生きるためには誰かを犠牲にしなければならない? 本当に? もし誰かを犠牲にしなくてもいい選択肢があればどうしますか? その選択肢の先にある未来に何があるのかわからない。 わからなくても選ばなくてはならない。 私が選ぶ選択肢は…… ―――ウルの月、エオローの週、オセルの曜日――― 『出頭せよ』 そう書かれた手紙を手にタバサは小さくため息をついた。 ラ・ロシェールの街でルイズたちと別れたから二日後、タバサたち一行を乗せたシルフィードは、空の上でニューカッスル城から来た避難船を見つけ、そこでルイズたちと再会した。 その時タバサはすぐに気が付いた。ミルアがそこにいないことに。 ルイズたちを問い詰めてみれば、ミルアは避難船が無事に逃げる為の時間を稼ぐためニューカッスル城に残ったという。 それを聞いた、タバサやキュルケ、ギーシュは驚きの色を隠せなかった。シルフィードすら「きゅいきゅい」と鳴いていた。 ただ、その時タバサは見たのだ。 イクスが口の端をゆがめて笑みを浮かべていることに。 何が可笑しい。 タバサはそう問い詰めたい衝動を必死に抑えた。イクスはずっと以前からこうなのだと。 どのような事態でもまるでそれを楽しむかのように笑みを浮かべる。 気にしても無駄。憤っても無駄。タバサは自分にそう言い聞かせる・ その後シルフィードの背にルイズと才人を加え、一行はトリスタニアにある王宮へと向かった。無論これまでの事をアンリエッタ姫殿下に報告するためだ。 直接王宮の中庭にシルフィードで降り立ったため、警備にあたっていた三隊ある魔法衛士隊のうちの一つであるマンティコア隊に囲まれたりと、一悶着あったが、そこへ姫殿下が駆けつけたことにより事なきを終えた。 その後、ルイズと才人は報告の為、姫殿下の居室に通される。 別室で待っていたタバサたちは詳しい話は聞けず、ルイズたちが戻ってくるなりすぐさま魔法学院へ向けて出発した。 そして魔法学院へ帰ってから数日。 やはりミルアがいない為なのかルイズと才人はどこか元気がなく、ぼんやりと窓の外を眺めていることが多かった。 同じように窓の外を眺めているタバサにはルイズたちが何故窓の外を眺めているのかわかっていた。 ミルアが帰ってくるのを待っているのだ。 たった一度、任務に付き合ってもらったタバサでさえ気になっているのだから、普段一緒にいたルイズたちが気にかけないわけがない。 ましてやアルビオンに残った動機が動機だ。心配するなと言う方が無理である。 最初の内はミルアを警戒していたシルフィードも時折魔法学院の周りを旋回していて、何をしているのかとタバサが聞けばミルアが帰ってこないかと周囲を観察していたと言う。 そして魔法学院に帰ってから、五日後。ルイズの部屋に一羽のフクロウが入っていったのを見たタバサは、なんとなく気になってルイズの部屋を訪ねてみた。 尋ねてみるとルイズと才人が安どの表情を浮かべている。 見ればルイズは手紙を握りしめていた。 「何が書いてあったの?」 基本的に手紙に碌なことが書かれていないタバサは自然とそう尋ねた。 するとルイズはどうぞどうぞと言わんばかりに手紙を差し出してきて、普段の何処か攻撃的なルイズからは想像できないその行動にタバサは怪訝な表情をしながらも、その手紙を読み始めた。 手紙の内容は、簡単に言えば、 『今私はミス・ロングビルが住んでいるアルビオンのウエストウッド村と言うところにいます。デルフさん共々無事です。ただ、疲れたのと、帰りの船を探すのが大変なので帰るのに少し時間がかかります。ミルアより。代筆、ロングビル』 と、言う具合だった。 その内容にタバサもほっと胸をなでおろした。 その時であった。 自室の窓の外で、シルフィードが「きゅいきゅい」鳴いていることに気が付いたタバサは何事かと自室に戻ってみる。 するとそこには手紙が届いていて、 『出頭せよ』 これである。 ミルアが無事であると知った矢先にこれである。 実に気分が悪い。いつも以上にだ。 しかしタバサは行かねばならない。 行かなければ彼女自身と、心を毒薬で壊され、寝たきりの母親の命が危うくなる。 