その飛行機を見るサイトの心は希望に満ちていました。
自分と同じ故郷を持つその飛行機。
それはロバアロカイエという東の地よりやってきたそうです。
実際のところ、これが作られたのは東の地ではなく、サイトの故郷であることは、誰よりもサイトがよく知る所です。ということはサイトの故郷とこの世界を結ぶ何かが、東にあるということにほかなりません。
一言にロバアロカイエと言ってもそこがどれほどの広さで、どのような場所なのかは不明です。しかし、そこにはたしかにサイトが元の世界に帰るヒントが存在しているはずなのです。
今、サイトには、元の世界に帰れる可能性が見えてきていました。
とはいえロバアロカイエに行くには、まずこの飛行機が飛べるようにならなくてはいけません。東方は陸路で行くにはあまりにも遠く険しい場所なのです。
幸いにして飛行機には故障している箇所はなさそうですが、あいにくと燃料が入っていませんでした。
戦闘機の燃料などトリステインにあるはずも無く、サイトはどうしたものかと悩んでいました。
一応学院に運びこみはしたものの、どうやって燃料を手に入れるかも、飛行機を何処にしまうかも、それ以前に運び賃をどのようにして払うのかさえ目処は立っていなかったのです。
しかし、いざ学院に到着してみると意外な人物の協力が得られることになりました。
その人物とはコルベールでした。
火の魔法の教師にして、発明と研究が大好きな変わり者です。
彼は突如として学院に運ばれてきたその飛行機を見ると、鼻血をださんばかりに興奮をしてその正体が何であるかをサイトに問いただしました。
そのあまりの剣幕にたじろぎながらサイトがその飛行機の説明をすると。コルベールは魔法なしで空を飛べるということに感動と興奮を覚えたらしく、運賃の支払いと保管場所の提供をしてくれた上にその燃料を作ることをサイトに確約してくれました。コルベールにとっては未知の発明品に触れ合えることはこの上ない楽しみなのです。
コルベールは学校で教師をする程度には優秀な人間ですし、とくに道具作りに関してはなみなみならぬ関心を持っています。
燃料づくりはどちらかと言うと土のメイジの管轄で火のメイジであるコルベールが得意とすることではないのですが、コルベール曰く一人で作るのではなく優秀な土メイジの協力も得るそうでしたので、サイトはとりあえず彼に燃料の作成を頼んだのでした。
正直、文字通り飛び跳ねながら「ヒャッホーイ」と叫び興奮するコルベールの様子に一抹の不安を感じましたが……。
「何をぼんやりと見ているんだ?」
突如として話しかけられて、サイトはビクリと肩を震わせました。
声のしたほうを見るとそこにはテオフラストスが立っておりました。
「テオ…なぜここに?」
ゼロ戦が置かれている納屋は、コルベール専用の実験場です。
生徒たちは勿論のこと、他の教師たちさえ気味悪がって近寄りません。
実際、意味不明なガラクタや危険そうな道具で溢れかえっているそこは。サイトにしてもゼロ戦がなければ近づかなかったでしょう。
そんなところに突如として現れたテオに、サイトは驚いてしまいました。
「なぜも糞も、この置物を飛べるようにするために燃料を作るんだろ?」
テオのその言葉にサイトは理解しました。
つまりコルベールの言っていた『優秀な土メイジの協力』と言うのはテオの事だったのです。
てっきりサイトは土の魔法の教師の協力でも得るのかと思っていましたが、なるほどテオであればそこ居らの教師なんかよりもよっぽどか優秀です。燃料なんて簡単に創りだしてしまうでしょう。
「良く協力してくれる気になったな」
たしかに、錬金のたぐいは才能豊かなテオの十八番とも言える特技の一つですが、マイペースなテオが協力してくれるはずもないと、サイトはその可能性を勝手に除外していました。
しかし、どういう風の吹き回しか、事実として、テオはサイトの目の前でこうして協力してくれる素振りを見せています。
「正直、貴様のために行動をしてやるつもりは毛頭ないが、コルベール師に頭を下げられたからな」
不機嫌そうにテオはそう言いました。
「ああ」
なるほど。と、サイトは合点が行きました。
テオは、自由奔放なようで、妙に義理堅い人間で有ることはサイトも知るところです。
仲の良いコルベールに頼まれれば、NOとは言えないでしょう。
「まあ、それに、吾としても興味はあるしな」
そう言いながらテオはゼロ戦を見ました。
「これを飛ばすのか?」
「ああ、これが飛ぶんだよ」
「羽ばたきもせずにか?」
テオのその言葉にサイトはニヤリと笑いました。
さすがのテオとはいえ、現代におけるベルヌーイの定理を理解することはできないと判断したサイトは、まるで教師のような口調でゼロ戦を指さしながら言いました。
「ここの羽上面が膨らんでいるだろう?翼の上面が下面よりも距離が長く、同じ時間で通過するので上側で速く、下側で遅くなり、上側が低圧、下側が高圧となり上に行こうとする力が発生するんだよ、これを揚力と…」
