──時間は夕刻前まで遡る
「諸君、近頃、錬金術師を名乗るペテン師が詐欺を働き。並びに怪しげな地下文字を刻む輩が多発している。さらに今月に入ってから若い女性の誘拐が増加傾向にある。当局はこの件を最重要案件とし、再発を防ぐべく犯人の逮捕を最優先するものとする。以上であるっ!」
その日、ギーシュ・ド・グラモンはトリスタニア市警の青い制服に身を包んでいた。上着はぶかぶかでズボンの丈も間に合わせの仮縫いだ。
中庭での警察局長の演説はこの待機室までも聞こえてくる。安普請の建物ゆえによく響くのだ。
ギーシュは鏡の前で襟元を直す。サイズがいまいちなことを除けば見た目は立派な警官の一人だ。
柔らかな金髪を撫でつけながら、女性とも見まがう整った顔で笑って見せる。宮廷のご婦人方が寵愛してやまぬ笑顔はギーシュが五歳になる頃に会得したものだ。
母親譲りの美貌のせいか、八歳のときには同い年の少年に求婚されたこともある。男だと知ってそれは撤回されたが。
母曰く、この子は将来とんでもないたらしになるわ、というのはまさに予言であった。美しい女性には特に微笑まずにはいられない性質なのだ。
そのギーシュが警官に扮しているのは仮装のためではない。社会勉強の一環として体験を申し出たのだ。
兄のベルトランが警察隊の警視であるのでそのコネで仮入隊する運びとなった。
来年にはトリステイン魔法学院への入学が決まっている。その前にグラモン家の儀式としてギーシュが選んだのが警察隊への仮入隊だった。
武門の家柄という重圧は楽観的なギーシュでも逆らえない。両親に嘘でも実績を見せておかねばならない。これは兄たちも受けた試練であった。
トリスタニア警邏隊を基盤として創設された警察隊は王都の秩序を守る一員として認知されている。創設したのは今は亡き前国王だ。
警察隊の多くは貴族の子弟やその類縁で構成されている。不運にも魔法の才に恵まれずとも、身一つあれば就職できるとあって人気は高いが、女性警官がいないので男ばかりの集団となっている。
手柄でも立てれば魔法衛士の道が開ける。近衛隊も夢ではない。最も、そんな幸運を掴むのは奇跡に等しい。エリート中のエリートだけがその道を歩む。
男ならば竜騎兵だ。グリフォン隊やマンティコア隊も花の騎士だが、やはり竜こそが男の夢だ。
分不相応な夢は夢に留めておけばよい。もっとも、ギーシュ・ド・グラモンにとっては手を伸ばせば掴める道でもあった。父の引いた道を歩んでいけば。
「だらしなくにやけるのはよしなさい。新人君」
声をかけたのは警視だ。いつの間に待機室に入ったのかベルトラン・ド・グラモン警視がそこにいた。
制服はギーシュと同じもののはずだが、極めて洗練された着こなしで体に収めている。
面差しはギーシュに良く似て、見た目は細身ではあるが切れ者と評判だ。ベルトランはギーシュの七つ上でグラモン家の次男に当たる。
それに比べて長兄は凡庸な人物でマンティコア隊にいたが怪我が元で引退している。それが父を失望させたのか、この次男には両親の期待が寄せられた。
しかし、ベルトランは警察隊に留まった。これにはもっと良い選択があったはずだと父を怒らせた。この次男ならば王を補佐することもできたのにと。
魔法も剣も天賦の才を持つと、十五の頃には宮廷でもてはやされた兄を見ながらギーシュは育った。その兄が実家に何の不満があるのかを知らぬまま兄を羨んだものだった。
先日、五年ぶりに再会してそのことを問うと、本人はせっかく警視になったのだから自由にやるさ、と家の重圧から逃れたさっぱりした顔で言い切ったものだ。
そして末弟にかかる期待と不安など素知らぬ顔をしてみせるのだ。
今やギーシュはグラモン家の跡取りとして期待される身だ。魔法学院への入学も本人の意思など無視して取り決められた。
今回の仮入隊を父は快く許しているが、それも将来の人脈形成と出世のためだ。息子が軍人として王国を背負うことが父の悲願なのだ。
「兄上」
「警視だ。グラモン警視と呼ぶように。お前に見せたいものがある」
「わざわざ何ですか?」
警視に向かって無礼な態度だ。それを気にすることなくベルトランは言葉を続けた。
「死体だ。見目麗しき女性のな」
