「ひうっ」
ルイズは悪夢で跳ね起きた。内容はよく覚えていない。
夢の中では海岸にいて、海は赤く血を流したようだった。
そして、そして、水平線の向こうには……。
何かとんでもなく恐ろしいものがあったように思えたのだが……、起きると同時に忘れてしまった。
目覚めると、体中に嫌な汗をかいていた。
同じベットにはシンジが眠っている、ほとんど寝息も聞こえないぐらい静かに。
寝相は良いのか悪いのか、まるで胎児のように背中を丸め、手足を縮込ませて。
ルイズは指を鳴らす。すると部屋中のランプが一斉に灯った。
真昼のように、はさすがにならないが、それでもこのぐらい明るければ行動に支障はない。
汗で汚れたネグリジェを脱いで、洗濯かごに入れる。もし今シンジが起きたら……、とは思わない。実家にいた頃は平気で使用人たちに着替えを任せていたのだ。
まして、伝説の使い魔とは言え、見た目が子供子供しているシンジに見られてもどうと言うことは無い。
むしろ、起こして、着替えを出させ、体の汗をぬぐわせようかと思った時だった。
部屋の隅に立てかけてあるシンジの剣、デルフリンガーの金具がカタカタ鳴っている。
小さく二回、間を開けて三回、寝ぼけている訳ではない。
正直ルイズにはインテリジェンス・ソードが眠るのかどうかは知らない。が、それは置いといて、合図だ。目が覚めたのは偶然だが、いいタイミングだったようだ。
ルイズは、シンジのほうをちらりと見ると、ガウンをまとい杖を取り出し、そしてデルフを担いでそっと部屋から出た。
「誰もついてきていないでしょうね」
「ああ、みんな眠ってらぁ。いつものネズミもいやしねえ」
ここは学生寮の玄関口である、さすがにこのような時間には誰もいない。たとえ早起き自慢のメイドでも。
「偏在は?あるいは風メイジの異常聴力」
「よせやい、あんな魔法の塊りなんぞが近くにいたら、おいらがわからねえわけがねえ。それに今日は風も強いしな。こういった密談にはぴったりの夜さ」
「なら安心ね。では報告なさい」
「ああ、三週間ばっちり張り付いていたけど、爪は三日に一度、髪もこないだメイドにそろえてもらっていたな、歯は毎日磨いているようだし」
「本当でしょうね。だけど、しょっちゅう置いていかれて行くくせに“ばっちり”は無いでしょ」
「ちっ、うっせーな。反省してまーす」
「折るわよ、それと時事ネタやめなさい。すぐに風化するんだからね」
「ごはんだけでも……、わかった、悪かった。頼むから杖しまってくれ。……なにを、そんなに疑うんだ。相棒はいいやつだぜ」
「召還した時は裸んぼだったけど、何年も幽閉だか追放だかをされていたにしては、汚れていなかったしね。それにまあいろいろあったのよ、あんたを買う前にね」
「実は高貴な身分で、幽閉されてはいても、その辺の世話を焼かれていたとかじゃねーの?」
「もちろんその可能性はあったわ、よくある話しだし。だからデルフに密偵を頼んだのよ」
「自分を、人間だと思い込んでる、あるいはそう思うように作られたスキルニル(魔法人形)とか?」
「あいつは、コントラクト・サーヴァントに反応し、その手にルーンを刻まれた。ルーンは体に現れるけど、その本質は魂に根ざすものよ。ある程度の知能も必要とされる。したがってその可能性も否定されるわ。吸血鬼の可能性も無し、あいつらは固形物は食べられないはずだし。って言うか、あんたそんなこと聞かなくてもわかってるでしょうが!」
インテリジェンス・ソードのデルフリンガーは恒常的にディテクトマジックを行い、周囲の認識をする。その精度、範囲は並みのメイジとは比べ物にならないほどだ。
インテリジェンス・ソードに詳しくないルイズには、それがデルフのみの権能なのか、インテリジェンス・ソードの平均レベルの能力なのかはわからない。
「へっへっへ、まあな。 で、どうする」
「別に、どうもしないわ。わたしの『内なる天使』も、まあまあいい仕事をしたってことね。……何年もサボっていたわりには」
「『内なるアガシオン、外なるファミリア』じゃなくて内も外もって訳か。おりゃー、ご主人の勘違いだと思うがね」
