⑤それでも明日はやってくる
春に命は芽生え、夏は命を育み、秋に命は次代へと渡り、冬が命を終わらせる。
生を終えた肉体はいつか土へと還る。
そして魂は誰も知らぬ遠い場所へと旅立っていく。
記憶を失くして新たな生に辿り着くために。
そこに残された者達の思惑が入り込む余地はない。
故に彼女達の死を悼むのは容易いが、彼女達と過ごした時間を過去のものにしてしまわないようにするのはとてもつらく困難だった。
でも。それでも俺は。
神宮球場で俺が白井のおっさんの手伝いをするようになってから一週間経っていた。
この一帯には球場のほかに明治公園や神宮外苑など建物のない拓けた場所が固まっているため、大勢の人間が避難している。
聞くところによるとその数は軽く10万を超えるらしい。
10万の人間がこの付近で働き、10万の人間がこの周囲で食事を摂り、10万の人間がこの土地で眠る。
東京ドームを満たして尚余りあるその人数が、この土地でひしめき合いながら不便な避難生活を送っているのだ。
それだけの人数が活動すれば毎日必ず負傷する者や体調を崩す者がでる。
まして風雨すら満足に凌げぬこの過酷な状況下では、彼らの肉体の抵抗力は必然的に低下する。
故に医者を必要とする者が増加するのは自明の理であり、俺が働くこの医務室を訪れる者は後を絶たない。
そして今日も、俺は忙しそうに働き続ける白井のおっさん達を手伝っていた。
「横島くん、あの患者さんに添え木を当ててくれ」
「うっす」
おっさんは診断を終えるとテキパキと指示を出し、俺はそれに従って素早く処置に取り掛かる。
素人の割に俺の処置はスムーズに終わった。
「終わったす」
「次はこっちの患者さんの包帯の交換、お願い」
休む間もなく次の指示が飛ぶ。
此処で働くようになってから初めて分かった事だが、素人の俺はいつの間にか外科的な応急処置を一通りマスターしていたのだ。
………思い当たる節が無いではない。
懐かしきセクハラに明け暮れ、折檻を受け続けた日々。
怪我する事など日常茶飯事で、けれどおキヌちゃんがヒーリングしてくれるようになるまで傷の治療は全て自分でやっていた。
その経験が今の俺の助けになっている。
そう思えば、これも美神さんのおかげなのだろうか?
いや、むしろ治療スキルに開眼したのは俺の煩悩が原因か?
取り留めのない事を考えながらも指示通りに手当てを施していく。
ところでこの医務室で治療に当たっている人間は俺を含めて5人いる。
まず白井のおっさんと俺。他には看護士の経験のあるボランティアが2人、そして若い研修医の5人である。
俺達の5人の役割分担は、まずおっさんが診察。
看護士達が診察結果とおっさんの指示に従って点滴、注射、ガーゼや包帯の交換等を担当。
縫合等、医者が行わなければならない治療の中で比較的簡単なものは研修医の担当だ。
そして俺は雑用全般兼、応急処置係兼、いざという時の切り札だった。
切り札。鬼札。秘密兵器。何となくもったいぶった呼称で呼ばれるそれらの手段は順調ならば出る幕はない。
だが往々にしてトラブルとはこちらが望まなくても遠慮なくやってくるもので。
嫌な予感にふと目を移すと、エアコンの前で手を翳しながら渋面を浮かべるおっさんの姿。
ほとんど休憩無しに忙しなく働いていたせいか、その額には清々しい汗が浮かんでいる。
「横島くん、空調がおかしい。暖房がいかれたみたいだ」
そして予想に違わず、白井のおっさんは間髪入れずに問題発生を告げてきた。
「急ぎっすか?」
「うむ、早ければ早いほど良い。室温が下がると患者さん達の回復力が低下するかもしれないのだよ」
「なら仕方ないっすね」
壊れた暖房に文珠を押し当てると『修』『理』の文字が刻まれた双文珠を発動させた。
手の中で球体に凝縮させた霊力が外に向かって迸っていく様を感じ取りながら、放出する出力の調整に気を配る。
やがて嫌な音を響かせながら冷たくも暖かくもない風を送り出していたエアコンが正常に作動し始めた。
うまくいった事を確かめると、エアコンの前から退きながら安堵の息をつく。
文珠に目を移すと、俺の霊力の結晶は使用前と変わらぬ輝きを放っている。
2つの文字が込められるこの双文珠。
数十マイトの出力でも発動できるという点で従来の文珠とは決定的に異なっている。
従来の文珠は数百マイトの霊力を時間をかけて凝縮して生成。
そしてそれに指向性を与えてから一気に放出するため、抜群の効果を発揮する反面、一度使用すれば消えてしまう。
それに対して双文珠は生成に必要な霊力量はほぼ変わらないが、出力を調整すれば文珠に込められた霊力が尽きるまで何度でも使えるのだ。
たとえば『癒』と刻んだ文珠を使った場合、瀕死の重傷でも復活するほど効果があるが効果は一度きり。複数の人間に対しては使えない。
一方双文珠の場合、『治』『癒』と込めて数十マイト分だけ発動すれば、一度や二度でなく十度使える事もある。もちろん文珠に比べれば効果は低下して精々軽度の骨折を治す程度になる。勿論その使用回数は限られているので、一日に何度も使うわけにはいかないけれど。
しかし今回の様に医療の技術ではどうしようもない時や、患者が多すぎて素早く治療を終わらせねばならない時には、どうしても文珠を使わざるをえない。特に機材や電化製品の修理に関しては、碌な工具がない事もあって文珠を使う以外に故障に対処する術がないのだ。
このように医学や看護についてはまるで素人な俺でも、文珠という高い応用力を秘めた霊能のおかげで、それなりに重宝がられていた。
おかげで毎日忙しく余計な事を考えるゆとりも無い。
けれど誰かの役に立っているという実感は俺の心に吹きすさぶ寒波を少しずつ、けれど着実に弱めていった。
3日前に小鳩ちゃんのお母さんはすっかり快復して退院していった。
その時、我が事の様に退院を喜びながら何度も感謝の言葉を述べる小鳩ちゃんの笑顔に、俺も心から笑う事ができたのだ。
次から次へと訪れる患者の波は昼になると一先ず途切れ、ようやく俺達は休憩を取った。
いつもならソファーの上でだらしなく姿勢を崩して休むところだが、今日はそういうわけにもいかない。
五分ほど前、ベージュのスーツを見事に着こなした釣り目でショートカットの美人が俺に会いに来たと告げてきたから。
正午からしばらくの時を休憩にあてるのは、小学生から社会人まで共通だ。
絶え間なく響く声も、スコップで瓦礫を掬い上げる音も、この付近の復興作業の喧騒は消えて長閑な雰囲気がこの付近を包んでいる。
作業者達はのんびりと昼食を取りながら、果て無く広がる青い空を遠く臨み、確かな心地よさを抱きながら一時の安息に浸っていた。
