「……ふぅ」 彼女は、自室の椅子に腰掛け、ようやく一息ついた。 甲11号目標――ブタペストハイヴの攻略が、今日完了した。 やっとやってきた一時の安らぎに、張り詰めていた緊張の糸が切れる。すぐに椅子から脱力したように腕を下ろす。 今頃部下達は、PXにて今回の作戦の成功、生存を祝うパーティを行っているだろう。しかし、それに自分が参加することはなかった。 親しくてしても、どうせみんな死んでしまう。彼女を一人にしてしまう。自分より力の無い彼らと親睦を深めるのを彼女は避けていた。それは一隊を率いる者として失格だろう。それでも、差し伸べられた手をとることができなかった。 今まで――‘何度’この狂った世界を繰り返しただろう。 今となっては、元の平和な世界を思い出すのも難しい。何度やり直しても、結末はいつも同じ。みんな自分を置いて逝ってしまう。最後は自分も死んでしまう。そしてまた繰り返す。 途切れ途切れになった記憶にある、仲間の悲痛な叫び、部下達の無念の声。それは耳をふさいでも聞こえ、彼女を苦しませていた。 だが、‘今回’の世界は一味違った。 「桜花作戦」。そのようなもの、彼女の記憶にはなかった。 いつも同じタイミングでやってくる悪魔、出来事。それは、彼女が必死になって変えようとしても変わらなかったものだ。彼女にできたのは、些細な干渉をして、たった少しの命を救うだけであった。 しかし、彼女の知らない出来事がこの世界に起きた。桜花作戦だけではない。その作戦の前、日本でのクーデター、甲21号目標佐渡島ハイヴの消滅。この世界の歯車が、今回だけ明らかに違っていた。 あの作戦のあと、今までの地獄よりかは幾分マシになった。しかし、マシになっただけで、戦いは常にやってくる。そのたびに、一人また一人と仲間や部下はその命を散らしていった。 彼女はもう疲れていた。わけもわからず放り出されたこの世界。BETAなんていう、異形の怪物が跋扈し、都市を、町を、人を蹂躙していく世界。もう、なにも見たくなかった。もう、誰も失いたくなかった。 死ねば、‘また’繰り返すのだろうか。それを考えると不安で押しつぶされそうになる。 そのとき、自室の通信機が、軽く音を上げた。 せっかくの安息のときを邪魔されたわけだが、とらないわけにはいかない。すぐに、その通信を受ける。『大尉、お休みのところ申し訳ありませんが、面会の申し込みがあります』 女性の声でそう告げられる。「相手は誰ですか?」 作戦終了直後、彼女に面会を申し込む者など、思い当たる人物がいなかった。実を言うと、一人だけいるのだが、その彼女はイギリスで、今回の作戦成功の旨のスピーチの真っ最中のはずである。彼女を除いて、一体どこの誰が面会など望んでいるというのだろうか。『――極東国連軍、‘白銀武大尉’です』「っ!」 その名を聞いた瞬間、脱力していた体に力が入った。無意識に、拳に力が入る。 すぐに相手にその面会を受けることを伝える。その言葉を受け取ると、しばらく通信が沈黙した。その時間、今か今かと逸る気持ちの自分がいた。『それでは――』 面会を行う部屋がすぐに伝えられた。彼女はそれに頷くと、通信を切った。「……」 力の入っていた拳をゆっくりと解く。そこはしっとりと汗に濡れていた。◇ 訪れた部屋には、すでに一人の男がいた。年齢は20代半ばごろ、彼女と同年代である。身長は、女性の平均的である彼女より頭一つ分ほど高い。その肉体は、軍服の上からでも鍛えているのがわかった。「あなたが――‘あの’白銀大尉ですか」 幾分強調して言った。そんな彼女に向けて男は第一声を発する。「英国陸軍近衛師団(Guards Division)の‘鷹の目’にご存知いただけているとは、光栄です」 なにを言う、と内心思った。自分のちんけなこの呼び名と彼の名は、この世界においてネームバリューが違いすぎる。 たかだか狭い戦場で持て囃される自身の名と、「桜花作戦の英雄」、XM3発案者、そして今なお世界各地の戦場で類まれなる戦果を挙げるこの男の名は、比べるのもおこがましくなるほどその重みが違いすぎた。 一瞬、嫌味かとも疑ったが、彼の表情はそんな後ろめたいものを感じさせるものではなった。「極東国連軍が私などになんの御用でしょうか?」 心当たりはなかった。そのため、単刀直入に聞く。「いや、少し興味深い話を聞いたので」 興味深い? すぐに何に対しての話なのかわからなかった。自身にあるのは周囲より少しだけ上手い狙撃技術ぐらいのものだ。別段、国連軍将校の気を引くものではないはずだ。「2001年――ドーバー海峡を渡ってきたBETAの中規模侵攻を二度に渡って予期した女性がいたそうですね」 ああ、その話か、と彼女は落胆した。 それは数年前の話。あの出来事で自分は‘魔女’などと呼ばれた時期もあった。「予期とは語弊があります。その女性には予知能力も、未来を見通す力もありはしません」「難民区で一人の少女が必死に兵士にすがっていたと聞きましたが」 そんなことまで知っている。随分と調べられているようだが、残念ながら彼の期待には答えられそうになかった。「――‘私’がBETA侵攻を当てたのはあの二度だけでしょう? 本当にただの勘だったのです」 2002年1月1日。その日を境に、自身の知っている未来とは違う道を歩み始めた世界。自分の知識など何の役にも立ちはしない。だが、あの絶望に満ちた世界よりはまだマシになった。ただ、マシになっただけ。 彼は、そうですか、という言葉残して黙り込んでしまった。それにより、部屋に静寂が訪れた。 それを見て、彼の用事が徒労に終えたことを感じた。結局は、あの出来事に些細な好奇心を引かれただけ。それを戦いに利用できないかと考えただけ。この男も、彼女とは違う――この世界の軍人だったのだ。 微かな期待が打ち砕かれた。自身の知らない作戦を成功させ、この世界を今までとは違う未来へと歩み始めさせた男。心のどこかで、そんな彼なら、自分の不安を消してくれる。まだ見ぬ最良の未来を見せてくれる。そんな少女のような幻想を心に抱いていた。 だが、そんな儚き夢も叶わなかった。そして彼女がこの逢瀬を終える言葉を口にだそうとした瞬間、「――‘バビロン作戦’」 彼が、小さな声で呟いた。「ッ!?」 その言葉に心臓を鷲づかみにされたような、圧迫感を感じた。「な、なぜ‘あの作戦’が!? この世界において人類は優勢なのでしょう!? あんなものに頼らなくとも――」 鬼気迫る表情で、目の前の彼に向かって詰め寄る。 忌まわしく残る記憶。追い詰められた人類が取った起死回生を狙った作戦。 その結果、大規模な重力偏差が発生し、「大海崩れ」と呼ばれる海水の大移動が起こった。それにより引き起こされた水没した大陸と塩の砂漠。 あの作戦以降、人類は今まで以上の絶望へと放りこまれた。その世界の絶望感を思い出して、呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が速くなる。顔からは血の気が引いていくのがわかった。「いまさらたった十万人の人類を逃がすなんて――っ!」 そこまで言って、ようやく自分の失態に気づいた。 あの作戦は、この世界では引き起こされていない。今、この世界において、一介の軍人ごときが知っていていい名ではない。(……やってしまった) 先の発言はスパイ容疑を掛けられても仕方のないものだ。地位剥奪、拘束、軍事裁判。あらゆる言葉が彼女の頭の中をよぎった。せっかくここまで上手くいっていたのに、と後悔の念ばかりよぎる。 だが、絶望に打ちひしがれる彼女の考えと、目の前の男の態度は違っていた。「――やはり、そうか」 彼は何かに納得したような、それでいて絶望を見たような深刻な顔をしていた。その姿に言いようの無い不安に襲われる。しかし、混乱する頭は、次に発する言葉を見つけることはできなかった。 しばらくして、彼は顔を上げた。そしてその顔をまっすぐに彼女へと向けてきた。それは何かを決意した顔だった。「‘ニーナ・マーコック大尉’」 彼女の名を呼び、彼は右手を差し出した。わけも分からず見つめ返した。なぜ、手を差し伸べられたのか理解できなかった。 だが、このときの彼の手は、この世界において孤独な彼女に対する救いの手だった。「君は――‘オレと同じ存在’だ」 それが、彼との初めての邂逅だった。◇ ◇ ◇「……ん」 ずいぶんと懐かしい夢を見た。 少女は、天照の中、深いまどろみから目覚めた。ずいぶんと長い時間眠っていたようだ。外の様子は分からないが、体の調子からそう判断した。 一度、頭を振って、思考をクリアにする。今日で、甲21号作戦終了から4日。おそらく彼も横浜基地へと戻っているころだろう。「そろそろ行きましょうか、天照」 その言葉を待っていたかのように、すぐに主機に火を入れ、うなりをあげる天照。膝をついた状態から立ち上がり、その体を大空へと向ける。 そして、一機の戦術機が木々の間から蒼穹に向けて飛び出した。◇◇◇ 時間は前後する。 佐渡島ハイヴの攻略から3日後。A-01の面々は作戦後すぐに機体と共に横浜基地に戻っていた。鑑純夏は凄乃皇とともに別ルートで帰っているらしいのだが、基地に帰った後もまだ会っていない。 横浜基地では、人類初の完全なハイヴ攻略によって、作戦から三日たった今でも少々のお祭り騒ぎだ。いや、それはこの横浜基地だけではない。今や、世界中が祝賀ムードであろう。この基地でも日本人だけでなく、極東国連軍所属の祖国を失った多くの軍人、国籍性別年齢問わず皆が喜んでいた。欧米出身者の中には気の早いサンタの大判振る舞いだと言う者もいた。 鬼籍に入った者たちのために、今日帝都では彼らを弔う式典が催されるらしい。今日この日を迎えることができたのも彼らの挺身があってのことだ。それを決して忘れてはならない。どうか、彼らの御霊が安らかに眠ることができるように祈ろうと横浜基地でも黙祷が行われた。 さて、現在A-01部隊がいるのはいつものブリーフィングルーム。香月副指令に呼び出されたのだ。彼女は今日、この基地に帰ってきたようだ。 ブリーフィングルームで彼女たちは夕呼と……あの男を待っていた。甲21号作戦最大の功労者、白銀武だ。 HQからBETA全滅の報を聞かされたあとから、彼の姿――あの機体を見ていない。彼は自分たちとはまた別の香月副司令直属衛士。何らかの任務をこなしていたと考えるべきだろう。 戦場に颯爽と現れ、劣勢だった戦いを凄乃皇とともに一気に優勢に巻き返し、そしてハイヴの攻略という偉業を達成した彼。 あのとき――光線級の奇襲のときに、彼が来てくれなければ、A-01のうちの何人かは今この場にいることなどできなかっただろう。 今、夕呼と白銀を待っている間もヴァルキリーズの面々はどこかそわそわと、落ち着きがないように見えた。佐渡島ハイヴが陥落した瞬間、彼女たちも大いに喜んだ。