「……ここはどこだ?」
男が目を開く。その男は数十年着古した冬物のコートを身に纏い、灰色の髪から覗く彼の頬は痩せこけ、目も窪んでいる。
全てが燃え尽き、残りカスの灰色を体現したかのような男は見覚えのない部屋で覚醒した。
豪華な一室。素人目に見てもその意匠が窺える見事な品々が調和をもって配置されている。
その様な場所に見覚えのない男は記憶の糸を手繰った。確か自分は地獄の地下迷宮にいたはずである。
魔法を消去する悪鬼が住まう≪地球≫と呼ばれる地獄。かつてチンケな罪で地球(地獄)送りにされ、果たすべき責務を放り出し、ただ必死に生きながらえてきた。
世界に怒りをぶつけてみても、自分に変えられるものなど何もなかった。
大きな力に翻弄され、そしてわけも分からぬうちに始まった大決戦。
神話の御伽噺に出てくるような大魔法使いから命からがら逃げ出したかと思いきや、死肉をあさる吸血鬼たちから味方を守る代償として、自分は倒れた――はずであった。
「――目が覚めて第一に言うことがそれ? 貴方、他に言うことがあるんじゃないの」
突然、背中に投げかけられた鈴の音のように涼やかなソプラノ。
振り向くとそこには少女が立っていた。その髪は流れるようなピンクブロンド。そして鳶色の瞳に強い意志が宿っており、目鼻立ちからは気品を感じられる。
しかし彼女は腕を組み、仁王立ちで構え、その表情は憮然としていて、不満気である。
「他にだと?」
他に聞きたいことは山ほどある。が、彼女の望んでいるものが何なのか分からず、男は唸るのみであった。
そんな男の様を見かねて少女はため息を付く。
「……あのね。あんた死にそうなほどの大怪我を負っていたの。水の使い手をたくさん集めて、高い秘薬も使ってやっと治ったんだから、まずは感謝するのが先でしょ」
これだから平民は、とため息混じりに少女がこぼした。
「大怪我……」
そうだった、と彼は思い出す。
あの時、瞬時に体の臓器のいくつもを瞬時に破壊され、そして最後の力を振り絞って抵抗したものの、空しく倒れた。
「確かにそうだ。娘よ、お前が救ってくれたのか? 感謝する」
体に蟠る倦怠感はある。言われてみれば体の節々が痛みを訴えている。まさに死に瀕していたのだと身を持って実感させられた。
だが今の彼ならば、その程度の怪我を治す事は造作もない。
「あんたね。もっと愛想よく出来ないものなの? って、きゃッ!」
溢れんばかりの不満をついに爆発させ、より一層険しくなりつつあった少女の表情は、突然発生した出来事によって驚愕へと変貌した。
銀色の弦が、男の身体と少女の身体とを橋渡しのように繋いだのだ。
「ちょっと、これ何よ。何事なの!?」
狼狽する少女を尻目に男と少女を結んだ銀弦は少女に何の危害も加えなかった。
むしろ変化は男の方に訪れた。彼の身体が見る見るうちに治癒していくのだ。
それどころか、彼の肌はツヤとハリに満ち溢れてさえいた。
「あ、あんたそれ何よ? なんなの。今何をしたのよ!?」
まるで魔法のようだと、魔法が文明を支えているこのハルケギニアに身を置いている少女をして、その現象は彼女を驚嘆せしめるものであった。
泡を吹いたようにまくし立て、男に矢継ぎ早に質問する。
「何を驚いているのだ小娘。お前も魔法世界に身を置くのであれば≪相似大系≫の治癒魔術の冴えは耳にしているのではないのか」
ほんの少し前までは到底行使することが出来なかった大魔術をこともなく使って尚、平坦な声で男は応えた。
「そ、そんなの聞いたことないわよ! 第一あんた杖も使わずに……まさか先住魔法?」
「先住魔法とはなんだ? それ以前に相似大系を知らないだと? まぁ、いいだろう。よく聞け。今行ったのは≪原型の化身≫の応用による治癒魔術だ。健康体の人間と相似にすることによって術者を回復させる」
「は?」
ルイズは男の発した途方もない言葉を理解するのにしばしの間を必要とした。
