その日、ラ・ヴァリエール公爵は竜騎士に先導されて高度を下げつつ近づいてくる銀色の機体を複雑な気持ちで見つめていた。一緒に窓際に立って見ている妻のカリーヌも同じ気持ちだろう。一ヶ月以上会えなかった病気の娘が、絶対に治らないかと思われた病を治して帰ってくると言うのだ、勿論非常に喜ばしい。
しかしその娘が手紙に書いてきた内容が、公爵夫妻の胸の奥に棘のように突き刺さり、ヂクヂクとした痛みを感じさせていた。
「お父様、お母様。カトレアただ今戻りました」
「……うむ、よくぞ帰ってきた。お前の無事な姿を見られて、それだけで満足だ」
公爵夫妻の前に現れたカトレアは少し日焼けしただろうか、とても健康そうな顔色でしっかりと大地に立っていて、彼女を見て病人と思う人はいないだろう。大分見違えたが、二人の娘カトレアに間違いなかった。
出迎えた公爵夫人の目は少し潤んでいて健康そうな娘の姿に言葉がない。無言で娘を抱きしめた。
「長年私達の事を苦しめていた病は私の体から去りました。これからは普通に暮らしていけるそうです」
「まあ、本当に喜ぶのは侍医達に確認させてからだが実に喜ばしいことだ、今夜はお祝いだな。ウォルフ君も本当にありがとう。ささやかながら宴を用意している。楽しんでいってくれ」
「どういたしまして。しかし折角のお誘いですが、今日は遠慮させていただきます。ちょっとアルビオンで緊急の用事があるとかで、今から向かわなくてはならないのです。今日はカトレアさんを届けにだけ来ました、本当に治って良かったです」
「何だ、ちょっとくらいもダメなのか? 君にどんな礼をしたらいいものやら、相談したいのだが」
「ありがとうございます。ですが、今日はちょっと……」
「お父様、ウォルフさんは本当に急いでいるようなので……ウォルフさん本当にありがとうございました。借り一、にしておきますから」
「はい、貸し一ですね。じゃあ、わたしはこれで」
「本当に急いでいるのだな。仕方ない、ラ・ヴァリエールには何時でも寄ってくれ、君の飛行機は何時いかなる時も受け入れることを約束するし、何か困ったことがあったら力を貸そう」
「はい、そんなに困る事の無いよう、がんばります」
「本当に、ありがとうございました。これまでの数々の無礼をお詫びします」
「ウォルフ、ありがとね」
「あ、はい。それじゃ、どうも」
丁寧にお辞儀する公爵夫人や、姉が元気になったことに感動して涙ぐんでいるルイズともチャッチャと挨拶を済ませ、ウォルフは再び飛行機に戻って飛び立った。借り一というのは、どんな礼をしたらいいかと聞いてきたカトレアに対するウォルフの答えだ。ウォルフが困った時は助けてやる、くらいの気持ちでいてくれと言っておいた。
急用があるというのは本当で、開拓地を出る前にタニアから緊急の招集が掛かっていた。今までに無いことなのでちょっと心配だが、とにかく行ってみなくては何があったのか解らない。ウォルフは真っ直ぐにサウスゴータへと機首を向けた。
「ウォルフ様!」
「お、サラただいま。みんな揃ってる?」
「はい。ウォルフ様が最後です」
サウスゴータに戻って商館にまで来ると、商館の外に出て待っていたサラが飛びついてきた。最近同じくらいの背になってきたサラの頭を一撫でして抱きついている体を離させると商館へと入った。いつもの商会長室ではなく会議室に案内されると、そこにはガンダーラ商会の幹部が勢揃いしていた。
会長のタニア、会長秘書ベルナルド、サウスゴータ商館長カルロ、ガリア代表スハイツ、ゲルマニア代表フークバルト、と円卓にずらりと座っていて、他にもチェスターやボルクリンゲン、プラーナの各工場の責任者が出席している。
「よし、ウォルフ来たわね。じゃあ、早速会議を始めるわ」
「ああ、これだけ集めた理由を教えてくれ」
促されてサラと一緒に席に着く。座る場所はタニアの正面だ。
「先週、我が商会の後援者でもあられましたモード大公が投獄されました。現在ロンディニウムの城内で取り調べを受けているとの事ですが、罪名は公にはされていません。太守のお話だと反逆罪だそうです」
「なっ!」
「馬鹿な、王弟だぞ」
「何をしたんだ、一体」
タニアの発言に会議室内が一気に騒然となる。それはそうだろう、モード大公は野心など微塵も感じさせない温厚な人柄で有名だった。現アルビオン王である兄ジェームズ一世との仲も良く、彼が謀反を起こす理由など見あたらない。
ウォルフも勿論驚いたが、言われてみて納得できることもある。最近のマチルダの態度だ。あれは、この事態を予見していたのではないか?