周囲を見回してみても、俺達に注意を払う者はいない。
それはきっと機械の様な味気のない無関心からくるものではない。
皆が生きる事に積極的に取り組んでいる証と言おうか、ただ精一杯動かした体に活力を取り戻したいだけで。
だから今の彼らの姿は部活を終えて大の字になった運動部の部員を連想させる。
さり気なく隣に目を移すと、白井のおっさんに春桐魔奈美と名乗ったきつめの美女は何やら難しい顔をしている。
俺を外に誘い出してから彼女はずっとこうだった。
いつもの様な歯切れの良い言動も、びしびしとこちらに突きつけてくる様な迫力もなく、じっと何かを考え込んでいるのだ。
大きく息を吐きながら時計を見ると、もう20分が経っている。
何度も銃を突きつけられた経験から下手に突付きたい相手ではないのだけれど、こうしていても埒があかない。
仕方なく覚悟を決めて、
「それで話って何だよ、ワルキューレ。
あそこで話せないんだから、オカルト絡みだろ?」
俺の方から切り出すと、ようやく彼女は俺と目を合わせて口を開いた。
「明後日の正午、小竜姫達が妙神山に帰る事になっている。お前にその事を伝えるようにパピリオから頼まれてる」
「見送りに来てくれってわけか」
「そうだろうな」
素っ気無く相槌を打つとワルキューレは俺から視線を外して街を見た。
そこに在るのは相変わらず面白みのない破壊の爪痕と色濃く残る死の香り。
少し前まで復興作業に勤しむ人達が忙しそうに闊歩していた場所。
彼らの努力のおかげで大気の中を漂う腐肉の臭気は一日ごとに薄れていき、国道や二車線道路などの大通りの整理も進んでいた。
目の前に広がる道路からも雑然とした様相は消え、今なら車が走れるかもしれない。
「霊能力、また使えるようになったのだな」
「ああ、一週間前にな。その日から、ここで働いてる」
そうか、と言うとワルキューレは黙り込んだ。
俺と視線を合わさずに彼方を見ている彼女の横顔は、陽炎の様な儚さを湛え、何とも表現し辛い感情を浮かべている。
怒っているような、当てが外れたかのような、それでいてどことなく嬉しそうな、その複雑に入り乱れた感情はさながら千変万化の色彩を映し出す万華鏡の様だった。
しばし漂う沈黙の涼気。ワルキューレは無言のまま街を眺め、俺は彼女の顔に浮かぶ万華鏡を見る。
そんな俺達の間を僅かに秋雨の気配を孕んだ風が静かに吹きぬけていく。
やがて彼女はゆっくりと俺に目を向けると漸く本題を切り出してきた。
「横島、お前の仕事振りはあそこにいる人間達から聞いた。
文珠を以前同様に使いこなせるようになった今のお前の力なら不足はないだろう。
だから私達と共に混成チームに加わる気はないか?」
まるでこちらの機嫌を窺っているような声。彼女らしからぬ口調は要請というよりも懇願に近かった。
だから俺は彼女が告げた言葉の中身よりも、その声音に虚を突かれた。
何故ワルキューレがそんな顔をしているのか。
彼女の真意を測りかねて、首を傾げながら問い返す。
「お前から見ると、俺が今やってる事って歯がゆく感じるものか?」
その言葉に少しだけ驚いたような顔をすると、ワルキューレはゆっくりと首を振った。
取り繕うように浮かべられた苦笑の中にある隠し切れない自嘲の翳り。
「いや、私も軍の仕官の端くれだ。戦うだけが全てではない事ぐらい分かっている。
兵站の充実や負傷者の看護など後方からの支援が無ければ軍人は戦えない。
私は戦士である事に誇りを抱いているが、後方支援の充実に尽力している者を卑下するつもりなどないよ。
我々が思う存分戦えるように心を砕いてくれる者は、間違いなく敬意を払うに値する」
「なら、別に俺がここで働いてたっていいだろ?」
途端に黙り込むワルキューレ。
苛ついたように右足の爪先を地面に叩きつけると、もどかしげに口を開けて………………無言のまま閉じた。
いつもの強気で歯切れのよい口調は影を潜め、凛々しいスーツ姿からも奇妙な重苦しさが漂っている。
彼女らしくからぬその態度、そして僅かに落ち着きを欠いた一連の仕草に、俺はワルキューレの躊躇いを見た。
やがて何かを覚悟したかのように大きく息を吐き出すと、ワルキューレは俺に向き直った。
時には冷徹な光を宿しながら睨みつけてくるその視線。
けれど今は威圧感など微塵もなく、彼女の瞳は知性の色を湛えながら儚く揺れた。
「横島、私は人間が嫌いだった。
弱いくせにそれを鍛えて克服しようともせず、平気で奸智を弄して他者を騙し、陥れる。
かつて私が戦乙女だった時に、神族だった時に、そして魔族となった時も何度となくそう思ってきた。
だが人の成長は時にこちらの予想を凌駕して、お前や美神令子の様に類稀なる戦士へと変貌する。
そんな事は神族だった時から何度も何度も見てきた筈なのに、いつしか私は人間を見下すようになってきた。
………きっと私もアシュタロスの様にどこかで人間を妬ましく思っていたのだ。
おしきせの秩序やデタントさえなければ、無理矢理堕天させられる事もなく、今も神族として生きていられたかもしれないと。
別に魔族の軍の仕官としての生き方が嫌なわけじゃない。
それでも他者の都合でそれまでの生き方を否定された時の屈辱は今でも忘れられないものだ」
そんな事を言う彼女の姿がやけに小さく寂しげに見えた。
弱気すら覗かせる今の態度。出会った時の殺気と威圧感に満ちたワルキューレとは余りにもかけ離れている。
けれどそれも当然かもしれない。
ずっと言い難そうにしていたのも無理もない。
言うなれば、これは彼女の懺悔なのだ。
そして懺悔は終局に入っていく。
「私は死ぬべき時に死ねなかった恥さらしだ。
私達が不甲斐ないばかりに、デタントの為に尽力してくれたGS達は皆死んでしまった。
たとえ何十年かかろうと、私はその借りを返すつもりだ」
悔恨を滲ませた言葉の響き。
目覚めてみれば彼女が戦友と認めた者達は屍となって海へ散っていた。
なのにワルキューレ自身は雪辱を挑むどころか、戦う事すらも出来ないまま、安全な場所でアシュタロスの死を見届けざるをえなかった。
………俺には分からない。ワルキューレの誇りに穿たれた傷の深さも、彼女が味わった屈辱の大きさも。
でもさっきまでの妙に弱気な態度が、彼女の胸に巣食っている負い目から来ていた事だけは理解できた。
「この先私達は何年も人間と共に困難な任務に当たる事になるだろう。
だがそこで問題がある。私は無条件で人間を嫌うのは止めたが、かといって無条件に気を許す気にもなれない」
「魔界の軍隊からお前の仲間も来るんだろ。そいつらは信用できないのか?」
「そうではない!!