タバサは窓の外のシルフィードに飛び乗ろうと、窓から身を乗り出した時た。 「へっろぅ~タバにゃん」 妙ちくりんな言葉と共にイクスが現れた。無論ノックなどなし。無断で扉を開けてだ。 その顔にはいつものように何とも言えない笑みが浮かんでいる。 「何の用?」 タバサがそう冷たく言い放つと、イクスはにやにやとしたまま、 「これから任務でしょ? 私も手伝ってあげるよ?」 「必要ない」 タバサはそう言い、これ以上話はないと言わんばかりにシルフィードに飛び乗ろうとした。 しかし、そんなタバサのマントをイクスがつかみ引き留める。 見た目、イクスの体格は胸囲以外ルイズと変わらない。手足も細く華奢と言える。 しかし、その体から発揮される力はとても強く、タバサは全く前に進めなかった。 「まぁまぁ、そう焦らずに。今回の任務の内容は知ってる?」 イクスの言葉にタバサは首を横に振る。 思い返してみれば手紙には続きがあったが、後で読み返せばいいことだ。それは移動中でもできる。 そんなタバサを心中を知ってか知らずか、イクスは今確認するように急かしていた。 仕方ないとばかりにタバサは手紙を読み返すことにした。 そして読み返してみて杖を握る手に力がこもる。 『吸血鬼』 それが今回の任務の相手だった。 とある村で吸血鬼が出たから退治しろというものだった。 「確実に任務を遂行するためにも戦力は多い方がいいと思うわけですよ。それに私もたまにはガリアに帰りたいしね」 おどけたようにそう言うが、タバサの目から見ればすべてが演技に見えてしまう。 それは、今まで頼る者もおらず、ただ一人で戦い続けてきたタバサだからそう穿って見えてしまうのか。 ただそれでも、怪しい笑顔で「おねがい」などとイクスに言われれば、どうにも逆らえないタバサがいた。 自分は彼女を恐れているのだろうか? タバサはそう自問せざるをえなかった。 タバサとイクスが吸血鬼の討伐に向かってから数日。そして、ミルアとティファニアが地上にたどり着いた翌日。 自力で歩けるまでに回復したミルアはティファニアの背からおりて彼女の数歩前を歩いていた。 場所は木々が生い茂る森の中。日の光は木々の間から差し込んでいるとはいえ決して明るいとは言えない。 視界も悪く足元もおぼつかない。 ミルアは安全の確保という事でティファニアの前を歩き、デルフを使い邪魔な枝葉を薙ぎながら進んでいた。 「釈然としねぇ」 自らの使われ方にぼやくデルフをミルアはスルーする。自力で歩けるとはいえまだ全快とは言えず、デルフの言葉に何か答える気力がわいてこない。 メイジで言うところの精神力。ミルアの場合で言えば魔力に関しては問題はない。以前、フリッグの舞踏会でデルフが指摘した、ミルアの中にある内臓以外の物。それが機能している限りミルアに魔力切れと言う問題はほぼ発生しない。 ほぼ無尽蔵に、なおかつほぼ永久的に魔力を供給し続けるソレはミルアにとって、最大の長所と言えるかもしれない。 しかし、無尽蔵に魔力が供給されるからといって無尽蔵に魔法が使えるわけではない。 膨大な魔力と、巨大な出力はミルアの小さな体にかなりの負担がかかってしまう。それこそ自動治癒が全く追いつかないほどにミルアの体は傷ついてしまう。全身の骨や各種内臓が特殊な物に置換されていなかったら、さらに酷いことになってることに違いない。 おまけにミルアはスタミナが極端にない。 これらはミルアの長所を無駄にしてしまうほどの短所である。 故に、ミルアの理想的な戦い方は、膨大な魔力と、強大な出力を用いた短期決戦となる。それもかなり瞬間的な。 先のティファニアを抱えたまま長々と飛び続けるというのは、短距離用に仕上がった体でフルマラソンをするようなもので、一種の拷問である。 『欠陥品』とミルアは自身の事を評したりするが、それはあながち間違いとは言えなかった。 「ミルアって変わってるね」 飛行魔法の使い過ぎで血を吐いたミルアに、ティファニアは特に他意もなくそう言葉にして、ミルアは自身の体の特異性を話すことにした。 ルイズや才人には未だ話していないことではあるが、ティファニアの、人に明かせない身の上に関して知ってるミルアとしては、自身の体のことぐらい、まぁいいかと思ったためである。 