まあ、これからおぼえていけばいいじゃないか。
失礼な台詞です。こう見えても私の思考速度は彼と比して十数倍。記憶容量はそれ以上だというのに。
まったまった、それはさとうだってば。しおはそっちのたなだよ?
む、む。これはそのですね、そう、ささやかな失敗というやつです。第一砂糖と塩との見分け方と物覚えのよさは別問題ではありませんか。訂正を要求します。
ああ、そのちょうし。うまいじゃないか。
当然です。私はあなたの一番弟子なのですから。
おやすみ。―――ちゃん。
おやすみなさい、―――さん。また、明日、頑張りますから。
私はもう、少女じゃないのです。
あなたの役に立てる。
あなたの隣に立てる。
あなたを、支えていける。
私はもう、少女じゃない。
だけど、私が少女でなくなったときに、あなたの背中はどこにもなくて。
だけど、私が少女のままであった頃に、あなたの心は絶望にまみれて。
目が、覚めて。
何もかもがとうに手遅れである事を思い出して、私は毎朝の日課のように、何の感慨も沸かない涙をこぼしている。
沈む朝日のその先に。
結局のところ、テンカワ アキトという男は女を泣かせるイキモノなのである。
「…………ハァ」
深々とため息をつき、エリナ=キンジョウ=ウォンが恨めしげに目前のカプセルを睨み上げた。正確には、薄い緑色の液体に漂う青年を。
「…………………」
彼は黙して語らない。否、そこに意識がない。その細胞の一片までを不凍体に包まれて、半永久的な眠りについているのだ。
その足元、ライフラインパイプの密集するそこに、ぼんやりとした眼差しの桃色の少女が臥せっている。その存在は彼が事実上の『死』を迎えて727日を数えた今日まで、ひと時も離れていない。
その娘の名は瑠璃石の影、ラピスラズリ。
テンカワ アキトのために生きることを願い、そしてテンカワ アキトのため以外に生きる事の出来ないマシンチャイルドの宿業を負わされた少女。かつて強襲艇を駆った細く小さかった手足はすらりと伸びてガラスを覆い、わずかではあるが膨らんだ胸元を押し付けるさまはまるで我が子をいとおしむ母親のよう。そして金色の瞳を見るものの印象に焼き付ける整ったかんばせが浮かべるのは、その異常な状況にさえ目を瞑れば、表情だけは恋する乙女と変わらない。
彼女の名はラピスラズリ。
絶望に蝕まれ、希望に解けて、虚無の果てに心を奪われた瑠璃石の影。
蛇足のようにエリナはもう一度嘆息をこぼす。後悔が何を生み出す事などないと、わかってはいる、わかっては、いる、けれど。
歪んでいく。まずは視界。そして思考。感情、記憶、彼へと抱いた熱情さえも。
憎らしい、憎らしい、憎らしい。彼はたった一人の女の為に、他の全てを奪っていった。誰の手も届かない、遥か遥か遠いところに。
憎らしい、憎らしい、憎らしい。誰も幸せになどなれなかった。結局彼は、誰の手の中にもあの優しい気弱な笑顔だけを置いて逝ってしまった。
だけど、誰よりも、何よりも憎むものは。
今、きっとどこかで幸せに生きる、何も知らずに我が世の春と生を謳歌する、全てを忘れたあの女。
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使い古されたネタ、でもリクエストにお答えするのがまいぽりすぃ。