死体に麗しいもない。ギーシュは生きている女性を見ている方が好きだ。死体は微笑むこともないのだから。
「それはまずいのでは……僕は見習いですよ」
「仮であろうが今はお前は警官だ。それに今のうちに慣れておくといいだろう。この王都で何が起きているのかを」
「何だというのです?」
「見ればわかる」
「僕は兄上のように頭は賢くありませんから」
兄へのささやかな抵抗が反抗的態度に出る。
「では考える頭を身につけろ。でなければ一生その制服のままだ。軍人になるのだろう?」
ベルトラン警視に促されて言い返すことなくギーシュはその後に続いた。
死体があるのが地下と誰が決めたのか、かび臭い匂いをかいでギーシュは地下にある霊廟のアーチをくぐった。
冷たい空気が頬を撫でる。灯したカンテラの明かりだけが頼りだ。警視の背中を眺めながら、婚約者への話のネタにでもなるかと気持ちを切り替える。
「これが誘拐事件の被害者?」
「最初の被害者だ。あちらに並んでいるのもそうだ。一番古いのが十二日前、新しいのは二日だ」
「腐食していない?」
覚悟していた腐臭がないことには霊廟に入ったときから気が付いていた。独特の薬品の匂いが鼻につくが、腐乱した死体を嗅ぐよりはマシだ。
目の前にまるで今死んだばかりのような死体がある。
トリスタニアで起きている事件。腐らない死体。局長の演説を思い出す。何者がこれを成したのか?
誘拐されたという女性はいずれも若い。見た目傷はないが何らかの方法で殺害されたのだろう。
「また死体が出た。今現場に向かわせているが、おそらくは……」
「誘拐された女性だと?」
「PALMS。そしてこの額の文字。我らが追っている犯人は奇怪な技を使う。我らの知る魔法とは異なる力だ」
「何者……なのです」
カンテラの揺らめく火を見ながらギーシュは尋ねる。
「詩人だ」
ベルトランの瞳が貫くようにギーシュを見つめ返す。
詩人。それだけではわからない。問いかけた口元を引き締めギーシュは物言わぬ死体に視線を投げかける。
「その詩人がなぜ女性を誘拐して殺すのです? その……文字を刻んで」
「市警は全力を挙げて詩人を追っているが、まず捕まるまい。我らの動きは筒抜けだ。おそらく内通者がいる」
「内通者!? なぜ僕に明かすのです」
最後は声を押し殺して兄へ尋ね返す。無視された問いかけは内通者の言葉でどこかに行ってしまった。
「我が弟だから。では不満か? 私のもう一つの肩書は秘密警官(ムシャール)の長だ。私の秘密を握ったな、弟よ」
「知ってはならぬ秘密を打ち明けられれば僕に選択肢などないのでしょう……」
「動きが筒抜けであれば、最も信頼できる者を頼るものだ。お前の入隊を歓迎するよ。心からね」
ベルトランが差し出した握手の手は悪魔との契約のようだ。
まるで全部が仕組まれたことのようにも思えるが、兄の秘密の密偵になるというのはギーシュに軽い興奮を呼び覚ました。
謎の殺人事件に関わる詩人を捕まえるという大仕事だ。犯人を捕まえれば婚約者にも自慢できるかもしれない。
いや、それどころか退屈な学院生活を飛び越えることも可能かもしれない。現にベルトランは自分より一つ上の歳でシュバリエの称号を贈られたのだから。
そんな甘い夢想を引っ込めるとギーシュは兄との握手を交わしていた。
◆
「その最初の任務が墓守とはね……」
ギーシュは深くため息を吐き出す。牢の番ならず死体安置所の番とは初日から運が悪いとしか言いようがない。
安置所の上には待機用の椅子と机。同伴する相棒は痩せた目つきの悪い男でごろつきのように見える。同じ警官とは思えないくらいだ。
運ばれてきた新たな遺体は安置所に収まっている。
日が沈んだ頃には外の雨は止んでいた。夜の交代が来るまでのしばらくの時間を婚約者に当てる文面を考えながら過ごす。
「何だラブレターか? どこのマダムだよ、カワイ子ちゃん」
「婚約者です」
下種な詮索をギーシュはやんわりと訂正する。インクのノリがいまいちなのはペンのせいか、インクのせいか、ツボにいったん付けたペンを紙で包んで拭う。
「はは、せいぜい励めよ」
「そうします」
空腹には耐えた。この番が明けたら熱いシチューと塩のパンを頬張りたい。相棒の不愉快さを別のことで紛らわす。