「直接的にモード大公が何をしたのかということは一切情報が有りません。我々と親しくしている貴族達も情報収集に走り回っています」
「あの大公が何かをしたということはあるまい、これは陰謀に違いない」
「陰謀で有ろうが無かろうが、大公が投獄されていることには変わりがありません。大公が投獄されたのが先週、そして今週になってサウスゴータ議会からこんな通知が来ました。ベルナルド、読んで」
「はい。では、失礼いたしまして……」
ベルナルドが読み上げた書類は、チェスターの工場に出ていた船舶の着陸許可を取り消すというものだった。正確には年度ごとに更新している許可を今年度末、即ちこの月末で打ち切るというものだ。
現在アルビオン関係の貿易はロサイスを中心に行っているが、工場で使用する原料や資材の輸入と製品の輸出に関しては直接工場に隣接して建てた桟橋から行っている。
きちんと議会の認可も受けていたのだが、その許可が取り消されるとなると全て陸路を介してロサイスから輸出入することになり、時間とコストの増大は免れない。
取り消しの理由は防空戦略上の都合との事だが、多大な不利益を被る側としてはそう簡単に決められて納得できるものではない。
「さらに、昨日ロサイスの港湾管理局から、来月からロサイスの港の商用利用に関してはロサイス商業ギルドに加盟していることを利用条件とする、と通知が来ました」
「ロサイスでギルドに加盟していないのなんて、ウチだけじゃないか…」
「仕方がないので商業ギルドに加盟を申し込みましたが、現在新規会員を募集していないとのことで断られています」
「それは、完全にウチを狙って潰そうという動きだな」
ウォルフの呟きにタニアが黙って頷く。チェスターも、ロサイスも使えないとなったら商会には大打撃だ。もともとロサイスのギルドやサウスゴータ議会とはあまり上手く行っていなかったが、大公という重しが取れて一気に態度を鮮明にしてきた感じだ。
かつてはロサイスのギルドに加盟しようとしたこともあったが、他の商会の反対があって実現しなかった。そもそもロサイスは軍港なので港湾整備や管理は政府が行っているし、荷の積み卸しや輸送を自前で行っているガンダーラ商会としてはギルドに加盟するメリットは少ない。
それでも加盟しようとしたのは周囲との摩擦を減らすためだったのだが、嫌われているので実現しなかったというところだ。
「そのようね。港湾施設にギルドが投資してロサイスのハブとしての機能を高め、アルビオンにおけるサウスゴータ地方の競争力を底上げする、とか言ってるけど完全に後付けの理由にしか思えないわ」
「くそっ、何が競争力だ、真っ当に競争する気なんて無いくせに!」
「それでロサイスが使えないとなると、現状で一番近い港は東部のノビックになるわ。今までより遠くなるけど、仕方がないわね」
ノビックはサウスゴータから東に百五十リーグ程行った先にある田舎町だ。農業や牧畜が盛んだが、何とか人口を増やそうと周辺の貴族達で出資して港を整備している。
織機の関係でその地方の複数の貴族とも取引があるし、比較的ガンダーラ商会が進出しやすい町ではあるが、街道があまり整備されていないので大型のトラックを走らせることが出来ないのが難点だ。
「当面はノビックを利用して貿易を続けるしかないけど、サウスゴータがこんなんじゃ何時までもここにはいられないわ。チェスターの各工場を将来的には移転させたいのだけど、移転先について皆の意見が欲しいの」
「なるほど、そのままノビック近郊に移動するか北部の貴族領などにするか。いっそガリアかゲルマニアに降ろしてしまうかといったところですな」
「化粧品工場と樹脂製造工場は我がガリアのプローナに集約するのが良いでしょう。元々樹脂の原料工場も有る訳ですし」
「ガリアは最近きな臭いじゃないか。樹脂のほうは良いとしても、化粧品はアルビオンから出すべきでは無いのでは?」
