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暑い日 望編


 シャワシャワシャワ
 蝉がうるさいくらいに鳴いて、入道雲が大きく育つ、いよいよ夏なんだよな。
 だけど……。
「よし。清川、次は100メートルを5本だ!」
「あ、はい」
 コーチに言われて、あたしはタオルをおくと、ベンチから立ち上がった。
 ふと、自分の腕を見る。まぁ、筋肉がついちゃってるのはしょうがないけど、真っ白なのはなんだか情けないよ。
 夏休みに入ってから、あたしは特別メニューとやらでさ、ずっときらめき高校の室内プールで泳いでるってわけ。家との間も学校側の特別な計らいとやらでさ、車だから外にはほとんど出てないのと同じなんだ。
「おい、清川!」
「あ、すいません」
 あっちゃあ。ぼーっと考えごとしてたら、怒られちまったよ。
 そうだよな。集中しないと。
 なんたって、インターハイの予選が近いんだ。

「よし、今日はこれまでにしよう」
「ありがとうございました」
 あたしはぺこりと頭を下げた。と、どこからともなくかすかに笛の音が聞こえてきた。
 あ、そういえば、今日はきらめき神宮の夏祭りの日だったっけ。
 あれ? どうしてあいつの顔が浮かぶんだ?
 違う違う。あいつとはそんな関係なんかじゃない。
 大体あたしとあいつじゃ、住む世界が違ってるんだ。
「どうした、清川?」
「あ、いえ、なんでもありません」
 やれやれ。コーチに見られちゃったよ。とりあえず着替えてくるか。

 あ、あれれ?
 あたしは慌ててバックをひっくり返してみた。
 な、ない! あたしの服がないじゃないか!
 変態の仕業か!? 畜生、むちゃくちゃ腹立つなぁ。
 あたしに水着のまま町中を走り回らせるつもりかよ。
 あれ?
 あたしが怒りのあまりベンチを殴ろうとしたとき、そこに布が綺麗に畳んで置いてあるのに気がついた。
 これ、まさか、浴衣じゃないか。それも、あたしの……。
 広げてみたら、ぱらっと一枚のメモが落ちた。拾って読んでみる。

『親愛なる妹へ
  練習ばっかりじゃ大変でしょう?
  今日はそのままお祭りに行ってゆっくりしてらっしゃいね。
                         よく気がつく美人の姉より』

 あ、姉貴のやつ、いつの間に……。あ、追伸が書いてある。
 ナニナニ?
『追伸
  一人で行くのも寂しいでしょうから、主人くんを誘っておいてあげたぞ』

 な、なんだってぇ!?
 どどどど、どうしてあいつがココで出てくるワケなんだよ!
 あ、あいつなんて別に全然なんでもないんだからな!
 ったく、お節介なんだからなぁ。

 浴衣をもう一度広げてみて、はたと気がついた。
 おい、姉貴、あたしの下着はどうするんだよ! まさか、直に着ろっていうんじゃ……。そ、そんなことできるわけが……。
「素肌に浴衣か、それとも水着のままか、選ぶのはあなたよ。おっほっほ」
 姉貴が高笑いをあげてるのが聞こえるような気がした。畜生、帰ったら覚えてろよ!

 うー。なんかすーすーする。
 と、とにかく、気付かれなけりゃいいんだよな。うん。
 一度家に帰って下着を付けりゃ済む話だしな。
 あたしは、バックを片手に更衣室を出た。
「お、清川」
 びくぅ!
「コココココーチ、まだいらしたんであらせますのでしょうか?」
「なに焦りまくってるんだ、清川? それより、ほれ」
 コーチは親指でちょいと入り口の方を指した。
 あ、あいつが来てるじゃないか!
 いや、そりゃ姉貴は呼んだって手紙に書いてたけどさ、直接ここに来るなんて聞いてないよ。
「そんな浴衣まで用意してたってことは、よっぽど楽しみにしてたんだな。俺も鬼じゃない。一言、言っておいてくれれば、今日は練習を休みにしてやったのに」
「い、いや、そうじゃなくって」
「照れるな照れるな。んじゃ、今日は楽しんで来いな」
 コーチは笑いながら歩いていっちまった。
 あたしは、スポーツバッグを提げて、入り口のところまで歩いていった。むわっと熱気が寄せてくる。
「や、清川さん」
 のんきに手を挙げるあいつ。全く、人の気も知らないで。
「や、やぁ」
 あたしの声、上擦るんじゃない。まったく。
 これじゃなんだか思いっきり不自然じゃないか。
 あ、まずい。浴衣の襟を押さえとかないと……。
「どうかしたの?」
「え? い、いや、なんでもない」
 それじゃ、って走り出したいのは山々なんだけど、どうも頼りなくてそれもできない。だって、もし浴衣の裾がめくれたら、なんて考えただけで、あ〜、だめ。
「浴衣、似合うよ」
「あ、そう?」
 そのときのあたしは、それどころじゃなかったんだ。
「それじゃ、行こうか?」
「行くって、どこに?」
「夏祭り!」
「ちょ、ちょっと待って。あたし、その前に……」
「え?」
 くー、爽やかな顔で聞き返しやがってぇ。ワケなんて言えるわけないじゃないかぁ。
「な、なんでもない。い、行こうぜ」
 あたしはすたすたと歩き出してた。