「いや、そんな事はわかっている。しかし、この重量と羽の作りから、その作用はかなり小さいはずだ。軽い模型程度を飛ばすならばまだしも、このような大きな鉄の塊ともなれば不可能だ。
一番の要因は圧力差ではなく、恐らくは空気に対する反作用の力で浮くのではないか?そうなると必要となるのは迎角だ。
迎角がある程度大きければ上に行こうとする揚力が強く生まれるだろうが、その反面で迎角をとり過ぎれば気流が翼表面から剥離してしまうことになる。その場合空気抵抗が大きくなり、また羽周辺の気流が乱れてしまい揚力が小さくなる。
羽の形がこのように膨らみを持っているのは、前縁部では若干の迎角をつければ、後縁部ではより大きく迎角をつけた事になるという………」
「申し訳ありませんでした…」
サイトは土下座しました。
なんだか、初めて飛行機に接しているのに自分よりも専門的な事を言い出したテオにたいして、自分が少しでも得意になってしまったのが恥ずかしくてたまらなかったのです。
「いや、いきなり頭を下げられても…兎角、このフィンの力がどの程度かは判らんが、この形状でこの重量の物を飛ばすとなると相当の力なのだろうな」
「ああ、エンジンっていうんだ。前にコルベール先生が授業で見せたのと概ね同じ原理で動くんだ」
「なるほど…回転のエネルギーを推進力に変えて、それで出来た空気の反作用で空を飛ぶわけだ…
さぞ素早く動けるに違いないな…これならきっと…沢山人が殺せるだろう」
「!」
その言葉。
沢山人が殺せる。
それはテオにしてみれば何気ない言葉でした。
彼は物事を妙に好戦的に捉えます。
ですから純粋に早く飛べるのならば、沢山人を殺せると考え、口にしたに過ぎません。
そしてその何気ないテオの一言にサイトは息を飲みました。
今この瞬間まで、サイトはそのゼロ戦をただの飛行機であると考えていました。
しかし、それは、テオの言うとおり、嘗て自分の世界で人を殺してきた兵器そのものなのです。
今この瞬間まで飛行機としてサイトの目に映っていたそのゼロ戦は、テオの一言で途端人殺しの道具のように見えてしまいました。
複雑な気持ちがサイトの心のなかに渦巻きましたが、そんなサイトの気持ちを他所にテオは言葉を続けます。
「で?吾は何をすれば良いんだ?」
「…え?あ…ああ。そのエンジンに使う燃料をテオに錬金してもらいたいんだ」
「ふむ。物は何だ?硫黄か?硝石か?アルコホルか?」
「これ」
そう言ってサイトはテオの目の前にガソリンの入ったコップを出しました。
「うわ、クッセ…きさま、突然出すな。臭くてかなわん」
「あ、ゴメン」
「全く…ふむ、揮発性が高いな…ちょっと貸せ」
そう言うなりテオはサイトからコップをひったくり、中を覗きながら杖を持って何やら調べ始めました。
「揮発性が高いが…アルコホルとは違うな。鉛と炭?いやこれは…石炭と殆ど差がないようだが…」
テオはブツブツとひとりごとを喋り始めました。
「えっと…テオ?それで、それ…作れそう?かなりの量欲しいんだけど…」
「石炭を触媒に水を分解したものを…」
「あの…テオさん?」
「高圧で混ぜるか何かしてやれば…いや、錬金で直接混ぜあわせて…」
「あのもしもし?」
「…えっと」
「失礼!」
「うわ、びっくりした」
突然後ろからした声に驚きサイトが振り返ると、そこにはエンチラーダが立っていました。
いつの間にここに来たのかはわかりませんが、エンチラーダが神出鬼没なのはいつものことなのでそれに疑問は感じませんでした。
「ご主人さまは何かに集中すると、周りが見えなくなるタイプでございますので、これ以上は話しかけられても無駄かと思われます」
「え…あ、はい」
エンチラーダの言うとおり、もうテオの耳には何も聞こえていない様子でした。
「ご安心ください、御主人様にかかればどんなものでも直ぐに出来るでしょう」
「は…はあ」
そしてエンチラーダはそっとテオの車椅子に手をかけると、そのままその場から移動しようとします。
テオは、エンチラーダによって動かされる車椅子に気づいた様子もなく。コップを片手にブツブツと考察を続けていました。
そのまま二人はその場を後にしようとして。
ふと。
エンチラーダは納屋を出る間際。
サイトに向かってこう言いました。
「ところで、これが動いたとして、どうするおつもりでしょう」
「え…?あ、ああ。この飛行機の持ち主は、東から飛んできたらしいので、俺もそこに行こうと思います。そっちに行けば自分の故郷に帰る手がかりがあるような気がするんです」
サイトがそう言うと、エンチラーダはこう言いました。
「ルイズ様を置いて?」
「……………」
エルザのその言葉にサイトは言葉を失いました。
そして、動揺している自分に気が付き、少し驚きました。
無論、サイトは家に帰りたいと切に願っています。未来永劫この地に留まるつもりは毛頭ありませんでした。
言い換えれば、其れはいずれルイズとも離れ離れになるということ。
それはわかっていました。
わかっていたのに、いざこの場を離れる方法が見つかった今。サイトの心の中には大きな戸惑いが生まれていたのです。
自分が、東に行くと言えばルイズは何と言うだろうか。
アッサリと了承する?
