『風』と『火』、二つの塔の間にあるヴェストリの広場。
学院の西側、日当たりの悪いそこは食後に一休みしようなんて思うような快適な場所ではなかった。
しかし、今や中庭は押し寄せた学院の生徒達で埋まっていた。
ごった返す生徒達の間に混ざって広場を見守るルイズは、眉をひそめ不満も露に垣根の心配をしていた。
勿論、ギーシュに負けるとか大怪我をするとか、そんな事は考えてもいない。
頭を悩ませているのは、その逆だった。
(ほんとにもう……オークや火竜じゃないんだから。頼むから暴れて周りに迷惑かけないでよ)
むくれて腕を組みながら、ルイズは広場の中央に進む垣根を睨んだ。
攻撃的な態度を隠しもしない垣根を見ていると、ルイズは人慣れない凶暴な幻獣を前にしたような気分になる。
勝手はする。
制止は聞かない。
おまけに手どころか何だか物騒な翼が出る、となるともうどう対処したものかわからなくなってしまう。
しかし、垣根も人間だ。
本人がしないと言ったからにはギーシュにそこまでひどい事もしないだろう。
まだ掴めない使い魔の、良心を信じるくらいしか今のルイズには出来なかった。
「とりあえず、逃げずに来た事は誉めてやろうじゃないか」
「その台詞、テメェにそっくり返してやるよ」
生徒達の歓声に応え、腕を振っていたギーシュは相変わらずの気取った調子で歌うように口にする。
対する垣根は、どこか気の無い様子だ。
身構えず、逸らず。
広場の熱気も、目の前のギーシュさえ関係がないような。
そんな温度の低い目をして立っていた。
「さてと、では始めるか」
薔薇の造花を弄んでいたギーシュは、余裕たっぷりにそう言うと地面に向かって優雅に杖を一振りする。
舞い落ちる花びら、そして囁くような詠唱の後に現れたのは甲冑を着込んだ女戦士の像。
薄く指す日に金属製の肌を照り返す乙女は恭しく礼をしてみせた。
満足そうにそれを眺めたギーシュは、垣根に見下すような目を向ける。
「僕はメイジだ。だから魔法で戦うが……よもや文句はあるまいね」
「いいや。しかしそれも魔法か。面白え」
まるで称賛するように軽く口笛を吹くと、垣根はギーシュの魔法を窺うように目を細めた。
「言い忘れたな。僕の二つ名は『青銅』。青銅のギーシュだ。従って、青銅のゴーレム『ワルキューレ』がお相手するよ」
芝居の幕開けのように、気障ったらしく名乗りを上げるとギーシュは広場を振り返った。
愉快そうな声援が応える。
ちらほらと平民を哀れむような声も混じっていたが、それも嘲笑に過ぎない。
「ああ、後これは僕のほんの心遣いだ」
ギーシュは微笑んでまた杖を振ってみせた。
花びらが一枚地面に落ちると、たちまち一本の剣に変わる。
ザクリ、と音を立ててそれは垣根のすぐ横に突き立った。
ギーシュが投げて寄越した剣はどうやらお情けのつもりらしい。
「わかるかな? 剣、つまり『武器』だ。平民どもが、せめてメイジに一矢報いる為に磨いた牙だ。魔法を前に、臆せずそれを突き立てる気があるのなら、その剣を取りたまえ」
「わざわざどーも。しかしなあ、切れんのかそれ。青銅だろ? 叩いて使うレベルじゃねえの。平民如きにゃこれで充分なのか、それともその面ボコボコにして欲しいのか」
垣根はあまり興味がなさそうに地面に刺さった剣を眺めてから、ギーシュに向かって口元を歪めた。
「ちょっとテイトク、あんまりふざけないでよね」
見かねてルイズは声を上げた。
「黙って見てろ御主人様。くだらねえショーもどうせすぐ終わりだ」
顔を顰めたギーシュに対し、ルイズを軽く仰いだ垣根は火に油を注ぐような事を言い放つ。
それに眉を寄せるルイズの目に、ふと見慣れた派手な頭がこちらを向いたのが映った。
この群衆でも目立つ赤い髪、キュルケは近くの人垣を払うとルイズの隣に並んできた。
「あらルイズ。彼、止めなくていいの?」
「もう止めたわよ。でもあのバカったら聞かなかったの。後は無事を祈るしかないわね」
文句も言った、ルイズも出来るならきちんと説得もしたかったが、元より大人しく言う事を聞く垣根でもない。
一応、立場は平民である垣根に生徒の、貴族の決闘が禁止されている、なんて事は止める理由にもならなかった。
「何だかんだ言って心配してあげてるんじゃない」
