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ONE 〜into the Bright Season〜 Short Story #2
俺と澪のハプニング・ジャーニー その14

「うーん」
 俺は、ゆっくりと目を開けた。それから、目をこする。
 見慣れない天井。……そっか、旅館か。
 窓からは、カーテン越しに光が射してきている。どうやら、雨があがったようだ。
 すー、すー、すー
 隣から、規則正しい寝息。
 そっちに顔を向けると、無邪気に眠る七瀬の顔。
 毛布の間から、裸の肩と胸が見えていた。どうも、何も着ていないらしい。
 眠りに落ちる間際の事を思い出して、俺は思わず内心で思わず舌打ちした。
 あの状況だったら、今までやってみたかったことだって、七瀬はきっと受け入れてくれただろうに。惜しいチャンスだった。
 そう思ってから苦笑する。
 ま、いいか。
 俺は、七瀬を起こさないように身体を起こし……。
 起こせなかった。俺のシャツの裾を、七瀬がしっかりと握っていたのだ。
「七瀬……」
 ……どこにもいかないで、ってことか。
 そっと、その肩を揺さぶる。
「七瀬、起きろよ」
「う、うん……」
 七瀬は、ゆっくりと目を開けた。
「あ、浩平……」
「よ、おはよう」
「あ、あたし寝ちゃってたんだ……。って、何で裸なのよっ!!」
 ずずっと俺から離れると、毛布を身体に巻いて七瀬は立ち上がる。
「浩平のエッチ!」
「な、なんだよ。お前が脱いだんだろ? 俺は、ただ一緒に寝ようって言っただけだぞ」
「えっ? ……そうだっけ?」
 きょとんとする七瀬。俺は深々と頷く。
「そうだ」
「えっと、あ、もう夕御飯の時間じゃない? ねっ、ねっ」
 ……話を逸らそうとしてるな、こいつ。
 ま、確かにそんな時間か。
 俺は壁に掛かっている時計を見てから言った。
「それもそうだな。じゃあ、七瀬への責めは後でってことで。ひっひっひっ」
「アホかっ!!」
 かこぉーん

 俺と七瀬は着替えると、部屋から出た。すると、部屋の前には長森と椎名がいた。
「あっ、出てきた、出てきた。おはよ、浩平、七瀬さん」
「おう、長森に椎名。夕飯か?」
「うん、そうだよ。ね、繭?」
「うんっ」
「そっかそっか。……どした、七瀬?」
 後ろで七瀬が妙に複雑な顔をしている。
「うん……」
「ん?」
「……瑞佳、ずっとここで待ってたんじゃないよね?」
「うん。浩平、そろそろ目が覚めそうだなって思ったから」
 あっけらかんと答える長森。七瀬は溜息をついた。
「そういうところ、判っちゃうんだよね……」
「うん。そりゃ浩平歴10年以上だもん」
 えへん、と胸を張ると、長森はくすっと笑った。
「でも、七瀬さんにはかなわないよ〜。だって、わたしは一緒に寝るなんてできないもん」
「えっ? あっ、えっと、あはっ。ほ、ほら、あたし、昨日あんまり寝てなかったから、ついうとうとっと、ね」
 あっという間に真っ赤になると、七瀬は慌てふためいて説明する。
 長森はにまぁっと笑った。
「ふぅ〜ん」
「何よ、瑞佳っ。……でも、ホント? ホントにあたし、瑞佳より……?」
「うん。そうだよ〜」
 うんうんと頷く長森に、七瀬は照れ笑いを浮かべる。
「そっかぁ……」
 ほっとくと、何時までも和んでいそうなので、俺は声をかけた。
「それじゃ、飯に行こうぜ」
「うんっ♪」
 七瀬は上機嫌だった。椎名がおさげにからみついても何も言わないくらい。