確かにルイズならば勝手にどこにでも行けばいいと、サイトを放逐する可能性もあります。
しかし、本心から其れを願うようなことは無いでしょう。
口ではどんなに強がりを言っても、彼女はその心内で悲しむに違いないのです。
ルイズとはさほど長い付き合いではありませんでしたが、そんな確信がサイトにはありました。
「ルイズ様だけではありません。シエスタ女史やキュルケ様や其れ以外のものをここに置いたまま、貴方は一人でそこに行けますか?」
エンチラーダの言葉はとにかくサイトを戸惑わせました。
サイトは自分自身、どうするべきかの自問をしますが、その答えが出る気配はありませんでした。
「迷っておりますね」
「……」
エンチラーダの言うとおり、サイトの心の中には大きな迷いが渦巻いて居ました。
アレほど帰りたいと思って、そしてその手がかりがあると思われる東方に行く。
元の世界に戻ることは、サイトにとって一番の目標だったはずなのに。
今、サイトは其れが果たして一番良いことなのかわからなくなっていたのです。
そんなサイトの様子を見て、エンチラーダは言いました。
「では、老婆心からら一つご忠告を」
「?」
「もし、確固たる目標があるならば。其れ以外は容赦なく捨てるべきです」
その言葉はグサリとサイトの心の中に刺さりました。
まるでそれは、悪魔の囁きのように、サイトの心の中の欲望をかき乱しました。
「たとえ其れが貴方にとってどんなに大事だったとしても、それは目的の前には邪魔なものでしかありません、構うことはありません。捨ててしまいなさい。忘れてしまいなさい。そうすれば、貴方は今以上に幸せになれる」
それは特に難しいことを言っているわけではありません。
要はサイトの世界にもある故事、二兎追うものは一兎も得ずを言い換えているに過ぎません。
しかし、そのエンチラーダの言い方は、サイトの気持ちをざわめかせるのです。
ルイズを捨てる。
まるで。まるでその言葉は。自分を引き返せない道に誘うメフィストフェレスの言葉のようでした。
サイトは。その言葉に賛成も反対もできませんでした。
それにまともに答えれば。もう自分は引き返せないような気がしたからです。
だからサイトは、その言葉に対して自分の意見を言わず。
ただ、エンチラーダに質問をして、自分の答えをはぐらかすのでした。
「……エンチラーダさんは、目的のために、大切な物を捨てられるんですか?」
サイトのその質問。その自分の答えから逃げるためにした質問に対して。
エンチラーダは即答をしました。
「無論です。之までもそうしてきましたし、そしてこれからも…」
その言葉にサイトは震えそうになりました。
それは。
それは、まるで、悪魔が。自分の求めるもののために、それ以外のすべてを壊し尽くすような。
そんな、そんな迫力が込められていました。
そのままテオを連れてその場を後にする彼女に対して。
サイトはそれ以上言葉をかけることができなくなって居ました。
◇
エンチラーダの言葉。
その言葉は、それから数日の間サイトを悩ませます。
このゼロ戦が飛べるようになった時、自分は一体どうするべきなのか。
何度も反芻するように考えますが、一向に答えは出はしませんでした。
果たして。自分は皆と、簡単な気持ちで別れることができるのか。
短い期間でしたが、サイトは此処で色々な出会いをしました。
グルグルとサイトの中でここで出会った人達の顔が浮かび上がります。
そばにいるだけで胸が高鳴る女性。ルイズ。はっきり言って性格は最悪だけど、それでもたまに見せる優しさが、サイトの心をかき乱す。そんな女性。
サイトに食事を提供してくれたマルトー親父。
困ったときは力になると言ってくれたオスマン。
快くゼロ戦の整備を引き受けてくれたコルベール。
キザでバカだけど憎めないギーシュ。
無口だけど、いざというときに頼りになりそうなタバサ。
からかい半分でも、サイトを好きだと言ってくれるキュルケ。
優しくて可愛いメイドのシエスタ。
そしてテオフラストス…
サイトが、その顔を思い浮かべた時。
正にその顔が現実にサイトの前に現れました。
「おい、糞坊主」
「………それ俺のこと?」
「世に糞坊主は沢山居れど、今吾の目の前に居るのはお前だけだな」
「……あのさ、まだ糞野郎呼ばわりは我慢するよ、うん、いろいろ迷惑もかけてるし。でもさ、坊主って…俺とテオって年もそんなに離れていないはず…」
「燃料が出来たぞ」
サイトの言葉を無視してテオは言葉を続けました。
「出来たの?」
「ああ、出来た。概ね液状の石炭だ。特別に難しいと言うほどでは無かった」
そう言ってテオは一本の瓶を取り出しました。
サイトがその瓶の口から臭いをかぐと、ガソリン特有の匂いが彼の鼻を貫きました。
「おお、ガソリンだ」
「それであれを飛ばすんだろ?」
「多分燃料はこれでいいと思うけど…量が足りない」
「どれくらいだ?」
「樽で2つくらいは必要だと思う」
「そうか…まあ明日までには作っておこう。出来た物はこの納屋に置いておくから勝手に使うといい」
そう言ってテオは部屋に帰えろうと後を向きました。
そんなテオに向かって、サイトは声をかけました。
「なあ、テオ」
「なんだ」
不機嫌そうな声を出しながらも、テオは立ち止まりサイトの方に振り返りました。
「テオはさ、目的のためには、何かを捨てることは仕方が無いと思うか?」
「…あん?」
其れは、エンチラーダに言われた言葉そのままでした。
目的のために捨てることをためらうなと言ったエンチラーダの考えは、果たしてテオの考えと同じものなのか、其れをサイトは知りたかったの
「いやさ…例えばテオに何か目的があったとして、其れのために何か大切なものを犠牲にしなきゃいけないとしたら。テオは其れを犠牲に出来るか?」
「出来るな」
テオは即答しました。
其れは確信を持った確固たる口調でした。
「出来る…のか?」
「当然として捨てるな。少なくとも吾は今までそうしてきた。自分の最大の目的のために其れ以外の全てを犠牲にした。そして其れを達成した。なまじ他のものに気を取られていれば目的の達成など夢のまた夢だ」
それは、事実として、過去に目的のために何かを捨ててきたような言い草でした。
だから、サイトはこう聞きました。
