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Kanon Short Story #9
プールに行こう2 Episode 8

 天野と別れて食堂に向かいかけて、俺ははたと立ち止まった。
 よく考えてみると、食堂なんて行ったら、誰かに見つかる可能性マキシマムじゃないか。
 しかし、食堂以外にパンを売ってる場所なんてないぞ。
 さて、困った。どうしよう。
「……あれ? 相沢くんじゃない。こんなところでなに深刻な顔してるの?」
 不意に話しかけられて、俺は振り返った。
「おお、誰かと思えば、名雪の向こうに見えてる、クラスメイトの女子生徒じゃないか」
「あのね。あたしにはちゃんと七瀬留美って乙女らしい名前があるの! 名も無き端役Aみたいな呼び方しないで」
 そういえば、そんな名前だったっけ。
 おお、そうだ。
「ところで七瀬」
「なによ?」
「食堂でパンを買ってきてくれないか?」
「嫌よ」
 あっさりと返された。どうして俺の周りにはこう薄情な連中しかいないのだろう。
「あのね、常識で考えなさいよ。なんであたしがあなたのパンを買ってきてあげないといけないわけ? 自分で買いに行けばいいじゃない」
「それが出来たら苦労しねぇって」
 肩をすくめる俺。
「ふぅん。なんだか知らないけど大変そうね。それじゃね、相沢くん」
 七瀬は軽く手を振って歩いていこうとした。
 俺は大げさにため息をついた。
「いやぁ、残念だな。やっぱり七瀬も真の乙女ではなかったか」
 ぴたっと立ち止まる七瀬。
「今、何て?」
「困っている友達に無償の手伝いをしてあげる。これ以上乙女らしい行動があろうか、いやない」
 七瀬はくるっと振り返った。
「そうなの?」
「無論だ。乙女研究12年のこの相沢祐一が保証する」
「そ、それじゃしょうがないわね。パンくらい買ってきてあげるわよ」
 そう言って手の平を差し出す七瀬。
 俺は黙ってその手を握る。
「……アホかぁっ! そうじゃなくってっ! パンの代金よっ!」
「あ、そういうことか」
 ポケットから財布を出して、漱石を1枚渡す。
「それで買えるだけのてりやきバーガーを……」
「それだけはいや」
 なんだか知らないが、七瀬にはてりやきバーガーにトラウマがあるらしい。今も髪の毛を押さえて後ずさっている。
「どうしたんだ、七瀬?」
「あたしもよく判らないけど、なにか危険を感じるのよ。それよりも、何を買ってくるの?」
「適当に見繕ってくれ。とりあえずメロンパンとバルサミコサンドとカツサンドとコーヒーはキープな」
「はいはい。売り切れてたら別のものを適当に買ってくるわよ」
 そう言って、七瀬は軽やかに走っていった。よっぽど“乙女らしい行動”が嬉しいらしい。