………問題は別にある」
仲間に言及されるのは不本意だ、と言わんばかりに俺の問いを否定した瞬間、押さえつけていた魔力が一瞬開放され、羽を休めていたカラス達が脅えながら一斉に飛び去っていく。やがてワルキューレの声と魔力の残滓が消えると、俺達の間には沈黙の帳が下りた。
なんとなく気まずい空気の中、ワルキューレはさり気なく目を逸らす。自分でも失敗したと思っているのか、その頬は紅潮していた。
それを見てふと思う。
もしかしたら俺はワルキューレを誤解していたのかもしれないと。
破壊衝動を抑えて軍人としての仮面を外した時のワルキューレは、実はジークの様に意外に愛想の良い性格なのかもしれない。
そういえば妙神山で理性をかなぐり捨てたジークも、何度も何度も今のワルキューレみたいに感情的に叫んでたな。
あの時は三等兵とか懲罰モノとか色々言われたっけ。
「混成チームの主力は神魔族だ。その能力が人間離れしてるのは仕方ない。
否、アシュタロスによって理不尽に殺された人間の怨霊達を相手にするならば、それぐらいの力はどうしても必要になる。
だが、チームの全員が神魔族では後々厄介な事になるだろう。
だからこそカモフラージュの為にも人間が必要なのだ。それも我々の中に混じっていても違和感のない非常識な能力を持つ者が」
徒然な物思いに耽っていた俺の耳に彼女の声が届く。
意識を戻すと、ワルキューレはもういつもの顔に戻っていた。
「それで俺か」
「そういう事だ。
混成チームは世界中で各々の国の有力な霊能力者と土着の神を中心に結成される。
そして私達は日本で活動する事になっているのだが、残念ながら日本にはもう有力な霊能力者がいない。
修羅場を潜った事もない中途半端な実力の者ではとても我々にはついていけんだろうし、カモフラージュにもならん。
だからこそお前の力が要るのだよ、横島。
これは私だけでなく、ジークやヒャクメとも共通の見解だ」
努めて感情を出さぬように機械的に告げてくるけれど、彼女の瞳はかなり本気のようで、思わず背筋が震えた。
返答次第では、いきなり拉致されて都庁に連れて行かれるかもしれない。
文珠が使えるようになった所で、ワルキューレが本気ならこの間合いでは分が悪すぎる。
しかこちらから距離をとろうとしたら却って薮蛇だ。
何も言わない俺に対してじりっと一歩踏み込むと、
「別に今すぐ参加しろ、とは言うわけじゃない。お前の手伝っている仕事が一段落したら、でいいんだ」
ワルキューレはあっさりした口調でそれだけ言うと俺の肩をぽんと叩いた。
空気が一気に弛緩して張りつめた緊張が刹那で解れる。
思わず座り込みそうになる俺をしばし不思議そうに見つめると、彼女は踵を返して歩き出した。
その後姿をぼぉと見つめながら嘆息する。
きびきびと歩き去っていくワルキューレの姿は以前の様に颯爽とした佇まいを感じさせる。
彼女らしい鍛え抜かれた軍人の歩様。
そこには負い目の影は既に無く、先ほどまでの湿った感情も完全に消えていた。
病院とは一種の戦場だ。
俺がこれまでいた戦場とは異なり、この場にいる者達は命を救う事のみを目指していく。
ここでは敗北とは他者の死であり、勝利とは他者の救命である。
故に100の勝利を重ねても1つの敗北は、戦う者達の心に冷たい影を落とすのだ。
今日もまた数名の患者が息を引き取って即席の火葬場に運ばれた。
けれどやはり俺の胸は痛まない。
死んだのは会った事もなければ名前も知らなかった人間で、ただ残念だと思うだけ。
診察が全て終わって片付けが済むと、俺はだらしなく姿勢を崩して、手の中の文珠の感覚を確かめる。
もう戻ってこない生命。
二度と現れない命の輝き。
それを貴重に思うからこそ白井のおっさん達は頑張っている。
でも俺はこの一週間で気付いてしまった。
俺という人間はどこか白井のおっさん達とは違うと。
「仕方ねえじゃん、俺は博愛主義者じゃないんだから」
呟きながら、目を瞑るとみんなの顔が浮かんでくる。
原因は明白だ。考え込むまでもない。
俺はアシュタロスがこの世界を蹂躙するまでの記憶を過去としたくないのだ。
もうあれから20日以上が経過して、人々は苦しみながらも前に進もうと足掻いている。
それを否定する気はない。
でも同時に俺はそれまでの日々を過去の事にしたくなかったのだ。
現在に感情移入してしまえば、新たに積み重なる鮮明な記憶によって、やがて過去の記憶は色褪せて、いつか消えてしまうかもしれない。
それがたまらなく嫌だった。
故に俺は醒めた目で死を見つめていたのだ。
だがその在り方は正常な物とはいえない。
俺がここで働き出したのも過去に囚われる為じゃない。
それでも俺はどうしても一歩引いた目でこの世界を見てしまうのだ。過ぎ去りし日に別れを告げる事を躊躇いながら。
そしてワルキューレの提案を聞いた時、もう一つ気付いた事があった。
彼女の提案を受け入れれば俺は再び立ち返る事になる。
俺の過去が詰まった戦場。
そこにはもう美神さんもおキヌちゃんもいない。
それなのに俺はその場所に戻りたがっているのだ。
何故なのか自分でも分からない。
ここで白井のおっさん達を手伝う事には何の不満もない。
おっさん達ほど真心を込める事ができなくとも、苦しむ人の手助けをするのだって嫌じゃない。
むしろ誰かを助ける事ができるという実感は、随分と俺の心を癒してくれた。
なのに、俺は。
「何か悩んでおるようだね、横島くん」
予期せぬ声に振り返ると白井のおっさんが手にコップを持ったまま、すぐそこに立っていた。
「お茶を入れたんだが、飲むかい?」
「どうもです」
紙コップを受け取りながら、随分と注意力が散漫になっている事に気がつく。
気を取り直して手渡された熱い緑茶を啜ると、過熱気味の思考がゆっくりと静まっていった。
おっさんは何も聞いてこなかった。
ただ静かに俺を見ているだけだ。
隠し事をしているわけではないけれど、なんとなく居心地が悪い。
だから
「今日、美神事務所に勤めていた時の知り合いに会いました」
「ほう」
