「おいおい、俺が嬢ちゃんの財布をスッただって?」
心底バカにしたような視線を向けられ、ルイズの眉間に一層深く皺が刻まれた。
だが、男は恐れる様子もなく、むしろ殊更にわざとらしくため息を吐く。
「言いがかりはやめてくれよな。一体何の証拠があってそんな事言うってんだよ」
「だ、だってアンタ、私に妙なぶつかり方したじゃない! その後に調べたら財布が無くなってたんだから、アンタがやったとしか考えられないわ!」
「単に落としたんじゃないのか?」
「落とすようなところに財布なんかしまってないわよ!」
王都トリスタニア。
しばらくぶりの休日に、ルイズは使い魔の武器購入を兼ね、学園からこの都へと足を伸ばしていた。
そして使い魔のための武器……一振りの剣を購入後、何か軽いものでも食べようと財布の中身を確かめてみようとすれば、当の財布が影も形も無くなっていたのだ。
剣を購入したときには確かに持っていた。ならば、そのときから財布を改めようとしたときまでの間に無くしてしまったに違いない。
そしてその道程の中、妙な男に不自然なぶつかり方をされてしまった事を思い出し、周囲へ聞き込み、何とか件の男を探し当て――そして冒頭に戻る。
「『偶然』ぶつかっちまっただけだぜ? ちょっとばっか足元ふらついてたかもしれんが、それだけで人を犯罪者呼ばわりたぁ、ヒデー貴族様もいたもんだ」
「で、でも……っ! 確かに妙なぶつかり方したじゃない! 私は避けようと半歩横にずれたのに、あんたはむしろぶつかりに来たみたいだし……!」
「アぁん?」
男の声が、一際高くなる。
「それだけで俺を疑うってのか? 証拠あんのか? 人を疑うってのが、どれほどの事か分かってんのか?」
「くっ……!」
静かに、穏やかに並べ立てられる理屈に、しかし気圧されたようにルイズは一歩退いてしまう。
落とした事はまずありえない。何せ金銭に関しては母の躾も殊更に厳しく、どれだけ些少なお金であっても、決して落とすような所に入れて持ち歩くな、と幼い頃からきつく言われ続けていたのだ。
自身の性格。しまっていた場所。男の不自然なぶつかり方。その直後に財布を失っていた。
この男が財布をスッたのは、状況的には明らかなのだ。だが、確かに具体的な証拠は何一つない。
貴族の……それもヴァリエール公爵家の威光を笠に着て、無理やり身体を改めるという強行手段も無いわけではない。
だが、家名を出すとなると、万が一財布が見つからないなどという事になってしまえば、最悪、ルイズ個人の問題では済まなくなってしまう。
ルイズが騒ぎ、既にかなりの人目も集めてしまっているのだ。財布の中身は惜しいが、流石に己の家柄や矜持の全てと天秤にかけられるほどには重くない。
万が一の失敗のリスクを考えれば、それ以上強く出ることは出来なかった。
興奮が冷め、徐々に頭が冷静になると共に、己が軽率にがなり立てすぎた事をルイズは自覚した。
「どーなんだ? アぁ?」
ルイズの気勢が削がれたのを見て取ったのか、男はここぞとばかりに畳み掛けてくる。
「……」
対するルイズに、反論の術は無かった。
チッとわざとらしい舌打ちとともに男が背を見せ、これで話は終わりだと言わんばかりにゆっくりと歩き出す。
「――待てよ」
拳を握り締め、見送ることしかできなかったルイズの背後から声が上がった。
声の主は、年は十代後半ほどの少年であり――そして、彼こそがルイズが召喚した『使い魔』であった。
髪の色は金。しかし生え際は黒い。地毛ではなく染めているのだろうか。端正な顔立ちをしており、しかるべき格好をして、しかるべき立ち振る舞いをすれば、それなりに女性受けはしそうな容貌である。
服はこの辺りではあまり見ない黒の上下。その背に背負われた剣だけがやけに「この国らしく」、結果として少年の全体の雰囲気を、奇妙なものへと変じさせていた。
そして、そんな風体であるところの少年は一歩進み出る。
男はそんな少年をルイズの従者か何かと判断したのか、首だけで振り返り、面倒くさげに鼻を鳴らす。
「あぁん? 何だ、オメーまでありもしねー疑いをかけ――」
「犯人はオマエだ!!!」
男が全てを言い切るよりも早く、ずびし、と指を突きつけて高らかに宣言した。
「ちょ、ちょっと、ミツハシ!?」
使い魔の少年――三橋貴志の断言にルイズも思わず声を上げるが、彼の弁舌は止まらない。
「今ンとこ、テメーしか疑わしい奴がいねーんだからな。テメーが犯人でしかありえねー」
まるでそれ以外の解答などありえない、認めないとでも言わんばかりの断言ぶりである。
当然、このような言葉をぶつけられた側は、たまったものではない。
「なっっ……! 何だソリャ、フザケんな! そんな事で人に疑いかけていいと思ってんのか!?」
それまでの余裕綽々ぶりはどこへやら。
