幕間5 キュルケの復讐-1 謎の神官
東方開拓団に潜入したモレノとセルジョがようやくその彼らの主との連絡を取る事に成功したのは、開拓が始まって二ヶ月近く経ってからだった。
その間ロマリアとの間で連絡を取ろうとしたフクロウなどの連絡用の鳥はことごとく途中の森で命を落とした。道中で事故に遭っている事に気付いたモレノが使い魔を召喚して直接高々度を維持して飛行するように指示してようやく連絡を取れたのだ。
モレノが召喚した使い魔は四つ羽の烏で、以前使い魔にしていたものと同じ種類の幻獣だ。実は前任の使い魔もここに来てそうそうマンティコアの餌となって命を落としているので、警戒に警戒を重ねて森を越える任務に就かせた。
何度か使い魔を行き来させて現状の報告と今後の指示を受け、辺境の森の危険性を伝える事が出来てからは定期的な連絡が取れるようになった。
モレノ達は遂に気づかなかったがその使い魔はさらに高々度を飛ぶモーターグライダーによって追尾され、ロマリアの下町にある連絡用拠点の場所はツェルプストーの知るところとなった。
その拠点で容疑者であるヴァレンティーニも確認できたので、これ以降ツェルプストーの調査はその拠点の人員・活動の解明へと注力される事になっている。
もう一組の諜報員であるクラウディオとルシオの方はもう少し早くから連絡を取り合っていた事が判明している。近隣の街ドルスキに諜報員が常駐していて週に一度の開拓団の休暇にあわせてクラウディオかルシオのどちらかが直接接触しているようだ。
ツェルプストーによってその実態がすぐに明らかにされ、彼らを送り込んできたのがオルレアンだという事までウォルフにも報告されたが、こちらはキュルケの事件とは関係がなさそうという事から監視だけであとは放置している。
自分たちが諜報員である事をウォルフが気付いているとは全く思いもせず、彼らは概ね平和に日々を過ごしていた。
「セルジョさん、お帰りなさい。今日も大猟ですね」
「あ、ああ、グレースちゃんただいま。まあ、小型の幻獣ばかりだからな、大したことねえよ」
「セルジョさん達が幻獣と戦ってくれるから私たちは安心して暮らせるんです。ありがとうございます」
この日早番だったセルジョがマイツェンの川港で仕事中にしとめた幻獣の死体を小舟から下ろしていると、グレースがやってきて声を掛けた。グレースは加工や貯蔵の采配もしていて、後ろには幻獣を解体する一次加工担当の者を連れてきている。
開拓の最前線ではエルラドをかいくぐって襲いかかってくる幻獣もいる。主に中小型の肉食系幻獣ではあるがそれを倒し開拓団員達の安全を守るのがモレノ達の仕事だ。
今日も仕事として駆除を行ったのであるが、グレース達開拓団員達にはいつも感謝の言葉を述べられる。それがロマリアの間諜であるセルジョにはこそばゆかった。
物心ついた頃からロマリアの間諜としての訓練を受け、ロマリアのためにずっと働いてきた。そんな彼らが周囲から受ける視線は常に変わらない。ロマリアの孤児院にいた頃も、仕事に就いてからも、彼らを見る人々の視線は常に蔑んだり卑しんだりするものだった。
諜報員として各国に潜入し娼館の用心棒や傭兵などをしているときも、本国に帰ってきても、彼らに感謝などを示す人間など会った事はなかった。
「お疲れ様でしたー」
どうにも居心地の悪さを感じ、ほかの隊員に声を掛けているグレースに背を向けて宿舎の方に歩き出す。その背中にグレースからまた声がかかったが、軽く手を挙げて応えたセルジョは振り向きもせずそそくさと自分の部屋へと帰るのだった。
「なあ、俺たちいつまでここにいるんだ?」
「なんだ、唐突に。そんなの俺が分かるはず無いだろう、ヴァレンティーニ様に聞け」
「だってよう、ここに秘密なんてもう無いじゃないか。小僧の部屋にだって侵入して調べたし、あそこにある何かよくわかんねえ設計図とエルラドやまもるくんを何基かかっぱらって逃げちまえばいいんじゃないか?」
「それを判断するのは俺たちじゃねえよ。何言ってんだ」
「…なんか調子が狂うんだよ、ここにいると」
夕食後、モレノとセルジョはたばこを吸うという名目で外に出て、誰もいない広場で話をしていた。抜かりなく周囲の気配を魔法で探ってはいるが、勿論この会話の内容もウォルフによって録音されている。
「やっと慣れてきた頃じゃねえか。最近はミレーヌたんも挨拶してくれるようになったし俺はもう少しここにいたいぞ」
「ミレーヌたんって何だよ、お前マジであの姉妹狙ってるんじゃないだろうな」
ふざけた調子で返すモレノに何故か苛立つ。モレノは埋蔵金の事を諦めていないようで、ずっと姉妹の懐柔は続けているようだ。初対面の印象が悪かったので最近になってようやく普通に応対してもらえるようになったところだ。
「俺のミレーヌたんに対する気持ちはそういうのとは違うんだよ。ミレーヌたんマジ天使」
ただ、普通に接してもらえるようになってからモレノの様子が段々変になってきたのがセルジョには気がかりだ。
「…やっぱりもう撤収すべき時期みたいだな」
「おいおい冗談だよ、冗談。何本気にしてんだ」
「お前いつも何かとあの姉妹の事を見ているし、客観的に見るとかなり不審者だぜ。道を踏み外す前に撤収した方がお前のためにもなるだろう」
「例の件が気になってるだけだっつの。笑うと可愛いんだよなあ…俺も早く結婚するべきかな、あんな娘にパパとか呼ばれたら最高だよな」
「俺らが結婚とか、無えよ。やっぱ、撤収だな」
「無えって、こたあ、無えだろう…いや、マジな話真相がまだ判明していないんだから調査終了って訳にはいかないぜ?」
「ちっ」
二人ともそれなりに優秀な諜報員で、現在この開拓団で彼らの調査が入っていないのは他の宿舎から少し離れたところに建つ女子宿舎だけだ。この棟だけは独立してまもるくんに守られているので男性は全く立ち入る事が出来ない。潜入を試みて警備の穴を捜してみたが、穴は見つけられなかった。
実はこの二人がこの広場で進入経路を検討する度にウォルフがそれを参考にして警備を厳しくしていったのだが、勿論この二人にそんな事が分かるはずも無い。
姉妹の私物に何か手がかりがあるかも、というのが現在モレノが主張している事だが宿舎に潜入できないのならばどうしようもない。
「何いらいらしてんだ? 最初はどうなる事かと思ったが、条件の良い潜入先じゃないか。飯は悪くないし、仕事もそれほどきつくない。返り血で汚れても毎日風呂に入れるし、汚れた服も翌日には綺麗に洗濯されて返ってくる。週に一度の休日に町に行けば女も買えるし、何が不満だってんだ」
「もういい。お前には分からないんだな」
苛立たしげにタバコを消すとセルジョは踵を返して一人先に部屋へと戻った。
モレノ達が調査に行き詰まっているのと同様に、開拓地から遠く離れたハルケギニア南方の地ロマリアに潜入したツェルプストーの諜報部隊もその捜査に行き詰まっていた。
「ダメです、今日も空振りです」
「…用心深い奴め。もう二週間も追っているというのに一向に尻尾を掴ません」
もう何度目になるか分からない首を振る部下の姿に、部隊の隊長であるライムント・フォン・ラテニッツは溜息を漏らした。敵の連絡拠点であると思われるロマリアの下町にある建物を特定するまでは上手くいった。しかしそこから先の捜査が一向に進まない。
その拠点に来るのは毎日一人か二人、念の入った事に全て『遍在』の魔法で創られた分身だった。
毎日どこからとも無く出勤してきて建物に入り、そこから出てくる事はない。室内で消えているのだろう。遍在と本体との間のつながりをたどろうとしても、その建物が魔法的に防御されているらしく全く探知できない。
教会が関与している疑いが濃厚なので「タウベ」と呼ばれている鳩形のガーゴイルをロマリアに多くいる鳩の群れに潜り込ませ、有力な神官を見張らせているがこちらも一向に成果は上がっていない。
潜伏しているアパルトメントの直ぐ先をヴァレンティーニが堂々と顔をさらして歩いている。毎日それをなすすべ無く見送るしかなかった。
「正直手詰まりです。あの建物に強襲をかけて何か手がかりがないか賭けてみるしかないのでは?」
「あそこは敵がたどり着く可能性があるものと想定している。これほど用心深い奴らだ、万が一にも手がかりを残す事など無いだろうよ」
「出勤途中に接触して何とか本体を探知する時間を稼ぐというのはどうでしょう」
「…その方向で考えている。先週ヒルデガルトをヴィンドボナから送り込んでくれるように連絡してあるが、現在付いている任務を抜けるのに少し時間がかかるらしい」
ヒルデガルトはハニートラップ専門の諜報員だ。相手が遍在である以上強硬手段は執れないので、なんとか柔らかい手段で手がかりを得ようと言うわけだ。
まさかハニートラップにかかるとは思っていないが、五分程足止めするだけで良いのだ。それだけの時間があれば遍在から繋がっている魔力のラインをとらえて本体のいる場所への方角が分かる。たとえ確率が低いとしても今はそれしか思いつく方法がなかった。
「どうも困っているようですね」
「っ!!」
突然誰もいなかったはずの部屋のすみから掛けられた声に、室内にいた五人が一斉に身構えた。振り返ったその先には大きな古くさい鏡があるだけだったはずだが、その鏡の前にはいつの間にか見知らぬ男が立っていた。
このアパルトメントの一室はロマリアにいるツェルプストーの協力者を介して借り上げたもので、抜け穴などは一切無い。魔法で徹底的に調べてから拠点にしている事もあり、唐突に現れた部外者の姿に部隊は緊張に包まれた。
「ああ、そんなに身構えないで下さい。私は敵では無いのですから。ヴァレンティーニを追っているのでしょう?」
「…不法侵入してきた人間を警戒するなと言っても無理な話だろう」
ライムントは杖を構え、最大限の警戒を持って侵入者に対峙する。彼の左右に部下が展開し、いつでも戦闘に入れる状態を整えた。
「おやおや、不法侵入というのならばあなた達こそでしょう。コンラート商会には入国の許可を出していますが、ツェルプストーの諜報部隊がこの国で活動する事は許可されていないはずです。ここはロマリアですよ?」
「…全部お見通しって訳か。何者だ?」
少し冷静さを取り戻したライムントは油断無く杖を構えながら侵入者に問いただした。侵入者は神官服を身にまとい、まだどこか幼さを残したその顔は絶世と言って良い美貌だ。
謎の神官は手練れのメイジ五人に杖を突きつけられているというのに一向に緊張している風はなく、むしろ涼しげにそこに佇んでいた。
「私が何者であるのか、ということはこの際関係無い事です。あなた方が知りたいのはヴァレンティーニと彼のボスであるエウスタキオ枢機卿についての情報ではないのですか?」
「エウスタキオ枢機卿だと? 次期教皇に最も近いと言われている保守派の重鎮がこの事件の黒幕だって言うのか」
確かにその名前はブルキエッラーロ司教の証言にも出ていたので監視対象になってはいるが、これまで全く疑わしいところはなかった。証言の信憑性が低い事もあり、ツェルプストー内では捜査の重要度が下がっている人物だ。
「残念ながら。枢機卿とも有ろう立場の方がそんなことをしているとは有ってはならない事ですが、彼のいつもの手段なのです。自身の都合で罪を犯し、政敵にその罪を被せる。これまで彼に葬り去られた人は十人を超えるでしょうか、彼が疑われた事すら一度もありません。その陰謀の中心にいつもいるのがヴァレンティーニだというわけです」
「なるほど、今回はブルキエッラーロ司教が罪を被せられたという訳か。それなら筋が通るかもしれないが、お前がエウスタキオ枢機卿を貶めようと工作している可能性は無視できないな。誠実で温厚という評判の枢機卿と正体不明の神官とでどちらの言葉を信用できるのかは自明な事だ」
「ふふふ、私の言葉が正しいのかどうか、確かめるのはあなた達の任務でしょう。これを……」
謎の神官はゆっくりと懐から紙を取り出すとライムントに差し出した。渡されたその紙を開いてみると、そこには大聖堂にもほど近いロマリアの宗教庁の建物とその周辺の詳しい地図が記されていて、なにやらいろいろと書き込みがしてあった。
「…これは?」
「エウスタキオ枢機卿は日頃その西館で執務を執っています。この一階から三階が彼の私室になっていますが、この地下からさらに西側に秘密通路が延びていて、この建物に繋がっています」
地図の上の印を指さす。そこは宗教庁の裏手、城壁を挟んだ先の下町で、三階建てから五階建てくらいの建物が密集している街区だった。
「一見するとここと同じようなただのアパルトメントですが、そこにヴァレンティーニはいます」
ごくり、と誰かの喉が鳴った。
正体不明の人物からもたらされた情報ではあるが、現在何も情報がない彼らにとってそれは天からの恵みのように思えた。
「エウスタキオ枢機卿の狙いをお前は知っているのか? 彼はツェルプストーで何をしようとした?」
「我々がずっと探しているものがそこにあるのかと勘違いした、とだけ言っておきましょうか。ブルキエッラーロ司教はスケープゴートとして都合の良い立場だった」