微笑ましそうにキュルケはくすりと笑ったが、ルイズは首を振った。
「祈るのはあいつじゃなくてギーシュの無事よ」
訝しげに使い魔を眺めてため息まで吐くルイズに、キュルケは不思議そうに首を傾げた。
「後、何だ。こう言うのってこっちも名乗るもんなのか?」
「まあ、決闘の際は互いに名乗るものだが……」
それは貴族同士の決闘におけるマナーだ。
しかし、平民の名前を聞いた所で大した意味はない。
「まぁ、いいや。俺は『
未元物質』帝督・垣根だ。わざわざ覚える必要はないぜ? イヤでも忘れられなくなるだろうからな」
「くっ……そんな口が利けるのも今の内だ」
ギーシュがさっと杖を向けると、ゴーレムは素早い動きで進んだ。
重厚そうに見えて、人間並みの速度で動く。
無手だが、固く握られた重い拳が振るわれればその破壊力は人のそれとは比にならないだろう。
それを防ぐ手段も無ければただの人間など、今のように一対一であっても相手にならない筈だ。
しかし、目の前に迫るゴーレムにも垣根は顔色を変えなかった。
ポケットに手を入れたまま、防御の構えすら取らずに立っている。
その無防備な腹にゴーレムの拳が叩き込まれた。
グギリ、と低い音が洩れる。
どっと観衆が沸いた。
しかし。
「瞬時に構築、操作ときて魔法ってのもなかなかだと思ったが……実際威力はこんなもんか」
拍子抜けだと言わんばかりに、垣根はそう洩らした。
その顔は恐怖にも苦痛にも歪んでなどいない。
期待を裏切られたギャラリーからはざわめきが上がり、ギーシュは片眉を顰めた。
ルイズは、つい閉じてしまった目を開けて垣根を見ると。
一瞬首を竦めてから頭を振った。
我侭で傲慢で自分勝手な彼女の使い魔は、ほんの少しだが愉快そうに笑っていた。
「まぁ、それでも強能力者程度にはやれそうだな」
ギーシュが振った杖に合わせるように下がるゴーレムの腕は、遠目には分かりづらいかもしれないが手首の辺りから曲がってしまっていた。
「……頼むわよーテイトク。こんな私じゃいざって時あんたを守ってあげられないんだからね」
ルイズは呟くと手の中の杖を確かめるように握った。
実家が公爵家だろうが何だろうが。
まだ学生の、それも『ゼロ』の彼女に出来る事は少ない。
今までだってそうだった。
(こんな事気にするくらいなら、もっと強く止めればよかったの? すごい能力者だって言うあいつに、私が?)
しかし立て続けに思い知る自分の無力さに、ルイズは黙って唇を噛んだ。
俯いた顔に掛かる髪が邪魔そうに揺れたが、それを掃う素振りは無かった。
* * *
後ろ、横、斜め、前に半歩進み体を開く。
まるでダンスのステップでも踏むように、軽い調子で垣根は動いていた。
BGMはギャラリーの罵声と目の前のゴーレムが立てる耳障りな金属音。
そして時折近くを過ぎる拳の風切り音だ。
(実際めんどくせえよなあ。あんまり目立っても何だろ? けど、能力使った所で平民じゃねえだの魔法だの。仕舞いには幻獣だとか、そんなの馬鹿な連中には勝手に言わしときゃあいい気もするが……)
そう考えていた垣根の頭によぎったのは、学園都市の事だ。
垣根自身は数少ない
超能力者として酷使もされてきたが、レアケースとしてある意味大切にも扱われていた。
事実、垣根自身を使い潰すような実験には積極的に参加はさせられていなかった。
まあ、得られるメリットによっては更に人道無比な実験も行われただろう。
その点は、垣根も特に気にしない。
(あそこまでじゃなくとも、珍しがってあれこれしてこようって連中が居ないとも限らねえ。こっちは雰囲気からして、宗教絡みの異端審問とかのがありそうか? まぁ、碌なフォローが期待出来ねえのにこんなギャラリーの前で派手な動きはしないほうがいいかもな)
そんな事を考えながら、垣根は涼しい顔をしてゴーレムの攻撃を避け続ける。
一般人程度のスピードで、ただ殴りかかってくるだけの人形など大した相手ではなかった。
最初は興味があった『土』魔法も、あのドットメイジは今のところこのゴーレム以外は使ってこないらしい。
足止め、不意打ち、幾らでもやりようはあると昨日今日魔法の知識を齧った垣根でさえ思うのにそれをしないのは、それほどまでに見下されているのか。
