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暑い日 彩子編


 盆も過ぎたってのに、全然涼しくならないなぁ……。
 俺は、西に傾きかけた太陽を恨めしげに見ながら、背中の荷物を揺すりあげた。
 夏休みも残すところ後10日余り。ということで、そろそろ宿題をしなければならないわけだ。
 最終日まで持ち越さない分、立派だと思ってくれ。
 で、去年はオールラウンダーの詩織に「ちょっと見せてくれぇ」と頼んで何とか片づけたのだ。
 ところが、今年は……。

 プルルル、プルル。
『はい、藤崎です』
「あ、俺、公だけど」
『あ……』
「え? どうかしたの?」
『……ううん、なんでもないの。ところで、何の御用?』
「あ、あのさぁ、頼みにくいんだけど……」
『え? な、なにかしら?』
「見せて欲しいんだ」
『そ……そんなこと、急に言われても……、お父さんもお母さんもいるしぃ』
(なんで、詩織の両親が出て来るんだ?)
「あのー、もしもし?」
『で、でも、公がどうしてもって、言うんなら……』
「ありがと。これで宿題はバッチリだな」
『え? 宿題?』
「うん、夏休みの宿題」
『……夏休みの宿題?』
 その瞬間、俺はぞくっとして窓の方を見た。
 なんとなく、その向こうから禍々しい気配を感じたから。
「し、詩織?」
『宿題はね、自分でしなくっちゃいけないでしょう! それじゃあね!』
 ガシャン
 俺は思わず受話器から耳を離していた。
「つつーっ。鼓膜に響いたぁ……」

 詩織のサポートが期待できない以上、他の方法を採るしかないわけで。
 俺は如月さんを図書館に誘い、紐緒さんに好雄を提供した。
 古式さんを図書館に誘い、再び紐緒さんに好雄を提供した。
 そして……。

「ハァイ、元気してた?」
「あ、片桐さん!」
 駅前の噴水で待つこと5分。片桐さんが駅から駆けてきた。
「おひさ!」
「そうねぇ。終業式以来逢ってなかったわねぇ。バイザウェイ、ところで、私を呼び出して何の御用かしら?」
「あの、実は宿題のことで……。片桐さん英語得意でしょ?」
「オールライト。そういうことね。でも、私の教え方は、優しくないわよぉ」
 片桐さん、にかっと笑った。
「そこを何とかお願いします、このとーり」
 俺は手を合わせた。
 片桐さんは少し考えて頷いた。
「じゃあ、スケッチ一枚で手を打ってあげるわよ」
「スケッチ? モデルかい?」
「イエス、そうよ」
 俺は、思わず両手で自分の身体を抱きながら後ずさった。
「ま、まさか、ぬうどもでる? 俺、結婚までは清い身体でいたいのぉ」
「ノンノン。莫迦言ってるんじゃないの。第一公のヌードなんて誰も見たがらないわよ」
 あっさりといなされてしまった。やはり詩織とは反応が異次元だ。
「デッサンだけでいいの。明日の夕方、空いてる?」
「明日ねぇ。ああ、いいよ」
「オッケイ。じゃ、明日の夕方の、そうねぇ、4時ぐらいにあたしの家に来てくれる?」
「家に? わかった」
 俺は頷いた。
 片桐さんはにこっと笑った。
「それじゃ、イングリッシュのホームワーク、片づけましょう!」