「勘違い、という事は今はもうツェルプストーには興味を失っていると思って良いのか?」
「そうですね。今はガンダーラ商会に関心を寄せているようです」
あくまで涼しげに、まるで見てきたかのようにこの神官は話す。その美貌に微笑みが絶える事はない。
「お前は彼の枢機卿の事を色々知っているようだな。何故それを宗教庁上層部に訴え出ない?」
「彼は司教枢機卿です。ハルケギニアの何処にも司教枢機卿を裁ける法など存在しないのですよ」
司教枢機卿とはブリミル教において教皇に次ぐ地位であり、教皇の選出はハルケギニアの枢機卿全員が集まって開かれる枢機卿会議において行われる。教皇の選出という教会で最も重要な意志決定を担うため、いかなる勢力からもその独立性を担保する必要があり、その会議において重要な役割を担う司教枢機卿は全ての国で不逮捕特権が認められているし訴追を受ける事もない。
その司教枢機卿の罷免は唯一枢機卿会議においてのみ決定する事が出来るが、現在枢機卿達の中で最大の勢力であるエウスタキオ枢機卿が罷免されるという事は事実上あり得ない事だ。
「彼が枢機卿である事に神の意志が介在するのなら、彼がしてきた事も神が必要とした事なのでしょう。しかしそうでないのなら彼は神の名を騙るただの罪人という事になります。娘を燃やされた親ならば神にエウスタキオ枢機卿の正統性について問えるのではないかと考えました」
枢機卿のことを神の名を騙る罪人だなどと、ブリミル教徒であればとても口には出来ないような事を話しながら、その顔が微笑みを絶やす事はない。
ゴクリとまた誰かの喉が鳴った。自分たちが枢機卿に手をかけるという恐ろしい未来を想像したようだ。
「…神がそんな間違いを起こすなどと、ロマリアの神官が言うとはな…お前の考えは異端なのではないか?」
「誤解なさらぬように。神は間違いなど起こしません、ただ、我々を試す事があるだけです。ブリミル様にエルフという試練を与えたように、我々は常に神に試されているのです。神の試練を乗り越えるためには常に心に神を思い、神と対話する事が必要です」
「…」
「『ブリミル様に感謝を、そして心に神様を』ブリミル教徒であればどんな幼子でも知っているこの言葉の本当の意味を知って下さい。大丈夫、我々を試す厳格なる神は、我々に慈愛をもたらす優しき神でもあるのです。あなた方が心に神を宿すとき、神は必ず答えを下さります」
「…」
「あなた方が神にどのように問い、神がどのように答えて下さるか、私は見守りたいと思います」
謎の神官はゆっくりと、歌うように、詩を詠むように言葉を紡ぐ。諜報員達を見回し、誰も答えるものが居なくなった事を確認するともう話は終わったというように背中を向ける。
「ああ、そうそう、一つ忠告を」
思い出した、という風にこちらを振り返り、寒気がする程清冽な微笑みをその美貌に浮かべた。
「ここはロマリア、神の法と理が支配する都。神の道を踏み外したものには破滅が待っています。あなた達がその道から外れる事の無いように祈っています」
また後ろを向き、そのまま何事でもないように鏡の中へと足を踏み入れる。呆然と見送るライムント達の前でたちまちの内に姿を消し、僅かに光った後その鏡はまた何処にでも有る普通の鏡となった。
「一体何なんだ、あの魔法は。あんな魔法聞いた事無いぞ」
「あれが虚無魔法なのか? ロマリアには虚無が伝わっているのか?」
「いや、離れたところを行き来できるマジックアイテムは有ると聞いた事があるぞ」
「俺らにどうしろって言ってんだ。枢機卿に手を出せと言ってみたり神の道を外れるなと言ってみたり」
「枢機卿に手なんて出せないだろう。下手しなくても異端認定されちまうぞ」
「異端認定どころじゃない。悪魔認定だな」
神官が姿を消すと残された諜報部隊員達は思い出したように騒ぎ出した。
各々が勝手に口を開き、与えられた情報を消化できていない事が丸わかりだ。しかし、そんな中でもさすがに隊長のライムントは冷静だった。丹念に神官が消えた鏡を調べ、騒ぐ部下に指示を出す。
「落ち着け。まずは本部に連絡だ。現状報告と今見た魔法についての問い合わせ、それからお前とお前は示されたアパルトメントについての下調べに向かえ。気取られるなよ、罠の可能性もあるぞ」
「はっ」「た、直ちに」
一喝されて隊員達は冷静さを幾分取り戻し、指示を受けたものは早速その指示に従って行動を開始する。しかし指示されず残った者はまだ不安そうだ。まだ鏡を調べながら考え込んでいるライムントに恐る恐る尋ねた。
「あの、隊長、本当に枢機卿に手を出すんですか?」
「そんな事は知らん。俺たちの任務は事実を調べる事だ。殺人・強盗・強姦・誘拐・人身売買と領内で好き勝手に犯罪行為を犯してきた山賊を討伐に向かった領主軍に襲撃を掛けた犯人を捜して居るんだ」
「それが、枢機卿だった場合…本当に…」
「今は考えるな。領主による領地の統治というのはブリミル様の信託を根拠として行われている。領主軍を襲撃する正当性など教会であろうと有るはずはない」
「…」
いくら言葉を重ねても、隊員達の反応は鈍い。ハルケギニアで暮らすブリミル教徒にとって、枢機卿と敵対するかもしれないという恐怖は中々拭い去れないようだった。
勿論ライムントにもその恐怖は理解できるが、彼の場合それよりも枢機卿という立場の人間が襲撃の黒幕であるかもしれないという事に対する怒りの方が大きい。この辺は諜報部隊の隊長として長く活動してきて、腐敗した神官という存在を数多く目の当たりにしてきた経験が関係しているのかもしれない。
ライムントが隊員達には分からないように溜息をついていると、そこに別室で本部との連絡を取っていた隊員が戻ってきた。
「報告します。やはり本部の指示も当該アパルトメントを重点的に捜査せよとの事です。ヒルデガルトはやはりまだ時間がかかるそうですが、こちらはもう必要ないかもしれないですね」
「うむ、鏡を調べてみたが、魔法の痕跡はあったがその実態は何も分からなかった。誰か知っている者はいたか?」
「いえ。しかし、こちらに魔法具技師を派遣して下さるそうで、エウスタキオ枢機卿の身辺や政治状況と併せて魔法について向こうでも調べるそうです」
「こちらはアパルトメントに集中すればいいわけだな。以上か?」
「あ、いえ、その」
何故か言い淀む。ライムントは首をかしげて部下が口を開くのを待った。
「キュルケ様がこちらに向かっているそうです。表向きはただの観光旅行だそうですが、そんなはずは無いだろうとの事でして、ターゲットに勝手に接触されたりしないように注意を払えとの事です」
「うお、痺れを切らしたか。くっ、そっちの対応がまた大変そうだな」
ここのところ日に何度もキュルケから捜査の進捗状況の問い合わせが来ていたみたいだが、遂に待ちきれなくなったらしい。
せっかくの極秘調査も素人に引っかき回されては台無しになってしまうかもしれない。ライムントはまた新たに増えた問題を前に、盛大に溜息をつくのだった。
幕間5 キュルケの復讐-2 ツェルプストーの血
キュルケがロマリアに到着したのは連絡があったその日の夜だった。
都市国家ロマリアの一番外側の城壁、そのさらに外に設けられた竜駅に自分と護衛達のモーグラを預け、竜駅からほど近い、大聖堂からは少し離れた所に建つホテルにチェックインして潜入捜査中の諜報部隊の長ライムントの訪問を出迎えた。
「これはキュルケ様、お早いお着きで。背後関係が明らかになるまではゲルマニアで待機して下さいとお願いしたはずですが、これはどういう事ですかな」
「全然進展がないみたいだし、ちょっと観光がてら様子を見に来ただけよ。心配しなくてもあなた達の捜査の邪魔なんてしないから安心してちょうだい」
貴族向けのホテルの一室で豪華なソファーに身を沈めたキュルケが座ったまま手をひらひらと振る。すぐに興味が無さそうに視線を外し、テーブルの上の夜食代わりのクッキーをつまむ。
キュルケのすぐ後ろでは護衛に付いてきたバルバストルやリアがライムントに申し訳なさそうな顔をしていた。
「ほう、それではキュルケ様は一体何をしにこんなところまで?」
「だから今言ったでしょう、ただの観光よ、観光。それよりちょっと進展があったんだって?」
こちらが迷惑に思っている事を分かりながら、そんなことには全く頓着しないキュルケに溜息をつきながら答える。
「…ええ、情報提供者が現れまして、現在その情報を精査中です」
「どういった内容?」
「それはまだ。確認が取れた段階で報告します」
「ふーん……ライムントはその情報にどの程度の確度があると思っているの?」
「分かりません。予断を挟めるような情報ではございませんので、とにかく正確な情報を集めています」
「ふうん」
キュルケがまたクッキーをつまむ。その様子は全く興味が無さそうなのだが、ライムントにはその目が妖しく光ったように見えた。
「キュルケ様、くれぐれも、くれぐれもご自分で捜査しようなどとは思わないで下さい。せっかく掴んだ細い糸なのです。これを逃すわけにはいきません」
「分かってるって。ところで、ウォルフの情報から割り出したって言う、”遍在の巣”っていうのはどこらへんにあるの?」
「……キュルケ様」
「だ、だって知らないで近づいちゃったら困るじゃない。邪魔しないために聞いてるのよ?」
キュルケがロマリア観光用の地図を広げて尋ねる。一応もっともらしい事は言っているが、とても信用できない。
しかし、実際ふらふらと近づかれても困るので、渋々とその地図上を指さしてキュルケとバルバストルに注意する。
「ここが辺境開拓団に潜入している密偵の使い魔を追跡して割り出した敵のアジトです。こちらとこちらの聖堂はブルキエッラーロ司教の属していた派閥のもので現在監視中ですのでこちらにも近づかないように。それから」
大聖堂の近く、いくつもある宗教庁の建物の一つの裏手、その周辺をぐるりと指で囲む。
「このあたりは現在最重要の監視対象になりますから絶対に近づかないようにお願いします」
「分かったわ。それらに近づかなければいいのね?」
「あと我々の拠点にも近づかないでいただきたい。あなた様の来訪はもうあちらにもばれているでしょうからな」
「はいはい、近づいたりはしませんよー、と」
ライムントが念を押すようにキュルケの顔をのぞき込むが、当のキュルケはそっぽを向いてまだ短い髪の毛をいじっている。
「ふー、まあ今日はもう良いでしょう。おいバルバストル、空いてるベッドは有るか?」
「あ、はあ」
「え、ちょっと何あなたこっちに来る気? 部隊の方はどうするのよ」
「おや、何か困る事でもおありで? ご心配なく、こちらの体はただの『遍在』ですから」
「……同じ顔の人間が二カ所にいるなんてロマリアの諜報機関の警戒を呼んじゃうんじゃないの?」
「大丈夫ですよ。本体の方はロマリアに入るときからずっと『フェイス・チェンジ』で顔を変えていますから」
「……風メイジって本当ずるっこってかんじよね。今日は疲れたからもう寝るわ。明日は昼前くらいに出かけて、どこかおいしいロマリア料理の店でお昼にしたいから案内よろしくね」
キュルケは手をはたくと立ち上がってさっさと自分の部屋へ引っ込む。貴族が好むようなレベルのおいしいロマリア料理の店などライムントは知らない。溜息をつきながら自分たちの部屋へと下がった。
翌日の朝、ロマリアの街にはバルバストルとライムント、それにリアの三人を従え、颯爽と街を歩くキュルケの姿があった。
「まったく、今時セグロッド使用禁止だなんてこの街は遅れているわね。ちょっと移動するのにいちいち時間がかかるじゃない」
「ハルケギニアでも屈指の古都ですからなあ。新しいものが受け入れられるのには時間がかかるのでしょう」
「それに杖の携行禁止とかも意味が分からないわ。杖はブリミル様が下された聖なるものよ。それを恥ずかしいもののように隠して持ち歩かなくちゃならないなんて、ブリミル様に不敬なんじゃないかしら」
「あの、そう言った事はあまり大声で話さないように願います。あと昨日私が言った事を覚えていますでしょうか」
このままこの道を進めば大聖堂に至る前に夕べあれほど近づくなと言った街区を通る事になる。
「あら、何だったかしら? 大聖堂ってこっちだそうよ。ロマリアに来て大聖堂を見ないなんてあり得ないわ。もし何か問題があったとしても、きっとそれは仕方のない事なのよ」
絶対に確信犯だ。やられた、というのがライムントの正直な感想だ。朝遅くまだ眠そうな顔をして朝食に来たキュルケにすっかり騙された。部隊の方の調査状況に気を取られ、注意を払うのを怠った結果がこれだ。
気付いたときにはキュルケがホテルのコンシエルジュに大聖堂までの道をわざとらしく聞いていて、その後ろで間抜け顔をさらす羽目となった。大聖堂への道など一本しかない。現在調査中の街区のすぐ横を通るその道をキュルケはわざと教えさせたのだ。
人目もあり、コンシエルジュに礼を言いロビーを軽やかに抜けて大聖堂への道に踏み出すキュルケを、止める事は出来なかった。
「そうだ、そこの角を曲がった先にあるビストロが実に美味いと評判でした!」