「あのさ…テオの、その最大の目的って…何だったんだ。そんで、何を犠牲にしたんだ?」
ふと気になって、サイトはテオにそう問いました。
「目的は当然塔から出ることだな…犠牲にしたのは…まあ色々だ」
「あ…」
サイトは、これ以上ないくらいに納得してしまいました。
なるほど、テオは塔から出るために、その全てを犠牲にしたのでしょう。
少なくとも、テオにとって其れは全てを犠牲にしてでもするべき目標だったに違いありません。
例えばサイトがテオの立場だったとしても。
もし塔から出るためならば、その魂をも犠牲にしてでも外に出たいと願うはずです。
ですからサイトは納得してしまいました。
エンチラーダがサイトにああいったのも、目前で全てを犠牲にするテオという人間を見てきたからでしょう。
つまり、テオにしろエンチラーダにしろ目的のために全てを捨てることがなかば当然の人生を送ってきたのです。
「下らん。何を聞かれるかと思えば当たり前のことをつらつらと。兎に角燃料は作っておく。それ以上質問が無ければ帰るからな」
若干不機嫌そうにテオがそう言いました。
「あ、ああ」
サイトがそう返事をすると、テオはそそくさとその場を後にしました。
その後姿を見ながら、ふと、サイトは思いました。
もし塔から抜け出ることがテオの最大の目標であると言うのならば。
塔から抜けだした今、テオは一体何を目標に生きているのか。
其れが気になりましたが、其れを聞くべきテオの姿は、もうそこにはありませんでした。
◇
その日。
それを聞いたのは半ば運命とも言えました。
朝、サイトとルイズは魔法学院の玄関先で馬車を待ってい居ました。
ゲルマニアで行われる姫の結婚式へ向かうための馬車です。
しかし、朝靄の中から現れたのは、馬車ではなく、息も絶え絶えと言った様子の早馬でした。
馬の上に乗っていた使者はルイズ達にオスマンの居室を尋ねると、足早にそこに向かいました。
変わった出来事ではありますが。異常と言うほどのことではありません。
学院に早馬が来ることは屡々あることですし、中には急ぎの用件もあるでしょう。
ですが、二人は何となく、その様子が気になりました。
もし、使者が来るのがもう少し早ければ。
或いは使者がもう少し落ち着いた様子だったら。
もしくはサイトとルイズがもう少し大雑把な性格だったら。
二人はその使者の後を追って、校長室の扉で盗み聞きなどはしなかったでしょう。
しかし、事実として二人は聞いてしまいました。
校長室の中で繰り広げられる会話を。
「王宮からです! 申し上げます! アルビオンがトリステインに宣戦布告! 姫殿下の式は無期延期となりました!
王軍は現在、ラ・ロシェールに展開! したがって、学院におかれましては、安全の為、全生徒と職員の禁足令を願います!」
オスマン氏は眉を顰めました。
「宣戦布告とな? 戦争となってしまったか……。現在の戦況はどうなっているのかね?」
「は……はっ! 一応は制空権を奪われることはありませんが、地上部隊の降下を許してしまい、アルビオン軍はタルブの村を占領、現在地上部隊の本隊がタルブの草原に陣を張り、我が軍とにらみ合っている模様です」
「ふむ……」
その言葉を聞いたサイトは我が耳を疑いました。
タルブ村?
確かに今兵士はタルブ村と言いました。
シエスタの故郷、つい先日まで自分が居た村で、そして、今尚シエスタがいるタルブ村。
そのタルブ村が戦場になる?
それを理解するよりも早く、サイトは走り出していました。
「ちょ、ちょっと!サイト!?」
サイトの後の方から声が聞こえましたが、サイトはそれに構うこと無く一直線に走り出します。
迷いのない足取りでゼロ戦がある納屋に向かいました。
納屋の扉を開け、ゼロ戦の先に障害物が無いことを確認するとサイトはゼロ戦に乗り込もうとして、
そこで後ろからルイズに抱きつかれました。
「何処に行くのよ!」
「タルブだ!」
「何しに!」
「決まってる!シエスタを助けに行くんだよ」
そう言ってサイトはルイズを振りほどこうと動きますが、ルイズはしがみついて離れません。
「ダメよ!貴方が一人行ったって状況は変わらないわ!こんなオモチャを使ったって何も変わらないわよ!」
「オモチャじゃない!」
サイトは平手でドンとゼロ戦を叩き言いました。
「こいつは、コレは俺の世界の『武器』なんだよ。沢山の人を殺す、人殺しの道具だ」
「でも、でもこれが武器でも、アルビオンの戦艦相手に勝てるわけないじゃないの!戦争なのよ!軍隊にでも任せておけば良いじゃないの!」
「確かに俺は軍人どころかこの世界の人間じゃねえ。正直戦争とかどうでも良いさ。
もし少し前ならば助けようなんて考えず、一人で震えてたさ。
でもさ、でも。今の俺にはこのゼロ戦がある。
きっと、きっとこれは運命なんだ。
こいつに乗っていた人はタルブの村で幸せな家庭を作った。シエスタも、シエスタの家族も。
そのタルブを!このゼロ戦が守らないで何が守るっていうんだ!こいつの元の持ち主だってきっとそれを望んでいる!」
大きな声でそういうサイトの顔はまるで恐れを知らない勇者のようでした。
しかし、ルイズはサイトの手が震えていることに気がつきました。
「怖いくせに無理してカッコつけないで!貴方死ぬかもしれないのよ!」
「ああ怖いよ!無理してるよ!でも行く!」
「なに言ってるのよ。アンタはただの平民、使い魔じゃないの。皇子でも勇者でも無いのよ。それにアンタ!帰りたいんでしょ!そのためにその飛行機を直してたんじゃないの。もし戦争に行って、それが壊れたらどうするの!?貴方帰れなくなるのよ!?」
「ああ、知ってる。でもさ、俺は、俺はシエスタを助けたいんだ!」
「忘れちゃいなさいよ!あんな女のことなんて!」
「駄目だ!」
ガシリとサイトはルイズの両肩を掴みながら言いました。
「だめだ。それだけはダメなんだよ」
「…」
サイトの剣幕にルイズは驚いて言葉をつまらせます。
「ルイズの言っていることは正しい。
エンチラーダさんにも言われた。
目的のために、他の事は捨てろって。
その通りさ。
目的のためならば容赦無くタルブ村なんて見捨てるべきなんだと思う。
シエスタだって忘れちまうべきかもしれない。
それが正解だって事は解ってる。正しいってことは解ってる。
でもな、でもダメなんだ。
それはダメなんだ!
