トリステイン王国の首都――トリスタニアに着いて、まず目に入ったのは大通りの人混みだった。都市の住人だけでなく、他所からやってくる商人や旅人も多いため、通行の中心となるこちらの表通りは、歩くだけで他人と肩がぶつかってしまうほどにごった返していた。
「行くぞ」
そう言って歩きはじめたアーディドのあとを、慌てて追いかける。
ファーティマがこの地――ハルケギニアをアーディドと旅して、半年ほどになった。これまではずっとガリアに滞在し、主要な都市や街を転々としていた。基本的にはアーディドの魔法研究が主で、ファーティマはそれを手伝ったり、ガリア語の勉強をしたりしていた。言語はまったくのゼロからスタートだったが、今ではなんとか簡単な会話ならできるくらいにはなっていた。
「へぇ……」
大通りの街並みを見渡していると、自然に楽しくなってくる。ガリア王国の首都であるリュティスと少し違って、トリスタニアはおしゃれな感じがいっそう強い。とくに何度か見かけた喫茶店などは、時間があったらどれも入ってみたいほどだ。
そんなことを思っていると、先導していたアーディドが路地に右折した。大通りを名残惜しく感じながら、ファーティマもそれに続く。
そこから出た通りを進んでいくと、だんだんと外観がごみごみしてきた。安っぽそうな酒屋や、よくわからない店などが多くなってくる。とはいえ、そんな店を眺めるのもまた面白いのだが。
そこそこ歩きつづけて、ふとアーディドが立ち止まった。目的地に着いたのだ。目の前にある店の看板は、そこが秘薬屋であることを告げている。
この旅を続けるための資金源は何か、というと、アーディドの作りだす精霊石である。とくにハルケギニアにおける水石や土石の価値は格段に高く、それらを売り払えば、そこらの貴族の資産など軽く越えてしまうほどだろう。
といっても、一介の旅人がそんな大層な価値の代物を持ち合わせているなど、奇妙なことこの上ない。悪い意味で、目立ってしまう。だから精霊石といっても、極端に高価すぎない程度の小さな粒を精製して売り歩いていた。それくらいなら、「事情があって手に入れた」とでも言って通用するというわけだ。
今回もそうして、トリスタニアに滞在するのには十分な路銀を確保した。そして秘薬屋を出たアーディドとファーティマは、次の店に向かうことにした。
歩いて数分。着いたのは――武器屋である。
なんだかんだで、旅をするうえでナイフなどの小型の刃物は必要になる。今回はそれらを新調するというのが目的だ。
薄暗い店内に入ると、すぐに「いらっしゃい」と店主の声が聞こえてきた。
「本日は、どのようなご用件……で?」
店主である中年の男性は、アーディドとファーティマを見て、ぽかんとした表情を浮かべた。おそらく、二人の外見が予想以上に若かったからだろう。
年上であるアーディドでさえ、まだゆうに少年と呼べるほどの見た目である。ましてや、ファーティマはそれよりも幼い。
本当はどちらも人間における“子供”の年齢をとっくに過ぎているのだが、他人からすればそんなふうに見えるはずもない。
「これはこれは、見目麗しい若旦那とお嬢さま。いったい何をお求めでございますか?」
店主は急にへりくだったような口調で尋ねてきた。客が貴族の子女であると勘違いしたのかもしれない。まあ、べつに悪い気はしないので、ファーティマとしては構わないのだが。
「旅路に使える万能型のナイフを。とくに“固定化”のかかっているものがよい。品物はあるか?」
「旅路に? ……あ、はい、もちろんですとも! 今すぐに持ってきますので、少々お待ちを」
まさかこの二人が旅をしているなど思ってもいなかったのか、一瞬ながら店主は目を瞬かせたものの、余計な詮索はせずにすぐカウンターの奥のほうへ消えていった。
その間に、ファーティマは店の棚などに展示された剣などを眺めた。傭兵稼業もメジャーなハルケギニアでは、こうした武器の需要は多く、またその種類も豊富だ。剣一つとっても形状や装飾がさまざまで、見ているだけでも楽しい。
と、その時、妙な声が店内に響き渡った。
「おい、兄ちゃん! あんた、ただの“人間”じゃねえな?」
びくり、とファーティマは店のカウンターのほうを振り向いた。
そこには、アーディドが立っていた。だが、それ以外に人影は見えない。さっきの声は店主のものではなかったのだから、誰かもう一人いるはずなのだが……。
ファーティマが混乱していると、店主が奥から焦ったように飛び出してきた。
「こら、デル公! 気易くお客さまに話しかけんじゃねえ! ……これは失礼しました」
「いや、構わない。それよりも、“それ”は――インテリジェンスソードか?」
アーディドの言葉で、ファーティマはようやく合点がいった。
