圧倒的な勢いで有権者の支持を伸ばすアカツキ・ナガレは、ここ最近は選挙の勝敗については全く聞かれなくなった。当選確実との前評判がしっかり固まってしまい、いまやマスコミの関心はアカツキの当選後の戦略に移ってきている。
誰も証拠を掴めていないのでまだ報道されていないが、どうもアカツキが既存議員の買収を進めているようなのだ。また、火星の後継者との関係を疑われて失脚した議員の後釜を狙って補欠選挙に立候補した候補の多くが、アカツキから選挙資金の支援を受けているという情報もある。
多数派工作をやっているということは、金の次は名誉という古典的なステップを単に登ってるのではなく、実現したい政策があって政界を目指していると推測される。
何を目的としているのか、多くのインタビューアーが聞き出そうとするが、のらりくらりとかわされてしまっているのが現状だ。
撮影カメラが回っているところでは訊けないようなきわどい質問で尻尾を掴もうとする週刊誌記者もいたが、いいところまでいくと脇に控えた黒いバイザーの男に邪魔されてしまい、どうにもならない。
黒い男のことはアカツキを当番している記者たちの間では頭痛の種になりつつあるが、一方であの男こそアカツキの目的を探り出す鍵ではないかと見る向きもある。
ボディガードのSSたちとは毛色が違うし、かといって秘書やその他の政策スタッフと違ってアカツキとその手の話もしない。アカツキが移動する場合は運転手を務めることが多いが、ただの運転手にしてはアカツキとの距離が近すぎる。なんと黒い男は、記者たちの面前でアカツキの私生活への注意までしたこともある。
一般的な政治家の周辺には存在しない類の男だ。敢えてそんな男を傍に置いていることに、何か意味があるのではないか。
アカツキを難攻不落とみた一部の人間は、アカツキがゲイで黒い男が恋人である可能性まで考慮して、正体不明の男のほうからアカツキの内情を探り出そうとする動きまで出てきている。
全ては(ゲイだと勘違いされるのは除いて)アカツキの予定通りであった。
このごろのアキトはマントを着けていない。
首から下を覆う耐刃耐電耐熱耐冷防弾仕様のマントは、アキトの命をこれまでに何度も救った実績を持つ優れた防護装備であり、また武器を隠し持つのにも便利だったのだが、今の仕事では逆に危険を高めてしまうとの判断からだ。
アキトの仕事は護衛兼運転手兼その他なので、必然的にアカツキとともに報道陣に囲まれる機会が増える。身元証明がされている人間ばかりなので暗殺の危険はないしても、教育の行き届いていない手癖の悪いカメラマンは、隙あらば、または隙がなくとも、撮影の邪魔になるアキトのマントを引っ張って、少しでも見栄えのいいアカツキの写真を確保しようとする。
感覚補正を受けている間のアキトは多少引っ張られたところで姿勢を崩したりしないが、護衛の専門教育を受けた月臣に、護衛中に格闘戦にでもなったらマントは不利だから外せとの助言を受け、マントの着用を当面の間、少なくとも護衛をやめるまでは自粛することにしたのだ。
さて、そうやってマントを脱いだアキトを見てみると、人によっては寝巻きにも見えるような真っ黒のボディスーツのみで、少なくとも公衆にさらすのが適当と言える服装ではない。主役のアカツキのおまけでカメラに映ることもあるのだから、これは改善すべきだとメグミが肩をいからせて強硬に主張し、かねてからアキトは格好つけすぎだと思っていたルリも(自分のコスプレ好きは都合よく棚に上げて)メグミに同調した結果・・・。
アキトは背広を着ることになった。
ダブルでスリーピースのオーダーメイド。夜会にも出席できるようドレスコードにも準対応。当然、耐刃耐電耐熱耐冷防弾仕様で、ボディスーツと同じ諸機能を組み込んである。
色は結局黒にした。白や紺、グレーの定番を試してみたが、一番しっくり来るのは黒だった。
あれこれ試行錯誤して首から下を丸ごと高級衣装で包んでみると、次に目立ってくるのは手入れのされていない髪の毛だ。
伸ばし放題にせず、清潔に短く刈っているのは好感度が高い。おそらく料理人を目指していたころの習慣だろうとメグミは目していたが、櫛も通していないのは言語道断。専属のヘアメイクも抱えて身嗜みを整えるのに余念の無いメグミは、これを放置できない。
