ハルケギニアの二大大国ガリア王国と帝政ゲルマニアの間に挟まれた位置にポツリとその国土を主張する小国トリステイン。
水と歴史の国と呼ばれて久しいこの国の東部、ラ・ヴァリエール領ではこの日、当主であるラ・ヴァリエール公爵とその娘ラ・フォンティーヌ子爵とが激しく言い争っていた。健康になったのは良いのだが、それまでの素直さが嘘のように言う事を聞かない事が多くなってしまった娘を、公爵はここのところ持てあまし気味だ。
「私にはラ・フォンティーヌを豊かにする義務があるのです。現在ラ・フォンティーヌは完全にラ・ヴァリエールの一部となっていて、大きな街も産業もありません。先日お忍びで行ってみて領民にここは何処だと聞いたらば、ラ・ヴァリエールですと答えた程です。私にはまだ嫁いでいる暇は無いのです。無論男性とお付き合いしている暇も」
「お前にラ・フォンティーヌを与えたのは嫁ぐ事もできないと思ったからなのだぞ。健康になったのなら結婚をし、子供を産むのは貴族に生まれた娘の義務だ。ラ・フォンティーヌは十分に豊かなんだし、領地経営などにかまけている場合ではない」
「結婚が嫌な訳ではありません。ただ領地を頂いたのに何もせずに嫁ぐのが嫌なだけです。ラ・フォンティーヌ子爵としての誇りを持ちたいのです」
公爵は何も今すぐ結婚しろと言っている訳ではない。愛しい娘により良い相手を選ばせてやろうと、来月トリスタニアで開かれるとある大きなパーティーにカトレアを連れて行こうとしただけなのだが、彼女は忙しいから行かないなどと言う。
確かにカトレアやルイズのことがあって、姻族を増やしラ・ヴァリエールの政治基盤をより強固なものにしておきたいという思いは当然ある。しかし、娘を思う親心に偽りはないというのに。
「そんな事を言っている内にエレオノールのようになったらどうするんだ! 二人目の婚約者にも婚約解消を申し込まれたぞ。女だてらにアカデミーなどで研究に熱中しているから、そんな事になるのだ」
「姉様は研究のせいと言うより、男性に対する態度に問題が有るような……。とにかく、誰かと結婚するにしても夫の仕事に理解がある方がよろしいでしょう? 領地経営を実際にやってみればその大変さが分かるようになると思いますし」
「いや、逆だな。妻が領地経営なぞに詳しくなって口出しするようになった夫婦は大抵上手くいかなくなっている。ラ・フォンティーヌなどジョスランに任せておけばよいのだ」
ジョスランとはラ・フォンティーヌを含むラ・ヴァリエール領内のいくつかの地域で代官として租税の徴収や領民の希望を聞いたり裁判などを行っている男だ。これまでラ・フォンティーヌは彼に任せきりで何も問題は起こらず、昔ながらの農業中心ながらもそこそこ豊かな領地となっている。
彼に任せておけばカトレアなど何もせずとも一生生活に困るなどという事はないというのに。
「あ、こらまてカトレア! まだ話は終わっていないぞ」
「すみませんお父様。ブーリへの道路の破損状況について村長と視察する約束になっております。時間が迫っていますので今日はこれで失礼します」
「そんな村長など放っておけ、こら、待ちなさい」
「申し訳ありません、お父様。お小言は帰ってきてから」
結局公爵の制止を振り切って、ラ・フォンティーヌ子爵カトレアは出て行ってしまった。
後に残された公爵は憤懣やるかたないといった風情だ。ブーリの村長という、公爵からすれば視界の端にすら引っ掛かる事が無いような身分の者を優先されたのは公爵の身分に付いてから初めてのような気がする。
秘書達は触らぬ神に祟りなしとばかりに執務室から退散し、パーティーへの返事をどうするのか聞きに来た祐筆は公爵に睨まれてあわてて引っ込んだ。当分、公爵の機嫌は直りそうになかった。
公爵の執務室から逃げ出したカトレアは真っ直ぐに自分の部屋の前へ止めてあったモーグラに向かった。
実はラ・フォンティーヌでは村長だけでなく、他の人とも会う約束をしているので本当に時間が無く、急いでいた。その人の事は公爵には言えないので少々強引に飛び出てきてしまったが仕方ない。家来に用意させていた荷物を受け取るとタラップに足を掛けた。
