自らの境遇を嘆くのは、随分と前にやめた。うずくまって自らの不幸に涙するだけの惰弱な男は、最早どこにもいない。
五感を奪われたこと。妻を奪われたこと。悲しみは怒りへと転化され、怒りは憎悪を呼び彼は復讐の鬼となった。
もう二度と戻らない視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。しかし妻だけは取り返した。実行犯を打ち破り、殺し、首謀者は捕らえた。
彼は復讐を完遂したのだ。その彼、アキトは今。
ガレージのシャッターが騒々しい音を立てて巻き上げられていく。現在午前9時半。あまりに朝早すぎるのは反感を買うから、午前中は今くらいの時間から正午までの2時間半ほどがちょうどよい。
助手席のドアを開け、まずはルリが車に乗り込んだ。彼女のかざした左手のIFSが一瞬の輝きを見せ、ナビゲーションシステムが起動、今日の午前中のルートがざらっと表示された。
この車は見かけこそ市販の小型キャンピングカーだが、その実態はとんでもなく金がかかったVIP仕様だ。陽光を受けて鈍く光る車体は宇宙戦艦装甲からの削りだし、操縦設備はエステバリスのコアシステムを移植したもので、非常時脱出用にディストーションフィールド発生装置とCCの両方を装備している。警察と宇宙軍による合同警備の中で襲撃を受ける可能性はほとんどないが、アカツキは保身のためには金を惜しまない。
ルリに続いて乗車したのはメグミだ。スライド式の後部座席ドアをガラリと引き出し、颯爽とした足取りでステップを昇る。今日の装いは薄いベージュのスーツだ。合わせて赤いベレー帽を頭に載せている。
後部座席中央天井のサンルーフを改造したお手振り用窓の下には、準備万端とばかりに人数分のタスキが置いてあった。
打ち合わせで納得済みだが、思わず眉をひそめた。売れなくなった歌手は、こういうタスキをかけて地方の観光地巡りをして糊口をしのぐのだ。近い将来、もしかしたら自分もそうなるかもしれない。気が進まない。
こんなダサいものを身に着けるのは嫌だ、と拒否するのは簡単だが、それはメグミのプロ根性が許さない。歌手の仕事だって、宣伝のためなら嫌味な司会がいる音楽番組にだって出たし、評判はいいが気難しい作曲家のところには菓子折りを持って頭を下げに行った。だからこそメグミは大成したのだ。
我慢よメグミ、これは新しい仕事、そして次の段階へ進む試練なのよ。
自分に言い聞かせ、ぐっと奥歯を噛みしめてメグミはタスキを肩にかけた。
化粧直し用の姿見に体を映して、メグミはため息をついた。
上品なスーツとタスキのミスマッチがどうしようもなく間抜けだった。年若い少女たちのファッションリーダーを務めるメグミが、それはもう無残なものである。
落胆するメグミを尻目に、最後にアキトが運転席に座りって座席位置を調整、メグミと同じタスキを掛けてからシートベルトをしっかりと装着する。
45度首をひねって回し、ルリも同じタスキをつけてシートベルトをしているのを確認。さらに20度首をひねり、メグミのシートベルトも確認。
安全確認したアキトは右手のIFSから、車に命令を流し込んだ。
徐行前進
車はそろそろと動き出し、ガレージを抜けて公道に乗り入れる。
照りつける陽光の眩しさに、メグミは額の上に手のひらで覆いを作って目を細めた。快晴の今日は格別に日差しが強い。
紫外線は窓ガラスで完全にシャットアウトされているが、光線の強さは調整されないようになっている。メグミは数秒で目が慣れたが、ルリはたまらずに涙を流してしまった。手をかざして目を覆って耐えていると、横からすっと、運転中のアキトが無言で手を差し出した。
アキトがいつも顔にかけている、黒いバイザーが握られていた。おそらく予備だろう。
少し躊躇ってから、ルリはバイザーを受け取って顔にかけた。礼は言わない。
ルリが入力したルートにしたがって車を走らせ、最初のチェックポイントにたどり着いて一旦停止すると、あらかじめ呼び集めておいたメグミ親衛隊がハッピを羽織って歩道を占拠していた。
こんな異様な集団が警察に捕まらずに粛然としていられるのは、平和的なデモを行う旨、当局には通達済みだからであり、かつ、このようなマニアック集団を統率する手腕に長けたウリバタケが仕切っているからなのだ。
メグミが先頭にいるウリバタケを見つけて、ハンドサインを出した。
メグミのサインを読み、卸したてのファンクラブ限定MEGUMIロゴ入りスニーカーを履いたウリバタケは、見せびらかすよう片足を一歩前に踏み出して、側の腕をグルっと大きく回して振り上げた。
「せっぇーの、」
予定通りである。
「メッグッミチャーーーーン!!!」
「うぉおおおおおぉぉぉぉおお!!!」
それは打ち合わせと違う!