「その時、言われました。もう一度元の世界に戻ってこないかって」
「オカルトに絡む仕事かね?」
「ええ。それだけじゃないでしょうけど、多分除霊も仕事としてやる事になると思います」
いつの間にか俺はワルキューレの要請だけではなく、一般人の目には見えない犠牲者達の霊魂が街中を彷徨っている事まで喋っていた。
浮遊する霊達の悔恨や嘆き。
放っておけば、いつか彼らが悪霊となって生者に仇為す事になる可能性。
そして話が終わると、白井のおっさんは相変わらず静かな目で俺を捉えながらゆっくりとした口調で問い掛けてきた。
「横島くん、医学とはなんだと思う?」
突然の問いに僅かに面食らった。
咄嗟に考えを巡らせる。
けれど俺の仕事場には、生と死が在るだけで他には何も思い浮かばない。
「先人達は碌な道具も薬品もない時代から、少しでも多くの命を救うために努力を重ね、医学を進歩させてきた。その結晶が現代医学だ。
だがその中で決して変わらぬものがある」
おっさんの眼差しは真剣そのもので、けれどその焦点は俺に向けられているようでどこか遠くを見据えているようだった。
「それはどんな状況でも諦めずに足掻き続ける事だ。
時折人間の肉体が見せる奇跡的な回復力は、現代医学の知識をもってしても到底説明がつかん。
だからこそ我々医者は時に奇跡を信じ、たとえ助かる見込みが全くなかったとしても足掻き続けるのだよ。
そしてそれこそが医学の歴史を築いてきたといっても過言ではない。少なくともわしはそう思っとる」
白井のおっさんはそこで言葉を止めた。
それは俺がおっさんの言った事を理解して消化する時間を作ってくれたのだろう。
「君の力は確かに稀有だ。君が我々にとってどんなに助けになってくれたかなど、わしにはとても言い表せん。
しかしいつまでもそれに頼りきりになるわけにもいかない。それは分かるね」
「ええ」
頷き返すとおっさんは満足そうに笑った。
「今日、医薬品の補給と申請しておいた工具が届いた。
これで医療に従事した経験のある者や修理に秀でた人間に手伝ってもらえれば、なんとかやっていけるだろう。
だから横島くん、此処の事は心配いらんよ」
「出て行けって事ですか?」
「まさか、君ほど使い勝手の良い人間をこちらから手放せるわけがないだろう。
だが今の君の心は此処よりも遠くに行ってしまっているようだ」
心当たりが有りすぎて、気まずくなった俺は思わず目を逸らした。
そんな俺の様子にも構わず、おっさんの話は続く。
「本当に恐ろしいのは自分の知らぬ間に死なれている事だよ。
若い者に任せて仮眠を取っている間に容態の急変した患者さん。
急激な発作のせいでナースコールを押す事も出来ずに息絶えた患者さん。
手を尽くした末の結果なら自分の実力不足を悔やめばいい。天命だと割り切る事も出来るだろう。
だが何もしてやれなかった患者さんに対して、わしは悔やむ事すら出来んのだよ」
過去の苦い記憶を振り返るように、おっさんは目を細めながら静かに語った。
ゆっくりと沁みてくる白井のおっさんの言葉。
それはまさしく俺すら曖昧にしか分かっていなかった俺の本心を言い当てていた。
美神さん………知っている誰かの死を見るのは耐え難い苦痛だった。
けれど傍に居れば、少なくともその結果を回避するために努力する事は出来る。
でも俺の手の届かぬところで戦っている相手は、俺に何もさせてはくれない。
雪乃丞、タイガー、ピート、そしておキヌちゃん。
俺がいれば、文珠という反則があれば、死なずに囮を全する事ができたかもしれない人達。
『転』『移』と刻まれた双文珠を渡していれば助かったかもしれない命。
ああ、そうか。
俺はそれが嫌だったから。
だからワルキューレの提案に心が動いたのだ。
ワルキューレやヒャクメは俺なんかよりもずっと強いし、死に難い。
それでも生命は永遠ではなく、どんなに強大な存在でも死ぬ時は死ぬんだ。
それを知っていたからこそ、俺はせめて知り合いの傍に居たいと思ったんだ。
事務所でおキヌちゃん達の遺言を聞いた時の様に、俺が知らぬ間に彼らが死んでしまう事には耐えられないから。
「白井のおっさん、俺は」
「ドクターと呼んでくれんかな?」
顔を上げておっさんを見ると、力強いその顔に在るのは、ここで再会した時と変わらぬ不屈の信念と使命感。
だから俺は、はっきりと分かった。
俺はこの人とは違う人種で、きっと俺は一生この人と同じタイプの人間にはなれないのだと。
「白井先生、ありがとうっす」
「行って来い、若造」
頭を下げた俺に白井のおっさんの声が届く。
面と向かって言うのはあまりにも俺のキャラとはかけ離れているので、そっと胸中で言葉を紡いだ。
様々な経験を積み重ねてきた人生の先達に心からの感謝を。
短い間だったけど、白井のおっさんと一緒に働けて良かった。
かつては日本経済の象徴でもあった高層ビルが立ち並んでいた西新宿は、無残でみすぼらしい姿を晒していた。
地上にあった筈の流麗なビル群はなぎ倒されて消失。
復興が進んだ今もそこは戦火を被った被災地としか思えない。
けれど目の前の地下へ通じる入り口を抜けると、程なくして奇跡的に残された文明の残照に遭遇する。
蛇口から流れる水音が耳朶を打ち、電話の鳴る音が鼓膜に届く。
そしてデータベースサーバーになっている汎用コンピューターの回転音。
半月ぶりに訪れた日本再建の中心地、都庁は相変わらず活気に満ちていた。
霊感を研ぎ澄ますと、数々の霊力が流れている事が容易に感じられる。
流れてくる霊波はどれも人間離れした大きさで。
だからどこに誰がどこに居るのかなんて簡単に辿る事ができた。
目的の人物を見つけると、彼女は既に俺に気付いていたのか、驚いた様子もなく近付いてきた。
「驚いたな、ぎりぎりになるまでこないと思っていたのだが。小竜姫達はもうロビーに向かっているぞ」
「ああ、分かってるよ、ワルキューレ。ロビーに行く前にお前に少し話があってな」
訝しげな顔をする彼女の目を見つめながら、俺は告げた。
これまでずっと悩み続けた事への結論を。
「一昨日お前が頼んだ事、引き受けてもいい」