 さすが片桐さん。俺が四苦八苦したはずの宿題を鼻歌混じりにすいすいと書き上げていく。その手つきは洗練された芸術家のそれを思わせる、なんて言ったら言い過ぎだろうか?
 いやぁ、片桐さんのこと。照れながらも自信たっぷりに「あったりまえじゃない」なんて言うにきまってるんだ。
 しかし、マックでこんな事やってると、やっぱり目立つなぁ。
 俺は片桐さんに視線を向けて……。
 ドキッ いきなり、心臓が波打った。
 片桐さんは、細いシャープペンシルを片手に、頬杖をつきながら、テキストを読んでいた。後れ毛が数本、頬にかかっていて、白いうなじが……。
(片桐さんって、今まであまり意識してなかったけど……綺麗だなぁ)
「ホワット、何?」
 不意に彼女が顔を上げた。
「え? あ、いや。まだかなぁって思って……」
「もうちょっとだから、ジャスト・ア・モーメント・プリーヅ」
 そう言うと、再びテキストに視線を落として何か書き込み始める片桐さん。
 俺は、結局ずっと彼女の顔を見つめていたような気がする……。

「じゃあ、明日の約束、忘れないでよぉ」
「もちろん。4時に片桐さんの家に行けばいいんでしょ?」
「ザッツライト、その通りよ。それじゃ、グンナーイ、さよならぁ」
 手を振る片桐さんが駅の雑踏の中に消えるのを見送ってから、俺は愛用の青い自転車に跨った。
 もう暗くなり始めてる。早いところ帰らないと、夕飯にありつけなくなりそうだ。

 キィッ
 俺は家の前でブレーキを掛けて、自転車を止めた。そのまま自転車を押して、門の中に入ろうとしていると、後ろから声が聞こえた。
「公くん、今帰りなの?」
「あ、詩織?」
 詩織は、ピンクのワンピース姿だった。
「あの、公くん、昨日はごめんね」
「いや、いいよ」
 俺は首を振った。
 詩織は、数歩俺に近寄ると、俯いた。それから顔を上げる。
「あのね、宿題、やっぱり教えてあげようかなって……」
「ああ、それならもういいんだ。他の友達に協力してもらってなんとかなった……か……ら」
 詩織の表情が激変したのが、夕闇の中でもハッキリ判った。
「そうなんだ……。それじゃ、私はいらなかったのね」
「え? いや、いらないとかそんな……」
「公くんの、莫迦っ!!」
 パシィン
 乾いた音がした。一瞬遅れて、右の頬がかっと熱くなる。
「し……おり?」
「あなたの気持ちは、よく判ったわっ!」
 そう俺に向かって叫ぶと、そのまま詩織は踵を返して、自分の家に駆け戻っていった。
 俺は、訳が分からずに、頬を押さえて立ち尽くしていた。
「詩織……、一体何だってんだ?」

 ったく、詩織の奴。暑さでとうとうプッツン切れたかなぁ。
 翌日、俺はそんなことを考えながら家を出た。とりあえず、午前中に好雄を紐緒さんの所に連れて行かねばならん。
 玄関を開けると、もううだるような熱気が流れ込んできた。思わず「ファイヤー」と叫んでしまう。
 あー、いかん。さっさと出かけよう。