このモーグラは病気の快癒記念に公爵から贈られたものだ。元は公爵がアルクィークの村まで行くために手に入れたのだが、その後使用していなかった。
精霊魔法を使えるようになったカトレアが、何か別のものに夢中になるのならその方が良いと公爵は判断してこの高価な飛行機を与えたのだ。公爵の目論み通りカトレアは暫く操縦訓練に夢中になったものだが、その後領地経営をするとか言い出して公爵を困らせている。
「ちいねえさま! モーグラに乗るの?」
「あらルイズ。魔法の練習はもう良いの?」
「全然進まないから気分転換をする事にしたの。集中力が落ちている時に練習しても、得る物は少ないってウォルフも言っていたし」
「そんな事言って最近気分転換ばかりしているのじゃないかしら?」
モーグラに乗り込もうとしたカトレアに声を掛けてきたのは妹のルイズ。もう十一歳になると言うのに、大好きな姉の元に走り寄ってきて見せる満面の笑顔はほんの小さな子供の頃のままだ。
彼女は虚無のメイジである事が判明して以来魔法を教えられる者がいなくなり、自主練習の日々を過ごしている。これまで真面目に頑張ってきた反動か、どうも練習をさぼり気味になっている。
「もう、ちいねえさまったら意地悪。そんな事無いわよ、ほんのちょっと息抜きしているだけなんだから。ねえ、ちいねえさまモーグラに乗るのなら、私も一緒に乗せて?」
「あら、遊びで乗るのではないのよ? ちょっとラ・フォンティーヌまで視察に行くの」
「えー、私もちいねえさまと一緒に行きたい。領民の暮らしを見るのは貴族として必要な事みたいだし」
「あらあら、しょうがないわねえ」
「うふふ、ちいねえさま大好き!」
カトレアにはごねるルイズを説得する時間もない。仕方なく乗せて一緒に連れて行く事にして、機中では注意を与えておいた。
「ラ・フォンティーヌで私は人と会いますが、ルイズは後ろで大人しくしていて下さいね?」
「分かってるわ。お仕事の邪魔なんてしないもの」
「それと、帰ったらちゃんと魔法の練習もするのですよ? 後で困るのはルイズなのだから」
「はーい。ウォルフが来てくれればやる気も出るのだけど、今忙しいみたいなの」
ウォルフがいるのといないのとではやはり全然進み方が違う。成果がなければやる気も出ない訳で、気分転換だけでなく色々と理由を付けながらこのところのルイズはだらけっぱなしだ。それでもこれまでの魔法が使えないというプレッシャーからは解き放たれ、彼女は今のぬるい生活を楽しんでいた。
ルイズはまだ知らないのだ。王立魔法研究所に勤める彼女たちの長姉エレオノールが、虚無魔法の研究のためラ・ヴァリエールに来る予定になっていると言う事を。今はまだトリスタニアで研究に役立ちそうな資料を集めているが、それが終わったらルイズにとって地獄の時間が始まる事になる。エレオノールはラ・ヴァリエールに来たりてルイズをしごく。
今は束の間の平和を満喫しているだけだとは夢にも思わず、ルイズはカトレアと一緒のフライトを楽しんだ。
モーグラだとラ・フォンティーヌまではほんの少しのフライトだ。景色を楽しむ間も無く、二人とその護衛を乗せたモーグラは村にある代官屋敷に降り立った。
そこからはセグロッドで川港へと向かう。川港で人と待ち合わせをしているのだが港の周辺は土地が狭く、モーグラを駐めておく場所がないからだ。
ルイズの文句も聞かず急いで向かった先の港はライヌ川沿いの村には良くあるほんの小さなものだ。その桟橋で赤髪の少女が繋留用のボラードに腰を掛けて彼女を待っていた。
「申し訳ありません、お待たせしてしまったでしょうか」
「遅い。五分の遅刻よ。これが噂に聞くトリステイン時間というものなのかしら?」
カトレアはこのブーリの港があるラ・フォンティーヌの領主だ。その領主に対し座ったまま尊大な物言いをする少女にルイズはカトレアの後ろで目を剥いた。
「弁解のしようもございません。以後気をつけます」
「まあいいわ。じゃあ、船の中で話しましょう」
少女はそれ以上追求しようとはせずに立ち上がると、後ろに停めてあった真っ赤なクルーザーにカトレアを誘ったのだが、その物言いに黙っていられないのはルイズだ。
「ちょっと。待ちなさいよあなた。ブーリの領主に向かって、ブーリの港でその物言いは何なの?」
