「出番が来たよ! やったねサクラちゃん!」の巻
「はぁ……」
溜息を吐くたびに幸せが逃げていく。木の葉隠れの上忍、はたけカカシは、限りなく幸薄い状況にあった。
インナーと一体になった黒いマスクの下から、今日どれだけの幸せが逃げ去り、虚空へ溶け消えたのだろうか。
馥郁たる香りの満ちる隠れ里の昼下がり。青空の広がる春めいた陽気の下、彼の周囲だけは、どんよりと暗雲立ち込める梅雨空の如き様相を呈していた。元々やる気のなさそうな据わった目は、常にも増して生気がなく、左眼を覆う眼帯代わりの額当ては、今にもズレ落ちそうな有様だった。
傍から見ても、明らかに意気消沈して見える。肉体的な要素が起因しているわけではない。
上、中、下とある忍者の位において、最高位たる上忍に区分される男だ。普段は猫背でだらしのない風貌をしているものの、引き締まった筋肉が隆起する剽悍な体は、些細なことで疲弊などしない。
はたけカカシの憂鬱は、心因性のものだった。
事の発端は、二時間ほど前、アカデミーの一室でのことだ。
この度、新任の下忍部隊を受け持つこととなったカカシは、部下たちとの顔合わせのため、配属部隊の告知が為されているアカデミーへと赴いた。事前に目を通しておいた己の部隊――第七班構成メンバーの詳細を反芻しつつ、年季の入った学舎の廊下を進んだ。
(実際、どんな奴らだろう?)
急成長中のエロ忍術使い、座学トップの紅一点、キラーマシーンめいた成績最優良児。
事前情報から推測される人物像は、おおよそこのようなものだった。なんとも個性豊かな面子である。
溢れる好奇心から逸る気持ちを抑え、新卒生たちが待ち構えているであろう教室までやって来た。
一呼吸おいて、戸を開く。
そして愕然とした。
「へぇ?」
寂寥とした教室に、間の抜けた声が響いた。
黒板消しが頭上から落ちてくるようなイベントは、起こらなかった。
猫の子一匹いやしない。無人である。整頓の行き届いた教室には、何者かが潜んでいるような気配もない。
暫し己の置かれた状況について呆然と黙考していたカカシは、ぽつりと呟いた。
「おいおい、初日から遅刻はいかんでしょ……。いや、っていうか、イジメ?」
もし訳知る者がこの場にいれば「大した冗談だ……」と嫌味を述べたことだろう。配属先の発表が無事終了したとき、時計の短針は文字盤の十を指していた。カカシがアカデミーの門戸を潜ったのは、正午を大きく回った後である。この上忍……大した遅刻癖だ……。
既に他の教官たちは、班員たちと連れ立って繁華街へ赴き、食卓を囲んで親交を深めている頃だろうか。
三時間近く待ちぼうけをくわせた人間が遅刻云々など、決して口にできる立場ではなかった。
無論、カカシも冗談半分で口走ったに過ぎない。実際は、おどけた口調に反して心中で冷や汗を流していた。
上官に黙って姿を消した下忍たちの行動は、確かに問題である。忍者とは、いわば職業軍人であり、勝手な行動など以ての外だ。個々人の行動が良くも悪くも、戦況に大きな影響を与えることも有り得る。
しかし、この度の事態を、どうやって上層部に報告しろというのだろうか。
――初日に遅刻したら、班員のみんなにボイコットされちゃいました。ハハッ。
論外である。自身が著しく規律を乱した上に、部下たちには舐められています。そう口にするようなものだ。
本日、一度目の溜息がカカシの口を吐いた。
「はぁ~。どうしたもんかなぁ」
無造作に伸びた銀髪に指を差し入れ、ポリポリと頭を掻きながら、カカシは踵を返した。
とりあえず、この場にいない三人を探しに行こう。そう思い直して教室から立ち去ろうとしたとき、それが目に映った。
黒板だ。様々な色のチョークを用いて、端から端までいっぱいにデカデカと『ありがとう イルカ先生』と記されていた。相当、生徒からの信頼厚い教師だったのだろう。余白ならぬ余黒に書き込まれた生徒たち一人々々からのメッセージが、それを物語っている。
非常に心温まる光景であるが、カカシにとって重要なのは、そちらではない。背面黒板だ。