基地に帰ってもその興奮は収まらず、PXの京塚曹長、また整備兵たちなど多くの人からももみくちゃにされ、歓迎された。 だが、三日という時間が経ち、一旦その興奮が落ち着くと、気になるのはあの男とあの機体である。彼女たちは今、一刻も早く彼に会って様々なことを聞いてみたく、また言いたかった。 部隊全体がそんな空気の中、目立たないように部屋の後方で、微かに沈んだ表情を浮かべる女性がいた。それはこの部隊の隊長、伊隅みちるである。 佐渡島ハイヴの陥落。それも同部隊からは一人の脱落者も出すことなく達成できた。本来ならば嬉々とした表情を浮かべているべきであろうというのに、彼女の表情からはまるで先の作戦で人類が敗北したかのように思われた。「……」 眉根にしわ寄せ、顔は床の一点を見つめている。A-01の多くは誰か入ってこないかと、入口のほうや時計ばかり気にしているので、そんな彼女の様子に気づく者はいない。 彼女がこのような様子になったのは、今朝この基地に帰ってからだ。それまでは彼女も、周りと同じように笑顔を浮かべていた。 彼女の表情を変えたのは、横浜基地に届いていた一通の手紙だった。九州地方のとある帝国軍基地から届いていた自分宛の手紙。「伊隅みちる様へ」と書かれたその手紙。 あの作戦が終わった後、妹の無事はすぐに確認できた。だが、あの男の無事はまだその部隊の被害状況が正確に把握しきれていなかったため、確認できなかった。だが伊隅は心のどこかできっと無事だろうという楽観的な考えを抱いていた。 それは自分の部隊からは一人の死者、また怪我人を出すことなく、人類初のハイヴ攻略を成し遂げたというA-01創設以来最良の日だったため。こんな最高の日に、自分にとって悪いことがおきるなどという考えがなかった。 だが、世の中はそう甘くはなかった。「……っ」 いけない。これ以上深く考えると、自分の弱い心では耐えられそうにない。自分はこの部隊の隊長。己を殺しても弱い姿を部下に見せてはならない。ここから先は一人になってからだ。伊隅は自分をそう戒めた。 伊隅は目を閉じて、心を鎮める。その行為は今まで同期や、先任、部下たちが散っていったときにも幾度となく行ってきた。だが、今回は完全に平常時に戻るまで、いつもの倍近い時間を要した。弱いな、とかすかに呟く。それは自分の心に対してのものだった。「……」 完全に気持ちを切り替える。そして、顔をあげたときには元のヴァルキリー1伊隅みちるとなっていた。 彼女はすっと背筋を伸ばして、姿勢を正した。そして周囲を少し観察する。幸いさっきまでの自分の様子に気づいたものはいないようだ。皆一様に入口のほうへとしきりに目をやっている。 そしてそんなヴァルキリーズの中でも一番落ち着きがないのがヴァルキリー2、速瀬水月だった。 椅子に座りこんでいたかと思うと、立ち上がり周りをうろうろ。ドアのほうを見て、誰も入ってくる気配がないとため息をついてまた席へと戻る。「速瀬……落ち着け」 その行為が三回目に達したとき、いい加減見かねてそう言った。彼らの到着が気になるのは伊隅も同じだが、さすがに速瀬ほどではない。しかし、そんな伊隅の言葉に、いつもは考えられないような情けない声を出しながら、速瀬が答えた。「大尉ぃ……私どうしたらいいんでしょう?」「ん? ……いったいなんのことだ?」 泣きそうな顔で上官を頼ってくる速瀬。その今まで見たことのないような弱りきった速瀬に違和感を覚える。 白銀が乗っていたあの機体――伊邪那岐が自分たちに隠されていたのは、それが最高軍事機密に類するものなのだからと推測できる(それはあの機体の‘特異性’から考えて妥当だ)。そのため、自分たちに情報が与えられていなかったのは納得できるが、速瀬の性格からして、あの日あの機体に敗れたことを相当根に持っていることだろう。 もしかすると、そのことで自分がどう反応していいのか困っているのだろうか。◇(ふー……落ち着け、落ち着け私) 速瀬水月は本日何度目になるかわからない深呼吸をした。(そうこのもやもやは私たちにあの戦術機の衛士だったことを秘密にしていたからで、一回思いっきり白銀に絡んでしまえばそのあとはすっきり……する! 絶対! おそらく! ……多分) だんだんと尻すぼみになっていく思考。本当にするだろうか。 確かにあのことを秘密にしていたのは腹立たしいことなのだが、それなりの理由があったのだろうということは速瀬でもわかる。あの機体の衛士に対する敵愾心を燃やしたからこそ、今の自分の強さがあり、先の作戦がうまくいった一因になっているのは明らかだ。それが分かっていながら、今の言葉にし難い胸の内の原因をそのせいにして、どうにか自分を納得させようとしていた。 自分の髪をわしゃわしゃと乱暴に掻く。(この気持ちが一体何にしろ、原因はあいつよ! これだけは間違いない!) そう、それだけははっきりしている。とりあえず悪いのはあいつだ。 そのとき、今まで沈黙を守っていたドアがついに音を立てて開いた。 バッと全員でそちらを向く。速瀬も気持ちの整理がつかないまま、反射的に向いてしまった。「――三日ぶりね、あんた達」 入ってきたのは香月副司令だった。全員がそろって敬礼する。 彼女はいつもの白衣に薄い笑みをたずさえ部屋に入ってきた。手振りだけで、敬礼を止めさせる。 敬礼を解いたA-01の面々は自然と夕呼から視線を外し、再びドアのほうを見た。しかし、開いたドアから新たな人物が入ってくることはなかった。彼女たちの前で無常にもその自動ドアは閉じた。 全員わずかではあるが、落胆の表情をした。今日呼ばれたのは、夕呼からであり、そこに白銀がくる情報などなかったのだが、どこかで彼女達は、夕呼と白銀がセットで現れるものだと考えていた。 夕呼が苦笑を洩らしたのは、その露骨すぎる彼女たちの行動を見たからだろう。おそらく彼女は、こちらが聞きたいことを理解しているはずだ。 武がこの場に現れないことに対して、水月は残念だったような、安心したような複雑な心境となった。◇「甲21号作戦ご苦労さま」 夕呼が口を開いた。その声で慌ててA-01の視線が夕呼のもとに戻った。「全員が初めてのハイヴ攻略戦にも関らず、あなた達はよくやってくれたわ。人類でもG弾を用いない実戦で反応炉にたどり着いたことのある中隊はあなたたちA-01が世界初よ」 彼女が手放しで褒めることなどあまり記憶にない。伊隅たちはその賞賛を素直に受け取った。 次に、夕呼は指を折りながら、今回の作戦での戦果を彼女たちに説明した。「まずは甲21号を攻略することができた。凄乃皇の実戦データもとることができた。それに――伊邪那岐の航空戦力としての実用性も確かめることができたわ」「「「「「「……!」」」」」」 そのときA-01それぞれに何らかの反応が見られた。どの単語に反応したのかは明白だ。その反応が予想通りで楽しかったのか、夕呼は言葉を止め、笑みを強くしていた。「……副司令」 そんな夕呼に対して口を開いたのは隊長の伊隅だ。全員を代表して今一番聞きたい質問を投げかける。「あの機体は一体なんだったのですか?」「「「「「……」」」」」 全員が目で訴えかける。合わせて32の瞳が夕呼の姿を映し出していた。「ふふ、そう来ると思ってたから準備しておいたわ」 そう言って彼女は机に上にあったリモコンを手に取る。そしてミーティングルームのプロジェクターに向けて、ボタンを押した。するとプロジェクターがスクリーンにあの機体―― 伊邪那岐を映しだした。「!」 どの軍隊にも存在しない銀というカラーリング。第2世代機以降に共通するスラリとしたシャープなそのボディ。背中に銃身が折りたたまれた荷電粒子砲を背負って、腰部には大型化された跳躍ユニットが接続されている。機体の横に表示された二つに分かれる特殊な長刀。どれをとっても異質としか言いようがない。 そしてその機体を指して夕呼は口を開いた。「これが、あなた達が知りたがっている――次世代型戦略級戦域制圧可変型戦術機VFG-TYPE‐01……『伊邪那岐』よ」「じ、次世代機!?」「可変型……!」 モニターにでかでかと映し出された伊邪那岐の姿。第3世代機を超えた世界初の次世代機。しかも可変型ときた。A-01はそれらの単語、一つ一つに驚きを見せる。 夕呼が手元のリモコンを操作すると、スクリーン上に映し出された機体がゆっくりと変形を始めた。完全に戦闘機形態となったその姿を見て、彼女たちが目を見張った。 「あなた達も実際に見たと思うけど、この機体は戦闘機形態に変形することができ、さらに短時間ではあるけどその状態でBETA支配空域での飛行が可能な航空兵器でもあるわ」 あの作戦でわかってはいたことだが、改めて夕呼の口から説明される伊邪那岐の他の戦術機にはない特異性に驚く面々。短時間との制限は付いているが、BETA支配空域で飛行を可能にしたこの機体は、今までの常識では考えられなかった存在である。「甲21号作戦時に、この機体の存在を知らせていなかったことは最重要軍事機密であること――それと、あなた達に変な希望を持たせたくなかったためよ」「希望をもたせたくなかったというと?」 夕呼の言葉に疑問を返す伊隅。その質問に対する答えはすぐに返ってきた。「この機体は‘特殊な理由’により、作戦初期から投入するわけにはいかず、またいつ投入できるかもわからなかったのよ。作戦の進行具合によってはもしかすると投入できなかったかもしれないわ。そんな来るかどうかもわからない兵器に希望をもって戦われても困るでしょ?」 凄乃皇の存在は作戦前に自分たちに公表されていた。ということはこの機体は、もしかすると凄乃皇以上の軍事機密であるのか。「そ、そんなことよりも副司令!」 茜がズイッと手をあげながら一歩前に出てくる。彼女たちが真に聞きたいのはそんなことではない。茜は矢継ぎ早に口を開いた。「あ、あの機体って‘どうして光線級に撃ち落とされないんですか’?」 おそらくは彼女たちが一番聞きたかったであろうその疑問。それを、全員を代表して茜が尋ねた。 光線級が現れてから人類に制空権はなくなった。これは対BETA戦において常識であり、航空戦力は限定的な場合を除いてほとんど無用の長物だ。そして、その航空戦力の空洞を埋め、対BETA戦の最終局面、即ちハイヴ攻略用の決戦兵器として開発されたのが戦術機だ。だが、この兵器はその両方に変形可能という今までにない兵器だ。 彼女たちの誰もが、伊邪那岐がBETA支配空域で飛行可能にしている秘密を知りたがっている。しかし、夕呼の答えはこうだった。「それは最高軍事機密なのであなた達の権限では知ることは許されていないわ」「そう……ですか」 そう言われては、それ以上追及することはできない。茜は項垂れて元の位置へと戻った。 夕呼もそれだけではあんまりかと思ったのか、続けて説明する。「一つ言わせてもらうと……あれは量産できないわ。