「ルイズ! やめて」
カトレアが抑えようとしたがルイズは止まらなかった。ツカツカとカトレアの前へ出てきて腕を腰にやり、胸を張った。このポーズを取ると胸口のマント留めがよく目立つ。
しかし、ラ・ヴァリエールの領民なら一目で気付くその紋章入りの金具を、赤髪の少女はまったく気にしなかった。
「カトレアさん、このちんちくりんは何なの?」
「ちっ――!!」
「す、すみません。妹なのですが、付いてきてしまったものですから。ルイズ、お仕事の邪魔はしないと言ったでしょう。後ろで大人しくしてて」
「でもちいねえさま! こんな平民に舐められたら領主としての示しが付きません。ちいねえさまは優しいから舐められやすいのだと思うわ」
「ルイズ!」
赤髪の少女は杖を身につけてはいるがマントをクルーザーに置いてままにしているために今は着ていない。それで平民と判断しているようだが、彼女の胸や後ろのクルーザーに付いているツェルプストーの紋章には気がついていないようだ。
「カトレアさんを姉と呼ぶって事は……ふうん、成る程。あなたがヴァリエールの"虚無"なのね」
「っ!! ……あなた、何者? 返答次第ではただではおかないわよ」
「あら、どうしてくれるって言うのかしら? わたしと杖を交えようって言うの? 伝説が? うふふふふ、それは楽しそうね」
ルイズは目を細め、一歩下がると杖を構えた。ルイズの事を虚無と知っている者はまだ少ない。自分が知らない、自分の事を知る者の登場にルイズはいつでも魔法を撃てるように身構えた。
ルイズが攻撃に使えそうな魔法はただ一つだ。ウォルフとの虚無魔法の研究でルイズの失敗魔法は虚無魔法の一つなのではないかと考えられるようになり、爆発をイメージして更なる小さな魔法の粒、魔力子の波動を聞く事によってルイズは『爆発』の魔法を会得しつつある。
この魔法によって爆発をコントロールできるようになっているので、たとえメイジが相手でも戦えるはずとの自信を持っている。
しかし赤髪の少女、キュルケに向けられた杖は横から伸びた手によって素早く奪われた。
「ちいねえさま!?」
「ルイズ、わたしのお客様に杖を向けるなんて何を考えているの? あなたはもうモーグラに帰ってなさい」
「あら、わたしはかまわないのに」
「いえ、重ね重ね申し訳ありません。あなた、ルイズを連れて行って」
「はっ」
カトレアに頼まれモーグラに同乗してきた護衛二人の内の片方がルイズを連れて下がる。ルイズは初めてカトレアに強く叱責されて呆然としていたが、カトレアが連れ去られるルイズの方を向く事はなかった。
「ウォルフも言っていたけど、まだ子供なのね、あの子」
「お恥ずかしい。素直で良い子なのですけど、少々甘やかしすぎたようです」
虚無のメイジと手合わせするのは少し楽しみだったキュルケは残念そうだ。カトレアと二人で連れ立ってクルーザーのキャビンへと移動した。
キュルケのクルーザーは鋼鉄製で真っ赤に塗装された全長十メイルくらいの小型の船だ。水上航行をメインにしているが、風石も積んであり、動力が繋がっているプロペラを切り替える事により空中航行にも対応している。もっとも重いので空中航行は得意ではなく、あくまで緊急用だ。
ライヌ川は国際河川なので航行は自由だが、積み荷を降ろす場合は港を使用して使用料を領主に払う必要がある。その使用料を逃れようと港を使わずに荷の積み卸しをしようとする者がどうしても出てくるのだが、このクルーザーはそう言った不届き者達の取り締まりに威力を発揮している。
そのクルーザーの中、貴族らしい豪奢な内装の中央キャビンでカトレアは掲示された書類を見詰め、溜息を吐いていた。
「五万エキュー、ですか」
「ええ。安いものでしょう? 長距離航海用ではないけれど、船体はツェルプストー製で木製より遙かに長持ちする双胴の鉄製。それにガンダーラ商会の防食塗装を施してあるわ。風石エンジンはガンダーラ商会製L107型を二機搭載しているので、乗員や貨物を満載してもパワーに不足を感じる事はないはずよ」
「その、鉄製の船だと丈夫そうですが、錆びたりはしないのですか? 水に浸かるものだし、固定化の魔法代が膨大になりそうなのですが」
