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暑い日 真・彩子編


 またまたその日も、うだるように暑かった……。
(あれ?)
 俺は、すれ違った女の子に何となく見覚えがあるような気がして、振り返った。
 藍色の背中まで伸びたロングヘアの少女が、颯爽と歩いていく。半袖のブラウスと濃いブルーのタイトスカートが良く似合っている。
 俺はその後ろ姿に声を掛けた。
「片桐さん?」
「イエス?」
 その少女は振り返った。やっぱり片桐さんだ。
 俺は駆け寄った。
「久しぶり」
「あら、公クンじゃないの。ハウアーユー?」
 彼女はにこっと笑った。
「いやぁ、髪降ろしてたからわかんなかったよ」
「ああ、これね」
 彼女は髪をかき上げた。
「ちょっと出かけてる間にほどけちゃってねぇ〜。この暑さでしょ? 結び直してる暇があるならさっさと帰っちゃおうと思ったんだけど、でも、やっぱりうっとおしいわよねぇ」
「へぇ」
 俺はというと、その時魔法に掛かったみたいに、彼女の髪をじっと見つめていた。
 陽の光をキラキラと跳ね返し、とっても綺麗だった。
「ヘイ、公クン、何見てるの?」
 彼女の声で、俺は我に返った。
「あ、いや、なんでもないよ。あ、そういえばさぁ、確かこないだの展覧会で片桐さんの絵が入選したんだって?」
「良く知ってるわねぇ」
「そりゃ、片桐さんのことだもの」
 なんてね。ホントは好雄に聞いたんだけどね。
「リアリー、ホントにぃ? アイムハッピー、嬉しいわ」
 片桐さんはにこっと笑った。その弾みに、また髪が揺れて、キラキラと輝く。
 俺は、またそんな彼女に見とれていた。
「公クン?」
「え? あ、そ、そうだ。片桐さん、お祝いに遊びに行かない?」
 俺はとっさに言ったのだが、口に出してから、それはすばらしい名案に思えた。
「そうだ、うん。そうしようぜ」
「サンクス、ありがとう。気持ちだけ、もらっておくわ」
 片桐さんは笑って言った。
「そんなこと言わないでさぁ」
 逃がしちゃダメだ。このまま掴まえておきたい。
 俺は本能的に、手を伸ばして片桐さんの腕を掴んでいた。
「片桐さん……」
 片桐さんは、俺の手と顔を交互に見ると、くすっと笑った。
「いいわ。付き合うわよ」

 シュン
 自動ドアが開くと、冷気が流れ出してきた。
「ワァオ。イッツソークール、涼しいわねぇ」
 片桐さんは目を細めた。
「じゃ、入ろうか」
「それにしても、お祝いにミュージアムなの?」
「いやぁ」
 俺は頭を掻いた。
「白状するよ。実はまだ片桐さんの絵を見てなかったんだよ。一度見ておかないとね」
 片桐さんは肩をすくめた。
「ちょっと、傷ついちゃった」
「ごめん」
 俺は手を合わせた。そして上目遣いに彼女を見る。
「でもさ、作者の解説付きの方が、絵だってよくわかるでしょ?」
「あたしの解説は、易しくないわよぉ」
 彼女はそう言うと、髪をかき上げた。
「じゃ、レッツゴー、行きましょう」

