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Kanon Short Story #14
プールに行こう4 Episode 37

 俺はベッドに寝転がって、ぼーっと天井を見上げていた。
 いくら追い払ってみても、脳裏から、さっき見てしまった香里のセミヌードが消えなくて……ということは特になかった。やっぱり、その直前まで名雪の……まぁ、そういうわけで、こっちも燃え尽きていたせいもあるんだろう。
 と、不意にノックの音がした。
「ゆ、祐一くんっ、いるっ!?」
「おう、あゆか? どうした?」
 がちゃ、とドアが開いて、あゆが真っ青な顔をして飛び込んできた。
「うぐぅっ、祐一くんっ!」
「ど、どうした?」
 さすがに驚いて、俺は体を起こした。
 そのまま飛びついてきかけたところで、いきなり急ブレーキをかけるあゆ。いつも真琴に飛びつかれている俺は反射的に支える体勢を取っていたので、逆にバランスを崩してベッドから転がり落ちた。
「わっ、祐一くん大丈夫っ!?」
「いてて、なんなんだお前は」
「うぐぅ、ボクあゆ……」
「いや、それは判ってるんだが。で、どうした?」
「う、うん。さっきボクおトイレに行ったんだよ。そうしたら、なんか変な声が聞こえて……」
 その時のことを思い出したのか、あゆは涙目になって俺に力説した。
「変な声?」
「そうだよ。あれはきっと……うぐぅ……」
 自分で言いかけて怖い考えになってしまったらしく、泣き顔になるあゆ。
 俺はため息をついた。
「わかったわかった。……トイレだな?」
「う、うん」
 こくりと頷くあゆ。
「よし、それじゃちょっと見てくる」
「うぐぅ……」
 あゆがしっかと俺の服の裾を掴んでいた。
「祐一くん、一人にしちゃ嫌だよう……」
「あのな。第一、リビングには秋子さんだって栞だっているだろ? なんで一々2階まで上がってくるんだよ」
「だって、迷惑掛けちゃ悪いし……」
「俺ならいいのか?」
「……うぐぅ、ごめんなさい……」
 しょんぼりするあゆ。俺はその頭にぽんと手を乗せた。
「ま、頼られて悪い気はしないけどな」
 あゆは、目元をごしごしと拭って、えへへと笑った。
「やっぱり、祐一くんって優しいよ」
「……頼む、それはやめてくれ」
 背中が痒くなる。

 俺とあゆは階段を降りると、洗面所に向かった。
 ちなみに、水瀬家の構造は、廊下から洗面所に入り、そこから脱衣場とトイレに通じる2つのドアがある。脱衣場のさらに奧に進むとバスルーム、というわけだ。
 洗面所に入ると、たしかにくぐもったような呻き声が微かに聞こえた。
「ほ、ほらっ」
 さらにぎゅっと裾を掴むと、あゆは震える声で俺に囁いた。
「祐一くんにも聞こえるよねっ!?」
「……」
 俺は無言で、脱衣場に通じるドアに耳を押し当ててみた。
 声はその向こうから聞こえてくる。
 ……そういうことか。
「ゆ、祐一……もが」
 俺が答えないので、大きな声を出しかけたあゆの口を塞ぐと、俺は洗面所から廊下に出た。
 ……はぁ、まいったなぁ。
「……ぐ、ぐぐっ」
 あゆがじたばたもがいて、俺はまだ口を塞いでいたのに気付いて、慌てて手を離した。
「ぷはぁっ、すーはーすーはー」
 大きく深呼吸してから、あゆは涙目で俺を睨んだ。
「ひどいよっ、祐一くんっ」
「ふ、甘いなあゆも」
「なにがだよっ」
「ああいうとき、咄嗟に息を止められるようじゃなくては大人のキスは出来ないぞ」
「ええっ? ボク知らなかった……」
 あゆは相当ショックを受けたようだった。
「……それじゃ、ボクが子供っぽく見られるのって、ちゃんと息を止められないから?」
「そうだな。1分は止めておかないと名雪のようにはなれないぞ」
「うぐぅ……」
 なにやら真剣な表情で考え込むあゆ。
 おっと、そんな場合じゃなかった。
「それより、あゆはリビングに戻ってろ」
「……洗面器に水を張って、顔を突っ込んでみるっていうのはどうかな?」
「息止めの特訓なら後でやれって」
「えっ? あ、うん」
 はっと我に返って、あゆは頷いた。それから俺に訊ねる。
「でも、あのおばけは?」
「心配いらん。それよりも栞を呼んできてくれ」
「栞ちゃんを? う、うん、いいけど。でもどうして?」
「理由は後でだ。急げあゆっ」
「うんっ」
 あゆはリビングに駆け込んでいった。ややあって、栞がぴょこんと顔を出す。
「祐一さん、私をご指名ですか? 嬉しいですっ」
「いや、まぁそうなんだが……」
「水割り頼んでもいいですか?」
「カレーも食えないくせにわけのわからんこと言ってるんじゃないっ」
「そんなこと言う人嫌いですっ」
「あ、いや、そうじゃなくてだな」
 俺は栞を手招きして、小さな声で言った。
「香里が風呂で泣いてるんだ」
「……お姉ちゃんがですか?」
 びっくりしたように俺を見る栞。
 そう、脱衣場のドアに押し当てた俺の耳に聞こえてきたのは、くぐもっていたが、嗚咽の声だった。
 今風呂に入っているのは香里だから、よほどのことがない限り、あれは香里が泣いているとしか考えられない。
 香里が泣いているところなんて、栞の病気のことで絶望していたときくらいしか覚えがないが、もちろん今の栞はとっくに全快してるから、それで泣いてるわけはない。とすると、さっきのあれなんだろうなぁ。
 香里が一人で泣いているっていうのは、ちょっといつもの香里からすると想像できないが、想像できないだけに俺に対処するのは難しいし、第一風呂場に入っていって慰めるわけにもいかないし、親友の名雪はとっくの昔に夢の国だ。とすると、栞しかいないだろう。
「どうしてお姉ちゃんが泣いてるんですか?」
「いや、それは俺にも判らないんだが、あゆがトイレに行ったときにな……」
 嘘を付くところでもないので、正直に経緯を話すと、栞は頷いた。
「そうですか。でも、祐一さんはどうしてお姉ちゃんがお風呂に入っているって知ってたんですか?」
 ぎく。
「あ、いや、えっと、……ほら、消去法で考えると、風呂に入っているのは香里しかいないじゃないか」
 慌てて、身振り手振りを加えて熱く語ると、俺は栞の肩を両手で掴んだ。
「栞っ、俺はお前を信じてるぞっ。だからお前も俺を信じろっ」
「は、はい」
 ぽっと赤くなると、栞はこくりと頷いた。
「わかりました。そうします」
「ならよし。それじゃ、任せたぞ」
「はい」
 こくりと頷いて、栞は洗面所に入っていった。
 あとは、姉妹でなんとかしてくれるだろう。……多分。
 そこはかとなく不安を感じつつも、俺は、このまま部屋に戻るのもなんなので、あゆの様子を見ようとリビングに入っていった。