「今、朝ご飯食べたばかりだから、お昼は遅めで良いわ」
「そう言えば東にある聖堂もとても美しく、その芸術性で観光客に人気だと聞きます。そちらを先に回りませんか?」
「まず大聖堂に行ってからでしょう。そっちはその後で行こうと思っていたところよ」
「西部地区には観光客も入れるカタコンベが有るそうです。キュルケ様はそのようなところがお好きなのでは?」
「大好きよ。でも、そういうところは夜にこっそりと入り込む方が何倍も楽しいと思うわ」
何を言ってもキュルケは聞く耳を持たない。大っぴらに魔法を使えないために、間諜の耳が何処にあるか分からないこの街では強硬手段を執る事も出来ず、ライムントは苦々しい顔になるのを押さえるのに苦労した。
遂に捜査地区にまで入るとキュルケは目立たないように周囲を見回した。勿論キュルケだって捜査を妨害しようと思ってこんな事をしている訳ではない。
キュルケは事件の時傭兵達の後ろにいたヴァレンティーニ達を見ている。本当にここに奴がいるのか自分の目で確かめたいという思いは強い。それに加え、あのときの襲撃が自分を標的にしたものならば、自分が姿を現す事で尻尾を出すかもしれないと期待している所がある。
少女らしい浅はかな考えではあるが、キュルケは本気だ。本気で自分の力で襲撃者に復讐しようとしていた。
ゆっくりと歩きながら暫く街行く人に目をこらすが、当然そんなにすぐに目的の人物が見つかるはずもない。代わりに目に付いたのが教会の横道に長い列を作る人々だ。虚無の曜日でもないのにそんなに沢山の人が教会に集まるのが不思議に思えた。
「あそこで並んでいる人たちは何をしているの?」
「仕事もなくお金もない人達が教会から食事が配給されるのを待っているのです。あれは昼飯の分ですな」
「あんなに沢山…今からお昼までずっと並んでいるの?」
「配給される量には限りがありますから、食べ損なわないためには並ぶしかないのです。朝食の前から並んでいますし、昼食が終わるとすぐにまた夕食のために並び始めますよ」
ロマリアにはハルケギニア中から難民が集まってくるが、ここにはそれらの人々に対して十分といえる程の仕事はない。当然の結果として難民達は仕事に就く事が出来ず、教会の慈悲にすがって生きる事になる。
美しく整備された街と教会。しかしその教会には常にやせ細った無表情な難民達が列をなし、その横をでっぷりと肥満した神官達がきらびやかな神官服に身を包んでにこやかに談笑しながら通り過ぎる。
並んでいる人達にはどう見ても働き盛りと思える年齢の人達が多数いる。そんな人達が日がな一日ただ何をするわけでもなく道で並んでいるだけなのだ。
大聖堂に近づくにつれ教会の数は多くなる。注意して見ているとどの教会も正面は美しく装飾されているが、横道や裏道には配給を待つ人達が長い列をなしている。大聖堂に近づくにつれ神官達の肥満度が上がっていくようなのは気のせいなのだろうか。
あきらかに異常なのに誰もそれを異常とは思わない、この国のゆがんだ姿にキュルケは言葉を失った。
「これがロマリアのもう一つの顔です。ここは昔からずっと……こうなのですよ」
初めて訪れたロマリアの大聖堂は、巷で語られる通りそれは立派で荘厳なものであった。しかしその立派な建築物がキュルケの胸に何らかの感情を呼び起こす事は無かった。
「ああ、立派ね」
寄付という名の入場料を支払うと礼拝堂へ入る事を許される。
屋内である事が信じられないくらいの広大な空間は無数の精緻な彫刻に飾られ、その美しいステンドグラスの輝きはここで祈る者に天国の存在を信じさせるであろうと思われた。
「だから、何?」
形だけ祈る振りをして、すぐに大聖堂から外へ出る。
天国かと思われる大聖堂から一歩外に出れば、そこが光の国と呼ばれるのも当然と思える美しい街だ。様々な意匠の建物は白く輝く石で美しく装飾され、道行くきらびやかな神官服を際だたせる。
「帰る」
「あ、キュルケ様お待ち下さい」
予定ではこの後東の聖堂を見てどこかで食事となっていたのだが、キュルケはさっさと元来た道を宿泊先のホテルへと戻り始めてしまった。慌ててバルバストル達もその後を追う。
ウォルフ達と行った辺境の地での観光はとても楽しかった。厳しい環境の中でも人々は精一杯頑張って生きていて、街には活気が溢れていた。だから今回の旅行でも実は観光を楽しみにしてもいたのだが、その期待は裏切られたと言っていいだろう。
最初に行列を見た教会まで戻ってきて、ふと足を止める。
先ほどよりも行列は長くなったであろうか、人々は相変わらず無表情にそこで立ちつくしていて、こちらに向けられている目が何を見ているのかは分からない。
ライムントが必死に制止するのも聞かず、キュルケはつかつかとその行列に近づいた。
「あなた達」
行列の先頭の方に並んでいた男達に声を掛ける。皆痩せてはいるが多くはまだ若い、健康そうな男達だ。
「どうしてこんなところで並んでいるの? 仕事が無いの?」
「き、貴族のお嬢様、ええ、はいその通りでございます。ここで並んでいると食事が貰えるのですよ」
いきなり身なりの良い少女に話しかけられて顔を見合わせていた男達は恐縮しながら答えた。
えへらっと笑う、こちらの顔色を窺うようなその表情にキュルケはぞわりと鳥肌を立てた。
「仕事さえあれば、並ばなくても良いのですが、食べないと生きていけませんもので、はい」
「そう。仕事が有ればいいのね? だったらわたしが紹介してあげる。付いてきなさい」
「あの、仕事といいますと、どのような?」
「友達がゲルマニアで辺境開拓団をやっているの。人手不足だって嘆いていたから行けば歓迎されると思うわ」
「へ、辺境開拓団! お嬢様私たちは何の能もないただの平民でして、幻獣などとは戦えません。ご勘弁下さい」
「辺境なんて地獄みたいな所だって言うぞ、やっとの思いでロマリアに来たってのに、何でそんなところに行かなくちゃならないんだ」
「なによ、辺境って言ったって全く普通の所よ。こんな所にいるよりずっと良いわ」
「信じられるか! あんたもしかして俺達を人買いに売り払おうってんじゃないだろうな」
「お嬢様、落ち着いて下さい」
口々に男達が騒ぎ始める。バルバストル達は何とかキュルケを落ち着かせようとする一方で不測の事態に備え、鞄に片手を入れて杖を掴んでおいた。
「こらっ!! お前達、何を騒いでおるんだ、飯を出さないぞ!」
「あわわ、侍祭様これには訳がございまして、そこな娘が我々を人買いに売り払おうとしましたので、つい大声を上げてしまいました」
「そうですそうです、人買いに売られたら最後、辺境の森で幻獣の餌にされるそうなのでそんなのはごめんです」
「誰が人買いよ! あんた達みたいなやせっぽちじゃ幻獣の餌になんかならないわ! そこのデブの方がよっぽどましよ!」
「じ、侍祭様になんて口をー」
「だれがデブだ! ええい、静まれ静まれーい!」
教会から神官が出てきた事によって事態はさらに混迷の様相を呈してきたが、神官が一喝すると並んでいた男達はピタリと静かになった。
「ふん…娘、こいつらはこう言っておるがどうなんだ?」
「キュルケ・フォン・ツェルプストーよ。ゲルマニアの辺境伯の娘になるわ。仕事が無いって言うから働く場所を紹介してあげようとしただけよ」
「ここはロマリア。ゲルマニアの爵位など何の意味もないぞ。こいつらはお前の紹介では働きたくないそうだ。去れ」
「そうだそうだ、辺境開拓団なんかで働けるかってんだ。俺らにはブリミル様が付いているんだ、騙そうとしても無駄だぞ!」
「帰れ帰れー」
それまで頭に血が上っていたキュルケだったが、口々に帰れと騒ぐ男達を前にして逆に冷静になった。
腕を掴んでキュルケを引き留めていたバルバストルの手を離させると踵を返し、その場を後にした。その背にはまた罵声が浴びせられたがキュルケはそれを気にすることなく元の道に戻った。
最悪の事態まで想定していたバルバストル達は、ほっと息を吐くとキュルケの後を追った。
「よくぞ抑えてくださりました」
「別にー? あんな人達のために何かをするなんて馬鹿らしいと思っただけよ」
「彼らは与えられる事に慣れてしまっているだけなのです」
「あんな、ただ餌を貰っているだけなんて、家畜以下じゃない。あいつらも、それで良いと思っている教会も大嫌いだわ」
「そのお心は正しいとは思いますが、あまり大声で話して下さいませぬよう。あと、ホテルに着いたらお小言がございますのでご覚悟を」
「今日はパース」
「パスできません」
ぐたぐた言い争っている内にホテルへ着き、ライムントは早速部屋の壁・床・天井に『サイレント』を掛けて外部からの盗聴を遮断し、窓際に立って外を眺めているキュルケに説教を始めた。
「いいですか、キュルケ様。今回のこの手掛かりを逃したらもう永遠に敵を捕らえる機会を逸してしまうかもしれないのです。そうなれば…」
「ああ、もう。あなたの言いたい事なんて分かってるわよ。じゃあ具体的に今日の私の行動の何がいけなかったって言うの?」
「一つ一つの行動がどうこうという話ではないのです。そんな事を言うならばそもそもキュルケ様がこちらに来ただけで敵の警戒心を高めているかもしれないですし。それよりもこのロマリアでの責任者たる私の指示に従わなかった事が問題なのです」
いくら領主の娘とはいえ、今日のキュルケの勝手な行動の数々に対しライムントは怒っていた。どのくらい怒っているかというと、何とか言いくるめて、それが出来ないのならば強制的にでも国へ送り返そうと思っている位だ。
ライムントは長年ツェルプストーの諜報を一手に率いてきた強面だ。普通の少女ならば彼にこれほど怒られれば泣き出してしまうのだろうが、キュルケは一向に怯まない。
「いちいち過ぎた事をぐだぐだと細かいわね、そんなんだから嫁に逃げられるのよ」
「なぁっ、嫁の事は関係ないでしょう! 私は辺境伯にロマリアでの指揮を一任されています。その私の指示に従えないというのならば私にも考えがあります」
「ふん。昨日あなたの話を聞いてあげたのは、一応現場責任者だと言うから顔を立てて上げただけよ。私が何をするのかなんて、私が決めるわ」
「ほう……」
「あの、お茶入りました…」
「あら、ありがとう、リア。ちょっとこの石頭と話があるから席を外していてちょうだい」
「は、はい」
かなり険悪な雰囲気になった二人の間におずおずとリアが入ったが、すぐにキュルケに追い出された。ついでにバルバストルも外に出して、部屋にいるのはキュルケとライムントの二人だけになった。
「私の指示に従えないというのがキュルケ様の答えなのですね? では、荷物をまとめて下さい。今すぐツェルプストーへと帰っていただきます。力ずくにでも」
無表情になったライムントが冷静に告げる。だが、キュルケに動く気配はなかった。
「ふう、分かってないわね、ライムント。あなた、ツェルプストーに来て何年になるの?」
「……二十年程になりますが、それが何か?」
「わたしは十二年よ。あなた、随分長くいるのねえ」
ライムントの問いには答えず、キュルケはテーブルの上の果物ナイフを手に取る。右手に持ったそれを左の掌に当てると躊躇無く刃を引いた。
それほど深くは切らなかったようだが、当然掌は鮮血に染まる。さすがのライムントもキュルケのいきなりの行動に驚き、硬直することしかできなかった。
キュルケは目の前で掌をゆっくりと握り、拳を作る。その拳から一筋の血が流れた。
「この血は、ツェルプストーの血よ。父さまと母さまから受け継いだ、フォン・ツェルプストーで最も高貴な血。今回の事件ではこの血が流された。その意味を、あなただって分からない訳ではないでしょう」
拳を掲げ、その流れる血をライムントに示して見せた。
「"ツェルプストーの血は、血をもって贖わせなければならない" ツェルプストーで初めて杖を持つときに教え込まされる言葉よ。家訓といってもいいわ。ツェルプストーにおいて全ての法に優先する、ね」
おもむろに手にしたナイフを投げる。ナイフはライムントの顔、そのすぐ横をかすめ、軽い音と共に壁の肖像画に突き刺さった。
「いい? これはわたしの復讐なの。あなたは勿論、父さまにだって止める権利はないわ」
自分の復讐は自分でする。そう言いきる少女の気迫にライムントは完全に飲まれていた。
「これはあなたのミスよ、ライムント。父さまだってわたしに配慮して全ての情報を伝えていたというのに、あなたは自分のところで情報を止めた。あのとき、わたしにはあなたの指示に従う義理が無くなった」
「い、いやしかし、私は敵に感付かれる可能性を考慮して…」
「それを判断するのはわたしだと言っているの。あなたが情報を上げないのならば、わたしは自分で見て判断しなくてはならなくなる。あなた達の任務はわたしへの助力と助言。おわかり?」
「……」
キュルケの言う家訓は当然ライムントも知っていた。確かにツェルプストーでは被害を受けた当人に復讐する権利があり、義務が課せられている。その当人が死んでいる場合に妻・夫・子供・親にその義務が移動する、というものだがキュルケはまだ十二歳なのだ。そのまま適用するなんて考えもしなかった。