 自転車を止めると、俺は好雄の家の呼び鈴を鳴らした。
 ピンポォン
 間の抜けた音がして、しばらくすると家の中からパタパタと足音がした。
 む、この軽い足音は……。
 俺は、もたれていた自転車から離れると、両足を踏ん張った。
 バタァン
「公せんぱーいっ!!」
 ドアが壊れそうな勢いで開くや、優美ちゃんがそのまま俺に向かって飛びついてきた。
「おおっと」
 がっしと受けとめると、優美ちゃんは何が嬉しいのかにこにこしながら俺に訊ねた。
「先輩、遊びに来てくれたんれすね?」
 疑問の形を取っているが、確認しただけのようだ。
 と、一瞬俺は後頭部に殺気を感じた。慌てて振り向いたが、誰もいない。
「変だなぁ……」
「どうかしたんれすか?」
「あ、いや、なんでもないんだ」
 俺は俺にしがみついたままの優美ちゃんを玄関まで運ぶと、降ろした。詩織よりは軽いが、それでもやっぱ軽々ってわけにもいかないんだなぁ。
「よっこいしょっと」
「ねぇねぇ、先輩。優美ね、新しいカードゲーム買ったんだよぉ」
 はしゃぐ優美ちゃん。俺は何とかなだめようと、肩に手を置いた。
「優美ちゃん!」
「なんれすか、先輩?」
「好雄はいる?」
「お兄ちゃんれすか? おーにーーちゃーーん!!」
 玄関から、半径200メートルは届きそうな大声で叫ぶ優美ちゃん。大した肺活量だ。
 ややあって、2階から降りてくる好雄。
「何だよ、優美。こっぱずかしい……、何だ、公。いたのか?」
「いて悪いか」
「そーだよ、お兄ちゃん。先輩はいてもいーの」
 優美ちゃんが俺の首に腕を回しながら言う。
「お、おい、優美ぃ……」
 俺は好雄の情けない顔を見て、ちょっと悪ふざけしたくなった。そっと優美ちゃんの手を握る。
「好雄、実は言わなければならないことがあるんだ」
「な、なんだよ」
「責任はとる。お前のことを兄貴と呼ばせてくれ」
「なにぃっ!? て、てめぇ、まさか……」
 好雄は俺ときょとんとしている優美ちゃんの顔を見比べた。
 と、優美ちゃんがにまぁっと笑った。そして、俺に顔をすり寄せる。
「そーなんだ、お兄ちゃん。優美ね、公先輩にあげちゃったの」
「ゆ、優美!?」
 好雄は廊下にぺたんと座り込んだ。俺はその目の前で手をひらひらさせた。
「おい、好雄、好雄クーン?」

「何か強い精神ショックを受けているみたいね」
 紐緒さんはそう言うと、好雄を受け取った。
「まぁ、いいわ。こういう精神状態下でどのような反応が得られるか、興味深いわね」
「んじゃ、また」
 俺はそそくさと紐緒さんの家から逃げ出した。迂闊に見学なんかしてると、俺まで巻き込まれかねないからなぁ。
 好雄、いい友達だった。墓標には「愛の伝道師、ここに眠る」と彫ってやろう。
 合掌。

 そんなこんなでお昼過ぎになってしまった。一度家に帰ろうかな。
 俺は自転車の方向を家に向けようとした。
 そ、その俺の視界の隅を、見覚えのある何かがかすめた。
(……詩織?)
 どう考えても、詩織がこんな所にいるはずがない。
 でも、今の赤い髪は……。
 俺は自転車を止めて振り返ったが、無論こんな暑い昼に舗道を歩く物好きもいないわけで、前後には誰の姿もない。
「気のせいだな、うん」
 俺は頷くと、再発車した。

 俺の家につく前に、詩織の家の前を通る。俺は何の気なしに、ちらっと詩織の家のガレージを見た。
 いつもは置いてある詩織愛用の白い婦人用自転車が無かった。
(どこかに出かけてるのかなぁ。美樹原さんの所かな?)
 俺は、そのまま自分の家に戻った。
「たでーまぁ」
「あら、お帰り、公。そうそう、詩織ちゃんが来てたわよ」
「いつ頃?」
 俺はクーラーのきいている居間のソファに座って新聞のTV欄に目を通しながら聞き返した。
「そうね、公が出て行ってから10分位してからかしら。たったいま出かけたところだって言ったら、そうですかって帰っていったけど……」
「ふぅん」
 今日は特に面白いテレビはないなぁ。
 俺は新聞を畳んだ。
 と、
 ピンポーン
 チャイムが鳴った。お袋が叫ぶ。
「公! ちょっと出て! 今手が放せないから」
「へいへい」
 俺は玄関を開けた。
「ハァイ、公」
「あれ? 片桐さん。どうしたの? 約束は……」
「それがね、ちょっと私の都合が悪くなっちゃったのよ。ソーリー、ごめんね」
「そうなんだ。でも、わざわざ家に来なくても、電話ですませれば良かったのに。あ、よかったら、上がっていかない?」
 俺は誘ったが、片桐さんは首を振った。
「ちょっと近くに来たから寄っただけよ。すぐ行かないと」
「そうか。残念だな」
「それじゃ、また電話するわね。グッバーイ」
 片桐さんは、家の前に止めてあったサイクリング車に跨ると、颯爽と走っていった。うむー。長身もあいまって、絵になるなぁ。
 何の気なしに振り返ると、詩織の家のガレージには、彼女の自転車が戻ってきていた。
(なんだ、詩織のやつ、帰ってきてたのか)
 俺は暇になった午後をどうするか、考えながら玄関を閉めた。

