どれだけ平穏な日常を望んでも私はいつの間にか走っている。 そうしているのは間違いなく私の意思ではあるが、そう決断するだけの何かがあるのも事実。 私が自ら足を踏み入れているのか、世界が私をそうさせているのか。 これが終わったら双月の下でお風呂に入ろう。 そうだ、今度は才人さんやルイズさんを誘ってみよう。 平穏な日常を皆と共に。 青や黒っぽい寒色系で埋め尽くされた世界。 あたりは静まり返り、僅かな風が木々に生い茂る葉や、地から生える草葉を揺らし、それらがこすれあう音だけが耳に届く。 時折、視界の端を赤やオレンジ色をした影がちらつく。 その影はよく見ればウサギやイタチなどの小動物だと、影の形でわかった。 進めど進めど、目的の人の形をした影は見えない。 不意に今までとは違う音が耳に届いた。 風を切る音が徐々にこちらへと近づいてくる。 空を見上げ振り返ると遠くのほうから竜の形をした赤い影がこちらに近づいてくるのが見えた。「確か、タバサさんの使い魔のシルフィード?」 そう呟くと同時に双月の光が、そして辺りの草木がはっきりとその視界に映った。「きゅいきゅい、あんまり気乗りしないのね~」 タバサの使い魔のシルフィードは双月が彩る夜空の下、自分の背に主人であるタバサしか乗ってないのをいいことに、さっきから一人で喋り捲っていた。 シルフィードはイクスの使い魔であるカニスとは違い、使い魔となる以前から人語が喋れる。 何故なら、彼女はただの風竜ではなく風韻竜と呼ばれる種族だからだ。 韻竜と呼ばれる種族の多くは知能が高く、人語を話すこともでき、先住魔法や精霊魔法と呼ばれる魔法を行使することもできる極めて珍しい種族だ。 しかし、その知能の高さと珍しさ故かあまり人目に触れようとせず、終いには絶滅したとさえ噂されていた。 最も静かに暮らしたい韻竜たちからすれば、人間が勝手に韻竜は絶滅したと思ってくれることは好都合ではあるが。 そんな韻竜であるシルフィードをタバサは召喚し使い魔としていた。 タバサのメイジとしての才能がうかがい知れる。 しかしタバサは自らの使い魔が韻竜であることは秘密にしていた。 その珍しさゆえに研究対象とかにされてはかなわないからである。「さっきから、気乗りしない、ばかり」 シルフィードの背に乗ったタバサがそう言うと、「気乗りしないものは、気乗りしないのね」 シルフィードは駄々をこねるように首を左右に振りながら答えた。 既に二百年という時を生きているが、人間で言えば十歳程度。 しかし、そんなシルフィードの頭を杖で軽くこつき、「訳を」 そうタバサが尋ねるとシルフィードは少し考えるように、「ん~……よくわからないけど、アレは人間の姿をした人間じゃないものなのね」 その答えにタバサは僅かに眉を寄せ、「どういうこと?」 タバサはそう言い首を傾げるが、「よくわからないものは、よくわからないのね。とにかくアレは人間じゃないのね。これは絶対なのね」 そう言いきるシルフィードはふと下の森に目をやり、「いたのね、あいつなのね」 シルフィードの言葉にタバサも身を乗り出して下に目をやった。 確かにシルフィードの言うとおりミルアがいた。 タバサはシルフィードに降りるように支持をだし、ミルアの元へと降りる。「フーケは?」 シルフィードから降りたタバサが尋ねるとミルアは首を横に振る。 それを見失ったと解釈したタバサは、「一度学院にもどる。これ以上の単独行動は危険」 タバサはそう言うとシルフィードに乗り、ミルアに手を差し出す。 ミルアは「ありがとうございます」というとタバサの手をとり自らもシルフィードに乗った。 なにやらシルフィードがきゅいきゅい騒ぐが、タバサに杖で頭部を一撃されるとおとなしく空へと舞い上がる。 巻き起こる風で尻尾のような後ろ髪が暴れるのを手で押さえながらミルアは遠ざかってゆく森を見下ろしていた。 やがて、ミルアは目の前のタバサの背中に向かって、「タバサさん、一つ聞きたいことが」「何?」「学院にメガネをかけて、緑がかった髪の長い女性がいましたよね? あれ、誰ですか?」 ミルアの問いにタバサは僅かに考え込んで、「たぶん、貴方が言ってるのはミス・ロングビルだと思う。彼女は学院長の秘書」 タバサはそこまで言うとミルアのほうを振り返る。 そしてミルアの目をまっすぐ見て、「どうして?」 タバサの問いにミルアは目を閉じ、しばらく黙っていた。 やがて目を開くと、「タバサさん、少し聞いてもらいたいことがあります」 そう言って学院に着くまでのあいだミルアとタバサは話し込むことになった。 