入室時のショッキングな光景に面食らっていたことと、カカシから見て左側――額当ての眼帯によって死角となる方向に位置していたために見落としていたが、そこにカカシ宛てらしい伝言が記されていた。
『お勤めご苦労様です。初めのご挨拶が文面上になってしまったこと、まずは深くお詫び申し上げます。さて、教官殿の遅参の件、並々ならぬ故あってのことと存じ上げております。しかし我々、未だ至らぬ身の上、教官殿の参着をただ座して待つのも怠慢であると愚考いたし、また新たに仲間となる者同士の力量を把握する意味も込めまして、組み手などいたすことと相成りました。就きましては、大変お手数ですが、郊外の第三演習場までご足労願いとう存じます』
板書から醸し出される得体の知れない迫力に、カカシは思わずたじろいだ。
ひどく格式張った、慇懃で圧迫感のある文面である。白のチョークで板書された達筆な文字は、一々丁寧でありながら、どことなく毒を含んだ印象を読む者に与えた。文面を考え、記述した人間の底意地の悪さが、そこはかとなく滲み出している。
ただ、板書の中身については、それなりに評価できる内容でもあった。
今まで下忍の部隊を持つ機会は何度かあったものの、実際にカカシが部隊を率いたことは一度もない。彼の持つ信念のためだ。
『ルールを守らない奴はクズだ』遅刻魔のカカシらしからぬ信念である。そして彼は同時に、こうも考えていた。『仲間を大切にしない奴は、それ以上のクズだ』
上記は共に、カカシが過去から学んだ苦い人生訓である。
ルールを守ること、それ自体は確かに良いことだ。ただ、それに固執して、上からの命令に唯々諾々と従うだけの愚物ではいけない。それはただの思考放棄であり、人間性の喪失に他ならない。人と利益を天秤にかけ、命を軽んじ、犠牲を容認するようになる。
木の葉忍者の本懐とは国を、里を守ることであるが、それは、あくまでも平和に暮らす人々を守ることこそが本質なのだ。然るに、最も身近にいる仲間すら大切にできない者に、いったい何が守れるというのか。
それに対して、今年度の新卒生たちはどうだろう。
仲間を大切にできる連中なのか否か、それを判断するには、未だ判断材料が乏しい。
だが、少なくとも「素直に言うことを聞くだけのボンクラ」ではなさそうだ。
置いてきぼりにされたことには、正直、複雑な心境を呈したカカシであったが、それ以上の期待に胸ふくらませていた。
今日、彼が最もハッピーでワクテカしていた瞬間である。
演習場に辿り着いたカカシは、再び置いてきぼりを食っていた。
慰霊碑のある第三演習場は、小川の流れる人工林である。
教室の時とは異なり、誰もいないわけではない。少なくとも猫の子はいた。燦々と降り注ぐ陽光の下、切り株の上で仰向けになって、フニャフニャ言いながら体をくねらせている。
だが、目的の三人の姿は影も形もない。代わりに、手裏剣の的に縫い止められた一枚のメモが見つかった。ピンクの縁取りが為されたノートの切れ端を的から引剥す。
短い文章は、丸みを帯びた可愛らしい文字によって綴られていた。
『お昼どきになったので、みんなでラーメンを食べに一楽へいきます。お昼まだなら、先生もいっしょにどうですか?』
額を一筋の汗が伝った。嫌な予感しかしなかった。
後の経緯は、最早語るべくもないだろう。
ラーメン屋・一楽で『腹いっぱいになったから、また修行に行くってばよ!』という簡素な伝言を受け取ったカカシは、その後も案の定、似たような具合でたらい回しにされた。
木の葉隠れの里は、隠れ『里』といえども一国の軍事力を担うだけあって、その面積は広大だ。街並みもまた、長閑な田園風景ではなく、和風建築を無理やり近代化したような近未来SF的な入り組んだ造りをしている。上忍の足を以ってしても追跡にはそれなりの時間を要した。
こうして冒頭の溜息へ繋がる。最初の伝言を見つけてから二時間後、カカシはアカデミーの教室前に戻って来ていた。最後に訪れたのは、ファーストフード店だったろうか。