コスト、生産性、整備性、その全てを犠牲にして作られた完全な専用機(ユニーク)……あいつが満足できるこの世で唯一の機体」 あいつというのが誰を指しているのかなど、名前を挙げられなくても気づく。彼女たち全員が佐渡島での武の動きを見ている。その伊邪那岐のマシンポテンシャルも目の当たりにしている。どうやらあの彼にとっては不知火でさえ不便な思いをしていたらしい。「一応は次世代型とはなっているけど、はっきり言って今ある技術の全てをつぎ込んだハイチューン機体。2、3世代ほど戦術機の進化の過程をすっ飛ばしていると考えてくれてもいいわ」 そもそもが可変型という従来の戦術機とは一線を画す存在だ。次世代型戦術機と位置付けるよりも戦術機とはまた別のカテゴリーとしてもいいかもしれない。 夕呼はある程度伊邪那岐の話を終えると、スクリーン上の映像を消した。これでこの機体に関する簡単な説明をし終えた。 だが、夕呼はA-01の顔からまだ言いたいことがあるような雰囲気を察する。「……あの日、白銀がこいつでこの基地を襲う真似なんてしたことを気にしているのかしら?」「「「「「!」」」」」 一発で言い当てる夕呼。あの日、あの機体を直接相手にした先任たちの反応が大きい。「ふふ……それは本人に聞いてみたら? 大丈夫、あんた達、愛しの彼は明日には帰ってくるわよ」 答えはくれなかった。「じゃ、あんた達、今日一日は完全に休みよ。何してもいいから、今日一日ぐらいはBETAのことなんて忘れて羽根を伸ばしなさい。とりあえずは自分の部屋に戻って今回の分の遺書を破り捨てることをするのかしら?」 彼女は最後に笑ってそう締めくくった。そして部屋を出ていく。A-01の何人かは呼び止めようかとする気配も感じられたが、結局遠慮して彼女を見送ったのだった。◇ 夕呼が出て行ったミーティングルーム。 A-01は少しの間、彼女が出ていったドアを見ていた。せっかく質問できたというのに、白銀武にしても伊邪那岐にしてもその謎のほとんどがわからないままであったため、その胸中は雲の晴れないどんより空のようなもの。なんともスッキリとしない気持ちであった。 するとそこへ、ダダダッという音を廊下側から響かせながら誰かが部屋に入ってきた。「――鑑!」 そこに現れたのは、あの凄乃皇の衛士、鑑純夏少尉だった。彼女はA-01とは別ルートで基地に帰還していたため、こうして会うのは夕呼と同じで三日ぶりである。 部屋に入ってきた彼女はこちらの姿を見るやいなや、その顔に満面の笑みを浮かべ、全員の無事を声を上げて喜んだ。それはA-01側も同じだった。佐渡島奪還の立役者のうちの一人である彼女をA-01はあっという間に取り囲んだ。 初めての実戦とは思えないその功績ぶりを全員から誉められ、照れた笑みを浮かべる純夏。しばらくもみくちゃにされていた彼女だったが、その輪から抜け出して、A-01全員と向かい合う。そしてみんなに注目される中、「えっと、今日はみんなにお願いがあるんです」「お願い?」 コクンと頷く彼女。明日の夜は空いてますか、とこちらに確認をとってくる。明日から訓練は再開されるが、夜に予定は入っていない。それを全員で首肯すると彼女はそれなら、と口にして、「実はこの前の作戦が行われた12月16日っていうのは、タケルちゃんの――」 それを聞いたA-01の面々。彼は明日帰ってくると聞かされている。そして今、彼女から言われたこと。明日の夜をどのように過ごすのかがこれで決定した。◇ ◇ ◇ 次の日。 A-01の面々はシミュレータデッキにて、先の作戦で手に入れた佐渡島ハイヴデータをもとに改良されたハイヴ攻略戦を行っていた。 そんな何機ものシミュレータ機が激しく動く部屋に、一人の男が静かに入室した。 男は、部屋に入るとまず、室内を見回して、次に稼働中のシミュレータ機の数を入り口に近いものから順に数え始めた。「13、14――15」 15機。数え終わると、その数を何度も噛み締めるようにして呟く。 そして、次に男は、シミュレータデッキに併設された管制室のほうへと足を進めた。「CP、支援砲撃要請了解」 中では、涼宮中尉が一人で、ヴァルキリーマムとしての仕事をこなしていた。その元へとゆっくり近づいていく。彼女が前にしているスクリーン上には、A-01の顔がそれぞれ映し出されており、その顔はいずれも気合に満ちたものだった。「あ――っ!」 足音に気づいたのだろう。すぐに涼宮は背後を振り向き、自分に近づきつつあった男の存在に気づいた。すぐにその名が口から出そうになるが、目の前の男は自分の唇に人差し指一本を当て、彼女を止めた。 その意図はわからないが、その仕草のとおり、涼宮は慌てて自分の口に手を当て、言葉を止めた。『……? ヴァルキリーマムどうした?』「な、なにも。し、支援砲撃開始まで残り1分」『了解』 彼女の動揺はなんとか訓練中の者たちには気づかれなかったようだ。男はそれを確認すると、涼宮に一言残して、その部屋を後にした。「涼宮中尉、不知火を一機準備してほしい」◇ ハイヴの入り口が見えた。 今日の演習は、先日の作戦もあるので、そこまでハードな難易度設定は行っていない。しかし、このレベルのハイヴ攻略シミュレーションでも二月前のA-01は今の倍近くの時間をかけていた。 全員の地力の上昇はもちろん、新たな戦力の増強、また先の作戦でハイヴという巨大なBETAの巣窟を生で経験したことも関係しているであろう。 伊隅は全員に命令してからB小隊の後に続いて、ハイヴの中へと突入した。 そして、最後尾の不知火が、ハイヴへの突入を果たしたそのときだ。「ッ!?」 ハイヴの中は薄暗い洞窟のようなものだったはずだ。だが一瞬にして網膜に映る景色は、朽ち果てたビル群が立ち並ぶ市街地へと変わっていた。『な、なにこれ?』「涼宮! どうした、不具合か?」 今まで、このような不具合が発生したことはないが、この唐突な変化はそれ以外に理由は思い浮かばなかった。また、場所の唐突な変化だけではない。すべての武装がロックされていた。『ここって……基地の演習場?』 誰かがそう呟いた。確かに見覚えのある光景だった。ここは、横浜基地の目の前にある元横浜市街地だ。市街地でのBETA戦や、戦術機同士の演習では頻繁に用いていた。『このような不具合は記憶にないのですが』 風間だけでなく、部隊員全員が狼狽している。「涼宮! 応答しろ!」 いつまで経っても返事をしない涼宮に痺れを切らして、一度演習を強制終了させようと決めたそのときだった。『――不具合ではありませんよ、伊隅大尉』『『『『「!?」』』』』 一機の不知火が目の前に現れた。「白銀!」 その声はここ数日待ち続けた男のもの。すぐに網膜にあの男の顔が映る。伊隅に続くように残りの隊員もここ数日で溜め込んだその胸のうちをさらけ出そうとした。 だが、そんな呼びかけを無視するように相手は口を開いた。『俺が……この基地に配属されると決まったとき』 目の前の機体からオープン回線で声が聞こえる。部隊は全員、その言葉を邪魔しないようにと口を噤んだ。その声色と表情から何かあると察し、無意識に緊張した。『俺は、一度だけこの基地の様子を見に来た』 不知火は一歩一歩、伊隅たちのもとへと近づいてくる。その姿に、伊隅はある種の既視感 を感じていた。『そこで目にしたのは、ここが後方だと油断し、緩みきった兵士たち』 相手はそう続ける。 あの男がいくつもの戦場を渡り歩いてきたのだろうということは、今までの付き合いから想像できた。確かに最前線とこの基地では明らかな雰囲気の違いがあった。ハイヴ実戦を経験した今、彼女たちの心構えも変わっている。今だから分かるが、目の前の男がこの基地を襲撃する前と後では、この基地の雰囲気が変わってなかっただろうか。『女性のみで構成された力足らずの中隊』 それを辛辣な物言いだとは思わなかった。今の自分達を考えれば、あのころの部隊は弱い。佐渡島ハイヴはおろか、その前の新潟の実戦でも無事であったかどうかもわからない。事実、A-01連隊は,設立されてからあの日まで、何か作戦がある度に、その数を一人また一人と減らしていたのである。『才能を持ち、誰よりもこの国を守りたいと願っているのに、くすぶっている訓練部隊』 新任たちが反応した。あの男が来なければ、未だ訓練部隊にいた可能性もある。互いの家の事情から来るわずかな不和。それによるチーム内の軋轢。それは彼女たちだけが原因だったのではない。複雑に絡みあった事情が彼女たちの任官を遅らせていたのだ。 部隊との距離、ちょうど1kmでその歩みを止めた。そして、不知火の腕をゆっくりとその背に伸ばす。彼は不知火に長刀を持たせ、一度大げさに振り切って見せた。『――’あれ’から二ヶ月』 二ヶ月。それは、あの男がこの基地に、自分達の前に現れてからの短いようで長い期間だった。 そこで空気が変わった。長刀の切っ先をゆっくりと目の前の自分達に向け、彼は笑みと共に告げる。『さあ、あの時とは違う――ハイヴ攻略部隊の力を見せてほしい』『『『『!』』』』 そのとき、今まで沈黙を守っていた涼宮が、『ヴァルキリーマムよりヴァルキリーズへ。現在横浜基地が所属不明の機体に襲撃されています。 ヴァルキリーズは速やかに目前の機体を無効化してください!』 その言葉と同時――今までロックされていた武装が一斉に開放された。『……上等ッ!』 部隊内で真っ先に反応したのは速瀬だった。彼女は突撃砲の銃口を目の前の不知火に向け、舌なめずりをする。このときには伊隅も気づいていた。「――ヴァルキリー1よりヴァルキリー2。第一撃はお前がくらわせてやれ」 これはあの日の再現だ。力及ばず、あの男に蹂躙されたあの日の苦い思い出。 いつまでも苦い思い出にしておくつもりはない。他ならぬ彼のおかげで、彼女たちの力はあのときとは比べ物にならないほど上達している。それがあるからこその、反応炉到達という結果だ。 伊隅の声で、不知火15機が一斉に武器を構えた。『ヴァルキリー2、了解! 伊隅ヴァルキリーズ突撃前衛(ストーム・バンガード)の力見せてやりますよ!』 その言葉は、あの時以上の覚悟を感じさせるものだった。あの日も、軽い気持ちで口にしたものではない。だが、その言葉を実践するための力は、あの時の彼女にはなかった。 しかし、今回は簡単に負けるつもりなどない。むしろ、返り討ちにしてくれる。『――茜ッ!』『了解!』 速瀬の呼びかけに間髪入れず答え、二機のジャンプユニットが火を噴く。それに彩峰たちがすぐに続いた。「相手を一機と思うな! 全機、今出せる全ての力をあの男に見せてやれ!」『『『『『了解!』』』』』 全員が一斉に答え、その機体を目の前の不知火に向け発進させたのだった。 突撃砲が火を噴く。長刀が空気を切り裂く。誘導弾がコンクリートを砕く。鉄の巨人が空を舞う。 硝煙が満ち、長刀同士が火花を伴いながら弾き合った。 合わせて16機の不知火は、その全てを出しつくし、互いに戦いあった。◇『……降参です』 ヴァルキリーズ対白銀武。その勝負が今ついた。 