲まり、残った人間が気の進まぬ顔で街に行く。
 やがて機械的に亡骸を拾って適当な窪地で焼却する作業の繰り返しは、それに携わる者達の精神に多大な変化を齎した。

 死に触れすぎた者が辿る道は大体2つ。
 1つは正気を失くし、外界と決別して自分だけの世界へと逃げ込む狂気の道。
 これは守るべき者を失った人の末路となる事が多い。
 例えば俺のいる避難所の片隅にいる屈強な肉体の若い男。
 彼は最初に復興活動に参加した日に心を病んだ。
 聞くところによると男は運悪く見つけてしまったらしい。探し続けていた唯一の肉親である妹が、壊れた人形の様な姿で死んでいる姿を。
 その時、彼は泣きもせず、ただ呆けたように笑っていたそうだ。
 その瞬間から男の中で世界は意味を持たなくなったのだ。
 今では焦点のあっていない目で空を見ながら、ぶつぶつと何かを呟いている。

 そしてもう1つは、動物の様に「生きている」という状態だけを優先する事である。
 彼らは死者に価値を見出さない。
 彼らにとって、生きている人間はかけがえのない存在であっても死んだ人間は腐っていく肉の塊なのである。
 故に彼らは、死者を悼む対象ではなく腐った肉の塊、と割り切って、ゴミ拾いでもするかのように淡々と死体を片付ける事が出来るのだ。
 その在り様は道徳にも倫理にも反するかもしれない。
 しかしだからといって彼らを責めるのは筋違いだ。
 彼らは生きる為に状況に適応しているに過ぎない。
 そしてこの数日の彼らの働きがあればこそ、道路上の瓦礫の撤去が進み、物資の補給と他の地区への移動が徐々に楽になっているのだ。
 また彼らは「生」への執着と敬意から生き残っている者達への助力を惜しまず、進んで困っている者達に手を差し伸べる。
 割り切っているが故に、彼らは生者に対してひどく親切なのだ。

 だが人間は、そう簡単にはそこまで強くも弱くもなれない生き物だ。
 狂気にも逃げられず、割り切る事も出来ない者達は、死体を軽んずる彼らの在り様を嫌悪しつつもそれに頼らざるをえない現状を嘆いている。
 真っ当な心を保っているために、彼らにとってこの世界は地獄と変わらない。

 このように様々な心理が交差する中で、それでも時間は止まらない。
 崩壊しかけた社会は既にゆっくりと動き出していた。
 2日前には、都庁の職員が生存者の名簿を作りに避難所にやって来た。
 生存者の確認と戸籍の名簿の作成と総人口の再集計を兼ねて、担当者がこうして各地の避難所を周りながら生存者の氏名を記録している。
 死者と行方不明者の数が総人口の50%を上回りそうなので、政府の方針で死者の身元よりも生存者の確認を最優先にするそうだ。
 つまりこの名簿に登録していない人間は自動的に死者か行方不明者の扱いにされてしまうのだ。




 けれどそんな動きも俺にとってはそれほど大した意味も無い。
 つい先日、俺は知った。人口が少なかったせいか、ナルニアが魔体の襲撃を受けなかった事を。
 その事でルシオラと話した時、俺は自分の中であれほど拘っていた日本に未練がなくなっている事を知った。
 ふと、その時のやりとりを思い出す。




“これから、ヨコシマはどうするの?”

「一度、ナルニアに行こうと思う。ナルニアは魔体の攻撃を受けなかったらしいからきっと親父とお袋は無事だ。
 こんな状態じゃあ連絡取れるようになるのはずっと先になるだろうけど、せめて俺が生きてるって伝えてやりたくてさ」

“もしナルニアに行けたら、そのままご両親と暮らすの?”

「かもしれない。日本に留まろうと思った理由の殆どはもう消えちまったし…………この国は哀しい思い出が多すぎるから」

 居場所とは空間だけで形成されるのではない。そこに何かを求める自分が居て、同様に何かを求める人が居て、はじめて成立する。
 ならばその全てを失った俺にとって、余りにも変わってしまったこの国の姿は寂し過ぎて。
 正視する事すら困難だった。

 それに今まで気がつかなかったけれど、どうやら俺は自分が思っていたよりも遥かに切り替えの早い性格だったようだ。
 美神事務所で慟哭した日からから、俺は何度も知らない人間の死体を見つけてきた。
 だが、その時胸の中に沸き起こった感情の漣は、予想より遥かに小さく、弱かった。自分でも驚くほどに。

 ………それも仕方ないかもしれない。
 なにぶん、俺は普通の人間よりも深く死というものに触れすぎた。
 人の最期とその成れの果てである悪霊の姿を目にしすぎた。
 それ故に、俺の心もどこか病んでしまったのかもしれない。