「分かったのなら、あなたが手にしている情報を全て出しなさい。全てを聞いた上で、あなたの指示に従うかどうか、判断してあげるわ」
勿論キュルケも自分が素人の子供でライムントが諜報のプロであるという事は理解している。その上での命令だ。
ライムントは天井を見上げ、ほんの少しの間黙って目を瞑ったが、大きな溜息と共に顔を下ろした。この少女の事を子供扱いしていたのがそもそもの間違いだった事にようやく気が付いた。
「やれやれ、ツェルプストーの血を示されたのでは従わない訳には参りませんな。分かりました。昨日何があったのか、あの街区で何を調査しているのか、全てお話ししましょう。…っと、その前にその手を治療しなくてはなりませんね、リアを呼びましょう」
溜息を吐きながらリアを呼ぼうとドアの方へと振り返る。ふと、そのドアの隣に飾ってある肖像画が目にとまり、思わず動きを止めた。
「……これは、神の意志は我々と共にあるようですな」
キュルケの投げたナイフが深々と眉間に刺さっているその肖像画には、"エウスタキオ枢機卿"と題名が付けられていた。
幕間5 キュルケの復讐-3 神の道
ヴァレンティーニはその日もいつものようにロマリア始めハルケギニア中からもたらされる様々な情報の分析に当たっていた。
ツェルプストー襲撃でしくじって以来現場には出ておらず、ここロマリアからハルケギニア中にいる間諜に指示を送る毎日だ。彼が今いるこのオフィスはロマリアの宗教庁裏手の下町にあり、地下でエウスタキオ枢機卿のオフィスと繋がっている。
近所の人には元貴族で親の遺産を食いつぶしているロマリア史研究家という事になっており、ロマリアには実際にそんな人間がごまんといるので今まで不審に思われた事は無い。時々長期間いないのは研究旅行に行っているという訳だ。
昼食から帰ってきた部下と入れ違いに近所の飯屋へと向かう。よその宗派では諜報部隊といえども大がかりな本拠地を構え、使用人を雇っている所もあるようだがヴァレンティーニは人員を最小限に絞っている。食事は外でとるし掃除などは、あまりしないが、自分たちでしている。
この建物を出入りするときは『フェイス・チェンジ』の効果がある魔法具のネックレスを首に掛けて顔を変えているので、この拠点が誰かにばれるという事は心配していなかった。
「あらいらっしゃい、今日は遅いのね」
「何かシチューとパン。食後にフルーツを頼む」
「はいよ」
いつものように注文をし、テーブルの上に代金を置いていつもの椅子に座った。食事時のピークは過ぎていたのでもう店内は大分すいている。軽く店内を一瞥すると持ってきた書類を広げて目を通し始めた。
「はいよ、お待たせ。あら、地図かい? 随分と古そうなものだねえ」
「アクイレイアの古地図だ。今度発掘に行くかも知れないのでな」
「相変わらず熱心だねえ、その調子で嫁を探せばいいのに」
アクイレイアのような古い都市には現在の都市の地下に、もっと古い時代の構造物が残っている事がよくある。
今回ヴァレンティーニ達が調べているのは、とある宗派の教会がその地下の空間に若い女性を誘拐してきて監禁しているらしいというものだった。
エウスタキオ枢機卿とは対立する宗派の事だ。表沙汰にしてその宗派そのものを叩くか裏取引で支配下に置く事にするのかは枢機卿が判断する事になるが、おそらく裏取引で自派閥に引き込む事になるだろう。
ヴァレンティーニの仕事はその証拠を掴む事。古地図と現在の地図とを見比べ、進入できそうな経路を検討しているが、はたからは遺跡発掘の計画を練っているようにしか見えないだろう。
いままでもエウスタキオ枢機卿はそうして派閥を大きくしてきた。そうして取り入れた派閥は表向きは関係ないように装い、いつでも切り捨てられるようにしてある。
万が一事件が表沙汰になってもエウスタキオ枢機卿には何も影響がない。そのやり口は、まさしく狡猾と言えるものだった。
何枚もの地図にチェックを入れながらあっという間に食事を平らげ、お茶を飲んでいると暇になった女将が話しかけてきた。
「そんなふうに遊んでいられる程の財産があるんなら、嫁を貰おうって気にはならないのかい? 今は良くたって年を取ったら一人じゃ大変だよ?」
「二人も遊んで暮らせる程は無い。子供が生まれたりしたら事だしな」
「子供が生まれたらおめでたいじゃないか! あんたがちょっと働けば良いだけだろう」
「働いたら負けだと思っている。女や子供なんて面倒くさいだけだ」
ハルケギニア中を陰謀のために飛び回っているヴァレンティーニは、実際にはかなり働きものな訳だが、この界隈では怠け者で通っている。
「それに俺が結婚したらこの店には来なくなるぞ、常連を失うような事を言うものではないな」
「は、独身の男どもが結婚して店に来なくなるのは本望だね。いつまでもだらだらと来られる方が心配になるよ」
それに、と女将は続ける。
「最近は新しい客も増えたしね。ああ、そうだあんたにも今度紹介して上げるよ、あんたの研究に興味が有るみたいだったんだ」
「ほう」
ヴァレンティーニの目が鋭くなるが、女将は気付かない。
「ゲルマニアってのは料理が不味いところなのかねえ、ウチみたいな飯屋の料理を美味い美味いって言って食べてくれる良い子だよ」
「人気があって何よりだな。ゲルマニア、か。確かに料理の評判はそれほど高くないが」
ゲルマニアといえばロマリア市内の連絡用拠点を見つけ出し、監視しているツェルプストーの事が思いだされる。どうせあちらには『遍在』しか行かないので放置してあるが、どうやって連中があそこを割り出したのかは現在調査中である。
何日か前にあの時大火傷を負ったツェルプストーの娘がロマリアにやってきて、この街区の教会とトラブルを起こしたという報告もあった。そのトラブルに意図が全く感じられなかったので、あれは偶発的なものでここに来たのに理由はないと片付けはしたが関係が気になる。
「料理が不味いって有名なのはアルビオンだけどね。あんたあちこち行ってるんだろ? 本当はどっちが不味いんだい?」
「あ、ああ、不味いと言えばアルビオンだな。ゲルマニア料理は素朴とも言えるが、アルビオン料理は悲惨と言えてしまう」
「やっぱりアルビオンかい。そこまで酷いって言われると逆に興味がわくよ」
からからと笑う女将の相手をしながら慎重に店内を探る。すると、カウンターの片隅に見慣れない木製の人形が置いてあるのを見つけた。よっぽど注意してみないと分からないが、僅かに魔力を感じる。
「女将、あの人形は? どうも見た事がないが」
「ん? ああ、それは今言っていた人がくれたのよ。人形の行商をしているらしいんだけど、ここに飾っておいて、欲しいっていう人がいたら紹介してくれって。ウチなんかじゃ人形欲しいっていう人なんてそうそういないって言ったんだけど、いいからって。……あんた、欲しいのかい?」
「い、いや、欲しい訳じゃない」
声をひそめて聞いてくる女将に慌てて否定する。まず間違いなくあの人形は監視道具だろう。まだ勘でしかないが、自分の元に捜査の手が伸びてきている事を感じる。
そういえば三日程前にとある教会の潜入捜査に入った部下二人と連絡が取れなくなっている事を思い出した。数日音信不通になる事なんて良くある事なので気にしていなかったが、至急確認する必要がありそうだ。
手早く書類を鞄に戻し、店を出る。気を張って周囲の気配を探ると、やはり違和感を感じる。どうやらもうすでにここら一帯は監視されているようだ。
オフィスのある建物まで戻ってみたが、ますます違和感は強くなる。今まで気付かなかった事に舌打ちをしながら建物の前を通過し、大聖堂の方へと歩いた。
「ちぃっ、タウベがこんな所にまで……」
大聖堂前の広場では複数の監視型ガーゴイルを確認できた。本部へ帰る事は諦めて人込みをよけながら早足で広場を突っ切り、横道に入って一つ角を曲がったところで走り出す。もう一つ角を曲がって裏道に入ったところで『遍在』を唱え、さらにその『遍在』に『フェイスチェンジ』を掛けて今の自分と同じ顔にすると、その『遍在』を表通りを真っ直ぐに走らせた。
本人はマントを脱ぎ捨てて『フェイスチェンジ』を重ね掛けにして別人に成り済まし、そこにあった生地店を通り抜けて裏口から出ると人込みに紛れ、そのままロマリアの街に姿を消した。
「こ、これはヴァレンティーニ殿」
「預けてあるものを出してくれ。急いでいるんだ」
「は、はい、ただ今」
数刻後、ロマリアの西の外れに建つ、とある教会にヴァレンティーニは姿を現した。『フェイスチェンジ』を解き、魔法具もはずした素の顔だ。
応対した司祭から箱を受け取ると個室に籠もる。急いで箱を空け、中から出てきた人形を手に取った。
「緊急連絡、コードCだ。こちらヴァレンティーニ、今から姿を消す事にする」
「お疲れ様。そう言わずに、もうちょっとゆっくりしていってちょうだい」
諜報員はその存在がばれてしまったら意味はない。暫く身を隠そうかと手にした枢機卿との緊急連絡用魔法具からはそこから聞こえるはずの無い、しかしどこかで聞いた事のある声がした。
「あら? もしもーし。ヴァル、聞いてますかー?」
「誰が、ヴァルだ。ヴァレンティーニはファミリーネームだぞ、勝手に愛称を付けるな」
「ああ、聞いていた。だって、あなたの名前なんて知らないし、しょうがないじゃない。うふふ、ちゃんと名乗るのは初めましてになるわね、キュルケ・フレデリカよ。お願いがあるのだけど、聞いて貰えるかしら? そっちに今ウチの手のものが向かっているから大人しく捕まって欲しいの」
「くそっ」
ほっぺにチュウしてあげるから、などと言っている人形を壁に叩き付けると、逃走用にと箱の中に入れてあったセグロッドを掴み、教会を飛び出す。
ヴァレンティーニ達は純然な諜報組織であって、戦闘要員というものを持っていない。皆それなりに手練れのメイジだが、万が一本部を襲撃されたら戦闘で勝てる見込みはない。敵に証拠を与えないためには逃げるしかなかった。
ひとしきりまた街中を廻った後に人気の少ない城門から街を出て、誰も後を追ってこない事を確認するとセグロッドを西の山へと走らせた。
ヴァレンティーニがロマリアの街から逃げ出した直後、キュルケ達ツェルプストーの諜報隊員達は拠点に集まって今後の方針を確認していた。
「えー、ヴァルは逃げ出しましたので、そっちは二班に任せる事にします」
「ヴァル、ですか。ヴァレンティーニが…」
「わたしがヴァルを想う気持ちは恋に似ているわ。会えない間の切なく疼くこの胸、会った瞬間に骨まで燃やし尽くしてやりたいこの激情。ヴァルは分かってくれるかしら…」
「キュルケ様の恋の行方はさておいて、問題は今回の主犯、エウスタキオ枢機卿なのだが…」
クネクネと身を捩っているキュルケを放っておいて、ばさりとライムントが書類の束を机の上に広げた。そこにはこの短い期間で集めたにしてはあまりにも大量な神官達の犯罪の数々が記されている。大抵は収賄や横領といったものだったが、中には人身売買などの重大犯罪も含まれるスキャンダラスなものだった。
「やっぱりあの諜報員達をさらっちゃったのは正解だったわね。今まで見つからなかったのが不思議なくらいの大漁ね」
「あれは賭に近かったからもうやりたくはないが…しかし、ここまでだったとは、聖職者達がなんたる事だ」
これらは証人として抑えた諜報部員が拠点としていた教会で入手したものだ。かなり念入りに隠されていたこれらの資料は、どうやらヴァレンティーニが自己の保身のために確保していた分らしい。おかげで捜査の手間がずいぶんと省かれる事になった。
「うふふ、『ディテクトマジック』をすり抜ける魔法が有ったのは驚いたけど、ウォルフの魔道具には意味無かったわ」
資料が隠されていた壁には魔法としてはほぼ完璧な隠匿魔法が掛けられていたが、今回ツェルプストーはウォルフから魔法具の提供を受けている。モーグラに搭載しているレーダーの技術を応用した『ライト』の魔法によりマイクロ波を照射して壁の中を透視できる魔道具の前には隠匿の魔法など何の意味もなかった。
ちなみにヴァレンティーニが逃走に使っているセグロッドにはやはり『ライト』による電波発信機が仕込まれている。地上で彼を追うものがいなくても、上空一万メイルにいるモーグラから彼はずっと監視され、追跡されていた。
これまで証拠が見つかったとだけ知らされていた諜報部員達は初めて目にする資料を前にしてにざわざわと落ち着かない。ライムントは彼らが資料をテーブルに戻すのを待って会議を続けた。
「現時点での問題は、時間だ。辺境伯が政府の高官と協議してゲルマニア政府がどのような対応を取るのか決めるまで待つとなると、肝心のエウスタキオ枢機卿が守りを固める恐れがある。今のところかなりダークだが彼本人の犯罪への関与を示す証拠がない。逃げられる公算は高い」
これほど事件が大きくなってくると辺境伯にとっても一人で扱うのは難しくなる。一辺境伯が告発するにしてはスキャンダルの範囲が広範すぎるのだ。