 他の連中に見つからないように、俺はこそこそと廊下を走り、階段を上がった。そして、この学校に来て初めて図書室のドアを開ける。
 独特の静寂と、本の匂いに出迎えられながら、俺は部屋を見回した。
 思ったよりも結構広い。奧の方には書庫が並び、手前にはいくつかの大きなテーブルと、それを取り囲む椅子。
 天野の言うとおり、そこで数人の女子生徒が弁当を広げていた。
 天野は……っと。
 部屋をぐるりと見回した。
 ……いないぞ、おい?
 もしかして、俺がパン買ってる間に、自分は食べ終わって帰っちゃったとか……。
 ガガーン
「……先輩」
 ショックのあまり、プラカードを片手に固まっている俺を、横から呼ぶ声。
 そっちを見ると、貸し出しカウンターの中から、天野が手招きしていた。
「こっちです」
「あれ? そんなところで何してるんだ?」
 歩み寄りながら訊ねると、天野はにこりともせずに答えた。
「仕事ですから」
「仕事?」
「図書委員なんです」
「……納得。俺が入ってもいいのか?」
「仕事の邪魔をしなければ、構いません」
 天野がそう言ったので、俺は回り込んでカウンターの内側に入った。
「それじゃ、食べましょうか」
 くるっと椅子を回して(ちなみに、ここの椅子は職員室にあるような、いわゆる事務用の椅子だった)、天野はカウンターの奧の机に向き直った。そこに、天野が買ってきたパンが置いてある。
「あ、その辺りの椅子、使ってもいいですから」
「そっか」
 俺は頷いて、勝手に一つ椅子を引っ張り寄せて座った。
「……重いですから、どいてください」
 俺の下からくぐもった声で言う天野。
 立ち上がって振り返ると、天野は無言でパンを片付け始めた。
「そんなに怒るなよ。お茶目なアメリカンジョークじゃないか」
「……」
「わかった。もうしない。もうしないから俺を一人にしないでくれぇ」
 無言で立ち上がろうとした天野の足にすがりつく俺。
「わ、わかりましたから、やめてください」
 うぉう、初めて見たぞ。天野が赤面してるところなんて。
 珍しいからもうちょっと、細い足にすりすりと……なんて調子こくとホントに去られてしまいそうなので、俺はやめた。
 天野はため息混じりに座り直した。それから、パンの袋をもそもそと開ける。
 俺も負けずにパンの袋を開ける。
「……先輩、それ私の……」
「おっと、そうだったな」
「先輩はパンを買ってきたんじゃなかったんですか?」
「うーん、そのはずだったんだが」
 俺は首を傾げた。
「パンを買いに食堂に向かったことは覚えてるんだが、気が付いたらここにいたんだ」
「……やっぱり帰ります」
「わぁっ、こら天野っ! 君には図書委員としての崇高な役目があるんだろうがっ!!」
 と、不意に図書室のドアが大きな音を立てて開いた。
 全員が一斉にそっちを見る。俺と天野も含めて。
 そこには、七瀬が雄々しく立っていた。肩で息をしながら。
「あ、相沢くん、いる?」
「おお、七瀬。遅かったな」
 俺が手を上げると、七瀬は眉をつり上げて、ずかずかっとカウンターのところに来た。そして、ばぁんと両手を叩きつける。
「人にものを頼んだら、ちゃんと待ってなさいよっ! おかげで学校中走り回って捜したじゃないのっ!!」
 ……忘れていた。
「いや、七瀬ならきっと見つけてくれるだろうと……」
「アホかぁっ!!」
「すみません。喧嘩するなら外でやってください」
 後ろから天野が声を掛ける。七瀬は、きっと天野を睨んだ。
「あなた、こいつの関係者?」
「まったくの赤の他人です」
 躊躇無く答える天野。って、天野ぉ~。
「なら、問題ないわね。ちょっと来てくれる?」
 そのままカウンターの外に引きずり出される俺。
「わぁっ、助けてくれ天野っ!」
「……」
 うぉっ、完全他人のふりしてるっ!

 そのまま、どすどすどすっと図書室の外まで七瀬に押し出された俺が、どのように七瀬をなだめてパンを手にしたかは、説明するのを省こう。

「はぁはぁはぁ……、ま、待たせたな、天野ぉ~」
「……なんだか、今にも死にそうじゃないですか」
「恥ずかしながら生きております」
 崩れるように椅子に座り込む俺。
「……ててっ。七瀬の奴、思い切り殴りやがって……」
「……」
 天野は無言で立ち上がった。そのままカウンターを出ていく。
 ……やっぱり、薄情な奴だな。
 そう思っていると、天野が戻ってきた。
「……?」
「動かないで下さい」
 屈み込んでそう言うと、手に持っていた濡れたハンカチを、腫れ上がった俺の頬に当てた。
 ううっ、冷たくて気持ちいい。
「しみますか?」
「いや……」
「それ、使ってください」
 そう言って、天野は立ち上がった。
「それじゃ、食事にしましょう」
「……そうだな」
 俺は、ハンカチを頬に当てながら、時計を見上げた。
「うぉ、あと10分で昼休みが終わってしまうっ!」
「はい」
 天野はこくりと頷いた。
「だから、急いで食べましょう」

 特に何を喋るでもなく、互いに黙ったままパンを食べ終わると、天野は立ち上がった。
「それじゃ、私は教室に戻ります」
「そっか。世話になったな」
「……いいえ」
 天野は首を振ると、そのまま図書室を出て行きかけた。と、ドアに手をかけて、振り返る。
「楽しかったですよ」
「え?」
「では、失礼します」
 軽く会釈をして、天野は、今度こそ出ていった。
 俺は軽くため息をついて、立ち上がった。