「この船も鉄製だけど、錆が出た事はないわ。亜鉛の犠牲陽極板というのを定期的に取り替えれば魔法は必要無いそうよ。何でそうなのかはわたしは知らないけど」
「うーん、そうですか、五万エキュー……」
「カトレアさんにこの話を持ちかけられた時は驚いたけど、すぐにいい話だと思ったわ。私達次の世代の人間がこの航路を開くことによって、対立や戦争は過去のものだと領内や近隣に知らせることが出来る。これからは経済の時代よ。ここに航路を通せば大きな成長が見込まれるというのに、ただ川を挟んでにらみ合っているなんて馬鹿らしいわ」
「え、ええ、そうですよね。キュルケさんも私と同じ考えで嬉しいです。でも、五万……」
ラ・フォンティーヌ領はラ・ヴァリエールに隣接する領地ではあるが南北に走る街道からは外れた東にあり、東はライヌ川に接しているためにいわゆるどん詰まりになっていて人々の往来が少ない。人が動かなければ物が動かずいつまでもラ・フォンティーヌは田舎の小さな領地だ。
それを解消するために港を整備してツェルプストーとの貿易を始めようとしたのだが、渡し船用の船をツェルプストーから購入しようとしていきなり躓いた。五万エキューだとラ・ヴァリエールにとっては大した金額ではないが、年間の税収が三万エキューに届かないラ・フォンティーヌからすると大金なのだ。
ツェルプストーとの話し合いでさすがに橋を架けられないので渡し船を、となったのだが、大量の馬車や車を一度に運べる船を頻繁に行き来させ、道路のように使えるようにと合意したまでは良かった。ツェルプストーとラ・フォンティーヌで一隻ずつフェリーを所有し交互に行き来させようとしたのも良かった。その大型のフェリーの価格が五万エキューにもなるのがカトレアの予想を超えていたのだ。
「この船を二隻ツェルプストーとヴァリエールでそれぞれ所有して、交互に運行すれば良いと思うわ。航路が短いから二隻あれば十分だし、将来的に予測される需要にも充分対応できるはずよ」
「その、もう少し小さな船というのはないのですか?」
「ライヌ川のもっと下流ではトリステイン-ゲルマニア貿易が段々盛んになってきているわ。クルデンホルフも街道の整備を積極的に行っているし、それらとの競争に勝つためにはこの程度は最低必要なはずよ」
「クルデンホルフ。経済が豊かなところですわね」
「ええ。トリステインが経済的に厳しいとは聞いているけど、ラ・ヴァリエールなら問題なく払えるはずよ? 帰ってお父様に聞いてみて。鉄製でエンジン付きの船の価格としては破格にしているのだから」
「え、ええ、そうですね、一度持って帰って検討いたします……」
カトレアは購入を即答する事が出来ず、弱々しく答えた。ツェルプストーとの航路の事は父親には伝えていない。五万エキューは彼女自身が用意しなくてはならないお金だった。
代官屋敷にまで戻ってルイズと合流し、こんどはブーリの村長と一緒に道路の視察に向かう。ルイズはカトレアに叱られたのがショックだったのか随分と萎れていて、更にカトレアが会っていたのがツェルプストーの娘だった事にもショックを受けたようで来る時とは打って変わって無口になり、黙って後に付いていた。
ブーリの村はライヌ川の河岸段丘の下部に開けた村で、段丘下部の湧き水を使って畑を灌漑している。その段丘の上部へと続く道がそのまま街道にまで繋がっているのだが、この坂道が細い上に数カ所が崩れており、通行しにくいものになっていた。港の拡張をするのならこの道も拡張工事をしなくてはならず、斜面に付いたこの道を広げるとなると結構大がかりな工事となり費用が掛かりそうだ。
一頻り村長と道路の視察をしたカトレアは、村長が出してきた工事費用の見積もりを受け取りまた頭を抱える事になった。
カトレアがこんなに領地経営に関心を持っているのは理由がある。治療を受けるためゲルマニアを横断した時の衝撃が彼女を動かしているのだ。
トリステイン人が野蛮な田舎と蔑んでいるゲルマニアは、実際に行ってみるとトリステインよりも遙かに進んでいて、豊かだった。建物は林立し道路は広く清潔で、道行く人は皆カラフルな服装を身に纏い活気がある。無数の自動車や馬車が行き交い、最初にボルクリンゲンに行った時などは目を回すかと思った程だ。