一機の不知火が仰向けに倒れ、その胸に伊隅機の長刀が向けられていた。伊隅は勝利を確信してから、高ぶった気持ちを落ち着かせ、震える唇からゆっくりと言葉を紡ぎだした。「――貴様の所属……目的を答えろ」 あの日言えなかった勝利の宣言を行う。彼の機体は満身創痍。残った武装は右手に残った短刀一本。しかし、彼はたった一機でありながら、5機の不知火を落としていた。 辛勝だな、と伊隅は心の中で笑う。ただし、撃墜された一機一機が確実に彼の機体に損傷を与えていた。あのときとは違う。彼女達は彼に一矢報いたのだ。 勝ちは勝ちだ。伊隅はあの日から二ヶ月の思い出を心に、相手の言葉を静かに待った。◇「……極東国連軍所属、白銀武少佐。目的は、人類の勝利のため、としか言いようがない」 武はこの結果に満足した。決して力など抜いていない。正真正銘、真正面から彼は伊隅ヴァルキリーズに敗れた。言い訳などしない。これは自分が望んだことなのだ。 たった一人も欠けていない。目の前の彼女達を一人も失うことがなかった。「つッ……ッ」 それを再認識したとき、彼の涙腺が刺激された。気が狂うほど繰り返したこの世界で、この成果は今回が初だった。じわじわと目の前の景色が歪んでいく。網膜に映った複数の不知火も、知らぬあいだにコックピットに変わっていた。(俺は……やったんだ) 彼がこの世界で最も世話になったと認める人物たちだ。彼女達の存在なくして、武の成長はなかった。武は今までやってきたことが無駄ではなかったこと、再びこの世界に戻ってきたことに意味があったことにただ涙した。 『――ご苦労様。それではこれで演習を終了します』 涼宮のその言葉で武は慌てて、潤っていた目を拭いた。シミュレータ機が動きを止め、外への扉を開こうとしている。武は男として残った矜持から、涙を見せることは憚られた。もしかすると、CPを行っていた彼女にはばれているかもしれないが、これ以上涙を見せるつもりはなかった。「……よし」 完全にいつもの自分に戻ったことを確認してから、武はシミュレータ機からゆっくりと外に出た。「「「「「……」」」」」 そこにはすでにA-01の全員が武を待っていた。誰も彼もが口を開かず、武の言葉を待っていた。武はその期待に答えるべく、第一声を発した。「――今日ここで、16人全員と顔を合わせている」 左から順に部隊全員の顔を見た。「一人も欠けることなく」 次は逆から、その姿を網膜に焼き付けるように、もう一度全員の顔を見た。「そのことが何よりも嬉しい」 その言葉に、彼女達は柔らかな笑みをその口元に浮かべた。彼と再びこの基地でまみえることができる喜びは彼女たちとて同じだった。 そんな彼女達に、今まで以上に背筋を伸ばし、彼女達の顔を正面から見据え、最高の敬礼をした。「伊隅ヴァルキリーズ――任務御苦労」 そんな武の敬礼に、部隊員全員が一糸乱れぬ動きで敬礼を返した。◇(あ……あれ?) 武は敬礼を解き終えたあと気づく。 今は誰も彼もが武に向けて、笑顔を向けている(中には薄っすらと目じりに涙が浮かんだ者もいる)が、そんな中一人だけ睨むような険しい表情を自分に向ける者がいる。(は、速瀬中尉……) いささか、心の中で思い描いていた感動的な再会を演出する表情ではなかった。 そんな速瀬に、困ったような笑みを向けると、彼女はすぐにその顔を武から外した。てっきり何か言ってくると思っていた武は、それに拍子抜けした。「タケル……」 冥夜が一団の中から一歩でた。「私は、ずっと……この星、この国の民を守りたいと、願い続けてきた」 明確に心に刻む戦いの理由は違えど、その願いは、今この場にいる誰もが、戦場に出る誰もが秘めていたものだ。「此度の作戦で……ようやくその願いのための一歩を踏み出すことができた」 彼女は一度、そのときの情景を思い浮かべるように目を閉じた。次に目を開けたときには、武の顔をしっかりと見つめ、「そなたの、おかげだ」 彼女は深々と頭を下げた。「私からも礼を言わせて……本当にありがとう」 そんな彼女に続くように、千鶴も礼を言った。そんな彼女に向けて武は、「言ったろ、委員長。『オレは全人類を救うつもりでいる 』って」 得意げに笑った。 それはあの日、武と彼女達が始めてあったPXにて、千鶴が尋ねた彼の特別の意味に対する期待。武はその言葉に一切の偽りを含ませていなかった。「あの機体についても聞きたいけど、どうせ教えてくれないんでしょう?」「あー、あの機体については夕呼先生に一任してるから……悪いな」 彼女らも、そのことについてはあきらめることにしたようだ。詳しいことは分からなくとも、あの機体が人類反撃のための先陣を切るものであるのは明らかだ。それだけで十分だった。「白銀」 次に言葉を発したのは、伊隅だった。「お前が、戦場に現れたとき……私は部隊を未曾有の危機にさらしていた」 彼女が言っているのは光線級数十体に囲まれていたときのことだろう。どこか自身を責めるような彼女の物言いに、武は言った。「あなただけが背負い込むことはないですよ。そのために、速瀬中尉や宗像中尉、神宮司大尉がいます。それにみんなも……俺もいます」 彼女が気づくのがあと一瞬遅れていれば、あのBETAがひしめく戦場で、光線級が発する振動に気を払うものはいなかったかもしれない。その場合、彼女らは無防備な頭上からあの光に溶かしつくされていたことだろう。武も間に合わなかったかもしれない。 彼女の行いを最善とは言わないが、不確定要素ばかりの戦場では運も必要だ。それを手繰り寄せた彼女はそれだけで立派だった。「これからもあなた達には働いてももらいます、期待していますよ」 部隊の各隊長を務める者たちに向かって言った。彼女らは、ただ武に敬礼を返した。「だ、だげるざぁああああん」「ど、どうしたタマ!?」 次に飛び出してきたのは、涙で顔をくしゃくしゃにした壬姫 だった。「わ、私、あの光線級に狙われたとき、ほ、本当に死んじゃうかと……!」 彼女は新兵だ。いや、それでなくともあれだけの光線級に囲まれて、平常心を保っていられる衛士などいないだろう。「あ、ああ、お前ら大丈夫だったか? 漏らさなかったか?」「「「「「漏ら――!?」」」」」 その言葉に何人かが大げさに反応した。衛士にとって、この程度の冗談は日常茶飯事であり、それを知る伊隅やまりもは特に反応はしなかったが、このA-01には任官してから同部隊に男の存在がいなく、そういったことに不慣れな初心な乙女たちが何人かいた。「本当かー? よし、ならあのときの強化装備のデータを……」「し、白銀を捕まえて!」 茜のそんな言葉を皮切りに、何人かが慌てた動作で武に向かってきた。 抵抗する間もなく、武の両腕、両足にしがみつく彼女達。武は強化装備越しに伝わる柔らかな感触を楽しみながらも、ここは精一杯抵抗してみた。「お、おい! お前ら! そんなにムキになるってことは認めてることと同じで――」「黙りなさい、白銀! あなたにはデリカシーがないの!?」 右腕を捕らえていた榊が叫ぶ。なにも彼女達だって先ほどの武が言ったことが事実ではないだろうが、戦闘中の強化装備データというのは、あまり見られてうれしいものではなかった。「こ、こうなれば、少佐の権限を使って絶対に――」「ぐ、軍の階級は、己が欲求を満たすものではないぞ!」「そ、そうだよー!」 至極全うなことを冥夜が言う。それに美琴が追随する。 そんなドタバタ劇を見つつ、まりもは密かに笑みをこぼしていた。 教え子達を戦場に送る。それは毎年のことながら気持ちのいいものではなかった。 そして、彼らが戦場に出て、すぐに届く戦死の知らせ。次々と未来ある若者達を死地へと向かわせていたのだ。より多くを生かしたいという免罪符でそれを誤魔化していた。 今、彼女の最後の教え子達が目の前で元気に騒いでいる。そのことに、すっかり枯れたと思っていた涙腺が少しだけ刺激された。彼女たちなら未来を掴んでくれる。 どこかで負の連鎖が断たれた気がした。彼女達が生き残ってくれている。ただ、それだけで過去の自分を少しだけ許せそうだった。「あー、茜達……? 胸とかいろいろ白銀に当たってると思うんだけど」「おい、柏木! なぜ言ってしまう!?」 そんな柏木の言葉で、武を取り囲んでいた者たちが顔を真っ赤にしながらその手を離した。武は内心残念に思いながらも、その隙に出口の方へ向かって駆け出した。「あっ!」 誰かが慌てたように声を出す。しかし、もう無駄だ。最高速状態に達してしまえば、部隊内において、彼についてこれるものはいない。 だが、その油断をつかれた。突如目の前に現れる人影。「なっ!?」 その人影――彩峰の蹴りが武の股間を直撃した。さすがは、随一の格闘能力を誇る彼女である。その足は、人類の男性諸君を震え上がらせるほどの一撃で決まった。「お、おまッ! それは――反則ッ……」「……これで、動けない」「ナイス、彩峰!」 うずくまる武。残念ながら、この場に武の痛みを理解できるものはいなかった。 武を中心とした作戦前となんら変わらない日常。それがまた戻ってきた。そのことに武だけでなく、誰もが心の中で喜んでいた。 あわよくば、この日常が続くことを信じて、彼女達は笑った。◇ ◇ ◇ シミュレータデッキでの出来事の後、武は仕事をこなしていた。まだ、股間は痛いがそれで休んでもいられない。A-01は今頃ミーティングルームで先の演習の反省を行っていることだろう。「……」 横浜基地の地下深く。90番ハンガーと呼ばれるそこで武は伊邪那岐のコックピットに軍服のまま腰かけ、膝の上でノートパソコンを広げている。 彼が行っているのは、伊邪那岐の先の作戦における戦闘データの詳細なまとめ。これを夕呼に提出する義務があるのだ。「しっろがっね少佐」「ん?」 語尾に音符でもつけていそうなリズムをつけて、武を呼ぶ声がした。機体の外からコックピットを覗き込むようにして顔を出したのは顔なじみの整備兵だった。 武とそう変わらない年齢の少女と言ってもいい彼女だが、この90番ハンガーで凄乃皇とともに伊邪那岐の整備も行っていることから優秀さは折り紙つきで、同年齢ということもあって親しみやすいので武とは結構仲がいい。UNと書かれたキャップをいつも斜めにずらしてかぶっているのが特徴だ。「そろそろ教えてくれませんか―? この機体って一体どこで造られたんですかー?」 伊邪那岐の装甲をバンバンと叩きながら尋ねてくる。なにも彼女だって本当に答えが返ってくることを期待しているのではない。それは今まで先輩の整備班長たちが夕呼に直接聞きに行ってことごとく失敗している。もうすでにそれを知ることはあきらめているだろう。 これはただのあいさつみたいなものだ。だから武はいつものごとく、ため息交じりにこう言った。「命が惜しいなら深入りしないほうがいい」「またまたー」 アハハと笑いながら手をひらひらさせて、聞き流す彼女。武は続けて、「香月博士の笑顔を思い浮かべるといい」 そこで彼女の笑みが固まった。