迷い無い断言が意外とこたえたのか、男は三橋に向き直って怒鳴り返してきた。
「間違いだったらどう責任取るつもりだってんだ! あぁ!?」
その口から出たのは、先ほどルイズを怯ませた言葉。
状況証拠ばかりの中、公衆の面前で明確に疑いをかけるなど、並大抵の度胸で出来る事ではない。
よほどの確信が無ければ、昨今のことなかれ貴族の小娘ごときが切り返してくる筈も無い。不服に思いながらも、明確な証拠を示すことも出来ず、悔しさを滲ませながら引き下がるしかないはずだった。
当然、それはこの従者らしき男も同様である。少し「責任」という言葉を被せてやれば、引き下がるだろう――男はそう読んでいた。
だが、三橋は全く怯む事無く、むしろ目を細めつつ更に一歩進み出る。
「テメーの都合なんざ知るか。金がなきゃ俺様が困んだよ。テメーが犯人じゃねーと、下手すりゃウチに帰れねーかもしんねーんだからな」
「はっっ……はぁあ!?」
いっそ清清しいまでに自分勝手な理屈である。
従者であれ奴隷であれ、まず貴族の側仕えをしているような平民の思考形態ではなく、今の状況は男にとって全く予想外のものであった。
そのあまりの流れに呆れ、或いは怒りのあまり反論の言葉をとっさに叩き返すことができないのか、すっとんきょうな声を上げた後、男はぱくぱくと口を開閉させるだけであった。
三橋はそんな男の目前にまで迫り、脅すように細めた目で睨みつける。
「そっ、そんなの、テメーの勝手――!!」
睨まれて逆に精神が冷えたのか、はたまた ようやく言葉が見つかったのか。
男が三橋を追い返すように声を張り上げる。
だが、そんな男の反論に聞く耳を持たん、と言わんばかりに三橋の手が閃いた。
「ルイズ、財布ってコレか?」
「なっ――!?」
迫力に圧され、口を開いた一瞬の虚を突き、三橋が男の懐から財布を奪い取ったのだ。
「う、ううん……これじゃない」
人間離れした早業にルイズも度肝を抜かれつつ、財布を確認する。
が、三橋が手にしていたそれは、彼女の財布ではなかった。
「これじゃないってさ。返すねー」
「テッ……テメー! ふざけん――!!」
違うと聞くや、あっさりと財布を差し出す三橋。
その態度に青筋を浮かべた男に、更に三橋の手が閃く。
「そんじゃコレか?」
次の瞬間、三橋が手にしていたものは、先ほどとはまた違う財布。
(はっ……速い!? この界隈じゃスリでならしたこの俺が全く反応できないだと!?)
「あー、私の財布っ!!」
驚愕する男の前で、ルイズが己の財布を受け取り、慌てて中身を確認する。
「…………ちょっと。中身、カラなんだけど」
武器屋で三橋が今背負っている剣を購入したが、それでもいくらか余っているはずだった。
ようやく戻ってきた財布に安堵した次の瞬間、中身がカラだと気づいたルイズは、今度こそ明確な怒気と共に男をにらみつけた。
「お金は勿論だけど、やっぱりアンタがスッてたんじゃない!」
しかし男は驚愕から立ち直った後は、当初と同じような、薄い嘲るような笑みを顔に貼り付ける。
「ああ、そいつはお嬢ちゃんの財布だったのか。そいつはついさっき拾ったもんでな、後で衛兵にでも届け出ようと思ってたさ」
「じゃあ私が財布を出せって言って、どうして素直に出さなかったのよ!?」
「そりゃ、お嬢ちゃんが財布の持ち主だなんて知らなかったし、気づかなかったからな。いやぁ悪いことをしたぜ」
「こ、の……っ! 言うに事欠いて……!!」
あくまで自らの罪科を認めようとしない男に、ルイズの握り込まれた拳がぶるぶると震えだす。
「いいか嬢ちゃん。『俺はただ空の財布を拾っただけ』で、それも後でちゃんと届け出るつもりだったんだぜ? それをスリ呼ばわりした挙句に、手に戻った今でもグチグチ文句を言うってなぁどうかと思うがなぁ」
「ぐ……!」
罪科を認めないどころか、またしても同様の理屈を並べ立て始める。
「どうなんだ、嬢ちゃんよぉ。むしろ心傷つけられた俺が、慰謝料の一つでも請求したいくらいだぜ?」
口八丁。
どうあってもスリの事実を認める気は無いらしい。
腹立たしいことに、中身は――ほぼ間違いなく――目の前の男に抜き取られているが、これ以上粘ったとしても、男を追い詰めることはできないだろう。
未だ納得できかねる部分はあるが、それを筋の通った言葉、或いは行動に転化する事ができないルイズに、男は再び鼻を鳴らす。
「そーそー。財布が戻ってきただけでも良しとしなきゃな。大体、本当にスられたんだったとしても、スられるマヌケがいけねーんだよ。もし俺が気づかれずに財布スられたってんなら、いくら入ってよーが落としたモンと諦めるぜ」
「へぇ……本当かよ?」
ルイズの眉がつり上がる隣から、三橋が再び口を挟んできた。
その自信に満ちた、確認するような口ぶりに、男の表情が怪訝なものとなる。
(野郎……まさか俺からスるつもりか?)