インテリジェンスソード。つまり、意思を付与された剣だ。たんなる意思を付与された物ならば、アーディドとファーティマが首に巻いているスカーフもそうだ。だが、“しゃべれる”ほどの力を付与するとなると、相当な高位の行使手などでないと不可能な芸当だった。
ハルケギニアの系統魔法が意思の付与においてどれほど技術力があるのかわからないが、これまで見てきたガーゴイルなどが言葉を発したことがなかったのを考えると、やはり会話能力を持たせたものは稀有なのだろう。そんな代物が、こんな武器屋に置いてあるとは驚きだった。
「へえ、そうでございます。ご迷惑おかけして申し訳ありません。本当は倉庫にでも閉じ込めておきたいのですが、とある客と契約を結んでおりまして……」
その瞬間、アーディドの雰囲気が変わった気がした。本当に微妙な変化だったが、長年一緒にいると、その辺りのことが感じ取れる。どこか、驚きを抱いたような感じだった。
「……契約、とは?」
「もう五年近くも前ですが、とある男性がこのインテリジェンスソードを持ってきて、『この剣を店に置いてほしい』と言ってきたんです。それも剣を売るのではなく、向こう側が“金を払って”ですよ。おかしな依頼でしょう? まあそういうわけで、私も喜んで引き受けたんですが……こいつが、ひどくやかましい剣でしてね。こっちもあの男性との約束があるから、店先に出しておくしかない。まったく、困ったもので」
ため息をついた店主に、インテリジェンスソードは「おい、ずいぶんな言いようじゃねえか!」と抗議の声を上げる。なんだか人間臭い剣だな、とファーティマはくすりと笑った。
「デルフリンガー、か」
「へっ? どうして、その名前を……」
「この剣は売っているのか?」
「え、あ、いや。じつはその男性との契約の内容はまだありまして……。『条件を満たした人間以外には売らない』というもので」
「その条件とは?」
アーディドがここまで興味を示すのはめずらしい。たしかに、これほどの意思の付与は貴重だ。とはいえアーディドならば、実現させることも不可能でないはずだが……。
そんなことを思っているうちに、店主は“条件”とやらを口にする。
「“名前”ですよ。とある名前を持つ者ならば、それを売ってもいいとの約束なんです。まあ、その名前は絶対に言えませんが――」
「サイト、か」
「……………………驚いた。もしかして、その“サイト”さまですか?」
店主どころか、ファーティマも驚いていた。なぜ、アーディドは答えがわかったのだろう? もしかして、その男性に心当たりがあった? いやしかし、それまでの会話からして、男性のことは知らない口振りだったはずだ。
混乱するファーティマを余所に、アーディドは納得したように口を開いた。
「いや、別人だ。ただ、その男性とやらがどんな人物か、なんとなくわかったのでな。さて、この件は時間がないので次の機会にさせてもらおう。また明日にでも、話を聞きに来るかもしれないが」
そう言って、アーディドは話を本筋――ナイフのことに戻した。店主も思い出したように、持ってきたいくつかの品物をアーディドに紹介する。
それから何度か会話のやり取りをして、ようやくめぼしいものを見つけられたようだ。二本のナイフを購入して、アーディドとファーティマは店を出た。
さっきのインテリジェンスソードのことは気になったが、なんとなくアーディドには聞きにくい雰囲気だった。結局、それには触れずに、宿屋を探すことになった。
通りを歩いていると、いくつか宿を経営している店は見つかるが、なかなかいいところがない。ある程度の質を求めるとなると、やはり裏通りのチクトンネ街よりも、表のブルドンネ街のほうが見つけやすいのかもしれない。もう日も暮れてきたので、早いところ宿を決めたいところだ。
そういうわけで、大通りのほうへ戻ろうとする途中――
「待て。少しいいか?」
唐突にアーディドがそんなことを口にしたので、ファーティマは慌てて彼のほうを向いた。
アーディドの横には、十七歳くらいの少女がいた。黒髪を肩ほどで切り揃えており、タレ気味の目はどことなく愛嬌を感じさせる。
先程の言葉は、おそらく彼女に向けて言ったのだろう。少女はアーディドに体を向けると、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんでしょうか?」
「宿を探しているのだが、どこかよいところはないだろうか」
「宿屋ですか? それなら……わたしが働いている、『魅惑の妖精』亭とかはどうですか?」
「…………それは、よさそうだ。ぜひ案内を頼みたい。ところで、きみの名前を教えてくれないか?」
「あ、はい。わたしはダルシニって言います」
アーディドが額に手を当てて、ため息をついた。……凄く、レアな光景だ。こんな彼の姿、初めて見た気がする。
ファーティマが内心で愕然としているうちに、アーディドはさらにとんでもないことを口にした。