「シー、異端ぎりぎりの考えなんだから。でもまだまだ疑いの段階でしかないわ。そうね、シンジも言ってたじゃない『科学とはもっとも矛盾の少ない仮説だ』って。だからあたしも、シンジを見習ってカガク的に長い長い観察をするのよ」
「観察すんのは俺だけどな。じゃ、これからも、やることは変んねーんだな。やれやれ」
第十六話 平和なる日々 その3
魔法学院に続く街道を、四頭立ての豪奢な馬車が静々と進んでくる。
よく見ると馬車を引いている馬もただの馬ではない、頭に一本の長い角を生やした馬、ユニコーンである。無垢なる乙女しかその背に乗せないと言われるユニコーンは王女の馬車を引くのにふさわしいとされている。
馬車の窓にはきれいなレースのカーテンが下ろされ、中の様子が見えないようになっている。
そして、王女の馬車の後ろには先王亡き後、トリスティン王国の政治を一手に握るマザリーニ枢機卿の馬車が続いていた。
そして、その豪華な馬車の四方を固めるのは王室直属の近衛隊、魔法衛士隊の面々である。
名門貴族の子弟のみで構成された魔法衛士隊は、国中の貴族の憧れであった。
曲がりなりにも貴族の男として生まれ、魔法衛士隊の漆黒のマントに一度も憧れないものはいない。
また、魔法衛士隊の騎士たちが白馬にまたがり、自らをさらっていくことを夢見る少女は珍しくは無かった。
「お見えになられた!!」
その日、魔法学院は朝から王女の来訪にそなえ、正門から本塔の入り口までの間を埋め尽くすように、学院の全ての生徒達が整然と並んでいた。
魔法学院の正門をくぐって、王女の一行が現れると、整列した生徒たちは一斉に杖を掲げる。
正門をくぐった先に、本塔の玄関があり、学院長オールド・オスマンはそこで王女の一行をお迎えするのだ。
馬車が止まると、召使たちが駆け寄り、馬車の扉まで赤く豪奢な絨毯を敷き詰める。
そして、呼び出しの衛士が、緊張した声で王女の登場を告げた。
扉が開き女官に続いて、王女アンリエッタが登場する。学院長オールド・オスマンがまずは歓迎の辞を述べる。
王女はにっこりとバラのような微笑を浮かべ、感謝の言葉を返す。
用意された貴賓席に座ったアンリエッタは、同じく貴賓席に座るマザリーニ枢機卿とほんの一瞬、目線を交わした。
同席している学院長のオスマンに対して、労いの言葉をかけ、ゆっくりと舞台に視線を向ける。
学院内に作られた半円形の劇場。三年生のメイジ全員による創作物だ。無論、最終的な監修は先生方と専門の業者がやるが。
「ただいまより、トリスティン魔法学院生徒による、本年度の召還された使い魔、お披露目の会を執り行います」
春の太陽が穏やかな日差しを降り注ぐ中、頭を輝かせたコルベールによって品評会の開会が宣言された。二年に進級した生徒達が、一歩前に出る。
第一の演目は、呼び出し。
メイジが使い魔を自分の元に呼び寄せる基本中の基本。披露の順番は、メイジのランクと系統、それに学院の成績を元に決定される。
さて、ルイズの暫定的な系統は「水」、人を呼び出したことにより、彼女の系統についての議論は白熱しかつ紛糾した。なにせ、今まで人を使い魔にした例は無く、学院の先生方がそれぞれの根拠を持ってルイズを自分の担当の系統であると主張したためだ。
☆☆☆
「……ミス・ヴァリエールはすべての魔法を爆発させる。爆発は、火と土の合成魔法だろう。 そして「人間」は系統中では「土」に分類される。今まで彼女の系統がわからなかったが、これではっきりしましたね。なに、授業を進めるうちに、彼女の系統もすぐに目覚めるでしょう」
「彼女の爆発を、自分に都合よく火と土の合成魔法に分類してしまうのはいかがなものか。あれは、未成熟なウインド・ブレイクが発現したものでしょう。系統の固まっていない時期にはよくあることです。それと「人間」が「土」に分類されるなど聞いたことがありませんが、それはどの文献から?
……お答えできないようですな。それよりも、かの使い魔君のあの動きを見ましたか?あのスピード、背中に翼こそ生えてはいないもののまさしく「風」の体現者ですよ」
「その結論は少々我田引水であると言わざるを得ませんわね。ミス・ヴァリエールの爆発は、そのまま見れば、まさしく火の系統ですわ。そして、魔法系統はそのまま素直に見ることが大切なのです。それに、かの使い魔君の音楽をあなたはお聞きになりまして?