俺はやっぱりそれは賛同できない。
たとえそれが間違った選択でも。
俺は何も捨てずに全ての目的を達成したい!」
「馬鹿!」
「ああ、馬鹿だ」
サイトはそう言って。
そして笑いました。
気がついたら震えは止まっていました。
そして、その手をルイズの頬に当てるとこう言いました。
「わかってくれ」
「わかったわ…」
その真剣な表情に、サイトを引き止めることが不可能だと理解したルイズはそう言いました。
「わかった…私も行く」
「駄目だ、お前は残れ」
「ヤダ」
「駄目だ」
バチン!!
大きな音が響きました。
ルイズがサイトを叩いたのです。
「!」
サイトは驚きました。
そして頬をおさえながらルイズを見て。
そして更に驚きます。
ルイズは。
泣いていました。
「何も捨てないんでしょうが!私を置いていくんじゃないわよ!」
その言葉にサイトは呆気にとられてしまいました。
「そこまで大口叩くのならば!私も、タルブもあのメイドも全部、全部守ってみなさいよ!一つも捨てないで、全部目的を達成しなさいよ!ほら!行くわよ!早くしなさい!時間がないんでしょう!」
「お…おう」
あまりの剣幕で怒鳴り散らすルイズの様子に。
サイトはただそう答えるより他ありませんでした。
◇
二人の喧騒は、学生寮から微妙に死角になる場所で繰り広げられたためか、生徒たちの目に止まることはありませんでした。
ただし。テオ達を除いて。
学生寮の一番端。本来ならば使われない筈のその部屋からは、ルイズ達のやり取りが辛うじて見ることができました。
そして、その喧騒を窓からエンチラーダが見ていました。
「始まったようですね」
エンチラーダがそう言いました。
「?何が?」
眠そうに目を擦りながらエルザが不思議そうにそう尋ねます。
「戦争ですよ」
「え?」
「アルビオンがトリステインに宣戦布告をしたのですよ」
「え?え、戦争が始まったの?でもなんでわかるの?」
「戦争が起きることはわかっていました、新生アルビオンが戦争を起こすのは明白でしたから。あとはタイミングの問題です。先程城から来たらしき使者の様子。結婚式のために城に行くはずだったあの二人の喧騒と話の内容から、そのタイミングが今だと言うことが解ります」
淡々とエンチラーダはそう言いました。
エルザはテオの方を見ました。
朝早くだというのに彼はすでに起きていて、テーブルに座って一人、ぼんやりと何処かを見ています。
薄暗い部屋の奥で静かに佇む彼の表情を見て。
そして。
エルザは驚きました。
窓から差し込む朝日に照らされたその口元。
エルザの目の写ったその口元は。
静かに、笑っていたのです。
しかも其れは、何時ものテオが見せるニヤけたそれでは無く、
かと言って、稀に見せる大笑いの様相でも無く。
ただ、嬉しくてたまらないといった。
心の底からの歓喜を表すような笑顔でした。
「きた…きた…ついに来た」
小さく、其れでいながらしっかりとした声でテオはつぶやきました。
「え?」
そして、テオは叫びました。
「…吾代の春が来た」
「ええ?」
突然叫ぶテオにエルザは、もうどうして良いのかわからなくなりました。
何故、彼が戦争という単語に之ほどまでも喜ぶのか。その意味が全く理解できなかったのです。
確かに。戦争を喜ぶ人間と言うものは居ます。
商人、傭兵、あるいは聖職者等。戦そのものを生業としていたり、あるいは戦で利益を被れる者はこ開戦を喜んでいることでしょう。
あるいはテオも物を作る立場上、この戦争に対して利益を見出しているのかもしれません。
しかし、テオの喜び方はそんな俗世的なものには見えませんでした。
言わば其れは歓喜でした、
待ち望んで、待ち望んで、待ち望んできたものが、突然目の前に現れた時のような。そんな喜びようでした。
「戦争だ、戦争である。吾はこの日を一日千秋の思いで待ち続けた」
「え?そうなの?」
「ああ、国に生きるものとして。やはり戦争は命を掛けるべき義務であるからな。戦争に参加することは、吾の大いなる目標の一つである」
違和感。
その言葉にエルザは違和感を覚えました。
言葉自体は、特に不思議なものではありません。
エルザは国に生きるという概念が無いので、その気持ちは解りませんが、屡々人間が国に対する忠義のために喜んで命を落とすということを知っています。
変なのは、その言葉が『テオの口』から出たということなのです。
テオの性格、言動、行動、そのすべてが、今のテオの言葉と結びつかなかったのです。
確かにテオは、非常に好戦的な一面を持っています。
しかし、戦闘狂と言う訳ではありません。戦闘を楽しむ反面で、もし其れが出来なかったとしても別に構いはしないと言った様子だったはずです。
良くも悪くも、大半の物事に対して軽薄な質の人間なのです。
そんなテオが、何故かこと、戦争に対してだけは大きな拘りを見せています。
何が何でも参加したいと、普段のテオらしからぬ態度を見せているのです。