「本当か?」
ああ、と頷いて一呼吸を置くと、神宮球場で働いていた日々が脳裏を掠める。
あの場所で働いていて痛感した事は、死んだら俺達はそこで終わりだという事だった。
あの時、ああしていたら。もし、こうしていたら。と思ってもやり直しは効かない。
それが人間という種の定め。
だからこそ俺が望むのはただ一つだけ。
「一つ頼みがある。
死なないでくれ。俺が生きてる間だけでいいから、死に急ぐような真似だけは、頼むから………」
最後は弱々しく掠れてうまく言葉にできなかった。
本当は、こんな事は言うべきじゃない。
けれど俺は弱い。彼女達を守れるほど強くもないし、多分自分の身を守るだけで精一杯のちっぽけなガキだ。
それがわかっているから俺は願う事しかできないのだ。
しばしの沈黙。
俺は言うべき事を全て告げ、彼女は無言でそれを受け取った。
やがて彼女は凛とした美貌を僅かに綻ばせながら口を開いた。
「分かった、誓おう。お前が生きている限り、私は決して死なん」
ワルキューレの手がは俺の手を力強く握る。
「だが横島。私を死なせたくないのなら、お前も長生きしろ。どんな時でも精一杯足掻いて生き延びてみせろ」
「分かってるって」
そのまま俺達は互いの顔を無言で見た。
ワルキューレが言いたい事、俺が伝えたかった事、それは同じ思いに根ざしていた。
すなわち『死ぬな』という身勝手で尊い主張。
お互いがそれを望んでいて、だからこそもうこれ以上言葉を重ねる必要なんかない。
そんな奇妙な一体感を感じながら、俺達は穏やかに笑う。
そして出会った頃の様な颯爽とした表情に戻ると、
「明日からよろしく頼む、戦友よ」
スーツ姿の美女が消えて、ベレー帽を被り、耳の尖った魔界軍所属の大尉が現れる。
しなやかに鍛えられた肉体と針の様に鋭い魔力は
すっと踵を閉じて背筋を伸ばすとワルキューレは見事な動作で敬礼した。
それにどんな意味が含まれているかなど聞く必要なんてない。
誇り高き戦士が礼を示すのは、敬意を払うに足ると認めた者にだけ。
身に余る厚意に応えようと、俺は見よう見まねで下手くそな敬礼を返す。
それは幾分芝居がかった通過儀式。
この時より、俺達は仲間として互いを認め合ったのだ。
ロビーに行くと既に小竜姫様達は出発の準備を終えて俺達が来るのを待っていた。
頬を掻きながら挨拶しようと近付くと、
「ヨコシマ、遅いでちゅ」
ナイトキャップの様な帽子を被った少女が口を尖らせながら俺の前に立ち塞がる。
「わりい、パピリオ。ちょっと立て込んでな」
「ふーん。ワルキューレと何を話してたのかしりましぇんけど、間に合ったから大目にみてあげまちゅ」
「サンキュ」
パピリオに手を引かれながら小竜姫様達の所に行くと互いの近況とこれからを報告しあう。
小竜姫様とパピリオとジークは妙神山の再建に向かい、ヒャクメとワルキューレは此処に残って混成チームの一員として活動するらしい。
やがて俺達は再会を約束して互いの手を握り合い、簡単な言葉で別れを告げた。
この別れに仰々しさなんか必要ない。俺達は生きているから。人間界にいるのなら、その気になればいつだって会いにいける。
だから挨拶はすぐに終わった。
「それじゃあ私達は妙神山に戻ります。
社は崩壊してしまいましたけど、神族側と魔族側が急ピッチで再建を進めていますから近いうちに元に戻るでしょう。
ですから、何かあったら遠慮なく相談に来てくださいね、横島さん」
「はい。その時はよろしくお願いします、小竜姫様」
そんな小竜姫様の姿に、何とはなしにむず痒さを覚える。
時折時代錯誤な知識や世間知らずな面を覗かせるが、小竜姫様は俺より遥かに年上の女性で、とびっきりの美人なのだ。
そんな人が俺に向かって礼儀正しく頭を下げていると、こちらもつい改まった態度になってしまう。
小竜姫様との挨拶が終わるとジークが進み出て俺の手を握る。
「姉上をよろしく頼みます。お健やかに、横島さん」
「そっちの再建が終わったら、たまには手伝いにこいよ」
「ええ、喜んで」
冗談めかした俺の言葉に生真面目に頷き返すジーク。
その態度は本当にジークらしくて、ほっと安心させられる。
最後はパピリオだった。
しかし何故か先ほどまでの元気の良さは影を潜め、彼女はもじもじと何かを言い辛そうに上目遣いで俺を見る。
膝を突いてパピリオに視線を合わせながら俺から話しかける。
「どうしたんだよ、パピリオ。俺に言う事は何もないのか?」
無言で首を振ると、少しだけ躊躇ってからパピリオは俺の服の裾を掴み、悪戯が見つかった子供の様な表情で告げてきた。
「ごめんなちゃい、横島。私、アシュ様を攻撃できなかったでちゅ。今でも、アシュ様を嫌いになれないんでちゅ」
「いいさ」
自然にその言葉が出た。
きっとパピリオの謝罪には色々な意味があったんだと思う。
例えば俺の知り合いが死んでいくのを座視して見ている事しかできなかった事。
一流GSを軽く凌駕するパワーを持った自分が戦えば、俺の知ってる誰かが死なずに済んだかも知れない事。
アシュタロスを激しく憎む俺と同調できない事。
そして俺はその全てを何の拘りもなく許せた。
だってパピリオが死ななかった事がこんなにも嬉しい。
パピリオが生きている、ただそれだけでどんなに俺も、俺の中のルシオラの心も救われた事だろう。
そっと頭を撫でるとはにかむパピリオの顔。
それを見るだけで湧き出してくる温かい何かは、ごまかしようのない親愛の情。
これはルシオラの魂からあふれ出した妹への愛しい気持ち。
パピリオは気付かずとも、今、彼女を撫でているのは俺じゃない。
俺の手を通しながら、ルシオラがパピリオを撫でているのだ。
俺以外の誰とも会話を交わす事のできないルシオラが、妹に伝えようと精一杯の愛情を込めて。
掌から想いが伝わるようにと。
やがて別れの挨拶を終えた3人は虚空に消えていった。
交わした言葉は少なく、けれど伝わってくる確かな安心感。
彼らが生きているって思えるだけで、泣きたくなるくらいの安堵が襲う。
「横島さん、今日はこれからどうするの?