メグミは慌てて車内窓からウリバタケの方を向いて、腕を交差させてバツマークを作り首を横に何度も振った。
何がだめなのか分からないウリバタケは、メグミを見ながら腕を組んで首をひねったが、後ろから忍び寄った副隊長に耳打ちされて、おお、と頷いた。
そうだったそうだった、と照れ隠しに頭をポリポリと掻いて、片手を立ててメグミを拝んだ。
気合を入れなおすように額のハチマキをぎゅっと引き絞って両腕を腰の後ろで組んだ。もう一度大きく息を吸い込み、その細い体に不似合いな肺活量を駆使して大声で叫ぶ。
「がんばれ~アカツキ~!!!」
ウリバタケの音頭に合わせ、歩道を埋め尽くすメグミ親衛隊たちが、うぉおおおと背をいっぱいに伸ばしてしゃがんでウェーブを作って波打ち、寄せて返してどよめく。
ルリのIFSから信号が流れ、車の天頂に設置してある立体投影装置が稼動を開始、アカツキ選挙事務所のタスキをかけたメグミが、大写しになった。スピーカー電源オン。
メグミはにこやかに親衛隊に笑いかけ、声優業と歌手業で鍛えた喉を使い、お決まりの宣伝文句をよく通る大きな声でささやいた。高等技術である。
「アカツキ・ナガレ、アカツキ・ナガレを~よろしく~お願いしま~す~!!!!」
ウグイス嬢メグミ、ここに爆誕す。
メグミがアカツキから受けた依頼とは、アカツキの選挙公報の仕事だったのである。
メグミに握手を求めて車道に飛び出してくるファンがいないのを三重に確認し、アキトは車を徐行発進させた。
「ご声援ありがとうございま~す!皆様の、アカツキ・ナガレでございま~す!よろしくお願いしま~す!」
そう、つまりアキトは今、選挙カーの運転手をやっているのだった。
シャトル事故以降、何がいったいどうなったのか。
唐突に発表されたアカツキの補欠選挙立候補宣言という大ニュースは報道陣に大きな衝撃を与えたが、一人だけ事情を理解していた記者が独占状態で質疑応答をしている間に、大方は立ち直っていた。
なるほど、経済の巨人が政界に乗り込むというのは一大事だ。アカツキの知名度と資金力があれば、勝ち抜くことも難しくないかもしれない。政界で起きている一大粛清劇の中に、新たな変数が加わることだろう。
しかし、今はそれよりもメグミの恋愛の話のほうが大事だ。それが目的でこんな洋上までやってきたのだから、何をおいてもメグミのコメントをもらわなければ帰れない。
男との関係を洗いざらい吐かせるのは無理としても、せめて交際宣言くらいは聞かなければ、仕事ができない奴のレッテルを貼られてしまう。
記者たちは一応熱心にアカツキの話を聴きながらも、アカツキの横に行儀よく座っているメグミと、その隣のアキトに視線を注ぐことを忘れなかった。
あの男の身元もはっきりさせねばならない。ボソンジャンプを伴わない短距離旅行とはいえ、地球月間連絡艇に身元を隠したままで搭乗予約をとれる人間は限られている。そこらの実業家や地方の名士程度の権力やコネでは、宇宙航空のルールを逸脱させることはできない。おそらく軍関係者、あるいは統合政府のエージェントか?