帰ってきて病気が治ったのでモーグラの操縦訓練を兼ね、トリステインでは比較的豊かだと言われるラ・ヴァリエールの各地を回ってみたが、とてもゲルマニアには及ばないというのが彼女の実感だった。
何より感じたのは圧倒的な経済力の差。何故ここまでの差が付いてしまったのか、ラ・ヴァリエール領内の何人かの商人に話を聞いてみたところでは、ちょっと前まではここまでの差は無かったとの事だ。
初めは普通の不景気だった。アルビオンへの輸出が滞るようになってものが余るようになり、物価が下がった。ここまでならこれまでもあったことなのだ。一度戦争でもあれば解消されるような事態だったのだが、今回はその先の展開が違っていた。ガリアやゲルマニアとの国境を越えて物が大量に流通するようになり、その低価格に国内の産業は対抗できず、生産業の多くが苦しんでいるという。
そして商売そのものの仕方もとても難しくなってしまったそうだ。例えば、ちょっと前ならゲルマニアの名工製の剣、と言えばトリステインでは珍しく、多少あやしい品でも高値で売れたのに今そんな商売をすればすぐに潰れてしまう。以前なら市場というものは売り手が主導していたが、今その市場は買い手が主導している。その変化を理解して対応できているところは大きくなって、理解できないところは潰れている。そしてその潰れている商人の多くはトリステイン商人で、販路ごとどんどんゲルマニアやガリアの商人に買い上げられているという。
このままではトリステインがそのままゲルマニアに買い上げられてしまうのではないかという、漠然とした危機感が彼女を動かしていた。
「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」
「このジョスラン、旦那様よりカトレア様の代官を任されておりまする。何なりとご相談下さい」
「あのね――」
ラ・ヴァリエールの屋敷に戻ったカトレアは、父親の所へ顔を出す約束も忘れて真っ先にラ・フォンティーヌの代官、ジョスランを呼び出した。
ジョスランは長年ラ・ヴァリエールに仕える五十がらみの男で、最近薄くなった頭髪が悩みだという穏やかな男だ。カトレアが領地の事を気に掛けているのを好ましく見ていた彼も、ライヌ川対岸のツェルプストーとの間に定期航路を開くという提案には眉を顰めざるを得なかった。
「しかも、五万エキュー、ですか。その船が。確かにこの大きさで鉄製なら安いのかも知れませんが……」
「とにかく人が動かなければラ・フォンティーヌの発展は無いと思うの。国境警備に巡回する騎士くらいしかあの領地でお金を落としてくれる人がいないのは問題だわ。そりゃ農作物は豊かで食べるに困ると言うことはないけれど、それだけじゃあ……」
「しかし、五万エキューともなると旦那様に相談しなくては動かせないお金です。ここは一つカトレア様から話を通していただいて――」
「お父様には話せないわ。ツェルプストーと定期航路を開くとか言ったら反対するに決まってますもの」
「しかしそれでは」
「私は独立したトリステインの貴族よ。自分の領地の方針は自分で決めます。あなたにお願いしたいのはこれらを換金して欲しいのです。全て売れば五万エキューにはなるはずです」
「カトレア様! これは旦那様が下された宝石類ではありませんか。やや、これは旦那様が誕生祝いにと下されたアクアマリンのペンダント。ああ、こちらは大奥様から受け継がれた家伝のイヤリング」
カトレアが取り出したのはネックレスやら指輪、イヤリングなどのジュエリーだった。色とりどりの宝石をあしらっており、一目で高価な品だと分かるようなものだ。ただ単に高価だと言うだけでなく、ラ・ヴァリエールに代々受け継がれているような名品も数多い。全て売れば五万エキューどころではない額になるだろう。
これらの宝石類はラ・ヴァリエール公爵達がプレゼントした物だし、ここはラ・ヴァリエールの居城でジョスランはラ・ヴァリエールの家臣だ。どこが独立した貴族なのか問い質したくなる状況だが、その辺の事をカトレアはあまり気にしていないようだ。
「構いません。必要ならば全て売り払って下さい。ラ・フォンティーヌにはこの船が必要なのです」