笑顔の素敵な女性店員さんから、一行がアカデミーへ向かったことを聞いて、カカシは項垂れた。半ば意地になっていたのだ。
(絶対に捕まえてやる。そして、ドン引きするような任務を言い渡してやる)
その暗い思いが崩れ落ちそうになる体を突き動かしていた。ガキである。
結局、二時間に渡る努力は、犠牲……ではなく無駄になったのだ。だが、何一つ収穫がなかったわけでもない。
盛大に溜息を吐き、打ちひしがれ、蹌踉とした足取りで去って行く男の後ろ姿があまりにも哀れだったからだろうか。それとも単に在庫を処分したかったからなのだろうか。笑顔の素敵なお姉さんがお土産をくれた。
特定のセットメニューを注文したときに貰える人形である。木の葉隠れを含めた火の国全域で流行っている忍者アニメのキャラクターらしい。形容し難い不気味な表情をしていた。
三人が居るであろう教室の前に戻って来たカカシは、人形を左手の上に乗せた。スクワットでもするように深く腰を落とした体勢の人形を、淀んだ瞳で暫し眺める。そして、徐に背中を押す。内部のゼンマイが巻かれ、人形は後方宙返りをした。
「忍法、チャクラ宙返り……」
なにがどうチャクラなのか、呟いたカカシにも解らなかった。
しかし、元気は出た。
人形を懐にしまうと戸に手を掛け、横に開く。
頭上から降ってきた黒板消しが、カカシの頭に直撃し、銀色の頭に炭酸カルシウムの帽子を被せた。
「あははは、ひっかかったてばよ!」
カカシの目の前で、ナルトが屈託のない笑顔を浮かべていた。
考えるまでもなく黒板消しは、遅刻に対する意趣返しに違いない。
怒鳴るでもなく、呆れるでもなく、カカシは俯いて小刻みにフルフルと体を震わせた。
「あ、あれ? せんせ? おーい」
意図しない反応に、ナルトは神妙な面持ちで首を傾げる。
不意にカカシの震えがピタリと止んだ。ゆっくりと持ち上がった顔には、満面の喜色が浮かんでいた。
ナルトも負けじと明るい笑みを返した。
カカシの態度に困惑しながらオロオロと所在無さげに狼狽えていた桃髪の少女も、その笑顔にホッと胸を撫で下ろし、朗らかな笑みを浮かべた。
サスケは、机に突っ伏して寝息を立てていた。修行ジャンキーにとって運動後の待機時間とは、即ち睡眠時間と同義である。
「うん。ま、お前らの第一印象は嫌いだ。大嫌いだ!」
カカシの頬を伝う熱い魂の雫は、黒地のマスクに吸われ、人知れず消えた。
こうして最悪な邂逅を果たした七班一行は、明くる日の昼前、第三演習場に集まっていた。カカシの言うドン引きするような任務、サバイバル演習を行うためだ。
もっとも、演習と銘打ってはいるものの、内容はほとんど試験である。脱落率六割六分超、失敗すればアカデミーへ逆戻り。一年間とはいえ、卒業生が在校生に混じって授業を受けるのは、あまりにも気まずい。色々と応えるに違いない。当人も、そして周囲の人間も。中々に過酷な任務である。
「やあ諸君、今日はちゃんと集合場所にいてくれたね~。よかった、よかった」
開口一番にカカシの口から出た冗談めいた皮肉は、幾分か刺もあったが、半ば本気の安堵も含まれていた。集合時間丁度に来たのも、昨日体験した惨めな出来事が尾を引いているためだ。置いてきぼり食らった第三演習場が集合場所なのは、一見作為的に見えて単なる偶然である。
班員たちからの「先生こそ、今日は遅刻しなくて偉いですね」という的確な反撃に苦虫を噛み潰したような顔をしながら、カカシは時計を取り出し、近くにあった丸太の上に乗せた。
タイマーを十二時にセットして口を開く。
「うっし、んじゃ、ま、サバイバル演習……。鈴取り、始めるとするか」
鈴取り。書いて字の如くだ。カカシが腰から下げた鈴を定められた時間内に奪い取る。反則もなく、審判もおらず、如何なる手段を用いることも許されるシンプルな試験だ。
だが、それ故に、難易度を引き上げる要因が幾つかあった。
まず、下忍たちの対手となるのが上忍たるカカシであることが一点。無論カカシとて手加減はする心算であるが、それでも尚、両者の間に広がる経験の差は、如何ともし難いものであった。
