あーったく。今日もあっついなぁ。
《終わり》
俺はぎらぎらと照りつける太陽を見上げて舌打ちした。
もっとも、今日は場所も慎重に選んでいる。
後ろで聞こえる嬌声と水しぶきの音で判るだろう。
そう。前回の中央公園の教訓を元に、今日は市民プールをデート場所に選んだのだ。
ふっふっふ。流石にプールに犬は入れまい。
今日こそ、勝つ! なーっはっはっはっは。
「あ、いたいた。公くん!」
は?
俺は声の主を捜した。
美樹原さんの、あのおどおどした可愛い声じゃない。今のは、どう考えても……。
「し、詩織?」
「こんにちわ、公くん」
人混みをかき分けるように俺の前まで走ってくると、詩織はにこっと笑った。
「ど、どうして?」
「メグの代理。メグね、ちょっと来られなくなっちゃったんですって」
「え? どうして?」
聞いてみたものの、答えは判っていた。詩織の返事も予想通りである。
「ムクが、急にお腹をこわしちゃって、メグはその看病で目が離せないんですって」
い、犬ぅ〜〜っ!! そこまでするかぁ!?
やはり、一度決着を付けねばならんなぁ。
「メグから電話があってね。公くんの家に電話したら、公くんもう出ちゃってたって言ってたから」
「ありがと、詩織」
俺は礼を言うと、すたすたと帰ろうとした。
彼女が来ない以上、もはやプールには用はない。
と、詩織が不意に俺の右腕を掴んだ。
「……帰っちゃうの?」
「だって、美樹原さんが来ないんじゃ、仕方ないじゃん」
「……そうなんだ」
詩織はそう呟くと、手を離した。
俺は、はっと気づいた。詩織が肩から下げている大きめのディバック。あの中には……。
でも、詩織が? まさか、なぁ。
「あのさ、詩織」
「なによ?」
げ。声が拗ねてる。困ったなぁ。
ええい、ままよ。
「詩織、暑いね」
「だから?」
ますます声が冷たい。
なんだか、俺と詩織の間だけ、南極みたいだ。南極は今は冬なんだよなぁ。越冬隊の人って大変だなぁ。
だぁーっ! 違うだろうが。
俺は頭を振って余分な考えを払うと、言った。
「あのさ、美樹原さんの代わりみたいですまないんだけど、良かったら、泳がない?」
次の瞬間、俺と詩織の間に春が訪れた。
詩織はちょっと小首を傾げて考え込んだ。
「うーん」
伊達に俺だって詩織の幼なじみをしてるわけじゃないさ。詩織がこんなポーズを取ってるときは、実は嬉しいのを我慢してるときだって、ちゃんと判ってるんだからな。
「そうね。ちょうど暇だし……。いいわよ。泳ぎましょう」
「オッケイ。じゃ、行こうぜ!」
俺は詩織の手を掴んで歩き出した。詩織も、ぎゅっと握り返してくる。
おや? 妙に積極的だなぁ。どうしたんだろ?