 大広間にはいると、もう既に食事は始まっていた。
 俺は取りあえず、また隔離されているみさき先輩の所に行った。
「よ、先輩」
「あっ、その声は浩平君だね〜」
 みさき先輩は、笑顔で振り返った。……のはいいけど、おひつからは手を離して欲しい。
「でも、よかったよ〜。二人とも無事で〜。私、心配で昨日はあんまり食べられなかったよ〜」
「そうね。昨日はおひつ一つしか、空にしなかったものね」
 通りかかった深山先輩が笑いながら言うと、みさき先輩はぷくっと膨れた。
「もう、雪ちゃん意地悪だよ〜」
 俺は深山先輩にも頭を下げた。
「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」
「いいのよ。それよりも、良く澪を守ってくれたわね。ありがとう」
「いえ、そんな」
 俺は苦笑した。
「俺も、半分は澪に助けられたようなもんですし」
「でも、ホントによかったね〜」
 おひつを取り替えながら、みさき先輩が笑った。……って、さっき見たとき、おひつには溢れんばかりにご飯が入ってたような気がしたんだが……。
「そうそう、里村さんにはお礼言ったの?」
 深山先輩は俺に尋ねた。俺は首を振った。
「さっき廊下で逢ったけど、礼を言う暇もなくて」
「ちゃんとお礼言いなさいよ」
 確かにそうだな。
 俺は、大広間を見回した。茜はともかく、柚木辺りはいそうな……。
 いた!
 俺は、二人の先輩に挨拶してから、演劇部の男子部員達と仲良さそうにしゃべっている柚木に駆け寄った。
「柚木っ!!」
「あら、折原君じゃない。もう復活したの?」
「まぁな。それより、茜は?」
「茜? さっき、ちょっと外を散歩して来るって」
「飯も食わずにか?」
「あの娘、元々あんまり食べる方じゃないから、さっとだけ食べて行ったけど。甘い物はいくらでも食べるのにね」
 そう言って笑う柚木。
「サンキュ」
「いえいえ」
 少し笑うと、柚木は不意に真面目な顔になった。
「でも、あたし、あんな茜の顔、始めてみたよ」
「え?」
「あたし達がここに着いたとき、ちょうど七瀬さん達が山から下りてきたところに出会したんだけど、折原君達がいなくなったって聞いたときの茜の顔、なんていうのかな、すごく悲しそうな顔だったんだ」
「悲しそう?」
「うん。普通なら、そんな話を聞くとまずビックリするでしょ? あたしもビックリしたんだけど、茜の顔って、ビックリというよりも、悲しそうだったの。上手く言えないんだけど……、そう、全て知ってて、でもどうすることもできなくて悲しいって顔」
「そ、そうか?」
 なんでそこまでわかる? ……って、幼なじみってやつはそこらへんまで読めるらしいからなぁ。長森なんてもっと鋭いときあるし。
「それに、今朝になったら、雨が降ってるのにいきなり出かけようとしてね。あたしがどこに行くの? って聞いたら、迎えに行ってきます、ってそれだけ言って出かけちゃうし……」
「なんだよ、それ。俺や澪が、あそこに出て来るって判ってたみたいじゃないか」
「あたしも知らないわよ。でも、茜が折原君達を連れて帰ってきたのは事実でしょ。ま、そんだけ。それじゃ〜ね」
 いきなり柚木は元の脳天気な柚木に戻ると、隣の奴としゃべりを再開した。……こいつって、いったい……。
 ま、いいか。
 俺は、七瀬が上機嫌で飯を食ってるのをちらっと見て、大広間から出た。

 薄暗くなりはじめている旅館の周りをぐるっと回ったが、茜の姿はない。
 仕方ないので、戻ろうと旅館の玄関に戻ってきたところで、山道から降りてくる茜の姿が見えた。
「おーい、茜〜!」
 俺が声をかけると、茜はちらっと俺を見た。それから足を早めるでもなく、緩めるでもなく、こっちに歩いてくると、すっとすれ違う。
「あ、あの?」
「……はい」
 それだけ答え、でも動きを止めることなく、靴を脱いで上がっていく。
「茜っ!」
「……」
 俺の声に、茜は立ち止まると、なんですか? と言うように、振り返る。
 俺は、軽く手を上げた。
「ありがとな」
「……いえ」
 それだけ言って、茜は歩いていった。
「あか……」
「消えないで、ください」
 茜が呟いた声が、俺の耳に入った。
「悲しむ人が、いますから……」
「……」
 俺は、その場に立ちつくしたまま、茜の背中を見送っていた。