「――吸血鬼が酒場で働く、か。どうにも、予想外のことが立て続けに起こるな」
「――どうして、わかったんですか?」
冷たい殺気に、ファーティマは震えそうになった。
……吸血鬼? 彼女が? 人間にしか見えないが、しかしうわさどおりならば、吸血鬼の姿は人間と変わらないはず。それに、ダルシニは自分が吸血鬼であると認めるような返答をしたのだ。
彼女は――吸血鬼。人間たちが何よりも恐れる、人血を啜る亜人だ。
そんな吸血鬼を前にして、アーディドは平然と口を開いた。
「気配が人間と違った。それと……“名前”だな」
そう言った瞬間、ダルシニの殺気が唐突に消えた。それどころか、困惑したような表情で尋ねた。
「……名前? もしかして、アベルさんかレティシアさんの知り合いですか? それとも、アルフォンスさん?」
人名が並べられるが、ファーティマの知らない名ばかりだ。それはアーディドも同じだったようで、彼は首を振って答えた。
「その者たちの顔は知らないが、まあ、関係がないとは言いきれないな。もしかしたら――」
同郷の者かもしれない、とアーディドは言った。
……同郷。生まれた土地が同じ。そうすると、アーディドの郷里はネフテス国のはずだから、さっきの名前の者たちはエルフとなるかもしれないのだ。
だが、それはおかしい。顔も知らないアーディドが、なぜ彼らを同郷などと言いきれるのか。少し前にあった武器屋での件といい、今日のアーディドの様子は少し変だった。
「詳しい話は、酒場のほうでするとしよう。案内をしてもらえるか?」
「いろいろと聞きたいことはありますけど……そうですね。ここじゃ落ち着けませんし。それじゃあ、行きましょうか」
とにもかくにも、場所を移すことに決まったようだ。ずっと歩きっぱなしで疲れていたので、ファーティマもそれには賛成だった。
……吸血鬼のダルシニ、そして彼女の挙げた名前の人々、そしてアーディドとの関係。気になることは多すぎだが、何よりも安んじて座れるところが欲しかった。
そうしてエルフと吸血鬼という人外の三者は、『魅惑の妖精』亭を目指すことになった。
◇
今まで経験したことのない未知に遭遇したとき、誰しもが冷静にいることはむずかしいだろう。
アーディドならば可能なのかもしれないが、少なくともファーティマには無理なことだ。今もまさに、あまりの光景に意識が一瞬ながら飛びそうになってしまった。
というか、その、なんだろう。なんでこの給仕の娘たちは、こんなに際どい格好をしているのだろう。いくらなんでも……その、見ているこっちが恥ずかしくなってしまう。
「わたしは店長に話してきますね。宿の部屋も融通しておきます。……また、あとで」
ダルシニはそう言いながら手を振って、カウンターの奥へ行ってしまった。
残されたアーディドとファーティマ、そこへ給仕の娘の一人がやってきた。やっぱりこの女の子も、フリルのついた可愛らしい服でありながら、露出が多くやたらと扇情的な格好である。おそらくこの店の方針なのだろうが、店長の顔を見てみたいとファーティマは思った。
「ご案内しますわ、お二方」
にっこりと笑顔で、女の子は席に誘導してくれる。
席に着いてからは、ファーティマたちは適当に料理と飲み物を注文した。そしてちょっとした話をして十分後、注文の料理を盆に乗せて、給仕がやってきた。
「ご注文の品でございます、お客さま」
微笑を浮かべてテーブルに料理を置くのは、ダルシニだった。通りで会った時と違って、豊満な胸を強調した服装は、男性にとってかなり魅力的に映ることだろう。
といっても、ファーティマは女であるし、アーディドはそういう事柄にまったくと言っていいほど無関心なので、ここではあまり関係のないことではあるが。
「さて……ちょっと相席させてもらいますね」
「仕事はよいのか?」
「店長から許可を貰っているから、大丈夫です」
そう笑って、ダルシニはファーティマの隣に座った。
「うーん……何から話しましょうか? 自己紹介は、ここに来るまでに済ませましたし」
ダルシニの言うとおり、道中に名前などの情報交換は行なっていた。もちろん、ファーティマとアーディドがエルフだということも、ダルシニには知らせてある。彼女も人間から恐れられている吸血鬼という種族なだけあって、ファーティマたちがエルフだとばらしても、驚きこそすれど、とくに怯えや敵意を持つこともなかったようだ。
「それでは、先程きみの言った者たちについての詳細を教えてほしい」
「アベルさんたちのことですね。いいですよ」
ダルシニは一呼吸置いて、話しはじめた。
語られたことをまとめると、以下のようになる。