「機械関連はやはり我がボルクリンゲンに集約するのが一番ですな。就職希望者はいくらでもいるし、操業再開までのタイムラグはそれほどかから無いと思います」
「今回のようなことがまたあるかも知れない。あまり一カ所に集約しすぎるのは良くないから自動車はゲルマニアでも別の領にした方がよいのではないか?」
「むむ、では化粧品をボルクリンゲンに移籍させるか。化粧品はツェルプストー辺境伯のような強力なバックアップがあった方が安心だろう」
「いや、だからツェルプストーにそんなに肩入れするのが危険だと言っているのだ」
各々が自分の所に誘致しようと発言する。様々な意見が出る中で、タニアは黙ったままのウォルフに意見を求めた。
「ウォルフ、あなたの意見は?」
「うーん、集約しすぎないという意見に賛成かな。景気が良いせいでどうもガリアもゲルマニアも動きが怪しい気がする。戦争のリスクを考えると分散させておくべきだと思う」
「とすると、どこか新しい領に作ると言うことですかな?」
「その辺の判断はタニアに任せるけど、自動車とか機械加工関連の工場はそろそろ二箇所に増やしても良いかと思っていたところなんだ」
「なるほど、一カ所に限定する必要はない、と」
乗用の自動車の販売は相変わらずパッとしないが、昨年ジュラルミン製のコンテナを使用したコンテナトラックを開発してからはこちらの製造で工場はフル操業中だ。
荷物の積み替えの必要無しにコンテナのままフネで輸送でき、そのままトラックに乗せて街中へ運び込めるので輸送効率は大幅に上がる。コンテナは積み重ねて置く事が出来るので港やフネのスペースの有効活用という点でも優秀だ。今はまだガンダーラ商会を中心に注文を受けているが、将来的にこの方式が輸送の中心になると目されている。出荷台数が多いのは嬉しい事だが、おかげでアルミニウムが不足し、ウォルフが今乗っている飛行機の量産を諦めなくてはならなくなった。
「そういうこと。あ、サラの所(化粧品)はオレの開拓地に移動した方が良いんじゃないかって思ってた」
「うーん、しかしあそこは遠いからねえ…」
「警備が楽になるという利点があるよ。幻獣を大量に消費しているから、アスタキサンチンとかコラーゲンとかの原料が手に入りやすいというのもメリットだ」
「ウォルフの所ってまだ行ったこと無いんだけど、安全性はどのくらい有るの?」
「むしろこっちより安全じゃないかとオレは思っているけど。とりあえず開拓民で幻獣や亜人に襲われて死亡した人はまだ一人も出ていない。山賊もゼロだしね」
「それなら検討する価値は有りそうね。誰も入って来られないっていうのは魅力だわ」
ウォルフの提案にタニアもいくらかは乗り気になる。何分遠いのが難点だが、水上輸送すればそれほどコストは掛からないし、サラの化粧品程高価な商品ならばそれはあまり気にする程ではない。
一番の問題点は従業員達がそんな僻地に転勤することを了承してくれるかどうかだが、タニアには説得する自信など無い。
「ただ、給料を上積みしても転勤してくれる人がどれくらいいるかは疑問ね。商会で育った子達と違って水メイジ達はいくらでも働き口はある訳だから」
「この間サラの化粧品の工程を見たけど、オレならもっと水メイジを減らせるよ。水メイジをある程度説得してくれたら生産量の確保は何とかなると思う。まあ、その辺を含めて、判断はタニアに任せる。オレはちょっと今からマチ姉に会ってくる」
「あ、わたしも一緒に行きます」
「……会ってくれないわよ? わたしも何回も面会を申し込んでいるのだけれど」
モード大公が投獄されたのならば、その腹心であるサウスゴータも大変なことになっているかも知れない。ウォルフはマチルダにどうしても会いたくなっていた。
「無理にでも会ってくる。ちょっと、会わなきゃならない気がするんだ」
「うーん、会えるならお願いしたいくらいだけど、無茶しないでね?」
「任せてくれ。なるべく逮捕されるようなことはしないつもりだ」
そのままタニア達は残って検討を続け、ウォルフとサラは商館を出ると真っ直ぐにサウスゴータの城に向かった。