「でもさ、でもでも、戦争に行ったらテオ、死んじゃうかもしれないんだよ?危険だよ?危ないよ?」
たとえどんなにテオが強くても。
戦場は強さだけで生き抜ける場所ではありません。
ふとしたことで、テオが戦場で死んでしまうことは十分にありえることなのです。
「だろうな」
「だろうなって…」
「確かに戦場では個人の強さは絶対では無い。どんな達人でも容易に死んでしまうことが相応にしてある。エルザの言うとおり、吾は戦場で死んでしまうかもしれないな」
「そんな…なら、なんで、なんで…」
エルザはテオのその言葉が信じられませんでした。
なぜ自ら進んで死地に行きたがるのか。エルザには全くもって理解が出来なかったのです。
そして、テオの口から出た言葉。
それはエルザが思いもよらない言葉でした。
「なぜって…人は皆、いずれ死ぬだろう?」
笑顔でそういうテオの様相を見て、エルザは愕然としました。
そして。
その時になって初めてエルザは理解するに至りました。
テオのこの自信。そして危険を顧みないその行動。
今まで彼がとってきた危なっかしい行動の、その理由を。
テオは勝つ自信があるから、戦いを好むのではありません。
テオは死なない自信があるから、危険を好むわけでもありません。
テオは、エンチラーダに対して大きな感情があるから彼女の裏切りを見逃して居る訳ではありません。
彼は。恐れていないのです。
自分自身が死ぬことを。
まるで死を恐れない。
それは、単に死ぬ覚悟が出来ているのとは違います。
欠落しているのです。
死ぬことに対する恐怖をテオは感じていないのです。
自らの楽しみという目的のために、自らの命も簡単に犠牲にしようとしているのです。
「やはりタルブ村が開戦の場か?」
落ち着いた声でテオはそう言いました。
「ええ、あの二人の慌てかたを見るにそのようですね」
エンチラーダは窓の外に目を凝らしながらそう言いました。
タルブ村。
その名前を聞いて、エルザは驚きました。
「タルブって、前に行ったあのタルブ!?」
「トリステインには他にタルブという名前の場所は無かったと思うが」
「え?じゃあいまあそこで戦争が起きてるの?」
「ああ、そうとも…だがエルザ、恐らくだがさしたる被害は出ないさ。戦争というのはな初戦が大切だ、であれば吾が何もしないでそれを見ている道理は無いな。
吾は、実績を作らねばならぬのでな、少しばかり早めに美味しいところをもらう」
「なにか、するつもりなの?」
エルザがそう問いました。
その問いに対してテオは笑いながらこう言いました。
「いいや。何も『する』つもりは無いさ。
すでに『した』のだからね」
◆◇◆◇◆
空の上を500㌔近い速度で飛行機を飛ばし、体中に圧力を受けながらサイトは必死で飛行機を飛ばしていました。
早く。
少しでも早くタルブに着くために。
そして。
そして彼らは。
タルブの空でそれを見てしまうのでした。
「なんだよあれ」
思わずそんな言葉が出てきました。
それは。
それはあの邪神像でした。
いえ、今は像ではなく、邪神そのものと言えました。
なにせ動いているのですから。
それは、それの上を雄大に動き回りながら、竜騎士隊と戦っていました。
いえ。戦っているという表現は語弊が有るでしょう。
それは戦っているのではなく。蹂躙していたのです。
ルイズはその様子を見て、怯えたように叫びました。
「あ、あ、あ、あ、あれ何!?何よ!なんであんな怪物が軍隊と戦っているの?トリステインの新兵器?いえ、アレは封印されていた邪神か何かだわ!なんてこと、アルビオン軍は目覚めさせてはいけないものを目覚めさせて…」
「いや、あれテオが作った邪神像」
「なんですって?アイツの美的センスは壊滅…って。え?なんで像が動いているの?」
「さあ、知らねえよ、そういう魔法があるんじゃないのか?」
「ってことは…ガーゴイル!?何?嘘?テオはあんな大きなガーゴイルを創りだしたってこと!?」
「そんな珍しいのか?」
「…珍しく…は無いわ、結構普通の魔法よ。ガリアなんかでは軍でも使われてる。でもね、誰にでも使えるものじゃあ無いわ、特にトリステインでは。一人の学生がそんな簡単に作れるものじゃないのよ」
「まあ…テオだし」
「その一言で納得してしまえるのが悔しいわ」
そう言ってルイズは歯ぎしりをしました。
テオ。
テオ。
まるでテオはこの状況を知っていていち早く対策をとっていたかのようです。
今回だけではありません。
フーケと戦った時。
アルビオンに行く途中で盗賊と戦った時。
彼はその状況をほぼ一人で戦い抜き、解決しています。
まるで、ルイズたちなど、最初から必要が無かったかのように。
そして今回も。
自分達がタルブに駆けつけるよりも早く、テオはこうしてアルビオン軍と戦っているのです。
まるで自分達がテオの手のひらで遊ばれているような気がして、ルイズは非常に気分が悪くなりました。
