ネルガル月支社は、極秘にVIPを迎えていた。
宇宙軍大佐、ホシノ・ルリである。
統合軍を首尾よく撃退した時、ネルガルがいまだ政府の敵になっていなければ・・・・・・、ネルガルと宇宙軍の人材交流が再開されたことは、いずれ公になる。情報公開法に基づく民間の請求を待つまでもない。宇宙軍白書の来年度版にきちんと記載される予定だ。
万が一、ネルガルが統合軍を武力で撃退してしまい、平和的解決が望めなくなった場合。または、統合軍がネルガルを制圧した場合。その場合は、ルリはただちにイネスによるボソンジャンプで宇宙軍本部に戻り、出向の書類も完全破棄。イネスとラピスは統合軍の追求から逃れるため、そのまま宇宙軍預かりになる。そういう筋書きだ。
ミスマルが抱える幕僚本部とアカツキの美人秘書集団が頭を突き合わせて最善を模索した結果、各々はルリとラピスの安全を最優先で確保することで合意に至った。
そんな思惑の中。
50室ある応接フロアの最奥。
5重の個人認証チェックを通り、プロスの率いるネルガルシークレットサービスが周囲を固め、全情報端末はラピスのパートナーAIヤゴコロが制御する。
連合議事堂など及びもつかないセキュリティに守られたここで、2人のマシンチャイルドは2度目の邂逅を遂げた。
「初めまして、ではありませんね。ラピス・ラズリ。私はホシノ・ルリです」
そう言って右手を差し出した。
「・・・・・・・・・」
だがラピスは名乗りもせず、差し出された手を見ているばかりだ。
握手という習慣を知らないわけではない。しかし、差し出された右手が握手を求めるものだということに思い至らないのである。戦闘特化の教育と調整を受けたラピスには、人間と触れ合う機会がほとんど無く、こうした場合には的確に反応できない。そこにアキトは憐憫を感じる。
ルリにはラピスの困惑がわかる。何と言うことはない。かつて自分がナデシコで学んだことを、彼女はこれから覚えていくだけなのだ。
これはレッスン1。
「握手です。ラピス・ラズリ。私たちは仲間です。握手はその絆を確かめる行為です」
「あくしゅ・・・・」
差し出されたルリの右手をおずおずと握り返し、ラピスはその暖かさに戸惑った。
ルリの顔が、穏やかにほころんだ。
「よろしく」
自分と同じマシンチャイルドなのに暖かい。何故だろう。
ラピスの胸に、熱がこもる。
「いやメデタイ。ルリさんとラピスさんは姉妹のようなものですからね。これで姉妹仲良しというわけです」
プロスが相変わらずの愛想笑いを浮かべつつ、祝辞を述べた。
道化を装う者の宿命なのか、本人が誠心誠意、真心を込めて言っていても、どうにも胡散臭さが付きまとう。
「うんうん、感慨深いね。もっとも、一緒なのは今日だけですぐに離れ離れになっちゃう痛ッ」
エリナのピンホールがアカツキの革靴を踏みつけている。あれはなかなか痛い。
やはり鉄板を仕込んだ革靴の開発は急務である。何とか企画を通さなければ・・・・・・。
「会長。もうちょっと言葉を選んでいただけますでしょうか?うちのラピスの晴れの門出ですのに」
踏まれた方の足のつま先を持って、アカツキは片足でとんとん跳ね回った。痛みのあまり、涙がちょろちょろと流れる。往年の色男も形無しだ。いや、往年といってもまだ衰えたわけではなく、その魅力は健在なのであるが。
でもここの女たちはみんなアカツキを無視して一顧だにしない。地位も名誉もあって仕事もできる男盛りの30前だというのに、哀れなことだ。
エリナもイネスもルリもラピスも、どうも世間とずれているらしい。
あれが自分の上司なのか。嘆きながら、エリナはなるべく「ソレ」を視界に入れないようにして、ラピスに向き直った。
「じゃあラピス、リンクの引継ぎをお願いね」
「・・・・・」
返事はなかった。
ラピスとしては気が進まないのだろう。それでも自分から言い出したことだ。
いまさら拒否はできない。
