ケイツは目の前に悠然と佇む大邸宅を見上げていた。
屋敷内部を散見的に灯す松明や魔法の光一つ一つの下に、生きた人間がいるのかと考えて、その光全てがこちらを睨む眼光のように思えた。
まるで大邸宅そのものが一つの生き物としてケイツに立ちはだかっているようでその大きさに足がすくみそうになる。
「このどこかにメイドの少女がいるのだな」
だが、そんな巨大な敵を相手にしてさえ、ケイツの言葉には強い意志に満ちていた。
背負うものがあれば人はこうも戦意を高ぶらせることができるのかと、生まれ変わった心地にケイツは浸っている。
「ふふふ、こんな気分は初めてだな。守る為に戦う、か。私には過ぎたものだな……だが、悪くない」
ケイツは握り締めた両手に力が入るのが分かった。学院の使用人達の絆がケイツの背中を後押してくれるようで思わず痩せ落ちた表情に笑みが沸き上がる。
同時に脳裏をかすめたのは、自分と何度も相似弦が繋がった男のことだ。奴が小さな女の子を守るために落ちぶれていく様を、かつてのケイツは嘲笑った。
だが、ケイツは今、考える。守りたいものさえ守れるなら、どんな場所に落ちようときっと幸せなことだと。ならば奴は落ちぶれてなどいないのではないかと。
そこまで考えて無意識に送ってしまった賞賛にケイツは舌打ちする。奴とはそう簡単に分かり合えるわけがなかった。
そしてくだらない対抗意識をケイツは燃やす。やつが大切なものを守る為に落ちぶれざるを得なかったというのなら、私は何も失わずにすべてを助けてみようと。
困難に直面するたびに逃げる事を選んできたケイツは何かを失わずには何も手に入れることができないという当たり前の認識さえ希薄だ。
だからこそケイツは相手に危害を与えることなく無傷でシエスタを助けることという達成可能性を度外視した目的を抱いてしまう。
「ふふ、やれる。今の私ならばきっと出来る。出来るぞ」
しかし今のケイツはそんな破綻の予感などに目もくれず、興奮に包まれた身体をますます滾らせる。そして自分がすべき事は何か、頭の中で整理する。
まず、出来る限りの武力行使は控えること。これは周囲への責任追及を回避するためには必要不可欠だった。狭い行動範囲しか持たぬ自分のことなど、学院を調査すれば筒抜けになってしまうであろう。ここに来る前に見たヴァリエールの娘の顔を思い出すと、それは絶対に避けたかった。
重要なのは対話で解決すること。こちらが手を出してしまえば争いの火蓋が切って落とされる。剣もダメ、魔法攻撃もダメと、選択肢が狭まっていくことにケイツの不安が顔を覗かせる。
なら残された手段はは魔法防御を駆使して話し合いに持ち込むしかない。でもそれで十分な気がした。相手がどれだけ殺気立とうと相似大系が誇る防御魔術はそう易々と突破できるものではないからだ。そうして自らの優位性を示し、寛大な態度で交渉に臨めば、相手が萎縮して案外上手くいくのではないかと、楽天的な思考が頭に満ちる。
そしてケイツは。”誰も怪我をさせずにすむ方法があるという事実”に安堵した。
思考を整理して、戦いの指針を定め、気概を胸にケイツは吠える。
「相似の王者としての力、今使わなくていつ使うのだ。私は行くぞッ!」
「――おい、そこの怪しい奴ッ!」
だが、それに水を差すように脇から声が振りかけられる。
門番の衛兵たちがそこにいた。怪訝そうな顔をして、武器を手にケイツを取り囲んでいる。
ケイツは彼らの声につられてキョロキョロと周囲を眺めてみた。
怪しい奴など見当たらなかった。