私とワルキューレは、チームの運用ルールの作成を担当する人間の手伝いをする予定だけど」
感傷に浸っていた俺に投げかけられたヒャクメの声。
反射的に胸の中に温められていた言葉が口をつく。
「ちょっと寄っておきたい所があってな。そこに行こうと思ってるんだが」
「了解なのね。新しい宿舎は此処にあるけど、夜の10時までには戻るようにしてね。
それと面倒な手続きはやっておくけど、あとで一応は目を通しておいてね」
「ん、分かったよ。それじゃあ頑張ってな」
一時の感傷から抜け出した俺は、軽く手を上げて答えると出口に向かって歩き出した。
始まりの場所に終わりを告げるために。
その場所は相変わらず瓦礫に埋もれたまま朽ちていた。
いまだ復興の手も及ばぬ地。
かつては美神事務所と呼ばれ、賑やかな喧騒の絶えなかった建物は既になく。
現世利益の為なら神も悪魔もぶっつぶすと息巻いていた女性も、死人の魂すら癒す力と優しさを持った少女も今はこの世にいない。
数々の夢の跡が静かに鎮座する、取り戻せない過去の石碑。
もうこの場所には何もなく、けれど大切で綺麗な思い出たちは、今でも鮮明に胸の奥に刻まれている。
四季折々の日々の中、コブラに乗り込んで悪霊退治と金儲けに目を輝かせる美神さんの姿。
大きいようで時に小さく見えたあの人の背中。
何とかしてそれに追いつこうと重いリュックを背負いながら駆け続けた日々。
1人で駆けずり回っていた俺の後ろには、いつしか巫女姿の少女がいた。
幽霊として出会った天然ボケ気味な優しい少女は、束の間の別れを経て、一つ年の違う生身の少女として現れた。
一連の記憶の中でおキヌちゃんと出会ってから後の時代を思い出そうとすると途端に俺は涙脆くなる。
まだ過去というには早すぎるあの頃。俺達3人が霊能力者として美神事務所で働いていたあの時。
妬みや僻みに侵された時でさえ俺の目に映る世界は限りなく綺麗だった。
くだらない事でも結局は楽しんでいた在りし日の夢。
あのころ。ドジで半人前に過ぎなかった俺にとって世界は確かに輝いて、心は信じ難い熱気と興奮に満たされていたのだ。
それはきっとあの時代があまりにも幸せだったから。
だからあの頃の自分と今の自分を重ねあわせながらかつての記憶を探っていると、いつでも顔には笑みが浮かんでくる。
けれど、それも今日で終わりだ。
そっと屈みこむと、俺は文珠で作った手向けの造花を添えた。
“もういいの?”