 リビングに入ると、テーブルの上に広げられた参考書や問題集を前に、「必勝」と書いた鉢巻きを締めたあゆがうんうんと唸っていた。
 その隣りに座っている秋子さんが、俺に気付いて顔を上げると、唇に指を当てて「静かに」のゼスチャーをして見せる。
 俺は頷いて、そっと2人の後ろに回って、あゆの広げている問題集を覗き込んだ。
 中学生の数学の教科書だった。
 ううむ……。確かに、小学生の時からついこの間まで、7年間ずっと眠っていたあゆにしてみれば、中学生レベルまで上がってきたのは大したことかもしれないが、でも進級試験は来週だろ? このまま進化を続けるにしても、間に合うのだろうか?
 と、あゆがばっと顔を上げた。
「出来たよ、秋子さんっ! あ、あれ? 祐一くん、いつの間に……?」
「はい、見せてちょうだい」
「あ、うん」
 頷いて、問題集を秋子さんに手渡すあゆ。
 秋子さんは赤いボールペンを手にして、その問題集に丸を付け始める。
 俺は緊張の面もちでそれを見ているあゆに声をかけた。
「で、どうなんだ?」
「え? あ、勉強? うん、秋子さんも香里さんも色々教えてくれるから、とってもわかりやすいよ」
 笑顔で頷くあゆ。
 と、採点していた秋子さんが顔を上げた。
「はい、良くできました。満点よ、あゆちゃん。おまけに花丸をつけてあげるわね」
 そう言いながら、最後に大きな花丸を書いて、秋子さんはあゆに問題集を手渡した。
「やったぁ!」
 文字通り小躍りして喜ぶあゆ。
 それにしても。
「秋子さんって、そんなに教え上手なのか?」
「うん、ホントの先生みたいだよ」
「うふふっ」
 片頬に手を当てて微笑む秋子さん。
 ……まさか、とは思うが。
 俺は念のために聞いてみることにした。
「もしかして、秋子さん、教師免状とか持ってます?」
「ええ、持ってますよ」
 ……案の定であった。しかし、やっぱり謎な人である。
「さて、それじゃちょっと休憩しましょうか。お茶入れてくるわね」
 ちらっと時計を見て、秋子さんは立ち上がった。そのままダイニングに入っていく。
 と、その時電話が鳴った。
 トルルル、トルルル
「あ、ボクが出るよっ」
 秋子さんにも聞こえるように大声で言って、あゆが立ち上がった。そしてリビングにおいてある子機を取る。
「はい、つ、水瀬ですっ」
 ……今、月宮って言いかけたな、あゆ?
「あ、真琴ちゃん? ……うぐぅ、あゆあゆじゃないよう。……うん、あ、祐一くんならここにいるよ。今代わるね」
 そう言うと、こっちに駆け寄ってくると、子機を俺に差し出すあゆ。
「はい、祐一くん。真琴ちゃんから」
「おう」
 俺は子機を受け取ると、耳に当てた。
「もしもし?」
『あ、祐一?』
「おう。そっちは今天野のところか?」
『それなのようっ!』
 いきなり声が跳ね上がる。
『今ねっ、佐祐理のとこなのっ!』
「佐祐理さんの?」
『そうなの。それに舞もいるのようっ!』
「そっか。それじゃ舞に可愛がってもらえ」
『あう〜っ』
『真琴、ちょっと代わってもらえますか?』
『あ、美汐? でも、真琴がまだ祐一と話ししてるのに……』
『……可愛い』
『みにゃ〜っっ!!』
『あはは〜、舞ったら楽しそうですね〜』
『もしもし?』
 天野の声が聞こえたので、俺はため息混じりに言った。
「楽しそうだな、そっちは」
『……はい』
 いつもと変わらない天野の返事だった。
「それにしても、相変わらず策士だな、天野は」