レベルの低いお坊ちゃんには難しい話なのか。
そしてそのゴーレムも、動力が電気か魔法かの違いのようなもので、学園都市でもよくあるロボットや駆動鎧のような装備とそう変わらない。
しばらく見てしまえばすっかり飽きていた。
そんな魔法の観察よりも、垣根は能力を派手に見せず、効果的にあの貴族を下して終わるかに思考を割いた。
問題らしい問題と言えば。
垣根にはいわゆる喧嘩の経験がほとんどない事くらいだ。
いつだって、ほんの少し能力を使えばそれで全て終わってしまう。
一方的な蹂躙、破壊と言う意味ならプロの域かもしれないが、単純な殴り合いなら垣根はてんで素人同然だった。
「よっ、と」
ガィン!! と金属の打ち合うようなやけに鈍い音が響く。
垣根は軽い調子で片足を上げると、ゴーレムの腹に靴底で蹴りを入れた。型も何もない、ただ脚を振り上げ、下ろしただけだ。
バランスを崩した所でもう一発。それだけでゴーレムは呆気なく後ろに飛び、地面に転がった。
すぐさま垣根は背を向ける。
足を向ける先はギーシュが投げてよこした剣だ。
それを抜き上げ、無造作に放るとゴーレムは標本箱に留められた虫のように地面に縫い止められた。
その腹には虫ピンの代わりに剣が、鍔近くまで深々と刺さっている。
ゴーレムは起きあがろうと手足を動かしたが体を起こす事は出来なかった。
なまじ人の形をしているだけに薄ら寒い、滑稽な光景だった。
再びそこに垣根は近付くと、仰向けに横たわるゴーレムの肩を踏み締めた。
「さーて、次はどう来るんだ? 魔法使いさんよ」
グシャア! とまるで粘土細工のように、垣根の足の下で青銅のゴーレムが歪む。
「……思っていたよりはやるじゃないか。なら、これはどうだい?」
軽く引きつった頬で笑うと、ギーシュは杖を振るい花びらを再び撒いた。
続いて現れたのは五体のゴーレム。
武器を手にした戦乙女が並んだ様はなかなかの壮観だった。
「いいぞー生意気な平民をしめてやれ」
「ギーシュ、遊んでないでやっちまえ!」
娯楽の少ない学院生活で憂さ晴らしを期待する観衆は色めき立っていた。
その一方、新たな刺客を向けられた当の本人の態度はまるで違った。
「なあ」
きょとんと、一瞬目を丸くして。
垣根はギーシュを眺める。
「馬鹿の一つ覚え、って知ってるか?」
知らねーかな、と呆れたように呟くと垣根は左手で頭を掻いた。
「お勉強出来てよかったな。あー、つまんねえ、これじゃまるで俺が悪者だ」
まるで興醒めしたように呟くと、コキコキと首を鳴らす。
「ついでにこの辺で一つ、絶望ってのも経験しとくか?」
* * *
ギーシュは、ただただ目を見開いていた。
思いもしなかった。
信じられなかった。
だが、目の前の状況は確かに曲げようのない事実だ。
一体でも。
五体でも。
まとめて、引きつけて、囲んで。
どうゴーレムを動かしても、どれだけ時間が経っても。
ゴーレム達によってたかって殴りかかられたと言うのに、あの平民は倒れなかった。
いや、見事な身のこなしと平然としたあの態度では――信じがたい事だが、ろくな傷すらついていないかもしれない。
ただの平民が、貴族の魔法を前にして。
そんな事があるのか。
ギーシュの頭は余りにおかしな、非常識なその事態にどうすればいいのかわからなくなっていた。
ゴーレムが次々と壊されてから後、不満そうに上がり煽る周囲の声はもう耳に入らなかった。
そうしてぼんやりと立ち尽くすギーシュに、身の程を教えてやるはずだった相手は。
ルイズの使い魔の少年はつまらなそうな顔をすると小さく肩を竦めた。
無造作に、手にしていた曲がり、折れ傷んだ剣を投げ捨てる。
「なんだ。創造は出来ても想像は出来ねえみたいだな。別に、テメェをああしても良かったんだぜ?」
そう言って平民の使い魔が親指で背後を指し、示したのは最初に壊されたゴーレムだった。
腹を深々と刺され、上半身を踏み潰された女性形の
ワルキューレだったものが転がっている。
平民の、垣根の言葉にギーシュは目を剥いた。
「そ、んな……僕は貴族だぞ」
「貴族は痛い目みねえのか? 殺されねえのか? テメェのクソみたいな認識が、常識が通じると思ってんのか? それともそっちのが好みかよ」
続いて示されたのは文字通り叩き斬られた残りの五体だった。
