春香はワインの入ったグラスを片手に、周囲を見回した。 色々なところから笑いの声が聞こえてくる。 心の底から、楽しいと思った。 「ぼく、案外いける口だよ?」 「甘いですよ。自分はいわゆる、酒豪と呼ばれる部類ですから」 「そろそろクリスには勝っておきてーな」 楽しさで春香は笑みを零す。 普通、喜怒哀楽を表現する場合。 喜びと楽しさは表現し易くて、怒りと悲しみは押し殺す人が多い。 陽気な気持ちは他人に良い感情を与え、陰鬱な気持ちは相手を嫌な気持ちにさせる。 それが当たり前で、嫌な気持ちは押し殺す。 だから普段、元気な人物がいた場合。 気付くのが遅くなる。 「負けないよっ!」 「自分も負けるつもりはありません」 「俺も負けるつもりはねーよ!」 一斉にワインを飲み始める。 春香は楽しかった。 今まで、この世界に来て一番楽しい日を過ごしている実感があった。 歳近い異世界人と、一緒に旅をしてきた仲間。 皆が集まってパーティーで騒いでいる。 とても楽しくて、楽しくて。 だから、ふとした拍子に浮かぶ。 普通で、普通極まりない昔の日々を。 鈴木春香は普通だった。 周りから五月蝿いぐらいに元気だと言われる以外は、さして特徴という特徴は無かった。 特別になりたいとは思っても、特別になるために頑張ったりはしない。 かといって、平凡な日常を愛していたりはしない。 平凡で、平和で、普通な日常を愛し求めるというのは、そうじゃない状況を過去に得ていない限り、普通は思えないからだ。 だから年相応に夢見て、年相応に憧れもある。 そんな、どこにでもいる普通の少女だった。 けれど普通な彼女は召喚された。 『クラインドールの勇者』として。 求めていなかったとすれば、嘘になる。 こんな冗談みたいな日々になればいいなと思ったことも、何度だってある。 でも、空想は空想。 美点しか見ていない。 想像や妄想をデメリットまでリアルに想定する人間はそうそういない。 最初は楽しかった。 面倒事があっても、変な仲間に囲まれて旅をしているのは楽しかった。 でも、ふとした拍子に浮かび上がった。 今、立っている場所が“異世界”なのだと分かった瞬間、 『もう“帰ることの出来ない世界”がある』 それに気付いてしまったら、恐ろしくなった。 ホームシックと呼ぶべきものだろうか。 だから押し隠す。 『鈴木春香は勇者だから』 目一杯騒いで、目一杯動く。 そうすることで、紛らわした。 「内田修。あんたと同じ日本人っつーわけで、よろしく」 「宮川優斗。同様に日本人だよ」 正直、いきなり出てきてビックリした。 今まで年老いた人、中年の人には会った。 皆、この世界に満足していた。『セリアールの人間』としての自分を、確固たるものにしていた。 だから良いか悪いかは別として、彼らは『日本人』っぽくなかった。 けれど目の前にいる人達は、自分と歳が近くて、話題だって何でも話せて。 元いた世界を思い出した。 自分が生まれてから過ごした日々を。 懐かしむだけでは足りなくて。 顧みるだけでは足りなくて。 恋い焦がれた。 ◇ ◇ 「卓也センパイ、和泉センパイ! 飲んでるの~!?」 バルコニーで涼んでいた卓也と和泉を目敏く見つけた春香が、ワインの瓶を片手に飛び込んできた。 「おいおい、大丈夫か?」 「酔っ払っているな」 先程、春香は修達と飲み比べをしていたのを卓也達は見ていた。 優斗ほどの酒豪ではない以上、それほどの量は飲んでいないはずだが、それでもテンションが上がるくらいには飲んでいるのだろう。 「酔ってるよ~、それにぼくは元気! それだけが取り柄なんだよ!」 「滅茶苦茶だな」 言っていることが支離滅裂だ。 卓也が苦笑しながら水でも貰おうと、室内に入ろうとした。 その時、 「……ん?」 春香を見て、違和感を覚える。 ほんの一瞬だけ、不意に目が揺れていた。 「春香?」 「ん~、どしたの?」 ご機嫌な様子の春香。 ただの酔っ払い……ではない。 元気というよりかは、空元気。 お酒の力で無理矢理にでも元気っぽく振る舞っている。 そんな風に感じた。 ――突然だな。 正直、不意打ちだと思った。 卓也にとっては前触れが何もない。 会って間もないこともあって、余計に相手の機微に気付けなかった。 いきなり問題が吹き出したような感覚に陥る。 それは仕方ない。 ――まあ、でも分かり易いもんだ。 