 しかしだからこそ、腐臭さえ我慢すれば俺にとって街で働くのは苦にならない。
 そして復興作業に参加している者には、臨時政府から様々なメリットが与えられる。
 無論それは、他の者より配給の量が多かったり、他の避難所に移る際に面倒な手続きが要らなかったりとささやかなものに過ぎなかったが、ここではそれが生死を分ける事にも繋がるのだ。
 けれども俺の目は。

「できれば手伝いたいけどさ」

 大勢の人間が働いているのをあの丘の上から見下ろしながら、俺は胸に蟠る苦い思いに嘆息した。
 彼らが汗水たらして働いているのは、悲しみを少しでも紛らわそうとしているからだ。
 その気持ちは俺にも良く分かる。できれば俺も参加して、余計な事が考えられないくらい疲れるまで働きたい。
 しかし中途半端な力のせいでそれも難しい。

「せめて道具が残っていたらなぁ」

 大量の霊が成仏できずに徘徊を続ける街。
 なまじ見えてしまっているせいで、その姿がどうしても気になってしまう。
 せめてお札か神通棍でも在れば何あっても対処できるかもしれないけれど。

「いや、それでも難しいか」

 街に流入する人の数が増えたせいで霊達の動きも活発になっている。
 何かきっかけがあれば彼らは危険な行動を取りかねない。
 そして、未練や怒りを残して彷徨っている数千の霊が集まれば、その脅威はかつて都内を混乱に陥れた霊団に等しくなる。
 有事の際に頼りになる実力者がいなければ、混沌としたこの国に再び秩序を打ち立てるのは不可能だろう。
 なるほど、ワルキューレやヒャクメ達が手助けを申し出るわけだ。
 おキヌちゃんのような特殊な才能や大量の破魔札がない限り、次から次へと群らがってくる霊に対処するのは一流GSですら困難で。
 けれど、もうこの国には力のある霊能力者もいなければ備蓄していたオカルトアイテムもない。

「霊視を意図的にコントロールできれば問題ないんだけど」

 小高い丘の上から、振り向いて眼下の町並みを見る。
 何も知らず、何も気付かず、悲しみを忘れようと懸命に働く人の群。
 彼らは知るまい。彼らの直ぐ隣で啜り泣きながら無念を訴えてくる亡者の存在を。
 『見えてしまう』という事はそれだけで浮遊霊達を刺激してしまう。

 霊達は求めている。霊達の姿を見て、その願いを叶えてくれる存在を。
 それ故に理性を失った霊達は、必然的に『見えてしまう』生者に向かって殺到する。
 だからこそ俺が働いている人の中に混じれば、却って彼らの足を引っ張る事になりかねないのだ。

 その点、被害がほとんどなかったナルニアならば、俺に霊感が有ろうが無かろうが関係ない。
 多少は霊の姿を見かけるだろうが、よほど強力な悪霊でなければいくらでもあしらえる。
 故に、人口密度が少ないおかげか魔体の強襲を免れたナルニアならこんな俺でも何も気にせずに働けるだろう。
 それに霊能力が使えなくても、しょっちゅう重い荷物を担がされていたので体力には自信がある。

「ワルキューレや小竜姫様や一生懸命働いてる人には悪いけどさ。
 とっととナルニアに行った方が互いのためだよな」

 結局その日も、俺は日が暮れるまで丘の上で街を見下ろしていた。










 浮遊霊達と関わるのは避けたくとも、生きている以上やらなければならない事はいくらでもある。
 例えば、復興作業に参加しない者達に支給される食糧や水は基本的に最低限の量しかなく、もっと確保したいと思えば、廃墟から食糧となる物を漁るか、都庁の近くにある物々交換の露店に頼るしかない。交換対象となる物を持っていけば、条件次第で、保存食や服、カンキリ、十得ナイフ、湿布等の様々な物品が手に入るのだ。これらは闇市紛いのものばかりだったが、市街地から見つかった物資の流通に役立っている事もあり、政府もその活動を黙認していた。俺も何か手に入ると、そのつどそこへ交換に行く。
 幸い、ルシオラが俺の霊力で幻術を使えるようになったおかげで、短期的な危険は激減した。
 もし俺の中途半端な状態を霊達に知られても、ルシオラの幻術さえ使えば簡単に逃げられるからだ。
 尤も、彼女も一日に何度も何度も幻術が使えるわけではないので、大量の霊魂が跋扈する街に長時間留まる事は出来ないが。
 だからその日、街の外れのその道に通りかかったのは本当に偶然だった。

 いつものように人気のない場所を歩き回っていた俺は、大通りに並行するように続いている細道で、横倒しになったトラックを見つけた。
 あいにく荷台の荷物は全て持ち去られた後だったが、タイヤの陰に何かが隠れるように転がっている。
 怪我しないように慎重に手を伸ばすと、出てきたのは袋詰めされた1kg分の塩が5袋。
 その状態を確かめると、俺は6kmほど離れた都庁方面へと向かって歩き出した
 塩は貴重品だがこれだけの量を全て持っていても仕方が無い。