翌朝、学院はその創設以来といっていいほどの騒ぎになっていた。 それは無理もない。 宝物庫にはぽっかりと大きな穴が空き、皮肉なことに埃っぽかった宝物庫が風通しがよくなった。 その上、穴が開いている反対側の壁には『破壊の杖』を頂いたという文言と、フーケの署名がしっかりと残されていた。 そんな宝物庫に集まった教師達はあんぐりと口を開け、その場に突っ立っている。 しばらく沈黙が続いていたが、唐突に責任は誰にあるかという議論が始まった。 やれ、衛兵は何をしていただの、当直は誰だのと。 そして当直だったはずのシュヴルーズにその矛先が向き彼女はよよよと泣き崩れた。 メイジが集まるこの魔法学院に賊など、と思っていた彼女は当直をサボり自室で夢の中だったのだ。 しかし、実際のところ他の教師たちも似たようなもので、まともに当直していたのはコルベールぐらいだったりする。 その様子をルイズはいらいらしながら見ていた。 ルイズ達一行はフーケの犯行を目撃したということで宝物庫に呼び出されていたのだが、目の前で繰り広げられているのは教師達の責任逃れの争いだった。 自らこの事態をどうにかしようとする教師が一人もいないためか既に日は昇っているというのに事態は何一つ進展がない。 これがこの国の貴族だって言うの? ルイズは一人、自国の貴族の情けなさにいらいらしていた。 公爵家の娘として両親からは貴族とは、ということを小さい頃から教え込まれていたし、いつかは国の繁栄に一役買えるような貴族になりたいとも思っていたルイズとしては目の前の現状は悔しいものがある。 ルイズは自分を落ち着けるためにも他の面々に目をやった。 才人は宝物庫の物に興味があるのか周りをキョロキョロと見ている。 ミルアも興味があるのか視線だけで宝物庫を見渡している。 キュルケにいたっては隠そうともせず欠伸をかいていた。 タバサはまるで置物のように目を瞑り、その場にじっと立っている。 もしかして寝てるんじゃないのか? とルイズは疑り少しつついてみようと手を伸ばしたとき、宝物庫に学院長であるオスマンが飛び込んできた。「なんということじゃ、所用で街へおもむいた時を狙いすましたかのように……」 オスマンは宝物庫の有様を見てそう言い、がっくりと肩を落とした。 やがて、小さくなって泣き崩れていたシュヴルーズに近寄ると、「ミセス、君のせいではないよ。皆が皆、このメイジが集まる学院に賊が押し入るなどとは思ってなかったのじゃ。その証拠にわしだって当直をサボったことは山ほどある。今回の件は油断しきっていた皆の責任じゃ」 その穏やかな物言いにシュヴルーズは感動で胸を詰まらせ、ルイズのいらいらも少なからず解消した。 そして、オスマンはルイズたちに目をやり、「君達がフーケの犯行を目撃したのかね?」 そのオスマンの問いにルイズは一歩前に進み出て、「はい、昨夜、三十メイルはあろうという巨大なゴーレムが宝物庫の壁を破壊し、何かを持ち出すのを見ました」「そうかそうか、さぞかし驚いたことであろう。しかし君達が無事でよかった。フーケが目撃者である君達に危害を加えんでよかったよ」 オスマンはそう言い、笑顔で自らの手をルイズの頭にポンと置く。「で、ですがっ……」 ルイズはそう言い、フーケの犯行を阻止できなかったことを謝罪しようとした。 しかし、それを察してなのか、コルベールがルイズ手で制し、「で、学院長、これからどうしますか?」「ふむ、学院の問題はわしらだけで解決したいが何か糸口がほしいの……」 そこで何かに気がついたのかオスマンは周囲を一瞥する。 皆が、何かを探しているのかと思っていると、「そういえばミス・ロングビルは何処へ行ったのかね?」 オスマンのその言葉にミルアとタバサは僅かに視線を交わす。 すると、そこへ当のロングビルが転がり込んできた。 驚く一同を尻目に彼女は息も絶え絶えにオスマンのほうを見て、「フーケの……居所が……わかりました……」 その言葉に再び驚く一同、「どういうことかね、ミス」 オスマンがそう問うとロングビルは一旦、呼吸を整えた後、「外の騒ぎで起きてみれば、フーケが逃亡した後でして、それで夜通しで調査をしてまいりました」 ロングビルのその答えに教師陣から関心の声があがる。 そして彼女は一呼吸おくと、「調査の結果、フーケが使用していると思われる隠れ家の場所がわかりました」 おぉ、と宝物庫に教師達の歓声が響いた。 オスマンは手で皆を静めると、「ミス、説明を頼みたいのじゃが?」 