優斗のように仲間以外での問題を抱えている時の鉄壁さに比べれば。 やはり素直だけあって、分かり易い。 放課後に帰ってる際、ぽつりと呟かれた『今までぼく、一人だったし』という言葉とも合わせれば、とりあえず違和感を覚えることは出来る。 と、室内にいる優斗と目が合った。 彼は今、ブルーノとワインと話していて、彼らがこっちに来ようとしている。 手で青の騎士と赤の騎士を示し、押しとどめるように優斗へ指示した。 そして卓也はバルコニーの柵に腰掛ける。 「なあ、春香」 「卓也センパイ、なになに?」 「訊きたいことがあるんだろ?」 いきなり突かれた核心の問いかけ。 春香の瞳の揺れが、一層大きくなった。 ◇ ◇ パーティーも後半に差し掛かる。 各々、会話を楽しみながら食事に舌鼓を打つ。 バルコニーでは卓也と和泉が涼んでいて、そこに春香がワインの瓶を持って歩いて行った。 それを目敏く見つけるブルーノとワイン。 春香を追いかけようとして、優斗とキリアが声を掛ける。 「邪魔はしないように」 「貴方達、本当にハルカが好きなのね」 しょうもなさそうに、残念そうに二人は言う。 「俺様の子猫ちゃんを独占しようなんて、片腹痛い」 「親友である以上、一緒にいる」 すると、こんな返答がされた。 とはいえ、この二人はパーティー会場であまり春香に近付いていない。 なんだかんだで彼女に考慮していたみたいだが、さすがに春香の充電切れを起こしたらしい。 優斗もそれは把握してたので、苦笑する。 「あんまり迷惑も掛けないようにして――」 春香を見ながら言って、瞬間気付いた。 「ごめん、タンマ」 思わず手で二人を制す。 「…………」 雰囲気がおかしい。 かなり酒を飲んでいたことは知っている。 修やクリスと飲み比べもしていた。 テンションがハイになってるのも苦笑して見ていた。 もちろん、今だって元気に卓也達に絡んでいる。 「……卓也?」 親友と視線が合う。 彼も異変に気付いているようだ。 ブルーノとワインを押しとどめるように指示された。 「……待たせろって?」 元気な様子で、笑って騒ぐ。 けれど、今の彼女からは様子とは違う雰囲気が感じられた。 あれではまるで、 ――寂しそう……いや、辛そう? 元気いっぱいな春香が、どうして。 そう考えて優斗は頭を振った。 ――違う、どうしてじゃない。 大きく息を吐く。 何をふざけた疑問を呈しているのだろうか。 気付いて然るべきことを気付いてあげられなかっただけだ。 「そういうことだろ」 出会った瞬間から“元気いっぱいな春香”しか見ていない。 楽しそうに笑い、テンションが高いくらいに騒ぎ、見ていて飽きない少女。 「……押し込めてたんだ」 嬉しいことは嬉しい。 寂しいことは寂しい。 正樹のようにストレートに出していたわけじゃない。 むしろ彼のような性格は希有だ。 普通は嬉しいことは表に出し、辛いことは隠す。 だから分からなかった。 春香みたいな元気な娘だったからこそ、余計に。 優斗は振り向く。 「申し訳ないけど、少しだけ時間をあげてもいい?」 「……先輩、どういうこと?」 春香のところに行こうとしていたキリアが首を捻る。 ブルーノやワインも表情は納得していない。 だから優斗は説明する。 「少しだけ、ただの春香にしてあげたいんだ」 きっと、この場所でしか出来ないこと。 勇者である必要がなくて、異世界人でいる必要もなくて、頑張る必要もない。 優斗達がいるからこそ、戻れる立場がある。 「彼女は勇者だよ。だけど存在としては“望道の勇者”でも“王道の勇者”でもない。ただの元気いっぱいな女の子――“常道の勇者”だ。確かに勇者としての素養は持ってるけど、彼女の場合が一番精神的に辛いものがあるんじゃないかな」 「……勇者は勇者じゃないの?」 キリアの疑問も間違ってはいない。 国の名を冠していたとしても、勇者は勇者なはずだ。 「間違ってはないけど“勇者”を十把一絡げにしちゃいけない。何個かパターンがあるんだよ」 同じ名でも明確に違う。 「勇者っていうのは、誰もが想像しうる至上の勇者に、誰もが理想とする最高の勇者。そして――」 一番、普通と呼べる存在。 「――誰もが共感できる凡庸の勇者がいる」 皆が空想する勇者と、皆が憧れとする勇者と、皆が感情移入できる勇者がいる。 