そして、もう一点。下忍たちの目の前にカカシがチラつかせた鈴は二つ。下忍の数は三人。3-2=1。余った一人は、アカデミーへ強制送還となる。丸太に括りつけられ、目の前で昼食を食べられるという屈辱の罰ゲームも課せられるのだが、これは些細なことであろう。
任務の内容を知って、三人とも流石に動揺したようだ。皆一様に頭を抱えている。
ただ、それがカカシには奇妙に思えた。失敗すればアカデミーへ逆戻りな上に、確実に一人は落とされるのだ。もっと驚愕して、噛み付いてくるような反応があって然るべきである。
(こいつら、もしかしなくても試験のこと知ってたな)
有り得ない話ではない。昨日から今日まで、それなりに時間があった。加えて、カカシは有名な忍者だ。里内を駆けずり回れば、確信には至れずとも大まかな試験内容に行き着くであろうことは、自明の理である。
だとすれば綿密な対策を練ってきている可能性が高い。もし、この憶測が正しければ、鈴が二つしかないという事実に、三人がどういう折り合いをつけるかだ。それが試験の明暗を分かつ鍵となる。
カカシの表情が幾分か鋭く引き締まった。
「ンッふっふ……。お前らのこと、けっこう気に入ったよ」
「印象は最悪だったけどね」と付け加えて、カカシは笑った。眼帯で覆われていない右目を抑え、クックと喉を鳴らした。
急に笑い始めたカカシを下忍たちは怪訝な顔つきで眺めていたが、「よう~い、始め」の合図で気を取り直し、すぐさま散開した。
カカシの眼前から飛び退き、演習場内の茂みへと姿を消した二つの気配が瞬く間に薄くなる。文字通り瞬きするほどの間に、足音、呼吸、衣擦れの音さえもが消え去り、涼風の吹きぬける演習場には、木々が揺れ葉と葉の擦れる音だけが残った。
そう遠くには行っていない。一人は動きを止め、一人は絶えず動き回っているようだ。明確な所在は不明であるが、肌に感じる視線からカカシはそう判断した。
「へぇー、なかなか美事な隠形じゃないか……。で、君は隠れないの?」
カカシの視線を一身に受けて、ただ一人残った下忍、春野サクラは愛想笑いを浮かべた。
額当てを髪留めにして結った薄紅色の長い髪と、肌触りのよさそうな広い額が魅力的な少女だった。
「えーっと、よろしくお願いします」
そう律儀に答えると、サクラは両手にクナイを構え、カカシを見据えた。春に芽吹いた若葉の色をした瞳は、不安げに揺れている。
間違いなく陽動であろう。油断はできない。できないのだが、ガチガチに緊張している様子の少女を目の前にして、ついついその初々しさに頬が緩んでしまうのは、人間の性として仕様がない。
「まあまあ、お嬢さん、そう固くならずに」と軽口を叩きながら、カカシは腰に下げた忍具入れのポーチに手を伸ばした。
サクラが批難の声を上げる。
「ちょっと! 下忍相手に、上忍が忍具使うんですか!?」
目を見開いて驚くサクラを尻目に、カカシが取り出したのは、一冊の書物だった。
『イチャイチャパラダイス 中巻』
表紙には、そう記されていた。見るからにいかがわしい題名である。
訳が解らず凍りつくサクラに「下忍相手なら、本読みながらでも余裕だから」と告げ、カカシは左手に本を携えて読書を始めた。
目尻は厭らしく垂れ下がり、マスクの上からでも判るほどに鼻の下が伸びている。見た目に違わず、内容もいかがわしい本のようだ。
サクラの顔色が熟れた林檎の如く真っ赤に染まった。
「お、女の子の前で、そんなの読まないでくださいよ!」
自身の薄い胸を両腕で掻き抱いて、カカシから一歩後退る。
今時の女の子らしい風貌をしているが、根は存外に奥ゆかしいのかもしれない。
キッ、と鋭い目付きでカカシを睨みつける少女の心情は、怒り半分、羞恥半分といった具合だろうか。
そんなサクラの心中を知ってか知らずか、カカシは右掌を上に向けて差し出し、第二指から第五指までを曲げ、かかって来い、と挑発を入れた。
いかがわしい本を携え、厭らしい淫らな顔のままである。