 結局、俺は出かけることにして、自転車を走らせていた。暑い時間にわざわざ出かけなくても、という意見もあるが、家にいるとなんとなくもったいない気がするし……。
 いや、正直に言えば、家でじっとしていると、昨日の詩織の事を思い出してしまって……。
 訳も分からず平手打ちを受けたのも初めてだけど、でも……。
 あの時の詩織、泣いていたような……。
 そんなことを考えていたんだけど、一人で考えていても、時間が戻るわけでもない。かといって、詩織に直接聞くのも……。
 そんなわけで、半ば気分転換に、俺は自転車を漕ぎだしていた。

 普段来ないような遠くまで自転車を漕いできて、木陰でひと休みしていた。
 そういえば、片桐さんの家って、たしかこの辺りだっけ。
 俺は苦笑した。約束はおしゃかになったのに、どうやら無意識のうちに足がこっちに向いてしまったようだ。
 涼しい風が、汗を飛ばすように吹いてくる。
 それに混じるように、微かに、でもはっきりと、音楽が聞こえた。
 笛? いや、これは……。
 まさか!
 俺は、再び自転車を漕ぎだした。

 小さな公園の片隅につくられたあずまや。藤棚が作り出す天然の屋根の下で、小さな子供達が座って曲を聴いていた。
 その輪の中で、目を閉じて静かにオカリナを吹いていたのは、俺の思った通りの人だった。
 俺は、傍らの樹に背をもたれかけさせると、じっと彼女を見つめた。
 ときどき学校の音楽室でクラリネットを吹いているのは聞いたことあるけど、片桐さんってオカリナも吹けるのか。
 クラリネットを吹く片桐さんって、かっこいいんだけど、オカリナを吹く片桐さんって、またちょっと違う。なんていうのか、うまくいえないけど……、すごく暖かい感じがするんだ。
 幼子を抱いた聖母のような、っていうのは言い過ぎかなぁ。
 やがて、彼女は吹き終わって一礼した。子供達がパチパチと手を叩く。
「さぁ、今日はこれでお仕舞いよ」
「ええー? やだぁ。もっと聞きたいよぉ」
「ダメダメ。第一あたしはピンチヒッターなのよ」
 片桐さんは立ち上がった。俺はとっさに樹の陰に姿を隠した。何故か自分でも判らない。でも、何となく……。
 俺は片桐さんが自転車に跨って走り去るまで、そのまま隠れていた。そしてほうっとため息をつき、空を見上げた。
 空には、大きな入道雲がむくむくと盛り上がっていた。
 やばい。早いところ帰らないと、一雨来そうだ。
 俺は、自分の自転車を止めてあるところに駆け戻りかけて、はっと気づいた。
 公園の入り口に自転車を止めて、じっと俺の方を見ている人影に。
 俺の口から、呟きが漏れた。
「詩織……、どうして、こんなところに……?」
 詩織は、黙って俺を見つめていた。
 入道雲の方から、ゴロゴロという音が聞こえ始めていた。