なんとも「火」の激しさを髣髴させるにふさわしい表現力でしたわ。わたくしには、彼女の系統は火であるとの結論以外はとても容認できかねますわね」
「皆さん、何をおっしゃっていられるのか、いまいち良くわかりませんな。現象面だけ取り上げて、その原因たる魔法を見ないとは。彼の音楽も、すばやい身のこなしも、すべては精密なる肉体操作の故でしょう。かの使い魔君、シンジ君でしたかな。彼にどれほどの才能があったとしても、あの年であれほどの精緻な指使いは不可能と断じます。まるで百年もの練習の末の技巧では有りませんか。唯一それを可能にするもの、それが水魔法です。
彼女はどうやら、水の系統に才能が有ったようですな。おお、そういえば彼女のお父上であらせられる公爵様はたしか水のスクエアでしたな。いやはや、血は争えませんな」
土、風、火、水担当の主任教師はそれぞれの持論を披露し、学園長の反応を待つ。ルイズは、トリスティン王国最大の貴族の娘、その恩師となればどれほどの恩恵を受けられるか、想像に難くない。
「うーむむむ、結論が出んな」
学院長たるオールド・オスマンも頭を抱えたくなる。それぞれの教師たちの論には一長一短あって、これと断ずることが難しい。
「そうそう、かの使い魔君に付けられたルーンは何でしたかな?」
水系統担当の主任教師が聞いた。
「エクス、ホルス、ニード、スベアー、アチェ、シルホス、ウエイチ。珍しい古いタイプのいわゆる万能ルーンですな。系統を決定するにはいささか物足りないかと」
そう答えたのはミスタ・コルベールだ。 ルーンスペルをばらばらに言って「伝説のルーン」を隠す。ここに集まった教師たちは皆、優秀ではあるが始祖ブリミル時代に使われたルーンの読みなど専門外もいいところであろう。皆が皆、オールド・オスマンと意見を同じくするとは限らず、この秘密が漏れればどのような騒ぎ、あるいは問題になるか想像もつかないからだ。
いずればれるかもしれないが、それまでは学院の生徒たるルイズとその使い魔の少年を守るつもりであった。
「やれやれ、……本人に決めさせるか……」
オスマンがそう言って、会議に集まった教師たちの驚愕を集める。聞く人が聞けばとんでもない台詞である。
生まれ持った系統を、自分の意思で、あるいは後天的な要素で変えることなど出来はしない。魔法学院の生徒たちは召還した使い魔で、今後の属性を固定し、それにより専門課程へと進む。今までのような一般教養のあるいは基礎の授業は、今後も系統に関わらず続けていくが、専門課程は系統別に授業を受けることになる。
「そんな、後でそれが違うとわかったらどうするんですの」
「ミス・ヴァリエールが望めば留年させる。問題なかろう、彼女はまだ16歳じゃ。公爵夫妻にはわしから説明しよう」
☆☆☆
使い魔品評会は順調に進んでいる。
アンリエッタ王女は、今回幼馴染のルイズがどんな使い魔を呼び出したのかを気になっていたのだが、なぜか第一の演目にも第二の演目にも出てこなかった。病気か何かかしら、と気もそぞろである。隣に座るオールド・オスマンに、演目の合間にそのことを質す。
「ミス・ヴァリエールには、第四の演目の最後を飾ってもらいますのじゃ。そのときに、今までの演目を欠席させた理由もわかりますでな。おお、無論彼女は元気ですぞ」
ニン、と笑った顔で答えられる。
「は、はあ」
夕暮れ近くになり、太陽も傾いてきた。それぞれの系統別に、いよいよオオトリの登場である。
火系統のキュルケのサラマンダーによる、火炎放射。見事な炎を噴き上げて、舞台上の金属製ゴーレム(キュルケの三年生のボーイフレンド作製)を見る見るうちに溶かしていく。 そして拍手を浴びながら空中に炎で螺旋を描き、また喝采を浴びる。
風系統のタバサの風竜による、空中演舞。まずは見事な垂直離陸、そして低空での空中停止(ホバリング)を五秒ほど披露。その後は優雅に空を舞い、観客の感嘆を独占した。
土系統のギーシュのジャイアントモールによる、地中移動。ギーシュの杖にあわせ、何匹も居るのではないかと思わせるような高速移動を見せる。最後に、モコモコと地面を数メイルも持ち上げ土の塔を作り、そのてっぺんから顔を覗かせた。また、やんやと拍手喝采である。
そして、水系統のオオトリは、……ルイズではない。スキュアという水棲の幻獣を召還した、ルイズとは別クラスの生徒だった。もちろん、その水芸も素晴らしいものでオオトリを勤めるにふさわしいものであったが。アンリエッタがちらりとオールド・オスマンを睨む。