アカツキの立候補への抱負を聞き出した政治部記者の質問が終わると、次はようやくメグミの番だ。記者たちは身を乗り出してメグミの話を聞きにかかったが、アカツキがそれを手で押しとどめた。
「諸君らの聞きたいことはわかってるよ、メグミ・レイナード嬢のことだろう?残念だけど、シャトルの個室で何を話したかは教えられないね。彼女と相部屋だったのは僕の選挙スタッフでね、メグミ君に選挙協力をお願いしてたのさ。部屋で話してたのは細かい契約条件のことなんで、この場で教えるわけにはいかない。どうしてもっていうんだったら、正式に選挙事務所を開いてから事務へ連絡をくれるかな?」
芸能人が選挙協力をするというのは、多くはないが皆無なわけでもない。特に芸能人が信仰する宗教から立候補者が出る場合は、積極的な応援をすることもある。逆に言うと、芸能人が選挙に協力するのは宗教がらみの理由が多い。
重力を制御し、時間の手綱すらも握ろうとするほどに科学が発達しても、人類は未だに霊魂の痕跡すらも観測できていない。
にもかかわらず、宗教の信者が減る気配はない。
人々が求めているのは、真理の探究ではなく人生の指針だということだろう。
宗教関係者は己の信じる教義を政策に反映させるためにそれぞれに候補者を立てて選挙を戦い、その際には歴史の短い新興宗教ほど、わかりやすい選挙の広告塔を必要とする。白羽の矢が立つのは芸能人だ。歴史の長い三大宗教本流からの立候補者は、わざわざ芸能人に頼らなくても信者の多さと広く認知された教義があり、芸能人に頼ることはない。
結論を言えば、芸能人は新興宗教に利用されやすい。だから選挙に積極的な芸能人は胡散臭がられるし、実際に新興宗教特有の怪しいイニシエーションで薬物中毒になって、どこへともなく消えていくこともある。
メグミも毒牙にかかったか、と会場の記者たちは思ったが、アカツキは別に新興宗教の教祖でも信者でもない、はずだ。
確かめてみよう。
「アカツキ氏はどこか支援団体がおありでしょうか。たとえば政党や宗教団体、労働組合、その他の結社など」
「僕の支援団体はネルガルだね。ネルガルとネルガルの労働組合が選挙協力をしてくれることになってる。メグミ君は、ほら、一緒にナデシコに乗った仲だし、お互いに友人同士なんだよ。確実に当選するために、彼女の力が借りられないかと思ってね」
なるほど、友情が動機か。それは健全だ。あとはアカツキが立候補した理由が問題だ。突拍子もない理由であれば、アカツキに協力するメグミの扱いもこれまでとは変えなければならない。
「メグミさんはアカツキ氏が何を訴えて選挙に出馬されるか、ご存知なのでしょうか」
「もちろん伝えてあるけど、今ここでは話せないね。ネルガル系列メディアのニュース番組で生出演してそこで発表することになってるんだ。明後日の予定なんで、その後からなら何でも聞いてくれ」
結局、メグミ目当てでわざわざ特別に足を確保してまで集まった世界中の記者たちは、アカツキの立候補宣言のみを手土産に帰社することになったのだった。
以上が顛末だ。
二日後、アカツキは自らの宣言を破ることなく生番組に出演し、政策を語ってみせた。
「僕がまず訴えたいのは、統合軍の増強ですね」
聞き手となるのは、インタビュアーとして長年の経験を持つチヒリ氏だ。当年とって65歳。まだまだ現役である。
「ちょ、ちょっと待った。今貴方は僕の予想とは全然違うことを言った」
慌てたように少し早口だが、半分は彼の芸だ。こういう風に大げさにやるのがウケるコツである。