事態はゲルマニアとロマリアとの話にならざるを得ないのだが、残念な事にこれほど大量の証拠でもまだ彼らの派閥構成員のうち一部の人間に関するものしかないので、その上に立つ枢機卿という立場の人間を弾劾するにはまだ不十分だ。
時間を置くとこちらがどれだけの証拠を得ていて誰を罪に出来るのか、向こうに伝わる可能性は高い。そうなったら枢機卿はこれらの神官達をトカゲの尻尾を切るように切り捨てる事を躊躇しないだろう。その結果は枢機卿の安泰が守られるという事だ。
エウスタキオ枢機卿のオフィスを捜査し、彼に関する証拠の保全を図りたいのだが当然ツェルプストーにはこの国の捜査権など無い。宗教庁を警備する聖堂騎士の目をかいくぐり長時間の捜査を行うのは難しいだろう。
「一刻も早く枢機卿が関与した証拠を確保するために何をしたら良いか、忌憚のない意見が欲しい」
諜報隊員達は思わず顔を見合わせた。ライムントがこんな風に迷っているのを彼らは見た事がなかった。
「あー、教皇様に訴え出てエウスタキオ枢機卿を逮捕して貰えませんでしょうか」
「教皇聖下は現在病気療養中だ。危篤という訳ではないが、政治力を発揮できる状態にはない」
「今度の降臨祭にエウスタキオ枢機卿がアルビオンまで行くという情報があります。その時でしたら警備が薄くなって潜入捜査が可能なのでは?」
「時間がかかりすぎる。ヴァレンティーニが消えた事に対策される前に何とかしたい」
「この、ゲスどもの誰かと取引して証拠収集の手引きをさせるというのは?」
「……ううむ、それが一番現実的か?」
「宗教庁に頻繁に出入りしている人間となると、数が減りますね。この司祭と、この助祭……あとは……」
工作を仕掛ける神官を選んでいる室内に、パンッ、と掌を叩く大きな音が鳴り響いた。話を止めた諜報部隊員達の視線の先にいるのは、キュルケだ。
「さらって来ちゃいましょう」
「キュ、キュルケ様?」
「さらって来ちゃえばいいじゃない。本人を確保しちゃえば証拠の隠滅も出来なくなるわ。その間に父さまが政治的な話をすれば良いのでしょう」
「さらってって、枢機卿をですか?!」
皆硬直して反応が出来ない。事ここに至っても枢機卿という肩書きはハルケギニア人にとって重い。
「す、枢機卿をさらったりしたら国際問題になりますよ! 辺境伯の立場さえ危うくしかねません」
「ばれなければいいのよ。父さまが関与した証拠さえ無ければ何とでも言い訳は出来るわ」
「そこまで過激な事をしなくても今検討中の作戦なら……」
「そんなゲスと取引するなんていやよ。そもそもそいつら信用なんて出来ないし」
「いや、しかし……」
諜報部隊員達はまだ踏ん切りが付かないようだが、ライムントは違った。机の上の証拠品を押しやると大きな紙に記された宗教庁周辺の地図を広げた。
「ふむ、確かにエウスタキオだけを確保するのであればそれほど難しくはないな」
「でしょ? 証拠の捜査には時間がかかるけどちょっと行って人一人捕まえてくるだけなんだから」
「やつらはまだこちらがこの地下道の存在を把握しているとは思っていない。ここから潜入すればエウスタキオの寝室のすぐ隣まで一直線だ。聖堂騎士隊ともぶつかることは無い」
「ライムント様、本気ですか? 一つ間違えばとんでもない事になりますよ」
「……何度も言っている事だが、俺達の仕事は我々を襲撃した犯人を確定し、逮捕もしくは抹殺、それが出来ないのであれば裁判で使用できる明確な証拠を確保する事だ。目的を達成するためにもっとも可能性の高い作戦を選択すべきで、犯人の地位は関係ない」
「……」
ブリミル教というこの世界の秩序そのものとも言える存在と敵対する恐怖。隊員達の心を占めているのは、出来ればそんな事をするのが自分たち以外であって欲しいという怯えの気持ちだ。
そんな沈痛な雰囲気を破ったのはキュルケのいつもと変わらぬ声だった。
「枢機卿と思わなければ良いんじゃない?」
「は? 一体何を……」
「キュルケ様?」
虚を突かれたような隊員達に構わず、キュルケは再び堕落神官達の資料を手に取りページをめくる。
目に付いた資料を隊員達に見えるようにテーブルに並べながら話しかけた。
「ヘクトール」
「はっ」
「この児童買春が大好きな司祭は好みの難民の子を見つけると、親を殺してでも自分が懇意にしている娼館に入れてるみたいなんだけど、あなた子供いたでしょ、親としてどう思う?」
「……度し難い屑ですな。可能ならばこの手で殺してやりたいです」
それまで怯えの色を見せていたヘクトールの目に怒りの感情が浮かぶ。
「ゲオルク」
「は、はい」
「こっちのお金が大好きな司教様は、賄賂や横領くらいじゃ足りないらしくて人身売買にまで手を出しているんだけど、この人今度枢機卿になるらしいわよ」
「とんでもない話です。まさか教会がここまで腐っているとは」
ゲオルクの目にも怒りが灯る。
「ロルフ」
「はい」
「この六十過ぎの助祭は自分好みの少年達でハーレムを作るためにこの秘薬を使っているらしいわ。水メイジから見てこの秘薬はどういう薬なの?」
「これは……こんな薬を常用させたら、数年で心が壊れてしまう。人で、無くなってしまう」
「成る程、数年経ったら少年も自分好みの年頃からは外れちゃうからかまわないってわけね。見上げたものだわ」
ロルフは手にした資料を握りしめ、拳を震わせる。
「勿論、こんな神官達はロマリアにいる膨大な数の中ではごく一部よ。多くの神官達はまじめに、信仰の中で生きている事なのでしょう。でもこんな神官が存在する事を許し、自分のために利用しているのがあのエウスタキオだって事を忘れないで欲しい」
「……知っていて、構わないって放置しているのは、やっているのと一緒ですよ」
「そしてもう一つ。ツェルプストーのものならば、この男の指示であの襲撃事件が起こされた事を絶対に忘れてはならない」
禁制の秘薬を使用したため証拠としては使えないが、捕らえた諜報員の証言によりエウスタキオ枢機卿の指示であの事件が起こされた事は確認済みだ。
「わたしは忘れない。あの日受けた痛みと屈辱を。わたしを……わたしを庇って死んだヴィリーのことを。マテューを、クルトの叫び声を、わたしは決して忘れはしない」
キュルケは今でも時折当時の事を夢に見る。夜中に、あるいは明け方にぐっしょりと汗をかいて目が覚めた時、彼女は一人小声で彼らの名を呼び続ける。
決して思いが薄れる事は無い。過ごした夜の数だけキュルケの炎は一層強く燃えさかっていた。
「エウスタキオが枢機卿だなんて、わたしは認めない。枢機卿とは人々の尊敬を受ける存在。彼はわたしの、キュルケ・フォン・ツェルプストーの尊敬を受けるに値しない!」
キュルケが叫ぶ。
「『この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ――』というのは東方の聖人アントニオの言葉よ。彼はわたしに迷わず行けと言ってくれた。……わたしは迷わない。たとえエウスタキオが神そのものだったとしても、わたしはわたしの道を歩いてみせるわ!」
教会に行くのもさぼり気味で、食事前の祈りも時々忘れる彼女は決して敬虔なブリミル教徒とは言えないだろう。そんな彼女でも神という存在に対する畏れは大きい。それでも、それを遙かに凌駕する激情の炎が彼女の心で燃え上がっているのだ。
その激情に焼き尽くされたかのように男達は息をのみ、室内は静まりかえった。
「涙を拭いて下さい、キュルケ様。キュルケ様と歩む道が神の道なのか、俺には分かりません。でも、あいつらが神の道を歩いていない事だけは俺にも分かる」
静寂を破り、前に進み出たヘクトールがキュルケに杖を捧げる。
「おそらくエウスタキオ枢機卿は悪魔に取り憑かれたのでしょう。本物の枢機卿は早く悪魔を殺してくれと叫んでいるに違い有りません」
ロルフが続く。
「思えば始祖降臨から六千年、一つ所に留まった水は予想以上に澱んでいるみたいですな。水は流れるようにあるべきです」
ゲオルクが、ライムントが、ツェルプストーの男達が次々に少女に杖を捧げた。
「決まりだな、今夜決行する。作戦を練ろう」
ライムントのかけ声で男達は再びテーブルを囲む。その顔にもう怯えや畏れの色は無い。断固たる決意を秘めた集団はあらゆるタブーから解き放たれ、目的に向かって動き始めた。
キュルケ達が作戦を立てている頃、ヴァレンティーニを追う二班はのんびりと追跡を続けていた。
更なる証拠収集のため、ヴァレンティーニは今すぐ捕らえず暫く泳がせるという方針が辺境伯から示されている。
「こちら、一号機。視界良好、ヴァレンティーニは森が深い部分を選んで西へ移動中。なかなかやりますね、マンティコアから逃げ切りましたよ」
「その先の村のエウスタキオ派の教会に部隊を展開済みだ。教会に入り次第襲撃する。村に近づいたら知らせてくれ」
「了解。現在の速度だと十分後くらいになりそうだ」
この日以降ただ一つその手に残ったセグロッドを頼りに、ハルケギニア中を舞台にした逃走劇を演じる事になる。
そんな未来など知るはずもなく、ヴァレンティーニは監視されたまま一直線に教会へとセグロッドを走らせた。
幕間5 キュルケの復讐-4 終幕
ライムント達が例のアパルトメントの存在を知ってまずした事は、建物についての徹底的な調査だ。ウォルフの魔道具でアパルトメントとそこから伸びる地下通路、壁を隔てた宗教庁の建物まで全てをスキャンして内部構造、人員配置、罠の存在まで綿密に調べた。
次に監視型ガーゴイルで人の出入りを監視して敵のおおよその陣容を把握した。この情報と捕らえた密偵から得た情報をもとに潜入作戦を立てた。アパルトメントから潜入し、地下通路を通って密かにエウスタキオ枢機卿を拉致し、アパルトメントから抜け出す計画だ。
キュルケはライムントのこの作戦を受け入れ、今回はライムント達が拠点としているアパルトメントで待つ事になった。連絡が入り次第モーグラで一緒に出国するつもりだ。
「エウスタキオはどうしている?」
「変わらず自分のオフィスにいますね。昨日に比べて多少聖堂騎士の警備が増えたでしょうか」
「聖堂騎士が地下通路を警戒している様子はあるか?」
「いいえ。相変わらず外からの進入に対しての警備体制となっているように思われます。予想通りこの地下通路はエウスタキオ枢機卿の派閥でもごく一部しか知らされていないようです」
「よし、宗教庁側の諜報員は出払っているな。では作戦を決行しよう。さっさとかっさらってツェルプストーに帰るぞ」
「はっ」
聖堂騎士による外側の警備は強化しているようだが、消えたヴァレンティーニの捜索のため、直接の敵である諜報部隊は手薄になっているようだ。
今が作戦の実行時期と見定め、ライムントは呪文を唱えて杖を振ると『フェイスチェンジ』で自らの姿を変えた。あのアパルトメントに出入りしている時のヴァレンティーニの姿だ。
水メイジであるロルフをずた袋に入れて肩に担ぎ、アパルトメントに歩いて近付く。ロルフは気絶している振りをして大人しくしていて、丁度誰かを攫ってきたかのように見える。
密偵から手に入れた鍵でドアを開けて堂々と内部へ潜入した。ドアから入ったところは小部屋になっていてすぐに隣の部屋からのドアが開き、若い男が出てきた。
「ヴァレンティーニ様! ご無事だったんですね、心配いたしました。これは?」
「……」
「!っ ……」
もう夜となりヴァレンティーニが姿を消してから半日近くが経過している。若い諜報員は姿を現した自分たちのボスの姿に安堵の表情を見せたが、ライムントが口に指を当てて目配せをすると緊張感を取り戻した。この仕草は盗聴されているから余計な事は喋るなという合図だ。
黙ったまま男が出てきた小部屋へと移動し、そこにいた男達も同様の仕草で黙らせる。怪訝な顔をでこちらを伺う男達の前でドサリとロルフを床に落とし、真っ直ぐに部屋の左側に付いているドアへと向かった。捕らえた密偵から無理矢理聞き出した情報によれば、この拠点は二重構造になっている。ただの諜報員には入る事を許可されていない、ヴァレンティーニ達上級幹部だけが入る事を許された区画があり、それがこのドアの先だ。
ドアを開けた先には小部屋があり、その先はヴァレンティーニ達幹部の居室になっている。平の諜報員達はヴァレンティーニ達がそこから上層部へと連絡を取っているものと思っているのだが、実はこの部屋は囮だ。入ってすぐの小部屋の床が一部持ち上げられるようになっていて、そこから地下続くに秘密通路が本命なのだ。
諜報員達に待つように合図をして一人小部屋に入りドアを閉める。迷わずに床の入り口を開け、地下へと体を滑り込ませた。
細い通路を滑り降りたその先の通路の壁の薄暗い一角にもドアが有り、秘密の部屋へと続いている。この部屋の壁一面には盗み見の鏡と呼ばれる魔法具でこの建物の窓、ドア、さらには内部まで沢山の映像が映し出されており、事前の予想通りここでアパルトメント全体を監視していたようだ。
その中の部屋にも諜報員が二人いてヴァレンティーニに扮したライムントを出迎えた。何も喋らずにここまで来た自分たちの上司を疑っていないようで、状況を確認しようと筆記具を差し出した。