鈍器のような剣で無理矢理潰され、割り砕かれ歪んだ醜い断面を晒している。
「そもそも仕掛けて来たのはテメェだろ。人が親切に言ってやったってのによ。あ、やる気はあってもやられる覚悟はねえとか今更つまんねえ事言わねえよな?」
ムカつくからよ、と呟いて。
軽く、だらしないシャツの裾をはたくと垣根は空になった手をズボンのポケットに入れた。
一歩、二歩。
彼はゆっくりとギーシュに向けて歩いてくる。
「で、どうすんだ。テメェは俺の敵か? まだ刃向かってくる気があるなら、来いよ。人形でもテメェでも構わないぜ」
知人に声を掛けるような、そんな気安い程に軽薄な声だった。
しかしその目にこもる残忍な色を垣間見たギーシュの肩が震えた。
目の前の平民はやる、と言っているのだ。
出来る、ではない。
その差は大きい。
やろう、と決めて動くなら本来それには魔法さえいらないのだ。
自分の腕でも足でも、その辺りに転がる棒切れでも地面の石でも着ているシャツでも構わない。
炎の玉を、風の槌を、氷の刃を、岩の弾を必要としなくとも人は傷付けられる。
人は、殺せる。
人一人容易く傷付ける手段を両手に溢れる程持つ筈のメイジが、それを持たない筈の丸腰の平民に怯えていた。
それは、彼が持たないものを平民が持っていたからだ。
明確な殺意、傷付ける為の意志。
それを込めて振るわれる力などギーシュは知らなかった。
まして、自分に向けられるなんて考えた事さえない。
まるで未経験の感覚。
つう、と冷たいものがギーシュの背筋を伝った。
全身に広がるその悪寒に、杖を握り締めた手が頼りなく震えていた。
後、一体。
即座にゴーレムを『錬金』し盾にするくらいの事は出来る。
だが。
その後は?
最後のゴーレムを潰されたら?
その後は、次はどうなる?
見たくもないのに、意思に反してギーシュの視線は目の前の少年から更に後ろに吸い寄せられる。
グシャグシャにされた人型の残骸の山。
脳裏で、自分の姿がそれに重なる。
理解は出来ないが、この場に圧倒的に君臨する少年はギーシュの元へと近付いてくる。
三歩、四歩、五歩。
もう、二人の距離はあれから半分も開いていない。
恐らくは、その歩幅が自分の寿命なのだとギーシュは知った。
距離がゼロに達した時、命が尽きるかもしれない。
そして目の前の少年は、ギーシュと変わらない年頃の彼は、きっとそれを躊躇わない。
次第に近付いて来る。
冷め切った目を見てそれを実感した瞬間、声にもならない嗚咽がギーシュの喉をついた。
花びらのほとんどを失った造花の杖がその手からぽろりと落ちる。
そんな事など思いもしないだろう、呑気に見ていただけの生徒達の間から残念そうな、呆れたような声が次々と聞こえた。
しかし、垣根の足は止まらない。
「あ、ま……まて」
「んー? 聞こえねえな」
薄く笑う彼の顔は、楽しんでいるようだった。
そう言って更に一歩踏み出した垣根の目の前が突如爆発した。
広場に、一瞬の静寂が広がった。
「何だまたかよ。水差してんじゃねえ」
唇を尖らせて、まるで諌められた子どものように不満そうな顔をして。
垣根は群衆のうち一点を睨んだ。
「もう止めなさい」
杖を翳したルイズがその先には立っていた。
毅然とした主人の声で、小さな少女は離れて立つ自分の使い魔と確かに対峙していた。
「へえ、今度はお友だちの肩もつってのか。なかなかご立派な心掛けだなルイズ」
「そうじゃないわよ。杖を落としたら決闘はおしまい。あんたこれ以上続けてみっともない真似する気なの? 使い魔の恥は主人の恥なんだから」
「そんなルールあんのか。早く言えよ」
場外から終了を宣告され、すっかり興味を無くしたらしい垣根はギーシュに最早目もくれずあっさりとその場を離れた。
「ちょっと、テイトク? どこ行くのよ」
「ん? あの木陰とか具合よさそうだろ、ちょっと昼寝してくる。何か気遣ってやったら、却ってこっちが疲れちまったんだよ」
呑気にそんな事を言って主人から遠ざかっていく使い魔とそれを追う主人の姿。
ギーシュはただぼんやりとそれを目で追っていた。
ガクン! と足の力が抜けて無様に膝を着いたが、構っているような余裕はギーシュにはなかった。
