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暑い日 愛編


 ……ったく、こう毎日暑いと、やってられなくなるなぁ。
 俺は汗を拭うと、ぎらぎらと照りつける太陽を見上げた。
 汗がこめかみの辺りをつつっと流れ落ちるのがわかる。
 こんなに暑くなるってわかってたら、こんな所でデートの約束するんじゃなかったなぁ。
 後悔先に立たずとは、良く言ったもんだぜ。
 心の中で呟きながら、俺は『きらめき中央公園』と書かれた石製の壁に寄り掛かった。
「あちぃっ」
 思わず飛び退いてしまうくらい、壁は熱くなっていた。俺は自分の失態に舌打ちした。
「ったくぅ……」
「あ、あのぉ……」
「え?」
 振り返ると、美樹原さんが困ったような顔をしていた。
 白の半袖ブラウスに紺のプリーツスカートが良く似合ってる。
「あ、美樹原さん」
「ご、ごめんなさい、遅れちゃって」
 彼女はぺこんと頭を下げた。俺は笑いながら答える。
「いやぁ、俺も今来たところだからさぁ」
 ここまでは、予定通りだったんだが……。

 ワンワン

 不意に足下から犬の鳴き声が聞こえた。
 まさか……。
 俺は恐る恐る見下ろした。
「あ、だめじゃない、ムクったら」
 美樹原さんがかがみ込むと、子犬を抱き上げた。
 この犬、彼女の愛犬でムクというのだが、どうも俺に敵意を持っているようだ。このあいだも吠えられるわ、噛みつかれるわで、えらいめにあったんだよなぁ。
「また、連れてきたの?」
「ごめんなさい。こんな広い公園、なかなか来ることがないですから……」
 しょげたような顔をする美樹原さん。
 やばい。この娘は繊細だから、ちょっとしたことでもスグに傷つくんだ。
「いやぁ、そうだよね。ムクもきっと喜ぶよ」
「そうですね」
 彼女の表情が明るさを取り戻したのを見て、俺はほっと一息ついた。
「じゃ、中に入ろうか」
「そ、そうですね」
 美樹原さんはこくこくと頷いた。

 美樹原さんとムクは、ボール遊びをして楽しんでいた。彼女がボールを投げては、ムクがそれを取って戻ってくる、他愛もない遊びである。
 俺と美樹原さんのデートなんだぞ、犬め。ちょっとは遠慮しろよなぁ。
 それをぼぉーっと眺めながらそんなことを考えていると、美樹原さんが俺の前に駆け寄ってきた。
 終わったのかな? と一瞬期待した俺に、美樹原さんはボールを差し出した。
「主人さんもやってみませんか?」
「俺? ああ、いいよ」
 内心がっかりしながら、俺は何食わぬ顔でボールを受け取った。
「ほら、ムク。主人さんの言うとおりにしなさいね」
 俺はボールをぽいっと投げた。
「そおれ、ムク、取ってこい!」
 ……。
 ムクはしらんぷりを決め込んで、あっちの方を見ている。
 見かねた美樹原さんが、横から言った。
「ほら、ムク。取ってきなさい」
 ワンワンッ
 途端に、弾丸のように走り出すムク。
 こ、こいつわぁ。
 案の定、ボールを取ってきたムクは、そのまま俺を素通りして美樹原さんにボールを渡した。
「ムク、私じゃなくって主人さんに渡すのよ」
 ワンワン
「もう、ダメな子ねぇ」
 美樹原さんはそう言いながらも、ムクの頭をなでなでしている。
 ムクはちらっと俺の方を見ると、気持ちよさそうに目を細めた。
 クゥーン
 お、おのれ、この犬ぅぅ!
 待て待て、冷静になれ。相手はたかだか犬じゃないか。
 俺はちょっと考えた。
 そうだ。あいつの来られないところに行けばいいんだよな。
 ふっふっふ。見てろよ。吠え面をかかせてやる。

 俺は美樹原さんに近づいた。
「美樹原さん」
「あ、はい。なんでしょう?」
 彼女はムクから俺に顔を向けた。
「ね、ボートに乗らないか?」
「ボート、ですか?」
 ちょっと考えるような仕草をする美樹原さん。
 ここは“押し”かな。
 俺は美樹原さんの腕を取った。
「きゃ」
「ほら、行こう!」
「あ……はい」
 美樹原さんの頬がぽっと赤くなっている。ふっふっふ。
 俺は勝ち誇ってムクを見下ろした。
 む?
 ムクは妙に余裕有りげに美樹原さんの足下にまつわりついていた。

「の、載せるの?」
「いけませんか? だって、目を離すと心配だから」
 ワンワン
 畜生めぇ。
 俺はムクを睨み付けた。道理で余裕有りげなはずだぜ。
「あの……ダメなら、私……」
 美樹原さんの声に、俺は我に返った。慌てて両手を振る。
「まさかぁ、そんなわけないじゃないか! ムクだって大歓迎さ!」
「よかったぁ。ほら、ムクもお礼を言いなさい」
 ワン
 ぬぬーっ。
 こやつ、重石を付けて池に沈めてやりたいわい。