「兎に角、俺達も!」
サイトがそう叫びました。
トリステインとアルビオンの戦争は、こうして開始されたのです。
◇◇◇
「全滅だと?…たった二匹の竜によって?」
タルブ草原の上に遊弋していたレキシントン号の甲板で報告を聞いたトリステイン侵攻軍総司令官サージョンストンは呆然とそう言いました。
そして次の瞬間にはその顔を真赤にして怒鳴りました。
「フ、フザケルナ!20騎以上の竜騎士が、たった二匹の竜に全滅だと!?」
伝令は総司令官の剣幕に怯え、後退りましたが、そのまま報告を続けました。
「敵の竜騎兵は、一体はありえない速さで敏捷で飛び回り、射程の長い強力な魔法攻撃を放ち我が軍を圧倒、もう一体は石のような体でこちらの魔法にびくともせず、我軍を蹂躙したとか…」
ジョンストンは伝令に掴みかかりました。
「ワルドはどうした!あの生意気なトリステイン人は何をしているのだ!」
「石のような竜に落とされたと聞いています」
「あの役立たずが!!これだからどこの…」
そこで艦長のボーウドが二人の間に割りこむようにして、その会話を遮りました。
「兵の前でそのように取り乱しては指揮に関わります、総司令官殿」
「何を申すか!竜騎士隊の全滅は艦長!貴様のせいだ!貴様の稚拙な指揮が貴重な竜騎士隊の全滅を招いたのだ、そうだ、そうに違いない。このことは閣下に報告する、するぞ!!」
ジョンストンはそう喚きながらボーウッドに掴みかかりました。
ボーウッドはそんなジョンストンに対して、少し眉を下げると、そのまま彼の腹部に杖を勢い良く叩きつけました。
ジョンストンは白目を向き、その場に倒れ、ボーウッドは彼を運ぶよう指示を流します。
そして、コホンと一つ咳をすると、自分たちに注目している兵士たちの方を向きました。
「竜騎士隊が全滅した所で、我々を筆頭に全軍は未だ顕在だ。安心しろ、我々の勝ちは揺るがんよ、諸君らは安心して勤務に励みたまえ」
新兵を安心させるよう、余裕をもった笑顔で、ボーウッドはそう言いました。
実際彼の言うとおりでした。
そもそもの相手の数が多すぎます。
テオのガーゴイルは単騎で善戦していました。
サイトもゼロ戦を巧みに操り、アルビオンの竜士隊を撃ち落としていきます。
しかしサイトとゴーレムが敵を倒しても。未だアルビオンの兵は多くいましたし、それに対してトリステインの兵はあまりにも少なすぎました。
戦況ははっきりとトリステインにとって不利。いえ。
はっきり言って勝ち目がありませんでした。
それは空にいるサイトにしても明白にわかることで。余りにも不利なその状況に、焦りを通りこした絶望を感じ始めまていました。
そして、そんな時。
ルイズの声が響くのです。
「サイト!」
「なんだよ!大人しくしてろよ!」
「その!信じられないんだけど!私、私選ばれちゃったかも!」
「はあ?」
「とにかく!これをあの戦艦に近づけて!ダメかも知れないけど、何もしないよりは、やったほうが良いわ!そうよ!とりあえずやってみるわ!」
ルイズはひとりごとのようにそう言いました。
「ルイズ、大丈夫か?意味がよくわからないけど…」
「とにかく近づけなさいよ!!」
ルイズのその剣幕に、サイトはしぶしぶといった様子でゼロ戦を戦艦へと向かわせました。
大砲の唯一の死角である、船の真上へ。
ルイズの放つ「虚無の魔法」が、レキシントン号を撃ち落とすのは、そのすぐ後のことでした。
伝説の魔法。
そして、『ゼロの使い魔』というお話の、象徴とも言えるこの魔法。
ある意味。
今、長い長い英雄譚は。本当の意味で始まろうとしていました。
ルイズの放った虚無の光は、遠く離れた魔法学院の学生寮の窓にも薄っすらと映りました。
それを見て、テオはトリステインの勝利を確信するに至りました。
「初戦は我々の勝ちだ。しかしな、これで終わりじゃあない。むしろこれから始まるぞ。吾が長年求めてきた。人の死が、何よりも身近になる一大イベントがな」
テオはその光が、ルイズの放った虚無で有ると知っていました。
そして彼は笑います。
「伝説の光によって、戦争の幕が上がる。伝説。大いに結構じゃないか。戦争の幕開けには相応しい。せいぜい吾の花道を用意してくれ」
グラスのワインを眺めながら。
「そして、そして、吾はそれを超える伝説となるのだからな」
テオはそういいました。
(おまけ)
その焦げ臭い匂いにトリステイン侵攻軍総司令官であるジョンストンは目を覚ましました。
彼は寝起きの辺りを見渡し、その状況に驚愕をします。
そこかしこから悲鳴が広がり、皆が思い思いに逃げ惑っています。
あるものは必死に消火をし、ある者は必死に魔法で船を浮かせようと。
また、ある者は泣き叫び、そしてあるものは混乱してへたり込んでいます。
あの雄大で巨大で力強かったレキシントン号は、今まさに落ちようとしていたのです。