「お前だ、そこのお前。他に誰がいる! なんで自分が関係ないという顔をしているんだ」
門番は大声を上げながらケイツへと歩み寄ってくる。着古した黒のコートに、長身の枯れ木のように擦り切れた男が闇夜の中、幽鬼の様に木の幹に身を預けて薄ら笑いをしている姿が他者の目にどう映るかなぞ、言うまでもないことだった。
「馬鹿な、私が怪しいだと? 冗談はよせ」
ケイツは取り囲まれてしまった。いくら叫んでみても包囲を突破することは叶わなかった。
ケイツは動揺する。魔法を使うかと思い、それを否定する。話し合いだ。自分は話し合いで解決を図るのだと先ほど決めたではないか。誠意を込めて話せばきっと人は心を通じさせることが出来る。
「ま、まて。私はここの伯爵に用があって来たのだ。怪しい奴などではない!!」
「怪しい奴はみんなそういうんだ。さあ、無駄な抵抗はするな。話を聞かせてもらうぞ。こっちへ来い」
「よし、そうしてくれ。話を聞いてくれ。そうすれば私が不審者でないということがすぐに分かるであろう」
「分かった分かった。それじゃ詰め所まで来てもらえるかな」
衛兵に囲まれて、地獄での経験がよみがえる。地獄において、魔法使いたちの『常識』が特徴的過ぎるため、文化的ギャップのせいで警察のやっかいになる者は多い。ケイツの脳裏に日本にいた頃、道を歩いていただけで職務質問をされたことは辛い記憶の一つだった。今の状況はそれに酷似していた。
「何? まさかお前たちは警察かッ!? 警察だけは勘弁してくれ。警察だけは!」
ケイツの声は空しく響き渡り、聞き入れられなかった。気概に満ち溢れていたケイツの声は既に情けなくなっている。
未だ邸宅の門を跨いですらいないというのに。
◆
豪華な部屋、シャンデリアが灯す薄明かりに照らされたそこに、シエスタはメイド姿でいた。
学院で着用していたものとは異なり、派手な赤を基調にして侍従服には似つかわしくない装飾が誂えてあるそれは職務上の利便性よりも鑑賞性を重視してあった。
露出の多いメイド服の隙間から、艶やかな肌はしっとりと潤い、水気を帯びた黒髪が石鹸の芳香をなびかせ、灯火に照らされて蠱惑的に輝いている。
女性的な魅力を割り増しさせながら、シエスタがいるのは寝室だ。豪奢なアンティークが所狭しと配備され、カーペットの毛は足が沈むほど長い、なによりベットはふわりと弾力をもち、そして一人で眠るにはあまりに大きすぎるそれが侍従用の宿直室ではないことを物語っていた。
「みんな……」
シエスタは身を強張らせ、震えていた。モット伯の邸宅に来てからシエスタの待遇は文句の付け所がないにも関わらずにだ。
おいしい食事に、精緻な飾りつけが特別に施されたメイド服、そして魔法の香水をふんだんに使った広い浴場。
今までの暮らしからは考えられないほどの贅沢を体験してさえ、シエスタの表情は沈んでいく。
彼女はその厚遇の意味を理解していたからだ。
「学院に、戻りたいよ……ケイツさん……」
沈痛な面持ちで紡がれたシエスタの呟きは、しんと静まり返っている部屋にこだますることなく消えた。その声が相手に届くはずはないのに、その名前を呼んでしまう。
先日、ぶっきらぼうに何かあったら自分を頼れといった彼の言葉が未だに燻っている。自分よりも一回り以上大人なはずなのに、周りに打ち解けるのが苦手で思わず世話を焼いてしまうしょうがない人。とはいえ、頼りないと思う半面で貴族に立ち向かって見せたりするなど、とても不思議な人だった。今彼は一体何をしているだろうか?