無論、そのことで気味悪がられる可能性もあったが、なんとなくテファなら大丈夫だろうという思いがミルアにはあった。 「どんな体でもミルアはミルアだよ」 現にこの言葉である。 ミルアの事をどういう風に見ているかはともかく、真剣な表情で真っ直ぐにミルアを見てそう言うティファニアに、ミルアは内心でほっとすると同時に、こんないい子が人目を避けて生きなければならないなんて、この世界は随分と酷いことをしてくれる。そう思っていた。 「嬢ちゃんも難儀な身の上だな。でもなんでまた?」 デルフが尤もな疑問を口にしたとき、ミルアはこちらに近づいてくる気配に気が付いた。 すぐさまデルフを構えたミルアだったが、すぐに小首をかしげる。 そんなミルアをティファニアは疑問に思ったが、森の奥からがさがさと音がしてそちらに目を向けた。 すると森の奥から現れたのは小さな女の子だった。 金色の髪をやや短めに切りそろえたその女の子はミルアよりやや小さく見える。 かわいらしい女の子ではあったが問題があった。 女の子らしいフリルのついた可愛らしい服を着ていたのだろうが、それはぼろぼろになっており至る所で白い素肌が見えている。靴も片方しか履いておらず、履いていない方は泥だらけ。金色の髪も所々が土や泥で汚れている。 女の子はデルフを構えたミルアを見るや怯えたようにその場にへたり込んだ。 ほんの僅か女の子を見ていたミルアだったが、そんなミルアを余所にティファニアが慌てたように女の子に駆け寄り、 「あなた、どうしたの? こんなに汚れて……パパとママは?」 女の子の前に膝をつく形でしゃがみ込み、そう尋ねるティファニアに女の子は首を横に振って「いない」と答えた。 ティファニアが「はぐれちゃった?」と尋ねると、女の子は再び首を横に振る。 「パパもママもメイジに殺されちゃったの……」 女の子のその答えにティファニアは小さく息をのんだ。 自分や、自分が保護してきた子供たちと同じ境遇の女の子を、ティファニアは優しく抱きしめる。 抱きしめながら「もう大丈夫だよ」と何度も語りかけるティファニアに、やがて女の子もティファニアを抱きしめ返した。 「なぁ、嬢ちゃんよ。もういいんじゃねぇの?」 デルフは自らを構えたままのミルアにそう声をかける。 怯えている小さな女の子に対して剣を構えている図というのは、少々問題がある。 ミルアは小さくため息をつくとデルフを背中に背負い直した。 自分より僅かに小さな女の子に歩み寄ったミルアは僅かに身をかがめると。 「私の名前はミルア。あなたの名前は?」 首をかしげるように問うミルアに、小さな女の子はしばらく怯えたようにミルアを見ていたが、 「……エルザ」 小さな声でそう答えた。 両親をメイジに殺されたというエルザを保護したミルアとティファニアは、なんとか小さな村を見つけることが出来た。 幸いなことに、その村の村長は素姓の知れないミルア達を快く受け入れてくれて、村長の家に一晩泊めてくれることになった。 「とりあえずテファはちゃんとフードをかぶっていてくださいね」 借りた部屋でミルアがそう言うとテファは黙って頷く。 それを聞いたエルザが不思議そうに首をかしげる。ボロボロだった服は既に村の住民からもらった服に着替えている。 エルザはティファニアの顔を覗きこみながら、 「どうしてテファお姉ちゃんはずっとフードをかぶってるの?」 エルザの問いにティファニアは困ったような顔をする。 そんなティファニアにエルザは更に質問しようとするが、ふと視線を感じて、そちらを見る。 「な、なにお姉ちゃん?」 エルザは自分をじっと見つめているミルアに怯えて後ずさる。 「いえ、特には……」 ミルアはそう言うが、威圧感のような物を感じたエルザはティファニアの後ろに身を隠した。 当のティファニアは苦笑しながらミルアを見る。 ミルアは首を横に振りため息をつくと部屋を出て、そのまま家の外へと出た。 見上げてみれば既に日は落ちつつある。 人口は百人ほどの村ではあるようだが、日が落ちつつある為か人影は少ない。 