「ああ、いいんだ」
生きると決めたから。
死者への想いに囚われてはいけないと、除霊中に美神さんから何度も教えられたから。
だから俺は、これから美神さんやおキヌちゃん達がいない生活に慣れていかなければいけない。
それはとても悲しいけれど、でも俺が生きるうえで必要なことなんだ。
こうして美神事務所での日々は少しずつ俺の記憶の引き出しの中へと仕舞われていくのだろう。忘れえぬ数々の情景と共に。
それでも俺は絶対に忘れない。
美神令子という人がいた事を。
氷室キヌという少女がいた事を。
俺という人間が、あの2人の女性が大好きだった事を。
俺達3人がこの場所で一緒にバカやって楽しく過ごした時を。
たとえ思い出す事がどれだけ俺の心に苦痛を強いたとしても、それだけは絶対に。
“忘れたって良いのよ。
貴方は1人じゃないのよ。
私がいるわ。たとえ貴方が忘れてしまっても、その時は私が思い出させてあげられるわ。”
「そうだったな」
そう言いながら俺はそっと胸に手を当てる。
俺の鼓動を通して伝わってくる彼女の波動。想いを重ねるようにそれに触れるといつだって思いだす。
逆天号から逃げ出した夜にルシオラを抱きしめた時の温もりを。黒く濡れてあの瞳を。あの時の彼女の唇の感触を。
“ずっと一緒よ、ヨコシマ。”
「ああ。ずっとだ」
ルシオラの言葉に永遠を誓うと、俺は最後にもう一度事務所の残骸を見た。
こんな風に、かつて何度、ここに通った事だろうか。
ここは、俺にとって世界の半分に等しい場所だった。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、全てが詰まっていた思い出の箱庭。
けれど魔神に破壊しつくされたこの場所には、もう何もない。
尊い箱庭は失われ、美神事務所のバイトをしていた俺は明日から新たな戦いに身を投じる事になる。
だから、もう終わり。
あとは通り過ぎていく過去に別れを告げるだけ。
「美神さん、おキヌちゃん、人工幽霊一号、行ってきます」
応える者はなく刹那の静寂が訪れる。それは永遠のような一瞬。
それでも俺にとっては十分すぎるほどに永く。
そして踵を返して歩き出そうとした瞬間、俺はその声を聞いた。
────いってらっしゃい、横島くん。私の所に居た時みたいにずっと元気でね。
────頑張ってくださいね、ずっと見てますから。でもあんまりセクハラばっかりしてたら嫌ですよ。
────お気をつけて。貴方がいてくれたおかげでずっと楽しかったです。
耳から聞こえたわけじゃない。
三つの声は、俺の魂に触れたかのように、胸に直接響いてきたのだ。
「あっ……あっ、う」
振り返りたくなる衝動を必死で抑える。
振り向いたって誰もいやしない。相変わらず誰もいない廃墟が佇んでいるだけだ。
そんな事は、分かってる。
分かっているのに………。
「聞こえたか、ルシオラ?」
“ええ、ばっちりね。多分、今のは残留思念よ。
美神さんもおキヌちゃんも、魂が輪廻の輪の中に戻った後も、ずっとヨコシマの事を心配してくれてたのね”
ルシオラの言葉を聞きながら、けれど呆然として考えが続かない。
再び俺の胸に何かが触れて、過去の映像が次々にフラッシュバックしてくる。
脳裏に浮かび上がってくるのは、楽しい思い出ばかり。
哀しい想いはそこになく。
在るのは楽しくて温かい感情だけ。
俺は――──右頬に奔る微かな痛み。
その懐かしい感触は、何度も俺を血の海に沈めた不敵な女性の鉄拳だ。
もう会えない筈のヒトの姿。なのに今、俺にはそのヒトが俺の右隣で楽しそうに笑っている顔がはっきりと見えている。
俺は――──俺の手をそっと握る掌の感触。
後ろからそっと包み込むような優しい波動はいつも俺を助けてくれた少女の温もり。
がんばってください、と必死に応援してくれるおキヌちゃんの明るい声が木霊する。
俺は────その2人の更に後ろにひっそりと誰かが立っている。
確認する必要すらない程に慣れ親しんだその波動が満足げに浮かんでいる。
それだけで分かる気がした。人工幽霊の残留思念が何を感じているのかが。
それはきっと、俺が抱いているある感情と同じものだろう。
俺は――──左隣にルシオラの気配が寄り添うように現れる。
“分かるでしょう、ヨコシマ?
たとえ死んでしまっても結んだ絆は決して途切れないわ。
これからも彼女達との縁は、おまえの中でずっと生き続けるの。
だから悲しまないで。きっといつかどこかで会えるわ。
その時はきっと私も人間の女の子に転生して、美神さんやおキヌちゃんとヨコシマを巡って熾烈な駆け引きを繰り広げるの”
ああ。きっとその通りだ、ルシオラ。
それは見果てぬ夢であり、この世の果てよりも遠き理想郷。
それでも俺達はきっとまた巡り会える。
たとえ俺達が土へ還ろうとも、この宇宙がある限り、またいつかどこかで、必ず俺達は。
だから、この結末は本当に悲しいけれど、それを受け入れて………。
最後に1つだけ残っていた言葉が胸を衝く。
できるならずっと一緒にこの場所でバカやっていきたかった。
けれどそれはもう叶わない。
ならばせめて胸を張り、失われた日常に向かって真心を伝え、そしてもう一度歩き出そう。
なによりこんなにも俺の胸を満たすこの感情を、大好きだったあの人達と大好きだったこの場所に伝えたくて。
俺は、胸に奔る鈍い痛みを噛み締めながら、認めたくないという感情を必死で抑えこみ、楽しかった過去を締めくくる、その言葉を紡ぎだした。
「ありがとう。俺、みんなに会えて、良かった」
声は大気中の粒子に伝わりながら徐々に拡散して、やがて消えた。
けれどそこに込められた意思は、遠く高く、遥かな空を越え、此処には居ない人達の下へ。
やがて俺の背後に在った美神さん達の気配が薄れ始めた。
心残りを無くした霊が成仏していくように、楽しい夢が終わるように、静々と彼女達の思念が空の中に溶けていく。
この時、何かが終わったのだ。おそらく決定的なものが。
そして後に残るはしばしの別れ。
胸の中に蟠る未練に限りなく。
けれど振り返らない。俺が進む道はもう定まっているのだから。
だから俺達は美神事務所に背を向けて歩き出す。
魔神の爪痕が刻みこまれた、果て無き荒野に向かって。
究極の魔体がハワイ沖で破壊されてから一ヵ月後。
日本政府とGS協会は国内に向けて今回の事件についての報告を行った。
その場に出席したGS協会の幹部の助言を交えながらアシモト総理が語った内容は次の様になっている。
世界中に現れた妖怪、魔族、悪霊は核ジャック事件の首謀者であるアシュタロスの超兵器の発動によって生み出されたこと。
間一髪、GS達の働きでアシュタロスの超兵器の動力源を破壊して悪霊達を消滅させることに成功したこと。
しかし小笠原諸島に隠されていたアシュタロスの最終兵器には既に予備動力が積んであり、それの襲撃によって世界中が蹂躙された事。