クイクイと小刻みに動く指の運動は、ひどく性的で不潔なものとしてサクラの目に映った。激しく前後、激しく上下的なアレだ。
少女の心中に寄せていた不安の波は、即座に引いていった。
「このッ!」
カカシ目掛けて二本のクナイが投じられた。
ほぼ同時に打たれ、高速で迫り来るそれを、カカシは交わすことなく飄々とした態度で迎え撃つ。
視線は本に固定したまま、眼前に迫った二本のクナイを人間離れした瞬発力で掴み取った。それを即座に後方へ破棄すると、再び空いた手で、猛然と迫りくるサクラの攻勢に対処する。
クナイの投擲と同時に走りだしたサクラは、十歩分ほどあった距離を一息のもと駆け抜け、カカシに肉薄していた。
互いの間合いが相手を捉えた瞬間、サクラの放つ右正拳突きを、同じく右手の掌底で逸らし、間髪置かずに打ち込まれた左の直突きを、返しの右手鶴頭で打ち払う。
一連の攻撃が失敗に終わったことを悟ったサクラは、打ち払われた左手の痛みに眉を顰めつつも膝蹴りを放ち、カカシから距離をとって仕切り直した。
息も吐かせぬ攻防が一段落つき、両者の間に沈黙が落ちる。
サクラの攻撃を捌いた上でカカシが抱いた感想は「良くも悪くも教科書通り」というものであった。
流石に、座学で一番の成績を修めているだけのことはある。クナイによる牽制から、距離を詰めての近接。理想的な型での格闘。
全てアカデミーで教えられることであり、それ自体は悪くないのだ。惜しむらくは、その戦法を実現するための術理が未だ体に馴染んでいないことだろうか。
実践と反復練習を繰り返せば、いずれ大化けする可能性がある。
カカシは、そのように評価した。
エッチな本を読みながら。
相も変わらず厭らしい顔である。心なしか鼻息も荒い。
その卓越した体捌きに、少しだけ見直しそうになったサクラであったが、行動から来るマイナス補正があまりにも大きすぎた。まさに残念なイケメンである。
再び据わった目でカカシを見据え、サクラは手裏剣を手にした。片手に三枚ずつ、計六枚。
時間差を付けて投擲された薄刃は、異なる軌道を描いてカカシに殺到するも、容易く掴み取られてしまう。
カカシの指が手裏剣の穴に通され、輪投げのように全ての輪が補足された。
キンキンと甲高い音が鳴り響いたのは、その時だった。
刹那、両手の塞がったカカシの左半身に三本のクナイが突き刺さる。
サクラは見た。
米噛みに深々と突き立ったクナイからは、ドス黒い血が滴り落ち、脳による統制を失った右目は、あらぬ方を向いていた。首元を穿ったクナイが頸動脈に穴を空けたようで、ゆっくりと崩れ落ちるカカシは、首筋から目の覚めるような鮮血を吹いた。
生まれて初めて見る惨い人死に、思わず遠のきそうになる意思を繋ぎ止めながらも、サクラはカカシが無残な骸と化す瞬間を見た。確かに幻視した。
カランと乾いた音を立て、その場に転がったのは、一抱えほどの丸木だった。
変わり身の術。
対手からの攻撃に合わせ、適当な対象物と入れ替わることで、敵に攻撃を受けたと錯覚させ、その虚を突くという基本忍術である。
今回のように姿の見えない敵の攻撃を誘い、その出所から対手の居場所を割り出すという使い方もできる。
サクラの眼前から離脱し、茂みに身を潜めたカカシは、変わり身が受けた攻撃の軌跡を辿り、対手の居所を探ろうとする。
しかし、見つからない。クナイの軌道上には、人の気配どころか生物のいた痕跡すら皆無であった。
これは、いったいどうしたことか。妙な事態にカカシが頭を悩ませているときだった。
一陣の風が吹いた。
腰元の鈴が揺れ、リンと音を鳴らした。
また甲高い音がするのをカカシは聞いた。その場から思わず飛び退くと、元いた位置に今度は手裏剣が突き刺さる。
冷や汗が首筋を伝った。今も先もそうだが、飛び道具は全てカカシの左半身、眼帯によって死角となる側を目掛けて打たれている。
殺戮機械めいた成績最優良児。
脳裏に過ぎった物騒な言葉に、カカシは、ははっ、と乾いた笑いを漏らした。
「あっ、先生、やっぱり生きてたわね。今度こそ覚悟!」