 夕食が終わって、俺達は部屋に戻ってのんびりとしていた。
 と。
 トントン
 ノックの音がした。俺は、テレビから視線を外して長森に言った。
「長森、誰か来たぞ〜」
「あっ、はぁ〜い!」
 本を読んでいた長森は、その本を伏せて、ドアの所に行った。
「はい、お待たせ……。あ、澪ちゃん。どうしたの? え? 浩平? ちょっと待ってね」
「俺か?」
 俺は立ち上がってドアの所まで行った。
 外には、澪がいた。俺を見て、ぺこっと頭を下げて、スケッチブックを広げる。
 『お話があるの』
「そっか」
 で? と俺が話を聞くモードに入ると、澪はちらっと部屋の中を伺う。
「なんだ? 他の人にも聞いて欲しいのか?」
 俺が訊ねると、澪はぶんぶんと首を振った。
 長森が苦笑する。
「二人だけで話がしたいんだよね、澪ちゃん」
 こくこくと頷く澪。
 長森は、俺に言った。
「澪ちゃんが何か話があるみたいだし、散歩にでも行ってきたら?」
「おう。それじゃ行って……って、何だよ」
「浩平っ」
 長森が、俺の浴衣の袖を掴んでいた。それから、俺に耳打ちする。
「ちゃんと七瀬さんに一言言ってから行かないとダメだよ」
「なんだ、そりゃ?」
「恋人って、そういうものでしょ?」
「わかった、わかった。七瀬、ちょっと澪と遊んでくるぜ」
「うん。判った。早く帰ってきてね」
 七瀬はテレビから目を離して、俺に答えた。
「それじゃ、改めて行くか」
 うんっ
 俺と澪は、部屋を出た。

「おい、澪、どこまで行くんだ?」
 宿から出て、人気の無い駐車場まで来たところで、俺が声をかけると、澪は立ち止まった。それから振り返る。
 水銀灯の明かりが、澪の影をアスファルトに縫いつけていた。
 澪は、懐から小さな紙袋を出して、俺に渡した。
「お、くれるのか?」
 ふるふると首を振ると、澪はスケッチブックを広げた。
 『返すの』
 紙袋を開けてみると、ハンカチが綺麗に畳んで入れてあった。
「あ、これか。別に返さなくても良かったのに……」
 俺が苦笑すると、澪は首を振る。それから、スケッチブックの間から、封筒を出すと、俺に渡した。
「なんだ、これ?」
 聞きながら、中を見ようとすると、澪は慌てて俺の手を押さえた。スケッチブックを開くと、ペンで文字を書く。
 『後で読んで欲しいの』
「手紙か?」
 こくこく、と頷くと、澪は頬を赤らめた。それから、後頭部に手をやった。
 シュルシュルと、軽い音がして、澪のリボンがほどけた。澪はそのリボンを俺の腕に巻きつけると、くるっと振り返り、駆け出した。
 その瞳から散った雫が、水銀灯の光にきらめいた。
「お、おい……」
 声をかけようとしたが、澪の姿はもう、水銀灯の光の中から消えていた。足音も、すぐに聞こえなくなる。
 俺は、腕に巻きつけられた、水色のチェックのリボンを、じっと見つめた。
 あいつ……。あれだけリボンを取られるのを嫌がってたっていうのに。どういうことなんだ? それに、あの涙は……?
 そうだ。手紙。
 俺は、封筒を開け、中から便せんを取り出した。

  
 折原浩平さま



 澪はしゃべれないから、手紙を書くことにしました。

 ほんとうに、ありがとうございました。澪は、一生忘れません。

 浩平さんに抱かれて過ごした夜。

 とっても怖かったの。でも、抱いてもらってると、安心できたの。

 だから、いっぱいありがとう。

 澪は、先輩のことが、とってもとっても好きになってしまいました。

 でも、だめですよね。先輩には、七瀬先輩がいるんだもの。

 だから、澪は、この手紙を最後にするの。

 澪の気持ち、澪のリボンと一緒に、先輩に渡して、終わりにするの。

 迷惑ばっかりかけて、ごめんなさい。

  

上月澪  

  


 ……あいつ。あんなに小さなくせに……。俺が腕で抱くと、すっぽり収まってしまうくらい小さなくせに……。
 俺は、腕に巻かれた水色のリボンに、そっと触れた。
 澪の心が、伝わってくるような、気がした。
 人気のない駐車場で、俺はいつまでもたたずんでいた……。

「浩平」
 俺を呼ぶ声に、俺は振り返った。
「……七瀬」
「ごめん。でも、いつまでたっても、戻ってこないから」
 浴衣にどてらを着た七瀬が、水銀灯の光の中に入ってきた。俺の顔を見て、怪訝そうに小首を傾げる。
「どうしたの、浩平?」
「いや、なんでもねぇよ」
 俺は、便せんを丁寧に畳んで、封筒の中に戻した。それから、七瀬の肩を叩いた。
「戻ろうぜ」
「……うん」
 七瀬は、歩き出した俺の肩に、頭を預けてきた。俺は、そんな七瀬の肩をそっと抱き寄せた。
「……なかなか、うまくいかねぇもんだよな」
「……?」
「なんでもねぇよ」
 夜空を見上げると、ちょうどその時、星が一筋、流れて消えた。それが、俺には澪の涙のように思えた。

To be continued...

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