あのダサいバイザーはしょうがない、無いと生活できないと言うから見逃すとしても、これは何とかしなければ。
絶対に。かつ早急に。
少々畑違いになるが、インテリアデザイナーの前歴を持つ現・教師のミナトにもどんな髪型がいいか意見を求めて(授業中だったにもかかわらず快く相談に乗ってくれたらしい)、ビジネスマンらしく7・3分けか、軍人らしいクルーカットか、凄みが出そうなオールバックか、の3択にまで絞り込んだ。
ちょうどアカツキはしばらく戻らない予定だったので、時間が空いている。
何はともあれやってみようと、とりあえずオールバックにしてみた。
洗髪してからスチームを浴びせ、柔らかくなったら櫛でとかし、コテで整髪剤を塗りこんで、ワックスで固める。
突っ立っているアキトの周りをくるくる回って観察。しゃがんで見上げて、イスに立って上から見下ろして、うん。どんぴしゃだ。
なかなかいいじゃない。他を試すまでも無い。これで行きましょう。
アキトを映す姿見の前で左手を腰に、右手で額の汗を拭い、メグミは満足そうに微笑んだ。
予定よりだいぶ早く帰ってきたアカツキは、変身したアキトを目にするなり、背中を向けて悲鳴のような高い声を漏らし始めた。アカツキと一緒に事務所に来たエリナは柄にも無く頬を染めて、格好いい、と呟いた。
「いやいや、別に君を笑いに戻ったんじゃなくてね。本分を果たしてもらう時が来たんで、話しに来たのさ」
目じりに浮かんだ涙もそのままに、アカツキはそう切り出した。
なごやかに談笑していた全員に、さっと緊張が走った。
アキトの果たすべき本分とは何なのか。
皆、わきまえている。それが料理だった時代は疾うに過ぎ去った。
全て苦痛の中で忘却され、残りものにも福はなく、撒き散らすのは災いばかりで救いもない。
しかしただ一つだけ、アキトに許された技能がある。
たった一つ。
「本当は当選後に実行して最初の実績にするつもりだったけど、困ったことにタイムスケジュールが狂っちゃってね。思ったよりも状況の進行が早い。火星の後継者をとっとと壊滅させたいんだよ。買収した議員経由で圧力をかけて、宇宙軍と統合軍の合同掃討作戦を実行する。7日後だ。都合のいいことに、統合軍は不足する戦力の埋め合わせに民間から傭兵を募ってる。テンカワ君は傭兵枠で従軍して、火星の後継者残党を率いている南雲を、直接、君の手で討ってほしい」
傭兵募集は統合軍として苦渋の決断であっただろうが、現実的な選択をしたということだ。統合軍が以前の姿を取り戻すには、まだまだ時間がかかる。だからと言って、宇宙軍が火星の後継者討伐で功績を挙げていくのを指をくわえてみているだけでは、統合軍不要論を勢いづかせることになる。
多少の無理は承知していても、作戦に一枚噛んでおかなくてはならないのだ。
急な話にも、アキトは異を唱えない。ただ、諾と頷くばかり。
「7日後だな、了解した。討つというが、南雲の死体は残した方がいいか?」
死体という単語にルリは嫌悪のあまり顔を背け、メグミも口元に手をあてて呻いた。
偽悪ぶって残虐性を主張しているわけではない。これが必要な確認事項であることを理解しているアカツキとエリナに、動揺はない。
「最良は逮捕ね。逮捕可能なら殺さなくてもいいわよ。でも無理なら、確実に殺した証拠になるような記録を取ってほしいわ。できれば頭部が残った死体があるのが望ましいけど、グラビティブ
ラストが飛び交う戦場で綺麗な死体は作れないでしょうし、映像記録でかまわない。イロクォイスにカメラを仕込んでおいたから、問題ないでしょう」
実際にそんな死体を見たら悲鳴を上げて卒倒するだろうに、言葉の上では淡々としたものだ。
アカツキがエリナを補足する。
「ユーチャリスはテロリストの乗艦扱いで指名手配中だから出せない。だからルリ君のサポートもない。大豪寺君には別の任務があるから行けないけど、代わりに月臣君をつけるよ。ボソンジャ
ンプは自由にやってくれ。いや、むしろどんどんやって欲しい。その上で君が手柄を立てるのが理想だね」
ルリは眩暈を覚えてよろめいた。
残党なりとはいえ、しばらく前までクリムゾンの支援を受けていた連中だ。
資金も物資もまだまだ豊富で、対するは宇宙軍と統合軍の合同部隊。おそらく何百隻もの艦艇と何千もの機動兵器が入り乱れる戦場になるだろう。
