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鬼畜王ランス アフターストーリー

颱風娘の大騒動 その17

 承前

「ナギちゃん、まだゼスを落とせないのぉ?」
 空色の髪の少女は、笑みを浮かべてナギに訊ねた。
「あれからもう1週間たってるよぉ?」
「……」
 無言のナギをちらっと見て、少女は肩をすくめた。
「アールコート……だっけ?」
「そう。アールコート・マリウス。リーザス緑軍の隊長だ。あいつのせいで……」
 ナギは、忌々しげに呟いた。
 空色の髪の少女は、小首を傾げた。
「何も、正面からぶつかるだけが戦いじゃないでしょ? その娘を殺しちゃえば、いいんじゃない?」
「……暗殺、しろと?」
「そ」
 あっさりと答える少女に、ナギは答えた。
「ゼス宮殿に潜入出来るような暗殺者など、そうは居ないぞ」
「別に、人にこだわらなきゃいいんじゃない? これ、使う?」
 少女は、どこからともなく取り出したボールのようなものを、ナギに放り投げた。
 それを受け取って、ナギは眉をひそめた。
「これは……」
「名前なんて忘れちゃったけどね。人間にとりついて操ってくれる虫の卵だよ」
「……このような回りくどい……」
「ナギちゃんが正面から攻め落とせないから悪いんだもん。でしょ?」
 そう言って、少女はくすくす笑った。

 甚大な被害を受けつつも、リーザス緑軍がゼス宮殿に入城してから、1週間。その間も、魔物の大群による苛烈な城攻めが続いていた。
 いかに堅固な要塞であるゼス宮殿とはいえ、その半分は志津香とナギの戦いの余波で倒壊している。通常ならとっくに攻め落とされていてもおかしくない状況である。
 だが、そんな状況にあるにもかかわらず、ゼス宮殿は持ちこたえていた。

「敵襲っ!!」
 見張りの兵士の叫び声に、守備隊の間に緊張が走った。ざわめきが広がる。
 それを鎮めたのは、彼らの前に立つ少女の言葉だった。
「大丈夫。落ち着いて戦えば、勝てます」
 すみれ色の髪の少女、アールコートは、指揮棒を右手に握り、そして左手を隠しにいれた。そこに、堅い感触を感じる。
(ランス陛下……)
 それは、かつてランスがアールコートにくれたさくら貝だった。ランスにしてみれば、「穴があいてるからいらん」と彼女に渡したものなのだが、彼女にとってみれば宝物だ。
 今でも、この貝を触るだけで、アールコートは勇気が湧いてくる。

「教えてやろう。俺は、英雄だから失敗しない。失敗しないから、最悪の事態なんて考えなくてもいいのだ。必要ないのだ」
「はぁ……。いいですね、英雄って……。でも……、じゃあ、私は駄目ですね……。一般人だから、失敗します……」
「ちっちっち。違うぞ、アールコート。お前は英雄である俺様の部下だ」
「……は?」
「英雄の部下が失敗するか? 最悪の事態に陥るか? 違うだろ。お前は、失敗しない。俺の部下だから、そう決められているんだ」
「……はいっ」
「もし失敗しても、それはさらなる成功の為の失敗だ。そういう運命なんだ。わかったな?」
「はい……。私……、何だか、頑張れそうです。……王様の…為になら……」
「よしよし、可愛い奴」

(私、頑張りますっ)
 アールコートは、視線を上げて、命令した。
「出撃!」
「おおーーっ!!」
 兵士達は歓声を上げた。
 ゼス宮殿の守備部隊は、ゼス軍の生き残りと、リーザス緑軍の生き残りの混成部隊であるが、これまでの1週間の激戦のうちに、彼らがアールコートに寄せる信頼は揺るぎないものになっていた。将が兵士達の信頼を得るには、勝ち続けることであり、アールコートは今のところ、それを実行してみせていた。