 数時間後、俺は新宿駅の地下通路にある物々交換の露店で、持ってきた塩を缶詰やカロリーメイトと交換した。
 予想以上に混雑していたせいで、予定よりも大分時間が経っていた。
 外に出ると、既に太陽は地平線の近くまで落ちている。
 地上に注がれる光は弱く、もう空は黄昏になっていた。
 夜になれば亡者の活動は活発になり、彼らの怨念はその強さを増していく。
 だから俺は茜色の空を見る暇もなく急いで避難所へと向かった。
 丁度復興活動が終わる時間で、大通りはかつての様に人の波でいっぱいだった。
 その人波を避けるように小道に入る。歩いている人間の大半は新宿御苑に避難している者達だろう。
 そこから離れて、南北へと通じていく大通りも通り過ぎると、途端に人間の数は減っていく。

「やっばいな」

 しばらく東に歩き、新宿御苑の入り口に接している道路を越えたあたりで太陽が地平線に隠れた。
 こうなればもうどこにいても危険は同じだ。
 覚悟を決めて近道の為に路地裏に入ると、予想通り人影は極端に少なかった。
 夜こそは亡者達の時間であり、闇こそは彼らの居場所。
 既に霊の動きは少しずつ速くなっており、その声も徐々に大きくなっていた。
 けれどもその時、俺の耳は確かに捉えた。霊達の嘆きと怨嗟の声の中で聞き覚えのある声が聞こえてきたのを。

「………て」

 最初は聞き違いだと思って通り過ぎようとした。
 もうこれ以上期待が裏切られるのは嫌だった。

「た……けて」

 けれど再び、そのか細い可憐な声が耳に届く。
 その声には確かに聞き覚えがあるような気がしたから、俺は覚悟を決めて路地裏へと入っていった。
 そこは神宮外苑へと続く道。隣の大通りの瓦礫撤去が終わってせいか、その路地を通行する人間は誰もいない。
 
「誰か、助けて!」

 また聞こえた。今度はその声音までもはっきりと。
 聞き間違いなんかじゃない。
 もう死んでしまったと思っていたけれど。
 まさか生きているなんて思ってもいなかったけれど。
 でも、もう間違いない。
 彼女は、確かに、生きている。
 最初はおっかなびっくり進んでいた足も、今は全力疾走している。




 既に沈んだ太陽の僅かな残滓に照らされた薄暗い路地裏。
 その中に頼りなげに佇んでいる人影があった。
 見覚えのあるシルエット、ウェーブがかった長髪、すぐ傍の特殊な波動、それだけで充分だった。

「小鳩ちゃん!!」

 絶対に霊と目を合わせるな、彼らの注意を引かないように行動しろ、と言い聞かせながら移動していたが、彼女の姿を見た瞬間、俺の中でそれら全てが吹っ飛んだ。

「俺だ、小鳩ちゃん!」

 気付けば大声で叫んでいた。

「嘘………横島さん!?」

 そして俺に気付いて彼女が振り向くのと、俺が彼女の所に辿り着いたのはほぼ同時だった。

「横島さん、わ、私、私は………」

 知り合いに会えた驚きのせいか、俺を見つめる彼女の目に涙が浮かんでいる。
 何かを俺に伝えようと舌を動かすものの、感情の高ぶりのせいかうまく言葉が出ないようだった。

「小鳩ちゃん、どうしたの?」

 落ち着かせる為に小鳩ちゃんの肩に手を置いてゆっくりと尋ねると、彼女の顔が感極まったかの様にくしゃっと歪んだ。

「横島さん、助けてください。お母さんが!」

 ただならぬ様子で俺の手を掴むと、彼女は瓦礫の向こうに走り出した。
 その声から滲み出ているのは焦りと恐怖。良く見れば彼女の顔も青褪めている。
 かなりまずい事態が起きているのは明白だった。

 200mほど走ったところで貧の姿が見えてきた。
 その傍らに見覚えのある女性が倒れている。小鳩ちゃんのお母さんだ。
 そしてそのすぐ向こうの道には、それまでは端に寄せられていた瓦礫が不自然なほど大量に転がっていた。

「貧ちゃん、お母さんは!?」 

「出血はとまっとる。でも意識が戻らないんや」 

「貧、怪我してるのか!?」

「よ、横島。生きていたんやな。てっきり、もう───」

「それは後回しだ。彼女の怪我の具合は」

「落下物のせいで腕と背中と肩を強く打って気絶しとる。
 幸い咄嗟に頭を庇ったから頭部は大丈夫やけど、さっきまで腕と肩からかなり出血しとった」

 貧の声を聞きながらざっと彼女の状態を窺った。
 小鳩ちゃんが自分の上着を裂いて包帯代わりにしたのだろう。左腕と肩には黄色い布が巻かれている。

「どうして此処に?」

「避難所に物資が届かなかったので、都庁で配給を受けてきたんです。
 でも配給は1人で行っても1人分しか貰えなくて、だからどうしても無理して行く必要があって。
 それで日が暮れる前に急いで帰ろうとしたら、突然建物が崩れて瓦礫が落ちてきて」