茂みから追い出され、白日の下に姿を晒したカカシに再びサクラが挑みかかる。
カカシは、また一連の攻撃を片手で往なしながらも、今度は音と臭いに意識を集中していた。
はたけカカシ。彼は普通の忍者よりも耳と、それ以上に鼻が利く。左半身の死角を補うために習得した能力だ。風の鳴る音、木々のざわめき、草熱れや土の匂い。それら様々な要素を統合し、鮮明な死角の映像を脳裏に浮かび上がらせていた。
三度目のそれが飛来したのは、幾度目かの攻防の末、サクラの左上段蹴りをカカシが右手で掴み止めたときだった。
鎖された視界で、カカシは見た。あらぬ方向へ打ち出された六本のクナイ。時間差と速度差をつけて打ち出された風斬る刃は、宙空で激突すると火花を散らせ、甲高い刃音を鳴らし、軌道を捻じ曲げられた内の半数がカカシ目掛けて殺到した。
この手裏剣術をカカシは知っている。
暗殺戦術特殊部隊、通称・暗部とも略される。かつてカカシも所属していたその部隊に、最年少で入隊した男がいた。サスケの兄。今や抜け忍となったお尋ね者、うちはイタチだ。
彼が得意としていたのが、この手裏剣術だった。本来は遮蔽物によって遮られた死角を攻撃するためのものであるが、場合によっては、自身の居場所を晦ますような使い方もできる。
下忍らしからぬ高度な技術に舌を巻きつつも、カカシは飛来する刃を上体を逸らすことで外した。
変わり身を使わなかったのは、いまだにサクラの蹴り足を掴んでいたためだ。
さて、このとき一つ、カカシにも、そして、カカシを『策』に嵌めようとしている下忍たちにも予想外の出来事が起きた。
カカシの急制動によって、足を掴まれていたサクラの重心が崩れ、逆さ吊りになってしまったのだ。
ここで問題となるのがサクラの格好だ。彼女は普段からスリットの入った赤いアオザイ風の服を愛用している。モンハンに出てくる蟹ではない。分からない人は、スリットの入ったワンピースのような服を想像していただければよい。
当然のことながら天地が逆転すれば、スリットの入ったスカート部分は、重力に引かれて捲れ上がる。下に履いていたスパッツのおかげで下着を晒すことはなかったものの、それを間近で目視することとなった者は堪らない。
発展途上の未熟な躰とはいえ、伸縮性の高い黒スパッツによって強調される体付きは、女人のそれである。特に細く引き締まったヒップラインは、非常に目の毒だった。
加えて、カカシが直前まで読んでいた本がいけない。紛うことなきエロ本である。良い感じに血圧が上がっていたのだ。
果たして、地面に赤黒い染みが生まれる。一滴また一滴と滴り落ちる雫は、マスクで覆われたカカシの鼻の辺りから垂れ下がっていた。
宙吊りになってもがいていたサクラは、カカシが微動だにしないことを不審に思い、その顔を見上げた。目を見開き、下半身を凝視しながら鼻血を垂らす漢がいた。
「へ、へ、変態! 変態! 変態!」
「まった、誤解、誤解だ!」
鼻血まで出しておいて誤解もクソもなかった。
「しゃーんなろー!」と謎の雄叫びを上げ、やたらめったら暴れまくるサクラにカカシもタジタジである。
とりあえず幻術で眠らせてしまおうかと、カカシが思案しているときだった。
このグダグダな状況で多少緩んでいたとはいえ、カカシの警戒は、完全に無防備になっていたわけではない。特に自身の死角となる左側には、殊更意識を集めていた。集めすぎていたのだ。それがカカシの対応を一手遅らせる。
目視可能な右目は捉えた。柔らかな春の大気を切り裂き、豪速で迫る凶悪な風魔手裏剣。そして、その向こうで笑うサスケの姿を。
余裕をもっての回避は、不可能なタイミングだった。
サクラを掴んでいた右手を咄嗟に離し、体を捩り、風魔手裏剣の軌道上から肉体を遠ざける。
その直後、轟々と唸りを上げる巨大な鉄塊がカカシの傍を通りぬけ、掠った刃が深々と右肩を裂いた。
溢れ出る血潮が地面を汚し、鼻血の跡を消して行く。
左手からこぼれ落ちたイチャイチャパラダイスは、血の海に浸って判読不能になった。
カカシは傷口を抑えながら、サスケに向けて牽制のクナイを放った。