「どれもがどれも、勇者として呼ぶに相応しいけど……単純に言えば勇者の中でも天才と秀才と凡才がいるってこと」 そして天才と呼ばれる類の存在へ近付くに従って、異常性は増していく。 だから言えてしまうことがある。 「凡才な彼女は感受性も狂ってない。辛いことは辛いし、苦しいことは苦しいし、寂しいことは寂しい」 当たり前のことは、当たり前のように。 「凡才って……先輩達はチート、だっけ。そういうのを貰えるのよね? なのに違うの?」 「チートって言っても、やっぱり違いがある」 明確な差異がある。 このセリアールに存在する異世界人の勇者においても。 「至上の才を持ち、勝利の女神に愛されているが故の空前絶後なチートを持った修。勇者と呼ぶに最高の魂を持ち、勇者としての普遍なチートを持っている正樹さん。だけど春香のチートは普通の異世界人より上ぐらい」 上級魔法は使える。 でも、言うなれば“それだけ”だ。 特別性が何もない。 「ハ、ハルカの背にある大剣は特殊な守護獣を呼べるもので――」 「それは彼女自身に力があるからじゃない。大剣に魔力を付与しているのは春香かもしれないけど、それだって異世界人にとっては誰だって出来ることだよ」 ワインの反論を優斗は否定する。 どんな異世界人でも魔力量は高い。 春香が特別なわけじゃない。 「彼女はリライトの勇者のような“望道”でもなければ、フィンドの勇者のような“王道”でもない“常道”。普通の女の子なんだよ」 どこにでもいるような、特別なんて何もない女の子。 「そして彼女が抱えている問題を聞いてあげることができるのは、同年代の異世界人だけしかいないんだ」 ブルーノやワインが悪いというわけではない。 ただ、同じ国に住んでいて、同じ価値観を持っていた。 そして同じように異世界へとやって来た。 「“王道”ですら懐かしんだんだから、春香なんてもっとだよね」 正樹も本気で安堵し、嬉しそうに笑んだ。 ならば彼女も同じだ。 「ハルカをどうする気だ?」 ブルーノの問いに対して、優斗は微笑む。 「本当の意味で“鈴木春香”にしてあげたいんだよ」 他の名など必要ない、たった一人の女の子。 「クラインドールの勇者じゃなくて、異世界人でもない。日本人の春香にね」 ◇ ◇ 問われた春香は否定することも、反論することもなかった。 「……どうして、分かったの?」 「相手の顔色を伺うの得意なんだよ。お前みたいに分かり易かったら、会って間もなくても、ある程度は分かる」 卓也と、そして優斗は経験上、相手の顔色を見て行動を起こすことがあった。 故に感情の機微を察する能力は高い。 春香は若干、泣きそうな表情になって……言った。 「……センパイ達、帰りたいって思ったことある?」 「元の世界、にか?」 「……うん」 生まれ育った世界に。 卓也達は戻りたいと思ったことがあるだろうか。 「ぼくはね……時々、あるんだ」 ここよりも無機質な世界だけれども。 ずっと歩いてきた故郷。 「酷いくらいに、日本に帰りたくなる」 柵を背にして、丸まるように体育座りをする。 顔を膝に押しつけて、二度と戻れない故郷を思い返し気を落としていた。 和泉も卓也と逆側、春香を挟むよう柵に背を押しつけ、声を掛ける。 「俺らは皆、事情持ちだ。日本で良い記憶を持っていたわけじゃない。だから帰りたいと思ったことはない」 「……そう……なんだ」 無情ではあるが、事実を話す。 この世界のほうが大好きだ。 辛いことも、嫌なことも、苦しいことも。 全部が無くなって、幸せだと思える世界だから。 「ただ、お前の気持ちを慮かることは出来る」 帰りたいということ。 戻りたいということ。 故郷があるからこそ、当然だ。 「忘れるな、とは言わない。懐かしむな、とも言わない」 普通なら当たり前の感情なのだから。 無理に押さえ込む必要はない。 「だが恋い焦がれるな」 はっきりとした言葉に春香の顔が上がった。 視線が合い、さらに和泉は告げる。 「お前がお前のままで生きているという“奇跡”の理由を忘れるな」 思い出を枷にして、人生を歩まないでほしい。 思い出を糧にして、人生を歩んで欲しい。 卓也も春香の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。 「確かに両親や友達と会えないのは辛いかもしれない。でもさ、どうしてお前はその辛さを感じられるのか、考えたことあるか?」 