そして、しばらくの硬直の後、体が小刻みに震え始めた。「ホ、ホントっぽいなー! ちくしょー!」 涙目、やけっぱち気味に言った。彼女の頭の中では底冷えするような笑みを浮かべたマッドサイエンティストな香月博士が思い浮かんでいるはずだろう。 ここまでが一連のあいさつみたいなものだ。武は本題を尋ねる。「で、用件は?」「アーリャちゃんと霞ちゃんが来てますよー」 彼女はケロッと元の状態に戻って機体の外を指さした。武はパソコンを閉じて、コックピットから身を乗り出す。 すると伊邪那岐の足元でこちらに向かって一生懸命手を振るアーリャとその隣でこちらを見つめる霞の姿があった。◇「……はぁ」 一時間ほど前のシミュレータデッキでの出来事のあと、速瀬水月は一人基地の外を歩いていた。口から出るのは重い溜息。その足取りもため息同様重い。 A-01の各々は今頃、鑑から提案された「とあるイベント」のために全員がなんらかの準備を行っているが、水月はそれには後で参加するという旨だけ伝えて一人基地の外に出ていた。「結局何言えばいいかわかんなかった……」 とぼとぼと足が向かう先は基地の前のあの桜。明確な目的はなかったが、気持ちを整理するためにもあそこに向かおうと思った。 彼女が落ち込んでいる理由。それはさきほどのシミュレータデッキで三日ぶりに白銀に会ったというのに結局何も言えなかったことに対してだ。演習が終わると早々に出ていったといっても何か一言ぐらいは声を掛けられたはずだ。だが、その一言が何を言えばわからなかった。 助けてもらったことの礼を言いたい。いつもの態度で接したいと思いながらも、自分たちに秘密にしていた多くのことについて階級は抜きにして彼と自分たちのフランクな関係上何か言ってやらねばとも思っている。それが自分と彼の付き合いでは自然だと考えているからだ。 それらを総合して彼に取る態度を決められない。そんな自分に苛立っていた。 考え事をしているとあっという間に門を抜け、あの桜の近くにやってくる。「……あ、れ?」 誰か、先客がいる。桜の前にはこちらに背を向ける3人の姿。小さな二人に挟まれる形で桜を見上げる一人の男。(し、白銀!) それが彼とわかるやいなや、水月はつい反射的に体を近くの木に隠してしまった。まさかここにきて彼と鉢合わせになるとは思いもしなかった。そろーっと慎重にそこから彼の様子をうかがう。彼の隣にはアーリャと社の二人がいる。作戦中、この基地に残っていた二人だ。慕っている白銀が帰ってくれば、二人ともさぞかし嬉しいことだろう。 しかし、てっきり今頃、香月副司令のもとで何かしていると考えていたわけだが、彼は今あそこで何をしているのだろうか。 耳を澄ますと微かにだが、彼の声が聞こえてきた。「――‘碓氷’……さん、‘七瀬’――さん」「?」 彼は人の名を何人も口にしている。それらの多くは速瀬もどこかで聞いたことのある名だった。 速瀬が白銀は一体何をしているのかと疑問に思ったとき、彼はその名を口にした。「――‘鳴海孝之’さん」「!」 その名で気付いた。 彼が口にしているその名。それはかつてA-01連隊に所属し、今はあの桜の下で眠っている英霊たちであった。 彼は、それからも20人ほど名前をあげる。そこにはかつての自分の同期の名もあった。 彼が一体あそこで何をしているのかが分かった。「A-01の先任方、今回の作戦は……無事、成功しました」 ――彼は英霊たちに作戦の成功を報告していたのだ。◇「伊隅ヴァルキリーズの面々も全員無事です」 基地前の桜の木を見上げながら武は言う。 さきほど、90番ハンガーにやってきたアーリャと、もとからこの基地で留守番をしていた霞も一緒だった。アーリャは武より先にこの横浜基地に伊邪那岐と帰ってきていたので、会うのは2日ぶりだった。 武は行っていた作業を止め、彼女たちのもとへ下りた。そんな武にアーリャは開口一番こう言った。『作戦うまくいったよって……いつもみたいに言いにいこ、タケル』「アーリャが思い出させてくれて良かったよ。そうじゃなきゃオレはA-01 の先任たちにとんでもない不義を働くところだった」 2002年以降、武は大きな作戦が終わるたびに作戦の成功と自分の無事をこの桜の木の前で報告していた。それはアーリャとともに戦うようになってからも同じで、桜の木の下に眠ると信じている元207Bや純夏、ヴァルキリーズ、A-01の先任に対しての報告だった。 再び時をさかのぼり、今現在ヴァルキリーズは生存しているといっても、人類がようやく反撃に移ることができるようになったのもかつてのA-01の衛士たちの挺身があってこそなのだ。 その多くは顔も知らない、話したこともない人たちだ。だが彼らは自分たちの犠牲が意味のあるものだと信じて散っていった人たちである。人類の今後を左右する作戦の成否は一刻でも早く知りたいだろう。そして自分たちの意志を継ぐ残りのA-01の無事も知りたいはずだ。彼らに敬意を払うが故に、報告を怠ってはならない。「皆さん……無事に帰ってきてくれて良かったです」 右隣で同じように桜を見上げていた霞がしみじみとそう呟く。その小さな手がギュッと武の袖を握った。表情からは読み取れないが、その仕草が、彼女が感じていた不安を伝えていた。「ああ……霞も留守番ご苦労さま」 待つというのは、ともに戦場に立てない以上相当つらいことに違いない。同じ戦場に立てるのならば、他者をその手で守ることもできる。だが、残されたものは、送り出した相手をただ信じて待つしかないのである。武は基本、神という存在を信じていないが、そんな立場になった場合には必死に仲間の無事を神に祈るだろう。「私は……戦えませんから」 霞は申し訳なさそうに顔を伏せる。「私は……ただ待っているだけ……本当は純夏さんやアーリャさんがやっていることは私の―――」「気にするな……オレはお前の『おかえりなさい』を聞けることが嬉しい」 武は彼女の言葉を遮って、そう続ける。「お前はオレたちの帰る場所をしっかり‘守っている’さ」 霞にはその言葉が武の本心からの言葉だと判断することができる。彼の心の暖かい色をしっかりと感じると彼女は顔をあげた。「……すみません。変なことを口にして」 武はそんな彼女の頭を軽く撫でてやった。そしてその話題をやめて、また桜の木に向き直る。「しかし、埋葬の空砲を聞かずにいることがこんなに嬉しいとはな」 あれほどむなしい発砲音も無い。 先任たちにはしばらくはそっちに誰も行く予定がないことを伝えておかなければならない。そしてそれを実現しなければならない。「とりあえず、今回は2か月の努力が結ばれた……」 部隊での犠牲者0。それは武が再びこの世界に舞い戻ってきた10月22日より約2ヶ月間の武の努力が実を結んだ結果であった。◇(2ヶ月……そっか、‘たったの2ヶ月’なんだ) 水月は今更ながらに、白銀と自分たちが初めて出会ってから2ヶ月程度しか時間が経っていないことを思い出した。 今やもっと以前から白銀と一緒だったような錯覚さえあった。それだけ今の自分にとってほかのA-01の面々と同様、彼がいることは当たり前になっている。 それはいつから……? 彼が戦技教導官として自分たちの前に現れたとき? 彼の圧倒的力量を目の当たりにしたとき? 彼もまた愛する人を失ったと知ったとき? 佐渡島で彼の名を心の中で叫んだとき? 自分たちをレーザー種から助けてくれたとき? 彼があの日、自分たちを負かした衛士だと知ったとき? わからない。いつの間にか、としか言いようがない。「タケル……がんばったもんね」「ああ、みんなオレにとって大切な人だからな」「……」 なぜあいつは私たちのためにそこまでしてくれる? 水月の心に生まれる疑問。 自分たちと彼は、2ヶ月前までは会ったことすらなかったはずだ。少なくとも水月個人にしてはそうだ。A-01部隊内でも、幼馴染であるという鑑を除いて、彼と面識があった者はいないはずである。 副司令からの命令のため、と言われればそれまでだが、きっと彼がここまでやってくれるのは別の理由があるように感じる。何も軍人は命令だけに生きる者ではない。感情と人とは、軍人であっても完全に切り離せるものではない。彼の教導の熱意は、初めて会った時から今に至るまで、十分に伝わってきていた。『強くなってください』 今でも思い出す。あの日、最後に自分たちに掛けられた言葉。あの衛士が白銀だった。今思い出すと、その言葉には決して任務のためだけでない想いが込められているように感じられる。なぜ彼があの日あの機体でこの基地を襲う真似なんてしたのか。それは水月たちの力不足を実戦で教えるため。彼女たちを戦場で死なせたくないがため。 思考の海に沈んでしまいそうになる水月の耳に、また3人の話声が聞こえてきた。「みんなの様子はどうだった?」 アーリャが白銀にそう尋ねる。おそらくみんなというのは自分たちA-01のことを指しているのだろう。「みんな怪我一つなく元気だったよ……まあ伊邪那岐のことをなにがなんでも聞きたいって顔はしてたな」 彼は笑いながら言う。あのような機体のことを知りたいと思うのは当然のことだ。それだけ今までの戦術機の常識を覆すものであり、自分たちにとっては命を救われた特別な機体でもある。「ただ速瀬中尉がオレを思いっきり睨んでいたんだよな……やっぱ伊邪那岐でコテンパンにしたこと根に持ってんのかな?」「う……」 やはり先ほどのシミュレータデッキでの自分の様子にはしっかりと気づいていたようだ。今思うと先ほどの自分の行動、なんとも子供じみたものではないかと振り返る。 どうしたものかと眉根にしわ寄せ、ムムムと唸る白銀。そんな彼に社が口を開いた。「あの人は……自分の中に生まれた……いえ、改めて気づいた大きな感情に戸惑っているだけです」 その彼女が一瞬こちらを向いた気がした。彼女の言葉の意味と同時に驚く。だが、彼女はすぐ白銀の方へ向き直った。 社が自分に気づいている? いやそんなはずはない。これだけ距離が離れているのだ。白銀ならともかく彼女にばれるとは思えない。「カスミの言う通り……あんまり嬉しくないけど……」 続けてアーリャが少々頬を膨らませながら社に同意した。そしてその彼女もこちらをチラリと見……いや睨んだような気がした。だがすぐに視線は桜のほうへ。「ばれてる……わけはないわよね」 水月は、そんな二人の行動を結局は自分の勘違いだと信じることにする。そして次に考えるのは、先ほどの彼女たちの言葉だ。(大きな感情……?) 自分のなかにある大きな感情。向かう相手はもちろん白銀だ。それは自分でも理解している。彼女たちにはなぜ自分が今このような状態になっているのか理由がわかっているのだろうか。そんなに自分は第3者から見て露骨な態度をとっているのだろうか。「大きな感情って?」 白銀が二人に尋ねる。教えてもらえるなら私も知りたい。水月は無意識に木から体を乗り出していた。