『どういうことでしょう?』
「俺達に黙ってこっそりと佐祐理さんと舞を逢わせただろ?」
『……はい』
「俺達に一言の相談もなしとはずるいな」
『スーパーに隠れてた人に言われたくないです』
 うぉ、天野に見つかってたのか?
 俺が絶句していると、天野はこともなげに言った。
『見つけたのは真琴ですよ。お二人の声が聞こえたそうです』
「そういうことか」
 まぁ、あれだけ大騒ぎしたら、真琴にはばれるか。
『でも、確かに相沢さんにも相談しないで独断専行したのは事実です。すみません』
「いや、結果オーライなら問題なしだ。それにしても、あれだけ俺達を避けてた佐祐理さんを良く舞と逢わせることが出来たな」
『倉田先輩は、話せば判ってくださいましたから。それに、私もお手伝いしましたし』
「手伝い?」
『その話はいずれ。あ、……はい。相沢さん、倉田先輩がお話ししたいそうですから、代わります』
 一拍置いて、佐祐理さんの声が、受話器の向こうから聞こえてきた。
『もしもし、祐一さんですか?』
「おう、祐一さんだぞ」
『ごめんなさい、祐一さん。あんな態度を取ってしまって……。でも、佐祐理は普通の女の子よりもちょっと頭が悪いですから、他に方法を思いつかなかったんです……。本当にごめんなさい』
「いや、いいって。それより、明日からは……」
『明日からも……、ごめんなさい。今だけなんです』
「今だけ? どういうこと?」
『卒業式になれば、お話しできますよ。佐祐理が……ゴホゴホッ』
 不意に咳き込むと、佐祐理さんは言葉を続けた。
『ご、ごめんなさい。とにかく、佐祐理がみんなを嫌いになったりなんてしていないってことだけは、祐一さんに知っておいてもらいたくて……』
「ああ、それはもちろん信じてるって」
 俺が答えると、向こうで佐祐理さんがほっとため息をついたのが聞こえた。
『ありがとうございます、祐一さん。あ、舞も話すことある? 祐一さんだよ……。もう、照れてないで……』
 そこで、びしっという音が聞こえた。どうやら舞のチョップが出たらしい。
『もう、舞ったら照れ屋さんなんだから。それじゃ祐一さん。お休みなさい』
「おう、お休み」
 ぴっ
 電話が切れたところで、秋子さんがお盆に飲み物とクッキーを乗せて入ってきた。
「さ、おやつにしましょうか?」
「わぁい!」
 歓声を上げると、クッキーを摘むあゆ。
 俺はそんなあゆに声をかけた。
「こんな夜にそんな甘い物食うと太るぞ」
「うぐ」
 動きを止めるあゆ。と、秋子さんがにっこり笑って言った。
「大丈夫ですよ。甘くありませんから」
 ……甘くありませんから。
 その言葉が、俺の頭の中で警報を鳴らした。
「あ、そうなんだ。それなら大丈夫だよね」
 安心したように頷くと、あゆはそのクッキーを口に運んだ。
 その動きが止まる。
「……うぐぅ……」
「秋子さん、念のためにお聞きしますけど、もしかしてこの中に……?」
「ええ、クッキーの生地に甘くないジャムを入れてみました」
 にっこり笑って答える秋子さん。
 俺はまだ固まっているあゆを見捨てて、その場から遁走した。

Fortsetzung folgt

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あとがき


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