「眠っていてくれ」
「がっ」
「なっ! 何、を……」
ライムントは筆記具を受け取る振りをして近づくと、反応する間も与えずに二人に打撃を加え、無力化する。掌底で心臓を正確に撃ち抜かれた二人は全く抵抗する事が出来ずに床に倒れた。
心臓を強打された事により一瞬呼吸も出来ずにいたようで、反撃しようと体を起こし杖に手を伸ばした時にはもうライムントが呪文を唱え終わっていた。眠りにつく魔法、『スリープクラウド』だ。
アパルトメントに異常が有った場合、この二人からエウスタキオ枢機卿に異変を知らせるシステムだったものと思われる。通路を閉鎖する魔法も用意されていたようだが、この二人をエウスタキオ枢機卿に気付かれることなく拘束できたので作戦は大きな山を越えた。
諜報員達にはアパルトメントから外に出入りして諜報活動を行う一般の者と、このトンネルと宗教庁側の建物とを行き来して監視を行う者との二種類がいて、互いに顔を合わす事はないようだった。その間をつないでいたのがヴァレンティーニなどのごく一部の者で、かなり隠密性にには気を配った組織だと思われるが、魔法防御をものともしない魔道具は地下の一室で動かないこの二人の存在を確実に把握していた。
この先で通路の存在を知っている者はおそらく現在エウスタキオ枢機卿ただ一人。あとは表の諜報員達を無力化すれば作戦は成功したも同然だ。
壁の映像で階上の者達が大人しく待っている事を確認し、来た通路を戻る。ドアを開けて部屋へと入ってきたライムントに室内にいた諜報員達が顔を向けた。
「無事に終わった。もう、いいぞ」
ライムントの声に反応して諜報員達の背後に放置されているずた袋から杖が姿を現すが、背後に目を持たない諜報員達は当然気付かない。常と違うヴァレンティーニの声に声に違和感を感じるだけだ。
「? ヴァレンティーニ様、声が……?」
「《スリープクラウド》」
「!!っ」
ライムントに注目していたところに背後から放たれたロルフの魔法。室内にいた諜報員達は、やはり抵抗する事も出来ずに昏倒した。
「貴様、ツェルプストー、こんな事してただで済むと思っているのか!」
「いや、わたしは聞いていなかったのですよ、まさか娘がこんな事をするなんて」
「娘のせいにして自分は逃げるつもりか、そんな事をしても貴様の罪は消えはしないぞ、まずはこの縄を解け」
ゲルマニア西部ツェルプストー辺境伯領、その居城の一室で縄で縛られたまま椅子に座らされ、きゃんきゃんと喚いているのはエウスタキオ枢機卿だ。一週間も牢に入れられっぱなしだったのでストレスが溜まりまくっているようだ。
結局ライムントと彼の率いる諜報部隊はあっさりとエウスタキオ枢機卿をそのオフィスから拉致して見せた。作戦には参加せず、拠点で待機していたキュルケが思わず拍手するくらい短時間で枢機卿を確保し、拠点まで戻ってきた。各所に仕掛けられていた罠にも一つもかからず、誰とも戦闘することなく帰還する事に成功している。
枢機卿を深夜にロマリアの城壁を越えて運び出すのには黒棺と呼ばれる棺を使用した。これは通常公に出来ないような死体を城壁外へ運び出す時に使用され、ロマリアにおける暗黙の了解で神官服を着た者が運び出す時には深夜だろうと誰何される事はない。
ターゲットをモーグラに積み込み高々度を飛行して国境を越えたが、最後までロマリアが気付いた様子はなかった。あるいはあの謎の神官は気付いていたのかも知れないが、妨害や追跡は一切確認する事が出来なかった。
懸念していたのは枢機卿を連れ帰った時のツェルプストー辺境伯の反応だったが、心配は必要なかった。キュルケは「それでこそ、ツェルプストーの女」と褒められ、ライムント達にも金一封が出た。
あっさりと事件が解決したのは良い事なのだが、キュルケなどには物足りない幕切れだったようだ。
「まさか、そんな事はしません。むしろ褒めてあげましたよ、よくやった、と」
「な……貴様、認めるのだな、ロマリアで神官を、それも枢機卿という地位にある者を拐かすという神をも畏れぬ所行が自分の責任で行われたと」
「神は常に畏れ、敬っています。これでも私は敬虔なブリミル教徒なのですよ」
「ぐぬぬ、ブリミル教徒がこんな事をするはずがない。これは、悪魔の所行ぞ。貴様が悪魔に操られていないというのなら今すぐわたしを解放し、跪いて許しを請うのだ。そうすれば寛大なる神は言い訳くらい聞いてくれるかも知れん。さあ、縄を解け」
随分と威勢の良い事を言っているが、その目はきょろきょろと落ち着かず、口元は引きつり頬はぴくぴくと痙攣している。怯えているのが丸わかりな様子にツェルプストー辺境伯はやれやれと溜息を吐いた。こんな小物に領内を引っかき回されたのがやるせない。
「悪魔と言うならそれでいいが、エウスタキオ、お前には全て話して貰わなくてはならん。何故我が領で工作をし、軍を襲ったのか。分かりやすいように最初から話せ」
「ききき貴様、一辺境伯の分際でこの私を呼び捨てにするなど許せん! 悪魔め、神罰を受けると良い。それがいやなら縄を解け」
「ふう、エウスタキオで無いのならばどう呼べばいいのだ?」
「決まっておる、エウスタキオ枢機卿猊下だ! ええい、早く縄を解けと言うに!」
「残念ながらその呼び方は出来ないな。何故なら、お前はまだ生きているだろう?」
「ひょ? ……」
自分の生死に関わる言葉が出てきて硬直する。ツェルプストー辺境伯の言葉の意味を考え、目を泳がせるエウスタキオに構わず辺境伯は言葉を続けた。
「エウスタキオ枢機卿猊下は、もう死んでおる。昨日教皇聖下の名前で死亡広告が出されていたぞ? まだ生きている人間を、死んだ人間の名前で呼ぶ訳にはいかないだろう」
「ひうっ、ひっ? ……」
びっくりして妙な声を上げるエウスタキオに、教皇の名の下に発せられた死亡広告の現物を見せてやるとピタリと動かなくなった。
自分の死亡広告を見る事の出来る人間は少ないだろう。葬儀の日程が記されているその通知を見詰める目蓋は痙攣するように瞬きを繰り返し、唇は震えている。
「な、な、何で、こんな。聖下がそんなことを」
「死因は流行病だそうだ。怖いものだな、ほんの数日前の報告では元気そうだったのに。ああ、病はもう終息して平民には被害が全くなかったというのが朗報だな。平民の間では贅沢病なんじゃないかと言われているそうだ」
「は、流行病だなんて嘘だ! 私が死んだなんてでたらめだ!」
「知っとるわ。ついでに教えてやるとお前の腹心と言われているジョヴァンニ枢機卿とアルフレッド枢機卿、その他にも多くの神官が今回の病で命を落としたそうだ」
「ひゅ、ひゅー…」
もう一枚、これはこの日届いた、人数がやたらと増えた死亡広告を見せてやった。自分の派閥の人間達の名前を大量に見る事になり、もうエウスタキオ枢機卿は気絶寸前になっている。あまりにも不甲斐ない姿に辺境伯の方が苛ついてきた。悪党なら悪党らしく最期までどっしりと構えていて欲しいものだ。
「三人もの枢機卿が一度に身罷ったので大々的な葬儀を行うそうだ。まあ、流行病ゆえ遺体はもう荼毘に付されているとの事だがな。ワシも出席する事になっているからあまり時間が取れん。さっさと話せ、何故ツェルプストーを襲った?」
「遺体なんて元々無いぞ! 私はまだ生きているんだ!」
「おい」
この期に及んで騒ぎ立てるエウスタキオに辺境伯が痺れを切らして凄む。
「枢機卿猊下と呼ばれたいのなら、いつでも呼んでやるぞ、エウスタキオ。死んだ人間の名前で呼ばれたいのならな。燃やしてしまったはずの遺体が届いたらロマリアは困る事になるかも知れんが、ワシは一向に構わんのだぞ」
「ひ、ひぃぃ」
「そう呼ばれたくないのならさっさと話せ。納得したらエウスタキオのままこの城から出してやる」
コクコクと凄い勢いでエウスタキオ枢機卿が頷く。事ここに至って自分の命が風前の灯火である事に気が付いたようだ。
もっと粘るかと思って禁制の秘薬まで用意してあったのだが案外簡単に事が済んだ。エウスタキオ枢機卿からツェルプストーが得た情報は以下の通り。
・ロマリアでは昔から"ガンダールヴの槍"と呼ばれる、始祖ブリミルの使い魔・ガンダールヴの為の武器を収集・研究している。しかし、これらは今のところ使える人間が見つかっていない。
・ガンダーラ商会のダンプカーやグライダーが一部ガンダールヴの槍に酷似している。グライダーの部品に使われるアルミニウムという金属はハルケギニアでは今までガンダールヴの槍からしか見つかっていないし、他の部品もその品質はハルケギニアではあり得ないもの。
・ガンダールヴの槍を運用できるようになるのであれば、虚無の研究が盛んなロマリアで自分への評価は果てしなく高まるだろう。間違いなく次期教皇候補の筆頭になるくらいだ。
・ツェルプストーがガンダールヴの槍に関する情報を持っており、一部とはいえ使いこなしていると判断した。
・攻撃したのはガンダールヴの槍を使用させ、観察するため。傭兵達は使い捨てでも良いつもりだった。
・キュルケを狙ったのは人質にしてガンダールヴの槍に関する情報と取引をするため。トリステインで情報もしくはガンダールヴの槍そのものと引き替えにする手筈を既に整えていた。
・今はガンダールヴの槍に関する情報を持っているのはウォルフ・ライエ・ド・モルガンだと睨んでいて、調査中だった。
・自分を売った美貌の若い神官には心当たりが無い。そもそも若く美しい小姓を側に置くのは権力を持った神官ならよくやる事なので対象となる者が多すぎる。
「父さま、ウォルフって始祖と関係があるの?」
「分からん。本人は知らんと言っていたし、あの顔は本当そうだったが…」
エウスタキオ枢機卿を牢へ下がらせた部屋でキュルケや部下達と机を囲み、これらをどう判断して良いものやら頭を悩ませる。これまでに得た情報とも合致するし、一応納得の出来る内容なのだがあまりにも突拍子もない事なので迷う。
貴族としてのツェルプストーはこれまでずっとガンダーラ商会及びウォルフとは友好的な関係を続けてきた。資金を提供し便宜を図ってやり、その代償として莫大な利益を得て新技術の提供を受けた。おかげで領内の発展は加速する一途だし、娘の命を助けられた恩まである。
ツェルプストーとしてはその関係に不満はなく今後も続けていくつもりだが、ウォルフが始祖と関係がありその知識を利用しているという話には説得力がある。なにせウォルフの知識はあまりにも他と隔絶しているからだ。
実は最近、間接的にしか利益を受ける事が出来ないゲルマニアの他の貴族からはガンダーラ商会の多くの施設がツェルプストーに集中している事に不満の声が出ている。強権を発動してガンダーラ商会をゲルマニアにある分だけでも国有化するべきではないかなどという提案が出されたりしている程だ。
当然辺境伯に許容できるような事ではないのでこれまでは何とか抑えてきた。しかし、ウォルフが始祖に関係がある存在でその力の一端を自由に使えるという事になれば、ゲルマニアとしても対応を慎重にせざるを得ないので現状の維持がしやすくなる。
もし強権を発動してウォルフがゲルマニアから出て行くような事が有れば、たとえガンダーラ商会の技術や資産の一部を手に入れたとしてもその損失は計り知れないものになるからだ。
いずれにしてもまずはウォルフに確認と更なる情報収集が必要なので、当面判断は保留する事になった。
「まあいい。いずれ分かるときもあろう。キュルケ、エウスタキオの処分はどうする? お前がやるか、それともこっちで始末しようか?」
「あんな小物いらなーい。ヴァルの方がずっといいわ。ロマリアが欲しがっているんでしょ? あげちゃえば?」
「お前がいいならロマリアに引き渡すが――ヴァル?」
「ヴァレンティーニの事ですよ。どうもお気に入りになっちゃったみたいです」
バルバストルがほとほと困った顔で辺境伯に教えた。ヴァレンティーニはこの一週間ずっと逃げ続けていて、キュルケはライムントの追跡部隊に参加していた。かつてエウスタキオ枢機卿の影響下にあった教会に身を寄せては襲撃されるという事を繰り返しており、現在はガリア西部を逃走中だ。
キュルケはエウスタキオ枢機卿の生殺与奪の権利を握っている。ようやく処遇を決めるとの事で戻ってきているのだが、もう枢機卿の事を政治的には抹殺して復讐は成し遂げたと言えるし、取り調べ中のあまりに情けない姿を見ていたのでもう興味を失っていた。
「お気に入り? ヴァレンティーニだぞ、どこに気に入る要素があるというのだ?」
「何度か対峙してみたけど、素敵なのよ。風メイジって攻撃が軽いってイメージで今まで馬鹿にしてたけど、対人では本当に強いわね。私ではまだまだ一対一で勝てない相手よ」
キュルケはどこかうっとりとした表情で言う。何気に馬鹿にされていたらしい風メイジのバルバストルは隣で渋い顔だ。
「強さはまあどうでもいいんだけど、包囲されて絶望に染まる表情とか、傷を負って思わず出る声を必死に抑えるところとか、本当に素敵なの。ゾクゾク来ちゃうわ」
両手で自身の体を抱きしめながら漏らす吐息は、とても十二歳とは思えない悩ましさだ。