 俺は沈黙に耐えかねて、口を開いた。
「詩織、どうして……」
「……」
 詩織は、口をぎゅっと結んで、俺を睨んでいた。
 ピシャアッ
 一瞬、辺りを白光が染めた。風が吹き出していた。
 雨の匂いがする。
「おい……」
 詩織は、突然叫んだ。
「公くんって、結局私のことなんかっ……」
「え?」
 ガラガラガラッ
 天が張り裂けるような音がしたかと思うと、すさまじい勢いで大粒の雨が大地をたたきつけ始めた。
「もう、もういいっ!」
 そう叫ぶと、詩織は自転車に飛び乗った。漕ぎだそうとする。
 バチン
 すごい音がしたかと思うと、バランスが崩れ、そのまま詩織は自転車ごと横に倒れた。
 俺は慌てて駆け寄った。
「詩織っ! 大丈夫か!?」
 自転車をどけて、詩織を抱き起こす。
 彼女がもがいた。
「離してよ!」
「莫迦言ってるんじゃない! 怪我ないか?」
「公くん……」
 詩織は、俺の顔を見た。
「心配して……くれるの?」
「当たり前の事言うなよ! 大丈夫か!?」
「……ごめんね、公……くん」
 白い頬を、雨粒が流れ落ちる。
 いや、雨粒じゃ……。
 詩織は、そのまま俺の胸に顔を埋めた。
 小刻みに震えるその肩を、俺は半ば無意識に抱きしめていた。

 雨が小やみになって、俺達も平静に戻ったのだが、そうなると恥ずかしくなってしまい、お互いに顔も合わせられない。
 俺は、詩織の自転車を調べていた。
 ペダルを回すと、カラカラと音がする。
「こりゃ、チェーンが切れたんだな。詩織が思いっきり漕ぐから」
「……公くんの意地悪ぅ」
 詩織が、ぽかぽかと俺の背中を叩く。
 俺は苦笑して、自転車を起こした。
「帰ろうぜ、詩織」
「あ、待ってよ。いたっ」
 詩織の悲鳴に、俺は慌てて振り向いた。
 彼女は、右の足首を押さえてしゃがみ込んでいる。
「大丈夫か、詩織?」
「くじいちゃったみたい」
「ま、あれだけ派手にすっ転べばなぁ。それに、その格好」
「あーん、気にしてるのにぃ」
 転んだ弾みに、白いワンピースは雨と泥で派手に汚れてしまっていた。
「どうしよう、公くん」
 また、泣きそうな顔で詩織は自分の格好を見ていた。
 俺はちょっと考えた。
「しょうがない。ここだと、片桐さんの家が近いな」
「片桐さんの家?」
「ああ。それとも、そんな格好でここからきらめき市を横断する?」
「……しょうがないよね」
 詩織は呟いた。

 ピンポーン
 俺はチャイムを押した。ややあって、インタフォンから声が聞こえてくる。
「はぁい、どちらさまですかぁ?」
「あ、もしもし、主人ですが」
 思わず電話に話しかけてるみたいになってしまった。後ろで詩織がくすりと笑う。
「あ、主人くん? どうして?」
 そりゃ驚くよなぁ。わざわざ俺の家まで今日は都合が悪くなったって言いに来たのに、その俺が彼女の家に押し掛けてるんだから。
 後ろから、詩織が顔を出した。
「ごめんなさい、片桐さん。私がちょっと転んじゃって……」
「よくわからないけど、アウェイト。ちょっと待っててね。今開けるから」
 片桐さんがドアを開けて、目を丸くした。
「どうしたの、二人とも。びしょぬれじゃないの」
「夕立に降られちゃってさぁ。俺はいいけど、詩織が足をくじいて……」
「オッケイ。とりあえず入って」
 片桐さんはドアを大きく開いた。

「とりあえず、ここで待っててね」
 片桐さんは、俺と詩織を十畳くらい広さののフローリングの部屋に案内すると、慌ただしく出ていった。
 部屋はクーラーがよく効いていた。詩織は自分で自分の肩を抱くようにして震えていた。
「寒いのか?」
「う、うん。ちょっと……」
 俺は詩織に近寄ると、そっとその肩を……。