男がプールに入る準備なんて、あって無きがごとし。
コインロッカーに服を丸めて放り込み、プールサイドに出てくると、俺は熱く焼けたコンクリートを駆け抜けて、そのままプールに飛び込んだ。
ドボォーン、ブクブクブク「ぷはぁーっ。やっぱこれだよなっ!」
「公くんったら、いつもそうなんだから。準備運動しないとダメじゃない」
後ろで声が聞こえた。俺は振り返って反論しようとした。
「それはだ……な……」
詩織は、花柄のビキニを身に纏っていた。何とも大胆。
俺の視線に、ちょっと恥ずかしげに自分の肩を抱いて、訊ねる。
「この水着、どうかな?」
「どうって、その、あの、ないほうがいい……いや、もとい。すごく似合ってますですはい」
俺は思わずしどろもどろになっていた。
やっぱり、詩織は……いい。
水着も可愛いが、やはり問題は中身だよなぁ。うんうん。
当たり前のことを再確認しつつ、俺はとりあえず水面下に没した。このまま刺激的な姿を見ていると、理性が保てなくなりそうだったから。
と、
いきなりぐいっと頭が押さえつけられた。
“なっ!?” 突然のことで、頭の中がパニックになる。何を慌てて、と思われる諸兄は、きっと水中で予告もなしに頭が押さえつけられたことのない幸福な人であろう。
俺は両手足をばたばたさせて、やっと浮かび上がった。
ゲホゲホとせき込みながら、犯人を捜す。
当の犯人は、いつの間にかプールに浸かって、くすくす笑いながら俺の慌てぶりを見ていた。
「公くんったら、慌てちゃって。おっかしいの」
やってくれるわ。
しかし、詩織相手じゃ、ストレートに怒るわけにもいかないなぁ。
よし。
俺は笑いながら近寄っていった。
「ひどいなぁ、詩織」
「だって、公くんが逃げるんだモン」
「それは……」
そこで、いきなり躓いたように倒れて、そのまま潜る。
これでも、小学生の頃は“潜りの公”と呼ばれたもんだぜ。25メートルプールを潜水したまま泳いだこともあったくらいだ。
俺はプールの床すれすれに泳いで、そのまま詩織の背後に回った。そして、浮上して他人の後ろから詩織の様子を窺う。
思った通り、俺を見失ってキョロキョロしている。ケケッ。
俺は、もう一度潜ると、詩織の後ろから忍び寄っていった。
距離良し、角度良し。今だ!
言い訳をするわけじゃないが、俺としては後ろから目隠しをして、「だーれだ」なんて脅かしてやるつもりだった。
しかし、数年来そんなことをしてなかった俺の勘が狂ったのか、水中から躍り上がるときに思わぬ負荷が掛かったのか、はたまた健康的な男の本能なのか……。
むにぃ「きゃぁーっ!」
詩織は、ほぼ5年ぶりくらいに聞く盛大な悲鳴を上げた。
「わあぁっ!」
俺は飛びすさろうとしたが、水圧のせいでバランスを崩してこけた。
自分の胸を押さえるように、詩織が俺を見る。
「こ、公くん!?」
「ご、ごめん。お、俺……」
詩織の目に、みるみる涙が浮かんできた。
終わったな……。俺の夏は……。
俺はがっくりとうなだれた。そして、そのまま水をかき分けるようにして、プールから上がる。
プールから上がると、妙に気怠く感じられるのは何故なんだろう?
そんな、どうでもいいことを考えながら、俺はプールサイドに座り込んだ。
パサッ
頭にタオルが掛けられた。俺は顔を上げた。
「……詩織?」
詩織はにこにこと微笑んでいた。
「そんな格好で陽の当たるところにいたら、熱射病になっちゃうわよ」
「……さっきはごめん。その、俺……」
「ううん。いいの」
首を振ると、乾きかけの緋色の髪が揺れる。
「ちょっと嬉しかったし……」
「は?」
「ううん、なんでもないの。なんでも……。あ、公くん、かき氷食べない? かき氷」
詩織はいそいそと立ち上がると、俺に訊ねた。
なんだか良く判らないけど、さっきのは無かったことにしようってことか?
まぁ、和解のチャンスを逃す手はないか。
俺は立ち上がりながら言った。
「いいね。行こうか?」
「ううん。公くんは座ってていいの。私が買ってきてあげるね!」
そう言うなり走り出す詩織。
俺はというと、唖然としてその場に取り残されていた。
どうしたんだ、詩織のやつは? 仲直りどころか、妙に機嫌いいみたいだけど、何故だ?
「公くーん、メロンといちご、どっちがいいーっ!?」
かき氷屋の前から、詩織が大声で叫んでいる。俺はその詩織の顔を見て、答えた。
「いちごでいい!」