「これらを売り払うなんて、そんな……」
「お願い、ジョスラン。私は本気であの地を豊かにしたいのです」
「むむむ」
カトレアは凛々しい顔で重ねて言うが、事はそんなに簡単な話ではない。五万エキューという投資に対してどの程度の効果があるのかと言うことはそれ程問題ではない。その程度の金はラ・ヴァリエールにとって大きな問題となる額ではないからだ。しかし宝石の中にはラ・ヴァリエールの至宝として有名なものもあるし、たかがその程度の金のために先祖代々の宝を売り払われてはたまらない。
「……実は、トリスタ・ジェネラル銀行にラ・フォンティーヌ名義の口座がございます。そちらなら五万エキュー程度はすぐに動かせます。宝石はお仕舞い下さい。これらはそう気軽に売り払って良い物ではございません」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんな口座があったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」
ヴァリエール公爵に報告しようか悩んでいたジョスランだったが、結局カトレアの本気に根負けした。ここのところのカトレアの行動力から推測すると、ジョスランが断ったら彼女は自分でそこらの商人に売り払ってしまうだろう。そんなことは許容できなかった。
その程度の権限は与えられているジョスランだが、公爵にばれたら叱責されるのは間違いない。いざというときはカトレアを庇って責任を取る覚悟を固めた。
ジョスランが用意した五万エキューによって、カトレアは無事ツェルプストーと船の売買契約を交わす事が出来た。しかし数日後、ジョスランはまたカトレアに呼び出される事になる。
「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」
呼び出されて入ったカトレアの私室。そのテーブルの上には見覚えのある宝石類が既に並べられていて、ジョスランは嫌な予感に駆られたが、あくまで冷静に答えた。
「このジョスランはカトレア様の代官を任されておりまする。何なりとご相談下さい」
「あのね――」
カトレアが言い出したのは新型の船に合わせた港の拡張工事と街道へ繋がる道の拡幅工事。港を改修しなければそもそも新型船は発着できないし、道を広げないとトラックなどが通れない。更に発展するためにはボルクリンゲンに来るような大型船に対応した桟橋も必要だろう。どの工事も絶対に必要なのだが、少なく見積もっても三万エキューは掛かる。
「その費用が三万エキューですか。それでこの、旦那様が下された宝石は――」
「全て売り払って下さい。この工事はラ・フォンティーヌに必要なものなのです」
「むうう、たかだか三万エキューのためにこれらを処分したなどと旦那様に知れたら大変なことになりますが」
「かまいません。たとえお父様に勘当されたとしてもわたしはこの事業を進めるつもりです。もし、宝石類では足りないというのでしたら、私のドレスも売り払って下さい。多少の足しにはなるでしょう」
「……トリスタ・ジェネラル銀行を通して公債を発行しましょう。ラ・フォンティーヌには借金がありませんから、二万や三万の債権はすぐに捌く事が出来るでしょう。宝石はお仕舞い下さい。これらはそう気軽に売り払って良い物では無いのです」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんな方法があったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」
ここで宝石を処分してしまったら先日五万エキューも拠出した意味が無くなってしまう。ジョスランはまたもや現金を用意せざるを得なかった。
喜ぶカトレアとは対照的にやや疲れた風でジョスランは帰って行ったが、彼はまた数日後カトレアに呼び出される事になる。ややげんなりとして入った部屋の机の上には、当然のようにあの宝石類が並べてあった。
「カトレア様、お呼びでしょうか」
「待ってたわ、ジョスラン。ラ・フォンティーヌの事で相談があるの」
「……このジョスランはカトレア様の代官を任されておりまする。何なりと、ご相談下さい」