「お待たせ! はいタオル」
 片桐さんがバスタオルを持って部屋に入ってきた。そして俺と詩織を見比べる。
「二人とも、どうしたの? そんなに離れて、もしかして喧嘩でもしてるの?」
「あ、いや。なはは」
「そ、そんなこと無いのよ」
 俺達は片桐さんからタオルを受け取った。片桐さんはちょっと肩をすくめると、言葉を続けた。
「シャワーの用意できたけど……」
「じゃ、詩織からどうぞ」
「いいの?」
「ああ。俺は大丈夫だから。それに、その服のままじゃあれだろ?」
「う、うん」
 詩織は少し顔を赤らめた。彼女の白いワンピースは泥で汚れていた。
 片桐さんは頷くと、詩織に言った。
「オッケイ。私の服を貸してあげるわよ。歩ける?」
「ええ。ありがとう」
 詩織は少し右足を引きずりながら、片桐さんの後に続いた。

 一人残された俺は部屋の中を見回した。
 どうやら、片桐さんが絵を描くときに使う部屋らしい。部屋の隅にはカンバスが積まれており、イーゼルが数本壁に立てかけてある。クローゼットの中には絵の具や筆なんかが入ってるんだろう。
 一枚だけ、イーゼルにセットしてあるカンバスがあったので、覗いてみた。
 真っ白だ。何も描かれていない。
(これから描くのかなぁ?)
「ワッツシーイング、何見てるの?」
「あ、片桐さん?」
 片桐さんは部屋の中に入ってきた。
「詩織は?」
「シャワーよ。あたしは、一緒に入る趣味はないからね。安心した?」
「違うって」
 俺は苦笑した。
 片桐さんは俺の傍らにくると、カンバスを見た。
「夏休みのうちに、一枚描きたかったんだけどねぇ。いまいちイマジネーションが湧かなくってねぇ」
「それで、俺にモデルを?」
「そんなところよ。公くんなら、イマジネーションを掻き立てられそうな気がしたのよ」
 片桐さんは微笑んだ。その微笑みを見て、俺は鼓動が高鳴るのを感じた。
「片桐さん、俺……」
「何?」
「い、いや、何でもないよ」
「そう? それより、公くん。藤崎さんどうしたの?」
 片桐さんは小首を傾げながら俺に訊ねた。
「いや、転んだんだってば」
「アイシー、それは判ってるけど、どうして藤崎さんを公くんがここに連れてきたのかなって……」
「それは、えっとぉ……」
 俺は説明に窮した。と、そこに詩織が入ってきた。
「ああ、気持ちよかった。公くんもシャワー使わせてもらったら? 暖まるわよ」
「あ、そうだよね。うんうん。片桐さん、俺も借りていいかな、シャワー?」
「オッケイ、いいわよ。あ、パパの服を出しておくわね」

 俺がシャワーから上がってくると、詩織が駆け寄ってきた。
「公くん」
「どうしたの?」
「あのね、片桐さんが……」
 詩織は、嬉しさ半分、恥ずかしさ半分というような妙な表情をしていた。
 片桐さんが後ろから説明する。
「あのね、藤崎さんにもモデルをお願いしようと思ったのよ」
「詩織かぁ。いいんじゃない?」
 俺じゃないのはちょっと残念だけど、でも、詩織ならいい絵になるよな。
「公くんもオッケイなのね? じゃあ、お二人ともよろしく」
「二人?」
 俺は思わず自分を指した。
「俺も?」
 詩織と片桐さんが頷いた。
「で、でも、俺は……」
「私一人じゃ、恥ずかしいし……」
 詩織は俺に言った。
「公くんも一緒だったら……」
 その時、俺は気が付いた。詩織は片桐さんのTシャツを借りて着てるんだけど、ちょっとサイズが大きいんだ。特に首回りがゆったりとしてて、その、胸の谷間がバッチリと……。
「公くん?」
 詩織が首を傾げた。
「顔が赤いけど、風邪引いちゃったの?」
「い、いやぁ。なははは」
 俺は慌ててそっぽを向いて笑ってごまかした。
「じゃ、オッケイね」
 片桐さんは笑って頷いた。