嘘だ、そう断じることが出来ないのはその男の身体に起こった変化を見れば分かる。
使い魔として召喚した彼に水魔法を施して欲しいと教師たちに頼んだときはひどい重傷であった。手遅れだと言う教師も少なくはなかった。
ルイズは諦観の念を抱く彼らに私財を投げ打ち、水の秘薬を使ってもらうことで、ようやく治癒が可能であったほどの重傷がまるで嘘のように癒えていたのだから。
「≪原型の化身≫は人間は神の似姿であり、原型は同じでみな似ているという観測から、他人を強制的に術者自身に似せる化身。人体への直接干渉ができる非常に強力な魔法だ。治療もこの化身の応用。これを突き詰めれば、神の如――」
あまりの驚愕に呆けている少女を目の当たりに気をよくしたのか男が訥々と語り続ける。
しかし、思い至るところがあったのかふと、口を閉ざした。
「な、何よ?」
「いや、気にするな。それより……娘よ。聞くのが遅れたな。ここはいかなる魔法世界なのだ?」
魔炎が上がらないことからまず目の前の少女は魔導士で間違いない。
そして、窓の外から観測できる無数の銀弦を見るに明らかに地獄ではないのだから。
◆
「つまり……ここはハルケギニアにあるトリステイン魔法学院で、私は≪使い魔召還の儀式≫によってこの地に導かれ、お前に命を救われたというわけだな?」
少女から説明を受けた男は、自らの左手に刻まれている刻印を苦々しく見つめながら話を纏めた。彼の視線は少女に対する抗議の色がありありと浮かんでいる。
「しょ、しょうがないでしょ! 人が召喚されるなんて例がないことだし。こんな言い方は卑怯かもしれないけど、あんたが私の使い魔として呼ばれなかったら大金を払って手当てする理由なんて私になかったんだから」
痩せ窪んだ彼の視線を受け止めながら少女はふてぶてしく言い放つ。
そんな少女の態度を前に、男の胸中には怒りが湧き上がるが、それでも男がその怒りを行動に移す事はなかった。
当たり前だ。この世に無私の善意なんていうものが存在しないことを男はとっくの昔に理解していた。
彼は弁えていたのだ。世界がどれほど無慈悲で残酷かということを。
いつだって彼は利用されてきた。貧民街の裏路地でさえ、なけなしの正義感を振り絞ったときでさえ、挙句の果てには実の兄を殺すための駒として翻弄され続けたのが彼の人生である。
そう考えれば少女の言い分を非難することなど出来なかった。まだ救いがあるだけましというものである。
「……使い魔と言ったな」
男は言葉の意味を反芻する。本来は人間を呼ぶものではないと、先ほど少女は言った。
彼の魔法大系においては馴染みはないが、魔法構造物を創造、構築し擬似生命を与えることで操る魔法体系は男の記憶にもある。
おそらくは使役――主従契約を強いるもの。
通常、魔法使いに直接作用する魔術はとてつもない高位魔術である。
少女に召喚される少し前まで、まさに魔法使いを操ることに特化した魔法大系との戦いに巻き込まれ窮地に陥っていたのだから、その恐怖は身に刻まれている。
「それで、使い魔とは? 私は何をすればいいのだ」
となれば目の前の少女はかなりの使い手。再演大系そのものではないにしろ、まともではあるまい。
命を救われたことは事実なのだから特に反目する理由もないのだが、事を荒立てないことが得策だと男は考える。
「え? 使い魔になってくれるの?」
対する少女はキョトンとした表情で男を見つめていた。
「拒否してもいいのか?」
「っ!? ダメ。絶対ダメ! あんたのせいでお小遣いがなくなったんだからね。断ったら治療費払ってもらうんだから。治療の対価としてあんたを雇う。これでいい?」
その言葉が決め手だった。債務支払い能力のない彼の心に深く突き刺さる。
そして雇用。その言葉は魅力に満ち溢れていた。