ルリがアキトと一緒にいたのは、4年前から3年前までの1年間。対して、自分は2年以上も一緒にいるのだ。しかもリンクを通して、一心同体の関係だった。
ぽっと出のそこらのマシンチャイルドが、長年アキトと連れ添った自分よりもうまく感覚補正ができるわけはない。
自信があった。
「話は聞いています。アキトさんとのナノマシンリンクの引継ぎがあるとか」
ルリとしても、本当はこの話はあまり気が進まない。アキトは変わってしまった。家族だったあの頃とは違う。
自分も変わった。保護者が必要な年でもない。また3人で屋台を引くあの頃には、もう戻れないのだ。
だがそれでも希望は捨てられない。できることなら連れ戻したい。だからネルガルへの出向を受けたのだ。
「アキトのナノマシンへのアクセス経路とパスコード。経路の暗号鍵更新は最低でも5秒に1回。鍵長は任せる。でもできれば4096以上」
「わかりました」
「今プロトコルを送る」
音はない。握手した双方の手を通り、データが流れる。
渡された規格にそって、ルリのIFSが書き換えられ回路が形成された。
これで仕様上はリンクが可能になったことになる。
ルリは胸の前で両手を開いたり閉じたり、感触を確かめた。変わりはない。分子サイズの回路規模は、もっとも敏感な感覚器のひとつである指先ですら捉えられない。
それでも、気分の問題だ。
「それではルリさん」
「はい」
覚悟を決めた。
プロスに促され、ルリは潜水の要領で一つ深呼吸し、アキトラピス間のリンクにもぐりこんだ。
2つの瞳のほかに、もうひとつの視界ができたような・・・・・・、そんな感覚。
オモイカネにダイブしたあの時を思い出した。あれとも微妙に違う世界。
黒一色で塗りつぶされたその中に、光るものを見つけた。
暗い闇の中で煌びやかに輝く網が張り渡され、明滅しながらその形を変えていく。昔、これを見たことがあるような・・・・・。
万華鏡にも似たそのフラクタル図形の中で、ルリをそれから目をそむけた。
あの灯りはいけないのだ。触れてはいけないものだ。直感的にそれを悟った。
「どうしたの?うまくいってないのかしら?」
目を閉じたまま黙り込んでしまったルリを見て、不安に駆られたエリナがアキトに問いかけた。
アキト側には何も異常は起きていない。エラーメッセージも受信していない。
ということは、初めての処理にルリが対処するのに時間がかかっているということだろう。
「いや、問題ない。ルリちゃんが処理に戸惑っているだけだ」
「はい。もう大丈夫です」
目を開けて平静にそういうルリを見やり、エリナは微笑した。
この子はやっぱり優秀ね。偉大な先輩がいることは、ラピスの励みになるわ。
「そう、安心した。それじゃラピス。リンクが成功したんだから、約束通りあなたは軍の仕官学校に入学決定ね」
「・・・・・わかった」
うなだれたラピスは搾り出すようにそう呟いた。
さぞかし無念であろう。お互いにたった一人のパートナーだったはずなのに、男にもうひとつの選択肢ができてしまった。しかも自分は男と離れて暮らさなければならず、もうひとつの選択肢である女は妙齢で、話を聞く限りでは男に好意を持っているという。
学校を卒業して戻ってきても、アキトは自分とリンクしてくれないのではないか?ルリの方がいいのではないか?もう相手にされないのではないか?
疑念はぬぐえず、不安ばかりが膨らんでいく。
ラピスはいまだにリンクを解除していない。ルリ-アキト-ラピスの三元リンクをたどり、その不安はルリにも届いた。
ラピスは思い違いをしている。もしかしたら誤解を受けるかもしれないが、同じマシンチャイルドの年長者として、自分がここで今後の指針を示すべきだ。
「ラピス。リンクしてわかりました。あなたはやはり、ここを離れるべきです」
「なぜ?」
自分を追い出して、男との絆を確固たるものにしたいのか?