3日間しか動けないその最終兵器による被害を少しでも減らすため、世界中の軍隊と霊能力者達が矢面に立ち、そして死んでいった事。
そして、かつて人類の敵としてTVに映った横島忠夫が、実は寝返った振りをして敵地に潜入。
スパイとして妨害工作を行っていたこと等である。
その報告が終わった後、壊滅状態となった各都市の復興策が発表された。
その中で首相は特殊活動を専門にするチームの結成と派遣を明らかにする。
隊員は各々が体力や特殊能力に優れている事。
霊障だけではなく救助活動や医療活動の補佐にも携わる事。
治安や医療に関しても警察官や医者の並の権限を与える事など、あまりにも異例な内容に質問が殺到する。
だが首相は一刻も早い復興の為に必要な措置とだけ話し、協会の幹部が後に詳しい説明をする事を約束して質問を打ち切った。
故にチームの構成人数や所属している者達の能力等の詳細については、おいおい明かされていくそうだが、現段階では一切が不明である。
この発表で判明したのは、そのチームが混乱の収まらない地域に優先的に派遣される事とオカルトについて専門的な知識と経験を持っているという事だけだった。
こうして史上最大の被害を齎した悪夢は一応の終結を果たした。
死者と行方不明者の合計は30億人を越えると言われ、被害総額は余りにも甚大なので今以って試算しきれずにいる。
その爪痕はこれから長きに渡って人類を苦しめ、暴動、疫病、食糧不足等の二次災害は更に多くの命を奪うだろう。
それでも明日はやってきて、人は数々の悲しみを抱えながらも生きていく。
より良い明日を夢見ながら、黄泉路へと旅立ってしまった者達の分まで懸命に。
この世界が終わるその日まで。
・Epilogue
数ヵ月後 ナルニア
高そうな濃紺のスーツを身に付けたやり手のビジネスマンを思わせる男の所に一通の手紙が届いた。
「あなた、忠夫から手紙よ」
「………無事だったのか、あの親不孝者め。今まで何の音沙汰もなく」
横島大樹はどこか嬉しそうな表情を浮かべながら手紙を受け取ると憎まれ口を叩いた。
「私はもう読ませてもらったけど、あんたは落ち着いて読むのよ」
百合子は楽しそうに微笑みながら、傍らでお茶を入れ始める。
妻の様子に不審な波動を感じながらも大樹は手紙を開いた。
そこには両親の健康を気遣った言葉が連なり、その後に自分が今まで日本で何をしていたか、何の為に日本に残っているかが詳しく書かれていた。
そして同封された一枚の写真。
そこにはオカルトGメンの制服に似た服を纏った息子の姿があった。
しばらく写真を見つめた後、その裏を見ると簡単なメッセージが目に飛び込んでくる。
────手紙にも書いたけど、俺はしばらく日本で頑張るよ。
今の仕事は危険だし、毎日がシビアで自分の身を守るのが精一杯だ。
でも、いつか誰の足も引っ張らずに自分の命を自分一人で背負えるようになった時、
俺は一人前の人間として父さんと母さんに会えるんだって思う。
手紙と写真をテーブルの上に置くと大樹は複雑な表情を浮かべながら頬杖を突いた。
ふぅと溜息をつくと、彼の胸にこの数ヶ月の事が思い浮かんでくる。
彼らにとってあの時ほど精神が不安定になった日々は、息子の出産以来だった。
究極の魔体の襲撃で東京が壊滅状態に陥った後、大樹も百合子も必死になって日本に帰国しようとした。
だが日本の空港は国際線も国内線も機能不全。
なんとか電話だけでも、と試みるも、電話線や電話機自体が破壊されてそれも不可能。
故に彼らは日本のラジオ局が流したニュースを聞くまで、息子の生存を知らなかったのだ。
もう一度写真を見ると、真っ直ぐ正面を見据える息子の顔からは、前に会った時にはなかった精悍さと根性が感じられた。
まだ羽も碌に生えていないひよっこだと思っていた彼の息子。
魔体の襲撃のせいで滅茶苦茶になった日本では様々な苦労があっただろう。
だから多少はマシになっただろうと思ってはいた。
しかし写真の中の息子は、いつの間にか生やした翼を動かして、1人で飛びたとうとする若鳥にまで成長していたのだ。
「親がなくても子は育つ、か」
「どうしたの、急に。しみじみしちゃって」
自分の知らぬ間に大きな成長を遂げた息子の姿に驚きと一抹の寂寥を感じながら大樹はぽつりと呟いた。
傍らの百合子はにこにこしながらお茶を啜っている。
彼女は彼女で息子の成長に立ち会えなかった事を残念がりながらも、夫の屈折した感情をきちんと理解していた。
要するに夫は何となく口惜しいのだ。息子をガキ扱いできない様になって。
だから百合子は拗ねているような夫の態度に可笑しさを堪えきれず、夫がよく息子にしていたような口調で軽口を叩いた。
「精々頑張るのね。さもないと忠夫に会った時、あんたの方がガキ扱いされるわよ」
その言葉に大樹の顔はますます渋くなっていき、遂には他者にもはっきりと分かるほど面白くなさそうな表情へと変化した。
父親という生き物は息子が自分を追い越していく事を望みながら、同時にその成長を中々認めたがらないという奇妙な性質を持つ者が多い。
まして負けず嫌いな大樹の事だ。今、その胸中に蟠っている感情は難解なパズルの如き複雑な様相を呈しているのだろう。
けれど百合子にとっては、息子の成長が素直に嬉しかった。
今度会った時は息子にどんな言葉を掛けてやろうか。
たまには誉めてやってもいいかもしれない。そうしたら果たして息子はどんな顔をするだろう。
そんな事を思いながら、百合子は僅かに頬を緩めた。
見上げれば、蒼穹の空は高く。
その青の中を浮き雲が悠々と流れていく。
白い雲が流れていく彼方、東方にある島国で今日も頑張っている息子に向かって、百合子は偽りのない純粋な真情を込めながら小さく呟いた。
「愛してるよ、バカ息子」
後書き
ドタバタとして横島が終盤に美味しい思いをしそうになるけどでも結局は夢オチで終わる、という話を書くつもりでした。
それだけでは何となく物足りなかったので別の要素を加えようと思った時に、もしもベスパが生き返れずバリアの穴が分からなかったら究極の魔体を倒せないのでは?という考えが唐突に浮かびました。
そこでルシオラ以外のほぼ全てを失った横島が立ち直る話を書いてみようと思いついたのがこの話を書くきっかけでした。
その結果、蓋を開けてみれば主要キャラの殆どが死亡するとんでもなく殺伐とした話に。
これは前作のラストでご都合主義を使ってしまったので今回は使わないと決めていたせいもありますが。
私は原作のノリも大好きですし、GS美神の中で嫌いなキャラクターなど誰もいないのですが、自分で書くとちっともそれが生かせない。
今回の話の執筆は、自分の下手さ加減を思い知る事ができて、非常に良い経験でした。苦くもありましたけど。
ともあれ最後まで読んでくださった方々。感想をくれた読者の方々。本当にありがとうございました。
無事完結にこぎつけることができたのも、皆様の温かい言葉と的確な指摘のおかげです。