きょろきょろと周囲を見渡していたミルアはふと自分を見ている女の子に気がついた。 年のころはエルザと対して変わらないように見える。腕に小さな女の子を模したと思われる人形を抱えていた。 ミルアはその女の子に歩み寄ると、 「私に何か用ですか?」 そう尋ねたミルアに女の子は僅かにミルアを見つめた後、 「お姉ちゃんたちは吸血鬼?」 「吸血鬼?」 女の子の問いにミルアが疑問の声をあげると、ミルアに背負われていたデルフが、 「人の血を糧とする妖魔だよ。大した力も魔法もないが、人と全く見分けがつかないうえに狡猾な種族でな。人の群れに紛れ込み、正体を見破られることなく次々と人を襲っていくんだよ。主な弱点は日の光かね。と、いっても致命傷になるようなものじゃないけどな」 デルフの答えにミルアはふむふむと頷く。 一方の女の子は突然しゃべりだしたデルフを面白そうに覗きこんでいた。 ふとミルアはあることに気がつき、 「私たちは吸血鬼ではありませんが、どうして吸血鬼かなんて聞くんですか?」 ミルアがそう聞くと女の子は「うんとね」となんどか繰り返した後、村の外を指差して、 「ずっとあっちの村で吸血鬼が出たんだって」 「そうなんですか。ちなみに私たちはあっちから来たので吸血鬼ではありませんよ」 ミルアはそう言って女の子が差したのとは反対側を指差す。実際にミルア達は女の子が指差した方向とは逆の方向から来ている。しかし、村長の話を聞く限りトリステインの国境へは女の子の指差す方向へ行かねばならないようだ。 一抹の不安を感じつつもミルアは女の子と別れ村を散策する。 若干警戒するような視線を感じるが、それ以上の事はなくミルアは日が落ち切る前に村長の家へと戻った。 村長から夕食としてパンやスープをもらったミルアは貸し与えられた部屋へと入る。 「へぇ、テファお姉ちゃんは日の光に弱いんだね」 「うん。だからフードとかも、ずっと被ってないといけなくて」 ミルアが部屋に入るとティファニアとエルザは他愛もない話をしていたようだが、二人の会話内容に、ミルアはあることに気が付いた。 ティファニアが、その長い耳を隠すために被っているフード。そして、表向きの理由としての日光に弱いという設定。それは吸血鬼の弱点と一致してしまっている。 「テファが吸血鬼と疑われる可能性がある」 ミルアは小さくそう呟く。 ただでさえ他の村での吸血鬼の話が出ているのだ。ティファニアが疑われる可能性は十分にある。 できるだけ早めに村を出た方がいいのは確かだ。 早ければ早いだけいい。なら明日にでも出るか。 ミルアはそう思いながら、笑顔を見せながら雑談を続けるティファニアとエルザをちらりと見た。 「これからトリステインに行くの?」 翌朝、日が昇り、空が白み始めたころミルア、ティファニア、エルザの三人は村を出てトリステインへ向かっていた。 そんな中、エルザが行く先を訪ねてきた。 ミルアは振り返りエルザを見て黙って頷く。 するとエルザはやや怯えたような表情をした。無理もない。今から行く方向は元々エルザがメイジから逃げてきたと言う方向である。 エルザは怯えてティファニアの後ろに隠れた。 その光景を見てミルアは小さくため息をつく。 ミルアは背中に下げていたデルフを掲げ、 「大丈夫です。私これでも強いんですよ?」 ミルアの言葉にエルザは疑いの眼差しを向ける。自分より僅かに背が高いだけのミルアが強いと言ってもハッキリ言って信用はできないだろう。 そんなエルザの頭をなでながら、ティファニアは 「大丈夫だよ。ミルアは本当に強いから。私の事も助けてくれたし、それにほら、あんなに大きな剣を軽々と振り回してるでしょ?」 ティファニアの言葉の通りミルアはこれでもかと言わんばかりにデルフを振り回す。風を切る音だけがあたりに響く。 その光景にエルザはやや納得したようで小さく頷いた。 その後しばらく森の中を歩き続けた一行は、森の中を走る小さな道を見つけ、その道伝いに歩き始めた。 日も登り切り、そろそろ傾き始めたころ、不意にミルアが足を止め、残りの二人も立ち止まった。 「どうしたのお姉ちゃん?」 