その問いにロングビルはニコリと笑顔を見せ、「もちろんですわ」 そう言い、一度咳払いすると、「フーケが逃げ込んだ森に詳しいであろう近隣の住民たちに対して重点的に聞き込みを行いました。すると学院から徒歩で半日、馬で四時間のところにある廃屋につい最近、黒いローブを身にまとった見慣れぬ男が出入りしているとのこと。学院長が留守のところを襲撃したところを見るに、このローブの男がフーケとすれば、廃屋を根城に学院を襲撃する機会を伺っていたのではないかと」 ロングビルがそう説明すると教師陣の中から「確かに筋は通るな」という声が漏れてくる。 その声にロングビルは満足そうに頷き、「私としては、このローブの男がフーケである可能性が極めて高いと思われます」「ふむ、ここでじっとしていても始まらんしの、早速フーケ捕縛の有志を募ろうかの」 そう言ってオスマンは教師陣たちを見渡すが皆一様に目線をそらす。 その光景にオスマンが内心「駄目じゃコイツら」とため息をついていると視界の端で誰かが杖を掲げたのが見えた。「なんと」 杖を掲げたのが誰なのか確認したオスマンは驚きの声をあげる。 彼の視線の先には、杖を掲げ、唇をきゅっと結び正面をまっすぐに見据えたルイズがいた。 才人は杖を掲げ、フーケの捕縛に志願したルイズをぽかんとした表情で見ていた。 呆れていたわけではない。 唇を僅かにへの字に曲げながらも、真剣な眼差しで杖を掲げるルイズを才人は綺麗だと思った。 それはこの場にいた全員が少なからず思ったことでもある。「ミス・ヴァリエールなにをっ! 貴方は生徒なのですよ? ここは私達教師に任せて―――」「だって誰も掲げないじゃないですかっ!」 シュヴルーズがルイズを止めようとするがルイズの一言にしゅんと小さくなる。 他の教師達も何も言えず押し黙っていた。 宝物庫に吹きかかる風だけが小さな音を立てている。 誰かの「ふぅ」というため息が聞こえ、すっと杖が掲げられた。「ミス・ツェルプストー……君もかね?」 オスマンがキュルケの目をまっすぐ見て聞く。 その視線に一切引くことなく、キュルケは僅かに微笑を浮かべると、「ヴァリエールだけに、いい格好はさせられませんわ。私も行きます。止めても無駄ですわよ学院長」 キュルケの答えにオスマンを笑みを浮かべながら、「ほっほっ、わしの様な年寄りに若者を止めるのは、ちとキツイものがあるのう」 そう言うオスマンに教師陣の中から「学院長……」とため息が聞こえた。 そんな中、もう一本の杖が掲げられる。 それを見たキュルケは、その顔に微笑を浮かべたまま、「あらタバサ、貴方は付き合わなくてもいいのよ?」 その言葉にタバサはふるふると首を横にふると小さな声で「心配」と一言だけ呟いく。 それを聞いたキュルケは本当に嬉しそうに「ありがとう」と答え、ルイズもタバサに負けないほどの小さな声で「ありがと……」と呟いた。 その光景にまぶしい物でも見るように目を細め、オスマンがうんうんと頷いていると、コルベールがオスマンに近づき、「よ、よろしいのですか? 学院長」「よろしいもなにも、この有様じゃしのぉ」 そういってオスマンは教師陣を一瞥するが、皆一様に目をそらした。 オスマンは軽いため息をつくと再びルイズたちの方へ向き直る。 そして、その面子を見渡した後、今度は教師陣の方を見て、「彼女達は敵を見ている。何一つ心配ないというのは嘘になるが、ミス・タバサは若くしてシュヴァリエの称号を持つ騎士だと聞く。で、あるならば成果も期待できよう」 オスマンの言葉を聞き他の者達が驚いたような声をあげる。 キュルケはタバサの方を見て、「タバサ、今の話、本当?」 そのキュルケの問いにタバサはこくりと頷いて答えた。 才人とミルアの二人はそろってルイズに、「シュヴァリエって?」「シュヴァリエってのは王室から与えられる爵位の中では最下級なんだけど、領地を買えばもらえるような爵位とは違って功績のみによって与えられるもので、純粋に実力の証なのよ」 ちょっと得意げに説明するルイズに対して、才人は「なるほど」と呟き、ミルアも納得したのか僅かに頷いた。 他の教師陣はタバサのがその若さでシュヴァリエの称号を持っていることに驚いている。 オスマンは続けてキュルケの方を見て、「ミス・ツェルプストーはゲルマニアの軍人の家系で、数多くの優秀な軍人を排出してきた歴史がある。それに彼女自身も優秀な火の使い手と聞く」 そのオスマンの言葉にキュルケはその大きな胸を張る。 