 のたのたと歩いて自分の教室の見える所まで来て、俺は思わず立ち止まった。
 教室の前に、見慣れた連中がたむろっているのが見えたからだ。
 くるっと踵を返そうとしたとき、その中の一人が俺を指さして大声で叫んだ。
「あっ! いたぁっ!」
「やべ」
 俺は慌てて逃げ出した。
「祐一、捕まえたおー」
 その声と同時に、がしっと肩が掴まれた。
「うぉっ、花子かっ!」
「わたし、そんな名前じゃないよ~」
 不満げに言うと、名雪は俺の腕を掴んで引っ張った。
「ほら、祐一。みんな待ってるよ」
「俺は待ってないっ。こら、待てっ! 引っ張るなっ!!」
「相沢くん」
 前からつかつかと香里がやって来る。うわぁ、目がオレンジ色だぁっ!
「……殺すわ」
「待て待てっ! 早まるな香里!」
「約束を破る人は嫌いです」
 香里の後ろから栞が言った。
「あのなっ、あれはお前が勝手に……」
「あうーっ、お腹減った~っ!!」
 真琴が俺の背中をぽかぽか叩く。
「いてててっ、待て真琴っ! あのな……」
「佐祐理を悲しませた」
 耳元でぼそっと呟く声。それと同時に、喉元に冷たい感触がぴたりと当てられる。
「わっ、ま、舞っ、ちょっと待てっ! 切れたら危ないだろうっ!」
「大丈夫。切れ味良くないから」
「そういう問題じゃねぇっ!!」
「……くすん」
 舞の背後から現れた佐祐理さんが、涙目で俺を見た。
「祐一さんが、そんなに佐祐理のお弁当が嫌いだったなんて、知りませんでした」
「いや、そういうわけじゃ……、あうあう……」
 やばい。まさに進退窮まったぞ。
 香里と舞にぼこぼこにされて、ぼろ雑巾のように廊下に横たわる自分の姿が、それを見下ろして高笑いしている真琴付きで脳裏に浮かぶ。
「あれっ? 祐一、ほっぺた怪我してる?」
 不意に名雪が俺の頬に触った。思わず飛び上がる俺。
「ててっ!」
「大変っ! すぐ保健室に行かないとだめだよっ」
「いや、それほどじゃ……」
「だめだってば。ほら、祐一、行くよっ」
 名雪は俺の手を引っ張った。
「ちょ、ちょっと、名雪?」
「あ、香里。先生が来たら、わたし達保健室に行ってるって言っておいてね」
 声を掛ける香里にそれだけ言い残し、名雪は俺の腕を掴んだまま、駆け出した。
 他の連中が声を掛ける隙もないくらい、普段の名雪からは信じられないような素早い行動だった、と後に北川は語った。

 カラカラカラッ
「失礼しま~す。……あれ?」
 名雪が声をかけて保健室のドアを開けると、中には誰もいなかった。
「先生、いないね……」
「ったく。それほどの怪我じゃねぇって」
 ぶつぶつ言いながら、椅子に腰を下ろす。
 名雪は笑って言った。
「でも、あのままだと、祐一危なかったし」
「……もしかして、助けてくれたわけか?」
「イチゴサンデー3つでいいよ」
 名雪は、慣れた手つきで薬品棚からオキシドールの瓶を選び出しながら言った。
 とりあえず助かったのは事実なので、俺は神妙に頷いておく。
「善処する」
「うん。……これでよし、と」
 さらに何本かの薬を出すと、名雪は普段先生の座る椅子に腰掛けると、オキシドールの瓶の蓋を開ける。
「おいおい、勝手にやっていいのか?」
「だって、先生いないんだもん。ちょっとしみるよ~」
 そう言って、ピンセットで掴んだ脱脂綿にオキシドールを含ませ、俺の頬の腫れている辺りにつける。
「うーっ、しみるしみればしみるときっ!」
「だからしみるって言ったよ~」
 そう言って、こんどは黄色い薬(名前忘れた)をちょいちょいと傷に付ける。
「はい、おしまい」
「なんだか手慣れてるな」
「部活で怪我とか結構するから、よく使うんだよ」
 薬を元の所に戻しながら言う名雪。そういえば、こいつ、こう見えても陸上部の部長だったよな。
 と、
 キーンコーンカーンコーン
 チャイムが鳴った。
「あ、5時間目が始まっちゃった。わたし、戻るね」
 そう言って、名雪は保健室を出ていこうとする。
「おい、俺も……」
「祐一は、もう少し休んでたほうがいいよ。それじゃ~ね~」
 手を振って、名雪は保健室のドアを開けた。
「もう少し、一緒にいてくれよ」
「……えっ?」
 ……な、何を言ってるんだ、俺は?
 正直、自分で驚いていた。一瞬、毒電波で操られてるのかと思ったくらいだ。
「あ、いや、なんだ……」
「……香里に、ちゃんと言ってあるから、もう少し一緒にいても大丈夫だよね」
 名雪はそう言って、後ろ手にドアを閉めた。それから、えへっと笑う。
「わたし、一緒にいてあげるよ……」

Fortsetzung folgt

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あとがき
 さて、9月に入りました。2学期ですね~。……社会人にはあんまり関係ないけど(笑)
 今回は……やってもうた。

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