サウスゴータの城壁内にかなりの面積を専有するその屋敷はいつもと同じように佇んでいた。サウスゴータで城と言ったらこの屋敷の事を指し、その立派な構えは訪れるものに威圧感を与える程だ。ただ、以前は人の出入りが多かったのに今は誰も通るものが無く、庭の木々もろくに手入れをしていないようで荒れている。門番の衛兵だけが目立っているどうも陰気な雰囲気だった。
「お嬢様はご多忙中につき、お会いすることは出来ません」
ウォルフ達を出迎えた執事はにべもなく断わりの言葉を述べた。
当然ウォルフ達とも顔見知りのその執事は、サラに涙を浮かべた目で見つめられると多少怯んだが、態度は変えずマチルダと会うことは出来ないと言う。
「執事さん、こっちもそんなに暇な訳じゃないんだけど。降臨祭の前からずっと面会希望を出しているってのに、一回も会えないってどういう事なのかな?」
「そう、仰せられてもお嬢様は本当にお忙しいのです。旦那様がロンディニウムに行っている今、実質的にこの屋敷はお嬢様が率いている訳ですから」
「ふうん、確かに今大変そうだもんね。だから、会いたいんだけど」
「いえ、ですからお嬢様は…」
「それでも会いたいんだ。あ、そういえばオレ、スクウェアになったって、執事さん知ってたっけ?」
「は、はい。しかし会えないものは会えないと……」
「マチ姉に伝えてきて? ウォルフが暴れようとしている、全力でって」
「……」
「オレが暴れたら執事さんには絶対に止められないよ? そこらの衛兵でも全然無理だね。だから、しょうがないんじゃない?」
「それは……確かにしょうがないですな。仕方有りません、こちらでお待ち下さい」
遂に執事は折れ、ウォルフを待たせて建物の中に戻っていった。昨年辺りは夏に何度かこの屋敷でマチルダと手合わせをしているので、ここの家の者はウォルフのメイジとしての実力をよく知っている。
そのウォルフに暴れるなどと言われて今ウォルフを見張っている衛兵などはかなり緊張していた。
「ねえ、ウォルフ様。執事さんが絶対に無理って言ったら、本当に暴れるつもりだったの?」
「まあその時の気分だけど、ちょっとここのところ開拓地でストレスの溜まる仕事が多かったからちょっと切れやすくなってるかな」
マチルダを呼びに行った執事は中々帰ってこない。待ってる間暇だったのでサラに魔法を教えて時間を潰す。高圧の水に研磨剤を含ませて噴射する水×水×土のトライアングルスペル『ウォーターカッター』を教えてみたのだが、サラはまだトライアングルは使えないようだった。
『ウォーターカッター』で門の前の石畳に"ウォルフ参上!"とか落書きしているとようやく門からマチルダが現れた。
「人んちの前に何書いてんだい……」
「マチ姉!」
「久しぶりだね、サラ。もう大分大きくなったね」
さっそくサラが走り寄って抱きつき、マチルダはバツが悪そうにしながらもその体を抱きかえした。ウォルフは落書きを『練金』で消して、マチルダへと向き直る。
「久しぶり。ちょっとマチ姉痩せたんじゃない?」
「ここのところ忙しいからね。おいで、中で話そう」
マチルダに案内されて屋敷内の応接間に移動した。屋敷内はあちこちのカーテンが閉められて薄暗く、人手が足りないのか廊下の隅にはほこりが目立つ。
何度も来たことのある部屋だが、部屋に入るときに執事がウォルフに向かって深々とお辞儀をしてから下がったのは初めてだった。
「さて、一体どんな用事なんだい? あたしも忙しいんだ、手短に頼むよ」
部屋に入ってソファーに座るなりマチルダが切り出した。本当に急いでいるようでそわそわとしている。
「マチ姉はもうわかっていると思うけど、現状の説明をして欲しいかな」
「分からないね。現状って一体何の現状だい?」
「マチ姉……」
強気に言い放つが、サラに見つめられると目を逸らす。そんなマチルダにウォルフはつい溜息を漏らしてしまう。