 城から、守備部隊が突出し、魔物達の軍とぶつかり合った。剣や槍の穂先が太陽にきらめき、鎧や盾のぶつかり合う音が響く。
 だが、ほとんど一合打ち合わせたかそこらで、守備部隊は撤退する。
 それを無秩序においかけようとした魔物達の足下が、不意に消失した。一瞬の浮遊感の後、穴の底に叩き付けられる魔物達。
 あらかじめ掘られていた落とし穴である。
 一瞬動きを止めた魔物軍に、城壁に残っていた弓部隊からの攻撃が降り注いだ。落とし穴の場所は、城壁から弓で届く範囲を計算して掘られていたのだ。
 慌てて逃げる魔物軍。
 アールコートは続けて命じた。
「投石機、お願いしますっ」
「了解っ!」
 伝令が命令を伝えると、既に発射の用意が整っていた投石機が、次々と大きな石を発射する。
 その石の下敷きになり、潰れる魔物達。
 運良くそれを避けて、さらに逃げる魔物達は、だがそれすらも計算されていることを知らない。
 投石機の射撃は、巧妙に魔物達の逃げる道を描き出していたのだ。
 そして、その道の終着点には……。
 ドォン
 あらかじめ仕掛けられていた魔法筒――魔法を封じてある筒で、合い言葉、または時間などで自動的に発動するもの――が、次々と炸裂した。
 逃げ場を失い、次々と吹き飛ばされる魔物達。
 それを見て、アールコートは命令を下す。
「出撃!」
 一旦、城の中に撤収した守備部隊が、再び出撃し、もはや烏合の衆と化した魔物の敗残部隊に向かっていく。
 それを見送るアールコートに、メナドが声をかけた。
「ご苦労様」
「あ、メナドさんっ」
 慌てて敬礼するアールコート。もっとも、アールコートは、正式にはまだ緑軍の将軍であり、赤軍の副将の任を解かれたメナドよりも地位は上なのだが。
 メナドは、戦場を見やった。
「やってるやってる。……でもさ」
 戦場では、戦意を失った魔物を、兵士達が歓声を上げて斬り殺していた。それを見ながら、メナドは訊ねた。
「2回目の出撃は、必要なかったんじゃないかな? もう勝負は付いてるようにみえたんだけど……」
「……ええ」
 アールコートは、隠しの中のさくら貝をぎゅっと握った。
「でも、必要なんです」
「そうなの? ボクは、あんまり難しいことはよくわかんないんだけどさ……。でも、これは……」
「必要です」
 その言葉に振り返ると、ランが立っていた。
「そうなの?」
「ええ」
 風に乱される栗色の髪を手で押さえ、ランは頷いた。
「二度目の出撃の意味は、守備兵の志気を上げるため。言ってみれば、弱い敵をたたいて、ストレスを発散させているんです。ただでさえ、籠城は、特に状況がよく見えない一般の兵士達にとってはストレスが溜まるものですから、こうして発散させる場がないといけないんですよ」
 かつて、彼女達の暮らす自由都市カスタムは、何度か外敵に攻撃され、籠城する羽目になったことがある。その時の経験から、ランは静かに言った。
 アールコートは頷いた。
「はい、そうです」
「そっかぁ。難しいんだねぇ。勉強になるよ」
 メナドは、頭を掻いた。

「でりゃぁっ!」
 兵士の振り下ろした剣に、背中をたち割られて、魔物が血を吹き出しながら倒れる。
「けっ、弱いもんだぜ」
 兵士は笑いながら、その魔物を踏みつけた。それから、ゼス宮殿の城壁の方を振り返る。
「それにしても、アールコート将軍ってすげぇよなぁ。おまけに、可愛いし。へへっ。……おっと、いけねぇいけねぇ。アールコート将軍は、ランス様のお気に入りだったからなぁ。くわばらくわばら」
 ランスは、自ら言っていたように「アフターサービス万全」であることも結構知られている。かつてランスのハーレムにいた美女や美少女が、他の男達に利用されないのも、彼女らに手を出すのはランスを敵に回すのと同じと思われているためである。
「にしても、惜しいよなぁ。あれだけ可愛いのによぉ。それに、ランスさまのお相手ってことは、あっちの方も……。へっへっ」
 思わず、よだれを拭う兵士に、後ろから声がかかった。
「なら、自分のものにしてしまえばいい」
「なっ!?」
 振り返る兵士。しかし、そこには誰もいない。
「空耳か……?」
 首をひねる兵士。その耳元で囁く声。
「手伝ってやろう」
 同時に、背中に何かが押し当てられた。そして、それがずぶずぶと身体に潜り込んでいく。
 兵士は、絶叫した。しかし、その叫びは、周囲の魔物たちの叫びの中では、あまりにか細かった……。