「僕はてっきり、元ネルガル会長という前歴を活かして財政改革をしようというのだと思っていた。だってヒサゴプランは償却が終わらないうちに壊滅しちゃったし、統合軍の物資は火星の後継者に奪われて回収もできてない。大赤字ですよ。民間経済だって、戦時下の規制でまだまだ循環してるとは言いがたい。ところが貴方はそうじゃないと言う。統合軍は火星の後継者の母体になった組織でもあるし、ついでに言えば、統合軍は治安維持法による戒厳令下にあるのを利用して、民間法人のネルガルに対して武力行使を含めた圧力だってかけた。その被害者である貴方が、統合軍を増強すると言う」
一旦チヒリ氏は言葉を切り、すぐに続けた。
「僕は逆の意見です。縮小して再出発するべきだ」
「チヒリさんの懸念は理解できます。財政難というのは事実ですが、僕は現在の財政問題は政治的不安定が招いた部分が大きいと認識しています。火星の後継者を名乗る反乱者を排除するだけで、市場取引量の大部分は戻ります。そして情勢安定のためには軍事力が欠かせません。統合軍の増強というのは経済政策でもあるんですよ。市場への政府による直接介入は可能な限り避けるべき、という経済学のセオリーを僕は守るつもりです」
「なるほど。軍備増強の理由はわかりました。でも宇宙軍の強化でもいいのでは?」
「統合軍でなければ駄目なんです。いいか悪いかの議論はさておき、地球と木連の統合は進んできました。その象徴が統合政府と統合軍だったんです。地球出身者が多数を占める宇宙軍が統合軍の不始末を決着させるのは、禍根を残します。統合軍自身が火星の後継者を潰すことで、地球と木連は再び未来志向の関係に戻れます。これは僕の公約と考えてください」
「すごい、大きく出た。じゃぁ、統合軍がネルガルに圧力をかけたことに対するアクションは何も無い?いや、あれは暴走気味だったとはいえ合法だったから、強くは追求できない。でも内部に反乱者を抱えていたことを軍警察は見抜けなかった。今後の対策はどうなるの?」
「それは別途考えています。具体的には、軍警察とは別に監察部の創設を提言します。軍警察の指揮権は統合軍本部ですが、監察部は統合軍本部とは違う指揮系統、議会直属の組織として、シビリアンコントロールの強化を図ります」
「そんなの無理だ。軍警察と管轄争いになって機能しませんよ!」
「無理だったら軍警察は潰して監察部に吸収しますよ。不祥事を起こしたんですから、再発防止のためには変えなくちゃいけないところは変えていきます」
口角泡を立ててチヒリ氏は反論した。
「アカツキさん、貴方は軍を舐めてる。議会直属ってことは、独立した指揮系統を持つってことでしょ?軍警察が嫌われながらも何とか機能するのは、警察でも同じ軍の仲間だって意識があるから、軍人たちも捜査に協力してくれるからです。外部の人間が強権を振りかざせしたって、誰も協力しませんよ。組織の中で孤立したら機能しない。それに誰を代表にするんです?せっかく表向き一枚岩にまとまってる統合軍なのに、そこへ地球人が監察に出てくれば木連出身者が反発するし、逆なら地球人が反発します。前大戦の軋轢が消えたわけじゃないんです。統合軍に亀裂が入りますよ!」
統合軍結成は地球と木連の歴史的な和解の象徴。マスメディアは設立理念に敬意を払い、こぞって讃頌した。チヒリ氏もその一人だ。反戦論者でもある彼にとっては軍隊の新設は本来は容認できないことだったが、二つの政府が別々に軍を持つよりは、一つに統合して政府別の軍隊を縮小する方向性は次善と考えていた。
アカツキが提案する監察部設立は、統合軍に内部分裂をもたらす楔だ。せっかくの統合軍が瓦解してしまう。再建どころではない。