人が人に向ける感情などそれこそ無数にある。自分の中の感情はその中のどれに当てはまるのか。 アーリャは白銀の問いかけに、一瞬迷ったような雰囲気を見せたが、やがて唇を尖らせながらこう言った。「――タ、タケルのこと好きになったとか……」「……は?」 その言葉に水月は素っ頓狂な声を上げる。予想だにしていなかったその答え。(ちょ……ちょっと待って……!) いや好きか嫌いかと聞かれたら感情的には勿論好きだがけどこの場合の好きと言うのはおそらくは異性に対する恋愛感情の好きというものであってそれももちろん人に向ける感情としては数えられるものでむしろそれは女から男に抱く感情としては妥当なものだと言えるがそれを認めてしまえば私はあいつに対して恋をしているということになるのだけどいやだがしかし――「…………………………………っ!」 顔が知らず知らず真っ赤になる。その赤く熟れた頬を両の手で挟みこんだ。はっきりと感じる。熱い。 自身の急激な身体の変化にワタワタと慌てる。必死に熱い顔を冷やそうと、無意味に手で風を送ったりしてみる。 そ、そうだ。白銀はもし私があいつのことを好きかもしれないってことを知ったらどんな反応するんだろう。 自身の気持ちはとりあえず脇に置いた。 バクバクと暴れる心臓を押さえながら、木の蔭から水月自身も気づいていない微かな期待を込めて彼の様子を盗み見た。しかし、なけなしの勇気を振り絞って見た彼は、「ははは、んな馬鹿な」 ――ピクッ。(……あの野郎、まったく動揺もなにもしてないわ) アーリャの言葉を一蹴して、面白い冗談を聞いたみたいな感じで大口開けて笑っている。それを聞いて、急速にさっきまでの熱が引いていく。その後、最初に浮かんだ感情は彼の反応に対する微かな怒りだったが、次第にそれは、(……なによ。私があんたを好きになるってそんなに変なことなの?) という拗ねたような感情になっていた。 あいつが自分のことを女として意識してないように感じて少し、いや正直言うとかなり不満だった。 だが、それが直結して白銀に対する恋愛感情からくるものかと言われれば断言はできない。ただの女の意地かもしれない。「はぁ……」 アーリャはそんな彼の言葉に重い溜息を吐く。その表情には、安心したような、残念なような、複雑な感情が見え隠れしていた。白銀はそんな彼女の態度に小首をかしげるが、アーリャは詳しく語るつもりはないらしい。 彼女は社の手を取ると、「タケル……私とカスミちょっと用事あるからもう行くね」「用事って?」「タケルには秘密……行こっカスミ」「はい」 二人して手をつないで基地の方角……すなわち水月が隠れている方へ小走りにやってくる。そんな二人に白銀は「こけるなよー」という言葉をかける。 水月は自分の方へと向かってくる二人に見つからないように木の影に身を隠した。さすがに完全に隠れることなどできないが、彼女たちが振り向かない限り見つかることなどないだろう……そう思っていた水月。 だが、速瀬の横を通り過ぎようとしたとき、二人は視線を横に移動させた。そして身を小さくしていた水月と目が合う。「!?」 その視線の移動はまるであらかじめそこに彼女がいるのを知っていたかのようだった。そしてそれを裏付けるように水月を発見した二人の顔には驚きの感情などなかった。 彼女たちはその足を止めない。視線が交わったのはほんの一瞬。社はいつもの表情の乏しい目で水月を見つめ、アーリャの方はというと、軽く水月のことを睨みつけていた。 彼女が水月の目を捉えたほんの一瞬、彼女はこう言った。「タケルは……あげない」 それだけ口にすると、二人とも視線を戻してなんでもなかったかのように基地の方へと戻って行った。「……」 どうやら彼女の中では自分がライバルということは決定済みらしい。基地のほうへと去っていく小さな背中二つを呆然としながら見送った。(わからないのよ……‘また’人を好きになるなんて……) 彼女達が見えなくなってから水月は思う。好きになれば失ったときの反動が大きいから。私はそれを一度経験しているから……。 ’彼’が死んでから今まで、自分の周りに男が少なかったこともあるだろう。そういった感情をすっかり忘れてしまっていた。戦い始めてからの日常は、突撃前衛長という立場に据えらたというのもあって、毎日が部下を守るため、自分が生き残るために精一杯だった。 人を好きになることがあるとすれば、それはBETAとの戦いに勝利してからだと思っていた。そんな余裕が自分にあるとは思えなかった。 だが、彼が来てからは毎日が少しだけ楽しくなった。何気ない口ゲンカから、訓練外での会話。圧倒的力量差の彼の背中を追うというのも、悔しさはあるが、はっきり言って楽しかった。 私はあいつを、あいつは私をどう想ってる? それを確かめるため、再び白銀の姿を木陰から盗み見た。 彼はアーリャと社がいなくなっても変わらず桜の木を見上げている。葉の一枚もついていない木をさきほどまでとは違った表情で見つめている。「……?」 さっきまでの彼は微かな笑みを浮かべていた。だが今の彼はどうだ。口元からはその笑みは消え、そして目は細められ、厳しい表情で桜の木を見ていた。 その姿を見て、たちまち不安になる。彼があんな表情を見せたことなどまずない。例外と言えば、以前彼が恋人を亡くしたと漏らしたときだが、あのあとの彼の行動から考えて、あれは彼自身にとっても失敗だったのだろう。 水月にはその背が、今喜び湧き上がる世界においてたったひとり取り残されているようにも感じられた。「し、白が……」 その顔を見ていられなくなって、咄嗟に声をかけそうになってしまう。しかし、その瞬間彼は口を開いた。「――まだ……‘たったの一つ’なんだ」「――!」 彼は……浮かれてなどいなかった。 地球上に存在する残り24のハイヴ。未だ攻略できたのはたった二つでしかない。先の作戦ではそのうちのたった一つを落としたにすぎないのだ。 世界中が吉報に浮かれ騒ぐ今、彼はさらにその先を見据えていた。 桜の前に立つ、あの男の背中がとても孤独に見えた。たった一人。その姿は戦場での彼の姿に重なった。 戦術機は二機連携(エレメント)が基本である。どれだけ優秀な衛士でも、一時の油断、一瞬の状況判断の誤り、不確定要素に引き起こされる不足の事態でその命は簡単に失われる。しかし、今この基地に彼に並ぶ衛士はいない。 誰があいつを守ってやれる? 彼の隣に立つ衛士がいない。それが急に不安に感じられた。「みんな、本当に強くなった……」 言葉とは裏腹にその表情は陰りを帯びる。その様子に水月が嫌な予感を覚えたそのとき、「もう少し強くなってくれれば――万一、オレが死んでも――」 彼がふと口にした言葉。 ……え? あいつが死ぬ? いやそんな馬鹿な。あいつは私があった中でも断トツで最強の衛士で、あいつが戦場でやられる姿なんて抱いてすらいなかった。 死ぬ。失う。会えない。いなくなる。 ‘また’いなくなる……? そんな、そんなのって――「――なにバカなこと言ってんのよ!」 彼の口から自分の死と言う言葉を聞いた瞬間、頭に血が昇って何も考えずに飛び出してしまった。 目の前では彼が軽い驚きと困惑の表情をつくってこちらを見ていた。「は、速瀬、中尉……?」 飛び出してから、自分のしてしまった行動に後悔を感じる。さきほどのアーリャの言葉から意識させられている彼に対する自分の感情。さらにさきほどシミュレータデッキでとっていた自分の行動に対する気恥かしさ。また正面から自分一人に向けられる彼の視線。先ほどの言葉にいったい何を続けるべきか。「あ、あんた言霊って知ってる? 言葉には力があるの! そんな後ろめたいこと言ってたら現実になるんだから!」 結局あわてた自分の口からはそんな言葉が出ていた。違う。そんなことを言いたいんじゃない。先ほど浮かんだ言いようのない不安、怒り、悲しみ。彼に死んでほしくない理由は別にあるはずなのに、彼女の口は正直になってくれなかった。「そ、それにあんたにはまだ一度も勝ってないんだから! 死んで勝ち逃げなんて一生恨んでやるわよ!」 だが、この言葉でようやく彼は表情を和らげた。「大丈夫ですよ、速瀬中尉。ただの仮定の話です。オレは死ぬつもりは一切ありません」 その笑顔からようやく彼に纏わりついていた死のイメージが払拭された。そこでようやくホッと胸をなで下ろす水月。「仮定でもそんな言葉、言うもんじゃないわよ」「そうですね、では言い直しましょう。もし、伊邪那岐 や凄乃皇 を失っても大丈夫だと」「へ?」 彼が言い直した言葉をよく理解できなかった。「今回の作戦でG弾推進派は少しは大人しくなるでしょうが、付け込まれる隙があるとすればあの二機の存在。もし、あれに頼りきりでこの先いくつかのハイヴを落としたとして、彼らは必ずこう言う――『特定の機体に頼りきりになってこの先大丈夫なのか』」「!」 その言葉で理解した。先の作戦、あの二機の戦果は相当なものだった。それを万が一にでも失った場合、ようやく生まれた兵下たちの心の余裕もなくなってしまうかもしれない。そして、今の勢いを急速に失ってしまうかもしれない。 この考えをマイナス思考だとは思わなかった。あの二機は、人類反撃のための旗印である。それを失えば、表面上は大丈夫でも、いつかまた戦場に立ったとき、どこか言いようのない不安に駆られてしまうだろう。 あの機体に頼りきりになってはいけない。そのためのXM3、日々の鍛錬である。あれらの機体がある限り、その戦果に期待するのは当然だ。しかし、その戦力を頼みにする戦い方をしてはならない。 この男は、常に未来を見ている。一つの目的のために、あらゆる道を模索している。(……おっきいなぁ) それは、彼の体躯のことではない。彼の思い描く未来、それを目指す姿勢、その志(こころざし)、それらに感じたものだった。 その気持ちを心に思い浮かべた瞬間、ドクンと彼女の心臓が強く波打った。(……え?) 自身の身体の反応に、胸の部分に視線を落とす。ゆっくりと右手をあて、その鼓動を確かめた。いつもと同じリズムで、生命の鼓動を感じさせるそこ。それを確認してから顔を上げた。「……?」 そこには、不思議そうな顔をして水月を見つめる白銀の姿があった。そんな彼と視線が交わった瞬間、右手に感じていた鼓動がまた一つ強く波打った。(あ……) その気持ちを彼女は知っていた。忘れていた。思い出した。(……そっか) なぜ自分がこの感情に気づかなかったのか、いや気づかないふりをしていたのか。その理由は分かっている。(私は……恋に臆病になってたんだ) ――孝之。あれだけ好きだった男は簡単に死んでしまった。遙と一緒に告白をしようと決めた矢先の出来事だった。泣いた。涙が枯れるんじゃないかってほど泣いた。失うのが怖いんだ。 好きだと認めなければ、失ったとき自分にとってダメージが少ないと無意識にとっていた防衛行動だったのかもしれない。でもそれはもう無駄なんだ。