 それで大体の事情は掴めた。
 見ればリアカーが壊れている。
 行きは、あれにお母さんを乗せてきたのだろう。

「怪我してからどれくらい経った?」

「倒壊に巻き込まれてから12分、応急措置が終わってから5分ってところや」

 倒れている小鳩ちゃんのお母さんの顔は青褪め、ぐったりと目を瞑った姿からは容易に『死』という言葉が連想できる。
 額に汗が浮かび、呼吸も荒い。
 怪我と出血による消耗と体温の低下、そして何より精神と肉体の疲労は人の体を容易に危険な状態へ誘うのだ。
 このままでは間違いなく………。

「ざけんなよ」

 低い声で唸りながら、咄嗟に浮かび上がる結論に蓋をする。
 認めない!絶対に認めない!!

 頭部に腫れも出血も無い事を確かめると、俺は慎重に彼女の体を担ぎ上げた。

「小鳩ちゃん、お母さんは俺が運ぶよ。どこに連れて行けばいいかな?」

「神宮球場にお願いします。あそこにはお医者様がいらっしゃるので、私達ずっと向こうにいました」

 なるほど。道理で小鳩ちゃん達に会えなかったわけだ。
 俺がいた避難所は俺の住んでたアパートからは近かったけれど医者はいなかった。
 だが病気がちな小鳩ちゃんのお母さんの事を考慮すれば、医者がいる避難所に行った方が良いに決まってる。
 それに神宮球場なら都庁から近く、その分配給や物資の補給を円滑に受けられる可能性が高い。
 だからこそ、彼女達はアパートからかなりの距離を歩いて神宮球場周辺に避難したのだろう。

「行くよ」

 振り向いて声をかけると、小鳩ちゃんも緊張した顔で頷いた。
 俺達と神宮球場を隔てている瓦礫の山に向かって踏み出した時、俺は初めて美神さんの仕打ちに感謝した。

 背中が軽い。全然大丈夫だ。
 除霊用アイテムを積み込んで重くなったリュックサックに比べれば、やせ細った彼女の体重など比べ物にならない。 
 両手が使えなくても、この程度の瓦礫を乗り越えるなど何でもない。
 
「うおぉぉぉぉ!!」

 助走をつけると俺は一気に1メートル以上も降り積もった瓦礫の山を飛び越えた。
 転ばぬように最新の注意を払いながら着地。そのまま膝を使って衝撃を吸収する。
 振り返ると貧に助けられながら小鳩ちゃんが瓦礫を越えていた。

 それを確認すると全力で神宮球場に向かって走り出す。
 耳元で聞こえる呼吸は浅く、体温は先ほどよりも下がっている。
 もう一刻の猶予もなかった。
 だから多少のリスクは承知で走った。
 幸い頭部に怪我はない。振動によって最悪の事態に陥る心配ないだろう。

 走りながら周囲に目を走らせると、霊達は俺達に近寄ってこれずに口惜しげな顔をしている。
 俺のすぐ後ろを走っている貧の霊波が彼らを近寄らないのだ。
 これなら、いける!




 10分後、俺達は神宮球場に到着した。
 このあたりは住宅が少なかったせいか、大通りに比べれば破壊の痕跡が見られない。
 球場自体も奇跡的に破壊を免れたようだった。
 医務室代わりに使っている部屋に駆け込むと薬品の臭いが鼻につく。
 受付の制止を振り切るようにして、俺は奥にいる白衣を着た男に話しかけた

「やばい状態なんだ。頼む、直ぐに見てくれ!」

「ちょっと、待っておれ。って、お主、生きていたのか!」

 見覚えのある顔に、聞き覚えのある声。
 振り返った白衣の医者は白井総合病院の院長だった。
 白井のおっさんは俺の顔を見て一瞬驚きの色を浮かべるが、すぐに視線を移して傍らにいた助手らしき男に何やら指示を下した。

「患者の意識は?」

「ないと思う。運んでる最中、一言も喋らなかった」

「では、そちらのベッドに移してください」

 看護士なのか医者なのか分からないが、若い助手の男の言うままに彼女を背中から下ろしてベッドに横たえる。
 仰向けにして足元に毛布をかけると、処置を終えた白井のおっさんが来て診療を始めた。
 小鳩ちゃんのお母さんの額には汗が浮かび、その息遣いも荒い。
 意識は朦朧として、小鳩ちゃんの呼びかけにも殆ど答えられない状態だった。

「まずいな。失血に加えて軽い栄養失調と水分の不足も見られる。
 だが病気がちだった彼女の体は失血と体力の消耗には耐えられん。急いで輸血しなければ命の保証はない」

 既に何度か診察した事があるのだろう。
 素早く状態を確かめてから看護士らしき助手が手渡したカルテを一瞥すると、白井のおっさんは目を細めた。

「血液型はAのRH+だ。直ちに輸血の準備を始めろ」

 その声に助手の男は即座に反応する。
 輸血用のパックを取り出すと、きびきびとした動作で彼女の腕に血圧計を取り付けていく。
 だがそれを終えて、輸液ポンプを立ち上げた瞬間、彼は泣きそうな声を上げた。