 俺達は、壁に掛けられた油絵の前で立ち止まっていた。
 『忘れられた時』
 そうタイトルがついている。
 そこに描かれているのは、オカリナを吹く少女と、それを周りで聞いている子供達。
「この娘、片桐さん?」
 俺は訊ねた。
 片桐さんは、少しはにかんだ笑みを浮かべた。
「ま、そうね」
「へぇー」
 俺は感心してその絵を見た。
 いつも快活な面ばっかりが目立ってたから、俺もそういうイメージで彼女を見てたんだけど……。
「なぁに、真面目な顔しちゃってぇ。おっかしいの。ふふふっ」
「あ、いや、その……」
 俺の前にいるのは、いつもと変わらない片桐さんで……、でも、この絵の中にいる娘も片桐さんで……。
 なんだかこんがらがってきた俺は、とりあえず関係ないことを聞いてみた。
「片桐さんって、オカリナ吹けるの?」
「まぁね〜。でも、あまり上手じゃないから聞かせてあーげない」
 彼女はまた笑った。
 俺は、もう一度絵を眺めた。
 どんなシチュエーションだったんだろう?
 と、不意に彼女が言った。
「この子達、親が共稼ぎで働きに出ちゃってて、昼間は一人っきりなのよ」
「え?」
 俺は、子供達の方を見た。
「普通の日は学校があるからいいんだけど、夏休みはそうもいかないから……。みんな家でじっとしてるのよね」
 片桐さんは呟いた。
「でね、あたしの叔父さんが塾の先生をしてて、そういう子達をまとめて面倒見てるのよ。あたしはそのお手伝いってわけ。ドゥー・ユー・アンダースタンド?」
「へぇー。偉いなぁ」
 俺は感心した。
 俺がのんべんだらりと日々を過ごしている間、片桐さんはそんなことをしてたんだ……。
 俺にはとってもできそうにないなぁ、そんなこと。
 彼女はくすぐったそうに笑った。
「イッツジョーク、冗談よ」
「ええ? ひどいなぁ」
「ソーリィー。あはは」
「そんな……」
 俺は、もどかしくなってきた。どうして片桐さんは、俺が真面目なのに、冗談ではぐらかすんだろう。

 美術館を出て、俺達は並んで舗道を歩いていた。
 蝉の声も、何となく夏の終わりを感じさせる。
「いいわよ、やっぱりぃ」
 片桐さんは肩をすくめた。
「ユーに悪いしねぇー」
「そんなこと無いって。お祝いさせてくれよ」
 俺は、半ば意地になってるのを感じつつ、言った。
「んー」
 片桐さんは腕を組んでちょっと小首を傾げて考え込んだ。髪がまたさらっと流れる。
「じゃあ……」
「あ、英語のお姉ちゃん!」
 不意に後ろから声が聞こえた。振り向いた片桐さんに、小学生くらいの男の子が駆け寄ってくる。
 片桐さんはかがみ込んだ。
「あら、拓弥くん」
 子供の後ろで、若い女の人が会釈した。この子の母親だろう。
 片桐さんも彼女に軽く頭を下げ、その子の頭を撫でた。
「今日はお母さん、お休みなの?」
「うん。だから、プールに行くんだ!」
 一瞬彼女の顔が微かにひきつったが、彼女は微笑んだ。
「よかったねぇ。じゃ、ハブ・ア・ナイス・デー! バイバーイ」
「ばいばーい。あ、お姉ちゃん!」
「ホワット、何?」
「また、笛聴かせてね! じゃあねぇー」
 子供は母親の所に駆け戻っていくと、その腕にまとわりついた。それから、顔だけこっちに向ける。
「じゃあね、お姉ちゃん! 恋人と、仲良くねぇっ!」
「へ?」
 俺は思わず自分を指した。
「……俺?」
「こ、こらぁ、拓弥くんっ! 莫迦言うんじゃないの!」
 片桐さんは、片手を振り上げた。男の子は笑いながら駆けていった。

 親子が見えなくなるまで手を振っていた片桐さんに、俺は話しかけた。
「やっぱり、ジョークじゃなかったんだ」
「あは」
 彼女は照れ笑いを浮かべた。
「やっぱり、恥ずかしいじゃない」
「そうかなぁ」
「そうなの。ほらぁ、あたしのイメージってものがあるじゃないの」
 そう言うと、彼女は2、3歩前に出た。そしてくるっと振り向く。
「あなただって、似合わないって思ってるんでしょ?」
 俺は彼女に歩み寄った。
「公?」
 彼女が視線を上げる。
 深い藍色の瞳に、俺が映っていた。
 俺は、彼女の腰に腕を回してぐいっと引き寄せた。
「きゃ」
 短い悲鳴が、消えた。
 代わりに、彼女は俺の首に腕を回した。

「はぁ……」
 俺達は、しばらく互いに見つめあっていた。
 彩子がにこっと微笑む。
「今のが、お祝い?」
「ああ、まぁね」
 俺は微笑んだ。
 彩子はコケティッシュな笑みを浮かべ、言った。

「公……。もう一度、お祝いくれる?」

《終わり》

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