そして今度は自分の番だと、ルイズがその、ささやかな胸を精一杯張った。 しかし、そんなルイズを見てオスマンは困った。 褒めるところが思いつかない。 しかし、そこは年の功、瞬時に何かを思いつき、「ミス・ヴァリエールは、貴族としてもメイジとしても優秀な者を数多く排出したヴァリエール公爵家の息女で、今でこそ他の生徒からは不名誉な二つ名で呼ばれておるが、決して諦めない不屈の精神は、さすがヴァリエール公爵家の者。その将来は大いに期待できよう」 どうよ、わし、やったよ。と、会心の出来といわんばかりの顔で一息つくオスマン。 そして才人とミルアの二人を見て、「しかも、そのミス・ヴァリエールの使い魔である少年は、平民ではあるが、グラモン元帥の息子であるギーシュ・ド・グラモンを決闘で倒すほどの剣士。そして傍らの少女は青銅のゴーレムを素手で打ち砕くほどの怪力の持ち主で、なおかつ遥か遠い異国の魔法を使うメイジでもあると聞く」 オスマンの言葉に教師陣たちは再び驚きの声をあげ、才人とミルアに注目した。 突然注目された才人は居心地悪そうに一歩下がるが、別のことを考えているのかミルアは我関せずといった態度。 やがてオスマンは、驚くだけ驚いて黙りこくってしまった教師達に威厳のある声で、「彼らに勝てると思う者がいるのであれば、一歩前にでなさい」 誰も動かないことを確認したオスマンはルイズたちに、「学院は君達生徒の、貴族としての誇りと義務に期待する」 そう言うと不意に穏やかな表情になり、「なお、これは一教師であるわしからの個人的な言葉じゃ。皆、必ず無事に帰ってきなさい。これ以上は無理と判断したら引くこと。引くことは必ずしも恥ではない。明日の勝利への布石じゃ」 そう言うオスマンの後ろでコルベールも頷く。 ルイズたちは若干戸惑ったような顔をしたが、すぐに真顔で、「杖にかけて!」 そう唱和し、スカートのすそを摘み恭しく礼をした。 才人も慌ててお辞儀をする。 ふと才人が横を見るとミルアは何故か軍隊などが行う挙手の敬礼を行っていて、才人は驚いた。「でわ、さっそく馬車を用意しよう。目的地までの足とし、魔法は温存したまえ。ミス・ロングビル、彼女達の手伝いを頼めるかね?」 オスマンがそう言うと、ロングビルは笑顔で頷き、「もちろんです」「うむ。助かる。では皆、すぐに出発の準備をしたまえ。フーケは待ってはくれんからの」 そう言うと皆がぞろぞろと解散して行く。 ルイズたちもそれぞれ準備のため早足で宝物庫を後にする中、オスマンとミルアだけがその場に残った。 オスマンは興味津々といった顔で、「たしか、ミルア君とかいったかの? 何かわしに用かね?」 そう問うオスマンに、ミルアはある物を指差し、「あれは何でしょうか?」 ミルアが指差したのは人の頭よりも大きい棘付きの鉄球だった。その鉄球からは一メートルほどの鎖が伸びている。 オスマンは、あぁと頷き、「あれは『役立たずの鉄球』といっての、その名の通り役にたたん鉄球じゃよ」「役に立たない?」 ミルアが僅かに首をかしげると、オスマンは鉄球に近寄り、「これは特殊なマジックアイテムでの。メイジの精神力を消費し、望むままに、その鎖を伸ばすことができるのじゃ」 その言葉にミルアは、ふむと頷く。 しかし、オスマンは首を横に振り、「しかしメイジは魔法を使い、わざわざ、このような原始的な武器は使わんしの」 そういい、鉄球に触れ、「しかも、重くて振り回せない。何処まで鎖が伸びようが意味がないのじゃ」 オスマンがそう言いながら鉄球に触れていると、横からひょいとミルアの手が伸び、そのまま片手で鉄球を軽々と持ち上げた。 ぽかんとオスマンが驚く中、ミルアは空いた手に鎖を持つ。 じゃらじゃらと音を立てながら伸びだした鎖を手に、ミルアはフーケにぶち破られた壁から、宝物庫の外へと鉄球を放り投げた。 ハルケギニアの空の下、宝物庫から飛び出した鉄球は、綺麗な弧を描いて飛んで行き、やがてドシンという音を立てて地面にめり込んだ。 そんな光景をオスマンとミルアの二人は黙ってみていたが、やがてミルアはオスマンへと振り返る。 そして下から見上げるようにしてオスマンを見て、外で地面にめり込んでいる鉄球を指差し、「あれ、貸してもらえませんか?」 そう聞いた。 オスマンは、遥か遠くで地面から生えた鉄の棘を見ながら苦笑し、「あぁ、よいぞ。おじいちゃんが貸してあげよう」 何処か明後日の方向を見るように言うオスマンを見ながら、ミルアは内心、やりすぎた、と小さく反省していた。