火、風、土、水の四系統のオオトリの紹介がすんでしまい、これで終わりかと思われたが、
「続きまして本日、最後のお披露目となります。ラ・ヴァリエール公爵がご息女、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール嬢によります、使い魔の紹介です」
紹介に合わせ、ルイズが舞台の端から一人で登場する。緊張しているのか、どこかぎこちない足取りである。それでも何とか、舞台の中央に立ち、優雅に礼をする。アンリエッタは、風系統の使い魔かしらと頭をひねる。一人で舞台に立ち、遠くから自分の使い魔を呼び寄せるのは良くある演出だ。
「シンジ、来なさい」
ルイズがよく通る声でそう言うと、舞台の端のほうで控えていた少年の従者が舞台に上がる。
あら、どんな演出かしらと期待をしていると、件の少年が声を出す。
「ご来場の皆様、ボクがミス・ヴァリエールの使い魔、シンジです。どうぞ、よろしく」
笑顔で挨拶。そして、ペコリと頭を下げた。
「な、なんだってー!」
女王アンリエッタをはじめとする、全ての来客が驚いた。それは、護衛についている魔法衛士隊も同じである。彼等にしてみれば、見飽きた田舎芝居のようなものであったはずが、ほんの数秒とは言え、護衛対象たる高貴な人々から目を離し、舞台に釘付けとなってしまった。
「うおっほん」
衛士隊の隊長が大きな咳をすると、隊員達はわれに返り、慌てて心を任務に戻す。
(ふぃー、やれやれ。こんなの途中でやられた日には、後の連中がやりずらくてしょうがないからの。全部後回しにして正解だわい)
オールド・オスマンは一人胸をなでおろしていた。生徒たちは全員してやったりの笑顔である。
第一の演目はこれで終わり、第二の演目で、客席にまぎれたルイズを見つけ、(通常は5人ほどが舞台に上がり、主人を見わける)
第三の演目で、ルイズにお茶を入れた。(通常は主人の指示したものを持ってこさせる程度)
人であれば、出来て当たり前のことをしているだけである。
さて、第四の演目である。が、その前に、
「ル、ルイズ・フランソワーズ!!お待ちなさい!!」
物言いがついた。 誰あろう王女アンリエッタから。
「は、はいっ」
慌てて、膝をおり控えるルイズ。
この品評会においては珍しいことではないが、ルイズは舞台に登った瞬間にあがってしまっていたのだ。それでも必死で演目をこなしていたのに、憧れの姫様に待ったをかけられ、思わずキョドってしまう。周りはみんなアンリエッタを止めようとするが、止めきれず舞台の上まで上がってしまう。そして、シンジを、マジマジと見つめる。
「人にしか見えませんが……?」
「……人です。 姫さま」
「えっと、変身能力の有る幻獣とか?」
「……人です。 姫さま」
ルイズは頬を染めながら、同じセリフを繰り返した。アンリエッタに、その言葉がしみこむまで5秒ほどを要した。そして、ため息と共に首をふる。
「そうよね。 はぁ、……ルイズ、ルイズ・フランソワーズ。あなたって昔からどこか変わっていたけれど、相変わらずね」
「召還の魔法は相手を選べませんもの。好き嫌いは言えませんわ」
召還時に、コルベールに儀式のやり直しをお願いしたことは、ルイズの脳内からはきれいに消去されている。
シンジはアンリエッタに向かい片ひざを着き両手を胸で組んで挨拶をした。
「はじめまして王女様。縁在ってルイズ様の使い魔になりました。ロバ・アル・カリイエよりまいりました。 シンジと申します。 どうぞお見知りおきを」
「まあまあ、ロバ・アル・カリイエから。 それはそれは遠いところからはるばるようこそ、使い魔さん」
「姫、どうかそのあたりで……、その者も困っておりますゆえ」
そう声をかけたのはマザリーニ枢機卿だった。
「え、あ。キャー!わたくしったら、なんて事を!ごめんなさいルイズ、せっかくのあなたの晴れ舞台なのに。とんだ粗相をしてしまったわ」
「姫さま、どうかお気になさらずに。おかげで緊張が解けたようです」
ルイズはそう言って、嫌だわ、はしたないわ、と言いながらマザリーニ枢機卿と共に舞台を降りていくアンリエッタを見送った。
「もう学院長ったら、お人の悪い。それならそうと仰って頂ければよいのに。おかげでとんだ恥を掻いてしまいましたわ」
少々理不尽な怒りであるが、その様なことを気にするオスマンではない。
「ほっほっほ、アンリエッタ様、どうかご機嫌をお直しくだされ。ミス・ヴァリエール嬢ご自慢の『神の笛』を聞き逃しますぞ」
「はあ?」