「先生、輸液ポンプの動作がおかしいです」

「バッテリ切れを起こしたのか!?」

「いえ、電源はつきますが、異音がして、数値の表示も出鱈目です。どうやら故障したようです」

 その報告に白井のおっさんの顔色が変わる。
 男を押し退けるようにして輸液ポンプに触ると、おっさんは次々に計器を弄り、ボタンを押していく。
 だがその努力も空しく、装置から聞こえる異音は止まらない。

「輸血可能なマッチポンプ型の輸液ポンプはもう1つあっただろう。それは使えないのか!?」

「現在別の患者さんの輸血に使っています。終わるのは20分後の予定です」

「20分などとても待ってられん。直ぐに処置せねば彼女の命にかかわる」

「しかし、このままの状態で輸液ポンプを使えば何が起こるか分かりません。気泡検知器が誤作動してしまえば、空気注入の恐れがあります!」

「分かっておる!
 ええい、現代医学がこんな事に敗れてたまるか!!
 毛布をかけて体温の低下を防げ。
 あちらの輸液ポンプの注入量を最大にした場合、完了までどれぐらいかかる?」

「今でもかなりの早さで輸血してます。急がせても、15分はかかります」

「15分だと!?
 くっ、ぎりぎり間に合うかどうか」

 苦渋を浮かべながらも彼の手は止まらない。
 助手が用意した毛布を彼女の体にかけると、吸い飲みで何か(おそらく生理的食塩水代わりのスポーツ飲料だろう)をゆっくりと飲ませた。

 緊迫していた空気の中、俺の中にも焦燥感が募っていく
 素人の目から見ても、処置の遅れが致命的になるのは明らかだった。
 だが、今すぐあの輸液ポンプが使えるようになれば。

 俺は目を手の中に向けた。
 今は使えなくなった俺の力。けれどそれさえ使えれば、失った血液を補う事は不可能でも、機械を直す事は出来るはずだ。
 いや、出来る出来ないと言ってる状況じゃない。
 やるしかないのだ。
 散々失敗したプロセスを思いださぬ様に手に霊力を集中させる。
 しかし、やはり霊力は形にならなかった。
 いくらやっても文珠どころかサイキック・ソーサーもハンズ・オブ・グロリーも発現する気配がない。

 駄目なのか。やっぱり俺は誰も助けられないのか!
 焦燥感を必死で抑えるが、一度湧き上がった不安は不吉な予感を伴って。
 何度も何度も街を彷徨いながら見てきた絶望的な光景が蘇る。

 既に蹂躙され破壊しつくされた街、人の身では決して抗えないおぞましすぎる惨禍の後。
 力無い人々はあまりにもあっけなく死んでしまい、残された人々は明日のない今日を生きる。
 希望をなくして狂気に逃げ込んだ人間がケタケタと笑っている。
 
 挫けそうになる心がざわめく。
 途切れそうになる集中力。
 弱気になった俺の胸におぞましほど穏やかに囁く声。

 お前も散々見ただろう?倒れた者達は苦悶に満ちた顔のまま息を引き取っていくんだぞ。
 ほら、目の前にいる女性の顔にも死相が浮かんでる。
 目を逸らしてないでよく見ろよ、彼女だって例外じゃないぞ。
 結局お前には誰も救えないんだ。

「くそ、くそ、くそぉぉぉ」

 何もかも投げ出して絶叫しかけたその時、彼女の声が聞こえてきた。

“落ち着いて、ヨコシマ。初めて文珠を発現させた時の事を思い出してみて。”

 同時に浮かび上がるハヌマンに殺されかけた時の記憶。
 おそらくルシオラがサイコダイブして記憶を脳の中の海馬から引き出したのだろう。

 如意棒の一撃を受けて昏倒寸前になった俺の目には、何故か美神さんの姿が映る。
 泣きそうな顔で美神さんが俺に向かって何か言っている。
 薄れる意識の中で、俺はそんな彼女に弱々しく笑いかけていた。

────大丈夫っすよ、美神さん。そんな顔しなくても。ちゃんと、美神さんのところに………

 そう。あの時、魔族に狙われている美神さんの役に立ちたかった。
 守られてるだけじゃなくて美神さんの隣で戦えるだけの力が欲しかった。
 いざという時、彼女を助けられるようになりたかった。

“そうよ。ヨコシマの霊能は憎しみだけだと発現しないの。
 だから助けたいって思って。守りたいって強く願って。貴方が最初に文珠を出した時みたいに”

 ああ、分かってる。
 たとえ希望の光が見えずとも、お前が傍にいてくれる限り、俺が俺である事までは変わらない。
 そうだ。俺達は2人でここまで生きてきたのだ。
 ルシオラはいつも俺を助けてくれた。ルシオラがいれば、俺は大抵の事はやってみせる。
 だから今だってできる。きっとやり遂げてみせる。