エルザがそう尋ねるとミルアは前方の道のわきにデルフの切先をむける。 ティファニアやエルザがその先を見ると、そこには何やらがらくた様なものが転がっていた。それはよく見れば、 「ば、馬車かな?」 ティファニアが自信なさげに言うと、エルザも頷き 「馬車だと思うよ。ほら、車輪みたいなのも転がってる」 エルザの言うとおり車輪と思われるものも転がっている。どれも木材で出来ており、ばらばらになっているそれは腐り始めているものもあった。 ティファニアが戸惑う様にミルアを見ると、ミルアは森の中のある一点をじっと見つめている。 「嬢ちゃん、何か見えるのか?」 デルフがそう問うとミルアは頷き、 「何か、大きな生き物がいます」 「大きいってどのくらいよ?」 「身を屈めているのか、よくわかりませんが、四、五メイルほどはあるんじゃないんですかね?」 「あー、そりゃあれだトロール鬼だ。普通はアルビオンにいるもんだが、まれにはぐれトロールとでも言うべき奴が地上にいたりするんだよな」 呑気にそういうデルフにミルアはやや呆れたように、 「で、危険なんですか?」 「そら、まぁデカいわりに速いし、力はあるし、危険っちゃぁ危険だが、嬢ちゃんが相手なら問題ないだろ?」 デルフの言葉にミルアはちらりと後ろを見た。 ミルアの視線の先ではトロール鬼と聞いたティファニアとエルザが怯えている。 視線を前方に戻したミルアは小さな声で、 「魔法は使わずに行きたいのですが」 その言葉にデルフが驚いた様に、 「またなんで?」 「少し疑問に思う事があるので手札は残しておきたいのです」 ミルアはそう言うと、今度は振り返らずにティファニアやエルザに、 「此処はまっすぐ行かずに森の中を迂回しましょう」 ミルアの言葉に二人が頷いた瞬間、バキバキと木々がへし折れる音がする。 「早く森へっ!」 ミルアがそう叫ぶと同時に前方からトロール鬼が飛び出してきた。 爬虫類の様なうろこ状の体。やや前に突き出した大量の牙。鱗の延長線の様な角が、冠のごとく頭を飾っている。五メイルはあろう巨体は、そこにいるだけで相当な威圧感があるであろう。その巨体が唸り声をあげながらミルアへと迫ってきていた。 四足歩行で迫る様は狼などよりも類人猿に近いものがある。 トロール鬼はミルアの眼前で片腕を振り上げ、そのままミルアへと振り下ろす。 ミルアはそれを潜り抜けるようにして躱し、そのままトロール鬼の股下をも潜り抜けた。大人でも少し頭を下げればくぐれそうなトロール鬼の股下をくぐるというのは、体の小さなミルアにとってはたやすいことだった。 そしてミルアは潜り抜けざまにデルフの背でトロール鬼の脛を思いきり殴りつけた。 ゴンッという鈍い音と共にトロール鬼が唸り声をあげる。 トロール鬼は振り向きざまに腕を薙ぐように振るい、それがミルアに迫った。 ミルアはそれをデルフで受け止めるも、その勢いは強く踏みとどまりきれずに、ティファニア達が逃げ込んだ方向とは逆の森の中へと吹っ飛ばされてしまう。 木々をへし折りながら、ミルアは三十メイル近く吹っ飛ばされていた。 「ミルアっ!」 「お姉ちゃんっ!」 ティファニアとエルザが叫ぶ。 しかし、その声はトロール鬼にも届き、トロール鬼は二人へと迫ってゆく。 トロール鬼が二人に向かってその腕を振り上げた時、その腕にデルフリンガーが突き刺さった。 低い声で叫びながらトロール鬼は後ろを振り返る。 腕を振りながら振り返ったため周囲の木々がなぎ倒されティファニアとエルザは身を縮こませた。 「あなたの相手はわたしです」 そう言ったミルアがトロール鬼の視線の先にいた。吹っ飛ばされ、木々をなぎ倒した時に切ったのか額からは血が流れているが、それ以外は何処か怪我をした様子はない。 トロール鬼は唸り声をあげながら、腕に刺さったデルフリンガーを引き抜き、脇へ捨てるとミルアとの距離をジワリジワリと詰め始めた。 そうだ、それでいい。こっちへこい。 ミルアは身構えつつも、手の甲で額の血を拭う。 トロール鬼は、草木が震えるような雄たけびをあげながらミルアへと走り出した。その巨体故か、勢いよく踏み出される一歩一歩に、地面が揺れ、ミルアやティファニア達にもその揺れが伝わる。 