アンリエッタは首をかしげた。それはそうであろう、かの使い魔が用意しているのは笛ではなく弦楽器のチェロである。
それは、とてもとても美しい音楽だった。
現在、白の国アルビオン王国において内戦が起こっている。
どうやら王党派の負けが決まりそうになっているこの時期、ここトリスティン王国でもいずれ敵になるであろう貴族派への対抗策として、ゲルマニアとの同盟締結をせねばならず。
そのため、皇帝の元へと嫁がなくてはならないアンリエッタは、毎日が憂鬱だった。
また、アルビオンのウェールズ皇太子に昔出した恋文。
おそらくは、戦争で燃えてしまうであろう、あるいは紛失してしまうかもしれない。
それでもなお、もし万が一あの手紙が貴族派の手に渡ったら……。
そう考えると、あまりの恐ろしさに夜も眠れない日々をすごしているアンリエッタであった。
でも、この音楽はそのすべてを忘れさせる。悲しい曲では無いのに、涙が込み上げる。
今まで聞いたことの無い曲。
けれども、その曲は奏者の技術、精神、人生を曝け出す。……その孤独な魂までも。
3分程度の演奏が終わり、楽弓を収めたシンジの顔が軽く上気しているのを見ると、アンリエッタはいてもたってもいられなくなり、立ち上がって拍手をした。
拍手は草原を揺らす風のように、あっという間に伝染し、300人ほどの全学院生徒と先生達、そして来客達、全てが立ち上がり、その魂に多大な拍手を注いだ。
☆☆☆
後日の事となるが、この時に不思議な現象が起こっていたことが判明する。
室内ではなく、野外においての演奏であるにも関わらず、最前列で聞いていた者も最後尾で聞いていた者も同じく、「まるで目の前で、曲を奏でられているような感覚におそわれた」というものだ。
風魔法には、『拡声』と言う魔法が存在する。
これは大本の音を大きくするため、やはり音源より遠ざかるほどにその音は小さくなる。
同じ現象を引き起こすためには『伝声』と呼ばれる、かなり繊細な難しい魔法と、そのとき聞いていた人数とほぼ同数の風メイジが必要になる。
だが、『伝声』を使い音を伝達すると、どうしても音が反響し、いわゆる音割れが起こってしまうため、これを音楽に使うものはいない。
大別すれば、『拡声』はその場にいる大勢に声を聞かせるための魔法、
『伝声』は少し離れた個人(あるいは使い魔)に内緒話をするための魔法と言った所だろうか。
このためこの現象は、このあとしばらくトリスティン魔法学院の七不思議のひとつとして、生徒たちの間で噂されていくことになる。
☆☆☆
選考はもめた。
最優秀者をギーシュ・ド・グラモンのジャイアントモールとするか、ガリアの留学生タバサの風竜とするかで。
重要な選考基準に、どのように国家(あるいは戦争)の役に立つか、というのがある。そして、そこに芸術点などというものは無い。ルイズが以前予想した通り、シンジは第一から第三までの演目は最高得点だったが、無視をされた。
無論生徒たちは、そんな選考基準があることなどは知らない。だが、こんなことは貴族の家に生まれたならば、家庭で教わるべき常識である。と、言うことになっている。
アンリエッタは、ルイズとその使い魔に何か特別賞でもと持ちかけたが、なぜか学院長のオスマン氏が、それをやんわりと断った。
それはさておき、今年の使い魔品評会、最優秀者は使い魔の新しい運用方法の可能性を見せたギーシュ・ド・グラモン。次席には、召還したばかりの風竜をやすやすと操り、その技量で審査員の度肝を抜いたガリアの留学生タバサ。三席にはスキュアを操って見せた、水系統の生徒が座り、ほぼ下馬評どうりの順当な結果に終わった。
「残念でしたね」
「なんだったのよ、あのスタンディングオベーションは!!」
ルイズは、自分の部屋で怒り狂う。シンジにとっては拍手と賞賛のみで十分満足だったが、主人はそうは行かないようだ。
ルイズは一人ベットの上でじたばたしていると、ドアにノックの音がした。
「誰でしょう?」
シンジはルイズと顔を見合わせる。ノックは規則正しく叩かれた。
“コン、コン、コココン”
ルイズの顔がはっとした。急いでドアを開く。
そこに立っていたのは、真っ黒な頭巾をすっぽりとかぶった、一人の少女だった。
作者です
作中で出したルーン読みはアングロサクソンルーン文字(Wik調べ)の読みを原作一巻51ページの挿絵に在るガンダールブのルーンに無理やり当てはめたものです。
ちなみにXはエクスとは読みませんし、左から二番目のルーンは見当たらなかったので無視しております。