同時に茂みの中へ跳躍し、手近にあった老木の後ろに身を隠す。死角を攻撃できる手裏剣術があるので安心はできないが、遮蔽物がないよりましである。
「ちょっと、舐めすぎてたかなぁ」
老木に身を預けながら、カカシが呟いた。
この失態には、幾らか不運も寄与しているとはいえ、下忍相手にこうも追い詰められてしまったのは、相手の力量を見誤ったカカシの不徳であろう。
陽動と攻撃。二人の行動が示し合わせて行われたものだとすれば、なかなかのチームワークではないだろうか。ハプニングがあったとはいえ、無ければないで状況を打破できていた可能性が高い。
それ故に、カカシは恐れた。暴れ狂うくの一でもなく、容赦無く殺しにかかってくるキラーマシーンでもない。草葉の陰で息を潜め、虎視眈々と隙を伺うナルトをだ。
奥の手を使うのであれば別だが、このまま相手方のペースに嵌り続ければ、敗北は必至だろう。
カカシは、この場を離脱して態勢を整えようとした。試験とはいえ、そうそう相手に勝ちを譲る気もなかった。
つまり、気づいていなかったのだ。恐れていた事態に、既に自身が陥っていることを。
ゆっくりと幹から身体を離し、歩み去ろうとしたカカシは、背後でリンと鳴る鈴の音を聞いた。
慌てて振り返る。老木に巻きついた細い蔦に、鈴が引っかかっていた。
鈴に手を伸ばす。意思を持ったように蔦が蠢き、鈴を遠ざける。
「ああ、そうか……」
カカシは思い出していた。
うずまきナルト。彼が「おいろけの術」と呼称するモノの正体。
自身の脳裏に思い浮かべた理想的な女体を正確に、つぶさに、手練の忍者すらも誘惑し得るほど鮮やかに再現する術。
積み重ねた努力と豊かな想像力が結びついて完成した、精緻極まりない「変化の術」。
出し抜かれたことに対する悔しさはなかった。
カカシは素直に感心していた。大袈裟な幻術などではなく、誰もが最初に修める基本忍術で、上忍すらも騙しきったことに清々しさすら感じていた。
チームワークを試すため、意図的に仲間割れを誘発するように仕向けるこの試験。数ある下忍昇格試験の中でも特に難しく、今まで一人も合格者が出ていない試験だ。内容を事前に知ることができても、合格条件を知ることは不可能である。
にも関わらず、三人は、一つの答えを出した。
サクラが隙を作り、サスケが誘導し、ナルトが決める。荒削りではあるものの、大した奴らである。
「お前らと任務にあたるの、ちょっと楽しみだよ」
変化を解いて誇らしげに鈴を掲げるナルト見遣り、カカシは莞爾と笑った。
とまあ、これで終われば綺麗に落ちたのだが、カカシは忘れていた。
サクラへのセクハラに対する弁明がまだ終わっていないことを。
そして、これこそが後々まで尾を引く「カカシ変態騒動」の幕開けであった。
自分の部下たちから長らく変態扱いされ、最後に彼は、このような悲痛な叫びを上げることになるのだろう。
「やっぱ、おまえら大嫌いだ」
あとがき
サクラちゃん、イザベラ姫、りっちゃん、鶴屋さん、デビロット姫、ベジータ王子、マルフォイ……。
おでこキャラって素晴らしいと思うんですよ、ええ。もう、なんっつうか、その広いおでこで良からぬ事を企みたいっていうか、したいっていうか、うぇっへっへ。
ふぅ……。
どうも、戦闘シーンは大好きなのに、ちゃんとした戦闘描写書くのは初めてな男、アビアです。
さて、今回は、全体的にお粗末な出来に仕上がっているかもしれません。どうすれば戦闘シーンがそれっぽくなるのか色々と試行錯誤していたら、全体的に辻褄が合わなくなってしまい、それに気づいて大慌てで修正を入れた結果です。……死にたい。
ところで皆さん、今週(これを書いてる6/25)のNARUTOは、もう読まれましたか。
あの引きは例の読者層狙いすぎだろっていう意見も多いでしょうが、個人的には、あのぐらいストレートな表現が好きです。
コミックス派でない方で、まだ読んでおられない方は、急いで書店に向かいましょう。
え? いや、ステマと違いますって……。