 目を開けると現実が飛び込んできた。

「お母さん、頑張って。もうちょっとで輸血できるから!」

 小鳩ちゃんが涙声で母親を励ましている。
 此処に来るまでずっと蒼白だった小鳩ちゃんの顔。
 偽りとはいえ、彼女と婚礼を交わした事もあった。
 あの時彼女は嫌な顔一つせずに俺の事を受け入れてくれた。
 そんな彼女だからこそ、元気付けてやりたい。
 もう一度笑って欲しい。
 幸せになって欲しい。

 霊力がどんどん集束して、掌が熱い。
 だが同時に、胸をちくちくと刺してくる忌避感。
 俺の無力さを責め立てる声。
 そして、怖れ。
 ………俺は怖かった。
 霊力が戻れば俺は再び戦いに身を投じる事になるだろう。ワルキューレが求めているように。
 でも戦いに出てもう一度あの絶望と無力感を味わえば、俺はもう立ち上がることすら出来なくなる。
 それが、怖かった。いや、今でも怖い。
 その恐怖こそが俺を縛る鎖。

「それが、どうした」

 呟いた瞬間、鎖が次々に消えていく。
 簡単な事だ。
 見知らぬ他人の死には無感動になれても、今でも俺にとって知り合いに死なれるのは耐え難い恐怖だ。
 それは戦いに身を投じる事の比ではない。
 だから心底から使いたいと願えば、魂は必ずそれに答えてくれるのだ。

 不意に俺の脳裏に忘れえぬ情景が蘇る。
 かつて、暗闇の中でもがいていた時があった。
 大切な人の命が危険に晒されて、でもどうすればいいのかも分からずに自室に篭っていた時、俺は聞いたのだ。

────生きてるって素晴らしいです。どんな事でもきっと何でもできるんですもの。

 自信をなくして何をすればいいのか分からなくなった時に教えられた言葉。
 あの時、おキヌちゃんが夢の中で俺を励ましてくれたから。だから、俺は。
 そう。彼女の言葉があったからこそ、俺は妙神山に行って。
 命を懸けたハヌマンとの戦い。あんなにはっきりと死を意識させられた事はなかった。
 もう駄目だと諦めかけもした。
 それでも俺は直ぐそこまで迫っていた死を跳ね除けてあの力を手にしたのだ。

 おキヌちゃん。
 君は俺が迷っていた時、俺自身ですら自分の力を信じられなくなった時、いつも俺の事を信じて励ましてくれたね。
 君がいつからこんな情けない男に好意を持ってくれたのか分からない。
 俺はこんなやつだけど、君の気持ちに答える事もできないけれど、それでも君の魂に誓うよ。
 いつか俺の生涯が終わるその日まで、君に俺を好きになった事を後悔させない様に生き続けるって。

「俺は、まだ生きている。生きてるんだ」

 刹那、痺れるような不思議な高揚感が全身に満ちてきた。
 思考が急速に研ぎ澄まされて、気力と共に霊力が勢い良く全身を駆け巡る。

「だからなんだって出来る。どんな事だってやってみせる。だから頑張るよ、おキヌちゃん」

 掌の熱は耐え難いほどに高まって、脳裏に浮かび上がるイメージは完全になった。
 俺が求めている霊力結晶の姿が鮮明に浮かび上がって像を結び。
 気がつけば手の中に生じた確かな手応え。
 目を開ければ透明な珠が宿っている。彼女が俺の中に居る証である双文珠。

「やった!」

 感慨は一瞬。文字を込めながら、急いで輸血用輸液ポンプの所まで走り寄る。

「白井のおっさん。俺に任せてください。今から直します」

 言いながらポンプに文珠を当てて発動させると、次の瞬間、ポンプの異常な駆動音が消え、数値の表示が正常に戻る。

────おおぉぉぉ!

 周りから沸きあがる驚愕の声。
 誰もが目の前で起きた出鱈目な現象に度肝を抜かれている。

「これで使えるんじゃないですか?」

 振り向いて声をかけると、美神さんの除霊を経験した事もあっておっさんの立ち直りは早かった。

「うむ。どんな手品を使ったのか分からんが、どうやら直ったようじゃな。
 ………よし、まだ充分に間に合う」

 呆気に取られている他の人間を押し退けるように輸液ポンプを素早く点検すると、白井のおっさんは眼鏡を光らせながら輸血の準備に取り掛かった。
 それを見て我に返った助手達が、慌てておっちゃんを手伝い始める。
 俺も何かやろうとして文珠に力を込め、そこで霊力が尽きている事に気がついた。

“限界よ。双文珠は中々消えない代わりに、作り出すだけで大量に霊力を消耗するの。あとはお医者様に任せましょう”