 俺はオールを漕ぎながら、美樹原さんを見た。
「きゃ、冷たぁい」
 ボートの縁から水に手を付けてはしゃぐ美樹原さん。すごく絵になるなぁ。
 俺達の間に鎮座せしましてるこいつがいなければ……。
「ほら、ムク。お魚さんよ。見える?」
 ワンワンッ
 くぅーっ。これじゃ、俺は単なる運転手じゃねぇか。
 こうなったら……。
 俺はオールを漕ぐ手を止めた。
 ボートはちょうど池の中央。
「主人さん、疲れたんですか?」
 美樹原さんは、笑顔で俺を見る。
「ちょっとね。それよりも」
「は、はい……」
 俺は、美樹原さんの手を取った。
「あ、あの……」
「美樹原さん。聞きたいことがあるんだ」
「は、はい。なんで、しょうか?」
 俺は、深呼吸し、はしばみ色の瞳を覗き込んだ。
「美樹原さん。俺のこと、どう思ってる?」
「ど、どうって、そんな……、急に、聞かれても……」
 美樹原さんはそっと視線を逸らして俯いた。
「そんなこと……言えません。恥ずかしくって……」
 首筋まで赤く染めて、美樹原さんは呟いた。
 へへーん、どうだ、ムク。
 と、ムクはその美樹原さんの膝によじ登ると、顔をぺろぺろなめ始めた。
「きゃ、ムクったらぁ」
 どっかーん。
 お、おのれぇ。こうなったら俺も負けられん!
 しかし、ボートの上じゃ狭いな。よし、戻ろう!
 俺はオールをハイピッチで漕ぎだした。

 桟橋にボートを付けると、俺は先に上がって美樹原さんに手を伸ばした。
「美樹原さん、はい」
「あ、ありがと……きゃっ」
 ぐらっとボートが揺れて、美樹原さんがバランスを崩し、俺に倒れかかってきた。とっさに受けとめる俺。
 前にスケートに行ったときもこんな事があったけど、今は夏。美樹原さんも薄着で、俺も薄着で、その、嬉しいことになった。
「あ、あの、ごめんなさい」
 そう言って、身を離そうとする美樹原さん。
 今だ、今こそチャンス!
 俺は腕に力を入れて、囁いた。
「美樹原さん。俺……」
 ガブッ
 しまった。こいつを忘れてた。
 ええい、千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないぜ。
 俺は精神力を総動員して痛みを忘れつつ、言葉を続けた。
「しばらくこのままでいたいんだ。いいだろ?」
「え? あ、で、でも……」
 脈はあり!
 と、不意に痛みが軽くなった。ムクのやつ、あきらめたな。
 ふっふっふ。所詮人間と犬とでは違うんだよ。
 俺は、左手で、そっと彼女の頬に触れる。それだけで、彼女はびくっと身を強ばらせた。
 緊張してるけど、厭がってるワケじゃないみたいだ。
 行けるか!?
 そっと、顔を俺の方に向けさせる。
 美樹原さんの瞳が、涙を湛えてゆらめいている。
「美樹原さん……」
「主人……さん……。わ、私……」
「何も、言わないで……」
 俺は、そっと涙をぬぐってあげると、唇を……。

「公くんとメグ!? 何をしてるの!」

 突然の声に、俺は驚いて顔を上げた。そして、恐る恐る声の方を見る。
「し、詩織、どうして……」
「たまたま通りかかったら、ムクが……」
 ワンワン
 詩織の腕の中で吠えるムクを見て、俺は了解した。
 ムクめ、自分だけではかなわぬと見て援軍を呼んだな?
 詩織は、俺を押しのけるように、美樹原さんの前に回り込む。
「メグ、大丈夫?」
「あ、詩織ちゃん?」
 美樹原さんはぼんやりと答えた。詩織は、振り返り、俺をきっと睨んだ。
「公くん、メグに何をしたの?」
「え? いや、別に……」
 刺激が強すぎたのか、美樹原さんはぼーっとなってる。まずいよ、こりゃ。
「別に、なのね。ふぅーん」
「い、いや、その……」
「なによ、公くんったら。私にはそんなことしてくれないくせに、メグだったらするんだから。失礼しちゃうわ」
「え? 今、何て?」
「なんでもないわっ! 行こう、メグ!」
「う、うん……」
 詩織は、そのまま美樹原さんの手を引いて、歩いていってしまった。
 まだ詩織の腕に抱かれたままのムクが、ひょこっと顔を俺に向け、ワンと一声吠えた。
 俺は、そのままその場にがっくりと膝をついた。
 くそぉ、今日のところは完敗だぜ。でも、いつかは勝つ!!
 ムクに向かってぴっと中指を立てる俺だった。

《終わり》

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