 片桐さんは、大きなクッションソファを持ってくると、詩織に言った。
「じゃあ、藤崎さんはまずここに座って」
「うん」
 詩織は頷くと、足を揃えて横座りに座った。
 短めのスカートからのぞく脹ら脛がなかなか……。
「公くんは、藤崎さんの後ろに立って」
「あ、おう」
 俺は詩織の後ろに立った。
 片桐さんはカンバスの前に立つと、鉛筆を片手に腕を組んだ。
「公くん、藤崎さんの肩に手を置いてみて」
 俺は右手を詩織の右肩に置いた。
 詩織が俺を振り仰ぐ。
「公くん……」
「オッケイ。そのまま!」
 片桐さんが叫び、俺達はびっくりして彼女の方を見た。
「え?」
「あん、動いちゃダメだって。藤崎さんは公くんを振り仰ぐ」
「こ、こうかしら?」
 詩織は再び俺を振り仰いだ。片桐さんは頷く。
「グッド。じゃ、しばらくそのままでね」
 片桐さんはそのまま、鉛筆を走らせ始めたようだ。だけど、俺の視線は、詩織の顔に釘付けになったままだった。
 最初は緊張してたせいか堅かった詩織の表情も、次第にやわらいできたみたいだ。
 そして、俺も……。

「ふぅー」
 片桐さんは溜息をつくと、俺達に言った。
「ご苦労様。もういいわよ」
 俺達は、同時に息を付いた。
 詩織は立ち上がると首を回した。
「あー、ちょっと、肩凝っちゃったな」
「ひゃぁー、疲れたぁ」
 俺は逆に座り込んだ。そしてふと窓の外を見る。
「げ、もう暗くなってる」
「えっ!?」
 詩織は、腕時計を見て目を丸くした。
「もう9時過ぎちゃってるじゃない!?」
「ソーリー、ごめんね、長い時間付き合わせちゃって」
 片桐さんはカンバスに何か書き込みながら言った。詩織がのぞき込む。
「うわぁ。素敵……」
「へぇ? どれどれ?」
 俺も立ち上がるとのぞき込んだ。
「ちょ、ちょっと照れるな」
「でも、憧れちゃうな。こういうの……」
 詩織は、じっとその絵を見つめていた。

「ごめんなさいね。この服、洗って返すわ」
「ノンノン。気にしないの。困ったときはお互い様じゃない」
 片桐さんはそう言って笑った。
 結局、詩織の自転車は今日の所は片桐さんに預かって貰うことにして、詩織は俺の自転車で連れて帰ることにした。
「公くん」
 片桐さんは俺をちょいちょいと招くと、耳に囁いた。
「藤崎さんには、かなわないわね」
「え?」
「じゃ、グンナイ、お休みぃ」
 そう言うと、片桐さんは静かにドアを閉めた。

「じゃあ、乗れよ」
「うん」
 詩織は俺の自転車の荷台に横に座ると、言った。
「いいわよ。でも、あまり揺らさないでね」
「ああ。よいしょっと」
 自転車にまたがると、詩織がぎゅっとしがみついてきた。
「お、おい、詩織?」
「だって、こうしておかないと落ちちゃうでしょ?」
 詩織はにこっと笑った。そのとき、俺は片桐さんの言った意味が、何となく判ったような気がした。
 俺は前に向き直ると、ペダルに体重をかけながら呟いた。
「今夜も暑いよなぁ……」
「そうね」
 更にぎゅっとしがみつきながら、詩織が微笑んだ。

《終わり》

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