 ルシオラの声を聞きながら、倒れこむように座り込んで壁に凭れた。
 急激に襲い掛かってきた疲労感。思わず瞼が落ちかける。
 それでも最後まで見届けようと目を見開き続ける俺の前で遂に輸血が始まった。

 小鳩ちゃんが固唾を呑んで見守る中で、おっさんの指示の声だけが反響する。
 もう事態は俺の手から離れた。
 あとは彼女の体力が保つかどうかだけ。

「頼む、助かってくれ………」

 だから俺は祈る。
 今は祈る事しか出来ないから。

────どうかもうこれ以上、俺の知ってる人の命を奪わないでください。

 俺は祈る。
 かつておキヌちゃんにそっくりな女の子を助けてくれた優しい死神に向かって。
 その慈悲を願って頭を垂れる。




 そして審判は下った。

「血圧安定しました。脈拍も問題ありません」

「よし。輸血完了後、ベッドに移すぞ」

 その指示で、張りつめていた緊張が解けて弛緩した空気が流れる。
 白井のおっさんの顔にも、安堵と達成感が浮かんでいる。
 その顔を見れば確かめる必要なんてなかった。
 現代医学は見事に1人の女性の命を死の淵から生還させたのだ。




 彼女の体が患者用のベッドに移されると、白井のおっさんは俺達の方を振り返った。
 その顔には人をほっとさせるような笑みが浮かべられている。

「お母さんはもう心配いらないよ、お嬢ちゃん」

「っ!?」

「ホンマですか、先生!?」

 小鳩ちゃんが息を呑み、貧が掴みかからんばかりに白井のおっさんに顔を近づける。
 貧を止めようとして苦笑しながら腰を上げたその時、小鳩ちゃんが倒れた。

「小鳩ちゃん!?」

「待て。下手に動かしてはならん」

 抱き起こそうとする俺を制すと白井のおっさんは彼女の脈を取りながら簡単に触診した。
 やがて軽く息をつくと、重みのある声で告げる。

「大丈夫。溜まっていた疲労と緊張感が途切れたせいで、眠りについただけじゃ。ほれ、安らかな顔をしているじゃろう?」

 見ると、小鳩ちゃんは穏やかな寝息をたてながら、心底安心しきった顔で眠っていた。
 すぐ傍らにいる彼女のお母さんも、今はすっと汗が引いて荒かった呼吸も落ち着いている。
 手を握ると小鳩ちゃんの温もりが伝わってくる。
 トクンと動く心臓。
 生きていると教えてくれるその音がこんなにも尊いと思った事はなかった。

 小鳩ちゃんは生きている。彼女のお母さんも生きている。
 俺のちっぽけな霊能が2人の安らかな眠りに役立った事が嬉しくて。
 心の底から嬉しくて。
 思わず胸が熱くなる。

 その時ふと、俺は自分の視界が霞んでいる事に気付いた。
 どうしてなのか理由に気付くのに、少し時間がかかったが。

「ちくしょう。小鳩ちゃんの寝顔が良く見えねえよ」

 気付けば泣いていた。
 そこに、かつて枯れてしまえとばかりに流し続けた絶望は無く。
 こんな感情のせいで泣くのはいつ以来だろう?
 頬を流れる涙は、決して悲しみのせいなんかじゃなくて。
 それは、目覚めてからずっと感じていなかった感動という名の喜びだった。










 数時間後、その日の診療が終わると俺は白井のおっさんに俺の能力について問い詰められた。
 根掘り葉掘り、どんな仕組みになっているのか、何が出来るのか、どれくらい頻繁に使えるのか等質問は多岐に及ぶ。
 頑固なまでに現代医学を尊重しているおっさんは、何故か俺の能力について真剣に知りたがっていたのだ。

「ふむ。折れた骨が内臓に突き刺さるような複雑な怪我でなければ大抵は治せるのかね?」

「ええ、霊力さえあれば。でも流れた血を補えるわけじゃないですし、低下した体力もそのままっすよ」

「いや、十分だ。血管の損傷や、外傷の縫合の手間がなくなれば、その分を他の作業にまわせる。それだけで随分と楽になる。
 それに現在ここで使われている医療機器の管理、点検、修理に関して我々は素人に過ぎん。正直、今日の様な事が起きたらお手上げなのだよ」

 やがて一通り質問が終わると、おっさんは椅子に深々と座ったまま静かに目を瞑った。
 何かを考えるように、何度か指先で診療台をトントンと叩くと、彼は目を開けて俺に向き直った。

「君にどんな事が出来るのかは、まだまだ十分に分かっているとは言えんのだが…………先ほどの力で我々を手助けしてくれんか?」

 俺の意識が驚愕に染まる。
 この人がこれほど率直な言葉でオカルトの力を借りようとするなんて思わなかった。
 だが眼鏡の向こうの眼差しは真剣そのもので、そこに嘘や冗談を言っている気配は微塵も無い。