「あなたには人間らしさが足らない」
どうとでもとれる言葉だ。抽象的な表現は、ラピスには理解しにくい。
人間らしさが足らないからだ。
「あなたの感覚補正はとても正確です。正確すぎる。でも、だからこそ人間らしさがない。観測した事象をそのまま伝えるのではなく、ある程度のデフォルメは潤いになります。ここはちょっと殺風景なので、たとえばこんな風に」
ルリの両腕のIFSが一瞬だけ光り、リンクを流れるデータが少し増えた。
「あ・・・・」
「これは・・・・?」
アキトはラピスの感覚補正に文句を言ったことはない。即時性、応答速度については注文をつけたが、ラピスは常にそれに応えてくれた。それ以外は必要ないと思っていたし、実際に必要なかった。
今、アキトの目に映る景色は、明らかに写実性には劣るものだった。明暗が調整され、絨毯の模様の原色が強調され、灰がかった壁の色はやや白みを増し、コントラストの対比が際立つ。
これは言うまでもなく正確な画像ではない。だけど、その正確さをほんの少しだけ損なっているが、アキトはこの景色を心地よいと感じた。
「それに、ここは少し風がありますよね。だから・・・・」
アキトはびくりと背中を震わせた。肌に風を感じるのだ。髪が風になびいて首筋をくすぐる感覚まである。
「密着型のボディスーツを着ているから触覚は全面カットですか?それも悪くないですけど、こういうのもいいでしょう」
アキトの快の感情を感じ取りながらも、ラピスは最後の抵抗を試みた。
「こんなの、必要ない。戦いの邪魔になる」
ここで言い負かされたら、もうおしまいだ。アキトはきっと頼ってくれなくなる。
「でもわかるでしょう?これが人間らしさなんです。あなたはそれを必要ないと切り捨てて、アキトさんに与えなかった。必要ないけど、必要。あなたはそれがわからなかった」
一片の容赦もなく、ルリはラピスを責めたてた。
認めなさい、ラピスラズリ。貴方は未熟。でも決してそこで終わる子じゃない。ハーリー君もそうやってがんばったのですから。
ラピスは。
言い返そうとして、できなかった。
ラピスがどう思おうとも、アキトが安らぎを感じているのは事実なのだ。その事実の前に、ラピスは口を開きかけ、結局何も言えず、唇を噛み締めて押し黙った。
アキトはそのラピスの顔を見て、ルリと会わせたことは決して間違いではないと確信に至る。
これは感情表現だ。
「劣等感」という生まれて初めての感情を味わわされ、それを顔で表現することができた。
ラピスは今、外見という目に見える要素だけではない、内面世界において、他者と自分の比較を始めたのだ。それはアイデンティティーの確立につながる。
それが能力の上下に由来する「劣等感」から始まったことは必ずしもいいことではないかもしれない。この荒療治がラピスに好影響をもたらすよう、アキトは心中で祈った。
祈るのは・・・・・・3年ぶりだ。
3年前に、自らの意思のみを頼むと誓って以来のことだ。誓いにかけて、アキトは自らの力を信じられるだけの男になったつもりだ。その誓いを破り、今、祈る。
単純な快や不快では足らないのだ。もっと深く、もっと鮮やかで、もっと激しい。
それを知ってほしい。
知ってくれますように。
「ラピス、あなたに何が足らないのか、あなたはたぶん、分かっていない。でもここを離れて、アキトさんから離れて、そして多くの経験を積んで、もう一度帰ってきたら・・・・・・・・」
「そうしたら、分かる?」
そうしたら、もう貴方に負けない?