アベルは、吸血鬼と人間のハーフという特殊な亜人である。彼は吸血鬼や獣人など、ハルケギニアで孤立しやすい亜人たちをまとめあげ、彼らを束ねて人里離れた森の中に村を作った。ダルシニも三十年ほど前に、双子の妹と一緒に“とある貴族”に捕らえられていたところをアベルたちに救われ、それから彼の村の一員になったとのことだ。ダルシニが今この酒場で働いているのは、個人的な希望と、トリスタニアの情報を常時収集するためらしい。
レティシアは、今はトリステイン魔法学院で教師として働いているメイジである。ダルシニがレティシアと出会ったのも、アベルに助けられたのとほぼ同時期だったとのことだ。彼女は非常に優秀な“風”の使い手で、アベルにも並ぶほどの才を持つメイジであるという。また、魔法研究所の議員や研究者とも親交が深く、“風石”に関する研究なども独自に進めているらしい。
そしてアルフォンスは、ガリアの王宮で医者として雇われているほど腕の良い水メイジである。そんな彼もやはりアベルたちと関わりがあるらしく、定期的に“村”に訪れては、住民の治療や水の秘薬の補給などをしているらしい。とはいえ、アルフォンスはガリアにいることがほとんどなので、彼についてはダルシニはそれほど詳しくないという。
その三人について言えることは、全員がハルケギニアでも希少なスクウェアクラスのメイジであることだろう。つまりは……天才というやつである。
そしてレティシアという女性は、アーディドと同じように風石について研究を行なっているらしい。それも考えると、やはりアーディドには、彼らとの何かしらの共通点があるのかもしれない。
考え込むようにしばらく黙って聞いていたアーディドだったが、ダルシニの話が一段落したところで、ようやく口を開いた。
「そのアベルは、今はどこに?」
レティシアはトリステインの魔法学院、アルフォンスはガリアの王宮。しかしアベルの現在の所在については、ダルシニはとくに言及していなかった。
「アベルさんなら、今はアルビオンのほうに出かけています。でも……さすがに、アルビオンのどこへ行ったかについてまでは教えられません。アベルさんたちと関係のある人だとはわかるんですが、今日会ったばかりですし……」
「アルビオン、か。時期を考えると、モード大公のところか?」
一瞬、絶句したような表情をダルシニは見せた。
「……そうです。でも、どうしてそれを?」
どうやら正解らしい。……こうも立て続けに起こると、じつは予知能力でも持っているんじゃないか、とファーティマは疑ってしまう。
アーディドは、相も変わらず涼しげな顔で言った。
「理由は言えない。だが、そのアベルたちも同じように、知らないはずのことを知っていたりはしなかったか?」
「……思い当たるところはありますね。わかりました、深くは聞かないことにしましょう。それで……アベルさんのことですが――」
もはや隠さず教えるべきだと判断したのだろう。ダルシニは、彼女の知るかぎり全てのことを話した。
アベルがアルビオンに行くことを決めたのが三ヶ月前。そのついでとして、彼は村で生まれ育った若い吸血鬼のエルザという少女を、外の世界を見学させるために同行させているらしい。そしてつい一週間ちょっと前までは、アベルとエルザはトリスタニアに滞在していたとのことだ。予定どおりならば、二人はトリスタニアを出てからはラ・ロシェールへ行き、定期便の“フネ”を利用して、すでにアルビオンに入国しているはずである。
「アベルさんは、シティオブサウスゴータに行って、そこでモード大公に関する所用を済ませると言っていました。具体的な内容についてまでは、知らされてはいませんけどね。……もしかして、アベルさんかどんな用事だったか、アーディドさんは知っているんですか?」
「モード大公の妾はエルフの女性だ。おそらく、彼女に関することだろうな」
どくん、とファーティマの胸の鼓動が高まった。
アーディドがモード大公の名を口にしてから予感はしていたのだが、やはり大公の妾――シャジャルに関係することのようだ。
モード大公と、シャジャル。
もともとその二人は、このトリステインにある程度滞在したのちに、アルビオンへ行って顔を合わせる予定の人物だった。
二人について、アーディドは何かを知っているようだった。それはつい先程、アベルという男性の行き先を言い当てたことからも、うかがうことができる。とはいえ、アーディドはその内容について「会えばわかる」と、これまで頑なに口を閉ざしてはいたのだが……。
「ファーティマ、予定を変えることにしよう」
「……え?」
突然そんなことを言われて、思わず聞き返してしまった。
だが、すぐに思い至る。アベルがモード大公のところへ行ったのを聞いて、“予定を変える”というのは、どう考えても一つしかないだろう。
まだ先のこと。
そんなふうに思って、心積もりもできていなかったことが。
急速に間近なものとなる。
「明後日にはトリスタニアを出る。行き先は、ラ・ロシェールからアルビオン、そして――モード大公のところだ」