ミルアの目前で振るわれる拳をミルアはトロール鬼の懐へ滑り込みかわした。 「ああああぁぁぁぁっ!」 ミルアは声をあげると共に軽く飛びあがると、トロール鬼の腹部を左の拳で突きあげるように殴りつけ、その巨体を宙へと打ち上げた。 重力に従い落ちてくるトロール鬼の巨体を、ミルアは先ほどよりも高く高く打ち上げる。 そして再び重力に従い落ちてくる巨体をミルアは脇によけてやり過ごした。 どしん、という大きな音と振動。 地面に体を叩きつけたトロール鬼はぴくりとも動かず、口から洩れた血液がじわじわと地面にしみ込んでいった。 動かなくなったトロール鬼を見つめていたミルアは不意に自らの左の拳を見る。しばらく閉じたり開いたりしていたミルアは気分でも悪いのか僅かに眉をひそめた。 やがてミルアは前を向き、こちらに手を振っているティファニアやエルザの下へと歩き始めた。 二人の下へたどり着いたミルアへティファニアは「よかった」と声を漏らす。 一方のエルザは動かなくなったトロール鬼をしばらく見つめていたが、やがてミルアに視線を移すと、 「殺したの?」 その問いに対して、ミルアはエルザと視線を合わせることなく、小さな声で、 「えぇ」 「トロール鬼が邪悪だから?」 エルザのその言葉に、ミルアは彼女に視線を向けて、 「はい? なんですか、突然に?」 ミルアの声に、エルザは僅かに首を傾げて、 「トロール鬼が邪悪だから殺したんじゃないの?」 そう言うエルザをミルアはじっと見つめる。 ティファニアは何とも言えない雰囲気に困ったような顔をしていた。 ミルアはトロール鬼に捨てられたデルフを拾い上げると、 「あれがこちらを殺そうとしていたから返り討ちにしただけです。ただ、返り討ちにするだけなら殺す必要もなかったかもしれませんが、馬車の残骸があったことからあれは人の味を覚えてるはず」 ミルアがそこまで言うとデルフが「だな」と同意の声をあげる。 その言葉に頷いたミルアは再び視線をエルザに戻し、 「放っておけばあのトロール鬼はまた人を襲う可能性があります」 「だから殺したの?」 エルザの言葉にミルアはしばらく黙っていたが、やがて、 「人を食さずに生きていけたのなら殺しはしませんでした。恐らく……」 「じゃぁお姉ちゃんは、人を食べることを邪悪だと思う?」 エルザにそう問われたミルアは首を横に振り、 「生き物は大抵何かを食べなければ生きていけません。それを邪悪だとは思いません」 「でも、皆は人を食べることを邪悪だって言ってたよ?」 「そんなものは人間の都合です。人間だって他の生き物を殺して食べていますから」 「でも……」 「知ったこっちゃありません」 ミルアの、やや投げやりな物言いにエルザはきょとんとする。 軽くため息をついたミルアは、 「食べなければ死んでしまうのなら食べられる側の都合なんて極端な話知ったこっちゃないんです」 「そ、そうなの?」 ミルアの言葉にエルザはきょとんとしたまま漏らす。 傍で聞いていたティファニアもエルザと同様にきょとんとしていた。 ミルアは「ですが……」と続けて、 「もし何処かに妥協できる案があるのなら私はそれを選びたいです」 「どうして?」 エルザの言葉にミルアは自分の手を見て、 「殺すのも、殺されるのも、誰かが殺されるのも好きではありませんから」 「優しんだね」 「よく言われます。甘いとか。ですが私自身ではそうは思っていません」 そう言ったミルアは視線をエルザに戻す。 じっと見つめてくるミルアにエルザは何故か気まずさを覚えて僅かに後ずさる。 「好きでない……嫌なものは嫌なんです。私はただの我が儘だと思ってます」 ミルアはそう言うと、未だへたり込んだままのティファニアに手を貸し、 「そろそろ行きましょう。こんなところに長居する理由もありません」 そう言い、テファの手を引きながら歩き出すミルア。 エルザも慌ててミルアの後を追う。 そしてミルアの背を見つめながらエルザは僅かに、ほんの僅かに舌なめずりをした。 ミルアに対しての恐怖があるにもかかわらず、それ以上の物がエルザの中からあふれ出していた。