そんな所に戦況解析も無しに2機の機動兵器で飛び込んで敵首領を討ち取ってこいなんて、どんな作戦を立てれば達成できるのだろうか。
いくら2機ともボソンジャンプが可能なパイロットが操縦するといっても、無茶が過ぎる。
2人の未来がありありと思い描ける。
おそらく機動兵器の100機くらいは落とせるだろう。戦艦の4、5隻もいけるかもしれない。ボソンジャンプを駆使すれば、もう少しボーナスがつくだろう。でも時間がかかる。本陣前を守る敵部隊を崩し突入するまで体力が持たないだろう。
統合軍は物資不足で補給もままならず、補給艦への着艦申請も正規軍優先で後回しにされ、少ない物資を傭兵に分け隔てなく与える保障もなく、機体を損傷しても応急処置すらも手間を惜しんでやってくれないかもしれない。
そんな戦場へ放り込もうというのだ。
アキトの操縦技術は瞠目するものがあるが、自分やラピスのサポートがなければ戦場での立ち回りで大きく遅れをとるだろう。
体力の消耗にも構わず戦い続ければ、平常時ではおきないミスも頻発する。
全天を火砲で取り囲まれ、成すすべもなく落とされるかもしれない。
敵ばかりに目を取られて、友軍の射線のど真ん中に飛び込んでしまうかもしれない。
・・・死ぬかもしれない。
「アカツキさん、考え直してください。ユーチャリスが駄目なら、大豪寺さんの宝石の宮殿があるじゃないですか。私も出ます」
いつもと変わらない無表情のまま、どことなく迫力を増したルリがそう言って迫るが、アカツキは無情にも首を横に振る。
「君は大豪寺君と一緒に別の任務がある。君にしかできないことだ。あの資料を見たのなら、予想はつくだろ?」
「時間が無いのは理解しています。ですがたった2機で敵本陣に攻め込むのは自殺行為じゃないですか。作戦の日程はどうなってるんですか?補給のない残党相手に2ヶ月も3ヶ月も続くわけも無いですし、先細りの残党と戦うのなら、大規模戦闘は1回か2回で終わります。その間だけでいいんです」
顎を指で掻き少し考えるそぶりを見せたアカツキだが、やはり答えは変わらない。
「ダメだね。軍人の君にこんなこと言うのは面映いけど、何が起こるのかわからないのが戦場だよ。短期決戦ですぐに決着がつくとは限らない。繰り返すけど、時間がないんだ」
「そうです。戦場では何が起こるかわからないんです。アカツキさんがアキトさんの操縦技術を信じているのはわかりますけど、たった2機じゃ、作戦遂行どころか生還だっておぼつかないかもしれないんです。念には念を入れて安全策を講じるべきです」
「でもねぇ」
アカツキは煮え切らない。
ルリの剣幕にたじろいでいる様だ。しかしアカツキの考えは変わらない。時間がないのは間違いないのだから、ここで少しでも先手を取って動きたい。
とは言って強引に仕事をさせてもルリの心証を損ねては、今後の計画への協力を断られるかもしれない。
どうしたものか、とアカツキは悩む。
アキトならこれくらいは軽くやってのけるだろうと思うのだが、ルリはアカツキほどの確信は持っていないようだ。
「心配は無用だ」
「やっぱりそうだよねぇ」
アキトがそう言ってもルリは納得しなかった。彼女の心は千々に乱れてまとまらない。
なぜこんなにも自分は必死になっているのだろうか。ルリは自問する。
アキトを哀れに思ったからか。
命をかけて救い出した女と、ただの一度も会うこともなく逝くのが哀れか。
生涯において残すものが、あのレシピを書いた紙切れ一枚だというのが哀れか。
それとも、まだ昔のように一緒に暮らすことに未練を持っているのか。
哀れなのはアキトではなく自分なのか。
ルリの葛藤にアキトは気づかない。
ルリとの相互リンクは純粋に感覚補正にのみ使用されており、かつてラピスとリンクしていたときのような感情の波は伝わらない。
「ジャンパーが2人で組んでれば、死ぬなんてことはそうそうないさ。2人とも腕前は一級品だし、機体も万全で送り出す。もう少し信用してあげたらどうかな。テンカワ君は君の養父みたいなもんだろう?」
そんなのは気休めに過ぎません、と怒鳴ったら楽になるだろうか。この言葉にならない憤りをどこに、誰にぶつければいいのか。
この女か?