認めようと、認めまいと彼の存在は自分の中で大きくなり過ぎている。「白銀……あんたあの日に言ってたわよね? 『強くなってください』って……」 二ヶ月前のことを思い出す。下を向いていた視線を上げて彼の顔を正面から見つめた。「私は……強くなれた?」 彼は視線を逸らす事はなかった。至近距離で見詰め合うという行為、あまり長時間は心臓が持ちそうにない。 彼はすぐには答えず、言葉を選んでいるようだった。構わない。どのような言葉でも受け止めるつもりでいた。 やがて、彼は悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべて、「――‘まだまだ’ですね」 そう言った。 彼は簡単には認めてくれない。そのことを水月は心にしっかりと刻み込んだ。「いいわ。いつか絶対、あんたにほえ面かかせてやるんだから」 私がこいつの支えになれるその時まで……。「頼りにしてます」 彼は満面の笑みで答える。それを水月はまぶしそうに見つめた。 道は長く険しい。けれどたどり着く先は見えている。後は自分が足を止めないだけだ。 水月は桜の前で、決意を新たにした。(……孝之――さよなら。ありがとう) そして、決別した。◇ ◇ ◇ 基地前の桜で先任たちに作戦の成功を告げ、その後、その前で速瀬と別れた武。再び90番格納庫へ戻り、伊邪那岐の戦闘データをまとめていた。 これはのちに開発する機体などに大きく役に立つ情報であるので、しっかりと責任をもって完成させる。その膨大なデータは、今日一日でまとまるはずもなく、キリのいいところでその日の作業を終えると、すでに時間は夜に差し掛かっていた。いつもならこの時間はPXで夕食だ。 あの整備兵も一緒に誘ってみたのだが、本人は乗り気だったが、その首根っこを整備班長に掴まれ、連行されてしまった。「あ~う~白銀少佐~」と言葉を残してずるずると引っ張られていく姿はドナ○ナをつい口ずさんでしまう光景だった。どうやらまだまだ仕事は残っているようだ。武は仕方なく一人でPXへ向かうことにする。 アーリャや霞はなにやら用事があるということで桜の木の前で別れたが、あれから数時間たっても一向に武の元にやってこなかった。秘密と言われたが、一体何をやっていることやら……。 A-01のみんなは、今日の夜は空いているのはずだからおそらくいつもの時間より早くに夕食は食べ終わっているはずだろう。今日は一人寂しい夕食になるだろうと予想して、武はPXへと向かう。 いくつものドアを抜け、エレベーターを乗り継いでやっとやってくるPX。今日は何を食べようかなーなどと考えながら、PXの入口までやってくると、「あ、やっと来た」 そこにはアーリャがいた。その言葉から察するにどうやら武がやってくるまでずっと待っていたらしい。「あれ? まだ食べてなかったのか」 その言葉に彼女は頷く。「ん……タケル待ってた」 たった二人の寂しい夕食になるため、別にわざわざ待っていなくてもよかったのだが。「用事は終わったのか?」 そんな武の言葉に、フルフルと首を左右に振る。彼女は、武の後ろに回りこみ、その小さな手で、ぐいぐいと武をPXの入り口のほうへと押し始めた。「ほら、早く早く!」「あ、おい……」 なにやら急かす彼女に押されて、わけがわからず、PXに一歩を踏み入れたそのときだった。「「「「「白銀少佐! 誕生日おめでとう!!」」」」」「……へ?」 そこにいたのはA-01の面々だった。 どこからもってきたのかクラッカーを鳴らし、テーブルの上にはいつものメニューにはない多くの料理。クラッカーから飛び出した紙吹雪や紙テープが状況を理解できずに固まる武の頭に降り注いだ。 そんな彼の元へ、満面の笑みでたまが近づいてくる。「鑑さんから聞きましたよ! たけるさんの誕生日って12月16日だったんですね!」 たまが、武の腕をとった。そしてそのまま一番料理が集中している一角へと連れて行かれる。テーブルの周囲は椅子が片付けられていて、立食形式での食事となるらしい。よく見ると、酒の瓶もいくつか見受けられた。「ほら、みんなが無事に帰ってきたことと、佐渡島ハイヴの陥落……ついでにあんたの誕生日を祝うのさ!」 おばちゃんが新たな料理を運んで来て、武の背中を叩く。その強さにせき込みながら、純夏の方を見た。彼女ははにかんだ笑みを浮かべ、武を見返した。「た、タケルちゃんの誕生日だもん。私は絶対に忘れないよ」 その言葉が強く心に響いた。 せっかく彼女が提案して、みんなが自分のために開いていくれたパーティーだ。また白銀自身も甲21号作戦の成功をみんなと何らかの形で祝いたかった。すると今回のこれは絶好の機会ではないか。「あ……えっと、その……ありがとう」 だが、この世界に来てからというもの、誕生日を祝うということに疎くなっていた武にとっては本当に驚きで、とっさにそんな言葉しかでなかった。 それにこのパーティー、さっきおばちゃんが言っていたように佐渡島の陥落やみんなの無事を祝うためのものでもあるのだろう。それでもついでとはいえ、自分の誕生日を祝ってもらえるとは嬉しいものだ。「あれータケル……照れてる?」「て、照れてない!」 美琴のその指摘は図星だった。これだけの人数に誕生日を祝われることなど初めての経験だった。武自身は認めたくないが、その顔はかすかに赤くなっていた。その顔と慌てた態度からA-01の面々にはバレバレである。「「「「「「「「か~わ~い~い~」」」」」」」」「う、うるさいぞ!」 純夏、アーリャ、彩峰、たま、美琴、茜、柏木、速瀬が一緒になってそんな武の様子を茶化す。台本でもあるんじゃないかと疑うぐらい息がピッタリなその言葉に顔を赤くして、慌てて反撃する武に対して、場がどっと湧いた。 このままではおもちゃにされる。唯一の男である武は本能で悟った。 一度咳払いをして、机の上のグラスを手に取る。すぐに風間から、そのグラスに飲み物が注がれた。 武のそんな行動に、各々がグラスを手に取り、全員のグラスにそれぞれ飲み物が注がれた。そのあとで、全員の視線が武に集中する。そこで、一度気分を切り替えるために、再び大きく咳払いした。「必死、必死」「彩峰、うるさい」 彩峰のそんな茶々をなんとか流して、「えー……今日は俺のために、こんな素敵な場を用意してくれて、感謝します。まあそれはついででいいので、今日はみんなの無事を、作戦の成功を祝って、食って飲んではしゃぎましょう!」 武の言葉に歓声が沸く。それがひと段落すると、武は手にもったグラスを頭上に掲げた。「それでは、」 全員が手にもったグラスを中央に集める。武はグラスを勢い良く突き出すと、「――かんぱーい!」「「「「「かんぱーい!」」」」」 そのグラスに向けて、それぞれのグラスが触れ合う小気味良い音とともにパーティは開始された。 このときは、あんな惨劇になるなんて考えもしなかった。◇ ――数十分後。「……で? なぜに俺は椅子に縛り付けられているのでしょう?」 どこから持ってきたのか麻縄で椅子に縛り付けられている武。 どこから様子がおかしくなったのか。……そうだ。だれかが酒の瓶を開け始めた辺りからだんだんと様子が……。「んふふ~……しーろーがーねー」「は、速瀬中尉……!」 身動きのとれない武の前に酒の入ったグラスを片手に速瀬がやってきた。その顔は赤く、万面の笑みで、100%酔っている。 そんな彼女は武の前に仁王立ちすると、ビシッと指を突きつけて、「――さあ、いやらしい本をどこに隠したか白状しなさい!!」「ちょ、ちょっとー!?」 絡みモード全開だ。以前の純夏の話をまたここで掘り返してきた。あれは、元の世界の純夏の記憶であり、この世界の武はそのような成人指定の書籍など持っていない……持っていない。「アーリャ、’心を読むな’」 小声で一応保険をかけておく。も、持っていないったら持っていないのだ。「ほらぁー! さっさと白状しろー!!」 武の両肩を掴んで前後に激しく揺さぶる。体が固定された今の状態ではかなり気持ち悪い。顔が速瀬に近づくたびに酒の匂いが鼻を刺激する。このぶんではだいぶ飲んでいるらしい。「む、宗像中尉―!!」 こうなったこの人を止められるのはあの人以外にいやしない。武は必死に助けを求めた。そして宗像がいる方向を見て目にした光景。「――!」 それに一瞬浮かれた気分を吹き飛ばされそうになる。 一人、輪から外れ、テーブルの一番端で目立たぬように手にしたグラスに視線を落としている彼女。「……!」 あのような表情をした人を何人も見てきたことがある。また自分がそう言った顔になることも多くあった。なぜ彼女がこんな表情を……。「ん……なんだ白銀?」 そのとき、武の視線に気づいた宗像が顔をあげた。その一瞬で、彼女は表情を切り替え、負のイメージを払拭した。「え、……いや、その」 だが、武の目はさっきまでの表情を引きずり、目の前の陽気に笑う宗像とぶれて重なっていた。表と裏。それを同時に見ている気分だった。「宗像、あんたも手伝いなさい!」 だが、速瀬は酔っているためか、その宗像の様子に気づくことがない。宗像は隣にいた高原から事情を聞くと、「それは面白そうですね」 いつもの人の悪そうな笑みを浮かべて、武のもとへとやって来た。「ほら早く白状した方が身のためだぞ……『持ってない』と主張していて見つかった時が一番周りの視線がつらいんだ」 ……今でも十分きついと思うのは武の気のせいだろうか。「お前が好きなのは何だ? 巨乳? 貧乳? それとも手に納まるぐらいのがちょうどいいのか?」 それぞれ自分がどれに当てはまるのか理解しているのだろう。それらの単語が宗像の口から出るたびに、‘そのサイズに該当する者たち’がピクリと反応して何気なく武の反応をうかがった。 ……たぶんどれを答えてもひどい目に合うと思う。彼の本能がそう告げていた。「正直に答えたら、速瀬中尉がこころよくその胸を貸すそうだ」 この言葉は慣用句的な意味合いではなく、その言葉の物理的な意味を指したのだろう。速瀬は、それを聞くと、自分の腕で胸元を隠し、アルコールとは別のもので顔を赤くしながら慌てて武から距離をとった。「そ、そんなことしないわよ!」 このままでは埒が明かない。そこで武は助けを求めることにする。「か、風間少尉―!」 速瀬中尉には涼宮中尉、宗像中尉には風間少尉にストップをかけてもらう。風間少尉タスケテー! 一縷の望みをかけ、その名を呼ぶ。だが、少し離れたところで食事をとっていた風間は、「あら、私も聞きたいですね」 と柔らかな笑みを向けてきた。どことなくその笑みにプレッシャーを感じるのは気のせいだろうか。「なっ!?」 ――し、四面楚歌! 最近こういう場面で風間少尉が助けてくれません。なんで? どうして?「ス、スカル1よりCP! 敵に囲まれています! 味方にも裏切られて絶体絶命! 支援砲撃要請!」「遙も知りたいわよね~」「う、うん」 くっ、CPも敵に落とされたか!? 