何せその魔法の言葉はつい最近彼を『三十四歳無職職歴なし』から『ワイズマン警備調査会社の警備調査会社統合情報室シニアマネージャー』へと変えてくれたのだ。
彼に因縁のある男が、幼い少女を守るために仕事をクビになり社会的に転落していく様を、福利厚生、賞与付きで見下すことができた優越感を彼はまだ忘れていない。
「……仕方がない。分かった」
「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールよ。あなたは?」
「私は、ケイツ。浅利ケイツだ」
こうして契約は結ばれた。
有無を言わせぬ事後承諾的に。
「それで私は何をすればいい?」
「えっと、そうね」
ケイツの問いかけに対するルイズの答えを纏めれば彼女の護衛。この一言に尽きた。
他にもいろいろ提示されたが、要領を得たのはこれだけである。
「あなたは魔法使い(メイジ)なんだからそれぐらい出来るでしょ?」
最初の顔合わせのときとはうって変わってルイズはどことなく上機嫌であった。
しかし一方でケイツの表情は優れない。
「護衛だと……娘よ。お前はまさか誰かに命を狙われているのではあるまいな?」
心なしかケイツの表情に陰りが差している。
「そんなわけないじゃない。それにここは学院。危険なんて滅多にないわよ」
「そう、か。ならいいのだ」
思わずケイツは安堵のため息を付く。
「だから、普段は雑用をお願い。掃除、洗濯、その他雑用。それがあんたの仕事」
「不満はあるが。まぁ、いいだろう」
戦うことに比べればと、胸中で付け足し、ケイツは頷いた。
「ふぁ~あ。しゃべってたら眠くなっちゃったわ。あんたの手当てで大騒ぎだったしね」
一度あくびをしたと思いきや、ルイズはおもむろに服を脱ぎだした。
「おい、待て。お前一体何をしている」
当然と言うべきか、ケイツはそんなルイズの行動へと静止を投げかける。
「何って寝るから着替えてるのよ」
「――なるほど。納得だ」
変な人。と疑問を浮かべながらルイズは引き続き下着に手をかける。
――余談だが、ケイツは割りと真剣に”魔法使いなら仕方がない”と考えていた。
そして窓の外を見てみれば太陽はとっくに沈み月が爛々と輝いていた。
「ほう」
過酷な人生によって、感情などとっくの昔に擦り切れてしまったケイツだが、その光景はどこか心の琴線に触れるものがあったようだ。
夜空に輝く双つの月。
そこに掛かる数多の銀色の架け橋。似たもの同士に魔力を見出す相似大系魔導士の観測によって二つの月を似たものと認識する夥しい数の銀弦が束となってそう錯覚させるのだ。
「双子、か」
どちらが黄金でどちらが石クズなのか。
咄嗟に浮かんできた益体のない想像に頭(かぶり)を振る。
「いかんな……ん?」
その時、ケイツの頭に柔らかい感触が訪れた。
不審に思って手を伸ばすと一枚の布切れがそこにあった。
それはルイズが投げて寄こした下着である。心なしか彼女の体温が残っているようであった。
「明日起きたらそれ洗濯しておいてね。それじゃお休み」
少女はベットに身を横たえると、あっという間に寝息を立て始めた。
暗い部屋、幼い少女の下着を手にケイツは自らの主となった少女を見下ろす。
窓から零れる月明かりに照らされて、その白い肌、ピンクの髪が幻想的に輝いているようだ。
美しい少女が無垢な寝顔を浮かべ無防備に身を横たえている。
ケイツはそんな少女を見下ろして一言。
「……私は絶対に”そっち側”にはいかんぞ」
かつて、幾度となく銀弦が繋がった男を思い出す。彼もケイツ同様、世間の重圧に押しつぶされ擦り切れていった男であった。
小学校の担任でありながら、小学六年生の嗜虐性癖のある少女に関わりを持ってしまったため社会的地位を失ったのだ。
「私は”そっち側”にはいかんからな……」
ケイツは今一度決意を反芻し、眠気に身を任せ、身体を地面に横たえた。
こうして、他のどの既知魔法世界とも異なる魔法世界でケイツの一日が終わった。