私がいなくても学院のみんなとうまくやっていてくれたらうれしいなと、ケイツの事を考えクスリと笑う。
そこまで考えた直後。ガチャリと、ドアノブが回る音がシエスタの身をすくませた。
ジュール・ド・モットが部屋に入ってきた証だった。そしてモット伯はシエスタの姿を目に留めると、気遣うように優しいな笑みを浮かべ、シエスタへと歩み寄る。
「シエスタ。待ったかね?」
「いえ、そんな……」
モット伯が歩み寄れば寄るほど、エスタの表情は強張っていく。
「どうだ? 仕事には慣れたか」
「は、はい。大体は」
「そうかそうか、まぁ、余り無理はせぬようにな」
モット伯爵は緊張をほぐすように気さくな笑みを浮かべて、新たに使用人となった彼女をねぎらう。
その点だけを見れば慈愛に満ちた領主として非の打ち所がなかった。
けれど、華奢な少女の肩に手を置いて耳元で囁くその声は好色に濡れている。
「私はお前をただの雑用の為に雇ったのではないのだからな。んん? シエスタ」
モット伯はシエスタの髪を一房手に取り、その香りを堪能するように顔を近づけた。
「あぁ、あの――」
シエスタの心に羞恥と恐怖が満ちる。
お戯れを、と言いかけて、突如コンコンと響いたノックがそれを遮った。
「なんだ?」
楽しみを邪魔される形となったモット伯の声は剣呑だ。
兵士が恐縮し、要件を手短に伝える。
「失礼します。ケイツと名乗るものが面会を求めておりますが」
「ケイツだと? 知らん名だな」
思いもよらずに浮かび上がった名前にシエスタが息を呑む。
ありえないと思う一方で、兵士に促されて入ってきた彼の姿を視界に収めて思わず涙ぐみそうになった。
燃え滓のような男、白とも黒とも付かない曖昧な灰色の髪に灰色の瞳、痩せこけ目は窪み、頬が浮いている。
それなのに目つきだけは鋭く輝いており、強い意志を放っていた。
見まごう事も無い浅利ケイツがそこにいた。
ケイツと対峙しモット伯は不機嫌に顔を顰め、尊大に言い放つ。
「お前が面会を求める者か? こんな夜分遅くに礼儀を弁えんやつだ。して、何の用だ? 手短に済ませてもらおう」
ケイツは余裕を繕い、簡潔に言う。
「では、手短に頼む。そのメイドの少女を学院に戻して欲しい」
モット伯は呆れを顕わに失笑した。ケイツの頼みは聞く理由も価値も義務もなかった。
「何かと思えば、下らぬ事を、帰れ。わざわざ平民などと面会に応じてやっただけでもありがたいと思え」
取りつく島もなく一蹴する素振りを見せるモット伯に対してケイツは素早く動いた。地を蹴り、その勢いを殺すことなく屈みこみ、地に足をつけながら、頭を項垂れ、手をついた。
地獄で培った技術、土下座だ。
「どうか頼むッ! そのメイドの少女を学院に戻してほしい」
臓腑から絞り出すようにケイツは叫ぶ。
自分は地に這いつくばっているはずなのに、確かに今自分は攻めている。
モット伯が目をしばたかせた後、考え込むように言った。
「……お前はシエスタとどのような関係なのだ? 歳の差から言って恋人などとは言うまいに」
ケイツの土下座に移るまでの所作があまりにも洗練されており、みっともなかったことがモット伯の胸に何かを響かせた。
遥かに低い位置に頭があるのはケイツの方なのに主導権を握ったのは彼だった。
「……その少女には恩があるのだ。彼女には幸せになって欲しいと思っている」
ケイツの言葉を聞いてモット伯は心底愉快に口元を緩めた。挑戦的なその物言いに興味が沸いた。
「ほう? お前はなかなか面白い事を言うではないか、私に仕える事が幸せ以外の何だと言うのだ? 私に仕えれば平民には一生かかっても手に入らぬような暮らしが手に入るのだぞ」
「哀れな。物質的な豊かさのみが全てではないのだ。花は花として咲いているからこそ美しいのだ。手折られて花瓶に移されてはその輝きは死ぬ」
「ふん、言うではないか。では貴様がシエスタを幸せにするとでも言うのか?」
「それこそ、まさかだ。私はその少女の笑みに希望を見た。その少女のことを思う多くの仲間達の願いが私の心を動かした。人の絆を美しいと感じたのだ。シエスタがいるべき場所はここではない。帰るべき場所があるのだ」
シエスタはケイツの言葉に耳を打たれた。それだけのことでここまでやってくるケイツとその背後から伝わってくるみんなの思いが、孤独に暮れそうになった彼女の心には暖かすぎた。