戦場にただ一人となってしまう。 そもそもここにはアーリャや霞もいるのだ。教育上よろしくないことは聞かないでほしい。と思いつつ、その二人の様子を見ると、二人とも自分の胸に視線を落とし、ポンポンと触っていた。そして……落ち込んだ。まさしくズーンという擬音が似合いそうな姿である。 ……大丈夫。君たちまだ若いんだから。まだまだ大きくなるって。というか二人とも成長した姿はなかなかのものである。 と、そこへお玉をもった天使が現れる。「ほら、あんた達! 新しい料理できたよ!」「お、待ってましたー!」 速瀬がその言葉にすぐ反応する。湯気を立てる料理とその匂いから、A-01の面々はすぐにその新たな料理に群がった。 そのことに、ホッと胸をなでおろす武。しかし、すぐに自分の今の状況を思い出す。「だ、誰か解いて! 俺も食べたい!」 だが、その言葉は誰の耳にも届かなかった。 そしてさらに数十分後。「タ~ケ~ル~……ん~~」 縛られた武の前に来て、向かう合う形で膝の上に座った。そして、そのまま甘えるように武の胸に頬ずり……いやいやおかしい。 アーリャがこんな甘え方を衆目の前でやるわけ……って、そんな彼女からかすかに酒のにお――「だ、誰ですかー!? アーリャに酒を飲ませたのは!?」「宗像よ」「速瀬中尉だ」「あんたらかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 犯人は二人組でした。しかも互いに互いの罪をなすりつけ合っている。 アーリャはひとしきり武の胸に頬ずりすると、満足したように武から離れ、再びテーブルの方へ向かって行った。「……ってアーリャそれジュースじゃないぞ! お酒!」「……白銀さん」 そう言って次に武の前に来たのは皿と箸を持った霞だった。皿の上にはテーブルの上にある様々な料理が山盛りになっており、どう考えても小食の霞が食べられる量ではない。 すると、霞は武の隣に椅子を持ってきて、そこにチョコンと座ると、皿から箸で料理を一品つまんで、「……あ~ん」 そう言って武の口まで運んでくれた。「か、霞……」 なんと優しい娘だろう。パーティーが始まってあれよあれよという間に縛り付けられていた武。この状態ではテーブルの上の美味しそうな料理の多くなど食べられるはずがない。しかもこの縛り付けられた状態から様々な人に絡まれる始末だ。今ここにきて、差しのべられた優しさに武は感動する。「ありがとう……いただくよ」 そして差し出された箸にくらいついた。口の中に広がる合成食材の味。その味は、おばちゃんが今日のために用意してくれた特別な味ということを差し引いてもとてもおいしかった。「……あ~ん」 また霞が差し出してくる。それにすぐに食いつく。「……あ~ん」「ん……ごめん。まだ口の中に残ってるから」 そんなに武に食べさせてあげたいのか、早々に差し出される料理。その霞の一生懸命さに微笑ましさから笑みがこぼれる。 ……だが、「……あ~ん」「ごめん、まだ飲み込んで――」「……あ~ん」「いや、だから――」「……あ~ん」「か、霞?」「……あ~ん」「……」「……あ~ん」 よくよく見ると、霞の目は少しだけトローンと……、「だ、誰だぁあああああああ! 霞にも酒を飲ませたのはぁあああああああああああああ!」「宗像よ」「速瀬中尉だ」「わかってたよ! どうせあんたら二人だってことは!」 互いに指差し合ってんじゃねえよ! 霞も飲んでしまっているということは、すでにほかのメンバーもやられてしまったと考えてもいい。その推測に、再び霞に入れられた料理に口をもごもごさせながら辺りを見渡すと、「最近の~、茜ちゃんはー『白銀、白銀』って白銀くんのことばっかりだべ!」「そ、そんなことないってば! っていうか、多恵! なまってる、なまってる!」「ほら、多恵……もう一杯」「晴子! ニヤニヤしながら多恵にお酒すすめないでってば!」 なにやら築地に絡まれている茜。「茜ちゃんもお年頃だからね~(ニヤニヤ)」「た、高原……! わ、私知ってるんだからね! 高原と麻倉の二人! ――がねの声、戦術機の起動音に設定してるでしょ!」「「え゛!」」「あ、私も知ってる。整備兵に不知火のレコーダーから声とってもらうようにお願いしてたの」 なにやら標的が高原と麻倉の二人に移ったようだった。「ボクにもそのジュースもっとちょうだーい!」「にゃははー、タケルさんが3人いるー」「違うわよ、珠瀬。4人よ」「榊も酔ってる? 白銀は……6人」「……全員酔っておるようだな」 ほぼ全滅の元207B。「アーリャちゃんそろそろ一人で寝れば―? 部屋はいっぱいあるんだから」「や」←(嫌という意味らしい)「む……あのね、タケルちゃんだって――」「や!」←(絶対に嫌という意味らしい)「もー! アーリャちゃんずるいよー!」 あかん。アーリャが酒入って幼児化しとる。「ふふ……みんな酔いすぎるなよ。では、私も……」「神宮司大尉! この料理絶品ですよ!!」「ん? ああ、後でいただ――」「ほらほらおばちゃんが新しい料理を! うわーいつもはみたことないメニューばっかり」「いやそれより私にも酒を――」「(いいか! 絶対に神宮司大尉にアルコールを取らせるな! これは副司令からの第一級の命令でもある!)」「「「(了解!)」」」 コールサイン:マッドドッグ1相手になんとか酒を遠ざけている数名。 ……もうなにがなんやら。武は目の前で繰り広げられる惨状にため息をつきながらも、笑みを浮かべていた。今こうやって馬鹿騒ぎができるのも先の作戦を無事乗り切ったからだ。いままでの苦労を考えるとこれくらい羽目を外しても許されるだろう。 しかし、それに自分が参加できないというのは悔しい。これでは一方的に絡まれるだけだ。武はなんとか自分を縛りつけている縄から抜け出せないかともぞもぞしていると、「――タケル、今ほどいてやる」 そう後ろから声を掛けられた。そして同時、後ろ手に両手首をくくっていた縄がスルリと解ける。続いて体を縛りつけていた縄もすぐに解かれた。 ようやく自由になった両手をさすりながら、助け出してくれた相手に声を掛ける。「冥夜……お前は酔ってなかったのか」 彼女からは酔った雰囲気は感じられなかった。「ああ、私はそなたに言いたいことがあったからな」 言いたいこと? と首をかしげながらも皿と箸を手に取り、早速料理の山へと向かっていく武。しかし、料理の一品目を手に取ったとき、ある事実を思い出した。「そういえば、12月16日っていえば、お前も誕生日だろ? いいのか、俺だけ祝われて」 武の言葉通り、彼と冥夜の誕生日は同じである。ただし、今回祝われているのは武のみである。みんな一応は彼女にも祝福の声をかけていたが、あくまでメインは武である。そのことに武は、少しだけ申し訳ない気持ちになった。「いいのだ。私は……私は、あのときのそなたの言葉だけで十分だ」 冥夜は胸に手を当てて、目を閉じた。それは何か大切なものを思い出しているようだった。「しかし、武と私の誕生日が一緒だったとはな……」 教えてくれてもよかったではないか、と少し機嫌を損ねたフリをする冥夜だったが、そのあとすぐに少しほほを赤くして、「私はその偶然が……とても嬉しく思う」 冥夜にしてはわりとがんばったアプローチ。しかし、冥夜がその発言をした瞬間、「あーずるい! 御剣さんが抜け駆けしてるー!」「「「「「なにぃいいいいいい!?」」」」」 純夏の一言に、場が騒然となる。全員の視線を一点に受けた冥夜は、あわてふためきながら、「ぬ、抜け駆けとはどういう意味だ!? わ、私はただ、タケルに感謝の言葉を伝えようと――」 赤い顔のまま、慌てながら武のほうを見る。だが、そこには後ろからアーリャに耳を塞がれた武がいた。「……抜け駆け、ダメ」 ジト目で冥夜を見るアーリャ。その姿にたじろぐ。アーリャに耳を塞がれている武は、何が起こっているのか理解できていないのか、呑気に首をかしげていた。どうやら、先ほどの冥夜の言葉は届いていないようだった。 ようやくアーリャが離れ、聴力が戻った武。何を言ったんだ、と冥夜の必死の覚悟も知らないような態度に、冥夜は自分だけ緊張していたのが馬鹿のように感じた。「……私も酒を飲ませてもらおう」「え? お前まで飲んだらこの惨状どうすんの?」「知らぬ。そなたが悪い」 そう言いきって、ツーンと顔を逸らす。顔を不機嫌そのものしながら、手に取った酒瓶からグラスに酒をついだ。「あ、あーあー」 武はこのとき覚悟を決めた。この惨状……オレがどうにかするんだろうなぁ。 この日、彼女たちは久しぶりに、そして盛大に楽しんだ。また、誰もが、またこんなうまい酒を飲めることを願って、そのパーティーは深夜まで続いた。◇ ◇ ◇ 深夜。横浜基地、兵舎へと続く廊下を二人に人物が歩いていた。「う、う~~ん」「ほら水月、しっかりして。 後で、お水あげるから」 PXでのパーティーもいつのまにやらお開きとなり、酒に酔い潰れたメンバーを素面組が順次部屋に送っていた。 遙もそんな一人で、完全に酔いつぶれた水月に肩を貸して基地の廊下を一路部屋にむかっていた。親友の水月は酒に弱いくせに、今日はずいぶんと飲んでいた。そしてずいぶんとある青年に絡んでいる姿が見受けられた。「水月、今日は白銀少佐にずいぶんと絡んでたね」 酒を飲むとだれかれ構わず絡むという酒癖の悪さを持つ水月だが、今日は特に彼に集中していた。……エッチな本の隠し場所について。(……ほ、本当に持ってるのかな?) 一人で考え、勝手に赤面する。そんな彼女に、先ほどまで呻き声しかあげていなかった水月が静かな声で言った。「遙……覚えてる? あの約束」 その声がとても落ち着いたものだったため、一瞬彼女の酔いが冷めたのかとも思った。だが、未だ顔は赤く、足取りも不安定だった。「約束……?」 遙と水月は、二人である約束を交わしていた。鳴海孝之という男を失った二人が交わした約束。それは忘れることなどありはしない。だが、今ここでその話題を出される意味がわからない。 先の作戦前にも彼女の部屋で彼との思い出を笑いあいながら話していたばかりだ。笑いながら……そう私たちは彼のことを笑いながら話せるようにまでなった。 相手は今完全な酔っ払いであるので、意味があって口にしたのではないかもしれない。 掛ける言葉を迷っているうちに、水月のほうが先に言葉を発した。「まだ戦いは終わってないけど……私は見つけたわ」 それは、遙に語りかけているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。「……え?」 困惑の声を上げる。しっかりと彼女の言っていることは聞こえていた。だが、その意味をすぐに理解できなかった。「遙、あの勝負……私の勝……ち……」 そう言い残して、彼女の意識は夢の中へと消えてしまった。「――水月……」 そんな彼女を、深刻な顔で見つめる遙だった。 つづく(二話同時更新)