ゆるゆると春香の視線が卓也へと向く。 卓也は優しい表情を浮かべ、 「ちゃんと春香が春香のまま、生きてるからだろ?」 転生とか、輪廻とか、記憶を失ってしまったとか、そういうものじゃなくて。 「日本で育ってきた春香が、ちゃんと“ここ”にいるからだろ?」 春香を指差し、地面を指差す。 生まれてからの日々を、何一つ欠かさずにセリアールで生きている。 「死ぬはずだった人生が覆った。それってさ、本当に奇跡だと思う」 バスが横転し、即死する。 足が吊り、溺死する。 それで終わる人生……だった。 けれど皆、この世界で生きている。 過去を無くすことなく、自分として生きている。 「俺らは元気いっぱいな春香に出会えて良かったよ。春香はどうだ?」 「……良かった。修センパイも、優斗センパイも、卓也センパイも、和泉センパイも優しいんだもん」 卓也達は会ったばかりだというのに優しくしてくれる。 きっと日本だったら、ただの他人でしかなかった。 気にもしないし、会話だってなかっただろう。 だけど、ここは違う世界で、日本人は少ない。 故に同族意識が強くなっても当たり前だろう。 「センパイ達に会えて本当に良かった」 だとしても、だ。 こんなにも優しい彼らは本当にお人好しなんだと思う。 「お前みたいになるのは仕方ないよ」 卓也はもう一度、柔らかく春香の頭を撫でた。 「だっていきなり異世界とか言われて帰れないって聞かされても、どうして? って思うもんな」 召喚されたから生きているとしても、だ。 矛盾した感情になるのは分かるが、それでも思ってしまうのは仕方ない。 「だけど、それでも呼んだんだよクラインドールは。春香を勇者として」 必要な存在だから。 彼らにとって、勇者という存在は不可欠だから。 「春香はクラインドールを……この世界を恨んでるか?」 「……そんなことない。召喚してくれたから、ぼくはここで生きてる」 死んでない。 自分を自分としたまま、存在している。 それは本当に嬉しい。 「だったら大丈夫だ」 卓也が自信を持たせるように力強く伝える。 「辛いことがあれば一緒に立ち向かってやる。苦しいことがあれば一緒に抗ってやる。悲しいことがあれば一緒に泣いてやる」 これだけ馬鹿な日本人が集まっていれば、絶対に心強いだろう。 「吐き出したいことがあれば、寂しくなったらいつだって来い。俺らがとことん春香に付き合ってやる。嫌な感情全てが真っ新になるまで話を聞いてやる」 そう言って卓也はにっ、と笑う。 「オタクから何から、何でも話せる奴らなんてオレ達ぐらいだろ?」 「……そうかも」 「日本の料理が食べたくなったら、いきなり来て頼め。オレが何でも作ってやるから」 「……うん」 「そして、さ」 柵み全部を取り除いたら。 「たくさんの苦しいことや辛いことを吐き出したら、たくさん幸せになれ。昔のことを懐かしみながらも、今が幸せだと思えるように」 そう言い切れるように頑張れ。 「……卓也……センパイ」 瞳が潤む。 頑張って堪えようとすると和泉が春香の肩に手を置いた。 「泣けばいい。そうすれば、溜まっていたものもスッキリするだろう」 「…………和泉……センパイ……」 そしてもう一つ。 近付く影がある。 「今まで、よく頑張ったじゃん。たまには日本人の女の子、鈴木春香になる日があってもいいじゃねぇか」 「修……センパイ」 春香の前に座り込み、重荷を取り除かせるようにさっぱりと言う。 「いいの……かな?」 「ここはリライト――『勇者』のいる国だぜ? お前が出張る場面はないんだよ。だから安心して普通をやってろよ」 修がくい、と室内を親指で示す。 視線を向ける春香に優斗が気付いて、軽く手を振っていた。 「……ほんと、お人好しばっかりだよ」 ぽろぽろと涙が零れる。 ずるい人達だ。 「特別だ、特別。俺らは基本的に、他人どうでもいい主義だかんな」 「僕っ娘であったことに感謝すればいい」 「お前がオレらのことを“センパイ”って呼ぶもんだからさ、ちょっとぐらいは気に掛けてやんないとな」 先に生まれて、先にセリアールにいる。 紛うことなき先輩だ。 だから後に続いた者が困っていた時、手を差し伸べることができる。 「先輩っていうのは、こういう時の為に“センパイ”なんだろ? だから安心して後輩やればいいんだよ」 「……うんっ!」 卓也の優しい言葉。 春香が嬉しそうに頷いた。