「ふう。えーと…モード大公が何故逮捕されたのか。マチ姉はその理由を知っているみたいだから」
「っ!! ……逮捕されたのは確かだけど、理由なんて知るもんか。王様がいかれちゃったんじゃないのかい?」
「オレには知っているように見えるんだけどなあ。太守様は今何してるの?」
「父上は釈明と事態の収拾のためロンディニウムで活動している。あたしはその留守を守るのが仕事だ」
「ふーん」
もちろんウォルフはまるで信じていない。そんな言い訳でこのところのマチルダの行動を説明できる訳がなかった。その後色々と聞いてみてもマチルダの態度は変わらず、頑なな姿勢のままだ。
「マチ姉、お願い。ウォルフ様はまたすぐに開拓地に帰っちゃうから、今日どうしても話を聞きたいの」
「何の事を言っているのか分からないんだよ。あ、魔法学院の話でも聞きたいのかい?」
「マチ姉」
「サラはかわいいからね、学院に入ったら下心丸出しの男共が近付いてくるだろうけど、油断したらダメさ。学院ではパーティーがしょっちゅうあるけど、会場から離れて森とかに誘うような男は要注意だね」
「マチ姉、お願い」
「あたしも最初はよく誘われてね、珍しい夜光獣がいるって話につい乗っちゃったら襲われそうになったもんだよ。まあ、当然返り討ちにしてやったけどね」
「……」
サラに対しても態度は変わらない。涙をうっすらと浮かべているサラから目を逸らし、ぺらぺらと関係ない事を口走っている。
「もう良いかい? 用が無いならもう帰っとくれ」
「……ふー……」
「ええっ!? ウォルフ様、帰っちゃうの? マチ姉のあの顔は嘘吐いているときの顔だよ?」
無言で立ち上がったウォルフをサラが諫めるが、マチルダはそっぽを向いて何も言わない。そんなマチルダには溜息しか出ないが、ウォルフは同時に彼女が何か大きなトラブルに巻き込まれていることを確信した。しかし、マチルダから話をしてもらえないとなると、ウォルフとしては出来ることは何もない。
仕方なく、サラを促して立たせるとドアの方へ向かう。マチルダも無言で付いてきた。
「マチ姉。マチ姉がどう思っているかは知らないけど、オレはサウスゴータとは運命共同体のようなものだと思ってこれまでやってきた」
「……」
ドアを開けようとして、その前にマチルダの方に向き直り最後の声を掛ける。
「マチ姉がいなかったらガンダーラ商会はあそこまで大きくはならなかったし、ガンダーラ商会だからこそサウスゴータの町に活気を呼び戻すことが出来たと思う」
マチルダを見つめて話すが、マチルダはやはりそっぽを向いたままだ。サラはそんなマチルダの態度に唇を噛み締め、何も言葉を発することが出来ない。
「困ったときは助けを求めて欲しい。それがオレやサラ、ガンダーラ商会、タニアやカルロ、ベルナルド達皆の総意だ。オレ達は全力でマチ姉を助けることを約束する」
「……」
少し、喉が震えているだろうか、マチルダはそれでも何も言わず横を向いている。ウォルフはまた溜息を吐くと、帰るべくゆっくりとドアの方へと振り返った。
「あ……」
ウォルフがドアのノブに手を掛ける。その背中に向かって、マチルダの口から声が漏れた。
背後から聞こえた声に、振り返ったウォルフの視線とマチルダの視線とが交わる。その瞳は虚ろで、無表情のようでもあり、恐怖を浮かべているようにも見えた。
「……助けて」
かすれた声が、室内に響いた。
「…もう、どうしたらいいか分からないんだ」
無表情なまま呟くようにそう言ったマチルダの頬を涙が流れる。その姿は弱々しく儚げで、放っておくとマチルダが消えてしまうような、そんな感じを覚えさせた。
数瞬の沈黙の後、ウォルフが反応するより早くサラが走り寄り、マチルダを抱きしめた。
「大丈夫だよ、マチ姉。絶対にウォルフ様が何とかしてくれるから」
サラの方が大分背が低い為に肩口に抱きつくような形になっているが、優しくマチルダを抱きしめ語りかける。
そんなサラにマチルダは縋り付くように抱きつき、声を上げて泣き出した。