「魔物が撤退していきます!」
 報告の声に、城壁の上では兵士達の歓声が上がった。
「おととい来やがれっ!」
「人間様をなめるなよ、畜生めっ!」
 その様子を見ながら、アールコートはほっと胸を撫で下ろした。
「アールコート将軍、やりましたねっ」
 メナドが誉めると、彼女はかっと赤くなって俯いた。
「えっ? あ、私じゃなくて、皆さんのおかげです」
「そんなことありませんよ。あなたの指揮あってのものですから」
 ランが柔らかく言うと、アールコートはさらに赤くなった。
「えっと、あの、私、報告に行きますから、後お願いしますっ」
 それだけ言うと、アールコートはその場から逃げるように走り去った。メナドはその後ろ姿をじっと見送り、おどけて敬礼した。
「了解しましたっ!」

「アールコート将軍が、また魔物の攻撃を退けてくれましたよ」
 アレックスの報告に、マジックはほっと一息ついた。
「そう……」
 ゼス宮殿の執務室。
 千鶴子が倒れたままなので、マジックは国王臨時代行として、ずっとこの執務室に詰めていた。
「マジックも、少し休んだ方がいいよ」
「……ううん、私は、大丈夫よ」
 マジックは、アレックスに微笑んでみせた。
「みんな、頑張ってくれてるのに、私が弱音なんて吐いてたら、親父に笑われるわ。それに……、あなたが、いてくれるんだもの……」
「マジック……」
 アレックスは、そっとかがみ込むと、マジックにキスをした。
 トントン
「失礼し……、わっ、あ、あの、あのっ」
 報告のためにドアを開けたアールコートは、アレックスとマジックのキスシーンを目の前にして、その場に硬直していた。
「あっ」
「あ、えっと……」
 慌てて離れるマジックとアレックス。
 何とも気まずい空気が流れる中、マジックは平静を装って声をかけた。
「あの、アールコート将軍。アレックスから報告は受けてます。ご苦労様でしたっ」
「は、はいっ、す、すみませんでしたっ!」
 くるっと振り返ると、慌てて出ていくアールコート。アレックスとマジックは、顔を見合わせて苦笑し合った。

 トサッ
 すっかり日が落ちた頃、雑務を終わらせて宮殿内に与えられている自分の部屋に戻ると、アールコートは鎧を脱ぎ、下着姿になって、そのままベッドに身を投げ出した。
 連日、激戦が続いている。いつもなら、ベッドに倒れ込むと同時に、泥のように眠ってしまうところだったが、今日は疲れ切っているのに、いつものような心地よい微睡みは訪れてこなかった。
 その代わりに、さっき見てしまった、アレックスとマジックのキスシーンが何度も脳裏にリフレインしている。
「……はぁ」
 枕に伏せた唇から、吐息が漏れる。
 いつしか、アールコートの脳裏に浮かぶ映像では、自分とランスがキスを交わしていた。
「ランス……王さまぁ……」
 いつしか、右手が自分の下半身に伸びてゆく。
 と。
「そんなに寂しいんなら、俺が慰めてやるぜぇっ」
 下卑た笑い声と同時に、不意にアールコートの上に、何か重いものがのし掛かってきた。
 悲鳴を上げようとする口が、生暖かい手に押さえつけられる。
「どうせ死ぬんだ。その前に楽しませてくれよ」
 そいつは、舌なめずりをしながら、恐怖にすくんでしまっているアールコートの身体を、なめ回すように眺めていた。吐く息からは、すえたような匂いがする。
 その手が、アールコートの身体を頼りなく包んでいる下着にかかり、引き裂いた。

「……ふぅ」
 テラスから、月を見上げながら、ラファリアはため息をついた。
 自らは敗北し、しかもアールコートによって助けられる。彼女にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
 しかも、ゼス宮殿に入ってからは、アールコートは事実上、ゼス守備の要として、リーザス軍だけではなくゼス軍をも統括して、戦いに臨んでいる。ひきかえ、ラファリア自身はというと、地位は緑軍隊長のままだが、その緑軍自体が戦力をほとんど失ってしまっている今は、相対的な地位は、単なる一隊長にしか過ぎない。
 だが、問題はそこにはない。最大の問題は、ラファリア自身にあった。
「……あの娘には勝てない……か」
 彼女は呟くと、テラスの手すりに顔を埋めた。
 敗北感。それが、今のラファリアを苛むものだった。
 今まで、彼女は負けたと思ったことはなかった。仮に負けたとしても、それはたまたま状況がそうなっていたからで、本来の条件さえ整っていれば勝てた、そう信じていた。つまり、自分自身に絶対の自信を持っていた。
 だが、その自信が初めて砕け散っていた。
 考えてみれば、ラファリアが実戦で全軍の指揮を執ったのは、これが初めてだった。これまで部隊長として、上の命令に文句をいいつつも従い、戦ってきたのとは違う。全てが自分の責任だった。
 そして、彼女は負けた。
 もし、アールコートが助けに来なければ、あの河岸で汚泥にまみれながら殺されていただろう。
 そして、改めて彼女は知ったのだ。アールコートの強さを。
 戦いに勝つことが、強さなんじゃない。指揮官の強さというのは、味方の全将兵の命をその肩に背負える強さなのだ。
 かつて、女子士官学校で、学長のアビアトールが言った言葉を、ラファリアはこの時初めて理解していた。
 と。
「……!」
 微かに、物音が聞こえた。布の裂ける音。そして……。
(悲鳴……?)
 ラファリアは、手すりから身を起こした。