「怪我人はまだまだ残っているし、この環境では病人が多発するのは避けられん。だが、とてもこの設備と人数では対応しきれんのだよ」

 そこでようやく俺にもおっさんの気持ちが分かった。
 無念の響きを含んだ今の言葉。
 薬品も機材もメスや注射器すら不足する現状の中で、このあたりに避難してきた数万人の人間の治療を引き受ける事になってから、おっさんはどれ程の数の死を見てきたのだろう?
 死者の中には、白井総合病院が無事ならば助けられた患者もいたに違いない。
 白井のおっさんはどれだけ口惜しい思いで彼らの死を見送ってきたのだろう?
 ………俺なんかにその苦しみが分かるはずも無い。

 白井のおっさんの眼鏡がきらりと光り、額の汗が眩しく輝く。
 頑なに現代医学を信奉してオカルトに文句をつける等、おっさんは俺達と対立していた事もあったけど。
 それでもこの人の根っこにある思いは常に変わらず。
 目に浮かぶ炎は多くの医者が抱き、そしてほぼ全ての人間が共通に持っているある種の使命感。
 それはきっと、何の見返りがなくとも『他者を助けたい』と願う人の善性が生んだかけがえのない宝なのかもしれない。

「現代医学がオカルトを受けいれるんですか?」

「万物は常に変化するのだよ。それは医学といえども例外ではない。
 これまで医学は常に進歩しようと様々な試行錯誤を繰り返してきた。一人でも多くの命を救うためにな。
 外科的手術や麻酔、輸血もそんな試みの末に医学の中に取り入れられたのだよ。
 ならばオカルトの心霊治療の術理がその中に取り入れられない訳がない!
 私が生涯を捧げると誓った医学はオカルトをも内包しうる柔軟性を秘めている。
 少なくとも私はそう信じているのだよ。横島くん、君達の働きをすぐ近くで見てきたおかげでね」

 良く見れば白井のおっさんの目は真っ赤で、頬がげっそりとこけていた。
 当たり前だ。看護婦さんの話では、ここにいる誰よりもおっさんは働いているそうだ。
 その分、睡眠時間は削られて、自身の体をケアする時間など殆どないに決まってる。
 それなのに………。
 おっさんの顔には力が漲っていて、寝る間を惜しんで治療を続ける姿は鬼気迫るものがあった。
 ギラギラと輝く瞳は溢れんばかりに生気を帯びている。
 そして何よりこの人はこの世界に絶望していなかった。

「もう一度言おう。君の力を我々に貸して欲しい」

 渋い笑みを浮かべながら彼は俺に向けて右手を差し出した。
 その手を握ろうとして、一瞬、ナルニアにいる両親の顔が脳裏を横切り、俺の手が止まる。
 ここでその手を握れば、俺は否応なしに日本に留まり続ける事になるだろう。

“今、自分が何を望んでいるかはもう分かってる筈よ、ヨコシマ?”

 ルシオラの静かな声が、俺の心をくすぐるように優しく響いた。 
 ああ、と頷いて目を瞑ると俺の傍にいた人達の姿が次々に思い浮かんでくる。
 最後に現れたのは穏やかに眠る小鳩ちゃん一家の寝顔。

 それでようやく分かった。
 俺の心を蝕んでいた虚無の霧と絶望の糸が少しだけ晴れたのが。
 そして俺自身が何を望んでいるのかを。

 見守ってくれるかのように後方で綺麗な笛の音を奏でてくれたヒトは、俺が命をかけても守りたかった少女はもういない。
 襲い掛かる困難を風を切るように駆け抜けたヒトは、いつかその隣で戦えるようになりたいと思っていた亜麻色の髪の美女はもうどこにもいない。
 俺の為に命を捧げてくれたヒトは肉体を失って二度と触れ合う事は叶わない。
 だから己の無力さに絶望した。
 彼女達の役に立ちたくて、彼女達に格好いいところを見せたくて手に入れた霊能力は、肝心な時に役に立ってくれなかったから。

 けれど、たとえそうだったとしても。
 小鳩ちゃん達を助けたいと思った事は、欺瞞だとしても、一時の逃避だとしても、決して嘘なんかじゃない。
 あの時俺は確かに願った。心から、俺の中に蟠っていた自分自身への絶望を振り払うくらい真摯に。
 この力を取り戻したいと。もう一度使えるようになりたいと。自分に出来る事なら何でもしてあげたいと。

 だから、本当はもう立ち上がれなくなりそうなほど疲れきっているけれど。
 でも俺を必要としてくれる人がいるのなら、俺の力で誰かを助けることが出来るなら、もう少しだけ頑張ってみてもいい。
 親父、お袋、しばらく待っててくれ。俺達が会えるのはもっと先になりそうだ。
 俺、この国で頑張ってみるよ。

「こちらこそ、よろしくお願いっす。白井のおっさん、俺にも何か手伝わせてください」

 決意を言葉に乗せながら、俺は白井のおっさんの手を握った。
 これまで数多くの尊い命を救ってきた彼の手を、畏敬の念を込めてがっちりと。


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