「あのね――」
カトレアが言い出したのは領地で行う事業の事。具体的には牧草地の拡大工事をしたいとの話だった。ラ・フォンティーヌは元々のどかな農村地帯で外との交流はあまりなく、農産物も自給自足が多い。その多種にわたる農産物の中でこの領地の名物と言える物が牛や羊の乳を使ったチーズだ。
各村ごとに違う製法で作るチーズがあり、独特な製法で作られるとろけるような牛乳のチーズや、旨味の詰まった羊乳のチーズなど一部のマニアの間で有名になっているものも有るくらいだ。
今は村の周辺に少しあるだけの牧草地を拡大し、牛乳や羊乳の生産量を増やしてチーズを増産させる計画だ。牧草地の拡大費用を領主であるカトレアが負担し、各村に融資もして牛や羊を増やし、チーズの加工場を建てさせる。それらの資金にまた三万エキュー程かかるというのだ。
「道が通っても素通りされるだけだと意味がないでしょう? 渡し船の運賃はうんと低価格にするのだし、特産品を作るのは必要だと思うの。ゲルマニアとの交易に行き来する商人達が買ってくれれば、ラ・フォンティーヌのチーズは絶対に評判になると思うわ。だって美味しいもの」
「それでまた、ですか。この宝石は――」
「全て売り払って下さい。この事業はラ・フォンティーヌに必要なものなのです」
「……実はブーリの代官屋敷の地下にはいざというときの戦費として金塊が隠されております。今回は緊急事態と言う事でこれを使用いたしましょう。ですので、宝石はお仕舞い下さい。これらは気軽に売り払って良い物では無いんですったら」
「まあっ! ありがとう、ジョスラン。そんなものがあったなんて、これはきっとブリミル様のお導きねっ」
ブリミル様導きすぎだろう、とジョスランは内心で愚痴をこぼす。ついに非常用の隠し財産にまで手を付けてしまった。公爵にばれたら大目玉どころでは済まないかも知れない。
ここまでの大金を投じてなんの効果もなかったら、本気でジョスランの首は胴体とさよならする羽目になる可能性がある。ジョスランはカトレアの提案を実現させるために奔走した。
カトレアは思いついた事をやらせるだけだが、実際にそれを実行するとなると手続きや作業などその段取りは多岐にわたり大変だ。これまでの工事なども実務は全て彼が取り仕切っているのだが、おかげでこの後ジョスランはほとんどラ・フォンティーヌに掛かりきりにならざるを得なくなってしまった。
それはもう少し先の話になるのだが、ラ・フォンティーヌが独立した領地として体裁を整えるようになった頃、彼は正式にラ・ヴァリエールから移籍し、生涯ラ・フォンティーヌに仕える事になる。この頃はまさかそんな事になるとは微塵も思っていなかったのだが。
ジョスランの活躍もあり、何はともあれゲルマニアへの道は開けた。街道までの道も整備され、大型の馬車がすれ違っても余裕のある道は御者達に通りやすいと好評だ。このルートはトリステインの首都トリスタニアからゲルマニアの首都ヴィンドボナへ至る最短ルートになるので今後通行量はますます増えるものと思われる。
目ざとい商人の中には既にブーリで商館を開く者も現れた。道行く馬車相手の商売をする者達も増え、ラ・フォンティーヌはゆっくりと経済成長を始めたのだ。
カトレアはジョスランを伴って毎日ブーリを始めラ・フォンティーヌ各地を周り、精力的に働いた。その姿は溌剌としていて、今の彼女を見て病人だと思う人はいないだろうと思われる。
そんなある日、彼女の下に一人の男が訪れる事になる。男の名はカルロ。ガンダーラ商会アルビオン代表兼サウスゴータ商館長だった男だ。
ガンダーラ商会はアルビオンで閉鎖せざるを得なかった工場を移転させる場所をずっと探していた。ボルクリンゲンに移動した分は既に稼働していたが、拠点を分散するためにもう一カ所工場を造る予定だったのだ。ボルクリンゲンから近くライヌ川の水運を使え、街道が整備されている場所。ブーリはいつのまにかその条件にぴったりの土地になっていた。
「ようこそお越し下さいました。ガンダーラ商会のカルロ殿、歓迎いたします」
ブーリの代官屋敷でカトレアが満面の笑みでカルロ一行を出迎える。この日を境にラ・フォンティーヌの経済成長は急激に加速を始める事になった。