「けっ、手間かけさせやがって」
 男は、悪態を付くと、身体を起こした。
「……」
 アールコートは悲鳴を上げた。が、その声は、口に押し込まれた自分の下着のせいで、くぐもった音にしかならなかった。
 既に手足はロープで縛られ、ベッドに固定されている。
「さて、お楽しみの時間だぜ」
 にやっと笑うと、男はズボンの股間に手をやり、いそいそと自分のものを取り出そうとした。男の意図を察知して、アールコートの目が大きく見開かれる。
 どがっ
 鈍い音がしたかと思うと、男の目がくるんとひっくり返って白くなり、そのままその場に崩れ落ちた。
「……ったく」
 その後ろには、ラファリアが立っていた。手には、剣を逆手に持っている。どうやら、男の後頭部を、束の部分でしたたか打ち据えたようだ。
 次いで、ラファリアは剣を持ち直すと、一閃させた。思わず目を閉じたアールコートが、おそるおそる目を開けると、彼女を縛っていたロープがバラバラになって落ちている。
 やっとのことで、アールコートは口に突っ込まれていた下着を引っぱり出すと、そのまま身体を丸めてうずくまった。
「ラファリア……さん。私、わた……」
「……!?」
 そのアールコートに何と声をかけようかと思案していたラファリアは、異様な気配に気づいて振り返った。
 男が、立ち上がっていた。
「ちっ」
 浅かったか、と舌打ちして身構えるラファリア。だが、すぐに気づいた。
 男は白目をむいたままだ。舌もだらんと口からはみ出し、よだれを垂らしている。どう見ても、意識があるようにも見えない。
「な、なに、これ……」
 呟くと、ラファリアは剣を握り直した。
 男は無造作に近づいてくる。そして、ラファリアに向かって腕を振り下ろした。
 とっさに飛び退くラファリア。目標を失って、床にたたきつけられる腕。
 嫌な音がした。石造りの床にヒビが入り、血が飛び散る。
 男の腕は、文字通り砕けていた。
「アールコート、さっさと逃げなさいっ!」
 ラファリアは叫んだ。
「で、でも……」
「魔物かもしれないわ! 誰か呼んできて!」
「は、はいっ」
 弾かれたように、アールコートはシーツを身体に巻き付けた姿で部屋を飛び出した。それを追いかけようとした男の前に回り込むラファリア。
「ここは、通さないわ」
「うがあぁっ!」
 そのまま飛びかかってくる男。ラファリアがそれをかわすと、男はそのまま壁に激突した。壁はあっさりと崩れ落ちる。
 もうもうと埃が上がるなか、男が振り返る。
 その身体は血塗れになっており、あちこちの関節は骨折しているのか、あらぬ方向に向いている。
 ラファリアは、攻撃に転じた。瞬時に懐に飛び込み、切っ先を突き出す。
 ドシュッ
 ねらい通り、その一撃は男の心臓を貫いていた。血が噴き出す。
 だが。
 ブン
 一瞬油断したラファリアの身体が、男の横殴りの一撃を受けて吹き飛ばされた。そのまま反対側の壁にたたきつけられる。
「ぐふっ」
 熱いものが胸の中にこみ上げ、ラファリアはそれを吐き出した。
 床に鮮血が広がる。
 それでも、彼女は必死になって、壁に背をつけて立ち上がった。
 かすむ視界の中、男の姿がゆらゆらと近づいてくるのが見える。
(こんなところで……死ぬの、私?)
 右手を前に出して、初めて剣がないのに気が付く。壁に叩き付けられたときに取り落としているらしい。
 ぐいっ、と身体が持ち上げられる。
 男に掴まったんだ、と頭で理解できても、身体は動かない。
 と。
「させるかぁっ!!」
 ドシュッ
 鈍い音と共に、ラファリアの身体は床に落ち、そして意識が消えた。