ルリはエリナを見た。かつての彼女は、野望のために人命を軽視する傾向が強かった。今でも彼女が改心したという話は聞いたことが無い。
「これは決定事項なのよ、ホシノルリ。厳しいことは分かってるけど、やらなきゃならないの。皆、それぞれの役割を果たすことを求められているわ」
勝手なことを言うものだ。
「すまない、次のスケジュールが迫っているんで、これでお開きにしよう。アキト君はシミュレーターで訓練に励んでくれ。月臣君との連携を密によろしく。僕も護衛がいなくなるわけだから、外出は自粛するよ。成果を期待してる」
本当に勝手なことを。
いくらアキトが戦うことしか能がないとはいえ、それだけをさせていてどうするのだ。
もはや戦う理由がない男を、また戦場に立たせるというのか。使い勝手がいいから。
アカツキさんの地獄行きは間違いないですね。
ルリは決して納得しなかったし、自らの感情に決着をつけたわけでもないが、それ以上は発言しなかった。
誰もルリの意見を聞かない。
ただ、メグミだけがアキトとルリに痛ましそうに視線を注ぐだけだった。
手ごわい論客だった。全く手強い論客だった。
カーテンの隙間から差し込む朝焼けの光を顔に受け、ラピスはふあ、と小さく欠伸を漏らした。腕を伸ばしてギュっと背伸びをすると、まだ若いというのに、背中がゴキっと鳴った。
こんなにも反論証明に梃子摺ったのは、イネスが面白半分に作ったゴールドバッハ予想の証明をレビューした時以来だ。
実はラピスは誰にも内緒で、ある秘密クラブに所属している。
秘密といっても、いかがわしいことはない。名士だけが入会できる児童売買春クラブや人身売買組織などの非合法組織、あるいは極端な政治的主張を掲げる要監視団体とは全く違う。
名を、オモイカネ型AIオペレーター友の会、という。
主にオモイカネ型AIについて、マニュアルと実際の運用での食い違いや理不尽な仕様の愚痴をこぼし、時には有用なコードを共有したりする紳士淑女の集まりだ。
どうして秘密かというと、かように無害な集いなのだが、何しろオモイカネ型AIは数が少ないので比例してオペレーターの人数も少ない。またオモイカネ型AIを運用するのは軍中枢や超巨大企業に限られるので、迂闊に会員が身元を明かすと実は会員AとBは競合関係企業の社員だったりとか、楽しく過ごすにはいろいろと不都合があるので、誰もつっこんだ身の上話をしない。またこの会に所属しているということも、言いふらしたりもしない。
結果として秘密クラブになってしまう。
しかしまぁ本気で隠れているわけでもないし、入会に現会員の推薦が必要とかの制限もないので、オモイカネ型AIを運用するようなこの道の達人であれば自然とこの会にたどり着くことになる。オモイカネ型AIオペレーターではない会員も、けっこう多いのではなかろうか。
ラピスが久々にここを訪れたのは、新メンバーが入るという知らせが届いたからだ。
新メンバーの入会知らせは、頻繁でもないが珍しいことでもない。年に10人程度は入ってくる。
ラピスはふらりと、本当にふらりと自然に訪れた。
日ごろから面倒をみてやっているユリカも就寝中で、軍の任務もなくたまたま手持ち無沙汰だったから。
すると、知らせにあった新メンバーを中心にして大激論が交わされているところだったのである。
ハンドルネームをYMZKという彼(または彼女)は、オモイカネ型AIが無限ループを作れないのはチューリングマシンとしての条件を満たしていないのではないか、と疑問を呈したのだ。一つの論考としてはありうるだろう。
オモイカネ型自立AIは無限ループ処理に入ると、自己の判断で処理を凍結させてループから抜けてしまう。
YMZKはこのループ凍結を回避しようと努力したがどうにもならなかったと記述し、そこからの推論を述べている。
チューリングマシンが備えていなければならない条件の一つ、無限の紙テープが存在しないことを示すのではないか、と。