だとしたら、随分と舐められたものだ、と男は胸中で哂う。
先ほどの手の速さには確かに驚いたが、一度眼にしているのだ。警戒を緩めていた時ならばいざ知らず、気を張っている今ならば、どれほどの早業であろうと、その瞬間を捕らえる自信があった。
「あたりめーだ」
故に男は絶対の自信を持って頷く。
その首肯を確認した三橋は、つい、と首を上にあげて呟いた。
「あっ……雲だ」
珍しいものでも見つけたかのような、少し高い声。
ルイズも、そして男も。三橋の声音に思わずつられて頭上へと視線を移す。
そしてそこには、確かに三橋の言葉通り、ふわりふわりと、大きめの雲が三つほど浮かんでおり――
バガッ!!
「えーと、そんでルイズ。オメーはこいつに金をいくら盗られたんだっけな」
空を見上げていた男に向け、三橋は何の迷いも無く左頬へと右ストレートを叩っ込み、意識を刈り取っていた。
目の前で繰り広げられた、あまりにも躊躇無く、逡巡の欠片も無いドヒキョーな行為にしばし放心していたルイズであったが、先ほど奪った後に返していた財布――恐らくは男の本来の財布なのだろう――の中身を改め始めた使い魔の姿に我に返る。
「こっ……コラコラコラコラコラ!! コイツも流石に褒められたヤツじゃないけど、あんたもそれは人としてどーなのよっ!?」
対する三橋には、全く悪びれる様子が無い。
「いやだって、コイツが言ったんだぜ? 気づかれずに財布奪ったら中身を持ってっていいって」
「い、いや確かにそーゆー事は言ってたかもしれないけどっ!?」
確かに言っていたかもしれないが、だからと言って三橋の行状が「アリ」なのだろうか、と突っ込まずにはいられない。
「大体、アレだけ証拠揃ってんのに悪あがきしてるようなヒキョーモンだぞ」
この男の態度も大概ではあったが、三橋にだけは卑怯者呼ばわりされたくないだろう。
しかし呆れ、突っ込みを入れるルイズをよそに、三橋はきっちりと元々持っていた分だけは徴収する。
「さ、行くべ。まずはメシ食わねーとな!」
やることをやり遂げ、満足げな笑みを浮かべる三橋。
一部始終を見守っていた群衆のひそひそ声など、この男の耳に入ってもいないのだろう。
(そーいえばミツハシって、この前にギーシュとヴェストリの広場で決闘やったときも「不意打ちクラッシュ!」とか叫びながら背後から飛び蹴り入れたり、いつの間にか調達してたチョーク箱で「チョークバコメツブシー!」なんて事もやってたっけ……)
しまいにゃ厨房で調達した調味料で偽の血まで作って過剰な大怪我を装って狼狽を誘う真似すらやってのけたのだ。
そしてその時ですら、卑怯だとなじるギーシュやギャラリーに対し、むしろ満足げに胸を張っていたほど。
今更周囲の風評など、この男の精神に毛筋ほどの傷をつける事も無いだろう。
「……いやー、俺っちも長い間色んなヤツの手に渡ってきたけどよー」
何かの弾みで留め金が外れたらしい。
三橋の背で僅かに鞘から引き抜かれた刀身から、つい先ほど購入したインテリジェンスソードが呆れたような感心したような声を上げる。
「――コイツほどにド卑怯な使い手は、未だかつて見た事無いわ」
その知恵ある剣の呟きは、ルイズは元より、周囲の群衆、そして未だに気絶しているスリの男の気持ちをすら、何よりも明確に代弁していた。
『今日から俺は!!』より三橋貴志を召喚