「貴様、私を侮辱するか! その放言の報い受ける事となるぞ」
だがモット伯は怒りに顔を歪ませる。自分が悪のように言われて心底不愉快であると言わんばかりに。モット伯が杖に手を伸ばそうとしたときケイツの前へと躍り出る影があった。
「伯爵! この者の無礼をお許しください」
シエスタが両手を広げケイツの前に立ちはだかる。
「ならぬ! かような平民の無礼を捨て置いてはジュール度モットの名が廃る。そこをどかぬか。シエスタ!」
「出来ませんッ!」
「何?」
モット伯はシエスタのまさかの抵抗に瞠目した。
「どうかお願いします。私はどのような罰もお受けします」
ケイツの前で膝を折りこうべを垂れるシエスタは精一杯の勇気を奮う。ケイツがここに来てくれた事実だけで嬉しかった。学院のみんなが心配していると聞けて涙が出そうだ。
だが、シエスタはケイツよりも現実を弁えていた。貴族を怒らせてしまってはもう遅い。なんとか自分の身一つで穏便に済むようにと心から訴えかけるのが自分にできる唯一のことだとシエスタは感じたのだ。
「止めろ!」
だが、ケイツがそんなシエスタを呼び止めた。
「ケイツさん?」
「止めろ。自分を犠牲にするな。私は誓ったのだ。みんなはお前が戻る事を望んでいた。私はお前たちに希望を見たのだ。人の絆、人の優しさというものに初めて触れたのだ。私に初めて戦う力を与えたその輝きを自ら消すような真似は、寄せ。私が道化になるではないかッ!」
「ケイツさん……」
ケイツの目に力強い戦意が灯る。シエスタはそれを見て押し黙った。
「何だその目は、私には向かうと言うのか?」
モットは口角を吊り上げた。ケイツと視線が交錯する。
「やはり、話し合いは通じぬか」
ゆらりと、それまで地に伏せていた身をケイツは起こしていく。
「何を言うか、貴様のやっている事は話し合いですらない。覚えておくのだな。交渉は対等な条件で行うものだ。何も持たぬ貴様など話し合いのテーブルにすら着くことは出来んのだ」
「この地方では、魔法を使えぬものを平民というのだったな……」
不敵に笑うモット伯に、ケイツも不敵な笑みを返した。
「だからなんだというのだ」
「”私の魔法を見ていただこう”と言っている。一つの文明を象徴する、意志と叡智の結晶を、文明を革命的に進めたその奇蹟の具現をなッ!」
すくりと立ち上がったケイツの姿は実に堂々としたものであった。磨耗し擦り切れたはずの男が一つの大きな意志に立ち向かうべく、構える。
「魔法だと? 貴様、メイジだったのか!?」
モットはケイツの宣言に身を固くした。先ほどまでとは枯葉の如き男はまるで別人になったように闘志に満ち溢れ、気遅れせぬようにと一挙手一投足を見守らんとする。モットとて水の『トライアングル』と呼ばれるメイジであった。
そして側近の兵士たちの動きは素早かった。突如雰囲気が豹変した男を取り押さえるのではなく、モット伯を守るように動いた。
まさにそれは訓練された兵士たちが無意識に警鐘を鳴らし、はじき出した最適解だ。
そんな彼らを一度睥睨し、ケイツはにやりと口元を吊り上げた。そしてシエスタの手を掴む。「では、さらばだッ!」という叫び声と共に窓へと駆け寄るや否や、シエスタを抱えるように空中へと身を投げた。
相似大系魔法には『転送障壁』という物流に大革命を与えた魔法がある。始点と着点の空間を『相似』にすることによって物体を転移させることが出来る、より汎用性に優れた転移魔法だ。
かつてケイツの兄が編み出したその魔法を使って、人を助けることが今は誇らしかった。今まさに偉大な兄と一体になっているのだという陶酔感に支配されながら今は亡き兄の象徴とも言うべきその魔法を展開しようとする。
しかしケイツは真っ逆さまに落下していった。
「え? え? ええ~~~っ?」
「何だと!? なぜ、なぜだッ!! なぜ魔法がッ!? どうしてッ!?」
自分で起こした行動のはずなのに、驚愕するケイツと手を引かれて落下するシエスタの当惑が橙色の炎と同時に尾を引いて、落ちていった。
モット伯達はしばしの間、目の前で起こった出来事に呆然とし、そして大爆笑した。どのような道化の芝居よりも目の前で繰り広げられたばかりの現象が面白かったからだ。