「はい。あなたが本当は何を望んでいるのか・・・・・。それもわかります」
「私の望みは、アキトと一緒にいること」
「違います。それはあなたの望みではない」
あなたはアキトさんの愛が欲しいんですよ。
「違わない」
「議論はよしましょう。どちらが正しいかは、将来わかります。あなたが思春期を迎え、私くらいの年になるころには、きっと」
私も、それくらいだったから。あの墓地で再会したときに、やっと3年前の想いを理解できたから。
そして、それが手に入らないことも、同時に悟るでしょう。
見つめあう2人。
「ルリさん、ラピスさん。名残はつきませんが、そろそろラピスさんのお迎えの方々が痺れを切らしそうです。もうお連れしなければ」
コミュニケを片手に部屋の隅でひょこひょこ頭を下げていたプロスペクターの言葉が、2人を引き離した。
ルリはアキトの隣、今までのラピスの定位置へ。ラピスはプロスの隣へ。
「ラピス。落ち着いたら会いに行くわ」
「元気でやりなさい。勉強でわからないことがあれば、いつでも連絡を」
「お小遣いの額はプロス君と相談してくれ。とりあえずは口座に3,000万入れとくから、当面はそれで。無駄遣いしてもいいよ」
「オモイカネをよろしく、ラピス。友達になってあげてください」
おもいおもいの言葉にラピスは、
「うん」
1つ頷き、最後にアキトを見上げた。
「アキト・・・・・・・・」
行くなと言ってほしい・・・・・・・・・。
「ラピス。次に会う時が楽しみだ。お前も、楽しみに待て」
期待は裏切られた。
「うん・・・・・・・」
かけて欲しかったのとは違う言葉だった。でも、次があると言ってくれた。楽しみだとも。
「さあ、ラピスさん」
「・・・・・・・・・・・・・うん」
「行ってきます」
『行ってらっしゃい』
シャトルが出発するところを、応接室の壁面モニタで眺めていた。あれに乗っている。
最新シャトルは、地球まで片道3時間。編入試験は既に終わっており、ちょうど地球に到着するころに合否結果が出るだろう。
どうなるだろうか?
「行ったな」
「ラピスがいなくて、代わりにルリ君がいる、か。ラピスを救出してからというもの、あの子がこんなに離れていくのは初めてのことなんじゃないかな?彼女、やっていけると思うかい?」
宇宙軍に出すと決定した本人であるアカツキですら、不安を押さえられない。能力的なものは心配していない。軍学校の編入試験の速報は既に出てきているが、文句なしの点数だった。考古学を含めて自然科学系統はイネスが担当し、経済と法律、教養、文学はエリナが教育した。アカツキも教材費用を惜しんだことはない。ラピスがネルガルで最初に触れたAIはオモイカネ級ヤゴコロだった。ルリを超える、おそらく地球一の英才教育を受けたのがラピスなのである。
心配なのは、新しい環境下におけるストレスだった。
アキトはそれを一蹴した。
心配はしている。それ以上に信頼していた。
「今、ラピスは親離れを始めた。新しい環境も刺激になる。余計な心配は不要だ」
今隣にいるこの子のように、立派に成長すると信じている。
「君も新しい環境に慣れてくれると嬉しい。ルリちゃん」
黒いマントの隙間から、手が伸ばされた。
「これからよろしく」
成長したルリでも、アキトとの身長差はまだ15cm近くある。
くっと顎を上げてアキトの顔を見るルリ。見下ろすアキト。
イネスもエリナも、アカツキですらも、これから始まる感動の再会に胸を躍らせた。
ルリは、差し出されたアキトの手をとらない。
「ルリちゃん、ですか。似合わないですね、アキトさん。今の貴方は、女の子に気軽に呼びかけるような人ではないでしょう?」
リンクしてわかった。
やはりこの人は別人だった。
湧き出る泉は真っ黒で、汚濁にまみれた衝動が腐臭を放つ。
清浄なものは何一つなく、煤煙で燻蒸された淀んだ泥がわだかまる。
「テンカワ・アキトさんは、亡くなったのですね」
手はマントの中に戻された。
「そうだ。もういない。受け取っただろう?彼の生きた証を」
イネスとエリナの2人は呆然とし、ついでアキトを見た。
これは違う。間違っている。
言葉も無かった。
3年は長すぎたのか。
復讐など、手伝うべきではなかったのか。
アキトのナノマシンは反応していなかった。
かつて娘に、と望んだ子から決別の言葉を告げられてさえ、アキトの心は平静なのだ。
あるいは感情を完全に制御しているのか。
慰めは必要ないのだ。
それがどうしようもなく悲しかった。