普段は達筆な文章もここでは全く振るわない。死体置き場で女性の琴線に触れる手紙を執筆できるのであれば、悪魔さえも丸め込めることだろう。
「お、交代の時間だぜ」
向かいの席の相棒が告げてギーシュは顔を上げる。やっとかとほっとしたところで、こちらに伸びた影を見てぎょっとする。
「伏せて!」
「あ?」
その瞬間、同僚の頭部が割れた。振り下ろされたのは刃。飛び散る鮮血にギーシュは停止する。
音を立てて彼が倒れこむ。あまりにもあっさりと目の前で人が死んだ。目の前の賊が着るのは青い制服。警官だ。
ギーシュは初めてまともにその顔を見て戦慄する。
「バケ……モノ」
黒く変色した肌。正気を失ったような目。泡を吹いた口元。異様なのは体の関節が制服の下で軋みを上げていることだ。
人間がここまで変貌する様を見たことがない。その襟元を見てギーシュは驚愕に包まれる。
「H∴O」。死体にも刻まれていた文字が男の首筋にある。その文字が光り輝いている。その光に力を得たように人の姿をした怪物が叫ぶ。
ギーシュが懐に差し込んだ手を出すとその手には杖があった。魔法でこいつを止めるしかない。だがその判断も剣の一閃で断ち切られる。
「杖が!」
凄まじい速度で剣が振るわれて手元の杖が根元から断たれて落ちる。わずかでも狂えば手首が落ちていた。
呼吸が荒くなる。次に剣が振るわれれば死ぬ。その時間を、あまりにも短かすぎる間をギーシュは永遠に長く感じた。
霊廟に金属音が響き渡る。ギーシュが目を開ければ剣は虚空で停止している。その剣をもう一つの剣が受け止めていた。
「な……」
声にならぬ声がギーシュから漏れる。怪物の間に割って入った人物が女性とはすぐに分かった。
「行きなさい。死にたくなければ」
僕は警官だ。そう言おうとして霊廟の奥で蠢く影を見て声を失う。そこからやってくるもの。すなわち死者の行進だ。
今やはっきりとこの世ならぬできごとが起きていると自覚できた。だが、体は思うように動かず、もたついてしまう。
怪物が叫び声を上げて力任せに剣を振るって女へと打ちかかる。それを打ち払い、流し、いなして返す刃で男の首筋を切り裂いた。
相当な技量がなければ力で勝る相手にそんな芸当はできない。
だが男はまだ倒れない。その切り裂いた傷口からは血液に混じった銀色の液体がこぼれる。
その間にも冥土から甦った女の死者たちが階段を上ってすぐそこまでやってきていた。
「何をしているんです早く!」
この場には少し高すぎる少年の声が響く。我に返ってギーシュは這いながら立って戸口へと辿り着く。
「行って、応援を呼ぶのです」
自分よりも若く、眼差しもはっきりした目で告げる少年の手には銃がある。
「君は……」
ようやく言葉になった言葉は間が抜けていた。
少年が銃を構えて撃った。銃弾が迫る女の額を撃ち抜く。その瞬間、傷つけられた「H∴O」の文字が崩れてただの死体へと戻って崩れ落ちる。
「さあ!」
その言葉にギーシュは走り出す。応援を呼ぶ。応援を呼ぶ。それだけを繰り返して警察隊の舎へと走っていた。
己の不甲斐なさと向き合うのが怖くて、応援を呼べばどうにかなると信じるしかなかった。
ギーシュを助けた人物はアニエスだ。怪物化した男は腕を失って、いたずらに暴力をかき回す。再度振るわれた剣が正確に首の文字を切り裂き男は勢いを失って倒れる。
「ガーゴイルの初期段階。詩を植え付けられただけの雑魚でしかない……もう下がりなさいミカエル」
「弾はもうありません」
撃ち止めとミカエルが銃を掲げる。だが一つ獲物を仕留めた。
「残らず殲滅する」
正眼に構えたアニエスの剣に光が宿る。まだ四体のガーゴイルと化したゾンビが残っている。
「主よ憐れみたまえ。私は悲しみに蝕まれ、骨は疼き、魂は業火の炎に包まれ、嘆きの野にて叫ぶ哀れな子羊──」
炎が上がる。同時にアニエスのリボンがほどけ波のように髪が広がった。赤い炎が金髪を赤い色に染め上げる。その瞳には炎が宿り灼眼へと変貌する。
「主は私の苦悩を私から救い、私を責める者を悉く打ち砕く。その真実と炎の名において──」
剣に赤い文字の詩が刻まれていく。報復の炎を現す言葉たちが。同時に動く死体たちが叫び、さらなる変身を始める。
「私はお前に──報復する!」