 剣を一閃させ、男の腕を切り落としたのはメナドだった。そのまま男の前に回り込むと、叫ぶ。
「かなみちゃん! ラファリアをお願い!」
「わかったわ」
 かなみが、素早く床に倒れたラファリアを背負い、部屋から飛び出す。
「ラファリアさんっ!」
 アールコートがラファリアに駆け寄った。そして、血塗れになった姿に息をのむ。
「そ、そんな……」
「志津香さん!」
「私は、治療は本職じゃないんだけど……」
 かなみの声に、志津香は廊下に寝かされたラファリアの脇にかがみ込んだ。
 その後ろを、ミリが駆け抜け、部屋に飛び込んだ。
「ミリさん、危ないっ!」
 メナドの声に、とっさに前転するミリ。その背中を、何かがかすめた。
「ったく、あぶねぇなぁ」
 ごろっと一回転してから、振り返り剣を抜くミリ。
 メナドが、抜き身の剣を下げて駆け寄る。
「気を付けて。あいつ、人間じゃない」
「魔物かい?」
「わかんないよ。でも……」
 メナドは、指さした。
 切り落とされたはずの腕が、生えている。いや、正確に言えば、別の腕、といべきか。
 見る間に、脇腹が裂け、その中から粘液に覆われた腕が伸びる。その身体を黒い剛毛が覆う。
「人蜘蛛かい? 器用な奴だねぇ」
 平然とミリは言うと、メナドに訊ねた。
「強いかい?」
「まぁね」
 メナドはにっと笑った。ミリは苦笑した。
「こりゃ、後でボーナス代わりに美少年を4,5人見繕ってもらわにゃならんな」
 と、不意に人蜘蛛の動きが止まった。かと思うと、その背中が割れ、中からさらに大きな人蜘蛛がはいだしてくる。
「脱皮か!?」
「ミリさん、メナド、部屋から出てっ!!」
 マリアの声がした。二人は、顔を見合わせ、そのままダッシュして部屋から飛び出した。
 その後を蜘蛛が追ってくる。
「来ないでっ!」
 叫ぶと、マリアは筒を肩に乗せ、スイッチを入れた。
 ゴウッ
 筒から炎が吹き出し、部屋を業火に染めた。肉が焼ける嫌な匂いが漂い、煙が辺りに充満する。
「ふぅ……」
 マリアは汗を拭った。その瞬間、いきなり炎の中から、蜘蛛の足が飛び出してきた。先端の鈎爪が、虚を突かれたマリアの胸を貫く。
「マリアっ!!」
 ドシュッ
 悲鳴が上がった。
「……え?」
 マリアは、きょとんとして、自分の胸に突き刺さった鈎爪を見つめていた。そして、咳き込んだ。唇から、鮮血が流れ落ちる。

 ラファリアに治癒魔法をかけ終わった志津香が顔を上げた、まさにその瞬間、悲劇が起こっていた。
「マリアーーーっ!!」
 志津香は、叫びながら腕を振り上げた。その軌跡に沿って生まれた、目に見えない刃が、マリアを貫いた蜘蛛の足を切断する。
 蜘蛛はよろけ、炎の中に倒れ込み、燃え尽きていった。
 支えを失ったマリアがよろめく。その身体を、ミリが抱き留めた。
「おいっ、マリア! しっかりしろっ!!」
「マリアっ」
 志津香が駆け寄る。
「わ、わた……」
「しゃべるんじゃねぇ! 志津香、魔法だっ!」
「うんっ」
 志津香が、呪文の詠唱を始める。
「志津香……、いいの、もう。必要、ないから……」
 マリアは、血塗れになった手で志津香の腕を掴んだ。
「ば、馬鹿なこと言ってるんじゃないわよっ!!」
「そうだ、マリア!」
「ミリ……」
 何か言いたげに口を動かしかけ、そこで力つきたように、マリアはかくんと頭を垂れた。
 眼鏡が、床に落ちて、割れた。

「……すまん、失敗した」
 頭を下げるナギに、空色の髪の少女は笑って答えた。
「いいよ」
「しかし……」
 少女は、チェス盤から白のナイトを取って、放り投げた。
「アールコートよりも、マリアの方が厄介だもんね」
 キン
 軽い音がして、床に落ちたナイトは、二つに割れて転がった。
「さて、と」
 彼女は立ち上がった。
「そろそろ面倒になって来ちゃったな」
「え?」
「私が行くよ」
 少女は微笑んで、黒のクイーンを動かした。

《続く》

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