「最初に言ったとおり、統合軍の不祥事再発を防ぐためにも、独立した指揮系統を持つ監察部の設立は統合軍再編成および増強の必要条件です。これは絶対に受け入れてもらいます。誰が組織の代表になるか、ですが、これは地球木連ともに絶対に納得するであろう人選を考えています」
「誰です?噂の電子の妖精ですか?彼女はネルガルに出向中だそうですけど、彼女だってうまくは行きませんよ。彼女に心酔する軍人も多い一方で、遺伝子操作への拭いがたい偏見は地球出身者には根強い。彼女では駄目だ」
アカツキは肩をすくめて苦笑した。ナノマシンや遺伝子操作への嫌悪感を煽ってきたのはマスメディアだというのに、まるで他人事のようなチヒリ氏の言いようは苦笑するしかない。
気を取り直して続けた。
「いるんですよ、地球出身者だろうと木連出身者だろうと、出自を理由に反発できない人間というのが。いや、その人物の出自ゆえに逆らえない、と言ったほうがいいかも」
「名前は?」
チヒリ氏は身を乗り出してアカツキに迫った。これはスクープになるかもしれない。生放送でこれを聞き出すことができたとなれば、視聴率も鰻上りだろう。
「名前を明かすのは時期尚早ですが、一言だけ。彼は火星出身者です」
腰を浮かしたチヒリ氏は、数秒間も目を見開き、なるほどそれは逆らえない、と呟いて背もたれに背中を預けて座り込んだ。
火星を見捨てた地球と、無防備の火星を襲って虐殺した木連。どちらも火星には負い目がある。非合理的な感情的反発を火星人にぶつけるのは困難だ。またとない人選である。
アカツキは長い足を組みなおして微笑んだ。
「そんな都合のいい人材がいたとは知りませんでした」
「いたんですよ。これ以上の細部の話を詰めていくのは当選してからの話ですね」
「強気だ。落選の可能性はないと?」
呆れるチヒリ氏。アカツキはもちろん、と、
「僕よりも選挙資金は豊富な候補はいませんし、ご存知の通り広報スタッフには今をときめくメグミ君に担当してもらってますので、認知度も非常に高い。既存の政界関係者は火星の後継者との共謀疑惑があって不人気ですが、僕は新人なので共謀疑惑とは無関係のクリーンなイメージで戦えます。事実、アンケート結果も良好ですから、当選は確実と思っています」
チャンスだ。チヒリ氏はパンっと手を叩き合わせた。
のっけから激しい口論になってしまった。視聴者のことを考えて、少し息抜きを入れるべきだろう。
チヒリ氏は話題の転換を図った
「そう、そういえばメグミさんが広報スタッフにいるんですよね。彼女をどうやって口説いたんです?」
・・・たった一人で統合軍改革なんてできるんですか? 出来もしないことを言って有権者を煽るのは政治家の慣習とはいえ、これはあまりにも酷い。実現の見込みなんてまるで無いじゃないですか?
・・・水面下では超党派議員連盟結成に向けて動き始めてる。まだ有力勢力とは言いがたいけど、昨今の不景気で資金不足になってる議員も多いので、僕からの資金提供を断れる人はいないと思いますよ。遠からず法案成立に足る会員数を集められるはずです。
・・・もしかして議員買収を告白してるんですか?
画面で激しく討論するアカツキを見ながら、ユリカとラピスはお菓子をむさぼっていた。ぼりぼり。
真面目な討論番組というよりは、イエロージャーナリズムの色彩が濃い主婦向けの番組で、ユリカも熱心な視聴者の一人だ。
「うわぁ、アカツキさん頑張るねぇ。この司会の人、ちょっと意地悪なのに」
ぼりぼり。
・・・選挙戦もそろそろ終盤です。噂の監察部代表就任予定者の名前、教えてもらえないですか?