「絶体絶命の窮地でも心が折れないの。それで包囲にわざと穴を空けてあげるとすぐに気付いて、目が輝くのよ。キュートでしょ? 本当、彼の生に対する執着ってセクシーなのよ。もっと絶望させて彼の心が折れる瞬間を見たいわ」
チロリと舌を出して唇を舐める。頬は赤く染まり、潤んだ瞳はまさしく恋する乙女のものだ。
「片足引っこ抜いたりしたら、どうかしら? それでも彼は杖を取るかしら。うふふふ……」
「……」
これは、やばい。キュルケがとてもいけない道に踏み出そうとしている事を辺境伯は理解した。
「あ、あー、キュルケ、ヴァレンティーニの追跡はもうライムントに任せておけば良いだろう。テーブルマナーと詩歌の先生が暇そうにしていたぞ?」
「何でよ? 今テーブルマナーを習ったって、テーブルクロスを炎上させちゃう自信があるわ」
「いやしかしお前の将来のためにもいったんヴァレンティーニの事は忘れた方が良いと思うんだ」
「忘れられるものじゃあ、無いわ。この胸のときめき、父さまにだって止められないわ!」
踏み出そうとしているのではなかった。もうキュルケは全速力で走り出しているようだった。
明確な証拠を得た神官の不正については、ロマリア・ゲルマニア政府と三者でこの一週間折衝を繰り返した結果、ロマリア政府の責任で処分を行うことで合意を得た。
きちんと処分が行われるのならばツェルプストーも事件を表沙汰にするつもりはない。死亡広告を見る限り今のところロマリアは約束を履行しているようだ。
ヴァレンティーニを泳がせておく事も合意内容に含まれていて、事件以降彼が逃げ込んだ教会もエウスタキオ派という事で捜査の対象となった。ツェルプストーの追跡部隊に襲撃させ、その謎の集団による襲撃事件の捜査という名目でロマリア政府がその教会の不正を捜査している。
元々神官の不正行為に気付きながらも証拠がないために声を上げられず、苦々しく思っていた者は宗教庁内部にも相当数存在した。浄化作戦と名付けられた捜査は密やかに、しかし大々的に行われた。
ツェルプストー辺境泊は今回の事件においてブリミル教に対し多大な貢献があったとの事で、教皇から直々に聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章を授与された。
この勲章はブリミル教に対し多大な貢献があり、なおかつ人品信仰共に優れた人物のみに授与される大変名誉あるものだ。辺境伯領では七日間連続で祝賀の祭りが開かれ、大いに領主の栄誉を讃えた。
こうして表向きは良好となったロマリアとの関係だが、安心ばかりはしていられない事もある。
不正に関与した神官は全て処分したとは言え、ツェルプストーはロマリアという宗教組織の黒い部分の証拠を握ってしまっている訳で、今後彼の国がどのような態度に出てくるのかは分からない。
辺境伯は領内の防諜組織を再編してこの不確定要素に対応していく必要に迫られた。
エウスタキオ枢機卿について、拉致してきた事は何処にも知らせていなかったのだが、当然そんな情報は漏れるものらしい。ゲルマニア政府を介さずにロマリア政府が直接引き渡しの可能性を打診してきた。
もう彼についてツェルプストーに用はなかったし、必要以上の情報は引き出していない事をロマリアに示した方が良いとの判断もあり、求めに応じ無名の背教者としてそのまま引き渡した。
彼がその後どうなったのかは誰も知らない。その姿をロマリアの教会で見かける事は二度と無かった。
陰謀、というのはエウスタキオ枢機卿に限らず、ロマリアという国では極々一般的な政治活動なのかも知れない。
エウスタキオ枢機卿の処分が終わったある日、教皇のもとにあの美貌の神官が訪れていた。
「お前の言う通りツェルプストーに聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章を授与したが、どうやらもうその効果は現れているようだ」
「元々欲しがっていたアルブレヒト三世には与えず、その臣下に与えたのが良かったようですね。随分とぎくしゃくしているようです」
聖シルヴェステイル教皇騎士団勲章は権威がある。いや、権威が有りすぎる。ゲルマニア政府に、西部の諸侯がツェルプストー辺境伯を頭目にしてゲルマニアからの独立を考えるのではないか、との疑惑を抱かせるくらいには。
力を付けすぎたツェルプストー辺境伯はゲルマニア政府にとって微妙な存在になっている。強力な味方ではあるが、強力すぎる味方は時として敵よりも危険な存在になり得るからだ。
「彼らがそのままゲルマニア政府に潰されるならそれもよし、大人しく恭順するのなら余計な事は出来なくなるだろう。独立するなら恩を売って首根っこをつかまえるのも良し、政府に荷担してやはり潰すのもまた良しか」
「はい。独立する場合は首都の近くに司教領を要求しましょう。下手な事は出来なくなるはずです」
穏やかに微笑むその姿はとてもそんな腹黒い事を考えているようにはとても思えない。しかし、もしツェルプストー辺境伯がこの会話を聞いていたら盛大に顔をゆがめる事だろう。
「うむ。今後の成り行きを見守る事にしよう。今日は報告か?」
「先日のツェルプストーによるエウスタキオ枢機卿略取の件について、作戦解析がようやく終了いたしました。やはり当該拠点における侵入対策は正常に機能していたそうです。魔法防御も正常だったそうなので、あれほど容易に罠の存在を探知出来るはずはないと言うのが技術部の見解です」
詳細はこちらに、と書類を手渡す。教皇は老眼鏡をかけてぱらぱらと目を通す。
「ふむ。彼らが我々にとって未知の虚無を利用している可能性はやはり高いか」
「そのようです。今回ツェルプストーにウォルフ・ライエ・ド・モルガンから何らかの技術供与が為されているのは確認できました」
「やはり鍵はド・モルガン少年か。虚無なのか、あるいは異端なのか……彼の事を観察するのだ、じっくりとな」
「御意。既に送り込む聖堂騎士の人選は済ませております。ガリア経由で潜入させましょう」
「彼らの活動によって大隆起もいくらかは遅れよう。焦る事はない、確実に開拓団の中枢に入り込むのだ」
「御意」
ロマリアという国の密偵が本当に恐ろしいのは気が長いという事だ。信仰に支えられたその活動は何十年であろうと続ける事が出来る。国外に潜入したロマリアの密偵が、その地で数世代にわたって諜報活動を続ける事などはざらだ。
今度は教皇の意を受けて、バラバラに四人の聖堂騎士が密偵として開拓団に送り込まれた。それぞれ得意な魔法が違う彼らは別々の部署に配属され、互いに相談する事もなければ定期的に連絡を取る事もないその男達を密偵と見破る事は不可能な事のように思われる。
意識からして普通の開拓団員となった彼らは、開拓地にゆっくりと溶け込んでいくのだった。
幕間5 キュルケの復讐-5 虚無の契約
エウスタキオ枢機卿をロマリアに引き渡してから三日後、さらってきてからは二週間が経った頃、ハルケギニアを忙しく飛び回るウォルフがその途中でツェルプストーの居城に立ち寄った。
丁度エウスタキオ枢機卿達の葬儀から自領へと戻ってきていた辺境伯は自ら出迎え自室に通すと、事件の顛末を報告しガンダールヴの槍について正面から聞いてみた。
「ガンダールヴの槍、ですか」
「そうだ。今言った一致点がなかったら興味を持つ事はなかったとの事だ」
「始祖って使い魔が四ついるんでしたっけ?」
「そうだ。どんな存在かは伝わってはいないが、武器を操ったり笛を吹いたりしていたらしいから人間ではないかと言われている」
「うーん……」
話を聞いてすぐに否定するのかと思っていたが、ウォルフは悩み出してしまった。
ウォルフは混乱しているのだ。自分が地球文明からこの地に転生したことは理解しているが、その原因や過程はまったく不明のままなので自分と始祖との関わりを否定する事が出来ない。
以前キュルケが襲われた後始祖についても調べたが、その使い魔が戦車や戦闘機を使用するような記述は無かった。ガンダールヴはたしかに剣と槍を持ってたはずなのだが、いつの間にか装備を近代化したのだろうか。
「どうなんだ。本当に始祖と関係があるのか?」
「うーん、わたしが始祖であるという事は無いです。始祖が虚無以外の系統を使えたという話は無いはずですから、火メイジであるわたしは始祖では有りませんし、虚無の使い手でも無いでしょう」
「ではガンダールヴなのか? 始祖を守る神の盾なのか?」
「それは、分からないとしか今は言えないですね…」
ロマリアにあるらしい飛行機や戦車を操縦させるために、ブリミルもしくは他の虚無の使い手がウォルフの魂をこの世界に召喚したという事は、あるかも知れなくて、嫌だ。
ウォルフは深々と溜息を吐くと、ゆるゆると頭を振ってまた考え込んでしまった。以前にも出ていた話だが、ロマリアが本気でそんな事を考えているとは思えなかったのだ。
「むう、結局わからんか。前にも聞いたが、何故、お前はアルミニウムなどの知識を持っていたのだ?」
「そこが、ガンダールヴ説について否定しきれないポイントですね。アルミニウム合金の組成などについての詳しい知識は実験などを通して得たものですが、アルミニウムそのもの、アルミニウムという金属が存在する事は、アルミニウムを見る前から知っていました。その知識を得た過程で始祖の意志が介在した可能性について、わたしは知見を持っていません」
「ううむ……そうだ、使い魔ならルーンが体のどこかに刻まれているはずだ。何かないのか?」
「それは無いと思います。見える範囲にはないと思いますし、昔から家族でよく一緒に風呂に入ったりしてましたが誰に何を言われた事もありません。昔、寝ている間ですけど幼なじみに裸にされて体中のほくろを数えられた事とかもありますが、その時も何も言われませんでした」
「貴様、その年でなんて楽しそうなプレイを」
「プレイじゃありません。昔と言ったでしょう、四歳の子供がした事です。翌朝気がついた時にちゃんと叱っておきました」
「さすがにルーンが刻んであったら気が付くか。まあ、将来刻まれるのかも知れんが」
「適当に言わないで下さい。人なのに使い魔にされるっていやな気分ですよ」
本当に嫌そうに顔をしかめる。使い魔は幻獣や動物だから良いのであって、人間を使い魔にするなど趣味が悪いとしか思えない。
「その、ガンダールヴの槍、でしたっけ? 私が直接確認する事は出来ませんか?」
「いや、ロマリアの秘宝と言っていた。こちらから出向けば見られる可能性が無いとは言えんが、危険だろう」
「ですよねー。向こうが何考えているのか分からないのが怖いです」
「こっちでもこの件は調査を続ける。エウスタキオがいなくなったとはいえ、ロマリアがお前に興味を持っているのは確かだ。注意しておけよ」
「はい…ロマリアはなるべく避けるようにします」
ウォルフはげんなりとした様子だ。ここのところ開拓が上手く進んでいたので上機嫌だったが、あんまり調子に乗らない方が良いかもしれない。
「うむ。では次に…お前の所に潜入していたモレノとセルジョだが、ろくな情報は持っていなかった。今日連れて帰っても良いぞ」
「ああ、ありがとうございます。エメリヒとクヌートも今のまま務めさせてくれるとの事ですし、メイジ不足の中助かります」
「隷属の首輪を政府から借りてきてはめてある。強制労働期間についてはこっちの基準では十年くらいだが、こいつらの場合はそっちで決めて良い」
「うわ、おおざっぱ。人権とか無さそうだな」
あまりに適当な刑期に思わず小声でこぼした。封建領主の権力の大きさを感じる。
モレノとセルジョはヴァレンティーニの逐電後速やかにウォルフによって逮捕された。いつも通り出勤するところに現れたウォルフになんの反応をする間もなく杖を奪われて逮捕されてしまい、その後「ちょっとツェルプストーに行ってきて」と言われて移送されていたのだ。
二週間近く綿密に取り調べを受け、これまでヴァレンティーニの下エウスタキオ枢機卿のために働いてきた事が外患誘致及び内乱等幇助罪に相当するとして、強制労働が確定していた。ツェルプストーとしては死罪でも構わなかったのだが、ウォルフの希望を汲んだ判決となっている。
「うん? 何か言ったか?」
「いえ、何も。開拓地での仕事は気に入ってたみたいだし、今まで通り働いて貰いますよ」
「うむ。後はヴァレンティーニだが、ロマリアからガリア・トリステインと来て現在ゲルマニアを逃走中だ。どうやらお前の所を目指しているみたいなのだが、辺境の森に逃げられるとやっかいだ」
「一人で森に入って生きていけるとは思えませんが…開拓地まで来たら逮捕しておきますよ。これまで良く逃げた方でしょう」
「頼む。追跡部隊を使ってくれて構わない。キュルケにあまり関わらせたくないのだ」
「ああ、成る程。でも先週会ったときは随分と熱を上げてましたけど、昨日会ったときはもうそれほどでもなかったですよ?」
「そ、そうか? まあ本当の本気以外は飽きやすいというのもツェルプストーの気質でもあるな。うむ、そうか、それなら安心なのだが」