ジョンストンは混乱し、どうすべきかを必死で考えましたが、そのような状況で冷静に考えることなどできようはずもありません。
元々特別理性的と言う訳でも無い彼の脳は、この状況を打開する案ではなく、とにかく今生き延びたいという、本能的な衝動によって支配されていました。
危険な状況に陥った時、人間が本能的に取る行動。それは逃げることです。
ジョンストンもその例に漏れず、とにかくその状況から逃げようと船の縁に走りました。
それは別に彼だけの考えではなかったようで、船の縁には我先に逃げようとフライの魔法で船から飛び出すメイジたちで溢れていました。
ジョンストンは彼らを掻き分けるように船の縁に着くと自分もフライの魔法を唱えようとして、そして。
そして。外を見ました。
その時彼はこの世の中で最も恐ろしい物を見てしまいます。
彼よりも少し早く逃げたメイジ達を、次々と食らう竜の姿を。
その竜のあまりの恐ろしさに彼は叫びをその口から発すると、そのまま狂ったように船内に走り戻って行きます。
「何だ?私は今何を見た?あり得ない!あり得るはずがない!あんなものと戦っていたなんて!」
大声で喚きながら、彼は船内に逃げ込みます。
その様子は如何にも異常でしたが、周りの人間達は消火や浮遊の魔法、あるいは逃げることに忙しく、それを気にする者はいませんでした。
「あれが、あれが竜?なんでこの船に来ている?まさか、私を狙っていたのか?──早く、早く逃げなければ!私の命が──」
ジョンストンはそう叫びながら、とにかく一番最初に目についた部屋に飛び込みます。
鍵をかけ、荷物をドアの前に置くと、物陰に隠れるようにして其の身を縮めました。
外は相変わらずの喧騒で、大きな音が鳴り響いています。
「ドアが音をたてている。何かつるつるした巨大なものが体をぶつけているかのような音を──」
震えながら彼はそう言いました。
実際その音は消火活動をする兵士が立てている物ですが、恐怖に支配されたジョンストンは、アノ竜が今にもその扉から入ってくるような、そんな妄想に取り憑かれていました。
「そうだ、荷物に隠れよう、そうすればドアを押し破ったところでわたしを見つけられはしない」
そう言って立ち上がった彼は、ある一点に視線をやったまま、固まってしまいました。
「や、そんな!──あの手は何だ! 窓に! 窓に!」
それがジョンストンの最後の言葉でした。
◆◆◆用語解説
・ベルヌーイの定理
よく揚力の仕組みの説明に使われる。……が。
勿論ベルヌーイの定理が揚力とは無関係と言うわけではないが、その理屈だと背面飛行は不可能だし、上下対称の膨らみをもつ翼の飛行も不可能になってしまう。
飛行機の揚力においてベルヌーイの定理はあくまで一要因にすぎないのだ。
・フィン
ヒレという意味。転じてスクリューのこと、
この場合はプロペラを指す。
・揮発
零戦…というか、当時の戦闘機は以外なことに(当時の日本の基準では)ハイオクなガソリンを使っているようだ。これは現代のスポーツカーがノッキングを防ぐためにオクタン価の高いガソリンを必要とするのと同じ理由。海軍〈零戦〉よりも底質の燃料を使っていたとされる陸軍(隼)でも、実際航空燃料でいえば使っていたのは八七揮発油より九一揮発油の割合のほうが多い。
・アルコホル
アルコールのこと。
アルコールを燃料とするエンジンは一応ある。第二次大戦中も研究はされていたが、実用化はされなかったようだ。
ガソリンにアルコールを混ぜたものはあったようだが、目的は「割増」ではなくオクタン価向上剤としてではなかろうかと筆者は想像している。
ちなみに原作ではコルベールがアルコールランプを使っていたが、アルコールの濃度は不明。
・概ね液状の石炭
石炭から人造石油は作ることは出来る。
第二次大戦中は日本にも人造石油工場があったが、途中爆撃破壊されどれほどの量が生産されたかは不明。
もしかしたら作中のゼロ戦の燃料が人造石油である可能性も低確率ながら存在する。
・きた…きた
魔王ギリさえもが嫌がったという伝説の踊り…では無く、来た来たと、テオが開戦を喜ぶ様子。
当然だが主人公は脇でおにぎりを握ったりはしない。
・我が世の春が来た
絶好調である!
・ガーゴイル
本名ネメシス・ラ・アルゴール
元祖手袋をしながら指パッチンの御方。
「渋カジが山へ行ったら山火事だ」の句でお馴染みの、偉大なる指導者である。
ネオアトラ!!
・窓に! 窓に!
まあ、お約束ですよね。
ジョンストンのSAN値が最終的にほぼゼロになっている。
・SAN値
理性値と置き換えても良い。正気度を現すパラメータ。これがゼロであれば発狂していると受け取って良い。まれにSUN値と書かれるがそれは間違い。
・SUN値
たぶんサンマイクロシステム度数を現す数値。UNIX全般の事をソラリスと言ったり、CPUをSPARCと言ったり、オラクル社の事を未だにサンマイクロと言い張ったりする人間は、このSUN値が高いと見てよいだろう。