「あ、ほら、金魚すくいやってるよ。やらない?」
 公のやつ、まるで子供みたいだな。目を輝かせて、金魚すくいのたらいの前に座り込んでる。
「金魚すくいかぁ。おもしろそうだな……。あ」
 やばい。しゃがみこんだら……、浴衣の裾が……。
「あ、あたしは見てるよ」
「そう? おいちゃん、網1つくれ」
「あいよ」
 渡された網を片手に、真剣に水面を見つめる公の横顔が、裸電球に照らされてる。
 あたしは、それを見るともなく見つめていた。
「えい! よっしゃぁ!」
「あ、ちくしょう! 逃がしたぜ」
「この、このこの、逃げるなぁ!」
「あ、しまった、亀取っちまったぁ」
 ほんと、見てて飽きないよな。

「輪投げしよう、輪投げ!」
「え?」
 あいつ、今度は輪投げの店の前で立ち止まってる。
 まずいよ、輪投げも。だって、投げるときに手を伸ばすだろ? そうしたら、その、見えちまうかもしれないじゃないか。
「あ、あたしは、遠慮しとく」
「そう? じゃ、俺頑張って取るからさ。おいちゃん、やるぜ」
「輪は5つだよ。がんばりなぁ」

「あはははは」
「そんなに笑うなよ」
 いやぁ、おかしかったのなんのって。公のやつ、結局1つも人形取れなくってさ、おじさんに同情されてやがんの。「残念だったねぇ。1つあげるよ」だってさ。くくくっ。
「そんなに笑うなら、清川さんもやってみればいいんだ」
「あたしは……そうだな、今度機会があったらな」
「あ、射的なんてどう?」
 公のやつ、別の看板見つけてるよ。でも、射的なら、危険もないから大丈夫かな?
「ああ、いいよ」
「よーし、それじゃ、射的で勝負だ!」
「受けて立ちましょ」

 ポン、ポン コトン
「へっへー。あたしの勝ちだね」
 あたしの弾が、ものの見事にコアラの人形を倒した。
「くっそぉ」
 えへへ。悔しがってる悔しがってる。
「ほれ、姉ちゃん。景品だよ」
 おじさんが、コアラの人形を渡してくれた。あたしはそれを公に見せびらかした。
「どうだぁ?」
「むむー。よ、よし。次は紐くじで勝負だ!」
「そんなの、運だけじゃないか」

 あたしと公は、並んで夜道を歩いていた。
「綺麗だったな、あの花火」
「そうだなぁ」
 ふと会話が途切れると、虫の声が聞こえてくる。
「うふふふふ」
「な、なんだよ、清川さん。思い出し笑いなんかして」
「いやぁ、さっきの主人くん、本気で悔しがってたなって」
「まだ言うか、このぉ!」
 ふざけて、主人くんが手を伸ばす。
「捕まるもんか」
 あたしは、さっと身をかわした。
「お、逃げるのか?」
「へっへぇん。あんたには捕まえられませんよぉだ」
「言ったな、このぉ!」
 笑いながら、あいつが伸ばした指先が、あたしの浴衣の帯にひっかかった。
 シュル あっと思う間もなく、帯がほどける。
 え゛
「きゃぁぁぁぁ」

 忘れてた。あたし、浴衣の下には何も……。

 あたし、しゃがみ込んで俯いていた。顔、上げられないよ。
「き、清川さん」
「……」
「俺、帰るよ」
「え?」
 あたしは顔を上げた。
 あいつはそっぽを向いて、言った。
「清川さん、ちょっとは気分転換になったかな? 毎日練習ばっかりみたいだったからさ、ちょっとは気が紛れるかなって思ったんだ」
「主人……」
「それじゃ!」
 あいつ、そういうとそのまま走っていった。
 あのやろぉ……。
 あたしは、その後ろ姿に向かって拳を振り上げた。
「誰にも見せたことなかったんだから。責任取れよな!」

 それが、あたしにとっての夏の始まりだった。

《終わり》

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