先週会ったときは完全に箱の中のネズミをいたぶるネコ、といった感じでウォルフもこれはやばいと思ったものだが、昨日は割と冷静にヴァレンティーニを観察している、といった感じで危なさは感じなかった。
モレノとセルジョの件についてあらためて礼を言って下がると、早速二人を受け取りに行った。「久しぶり、元気そうだな」などと普通に話しかけるウォルフに二人はとまどっているみたいだったが、諦めたのか何も言わずにウォルフと一緒にモーグラに乗り込んだ。
開拓地へ戻り、二人がまた今まで通り働き始めて一週間後、ヴァレンティーニはマイツェンの隣の温泉町・ドルスキまでやってきた。
まずは何をするつもりなのかまた泳がせておいたのだが、ヴァレンティーニがドルスキにやってきてから三日間、キュルケはドルスキには見向きもしないでずっと開拓団の手伝いをしていた。時間が空く度にバルバストル達と森へ入っては幻獣を狩ってきて、辺境の暮らしを満喫している。
「んー、じゃあキュルケは本当にいいんだな? 行かないって言うならモレノとセルジョに行かせるが」
「いいわ。こっちで幻獣狩っていた方が楽しいもの。まったく、ヴァレンティーニったら期待はずれよ」
「あー、そうなんだ?」
「そうよ。いつまで経っても反撃するそぶりも見せずただ逃げるだけ。あいつこっちに来るのにツェルプストー領を大きく迂回してきてるのよ?」
「いやまあ、普通敵の本拠地は避けるでしょ、危ないし」
「反撃するチャンスじゃない! 玉砕くらいの覚悟は決めて欲しいのに、昔の伝手を頼ってひいこら逃げるだけ。そんなんじゃダメよ、わたしの情熱は燃え上がらないわ。自分がかつての仲間達にとってかなり迷惑な存在になっているのにも気付かないでエウスタキオ枢機卿派の根絶に与しちゃっているし、もう幻滅」
「燃え上がらなくて親父さんはホッとしているみたいだったけどねー」
「ああ、これが本当の恋なのかと思ったのに、女の子はこうして大人になっていくものなのね」
足を引っこ抜いてやりたいと思うような恋はさすがのハルケギニアにも無い。
エウスタキオ枢機卿を逮捕するために隊員達が立ち上がり、実際に逮捕して見せた時にキュルケの復讐は完遂している。彼なら何かやってくれるとの期待を打ち破られたキュルケにとって、今のヴァレンティーニではその残り火を燃え上がらせる程の魅力もないようだった。
「ん、じゃあキュルケは今日も幻獣狩りか。気をつけてな」
「勿論よ。まだ死にたくはないもの。最近感覚が鋭くなってきたのよ、三十メイル位の範囲なら幻獣の数とかが大体分かるようになってきたわ」
「その感覚は大事だな。どんどん磨いていくと良いよ」
「ええ。見てなさい、その内目を瞑っていてもこの森で幻獣を狩れるようになるわ」
ニヤリと笑うその顔は随分と精悍だ。ウォルフと初めて会った頃は普通の我が儘な貴族のお嬢さん、と言った感じだったキュルケだが、今は随分とワイルドに育っている。まだ短めな髪と相まってパッと見の印象は野性的でグッと男前な感じだ。
そう言えば昨日も狩ってきた幻獣を港に並べ、頬が幻獣の返り血に汚れているのも気にせずにいい笑顔を見せていた。その幻獣を受け取っていたミレーヌの頬が赤く染まっていたが、きっと夕陽が照らしていたからだと思いたい。
キュルケが行かないというので、ヴァレンティーニの逮捕にはライムントの部隊をバックアップにしてモレノとセルジョの二人を向かわせる。
二人はライムントが立てた作戦に沿って休暇のための定期便でドルスキに向かい、のんびりと街を廻って温泉カフェで時間を潰す。温泉カフェは温泉を飲むための施設だ。医師の指導の下、健康状態に合わせて飲泉する。
平日の午後だったのでカフェ内は空いていて、中庭に面したオープンスペースの立席テーブルで温泉を飲む。そんな二人にゆっくりと近づいてくる男がいた。ヴァレンティーニだ。
「ヴァレンティーニ様……」
「久しぶりだな、二人とも無事で何よりだ。連絡が取れなくなっていただろうと思うが、本部はツェルプストーの襲撃を受けて壊滅した。異端めが、エウスタキオ枢機卿の命も奪ったらしい」
「死亡広告を見ました」
「うむ。俺も散々襲撃を受けたが、この街に来てからは襲われていない。ようやく撒けたようだ」
「それは大変でした」
「三人いれば今後の襲撃から逃げるのも容易になるだろう、また神のために働いて貰うぞ」
大仰に頷くヴァレンティーニだが、二人は困惑した顔を見合わせるだけだ。
「それで、今後の事だがロマリアにはいつか戻るつもりだが、ここまで来たのには目的がある。ウォルフ・ライエの所有するモーグラを奪い、逃亡の足を手に入れるつもりだ。こいつでは三人乗れないからな」
左手に握りしめたセグロッドを見せる。逃亡生活を支えてきたそのセグロッドはこれまでの戦いで随分と傷ついていたが、ヴァレンティーニにとって心の支えだった。
「お前達の報告で昼間はマイツェンが手薄になっている事を思い出したんだ。モーグラを手に入れたら、ほとぼりが冷めるまでアルビオンのゲーガン枢機卿を頼るつもりだ。彼ならばこちらも弱みを握っているし色々とやりやすい」
「……ご存知有りませんか。彼は既に信仰に重大な違反があったとの事で枢機卿会議にてその地位を剥奪されています。侍者の少年達にしてきた事がばれたのでしょう、司教区からも追われていますので今はどこで何をしている事やら」
「で、ではロウ枢機卿はどうだ、彼なら……」
またモレノが首を振る。ヴァレンティーニはその後も何人かの名前を挙げるが、ことごとく元の地位にとどまっている者はいなかった。
黙ってしまったヴァレンティーニにモレノとセルジョは困ったように顔を見合わせた。
「ヴァレンティーニ様、実は俺達からも報告があるのですよ」
「う、うむ、お前達もこんな辺境で孤立無援では大変だったろう。あの後の事を教えてくれ」
「まあ、それほど大したことはなかったんですけどね」
モレノが首に巻かれているマフラーをゆっくりとほどく。そこには罪人の証である隷属の首輪がしっかりとはまっていた。
ヴァレンティーニの動きが止まる。その一瞬のうちに背後に立っていたセルジョが呪文を唱えた。
「《ライトニング》」
「ぐあああ!」
背後から放たれた電撃にヴァレンティーニは咄嗟に手にした杖を取り落とし、その場に倒れた。モレノは杖を蹴飛ばして遠くへ転がすとセグロッドを握る手を踏みつけて離させる。まだ痺れが残り動けないヴァレンティーニを後ろ手に拘束して、さらにブーツに隠してある予備の杖とナイフも取り上げた。
「申し訳ないです、ヴァレンティーニ様。俺達はもうウォルフ様の手兵なのです」
「ぐ、があ、この裏切り者め、今までの恩を忘れおって……」
「いや、まあそうなんですけどね、あなたには教皇聖下の御名前で背教者認定が出されております。この辺が潮時でしょう」
「馬鹿な、俺はこれまでロマリアのためにずっと働いてきたのだぞ、どうして、それが」
「これまで見捨ててきた人達と同じですよ。今度はあなたの番になったというだけです。それに、困った事にウォルフ様にも恩を受けちまいまして、どっちの方が大きいかって話もありまして……」
ヴァレンティーニの顔が絶望に染まる。背教者と認定されるということは、異端認定ほどではないが、ハルケギニアの社会的立場としては抹殺されたということだ。ヴァレンティーニはこれまでロマリアという宗教の権威を利用して好き放題に工作活動をしてきた。その権威を取り上げられ、自分の未来が閉ざされた事を理解した。
「くそっ、もう俺の生きる場所はハルケギニアには無いというのか。何故だ。何故こんな事に」
喚くヴァレンティーニにセルジョが悲しげな顔を向け、セグロッドを手に取る。
「噛み付く相手を間違えましたね。こいつだって、いくら便利だからってずっと使い続けるなんて……逃走用の乗り物はこまめに取り替えろってヴァレンティーニ様は教えてくれてたじゃないですか」
「な、セグロッドになにか仕込んで有ったというのか? ちゃんと調べていたぞ、位置を知らせるような、そんな魔法はなかった!」
「ウォルフ様の事をその程度にしか認識していない事が全ての敗因です。俺達の事も最初からばれていたそうですし」
「そんな、馬鹿な、何故そんな全てが見渡せる。……虚無か? ウォルフ・ライエが虚無なのか?」
「虚無じゃあ、無いそうですよ《レビテーション》」
ぶつぶつと呟いているヴァレンティーニを魔法で持ち上げて肩に担ぐ。もうドルスキの港には搬送用のモーグラが待機している。セルジョはせめてそこまでは自分の手で連れて行くつもりだ。
突然の逮捕劇に周囲は多少騒然としたが、この街の領主・ミルデンブルク伯爵家の騎士を連れたライムントが姿を現し、ツェルプストー領を襲撃した凶悪犯である事、ロマリアからも手配状が出ている事を説明するとすぐに落ち着いた。今度は好奇の視線で見られる事になったが。
その視線の中をヴァレンティーニを肩に担いだセルジョが歩く。
「こっちは、居心地が良いですよ。ロマリアよりも、ずっと。ここに送り込んでくれた事を感謝します」
セルジョのつぶやきを、もうヴァレンティーニは聞いていなかった。
ヴァレンティーニが逮捕されたドルスキの街から遙か離れた南の地、ロマリア。その中心部の大聖堂にもほど近い宗教庁の建物、その中でも教皇に近しいものしか入れない中枢部にある一室で、その報を受けた二人の人物がいた。
一人はライムント達の前に現れた謎の神官、もう一人はこんな場所にいるのがそぐわない少年。粗末な衣服に身を包み、明らかに場違いである少年はしかし、怯まず、気後れもせずに堂々とそこに立っていた。
「ヴァレンティーニも捕らえられたみたいですね。どうやら事件は全て解決した模様です」
「ふうん。密偵を送り込むんだろ? そのガキが始祖と関係があるのかもう分かったのか?」
「いいえ。しかし彼が始祖と何らかの関係がある事は、彼の発明品とガンダールヴの槍とを見比べれば明らかです。彼が何に導かれ、どのようにしてこの地に至ったのか、今後も研究していく必要があるでしょう」
ニッコリと笑う神官は本当に美しく、信者の女性達がその微笑みで失神すると言われているのも納得できる。
「彼のようにあちらの世界から来た人間はこれまでにも居ました。しかし、彼のように魔法を使いこなす事が出来る人間は初めてです。ブリミル様の恩寵が彼の地の人々にも降りているのかもしれないというのは、興味深い事実です」
「へっ、羨ましいねえ。ハルケギニアに住んでたって魔法を使えない平民なんてごまんと居るってのに」
「恩寵が降りた者が降りていない者達を導くのです。彼の知識は正しい信仰のために使われる事になります」
ウォルフの存在もロマリアからすれば既に予定調和の中に組み込まれているものらしい。
ロマリアは長い長い歴史の中で、常に周囲のものを自分のものとし、利用してその勢力をハルケギニアに深く浸透させてきた。その彼らにとって、ウォルフなどはほんのちょっとしたイレギュラーでしか無いようだ。
「今回は彼の協力もあり、予想以上のペースで腐敗神官の排除を断行できました。これも神のお導きによるものでしょう」
「確かにお前の言う通りだったな。あのいけ好かない助祭が鼻水垂らして命乞いしていたのには胸がスカッとしたぜ」
「それで…どうですか? 決心は付きましたか?」
「……いいぜ。お前は約束を守った。今度は俺の番だ。お前に従えば、みんなを救えるんだな?」
「勿論です。来るべき大隆起、これを防ぐためにガンダーラ商会も動き始めているようですが、まだ足りない。彼らの方法ではハルケギニアの一部しか救えない。全てを救うためには神の奇跡が必要なのです」
そう言いながら真っ直ぐに見詰めてくる瞳は、どこか狂気をはらんでいるように感じられて、少年はゾクリと背筋に冷たいものが走るのを感じた。しかし迷う事はなく、胸を張ると強気に言い放った。
「それが俺の運命ならば、受け入れてやる。お前の使い魔になってやるよ」
「ブリミル様に感謝を。我々の研究では、おそらくあなたが授かる力はヴィンダールヴ。幻獣がひしめく辺境の森だろうと自由に行き来できるようになるはずです」
「案外ガンダールヴとやらになっちゃうかもな。そうなってもガンダーラの調査は続けるのか?」
「やってみれば分かる事です。……では、早速コントラクト・サーヴァントを行いましょう。目を瞑って下さいますか?」
「何でだ? 何かずるしないか見ていたいんだけど」
「ちょっと…目を開いていると、気恥ずかしいでしょう。大丈夫、痛くはしませんから、リラックスして目を閉じて下さい」
「何で近付いてくるんだよ! ちょっと待て、いいから待て」
謎の神官は待たない。少年を部屋の角に追い詰めて逃げ場を塞ぎ、ゆっくりと近付きながら呪文を唱えた。
「さあ、契約しましょう。『我が名はヴィットーリオ・セレヴァレ。五つの力を司るペンタゴン、この者に祝福を与え、我の使い魔となせ』」
「だから待てって言ってんだろ! な、何、何!? アッー!!」
神の導きにより不滅の栄華を誇る、光の国ロマリア。ブリミルの栄光を永遠のものと記憶する地でこの日、虚無の契約が成された。
「初めて……だったのに……」