これは厳密な考証ではない。思いつきのレベルに過ぎないが、つまりこういうことだ。
オモイカネ型AIは従来のAIよりも優れているとされてきたが、実はそれは逆で、計算機としての機能自体は劣っているのではないか。
逆説的には、AIが目指す本義である知性の獲得に成功した、より人間に近い存在であるとも言えるかもしれない。
実は重要な指摘かもしれない。AIとしての能力の向上は、計算機としての能力とトレードオフの関係になっているということかもしれないのだ。
ラピスはこの命題に対する反論を真剣に考えた。
何故だろうか。このYMZKを論破できようができまいが、オモイカネ級AIの性能にはいささかの不満もない。
正直に言えば、なるほどこのYMZKの視点は正しいのではないか、と共感もしていた。
でも放置はできなかったのだ。
オモイカネの能力が劣るという主張に激しい反発を覚えた。
長い夜を戦い抜き、最終的にはオモイカネの計算能力にいささかの不備もないことを完全な形で証明できた。YMZKはアバターに両手を挙げさせて「降参です、反論が何も思いつきません」と全面降伏を宣言し、ラピスは会の中でまたも重鎮としての存在感を高めたのだった。
今日はこのまま寝てしまおうかとベッドに向かう。
ユリカが掛け布団を蹴飛ばして腹を丸出しにしていたので、そっと直してやった。
本当に手がかかる女だ。下手なくせに料理を作りたがるし、掃除も洗濯もまともにこなせない。なのに保護者を気取ってあれこれ指図してくる。しょうがないからこうしてラピスが世話をしてやっている。
家政婦を雇うべきか。いや一般人に機密事項に触れる機会を提供すべきではないだろう。士官候補生を世話係にあてがうべきだ。
はっと気づいた。それってつまり自分のことでは?
もしかしてラピス士官候補生はユリカの世話をするために同居させられていたのか?
なんということだろう。すぐに家政婦分の給料を申請しなければ。
多分眠かったからこういう結論にたどり着いたのだろうが、この上なく真剣にラピスはコミュニケを起動させ、まだ勤務時間が始まっていないので夜勤の当直が一人しかいないであろう厚生労働課に通信を開こうとしたところで、折りよく着信があった。
総司令部からである。
総司令部からの着信には居留守は許されないし、30秒以内に応答する義務がある。ラピスは面倒くさそうに顔をゆがめ、応答しようとして顔を洗っていないことを思い出し、音声のみで応えた。
「ラピス候補生です」
端末に出てきたのはカイゼル髭を自慢そうにしごく大男、ユリカの父、コウイチロウだった。
「おはようラピス君。早朝だというのにちゃんと30秒以内に出たね。感心感心」
にこやかに微笑むコウイチロウ。
「任務が入った。詳細は出勤時に説明しよう。ラピス候補生は臨時大佐の階級証をつけて総司令部に出頭してくれたまえ」
「わかりました」
またか。無血制圧が可能なのはラピスとオモイカネだけだというのは理解するが、頻度が多すぎないだろうか。児童に労働させるのはそもそも法律違反だと思うし。アカツキに交渉させて、もう少し出動を減らさせよう、そうしよう。
ラピスが不満なように、コウイチロウとて幼いラピスを戦場に駆り出すのは本意ではない。本当はすまない、の一言を付け加えたかった。
しかし軍の統制上、任務のことで上級者が下級者に謝罪するのはあってはならないことだ。
だから最後にこれだけ言うのが精一杯である。
「すまんね。ちゃんと学業に専念できる環境が整うまで、まだ少しかかりそうだ。だが、今度の作戦が成功した暁にはもっとプライベートの時間が取れるだろう。約束する。では」
コウイチロウはあんまり軍の統制などのことは考えない性質だった。
通信が切れてラピスはふぅと一息つき、のんきに寝ているユリカを振返った。また留守にしなければならず、少し心配だ。
でもまぁ、大人なんだし大丈夫だろう、きっと。
まだ出勤までに少し時間がある。とりあえずシャワーを浴びて身支度を整えるとしよう。