思い出したかのように耳に響く、鼓動の大きさに何故かほっとしていた。
緊張の糸が切れて、やっと息を吐けたような気がしていた。
* * *
コルベールは、眉を寄せたまま口を開いた。
静かな、感情を押し殺したような声だった。
「オールド・オスマン。彼は」
「勝ったが、それだけだったのう。ワシらの心配も無用に済んだ。あの様子では、ミスタ・グラモンは遊ばれていたようじゃな」
遠く、学院長室で成り行きを窺っていた二人もまた、ほっと息を吐いた。
「さて、あれは『ガンダールヴ』の能力なのか、はたまた彼の未知の力なのか。興味は尽きないのう」
「では」
気遣わしげにコルベールはオスマンの結論を待っていた。
コルベールは先程、王宮の指示を仰ぐ事も進言していた。
万が一つ、『始祖の使い魔』の再来などと言う事態が起きれば王家や教皇府に黙っている訳にもいかないだろう。
しかし、オスマンは重々しく首を振ると白い髭を揺らした。
「確証がある訳でも無し、ワシの一存でまだ仔細は伏せておく事とする。特に『アカデミー』には漏らすまい。次第によっては彼女達の為にならない事の方が多くなりそうじゃ」
そんな学院長の英断に、しかしコルベールの顔は晴れない。
「危険かも知れない存在に極めて珍しく貴重なルーンが刻まれた。この事態はどう対処するんです」
「ワシの一存じゃからの、いざとなればワシがなんとかするしかないじゃろうなあ」
いやじゃなー、なんてとぼけた様子で口にする老人に、コルベールは返す言葉がなかった。
単に、ふざけている様子ではなかった。
宙を仰いだ目はどこか遠くを眺めていたが、真剣みを帯びている。
説得力、と言うより重厚な岩のような存在感が、言葉に偽りがない事を示しているようだった。
昨日に続き、この枯れ老いたようにみえるメイジは、一筋縄ではいかない上にやはり底がしれないとコルベールは感じていた。
「あ、そうじゃった」
ふと呟くと、オスマンはテーブルの脇に積まれた書簡の山をごそりと漁る。
億劫そうに取り出した一通の手紙を一瞥すると深く、うんざりとした息を吐いた。
上等そうな封筒に紋入りの封蝋、どこかの貴族から、生徒の家からの手紙のようだった。
「彼女の実家から娘の進級の是非について一報をと請われておったんじゃった……そんなのわざわざ学院長に聞かずに娘に一言尋ねれば済むと思わんかね?」
まったく、近頃の親の過保護さはと呟くとオスマンは首を振る。
「じゃが、あの子にしてあの親御さんは黙っておったら『フライ』でここまで乗り込んできかねないからのう。取り敢えずは『進級には何も問題ない』としておけば……どうじゃろうコルベール君」
「間違ってはいないでしょうが、それ以外の点に問題がありすぎる気がしますよ。オールド・オスマン」
「正直に『お宅の娘さんがそりゃもう
飛び切りステキな青年と契約しましたよ』なーんて書いたら」
「……どうなるんです」
尋ね返すコルベールにちょん、とオスマンは翳した片手で自分の首の側面を小突いた。
「最悪、ワシと学院がヤバいかも」
ふざけた言葉とは裏腹に、オスマンの目はどこか真剣だった。
不意に、それまでの硬い表情を崩したコルベールは本を抱え直すと一礼した。
「学院長の一存にお任せしますよ」
「あ、ちょっとコルベール君! 君も少し休んだ方がいいじゃろ。良かったら休暇ついでに手紙を届けてくれんかね? おーい」
静かにドアの閉まる音を残して、オスマンはまた部屋に一人きりになってしまった。
彼の唯一の友人は、まだ秘書の手に拘束されている。
独り寂しい老人はがっくりと肩を落とした。
=======
今回ろくに出番の無かった『未元物質』と『ガンダールヴ』、そして無駄に怖い思いをさせられたギーシュに合掌。
ついでにオスマン氏にも。上げるとその分下げたくなるので。
垣根はどうしてやろうかな。
あと禁書新刊が来年一月だそうですね!
今から楽しみで楽しみでちょっと不安もありますが、垣根の復活フラグから登場フラグに昇華した可能性が嬉しくて仕方ないです。
ので、更新頑張ってます。
せっせと書いて出来次第、年内は精一杯進めていきますので、どうぞはしゃぎっぷりを生温かい目で見てやってください。
筆者は垣根がまたひどいことにならないことを全力で祈っています。