・・・僕も会社経営なんてしてたから、いろいろと教訓を得る機会も多かったんだ。その一つに、自分の望みと矛盾することを要求する人間もいる、ってのがある。君たちメディアはその人物の名前を明かすことを本当は望んでいないんじゃないのかな? こうやって話のネタにするのって楽だしね。話題が同じでも視聴率悪くないんでしょ?
・・・教訓なら私も得ています。それは情報を隠すことで社会貢献するよりも、多くの場合は公開したほうが大きな貢献になるということです。我々メディアは情報公開をすることで社会に貢献してきました。
・・・芸能人の私生活暴露が社会貢献なのかどうかはさておき、これを新しい教訓を得るチャンスと考えるべきだよ。君たちが暴こうとしても暴けない秘密もあるってことさ。
「かっこいいなぁアカツキさん。でも本当、アカツキさんが考えてる火星の人って誰なんだろう?」
ぼさっ。ラピスが胸に抱えていたチョコバーの袋がカーペットに落ちた。甘い匂いがふわりと広がる。幸いにも中身はこぼれなかった。複雑に繊維が絡み合う高級カーペットなので、お菓子クズがこぼれるとクリーニングに出さなければ完全には汚れが取れない。
「私のことかなぁ。私って火星に住んでたし、軍にも詳しいし、適任だよね。女だけど、あれって匿名性を高めるための方便だと思うし。でもアカツキさんから話は来てないなぁ」
多分ではなく絶対に違う。火星出身で軍に詳しい男がアカツキの身近にいるのだから、彼が最有力候補だ。
「あ、ひょっとして!」
チョコバーの袋の口を掴んで持ち上げた。一本取り出し、口に運ぶ。柔らかいチョコの薄皮の下にキャラメルを混ぜ込んで香ばしく焼き上げたパイ皮を何十にも重ね合わせ、中心にはクリームとドライフルーツ。
甘い。
「イネスさんかな」
ぼさっ。ラピスは再び袋を取り落とした。しかも今度は落とし方が悪かった。袋が下を向いたまま落ちてしまい、細かい菓子クズがカーペットの繊維の隙間に入り込んでしまった。
「あ、気にしないで。大丈夫。ねぇ、客観的に見て、イネスさんと私だったら私のほうが適任よね。科学者が軍の監察をするのって変だもん。ラピスちゃんもそう思うでしょ?」
「うん」
イネスとユリカだったらユリカのほうが適任だ。間違いない。しかしそもそも2人は全く可能性が無いわけだが。
「私だったらどうしよう、困ったなぁ。私、テンカワラーメンのお仕事があるのに。失礼のない断り方を考えておかないとね」
ユリカとて護衛される身で士官候補生寮から一歩も外に出られないとはいえ、ダラダラ寝て過ごしているばかりではなかった。
アキトから送られてきた仕送りを元手にして、アキトの残したラーメンのレシピでインスタントラーメンを作って売る計画が進行中なのである。試食の評判は上場で、売り出すタイミングを待つばかりだ。
「あーあ、アキト早く帰ってこないかなぁ。料理人ができなくなったからって、ラーメン屋さんを諦める理由にはならないもんね。直接作るのとは違けど、インスタントラーメンを食べてもらうのだって、悪くないと思うから。喜んでくれるよね」
アキトが戻るつもりがないことを、ユリカに告げるべきか否か。ラピスはこの頃悩んでいる。
ラーメン屋の夢など、既に遥か遠い霞がかった過去の幻影になってしまったことを告げるべきなのか。
彼女は悩んでいる。
「宣伝はねぇ、メグミちゃんとホーメイさんのところの皆にやってもらおうと思うんだ。引き受けてくれるよね、友達だもん。あとはねぇ、私もお化粧して宣伝番組に出ちゃおうかな、キャ、恥ずかしい」
どうなるのだろう、これから。